▲ 臨時リンク集:社会・政治・経済 … から
◆ 「福島瑞穂の迷言」という都市伝説について(事務所コメント付) (@『荻上式BLOG』)
◆ 予算委――厳しい質問もあったが非常に意味ある議論だった (09年11月06日『提供:岡田かつや』)(★@「livedoor ニュース - BLOGOS」)
◆ 櫻井よしこ女史の「架空対談」のデッチアゲについて。 (09年10月29日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 日本の「保守」は社会主義 (09年10月17日@『田中良紹の「国会探検」』)
◆ マスメディアの歪んだ情報操作に警戒が必要 (09年10月16日@『植草一秀の『知られざる真実』』)
◆ 今日の話題:社会主義におびえるウヨさん (09年10月5日@『自由のための「不定期便」』)
◆ 八ツ場ダムの7不思議 (09年09月26日@『ダム日記2』by まさのあつこ)
▲ 臨時リンク集:言語・科学・コンピュータ から
◆ マイクロソフト、中小企業向け「Windows XP」販売ライセンス提供期限を延長 (08年12月24日@『CNET Japan』)
◆ 片仮名語の悲惨 (@『翻訳通信』 2003年5月号)
◆ デル、6月30日以降もWindows XPの販売を継続 (08年04月25日@『@Computerworld.jph』)
◆ 編集者さん、ちゃんと仕事してあげてね。 (08年04月15日@『*minx* [macska dot org in exile]』)
◆ 筑紫朝廷と近畿大王 (93年01月15日@『新・古代学の扉』)
▲ 臨時リンク集:米民主党大統領候補マイク・グラベル爺さん、ほか から
◆ 米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望 (08年04月25日@『macska dot org』)
◆ ロバート・パリー『オバマを攻撃する理由』 (04年4月2日@『TUP-Bulletin』) ⇒ TUP-Bulletin が読めない方は『薔薇、または陽だまりの猫』に転載されたものがあります。
◆ イラク人女性たちは米軍の占領にもイスラム主義者の暴力にも反対する(イファト・サスキンド) (Falluja, April 2004 - the book)
◆ 5年、そして継続中(ダール・ジャマイル) (Falluja, April 2004 - the book)
▲ 臨時リンク集:YouTube, Google Video の動画 から
◆ 大阪で公明党をたたく意義 (2008/01/15 門真市議・戸田ひさよし)
◆ 国の助成金カット問題で辞職表明した岩国市長が支援要請 その1 その2 (07年12月27日)
◆ テロ特措法:アフガンではなくほとんどがイラク攻撃支援 (2007/08/31 朝まで生テレビ)
◆ 検証 自衛隊"給油"の真実 イラク戦争「転用」の記録 (2007/9/20 報道ステーション)
▲ 臨時リンク集:音楽・その他 から
◆ George Harrison - While My Guitar Gently Weeps with Ringo,Clapton,… (YouTube)
◆ 森田童子 - みんな夢でありました (YouTube)
◆ Chiméne Badi(シメーヌ・バディ) - Entre nous (YouTube)
◆ YMO - Rydeen Live at Greek Theatre 1979 (YouTube)
▲ 2009.10.29 メイリオ(9)――メイリオ 6.02
▲ 2008.09.29 「表示が重い」
▲ 2008.08.15 三浦つとむ「横目で見る立場から」(4)
▲ 2008.08.15 三浦つとむ「横目で見る立場から」(3)
▲ 2008.08.15 三浦つとむ「横目で見る立場から」(2)
▲ 2008.08.15 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)
▲ 2008.08.13 三浦つとむ「調和の論理」
▲ 2008.08.02 三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」
▲ 2008.07.03 近々更新予定
▲ 2008.05.23 更新をしばらく中断致します
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〔追記があります:2009.11.01/2009.11.03〕
▼ メイリオ(1)〜(9)をまとめて読む。
ブログの更新を怠けているうちにもう Windows7 が出ていたんですね。もっとも、私は XP搭載のノートパソコンを昨年新調したばかりなので今のところ Windows 7 に移行する気はまったくありません。また、私に限らずいまだに WindowsXP を使っている方もかなりいらっしゃるように思われます。実際ここ三ヶ月に限っても、このブログを訪問して下さる方の約 75%が WindowsXP ユーザーであり、Vistaユーザーはわずか 15%弱にすぎません。訪問者のほとんどがメイリオ関係の情報を求めてめている方たちであるということを考慮しても XP ユーザーが今なおかなりの割合でいることは確かでしょう。
というわけで、相変わらずのメイリオです。ここしばらく情報収集を怠けていたので気がつきませんでしたが、Windows7 RC版にはメイリオの version 6.02 が搭載されていたとのこと――メイリオ 6.02(@『お山へ行こう!』)参照。
私もありがたく、メイリオ 6.02 いただきました。ついでにネットを検索してメイリオ6.02 から MeiryoKe_Gothic を生成するパッチ(meiryoKe_gen_6.02rev1.exe)も拾ってきました。こちらは「ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報」からダウンロードできます。
〔2009.11.01追記〕
上記の MeiryoKe_Gothic を生成するパッチについて。
メイリオ6.02(meiryo.ttc, meiryob.ttc)と meiryoKe_gen_6.02rev1.exe とを同じフォルダに入れて meiryoKe_gen_6.02rev1.exe を実行させると、meiryoKe_602r1.ttc と meiryoKeB_602r1.ttc という二つのファイル(TrueType collection)が生成されます。
私は最初、meiryoKe_602r1.ttc, meiryoKeB_602r1.ttc がそれぞれ meiryoKeGothic.ttc, meiryoKeGothicB.ttc と同等のものであると思い込んでいたのですが、中身をよく見ると meiryoKeB_602r1.ttc は確かに meiryoKeGothicB.ttc と同じように meiryoKeGothicB.ttf, meiryoKePGothicB.ttf, meiryoKeUIGothicB.ttf の3つの TrueType font で構成されていますが、meiryoKe_602r1.ttc の方は meiryoKeGothic.ttf, MeiryoKePGothic.ttf, MeiryoKeUIGothic.ttf の3つだけでなく meiryoKeConsole.ttf を加えた4個の ttf で構成されています。
つまり、meiryoKe_gen_6.02rev1.exe は MeiryoKe_Gothic と MeiryoKe_Console とを同時に生成するパッチだったわけです。ただし、MeiryoKe_Console(meiryoKeConsole.ttf) は単独で生成されるのではなく、上記のように meiryoKe_602r1.ttc 内に含まれたかたちで生成されます。
そういうわけですので、私は meiryoKe_602r1.ttc および meiryoKeB_602r1.ttc のファイル名をそれぞれ meiryoKeGothic.ttc, meiryoKeGothicB.ttc に変更した上で、 Fontsフォルダ内に入れておいた meiryoKeGothic.ttc, meiryoKeGothicB.ttc(メイリオ5.00 から生成したもの) と置き換えました。同時に、メイリオ5.00 版の meiryoKeConsole.ttf は Fontsフォルダから削除しました。
これに伴って、meiryoKeConsole.ttf に関するレジストリ内容を変更する必要が生じるかも知れません。私の場合は、変更する必要のある部分はありませんでしたが、[HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\FontAssoc\Associated DefaultFonts] を "AssocSystemFont"="meiryoKeConsole.ttf", "FontPackage"="MeiryoKe_Console" としている場合は、"AssocSystemFont" のところを "AssocSystemFont"="meiryoKeGothic.ttc" のように変更する必要があります。
なお、古い meiryoKeGothic.ttc, meiryoKeGothicB.ttc の代わりに新しい meiryoKeGothic.ttc, meiryoKeGothicB.ttc を置き換える際、MeiryoKe_Gothic が使用中のために保護されていて置き換えが簡単にできなかったので Replacer.cmd のお世話になりました。Replacer.cmd は保護されていたり、使用されていたりして置き換えることが不可能なシステムファイル等をドラッグアンドドロップで安全に置き換えてくれるツールです(Windows 2000 および XP 用)。
ふつうの .exe ファイルと同じように Replacer.cmd をダブルクリックで起動すると、DOS窓が開いて指示が出ます(英語)。その指示に従って、置き換えられる元ファイル(Original file)を窓の中にD&Dし Enterキーを押します。続いて新しい指示が出ますので、それに従って置き換える新しいファイルを窓の中にD&Dし Enterキーを押します。最後に確認を求められますので、"y"(yes)を入力して Enterキーを押すと、ファイルの置き換えが実行されます。なお、元ファイルは同じフォルダ内に .backup という拡張子がつけられてバックアップされます。
〔2009.11.03追記〕
メイリオ 6.02 について。
メイリオ 6.02 の meiryo.ttc, meiryob.ttc は メイリオ 5.00 のそれらに比べると、ファイルサイズがともに 4Mバイトほど大きくなっています。中を覗いてみると、それぞれの中身は
meiryo.tcc:
メイリオ, メイリオ イタリック, Meiryo UI, Meiryo UI Italic
meiryob.tcc:
メイリオ ボールド, メイリオ ボールド イタリック, Meiryo UI Bold, Meiryo UI Bold Italic
となっていて、メイリオに加えて、Meiryo UI というフォントが追加されています。このフォントというページを見ると、Windows 7 における Meiryo UI というフォントの位置づけがよく分かります。しかし、Meiryo UI 比較(11pt)を見ると、Meiryo UI がなんとなく中途半端なものに思われます。実際に使ってみると、タイトルバーなどの横幅に余裕のあるところでは MeiryoKe_UIGothic よりは見栄えがするといった程度で、これといって積極的に使えそうな気がしません。見慣れればその良さが分かるかも知れませんのでしばらくいろいろと試してみようと思います。
ttfname3.exe で見ると Meiryo UI のディセンダはメイリオのそれとやや違っています。下手にいじるとおかしなことになりそうなので Meiryo UI のアセンダ・ディセンダには手を加えずに、メイリオの方だけアセンダ・ディセンダを変更したものをつくり、メイリオ5.00 のものと区別するためにファイル名は それぞれ meiryo_Kai602.ttc, meiryob_Kai602.ttc としました。現在はメイリオ(メイリオ改)としてこれを使っています。
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大カテゴリー 〔実用・遊び〕
今朝、メールフォーム経由でつぎのようなメールを戴きました。
送信者:こう(no_reply@dummy.jp)
日付:2008/09/29 09:13:01
件名:重すぎます…
ホスト:
--------------------------------
メイリオフォントについて知りたくて伺ったのですが、サイトが重すぎます…
PCが固まったかと思いました。
見せたいものがたくさんおありなのだと思いますが、一度に興味があるもの無いもの、関係があるもの無いもの、一緒くたにあまりにも大量に見せられるのは、SPAM以上に困ります。
興味がある内容も目に入らなくなってしまいます。
--------------------------------
まず、サイトが重すぎるという件。私のノートPCは比較的最近のものなので表示が遅いと感じることはあまりないのですが、少し前のものだと多少いらいらするかも知れません。しかし、画像がないテキストだけの記事がほとんどなので、ふつうはそれほどのストレスを感じることはないと思われます。ただし、FC2ブログでは、画像あるいは javascript の関係で表示が遅くなるというトラブルがときどき発生しますので、それにひっかかってしまったという可能性があります。
また、FC2ブログは一ヶ月以上更新しないでおくと「スポンサーサイト」というタイトルの宣伝記事がトップに強制的に載せられます。この記事が掲載されているときも表示が遅くなる傾向があるようです。
というわけでたまには更新しないといけませんね。
つぎに「一度に興味があるもの無いもの、関係があるもの無いもの、一緒くたにあまりにも大量に見せられるのは、SPAM以上に困ります」という件です。左のメニュー欄の「記事をまとめて読む」を利用して読みたい関連記事だけをお読みになることをおすすめ致します。メイリオについて必要最低限の情報がお望みなら
タグ【メイリオ系フォント】
で「メイリオ系フォント」関連記事だけが表示されます。これをご利用下さい。
▼ 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)〜(4)をまとめて読む。
引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 四」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.84〜
四
舶来品崇拝は日本の学者の悪しき伝統であるが、教育理論の分野でも白人文化コンプレックスで外国の「よろしき名ある人」をもてはやしているかに見える。子どもの認識や表現を論じるときには、ピアジェの児童心理学やパヴロフの第二信号系理論などがかつぎ出されている。「名は実にあらず、実は名にあらず」で、仮説実験授業にたづさわる小学校の教師のほうがもっとずっとすぐれた仕事をしているのだが、日本人の仕事が国際的な水準を抜いているといわれると、革新的な人びとの間にも妙な顔をする人が少なくない。偏狭な国粋主義から生れた排外的な主張であるかのように、受けとりがちなのである。ソ連や中国の理論を絶対的真理と思いこむ傾向はなくなったにしても、マルクス主義に対する信頼からこれら社会主義国の理論的創造に期待をかける気持は、やはり根づよいかに見える。国際的な水準を考えるときにも、この気持があるために日本人の仕事に対する正当な評価が妨げられたとすれば、これら社会主義国のマルクス主義が現在どう歪められているかについて、ある程度の理解を求めることも、不当ではあるまい。
さきに授業の「方法」について、矛盾を調和的に定立することの重要性を指摘したが、授業を受ける側の態度さらには科学者が創造的な仕事をする場合の研究の「方法」についても、同じことがいえよう。
〈物とその重さ〉の授業では、対象の形態が重さと無関係であることを、くりかえし経験する。〈ばねと力〉の授業でも、一本のばねと二本直列につないだばねと、形態はちがってものびには変りがない。そこで、形態の変化は他のありかたと無関係なのだ、という固定的な考えかたが生れやすい。二本のばねを並列につなぐ問題を出されたときも、形態がちがうだけだと思って予想を立てる。二本の糸をたてにつないだときには糸の強さは変らないが、ならべてより合せると強さがグッと増すという経験を持っていても、授業からの先入観が禍(わざわ)いしてなかなかそこまで頭がまわらない。実験で予想がひっくりかえされてから、先入観に対する真剣な反省が生れる。前に習ったことにひきずられるな、生活経験を総動員してみることも大切だ、思考実験も必要だ、と気がつく。
科学者の仕事には、冷静沈着に極細極微の現象すら無視することなく注意深くながめ、それに類似した現象ともむすびつけて考えるキメこまかい心づかいと、現象がどうあろうとそれにひきずられることなく推理をすすめ、ヤマカンを提出する大胆さと、この対立する態度を調和的に統一していくことが要請されているのであって、そのどちらが欠けても科学的な研究態度とはいいえない。この研究態度を目的的に育成するのでなければ、科学者の育成とはいいえない。探偵にしても、現場にのこった泥とか車についた塗料とか、微細な手がかりを事件解決に役立てるキメこまかい心づかいと、状況証拠にひきずられることなく一見まったく関係のなさそうな人間を真犯人ではないかと疑ってみる大胆さと、そのどちらが欠けても名探偵にはなりえない。
私は戦前に競馬の予想屋で印刷を手伝ったことがあるが、このヤマカンからも学ぶところがあった。馬や騎手についていろいろなデータを調べるのはもちろん、レース前日の夕方に各厩舎(きゅうしゃ)をまわって馬たちを冷静沈着に観察し諸関係者と話しあい、それらの結果を綜合して予想を立てるのである。現実のレースは予想の正否を実証する。的中率の低い予想屋はお客が相手にしなくなる。哲学者や評論家が雑文を書くのとはちがって、真剣勝負だから実力がないとやっていけない。この予想屋の主人は、競馬ずきですっかり財産をなくしてしまい、こんどは自分の経験を生かして予想を職業にして財産をつくったのである。長い間の真剣勝負できたえられた能力の持ち主である。これを逆にいうならば、真剣勝負で自分をきたえていない哲学者や評論家では、調和する矛盾を定立することの「方法」的な重要性を実感をもって主張できないわけであり、資本主義国であろうと社会主義国であろうとこの点では変りないわけである。
しかも現在のマルクス主義の教科書では、調和する矛盾の定立という問題が落丁になっている。マルクス=エンゲルスにはあったのだが現在ではないばかりか、現実からの強制でこれを説く者があらわれると、調和する矛盾を認めるのは階級の調和を認めることになるから修正主義だとこじつけられ、ふくろだたきにされるというみじめな状態にある。これではマルクス主義矛盾論と称するものも、教育方法の建設の援助者ではなく、妨害者に転化してしまっているといわねばならない。
教育理論の建設にとってきわめて重要でありながら、現在のマルクス主義の教科書で落丁になっている問題はまだある。誤謬をおかさぬ人間などというものは存在しない。人間の認識にとって誤謬は本質的なものである。それにもかかわらず教科書には真理論だけで誤謬論がない。せまく固定した考えかたでは、誤謬や失敗はのぞましくないありがたくない存在である。オシツケ、ツメコミの教育では、誤謬や失敗は劣等児の証明以外の意味を持たない。大衆の中にもせまく固定した考えかたをする者が多いから、ことわざが「失敗は成功のもと」だと、失敗の積極面に注意を求めることになった。条件によって「最上の方法」と「最悪の方法」とが相互に転化するように、条件によって真理と誤謬とは相互に転化する。ばねの直列のときの真理は並列という条件のちがった場合には誤謬であることを、実験が証明してくれる。真理をつかむことが積極的な意義をもつだけでなく、誤謬をおかすことにもまたそれなりの積極的な意義があるとすれば、その教育上の意義を考え教育の中にどう導入するかを教育理論は問題にしなければならないはずである。
科学の歴史を長期にわたるダイナミックなとらえ方で検討してみれば、科学者の誤謬の持つ役割も明らかになる。だからこそエンゲルスも科学史や哲学史をふまえて、「真理であるという無条件的要求権を持つ認識は、相対的誤謬の系列を通じて実現される」と書いたのだが、現在のマルクス主義の教科書では「相対的誤謬」という概念すら消え失せてしまっている。仮説実験授業が「私自身の科学史と認識論の研究をもとにして、これまでの科学教育――理科教育の内容と方法とを全面的に組み立てなおす」(板倉聖宣)という過程をとっていることは、マルクス主義の教科書の歪められた認識論に束縛されることなく、誤謬の持つ積極的な意義を評価して授業の中に意識的計画的に導入する結果をもたらしたのである。誤謬についての科学的な理解が欠けていて、誤謬を冷静沈着に検討することなく階級的条件と直結して不当な非難をあびせたり、ある時点でのふみはずしをはじめから計画的に行動したものと判断しスパイの汚名をきせて粛正したりするような社会では、誤謬の持つ積極的な意義を評価する授業方法が確立し展開するかどうか疑わしい。
私は一九六七年の冬にキエフの国民経済博覧会でいろいろなティーチング・マシンを見たが、これでツメコミ教育が行われるかと思うと心寒いものを感じた。六九年の冬には経済審議会の情報研究委員会がその報告書を『日本の情報化社会』と名づけて出版したが、その中で「教育方法の革新」が論じられ、「効果的、効率的な教育のために教材・教具の改良から視聴覚教材、コンピュータ・システムの開発へと進み、『手工業最後のトリデ』と評されている教育の領域も大きく変貌を遂げる時代が迫っている」と書かれている。私はティーチング・マシンなど新しい教具の出現それ自体を否定しているのではない。医療の治療機械と同じように、それが合理的なものであるなら承知するのである。外国語を早く身につけるには、耳からたくさん聞くことが必要なのに、学校の外では日本語しか耳にすることができないなら、テープレコーダーに会話のテープをかけてくりかえしくりかえし耳にするという練習方法が有効なのはいうまでもない。ただ、ある条件のときに「最上の方法」でも、条件が異なると「最悪の方法」に転化するということは、コンピュータとても同じだといいたいだけである。誤謬や失敗はのぞましくないありがたくない存在だとする形式論を基礎に、コンピュータを使って教える「方法」が万能かどうかは、これまで述べて来たことからもわかるはずである。
仮説実験授業は、授業書を使って予想から実験へすすむ段階でも、子ども同士の生きた対話を重視している。授業のあとで子どもたちに「えんぴつ対談」をやらせ、「先生も一言」感想を加えて、プリントにしてみんなにくばるという、対話の「方法」もあらわれた。これを革新的な人びとの一部に見られる集団信仰と同一視してはならない。教室は一つの小社会を形成する。教師も子どもたちも小社会の一員である。授業の目的は個人の能力を高めるところにおかれていても、そのためには社会的な協力を深めることが必要である。機械器具の使用もこの社会的な協力にプラスするものでなければならない。個人は自分で自分をつくり高めるのではなく、相互につくりあい高めあうものであるというのが、社会観の基礎である。教室の小社会は子どもたちが主権を持つ社会であって、教師はあまくだりとしてこの社会に入ってくるとはいえ、子どもたちが自分をつくり高めあうための援助者=道案内者として活動する、と見るのが民主的な考えかたである。正しい社会観を持ってこの授業を見るならば、教室の小社会の特殊性を考慮しながら、社会的な協力を深めていくさまざまな対話のありかたが、正しく評価できると思う。
(関連記事)
大カテゴリー [弁証法] 〔言語〕 〔意識・認識〕
▼ 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)〜(4)をまとめて読む。
引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 三」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.77〜
三
私が小学校五年生になったら歴史の授業がはじまった。黒板には「天孫降臨」の掛け図があり、立っている神々の足もとには雲が描かれている。教師は、天皇のご先祖が日本を統治するために天から降りてこられたのだ、という。非科学的なインチキな話だなア、と私は思った。そして教師に、からかい半分の質問をした。
「先生、天から降りてこられた神さまの子孫が、どうして天へ昇れないで馬車を使うのですか? ヒバリだって昇ったり降りたりしているのに……」
教師は苦笑して何も答えなかったと覚えている。
五〇年前の東京近郊の小学校には図書館などない。私のもらうわずかな小づかいで買えるのは、夜店の古い少年雑誌でしかない。それでも本らしいものをたった一冊持っていた。長唄の出稽古をしていた母親が、牛込の請負師の杉山さんから子どもさんにといわれてもらってきた、原田三夫の『最新知識・子供の聞きたがる話』第一巻発明発見の巻、である。単軌軌道(モノレール)の話には、車輌の安定にコマの原理を応用していると書いてあったし、また、鉄の船をつくろうとした人が、鉄が水に浮くはずはないといわれて、空カンを川に投げてみな、と反駁したという話もあった。この本から、身近な事実の原理が新しい発明に役立つことを知って、私も身近な事物のありかたを原理的に考えて応用してみるようになったらしい。私がこの本をあんまりおもしろがったので、のちに母親が同じシリーズの生理衛生の巻を買ってくれたが、あまりおもしろくなかった。それに反して、悪友の渡してくれたアルセーヌ・ルパンの活躍する探偵小説はすばらしくおもしろく、私をやみつきにしてしまった。
こうして私は「発見」や「謎とき」に興味を持つ人間になり、授業で一番好きなのも理科ではなく、「謎とき」の系列に属する算術の応用問題であった。〈植木算〉というのがある。どれだけの距離の道にどれだけの間隔で街路樹を植えると何本になるか、という問題で、これは割り算だなと距離を間隔で割って本数を出すと、道のはじめと終りにそれぞれ一本いるから、もう一本加えないとまちがいだと×がつく。池のまわりがどれだけの距離でそれにどれだけの間隔で木を植えると何本になるか、という問題で、距離を間隔で割ってそれに一本足すのだなと、覚えた「方法」で計算すると、池のまわりは円ではじめと終りがくっついているから、一本足すのはまちがいだと×がつく。同じ道でも、条件がちがうと計算の「方法」がちがうから、注意して与えられた条件を検討してみないと、正しく答えたと確信していたのが思いもかけずひっくりかえされる。あとで考えれば、公式主義への懲罰であるが、そのころは意地の悪い応用問題が多いからひっかからないようにこっちも腕を磨かなければと、大いに闘争心をもやしていた。この訓練は、何かもっともらしい理論や「方法」が出現したときに、すぐ現実のありかたとつき合せて吟味してみる、現在の仕事のしかたと無関係ではない。
そんなわけで、そのころあこがれていた侠盗(きょうとう)や名探偵に、とうとう私はなってしまったのである。古典の中に埋蔵されている貴重な真理を盗み出して大衆にバラまいても、同業者にきらわれるだけで別に罪にはならないし、社会の改革を実現するには、現実のつきつけてくる経済的・政治的・文化的なさまざまな謎を解くことのできる探偵がいなければならない。アインシュタインとインフェルトの共著『物理学はいかに創られたか』を読んだら、科学者の仕事を探偵小説の探偵の仕事と比較した個所(かしょ)がある。創造的な科学者は、探偵小説にやはりそれなりの関心を持つというわけである。
私は母親の稽古を聞いていて、シロウトが楽しみでやるときの教えかたとプロを志望する人への教えかたとは、格段のちがいがあると知った。この身近な事実で、プロの音楽家を養成するには、子どものときからそれ相当のトレーニングが必要だと知ったし、歌舞伎の役者もサーカスの芸人もみんなそうだと聞いた。それでは科学者はどうだろうか。子どものときから特殊な能力や人格の目的的な育成をしないで、上級学校になってから特別の教育をするだけでいいのだろうか、と私は思った。自分自身の小学校時代の精神生活をふりかえってみて、自分が好きで熱中したことが何に役立つことになったかを考え、プロの科学者を養成するための小学生時代のトレーニングという問題意識を持っていた私が、仮説実験授業を知ったとき目を光らせて、授業記録や感想文の子どもたちのことばを吟味するようになったのは、しごく当然のことと理解してもらえると思う。
戦後は革新的な両親や教師が「子どもをまもる」運動を展開している。このスローガン自体にはもちろん異議はない。だが家庭教育も学校教育も、苦しむかそれとも楽しむかと Entweder-Oder(あれかこれか) の発想をとって、苦しみを軽くするのが「子どもをまもる」ことだと考え、苦しいけれども楽しいという調和する矛盾の定立を無視していることに、大いに不満であった。自分がやりたいことをやるのなら、いいかげんにやめて早く寝なさいといわれても、夢中になってやるのである。子どもが自分から能動的に、苦しい勉強を楽しんでやるような教育のありかたを、どうして考えないのかと思った。
国語の漢字仮名まじり文は、表意と表音と対立する二種類の文字を使うから、一見ヌエ的で不自然に受けとられるけれども、これは対立する表現法の調和的な組みあわせを自然成長的につくり出したものと私は受けとって、革新的な人びとの漢字撲滅論に批判的であった。それで国語教育から「負担を軽くする」ためにできるだけ漢字をへらそうと努力はしても、漢字の学習方法を改革しようとしないことが腹立たしかった。石井勲が漢字学習の新しい『方法』を公けにしたとき、軽蔑し拒否した連中を救いがたいと思った。こういう子どもの甘やかしが、甘ったれ人間の大量生産にならずにすむはずはない。学問の楽しさを知って金になろうとなるまいと一生学問をやって行くのだという青年が姿を消して、昔「女の腐ったような」といわれた精神的にひよわな青年が増加し、感情的で勉強嫌いで見通しを立てる能力がなく、ただ現在のことを考えればよいのだと自分の無能を美徳にまつりあげ、計画や先の予想を持たずに行動する小児病的学生運動がひろがっていく。合理的な自己訓練できたえられていない革新的「権威」が没落していくのはけっこうだが、それに代って抬頭(たいとう)するのは能力は低いがジャーナリズムの利用にたくみなカマトト的学者なのだから、やりきれない。
こんなことを書くと、いまの世の中の人間や運動を嫌悪し絶望しているかのように誤解する人もあろう。そうではない。私のすきなつぎの文章は、筆者が弁証法的に思惟する能力を持つことをよく示していると思うが、この筆者の心がまえに私も同感なのである。
「人伝(ひとづて)などに聞つる時は、いといみじとおもひつる人の、逢(あい)見るに見おとりするこそ口をしけれ、さては世にいみじとつたへいふは大方(おほかた)かゝるにこそ、めずらしげなし浅ましなど思はんはいかにぞや、それさる物なればこそ、世はいよいよあなどるまじかりけれ、よろしき名ある人のかくいひがひなきが如く、かくろへしのびてありとも人しらぬほとりにおもひのほかなるかしこきもぞまじれる、不定(ふぢやう)の世なれば、目もたのまじ耳もたのまじ、位やんごとなきをも何かはおそれん、はにふの小屋なるをも何かおとしめん、名は実にあらず、実は名にあらず、せんずるにあなどるまじきは世の中也」(樋口一葉『しのぶぐさ』)
だから私は一方では「いひがひなき」「よろしき名ある人」を批判して悪名を頂戴し、他方で「かくろへしのびてありとも」「おもひのほかなるかしこき」学生や教師に協力して感謝される、いまの矛盾した生活を合理的だと思っている。自分が正しいと信じている理論が、国際的な定説として誰もが正しいと信じて疑わない見解とは相いれない場合、特にまだ無名の青年でしかない者がその定説に対して公然と批判をつきつけるには、やはり勇気がいるし、ふくろだたきにされても平然としているだけの神経の強さが必要である。真理は多数決じゃないし、わかってくれる者が必ずどこかにいるはずだ、と最後の勝利を信じて節を曲げない頑固さが必要である。かしこい学生と話してみると、やはり学者としての主体的条件に関心を持っていて、サムライでないといい学者になれぬとか、善良で熱心でも気が弱い者は不適格だとか、的をついたことをいう。たしかにすぐれた学生や教師はみなサムライである。私も健康なヤマカン精神の必要性を強調して、「われわれはヤマカン学派だよな」と笑ったりする。
ここでいうヤマカンは Speculation をさしている。辞書を見ると「思索、思弁」「推理、臆説」「空論」「投機」など多くの意味に使っている。時枝誠記は剣道でも三段のサムライであったが、自分の言語過程説を Speculation だといい、「西洋ぢや、相場の思惑も、学者の思索も、スペキュレーションといふね。大学者が大相場師と同じとは面白い」とおもしろがった。そして「もしそれが外れたら、夜逃げをするか、首をくくるより外に仕様がなくなるぢやないか」と問題を展開し、「その危険は、相場と同様に、免れない運命だ。しかし、それならばこそ、学問にもスリルが涌いてくるわさ。スリルのない学問なんて、考えただけでも、気が滅入ってくる。常夜(とこよ)の闇みたいなものだ」といい放った。彼は学問の「スリルを楽しもうとする」学者だったのである。言語過程説を発表したときの自分のありかたを、時枝自身「死出の装束(しでのしょうぞく)を纏(まと)った獅子奮迅(ししふんじん)の姿」だったと書いているが、それは学問的な生命がかかっていただけではなかった。彼の批判の対象は恩師橋本進吉の学説であって、「いひがひなき」「よろしき名ある人」なら、師に弓をひくと激怒して学界から村八分するところである。ところが橋本は、時枝の『国語学史』に序文をよせて、「今や独自の国語観を立てる所まで進まれたのは、私としても喜びに堪へない次第である。」とよろこんだばかりでなく、自分が定年で東京帝大を退職するときにはわざわざ京城帝大から時枝をよびよせて自分の後任にすえた。橋本もりっぱな学者であり、りっぱなサムライであったことがわかる。
仮説実験授業の感想に、「じっけんを やるときは ぼくは もう、うれしくて うれしくて もう足が ふるえてしまう」と書いた小学校低学年の子どもがいる。やはりスリルを楽しんでいるのである。小学校高学年の子どもに科学者観を求めたら、「とても、科学の楽しみを味わいながら、研究する」(滝沢和子)「科学は、楽しくて、こわい」(松岡ジュネ)「科学者は真理を求めるのがたのしいのだろう」(大島正弘)「科学の楽しさにひきこまれていくのだ」(重原二郎)と、多くが科学研究の楽しさを指摘しているのには、まいったという気がした。アテズッポしかできない段階から、理由を考えて確信の持てる段階に成長していくと、楽しみがさらに大きくなるという点では、競馬も相場も学問も共通している。
時枝は Speculation をお上品に「あてこみ、見込み」と訳したが、お下品なわれわれはヤマカンと名づけた。ヤマカンと聞くといかがわしい感じがするであろうが、ヤマカンがいいかわるいかも条件によってきまることで、努力家のヤマカンとなまけ者のヤマカンといっしょくたにはできない。なまけ者の学者のヤマカンは虚名や原稿料をねらった不純なもので、学問のスリルを楽しむためではないし、外れた場合には失敗を成功のもとにして的に当ったヤマカンを出す能力もないから、結局首くくりの道を歩むことになる。だからなまけ者でも目はしのきく学者は一切のヤマカンを避けている。「沈香(じんこう)も焚(た)かず屁(へ)もひらず」という態度になる。中ソが論争をはじめて、スターリンばかりか毛沢東もどうやらおかしいということになると、うっかり何か書いてまちがったら大変だと、哲学者たちは学者ぶるのをやめて教師業に精を出すようになった。
仮説実験授業はといえば、どんなにすぐれた科学者でもヤマカンが外れるのを免れることはできないし、外れても恥でもなければ不名誉でもないことを、クラス全部の子どもに身をもって経験させ、みんなをいい意味でのヤマカン的人間に育成しようというのだから、いうなれば理想的条件で行う温室栽培みたいなものである。精神的に虚弱で、スリルを楽しむのではなく恐れる子どもは、この授業を好まないかも知れないが、そういう子どもは非常に少いだろうと思う。もちろん現実の世の中は、教室と条件がちがう。現実的な利害関係などもからんで、足をひっぱる人間や頭を押える人間がいる。自然科学のヤマカンなら、実験で反対者を沈黙させることができるが、社会科学ではそれができないし、「いひがひなき」「よろしき名のある人」がライヴァルの出現をくいとめようと、首をくくる縄を持ってきたりする。しかし同じ温室栽培でも教室のそれとはちがって、一応ヤマカン精神を確立できるなら、世の中へ出て悪条件がおそいかかってきてもそれに絶えてくれることを期待できる。そんなわけで、ヤマカン学派の「勇将」をもって自認している私は、仮説実験授業がヤマカン的人間を計画的に育成しているのを、将来「死出の装束を纏った獅子奮迅の姿」で闘う若武者たちが現れるであろうと、たいへんうれしがっているのである。
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▼ 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)〜(4)をまとめて読む。
引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 二」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.70〜
二
そんなわけで、階級闘争ではなく人間教育の「方法」を具体的に学びとろうとする人びとにとっては、自称左翼の思弁的な学者から「方法」論を聞いてもあまり得るところがないが、これに反して、刑事や探偵が「方法」について語った文章は、犯罪者をさがし出してとらえねばならぬという実践の中できたえられた者の発言だけに、得るところがある。探偵小説の古典の中から、さきにはポオの創造したアマチュア探偵デュパンのことばを引用したが、こんどは、行方をくらましていて何の手がかりもない大犯罪者を追跡する、パリ警察の敏腕な捜査官の「方法」を読んでみることにしよう。
「こういう不可知論的なはだかの状態に当面した場合には、ヴァランタンは独自の考えかたと方法を持っていた。こういう場合には、彼は予見できないもの(the unforessen)に頼るのだった。合理的な線を辿(たど)ることができなくなったとなると、冷静に、しかも念いりに、非合理的な線を辿るのだった。理屈にあった場所――銀行だとか、警察署だとか、人の集まるところなど――にはいかないで、系統立てて理屈に合わない場所へ出かけた。空き家を一軒一軒ノックしてみたり、あらゆる袋小路に曲がりこんだり、ゴミで塞(ふさ)がっている露地を一つ一つ奥まで行ってみたり、無駄な寄り道になる三日月形の道をまわってみたりした。彼はこういうきちがいじみたやりかたをきわめて論理的に弁護した。彼にいわせると、手がかりを掴(つか)んでいる場合には、こういうやりかたは最悪の方法だが、全然手がかりがない場合には、これが最上の方法なのであった。なぜかというと、追跡者の眼を惹(ひ)く奇妙なことが何かあるとすると、追跡される者のほうでも同じものに眼を惹かれるということは、ありうることなのだから、どこからかはじめなきゃならないとすれば、ひとが立止りそうなところから始めるほうがいい、というわけだ。」(チェスタートン『青い十字架』)
大都会ロンドンのどこかに自分の追跡中の犯罪者がいるのだが、さてどうしてこれを見つけ出すか? ここに大都会に対する「問いかけ」が必要になる。いま引用したのは捜査官の「問いかけ」の精神と「方法」である。彼のこの「きちがいじみたやりかた」がどんな結果をもたらしたか、気になる読者には小説を読んでもらうことにして、ここでは引用文から「方法」に関する二つの重要な問題をとりあげてみよう。
まず第一に、この捜査官は「予見できないもの」を扱う場合の「方法」について、「非合理的な線」を「論理的に弁護」する。しかもこの非合理的なやりかたを最上の方法だと合理化している。客観的な矛盾を検討することに馴(な)れていない人びとは、こんなことをいわれると詭弁のように感じるかも知れないが、矛盾をとりあげることができないと「方法」論は壁にぶつかるのである。複雑な現象から科学の法則を発見するための「問いかけ」において、予想能力を持たぬ子どもにアテズッポ的な予想をすることを認めるというのも、科学教育の看板と見くらべてこれまた「きちがいじみたやりかた」に思われるかも知れない。「クソ合理主義」を捨てるところに合理的な教育の「方法」が成立するといわれると、詭弁のように感じるかも知れない。小説の中の敏腕な捜査官の「方法」と、仮説実験授業の「方法」とが決して無縁ではないことを、つぎの文章から読みとるのは無駄ではないと思う。子どもの対象への「問いかけ」の第一段階は、合理的な予想ができない段階である。
「第一のものは、予想表明のみの段階である。ここには、アテズッポ的要素のもの、いわゆるカケ的なものも含むことになる。また、はっきりとした予想という形で表明することはできないが、『そこ』にはきっと何かがあるにちがいない、という予想以前の予想にくらいするのもここにはいることになる。いずれにしても、一歩でてみる、あるいは数歩でてみるという論理のあることだけはたしかである。この論理は、この段階のものとしてぜひとも認めなければならないし、ここにちゃんとした正当な地位を与えておく必要がある。いくら思考の発達の教育とか科学的な思考の教育だからといって、かならずリクツがなければならないというクソ合理主義は捨てなければならない。現実のつきつけてくる問題の解決にあたってはいくらでもこういうばあいがあるからである。」(庄司和晃『仮説実験授業の論理的構造』)
アテズッポそれ自体は偶然にもたれかかっていても、公平にチャンスを与えるという合理性をつらぬくための抽籤(ちゅうせん)まで、否定する者はあるまい。ここでいう第一段階も、子どもだけでなく、おとなが現実のつきつけてくる問題を解決する場合にも存在すると考えていくときに、捜査官の「方法」とつながるわけである。彼の「方法」はそれなりの理由を自覚しているのだから、アテズッポではないけれども、まったく手がかりのないところに数歩出てみるための「方法」は、「合理的な線」を歩んでいるとはいいがたい。アテズッポとかカケとか、それ自体として見れば非合理的なやりかたの持つ段階的な役割を、正当に評価して授業の中に位置づけたのは、仮説実験授業の「方法」論的な特徴であり、当然かくあらねばならぬとはいえ論理的に確乎とした裏づけを持っている点で、やはり成果の一つと見なければならない。
捜査官の主張の提起している問題点の第二は、「最悪の方法」が条件の異なる場合に「最上の方法」になるということである。誰もが「最上の方法」として認めているやりかたが、「最悪の方法」に転化するということだけでなく、その逆の転化をも考えてみる必要がある。教育の分野を例にとるならば、オシツケはいかんとか、体罰を加えるなどはもってのほかだとか、いわれている。たしかにそうなのだが、これらも絶対的に否定するならば、「最上の方法」を絶対的に肯定することのいわば裏がえしになってしまう。時々「暴力教師」が非難されるが、学生が愚連隊になって女学生をナイフで脅迫し、これを見つけて阻止する教師に切りかかって来たときに、教師が腕力で立ちむかい取押えるのはいかんと否定する者はあるまい。たとえ非常に特殊な、せまい限界の中ではあっても、ある条件ではオシツケや体罰が「最上の方法」になるのではないかと予想してみることは、決して無駄ではない。そういう場合があるからこそ、これらの「方法」が限界を超えて不当に拡大して使われることにもなったのではないか、と考えてみる必要があろう。
仮説実験授業は「おそろしいおしつけ教育」を否定している。
「仮説実験授業ではオシツケというものを極度にきらいます」「これまでの理科教育が本格的な科学教育を意図するものとなりえなかったのは、決してだれかが科学教育の本格的な研究をする必要がないと考えたからではないでしょう。したくてもできなかったのです。むりして一貫した科学の論理を教えようとすると、一貫して押しつけ教育になることをおそれた人々が、小・中学校での科学の本格的な教育を意図すること自体を断念してしまったのです。」(板倉聖宣『未来の科学教育』)
「ある種の実験事実から、その帰結をひきだすのは生徒自身でなければならないのです。(それができないときは、あからさまに、科学者たちの研究成果として正しいと説明してやるべきなのであって、無理してすべてを生徒たちの“発見”に任せるべきでない、ということにも注意すべきです。)」(板倉聖宣・上廻昭『仮説実験授業入門』)
あとの引用文の括弧の中の注意書きは、本文より小さな活字で組んである。天文学の諸データのような、子どもが自分の予想を実験でたしかめることのできぬ場合には、教師や本のことばを信じさせるのだから、これはオシツケである。真向(まっこう)からオシツケを否定する授業がオシツケを是認しているとは、ごまかしではないかと思う者もあろう。たしかにここには矛盾があるが、矛盾だから不合理なのではなく、合理的な矛盾を調和的に定立することこそ問題解決のかなめなのである。
昔から有名な「鶏がさきか卵がさきか」という問題提起が、循環論になって答えられないのは、「卵」をはじめから「鶏の卵」に限定して他の動物の「卵」を考えないためである。「卵一般」でとらえ、生物の進化において「鶏」の出現と「卵」の出現とどちらがさきかと考えれば、「卵」という答えが簡単に出てくる。宇野弘蔵の経済学の原理論が破綻するのは、資本制の諸問題をはじめから資本制の抽象的な理論の内部で説明しようと意図して、経済の発展において他の諸制度のありかたとのつながりを考えないためである。ところがいま流行の情報科学を論ずる哲学者は、「一般的にいってAがBの原因となり、BがAの原因となる」という、それ自体閉じた「相互因果性の因果関係」のメカニズムを、情報科学が明確にしたと主張し、この抽象的な論理の『方法』を「鶏」と「卵」の問題に適用しながら、こう書いている。
「このような相互因果性の因果関係を問うのに、どちらが先か、と問うことは、元来無意味な問い方であるといわねばならないだろう。……わずかな口論がだんだんとポジティヴにフィードバックしていって、最後になぐりあいにまで発展する、というような現象はしばしば見られる現象である。このばあい、どちらが先に悪口をいったとか、あるいは相手をなぐったか、ということで責任の所在を決定するということは、処罰の便宜的な仕方として認めることはできても、ほんとうにそのような出来事を生起しないようにするための責任の追求にはならないだろう。真の責任はそのような関係をつくりあげたという事態であり、関係の項となっている人間に平等に分かち与えられるべきものであろう。」「『情報化』ということばはその最も基本的な意味からすれば、情報とかシステムという新しい概念の導入による新しい科学方法論により人間の対決しなければならないあらゆる問題を綜合的に、そしてより合目的的に解決していくことである。それはあらゆる問題に対して採られなければならない科学的方法である。」(沢田允茂『情報と人間』)
教育は情報活動のありかたで、教室の授業はシステムを形成するから、この情報科学を基礎理論にして教育方法を論じる者もあらわれている。「あらゆる問題」に採用できる「科学的方法」とか、あらゆるケンカに適用できる責任「平等」論とかいわれると、なまけ者はとびつくかも知れないが、仮説実験授業も絶対的ではなく対立した性格の予想授業が併存していることを理解した人びとは、NHKのタレント教授のことばでも眉にツバをつけるであろう。
責任「平等」論がケンカの当事者を納得させるかどうか、その実証は哲学者にやってもらいたいが、このように内容をネグって形式的に相互関係をとりあげるやりかたは、すでにヘーゲルの『小論理学』が嘲笑している。沢田允茂は人間の認識をアプリオリズムで解釈するけれども、事物のありかたをAとBで抽象的に対立させることは、形式的に差別をとりあげて内容を捨象してしまったことを意味しており、この内容の捨象によって暗黙のうちに内容を平等に扱ったわけである。この平等の扱いかたが、ケンカの具体的な内容に根ざす責任の問題をも「平等」に解釈しなければならぬ、論理的強制となったのであって、アプリオリズムの形式主義を克服しないかぎりこの論理的強制からのがれることはできない。ヘーゲルはカント主義のアプリオリズムの形式主義を、観念論の立場から可能なかぎり正しく批判していた。われわれも最新の衣装をまとった前ヘーゲル的妄想にひっかからぬようにしたいものである。現実の具体的なケンカのありかたはどうかといえば、「関係の項となっている」AB以外に、直接関係していない、男たちを手玉にとるホステスとか誰にもうまいことをいう詐欺師とか、CやDが存在してここに責任のあることも多く、また大岡政談の「三方一両損」のように仲裁者が参加して三人が「平等」に損を負担することもある。こんなことは大学教授ならぬ熊さん八さんにとっても常識である。
私は理論や『方法』の絶対化に反対して相対性を強調しているから、あわて者の哲学者は相対主義のレッテルを貼ったりしている。相対主義というのは、相対性だけを認めて絶対性を排除する形而上学的発想をさす。私は相対的だという理解が正しい「方法」論建設のために絶対的に必要だと主張するのであって、絶対性を排除しているわけでも何でもない。この発想は合理的な矛盾の調和的な定立であって、弁証法的発想なのである。
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▼ 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)〜(4)をまとめて読む。
同じく、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 一」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.64〜
一
私は学問的な仕事をしているけれども学校の教師ではないから、仮説実験授業(註)を実践できる立場にはいない。戦前から「科学的な考えかた」を育てることに関心を持っていて、仮説実験授業の基礎となっている一般的な理論にはまったく賛成であったから、その展開をずっと注目してきたのだが、授業記録を読んでいると自分たちの理論を実証する場を持っている人びとがうらやましくもなってくる。
そんなわけで、私の書くものも、いわばこの新しい科学教育を横目で見ている人間の立場での発言でしかないのだが、横目で見るということにもやはりそれなりの長所があるはずである。深く考えることはけっこうだが、深すぎるとつぎのような批判を浴びることになる。
「彼(当時パリ警視庁の部長であったヴィドック――引用者)は物ごとをあまり近くに持ってくるために視覚を損じたのだ。一つや二つの点はたぶん非常にはっきり見えたかも知れないが、そのために必然的に物事を全体として見失ったのだ。こういうふうに、深遠すぎる(too profound)というようなことがあるものだ。真理はいつでも井戸の中にあるとは限らない。」(ポオ『モルグ街の殺人事件』)
だから、深くからあるいは浅くから、遠くからあるいは近くから、正面からあるいは横から、さまざまな立場に移行してダイナミックに見ることができないとまずいと思う。その意味で、私の横目で見る立場からの発言も、何かの参考にはなると思う。
仮説実験授業は新しい科学教育の方法を提出したのであるから、これに関係する人びとに「方法」についてのある程度の理解を求めることも、不当ではあるまい。分野のいかんを問わず、創造的な仕事にたずさわる人びとが、その仕事のしかたの合理化を意図するときに、方法についての反省が生れてくる。学者は研究方法や叙述方法を、芸術家は創作方法を、刑事や探偵は捜査方法を、医者は治療方法を、商人は経営方法や宣伝方法を、教育者は教育方法や授業方法を、考えるということになる。
「方法」は普遍的な有用性を持っていて、盲腸炎のときには手術で切りとれとか、子どもに〈ものとその重さ〉を教えるときにはこの授業書を使えばいいとかいう、かたちをとっている。しかし盲腸炎の患者の症状は千差万別だし、授業を受けた子どもの予想や教師の感想もそれぞれ異なっている。そしてこれらの差異については、医者や教師の経験ないし能力に期待し臨機応変の処置や指導が求められているのであって、どんな合理的な「方法」もそれを役立てる目的的な人間の努力を免除するものではなく、創意工夫を排除するものではない。
さらに、「方法」は固定的なものではなくて、「人を見て法を説け」とことわざにもあるように、対象すなわち客体的条件や「方法」を役立てる人間すなわち主体的条件のいかんに規定される。したがって、唯一無二のこれこそ絶対的な「方法」などというものはありえない。
医学の次元では薬を与えるとか手術で切りとるとか放射線を使うとかさまざまな『方法』を認めるが、具体的な患者の治療の次元では特定の「方法」をもっとも合理的なものとしてえらぶ。医学の次元ではさまざまな処方を論じるが、具体的な患者の治療の次元では特定の処方箋をもっとも合理的なものとして与える。どんな患者にも役立つ治療の「方法」とか、どんな病気でも治す万能の処方箋などというものは認めない。数学には初等数学から高等数学までさまざまあって、科学者は自分の研究では高等数学を大いに役立てているし、コンピュータなども使っているが、昼飯に食べた天丼の代金に千円札を出して釣銭を受けとるときは、千円から三百円引くといくらになるかと頭の中で暗算をしなければならない。小学生が勉強しているのと同じ「方法」を使わなければならない。教育も同じである。ある具体的な教育には特定の「方法」が必要であって、どんな場合にも役立つ万能の教育方法などというものは存在しない。だから「方法」が普遍的な有用性を持つといっても、それは条件が近似的なら同じ「方法」が役立つという、つねに条件づきの話であって、ある限界の中での相対的に普遍的な有用性にとどまるのである。どこへ持っていっても役立つし、これさえあれば何の努力もせずに万事うまくいくといった、絶対的で万能な「方法」はなまけ者の理想であるから、熱心に探求する哲学者もあるようだが、そんなものはありえない。
それゆえ、ある「方法」の有用性に感激するのはけっこうだが、その有用性を保障する条件ないし限界をつかんでおかぬと、それを無視してふみはずした場合にも自覚できぬことになろう。このふみはずしの例は無数にある。高等な「方法」があれば初等な「方法」はもう用がないと考えるのも、高等数学があれば初等数学はもう用がないと考えるのに似たふみはずしであることを知らねばならない。自然科学の「方法」がどんなに成功したところで、それはそのまま社会科学の「方法」にはならないのに、なるかのように錯覚しているのがあとに問題にする情報科学者たちである。教育の分野でも、ある新しい「方法」が卓越した成果をあげると、成功に酔った創始者の側から、他の分野へ持ちこんでもうまくいくはずだと不当な普遍化をもくろんで、熊の手助けをはじめたりするし、その「方法」の信者たちの中からも、万能のものにまつりあげようとするヒイキの引き倒しが出てきたりするのである。
現象に目を奪われた科学者が、対象の持つ条件の検討を怠ってふみはずしたもっとも代表的な例として、言語研究の「方法」をあげることができる。同じインク、同じペン、同じ紙を使って、絵画をスケッチすることも可能だし、文章を記すことも可能である。絵画にあとで筆を加えると表現の改変になるが、文字言語もあとで筆を加えて「木」を「本」にすると表現の改変になる。おまけに、象形文字のような絵画的な文字もある。そこで絵画研究の「方法」をそのまま言語へ持ちこんだり、あるいは最近のフランスに見られるように言語研究の「方法」をそのまま映画へ持ちこんだりする、学者があらわれた。「映画言語」「映像言語」などということばが、評論家のあいだに流行している。
冷静にしらべると、絵画や映画の複製は原作の感性的なかたちに忠実であるよう要求されているが、文字言語の複製は原作の感性的なかたちを無視して、ペンのなぐり書きを活字印刷に変えても、やはり忠実な複製として扱われていることに気がつく。学者たちはこの事実をつかんで、両者の本質的なちがいをたぐっていこうとはしなかったのである。また、音声言語で「バカ!」とさけぶのも、怒りに燃えた爆発的な発声もあれば、愛情をこめた優しい叱責の発声もあって、われわれはそれらを区別して扱っているし、それらの差異が心理的・生理的・物理的側面にまたがったものであることもたしかである。
言語活動がこうした「多様」で「混質的」な存在であることを理由に、ソシュールはこれを科学の対象とすることを拒否した。この「多様」とは、ほかならぬ自然科学の対象としての多様であって、言語がいづれもこのように「多様」だとするならば、それは言語学の対象として一様であるといわねばならない。それゆえ、時枝誠記がこれに対して「方法」的に反駁することになった。「科学は具体的な経験から逃避することによつては、その根本的な立脚地を失う」のであって、「個別的特殊的現象を整理して、そこに普遍と統一原理とを見出そうとするが科学の真の生命である」という。時枝のソシュール批判の個々の部分に弱点があったとしても、この「方法」的な批判の正当性を何ら減殺するものではない。
言語学者たちは、言語が絵画や映画などと同じように、文字や音声の感性的なかたちで表現されていると思いこんで、その点で「方法」的にふみはずしてしまった。感性的なかたちではなく、文字や音声の「種類」という、人工的な普遍性で超感性的に表現されているのだということを、見ぬけなかった。「種類」に属するかぎり、なぐり書きを活字で複製しようとネオンサインに複製しようと、忠実な複製と認めてよいし、「木」を「本」にしていけないのは、感性的なかたちの変化にとどまらず「種類」としての変化にまで行きすぎてしまっているからである。言語表現の人工的な普遍性を、植物の自然的な普遍性に結びつけたものが、いわゆる「花ことば」であって、自然の持つ「種類」がこうして表現に利用され言語の代用品として役立てられるのである。
言語の感性的なかたちは、どんな「種類」に属するか区別するために役立てられるだけでなく、それ自体言語とは異なった別の表現にも役立てられている。音声言語では、音声の「種類」で概念を表現すると同時に、音声の感性的なかたちを利用して感情や感動をも表現するという、いわば言語表現と非言語表現との立体的な複合体になることが多い。これは、表現における調和する矛盾の定立なのであるが、この両側面を区別できずいっしょくたにして、感性的なかたちで何もかも表現しているのだと思いこむ学者が、お手あげになる。
学者ならぬ大衆でさえ、「先んずれば人を制す」と「急いては事をしそんずる」という、正反対の二つの方法を条件に応じて使いわけているし、マルクス主義者と名のる人びとは「科学的方法」を持っていると自負しているのだから、ある特定の「方法」を絶対化することなどしないはずだと思うのは、過大評価である。何と名のろうと、実践から遊離している思弁的な学者は「方法」を絶対化してもあやまりが反省できないし、マルクス主義者の絶対化した「方法」が現に国際的権威として横行さえしているのである。それは弁証法の絶対化とリアリズムの絶対化であって、これ以外に思惟方法や創作方法を認めるのはマルクス主義に反するとされ、攻撃の対象にされてきたのである。
たしかに弁証法は思惟方法としてきわめて役に立つけれども、絶対的な「方法」ではない。対象を静止的固定的に扱う場合には、形而上学的思惟ないし形式論理的な扱いかたを「方法」として認めなければならない。生理学的に見れば、われわれの体内には細胞の死骸がつねにあらわれており、生は死をともなっているが、戸籍では生存とだけしか扱われていないし、それで足りるのである。ところがレーニンのヘーゲル研究は、ミイラ取りがミイラになるふみはずしにおちいって、弁証法も論理学も認識論も「同一のもの」で「この三つのことばは必要ではない」とノートに書きのこした。この見解がもし正しいなら、弁証法以外に形式論理学を認めるのは、レーニンの見解に反するものであやまりだということになる。レーニンのノートが聖書化された一九三〇年代には、ソ連でも日本でも哲学の教科書が「今日弁証法とならんで形式論理学を認めようとする試みは、反動に奉仕すること」だと主張して、弁証法を絶対化していた。しかし何と非難したところで、形式論理学の一定の限界内での「方法」としての有用性はなくなりはしない。ソ連の自然科学者も使って有用性を認めるようになり、結局五一年には形式論理学の名誉回復を行わねばならなくなった。とはいえレーニンのノートのことばは相も変らず信仰的に扱われ、形式論理学の承認と平和共存しているありさまである。そして三〇年代の主張は毛沢東に受けつがれ、「毛主席語録」でも形而上学を観念論とならべて、「でたらめをいってもかまわない」ものだと、否定的評価を与えている。
芸術の創作方法では、創作方法と世界観とが直結されて、リアリズムは唯物論的だがロマンチシズムは不可知論ないし観念論的な創作方法だと規定され、一九三四年に社会主義リアリズムこそソ連芸術の「基本的方法」だと絶対化されてあまくだることとなった。芸術家たちは、経験的におかしいと感じてはいても、理論的に整然としていて有無をいわせず反駁もできない。だからあるいは公然とあるいは隠然と、いろいろなかたちでこの絶対的な「方法」への抵抗や不信が出てくるだけで、いまもって絶対化を克服することができない。
(註) 「仮説実験授業」については、提唱者板倉聖宣(いたくらきよのぶ)の説明を引用しておく。
「科学上のもっとも基礎的一般的な概念・法則を教えて、科学とはどういうものかということを体験させることを目的とした授業理論。
この授業の理論的基礎は主として次の二つの命題におかれている。――(1)科学的認識は対象に対して目的意識的に問いかける実践(実験)によってのみ成立し、未知の現象を正しく予言しうるような知識体系の増大確保を意図するものである。(2)科学とは、すべての人々が納得せざるを得ないような知識体系の増大確保をはかる一つの社会的機構であって、各人がいちいちその正しさを吟味することなしにでも安心して利用しうるような知識を提供するものである。
この第一の命題によって、実験の前には必ず生徒一人一人に予想・仮説をもたせなければならない、という主張が生れる。また、第一第二の命題から、討論の重要性が指摘される。他人のすぐれたアイデアを積極的にとり入れ、他人のまちがった考えを批判し、自分の考えが正しいと思ったら、みんなから孤立しても自説を守り、他人を説得させるだけの論理と証拠・予言をそろえられるようにしなければならない、というわけである。そこで、この授業理論にもとづく授業では、問題・予想(仮説)・討論・実験が授業の中心におかれることになる。同じ概念・法則に関連する一連の問題をつぎつぎと与えて予想を立てさせ、考え(仮説)をだしあわせてから実験によってどの予想が正しかったかを知らせるうちに、目的とした概念・法則を確実に身につけさせようというのである。」(小学館版『ジャポニカ百科』)
(関連記事)
(参考・関連サイト)
大カテゴリー [弁証法] 〔言語〕 〔意識・認識〕
前稿と同じく、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「調和の論理」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.115〜
一
いま多くの人々は、これまで自分が持っていた自然観ないし社会観について、根本的に考えなおすことをせまられている。現実がそうさせたのである。多種多様の公害が自分にもふりかかっていることを意識するにおよんで、人びとは、生物とその環境とのバランスが農業その他によって破壊されていることや、人間と自然との調和を無視した科学の応用や技術の発展が人間自身を破滅にみちびいていることを、問題にしないわけにはいかなくなった。これらを検討し是正する道を発見するのも、これまた科学の任務なのであって、これまで科学的な世界観や社会観を説いて来たマルクス主義者も、それらの問題に対して理論的に答える義務があることもちろんである。しかしながら、問題の核心はほかならぬ調和の維持という点にあるのだから、これらの問題はマルクス主義者に対して、おまえは調和ということを論理的にどう考えているか、世界観や社会観にどう位置づけているかと問いかけていることにもなる。
自然観ないし社会観を提供することは、古くから哲学者の仕事になっていた。それゆえ哲学者たちが調和ということをどうとりあげていたか、まずそれから考えてみよう。古代ギリシアの哲学者たちは、自然を説明する原理を発見しようと努力していたが、すでにこの中で調和が論じられている。よく知られているように、ピュタゴラスは宇宙の本質を〈数〉だと考え、そこに調和の存在を論じた。ヘーゲルは『哲学史』の講義の中で、アリストテレスのことばを引用しながらピュタゴラスを語り、彼が「宇宙の組織はその諸規定において、数とその比例に関する一つの調和的な体系(ein harmonische System)である。」ととらえていたことを、宇宙が合理性であることの明言だと評価している。そしてピュタゴラス学派のフィロラオスは、「存在するものは、争うもの、対立するものから成り、したがってそれは当然そのうちに調和をもっている。調和とは混合しているものの統一であり、相争うものの関連だからである。」と述べたと伝えられている。このことばはきわめて素朴ではあるが、闘争と調和とを対立物でありながら結びついているものとしてとりあげ、しかも宇宙の合法則性であることを説いている点で、見のがしてはならないと思う。さらにヘラクレイトスは、存在するものの本質を絶えることのない流転だととらえて、「すべては流れる」と主張したことで有名である。彼が、「戦いは万物の父である。」という、闘争についての命題を説いたこともよく知られていて、わが国でも木下半治が戦時中に陸軍省戦争経済研究班から依頼された論文でこの命題を引用し、戦争を合理化した。けれどもヘラクレイトスは戦争だけをさしたのではなく、階級闘争その他をもふくんだ闘争一般をとりあげているのであり、また「一つのものは、弓やリラの調和のように、自分自身と分裂しながら自分と一致する。」という、調和についての命題と両立させて説いているのである。そこから、「調和するものと調和せぬものとを結合せよ。」という、両者を統一した主張も見られるのである。
ここで例にあげられた弓とリラ(楽器)は全体として統一された一つの道具であるが、その構造は弾力的な部分と弾力のない部分という対立した性質の部分に分裂している点で共通している。つまり対立物の統一という一つの現実的な矛盾である。そして弓にあっては弦が弾力のない部分で矢に弾力的な部分から力を伝える受動的な役割を受けもっているのに対し、リラにあっては弦が弾力的な部分で振動によって音を発する能動的な役割を受けもっていて、弾力のない部分はこの弦をささえているにすぎない。もし弦が長すぎるなら、弓は飛ばず音は出ず、弦が弱いなら切れてしまって使えなくなるから、それらの機能に応じて弾力的な部分と弾力のない部分とは長さや強さなどが調和していなければならない、といえる。これは調和する矛盾なのである。
キリスト教哲学がスコラ哲学として栄えた中世にあっては、神を最高の存在としてそこから自然および人間をみちびき出すという世界観にもとづき、すべての知識が信仰と一致することを哲学の根本前提としていた。ここでは、もはや闘争は宇宙の根本原理ではありえない。ドイツ啓蒙哲学の祖となった、ライプニッツのモナド論にしても、低級なモナドの結合した無機世界から高級なモナドの結合した人間にいたるまで、自然の基礎をなすものは精神的実体であるモナド(単子)であって、これは最高のモナドである神によって創造・消滅させられるものであり、それぞれのモナドは相互に対応しているが、このモナド論にしても現実の合法則性としてさまざまな調和が存在する事実をふまえて出されたのであって、純粋のナンセンスでないことももちろんである。
それではマルクス主義はどうであろうか。エンゲルスを持ちだすと、彼は晩年修正主義になってマルクスの理論を偽造歪曲したという人びとが納得しないであろうから、『資本論』を見ることにしよう。ここでは生産物が交換を通じて他の人間によって役立てられることから、「一つの使用価値あるいは財貨が一の価値を持つ」こと、「商品の交換関係あるいは交換価値において表示される共通者は商品の価値である」こと、を論じている。この商品における使用価値と価値との対立物の統一は、一つの矛盾であるが、それは商品交換の必要によって対象化された労働が二重の性格を持つことになったので、何も両者が闘争しているわけではない。「すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値である。だから、それらは、全面的に持ち手を変更しなければならない。」(第三章第二節)この、ある商品が使用価値であると同時に非使用価値でもあるということは、これまた一つの矛盾であって、この矛盾が持ち手の変更という運動をもたらすわけである。ここでは、商品交換が双方ともに非使用価値を手ばなして使用価値を手に入れるという点で、どちらにとっても利益なのであり、利害の衝突は存在しないことを確認しておく必要があろう。この商品の持ち手を変更するに際しては、それらを諸価値として相互に関係させなければならないが、これは一般的な等価としての何らかの他の商品(貨幣)に対立させられることによって、価格として観念的に現象し、W―G―W の姿態変換が行われていく。つまり商品の諸矛盾は、いわゆる敵対的な矛盾のように止揚によって解決されるのではない。それらの諸価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自己を関係させるという運動形態をつくり出すのである。このような、運動形態をつくり出すというありかたこそ、概して「現実的な諸矛盾」(wirkliche Widersprüche)がもって自己を解決する方法である。
ところが、労働力商品はどうか? ここでも、労働者は自分の所有していない生活資料である諸商品を使用価値として求めるからこそ、自分にとって非使用価値であるところの労働力を商品として売りに出すのである。しかしながら、労働力を生産のために消費するとき、労働力の価値ないしそれと交換された価値以上の価値が生み出されるところに、労働力商品の特殊性が存在する。したがって、商品交換の法則に従って、価値どおりに行われる労働力商品の売買の結果は、他の商品交換のそれとは異なっている。「取得の法則ないし私有財産の法則は、それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法(seine eigne, innere, unvermeideliche Dialektik)によって、その正反対物に転変する。」「所有はいまや、資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として、労働者の側では彼自身の生産物を取得することの不可能性としてあらわれる。……資本制的取得様式は商品生産の本源的法則をひどく傷つけるように見えるとはいえ、それは決してこの法則の侵害から生ずるのではなくて、むしろ反対にこの法則の適用から生じるのである。」(第二二章第一節)こうして、非敵対的な商品交換の矛盾から、その正反対物である敵対的な闘争する矛盾がつくり出されるのであって、労働者階級の資本家階級への隷属と闘争は、自分の労働力の販売者である自由労働者の出現という事実から、純経済的に説明することができる。
もし労働力商品の特殊性をとらえることができないで、単純流通あるいは商品生産の本源的法則のありかたに目を奪われるなら、マルクスのここで指摘した独自の弁証法をとらえることができずに、商品交換はその当事者のどちらにも利益であるという把握を資本制社会に不当に拡大することになる。「すべての人間が事物の予定調和(einer prästabilierten Harmonie der Dinge)の結果として、あるいは全能な摂理のおかげによって、彼らの相互の便益となり・共同の利益となり・全体の利益となることのみを行う」(第四章第三節)かのような、錯覚におちいることになる。俗流自由貿易論者や俗流経済学者は、資本制社会全体をこのような調和のありかたとして論じることとなった。『資本論』の論理について語るマルクス主義者はすくなくないが、彼らはレーニンの表現を借りれば「猫が熱い粥のまわりをぐるぐるまわるように」そのまわりをぐるぐるまわっていて、マルクスのここで指摘している独自な弁証法の展開を、正当に受けとめた者がいるかどうかは疑わしい。「調和するものと調和せぬものとを結合せよ」というヘラクレイトスの主張が、個別科学である経済学においてこのようなかたちで実現していることを、理解したかどうか疑わしい。矛盾が対立した性格のものに転変することを無視して、資本制生産が敵対的な矛盾の上に成立していることのみをとりあげるならば、一見したところ革命的でありマルクスに忠実であるかのように思われても、それは俗流経済学のいわば裏がえしであって、相互に利益な取得の法則が他人の不払労働を獲得する敵対的な性格のものに変化する事実を、論理的にたぐった説明ではない。
エンゲルスは『反デューリング論』の総論において、ヘラクレイトスをとりあげ、「素朴だが実質的に正しい世界観」であると評価した。そこでは、すべてが運動し、変化し、生成し、消滅するという、世界全体のありかたをとりあげているにすぎないけれども、ヘラクレイトスの復権は客観的に見て大きな意義をもっていた。神学的なあるいは俗流経済学的な、度はずれな調和論がひろく行われている現状において、「たたかいは万物の父である。」というよく知られている闘争についての命題を反省させ、闘争する矛盾の果している役割を世界観的な規模で考える契機ともなるからである。さらに具体的にいうならば、ヘラクレイトスの闘争についての命題は、「これまでの一切の歴史は原始状態を除いて階級闘争の歴史であった。」という唯物史観の主張と無関係ではなく、歴史を「無意味な暴力行為(sinnloser Gewalttätigkeiten)のむちゃくちゃな混乱」だと見る観念論的な歴史観に対して、闘争の合法則性を主張することにもなるのである。エンゲルスのヘラクレイトスの評価は、当然にその闘争と調和との統一についての主張の承認を意味しているし、デューリングの哲学を批判する場合にもさまざまな調和する矛盾をとりあげて、それらを正しく矛盾として論じている。
それではレーニンはどうであったかといえば、彼の革命家としての長所がここでは短所となってあらわれたようである。積極的に闘争の問題ととりくんで来たことが、調和の問題を正しく扱うことを疎外したようである。レーニンももちろん『資本論』を読み『反デューリング論』を読んだ。しかも一九一五年の哲学ノートには、「調和するものと調和せぬものとの結合」というヘラクレイトスのことばが、ヘーゲルの『哲学史』から抜き書きされている。だがそれにもかかわらず、その後に記された『弁証法の問題によせて』を見ると、「対立物の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」と規定していて、調和については一言も触れていない。そして哲学ノートにつけたマルクス・レーニン主義研究所の序文では、「レーニンは唯物弁証法を仕上げるにあたって矛盾の問題に主要な注意を払っている。まさに『哲学ノート』の中で、彼は対立物の統一と闘争との学説が弁証法の本質、核心であり、対立物の闘争が発展の根源であると解明している。」と書かれている。このレーニンの規定の神聖化は、哲学の教科書のヘラクレイトスについての記述にも反映して、万物が闘争によって生れたと説いているとはいうが、調和について説いていることには一言も触れていない。
予定調和説がいわば調和を絶対化しているのに対して、官許マルクス主義は右のように闘争を絶対化するのであるから、何のことはない予定調和説の裏がえしである。最近に至っては、マルクスに忠実に、商品における使用価値と価値との対立物の統一を矛盾とよび、商品交換の発展を矛盾の発展と受けとることさえ、マルクス主義ではなくヘーゲル主義だ、そのどこにも敵対的な闘争は存在しないではないかと反対する、自称マルクス主義者すら出現した。商品の価格と価値の大きさとの間には量的な不一致が存在しうるだけでなく、労働が対象化されていない・価値を有していない・事物、たとえば良心や未開の土地なども想像的な価格を受けとることができるから、ここには質的矛盾(qualitativen Wilderspruch)が存在しうるとマルクスは述べている。また貨幣の形成についても、「この一商品においては、商品が商品として内包するところの矛盾、すなわち特殊的な使用価値であると同時に一般的な等価物であり、したがってすべての人にとっての使用価値・一般的な使用価値であるという矛盾が解決されている(Wilderspruch gelöst)。」(『経済学批判』)と書かれている。したがってマルクス自身マルクス主義からふみはずしてヘーゲル的変更におちいっていると、見田石介は批判しなければなるまい。こうした闘争を絶対化した矛盾論で、人間と自然との調和という問題を扱わねばならぬところに、官許マルクス主義の信奉者は追いやられているのである。
『現実・弁証法・言語』 p.123〜
二
人間は自然の産物であるから、その意味で自然の一部であるけれども、他の自然から切りはなされて存在しているわけではない。人間は一個の生物として、自然と特殊な関係を結びながら生活を営んでいる。人間は多くの異なった構造を持つ細胞によって成立している多細胞生物であって、それらの細胞が生命を持っている。個体として生きているということは、とりもなおさずそれらの細胞の生命によって媒介された実存形態であって、諸細胞からはなれたどこかに生命が存在しているのではない。諸細胞はいづれもその環境から他の適当な物質を自己のうちに同化して栄養とし、同時に自己の古い部分を分解し排泄するという、不断の自己更新をいとなんでいる。個体としての栄養物の摂取や排泄が、それぞれ独立したものとして行われていても、それは現象形態であってそれ自体がそのまま生命の論理ではない。細胞の不断の自己更新は、「各瞬間にそれ自身でありながら同時に別のものである」ことを意味しており、これはほかならぬ一個の矛盾であるとエンゲルスは指摘する。
「われわれがさきに見たように、生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間に同一物でありながらまた別のものである、という点にこそある。だから、生命もまた、事物や過程そのもののなかに存在し、たえず自己を定立しかつ解決してゆく矛盾である。そして、この矛盾がやむやいなや、生命もやみ、死が到来する。」
人間が自然との関係において生活を営んでいることや、そこには自然からある物質をとりいれる一面と自然にある物質をおくりだす一面とがあることを、誰でも経験的に知っている。栄養物をとりいれなければ生きていけないし、また排泄物をおくりださなければ生きていけないことを、誰でも経験的に知っている。けれどもこれらを細胞レベルでとりあげて、生命が一つの矛盾であることや、この矛盾が自己を定立しかつ解決していくために、自然との間に特殊な運動形態をつくりだしているのだという、論理的な把握をしている者は稀なのである。死にたくなければ、この矛盾を実践的に維持しなければならないし、自然との間に栄養と排泄という対立した両面を正しく調和させた諸関係を創造していかなければならない。しかしながら、レーニンの命題を神聖化し官許マルクス主義を信じているマルクス主義者には、調和する矛盾が存在するという考え方がはじめから欠落している。生命について矛盾を考える場合についてもやはり闘争する矛盾として扱わねばならぬのだという、論理的強制を受けている。それで、現実の具体的な細胞のありかたから論理を抽象するのではなく、生命の矛盾も闘争であるはずだという前提の下に、どこに闘争が存在するかと探しにかかるのである。その一つの例として、スターリンの弁証法が熱狂的に礼拝されていた一九四七年に、ルフェーブルが公けにした『カール・マルクス』で「マルクス主義の方法」なるものがどう説明されていたか、見よう。彼は「矛盾の状態は、苦痛や困難や問題を必ず伴う。」といい、もっとも一般的な場合として、「生と死」をとりあげるのである。
「生と死とは対立し合い、たえざる闘争の状態にある。たえず、いたるところで、生は死と闘争する。そして死は、生ける存在を破壊する。死によって無きものにされる生ける存在をぬきにして、死を考えることはできない。このことは明らかである。しかし、生が死なしには存在しえないということについては、必ずしもそうではない。しかしながら、生きるということは、生まれ、成長し、発育することである、というのは明らかなことではないだろうか。ところで、生ける存在は変化し、変形することがなければ、したがって、かつての存在を脱皮することがなければ、成長することはできない。大人になるためには、少年時代を離れ、そして失われなければならない。停滞するいっさいのものは、退化し退歩するのである。ところが、生まれついたのち、成熟――生の頂点――に達したのちには、衰退がやってくる。生命の歩みとは年をとることなのであるから、それは必然的に死に近づいていく。したがって、いっさいの生ける存在は、死とたたかう。なぜなら、それは、自己のうちに死をともなっているからだ。いっさいの生ける存在は、このようにして生き――変化し、なんらかの新しいものを生み出すか、自分自身の中から新しいものをひき出すかするのである。」(吉田静一訳)
われわれが生と死について原理的に語るときは、生が失われることそれ自体を死とよぶのであって、生の外部に死とよばれる実体が生とならんで(プロレタリアートと別にブルジョアジーが存在するように)存在しているのではないのだということを、まず確認しておかなければならない。「死が生ける存在を破壊する」というように、死が前提になる事実もあるが、それは多細胞生物において特殊な重要な細胞(たとえば脳細胞)が死んだとき、この死を契機として個体の死がもたらされるというような、立体的な媒介関係においてであって、この場合においても脳細胞という「生ける存在」の自己破壊が死であることを無視したのでは説明にならない。「生まれ、成長し、発育する」のは、生物だけでなく、無生物(たとえば火山や氷山)にあっても同様であるから、「生きるということ」の特殊性をふまえた上でその成長と発育をとりあげるのでなければ説明にはならない。細胞のありかたとしての生命、その自己更新における特殊な矛盾を、ルフェーブルは何らとりあげようとしないで、「変化」「変形」「成熟」などの抽象的なことばをならべているだけである。薬剤が「死とたたかう」ために役立ち、毒物が「生ける存在を破壊する」ことは明らかであるが、これらの機能はルフェーブルの生死論と何ら論理的につながってこないのである。
「たとえば、私は海と陸地とを、あるいはさらに谷と川とを別々に切り離して考えることはできる。しかしそのときには私は、一方は他方を媒介にしてのみ存在するということを忘れているのだ。私は、とくに川が谷を切りひらいたのだということを忘れていることになろう。そのときには、私は恍惚とし感嘆するであろう。《神はなんと偉大で立派であることか。この世界はなんと調和していることか。神は、川が堂々とその流れをひろげられるように、谷を用意したまうのだ》と、事物の現実的諸関係を忘れ去って、私は、そのかわりに思弁的な説明をすることになろう。」
ルフェーブルをして、生命それ自体がすでに一個の矛盾であり、栄養と排泄との調和によって維持されていくという、「事物の現実的諸関係を忘れ去」るようにしむけ、生と死とを抽象的な対立と「闘争」とで「思弁的な説明をする」ようにしむけたのは、矛盾は対立物の「闘争」であって調和ではないのだという官許マルクス主義の論理的強制であった。こんな思弁的な生命論は、マルクス主義とは縁もゆかりもない。川が消滅しても谷は残るが、栄養をとらずに排泄をしていれば死によって排泄もまた消滅してしまう。
外界すなわち自然あるいは他の人間は、生命の維持にとって役立つとは限らない。水は飲料として不可欠であるが、時に洪水ともなる。魚や獣にも人間に栄養を供給するものだけでなく、危害を加えるものがあり、微生物にも有益なものと有害なものとが存在する。他の人間にも労働によって生活手段を生産してくれる者もあれば、深夜に短刀をにぎって襲撃してくる者もある。自然あるいは他の人間が、生命を脅かすならば、これに対して抵抗することになる。つまり、外的条件が生命にとって敵対的な存在となり、敵対的な矛盾が成立するならば、闘争によって矛盾を克服しなければならない。この場合、闘争することはほかならぬ生命とよばれる調和する矛盾を維持するためであって、ここに二つの対立した性格の矛盾の結びつきを見なければならないのである。薬剤を武器として害虫や病原菌と闘うのも、公害の源になっている企業に大衆動員をかけたり告発を行ったりするいわゆる市民運動も、ゲリラ隊を組織して侵略軍に不意打ちを食わせるのも、条件こそ異なっているが矛盾としての論理構造は基本的に共通している。
たとえ革命運動に挺身している革命家であっても、現実的な具体的な運動のありかたについて論じる場合には、意識すると否とに関係なく二つの対立した性格の矛盾の結びつきをとりあげることになる。哲学的に闘争する矛盾だけを強調したレーニンも、それから一五年前に職業革命家の組織について論じたときには、調和する矛盾の目的的な創造を具体的に説いていたのである。それにもかかわらず、レーニンを礼拝する哲学者たちは、それを矛盾論として読みとるだけの能力を持ち合せていない。『何をなすべきか』は、反対者たちに五つの命題をっきつけている。
「私はこう主張する。(1)確固とした継承性をもった指導者の組織がないならば、どんな革命運動も恒久的とはなりえない。(2)自然成長的に闘争にひきいれられて、運動の基底を構成し、運動に参加してくる大衆が広汎になればなるほど、このような組織の必要はいよいよ緊急となり、またその組織はいよいよ鞏固(きょうこ)でなければならない(なぜなら、そのときにはあらゆる種類のデマゴーグどもが大衆の未発達な層をまどわすことがいよいよ容易となるからである)。(3)そのような組織は、職業的に革命的活動にしたがう人びとから主としてなり立たなければならない。(4)専制国家では、ただ職業的に革命的活動にしたがい、政治警察との闘争の技術の職業的訓練をうけた人びとだけを参加させるようにして、このような組織の成員の構成を狭くすればするほど、そのような組織を『とらえつくす』ことはいよいよ困難になり、また、(5)労働者階級の出身であると、その他の社会階級の出身であるとを問わず、運動に参加し、その中で積極的に活動できる人びとの範囲がいよいよ広くなるであろう。
私は、わが経済学者、テロリスト、『経済主義的テロリスト』たちに、これらの命題を反駁してみるようにすすめる。」
官許マルクス主義の信者は、この文章のいったいどこに矛盾が説かれているのかと、妙な顔をするかも知れないから、まず矛盾についてのマルクス主義の理解のしかたから説明しておこう。エンゲルスは『反デューリング論』のための準備労作の中で、対立の統一を矛盾だといい、「たとえば、ある事物があくまで同一のものでありながら、しかも同時に不断に変化していること、それ自身に『持続』(Beharrung)と『変化』(Veränderung)との対立を持っていることは、一つの矛盾(ein Wilderspruch)である」と書いている。これはさきの生命論とつき合して見ればすぐわかるように、生命が一つの矛盾だということを指摘したものであるが、生命は個体において存在するだけでなく、組織の生命というとらえかたもまた可能であって、レーニンの組織論は組織の生命を論じているという意味において具体的な矛盾論だということができるのである。
組織はそれを構成する人びととともに、善かれ悪しかれつねに「変化」している。はげしい弾圧の下にある革命家の組織は、メンバーの逮捕とか死とか脱落転向とかいった、のぞましくない「変化」を蒙っている。レーニンが第一の命題でとりあげている「継承性」とは、この「変化」に「持続」を両立させることにほかならない。マイナスの「変化」をプラスの「変化」で補い、失ったものを補充することが「持続」であり、これによって組織が継承されている。そして第二の命題では、「変化」を前むきの「鞏固」なものにするために、大衆運動と革命家の組織との・指導される側と指導する側との・対応と調和との必要なことを指摘している。大衆運動の自然成長的な発展が、以前よりもはるかに複雑な新しい理論的・政治的・組織的課題を革命家につきつけているからには、革命家はそれらの課題を目的意識的に遂行できるような組織に自己を高めなければならないのである。この調和する矛盾を実現し同時に解決するための運動形態に、第三から第五の命題が関係している。いわゆる大衆路線を実践して、運動に参加し積極的に活動できる人びとの中から、ますます多くの職業的な革命家を育てることが要求されるのである。レーニンはこの第四と第五の命題について、以後詳細に論じていく。ここでは闘争するための組織がそれ自体調和する矛盾であり、矛盾を実現し同時に解決するための運動形態すなわち生命を維持するための活動が、大衆運動の提起する課題を解決し革命家を育成する実力者によって遂行されねばならぬことを、簡潔に記しているにすぎない。「職業的」とか「政治警察との闘争」とかいうことばから、これらの命題を特殊ロシア的なものだと思いこみ、ここにふくまれている普遍的な論理を見のがしてはならないのである。
ところで、大衆運動と革命家の組織との間の対応と調和が、つねに維持されるとは限らない。イデオロギー的な対立や、方針上の諸偏向が原因となって、敵対的な矛盾が成立する可能性が存在し、ここから両者が活動においてあるいは組織において分離することも起りうる。大衆運動の側で革命家の組織の活動方針を批判しそれを認めることを拒否し、あるいは大衆運動の中に組織的に結びついている革命家を追放したりする。現にわれわれの周囲でも、自称前衛と大衆運動との敵対的な対立がいろいろなかたちで存在し、闘争が起っている。そしてこの場合に、両者の正しい関係は調和する矛盾を定立することだと理解するのではなく、矛盾はそもそも「闘争」するものでこれを消滅させることが必要なのだと受けとる者にとっては、矛盾の一つの側面である革命家の組織それ自体を否定することが合理的だ(大衆運動それ自体を否定するわけにはいかないから)という結論になったとしても、それほど驚くには当らない。現に、この矛盾の消滅としての前衛否定論が、政党の支配の排除とか運動における民主主義の確立とか、美しいことばで飾られ合理化されているのである。レーニンの時代にも、「中程度の労働者」「大衆的労働者」ということばが流行して、「一〇人の利口」な革命家よりも「一〇〇人の馬鹿」な大衆を持ちあげ、運動から継承性・鞏固性・恒久性を追放する方向へ動いた人間がすくなくなかったことは、明らかである。
調和する矛盾の定立には、前衛が看板だけでなく現実の前衛になることが、大衆運動の提起する諸課題を正しく解決してその指導能力を否応なく承認させ信頼をかちとることが、不可欠である。無能な革命家はこのようにして敵対的な対立を消滅させる能力を持たないから、自分に敵対的な人びとを大衆運動から追放して無批判的に追従する人びとだけを残したり、あるいは無批判的に追従する人びとだけを大衆運動から脱退・分裂させたりして、敵対的な対立を消滅させようとする。たしかにこれらの方法をとれば、そこでの敵対的な矛盾はなくなるけれども、この方法では革命家としての権威を確立し広く大衆の信頼をかちとることはできないし、大衆の側から有能な活動家がつぎつぎと革命家の組織に推挙されるという運動形態を確保することもできない。大衆運動と革命家の組織との間に、調和する矛盾を実現し同時に解決しながらともに発展していくという、のぞましいありかたは実現しない。
官許マルクス主義の教科書は敵対的な矛盾の存在を強調して、これを無視するならば階級闘争の合法則性を否定することになり、階級協調・階級調和の理論に転落してしまうとさけんでいる。それはたしかにそのとおりだ。敵対的な矛盾の存在を否定するならば、階級闘争の先頭に立ってたたかう革命家の組織が必要だという考えかたそれ自体、根本的に正しくないことになり、前衛否定論にならざるをえない。ところがいま見たように、非敵対的で調和する矛盾を否定した場合にも、前衛の組織と後続部隊の組織との間の対応と調和をいかにして定立し維持していくかの問題が論理的に脱落して、結果として同じく前衛否定論へとみちびかれる。「両極端は一致する」という弁証法的なとらえかたの正しさは、矛盾論においてもこのように証明されるわけである。
革命家の組織の確立と強化による階級闘争の推進は、抽象的にとらえかえすと、「調和するものと調和せぬものとの結合」を実践的につくり出しおしすすめることにほかならない。いま一つ、もっともよく知られている前衛の活動のありかたを考えてみよう。「合法活動と非合法活動のたくみな結合」(die geschikt Kombinierung von illegaler und legaler Arbeit)ということは、レーニンが『左翼小児病』においてヨーロッパの同志たちに充分考慮するよう求めているところである。これも抽象的にとらえかえすと、合法とは法律と調和すること、非合法とは法律と調和せぬことであるから、やはり「調和するものと調和せぬものとの結合」を実践的につくり出しおしすすめることにほかならない。この調和する矛盾の定立によって、挑発者マリノフスキーも「一方の手では、数十人のすぐれたボリシェヴィズムの闘士を牢獄と死においやりながらも、もう一方の手では、合法的新聞によって数万の新しいボリシェヴィキの教育を助けねばならなかった」のであり、その裏切りによる害悪以上の貢献をしなければならなかった。
哲学者として文献からヘラクレイトスの主張を読んで暗記していたところで、そこから思弁的に経済学や前衛組織論が出てくるわけではないが、現実ととりくんでそこから理論をつくりあげようと努力している人間は、その創造的な仕事の中で「後代のあらゆる形而上学的な競争相手に対するこの哲学の優越性」(『反デューリング論』旧序文)をも確認できるのである。官許マルクス主義者は、いまもってそのことを自覚していない。
『現実・弁証法・言語』 p.132〜
三
「調和するものと調和せぬものとの結合」にも、さまざまなしかたが存在している。対象の論理を忠実にたぐって、そこに客観的に成立している有機的な結合を正しく抽象して来る場合もあれば、客観的には何ら結合が成立していないにもかかわらず、二つの発想を思弁的に頭の中で結びつけて、木に竹をついだような空想的な結合をつくり出す場合もある。公明党のイデオロギーと創価学会のイデオロギーとの関係も、このような結合の一つの例といえよう。
創価学会は日蓮宗の一派である日蓮正宗の教えを中心として、日蓮ののこしたいろいろな文書や思想を絶対化するとともに、牧口常三郎の哲学的見解を加え、それらを現代むきに解釈し具体化している。この新興宗教にあっては、他の諸宗教は神道をはじめすべて邪教であるといい、それらの〈邪教〉撲滅によって人を救い世を正そうとする。〈折伏〉とよばれるイデオロギー闘争を積極的に行って、これこそが信者としての義務でありこれによってはじめて大きな〈ご利益〉を受けるという。ところが創価学会がこしらえた政党である公明党にあっては、「中道政治」が主張され、政治が「信頼と調和」の上に立つべきであると説いている。学会の会員であり公明党の党員でもある人間は、まずこの意味で闘争と調和とを両立させ結合せざるをえないことになる。
創価学会が政治に進出するに際しても、その根拠づけは当然に日蓮の書いたものに依っていた。「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて……」ということばをとりあげて、日蓮はこの「王仏冥合論」で王法すなわち政治の道と仏法すなわち人間の幸福への道との一致を説いているのであり、政治が仏法の神髄と一致してはじめて全世界が平和楽土になるものといわねばならぬ、と解釈した。そして戸田城聖は、創価学会の政治に進出する目的を「国立戒壇の建立」だと説明した。新興宗教の信者となる人びとは、正直ゆえに損をするといった性格の者が多く、病気や貧しさや身内の争いごとなどで苦しんで、この苦しみから救われたいと願った結果信仰に入るのであるから、そこには大なり小なり現状打破のための意欲と行動が存在する。創価学会の信者も同様であって、他の教団の信者にくらべてヨリ戦闘的である。日蓮のことばを絶対視する以上、「王仏冥合論」に反対するはずもないが、遠い未来の建設的な理想について思想的に思いをめぐらすよりも、現実の苦しみを打開するための日常の〈折伏〉闘争のほうがヨリ大きな関心事である。政治的な「国立戒壇の建立」よりも、地方議員が日常生活に現実的な利益をもたらしてくれることのほうがヨリ大きな関心事である。地方議員にしても、議員の地位についたからには、日蓮の戦闘的な行動をそのまま真似るわけにはいかない。それでは有識者からアナクロニズムと笑われよう。政治家として新鮮でまじめで既成政党のボス連中より好感がもてると投票してくれた、会員外の有権者を〈邪教〉のとりこになっていると攻撃するわけにはいかないし、憲法の規定に反した神社仏閣廃止案を議会に出すわけにもいかない。やはり他の議員と同じように、大衆の現実的な生活に利益をもたらすための活動を必要とする。しかも戦闘的な現状打破的な教団によってささえられる政治家であるからには、その「革新的」な性格にふさわしい政治的イデオロギーを持たなければならない。そこで創価学会として「色心不二の哲学による第三文明の建設」という発想を提出し、これは社会主義ないし共産主義以上に革新的なものと強調しはじめた。池田大作も「人間革命」を主張して、政治革命・経済革命・人間革命を統一した「第三文明」は「新社会主義」だと述べた。しかしながらそれらはことばにとどまっていて体系的な理論にはなっていない。このようにして、公明政治連盟から公明党へと発展した創価学会の政治活動も、「理論の欠陥は、革命的流派からその存在の権利を取りあげるものであり、この流派に、おそかれ早かれ不可避的に政治的に破産すべき運命を負わせるものである。」(レーニン『革命的冒険主義』)という政治組織の論理によって、絶えず脅かされることとなったのである。
政党が政党としてのプログラムや活動方針を持つことが必要である。右は自民党から左は共産党までの既成政党に対して、新しい政党としての存在理由を広汎な大衆に納得させるための、独自なプログラムや活動方針を持たねばならぬというのが、公明党を規定しているところの客観的な条件である。衆議院に進出するのに「国立戒壇の建立」をかかげていたのでは、日蓮正宗を国教化してかつての国家神道の地位につけ、憲法の保障する信仰の自由を否定することになりはしないかという一般の危惧をよびおこすと見て、このスローガンをひっこめたというような、消極的な対応のしかたでは不充分であって、具体的な政治理論や経済理論を持ってそこから具体的な活動方針なり政策なりをひき出してこなければならない。ということになれば、当然それらをつらぬくところの社会観なり世界観なりが存在するわけであって、それらについてもまたそれなりに語られなければならない。経済理論は現実から抽象するものであって、思弁的にこねあげるわけにはいかないし、政治理論にしても経済理論と無関係にこねあげて結合したのでは、現実的な政党としての活動には役立たないから、やはりそれなりに科学的なものに仕上げなければならないことになる。ここで問題になるのは、それらの理論やそれらをつらぬく社会観なり世界観なりと、日蓮の文書や思想との関係である。たとえ組織的に「政教分離」が行われたとしても、創価学会のイデオロギーに明らかに敵対的なイデオロギーを公明党がかかげることはできない。本質的に相いれないイデオロギーであったとしても、日蓮の生れ変りである池田大作の思想として解釈的に日蓮に結びつけてかかげなければならない。「王仏冥合論」を具体化して、他の社会科学者の学説とは異った独自の政治理論や経済理論を建設することができないとすれば、〈邪教〉の徒や無神論者の提出している理論をあれこれとつぎ合せて、それに池田大作その他の抽象的な片言隻句を添えたようなものを持ちだす以外に方法はない。
「王仏冥合論」というのは王法と仏法、政治と宗教との、調和の理論である。キリスト教哲学であれ日蓮の思想であれ、宗教的イデオロギーは結局のところ調和を宇宙の根本原理とするのであるが、これを「宇宙本来のリズム」として「信頼と調和」を語るにしても、社会党や共産党とは相いれないがしかも革新的な独自な政党という以上、やはり「中道政治」というかたちに政治イデオロギー化するよりほかはない。但し思弁的にどんなイデオロギーを創造したところで、現実がそれに忠実についてくるわけではない。現実には宗教的イデオロギーの教えに服従しなければならぬ義務はないからである。日蓮の思想の中には、宗教的イデオロギーとしての調和の理論と闘争の理論との結合が存在し、彼は宗教家として闘争を媒介することによって調和を実現する実践活動をおしすすめた。公明党が日蓮の調和の理論から、すなわち宗教的イデオロギーから出発して、それを政治イデオロギー化することになると、主観的に調和をあちらこちらへ押しつけるのであるから、日本人はそもそも調和を尊ぶ民族であるという民族観が一方で出てくるかと思うと、他方では自民党との「調和」を実践する政治活動が生れてくる。けれども政党としての確立を目ざして、現実から理論を抽象しその上に方針を立てることになれば、そこに思弁的な調和論にもとづく実践とは無縁の、科学的なイデオロギーによる闘争が生れることもあるわけで、これが外部の人びとには状況追随主義とか折衷主義とか印象づけられる。創価学会のイデオロギーからすれば、水俣病やイタイイタイ病もその人間が前世において犯した罪の報いであって仏罰だという解釈になり、学会の会員になって、〈折伏〉に努力すればその〈ご利益〉で治癒するという結論になるけれども、公明党としてはこれは重金属が体内に蓄積した結果起った疾患だと見る科学者の主張を認め、企業の責任を問い公害対策を要求する態度に出ないわけにはいかない。ここに、イデオロギーとして敵対的な対立が存在している。ただ公然の闘争にまで発展していないだけのことである。別のいいかたをするならば、公明党は政党であることによって唯物論という〈邪教〉を認める必要に迫られ、その点で創価学会のイデオロギーと敵対的に対立しているにもかかわらず、この〈邪教〉と闘争すべき義務を負っているはずの学会員が闘争しないで支持しているのは、〈邪教〉が学会のイデオロギーの断片と結合させられているために、全体として学会のイデオロギーであるかのように受けとっているからである。
大カテゴリー [弁証法]
三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から、夏目漱石の文学論を再評価しながら、文学における作者と表現主体の問題についての持論を展開している小論「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.287〜299
文学論はすくなくないが、読者が文学を鑑賞するという事実について理論的に解明したものは、ほとんど見ることができない。もちろんそれにはそれだけの理由がある。創作の理論的な解明ができないのに鑑賞だけ解明できるはずはない。創作活動にしても鑑賞活動にしても精神活動であるから、その解明には認識論の援助を受けなければならないのだが、これがまた確立されてはいない。それに、読者は作者に対して本質的には受動的な態度をとり、作者の創造を忠実に受けとらねばならないのだが、それには読者の能動的な精神活動が要求されるのであって、ポカンとただ文字をながめていたのでは与えられた作品を正しく読みとることができないし、またどんなに正しく読みとるべく努力したとしても、近似的にしか受けとることができない。作者の精神活動を読者が完全にそのままくりかえすことは不可能なのである。そのために、現実の世界と人間の認識とはどういう関係にあるかについて、哲学者がふみはずしたのと同じ発想が、文学作品と読者の認識との関係の説明にも現われてくる。現実の世界のありかたを完全にそのまま認識しているならば、唯物論者のいう〈反映〉論も承認しようが、認識は現実の世界のありかたとくいちがうし時には空想的な存在をも想像するのだから、反映論は認めるわけにはいかないと哲学者は不可知論から観念論へふみはずしていった。作品の鑑賞にあっても、読者の受けとり方はすべて不完全であるし時には誤解や曲解も起っているから、鑑賞を〈追体験〉というのは正しくないと、評論家はいい出しかねない。「読むという行為は誤解のつみかさねである」という者も出てくる。創作の理論的解明ができない左翼の評論家は、読者の鑑賞それ自体をとりあげようとしないで、機能論的に、文学は「生活を組織する」ものだと論じ立てたりしているのである。
私がこれまで著書や論文で述べてきたこの問題の理論的な解明を、簡単にスケッチしておこう。作者が空想の世界を小説に描くことは、作者が意識的・目的的に夢を見てその夢を読者に言語で伝えようとすることである。読者は小説を読みながら、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見ようとする。作者は自分の創造した夢の中で、織田信長の若き日の生活をながめたり、二一世紀の宇宙旅行で他の遊星に行って宇宙人の生活をながめたりしているが、そのときの現実の作者は依然として昭和四十何年というカレンダーのおいてある書斎の机の前にすわっている。
これは、夢の中でオバケに追われて必死に森の中を走っていても、その時の現実の人間はベッドの中で動かずに眠っているのと共通している。これを人間の観念的な自己分裂・二重化とよぶが、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見る読者にしても、郊外電車の座席に腰を下(おろ)して週刊誌のこまかい活字をながめながら、同時に平清盛の生活をながめるという観念的な自己分裂・二重化を行わなければならない。この、読者が観念的に自己分裂を行って夢の中の作者と同じ立場に立ち、同じ体験をすべく努力することが、〈追体験〉とよばれる精神活動である。
古典文学の解釈や、鑑賞経験を理論的に反省することは、これまでも行われなかったわけではない。たとえそれが認識論の未確立のために不充分なものに終ったとしても、それなりに正しい方向を進んだものは評価されてしかるべきである。それゆえこの小論では、時枝誠記と夏目漱石の主張をとりあげてみることにしよう。時枝の言語過程説は、京城帝大における「中古語研究」の題目での『源氏物語』の演習に負うところが多い。演習の開始に際して、彼は解釈ということの本質を考えるよう求めたむね、『国語学への道』(一九五七年)の中で述べている。
「解釈とは、どのやうな事実であるのか。この演習にあたつて、諸君はもう一度根本的にこの問題を考へるべきである。そこから出発して我々は解釈といふことを、その本質において生かさなければならない。解釈の本質を探つて行けば、勢ひ言語文章の本質が何であるかの問題に行き当る。言語文章の本質観に従つて、解釈といふことは、文字がその内に包蔵している音とか意味とかを引き出す作業だとも考へられるであらう。私は久しい以前から、言語文章の本質は、話手或は書手である言語主体が、自己の表現しようとする事物・事柄即ち表現行為の一形式であらうと考へて来た。であるから、文の解釈或は文を読むといふことは、文字面(もじづら)を通してこれを言語主体の音声、或は表現の素材である事物に還す仕事であると考へてゐる。解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へてゐる。解釈といふ仕事は、表現主体に立返るといふことによつて完成するのであるから、解釈者は常に己を空しくして、表現主体といふことを念頭から去つてはならない。
『国語学原論』(一九四一年)には、つぎのように記してある。
「古代言語の記述は、これを古代人の主体的行為に還元することによつてのみ、我々はこれを具体的な言語経験として把握することが出来るのである。古代人の主体的活動に還元するといふことは、……要するに、言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならないのである。一般に古代言語の研究といふことは文字を通して観察者に於いて古代言語の音声と意味とが理解せられるといふ経験そのものを対象として把握することから始まるのであつて、この様な主体的な経験を除外して我々は古代言語を対象とすることは出来ないのである。」
こうして、古代人の言語体験すなわち夢の中での作者の体験を主体的に〈追体験〉する立場と、現実の読者が現実の作者の作品について論じる観察的な立場とを、時枝は区別して、この識別が「極めて重要」であると強調したのであった。この言語における〈主体的立場〉と〈観察的立場〉との区別は、私が名づけたところの人間の観念的な自己分裂・二重化を経験的にとらえたものにほかならないのである。
夏目漱石については、まず『吾輩は猫である』の創作と鑑賞を考えてみよう。これはいわば「猫」の生活記録であり、漱石の空想の世界に生きている「猫」が身辺のさまざまな事件やその見聞で感じたことについて、ペンをとって記したことになっている。作品の〈表現主体〉は「猫」であるから、読者もこの「猫」の体験を主体的に〈追体験〉しなければならない。さらに、空想の世界の中では登場人物である苦沙弥や迷亭や寒月などがいろいろ語り合っているけれども、作品の中の彼らの会話は「猫」がそれらの発言を忠実に記録したことになっているから、読者も苦沙弥なり迷亭なり寒月なりそれらの発言の〈表現主体〉に立返って、彼らの身になってその思想を読みとるべく努力することになる。このような、作者の創造した夢を〈追体験〉によって正しく受けとろうと努力することが、作品の鑑賞活動である。けれどもこの活動は夢の世界の中ですすめられるから、そこには苦沙弥はいても現実の作者漱石は存在しないし、夢を〈追体験〉する「猫」の立場の読者はいても現実の読者はいない。ところが鑑賞活動を終えた読者が、この夢の世界の外に出てあらためて作品を観察すれば、「猫」はもちろんのこと苦沙弥も迷亭も寒月もすべて漱石の創造であり、彼らの思想もすべて漱石が与えたものでしかない。夢の世界の中で、さまざまな〈表現主体〉に立返って読者が読みとったものは、夢の世界の外へ出たとき漱石の創造としてとらえかえされることとなり、そこに創作活動の分析とか作者の研究とかいうことが新しくはじまるのである。時枝が「観察者と主体との二の立場は厳然と区別されなければならない」といったことばは、この作品にあっては現実の作者としての漱石の立場と、〈表現主体〉としての「猫」や登場人物の立場を混同して扱ってはならないことを意味するわけである。
さて、漱石によってなされた文学の鑑賞経験の理論的な反省は、『文学論』(一九〇七年)において展開されているが、読者が「表現主体に立返る」問題を具体的にとりあげた第八章「間隔論」をここで検討してみよう。この章では、作品中の事物や人物と著書との〈間隔〉、および著者と読者との〈間隔〉をとりあげて、その〈間隔〉の変化を論じるのである。
「普通の記述は作中に融化せられざる著者の媒介を待ってはじめてこれを納受するはまへに述べたるがごとし。記を記事とし、作を作家とし、読を読者として、三者の間隔を図に示せば記――著――読となる(これを第一図とす)。もし記事の性質と著者の技巧により、幻惑の高潮度に達したるとき、卒然として著者の存在を遺却して当面に記事を熟視するを得ば、間隔は縮(ちぢま)つて記――読となる。読者と著者と合したるの興致を示すものなり(これを二図とす)。作家もし余をもつて事を叙し、編中の一人を代表して文を遣るとき、単独なる作家は当初よりその存在を認むるの必要なきをもつて間隔ははじめより二図と異なるなく記――読をもつて示すを得べし。」(傍円は原文)
あとで説明するけれども、ここで著者とよばれているのは実は〈表現主体〉であり、自己分裂で生れた夢の中の作者である。時枝は二つの立場を区別して〈主体的立場〉への移行を説いているのに、漱石には移行の自覚がなくて図式に直ちに〈表現主体〉を持ってくるのであるから、理論的に未熟であったことは否定できない。しかしながら彼は、この間隔論をひっさげて、スコットの歴史小説『アイヴァンホー』の分析をすすめるのである。
「少時 Scott の Ivanhoe を読んで、Rebecca の盾を翳(かざ)して壁間より戦状を Ivanhoe に報ずるの章に至つて張目寝(い)ぬるあたはず、燈を挑(かか)げて天明に達せるは、今なほ明かに記憶にあり、当時庶幾(しょき)するところはただ書を楽しむにあつて、事を解するに存ぜざりしをもつて、そのなにがゆゑにわが心を動かすのかくのごとくはなはだかりしかはつひに脳裏に反問するの意なくして長く歳月を経たり。後年やうやく思索の街頭に往来の蒼頭白首を数へて、紅絹青衣を類別するに至つて、はじめて十年の昔に回頭して、考案のいまだ透過せざるものあるを思ひ、これを拈定(ねんてい)して一炷(しゅ)の香を焼くこと再三、いまだ分明に端的を会せずして已(や)めり。今またこの間隔論に逢着して、まへの話頭を挙しきたるの恰好なるを見る。もし弁じ得て釈然たらざるとき、おほかたの善知識余のために三十棒を揮(ふる)へ。」
これまでに三十棒を揮った「善知識」がいたかどうか、私は知らない。小泉信三はこの分析を「夏目理論」の展開だといい、理論的な検討はしていないが、「彼れに在(あ)つては、その凡(すべ)ての理論の前に人真似はしないといふ潔癖があつた。お伽話にある、裸の王様を裸だといふ正直があつた。」と書いている。たしかに、右の自分の経験を述べた文章にしても、彼が自己に誠実であることの一端がうかがわれる。
「Ivanhoe の場合にあつて上図の記に相当すべきは城下に起る戦闘の光景なり。黒兜白毛の騎士なり。長幹偉躯の悪僧なり。伏せて彎(ひ)く弓なり。空に鳴る矢なり。剣光なり。馬影なり。咄喊(とっかん)の声、甲冑の波なり。しかしてこれ等の動静を叙するものは著者にあらずして明眸皓歯(めいぼうこうし)の佳人 Rebecca なり。ゆゑにこの際における図式は記――著――読にあらずして、記――R――読となる。換言すれば作家に代ふるに Rebecca をもつてしてはじめて相当なる図式を得るものとす。幻惑(作家の技倆、記事の内容より生ずるもの、間隔より生ずるものにあらず)の熾(さかん)なる時読者、作家の筆力に魅せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進んでこれに近づき、近づいてこれに進み、つひに著者と同平面、同位置に立つて、著者の目をもつて見、著者の耳をもつて聴くに至るがゆゑに著者と読者の間に一尺の距離をも余すことなし。しかしてこの際における著者は Rebecca にあらずや。この際における幻惑は白熱度ならずや。吾人は進んで Rebecca に近づかざるを得ず。つひに Rebecca と同平面同位置に立たざるべからず。最後に R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴かざるべからず。R. と吾人との間に一尺の距離を余すなきに至つて已(や)まざるべからず。
まず、この作品が三人称小説であることを確認しておこう。それゆえこの小説の〈表現主体〉は、現実の作者スコットではない。作者から観念的に分裂して空想の世界の中にいる無色透明の傍観者であって、アイヴァンホーやレベッカや獅子王リチャードやロビン・フッドなどの活躍をながめて書き綴っているのである。この傍観者は、レベッカが目の前の戦況を、味方の黒騎士が倒れたとか、立ちあがって敵将を倒したとか、つぎつぎと語るのを忠実に記録していく。読者もこの記録を通じて、空想の世界の中の〈表現主体〉に立返って〈追体験〉するから、「R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴」くことになる。ここで注意しなければならないのは、右の文章で「作家の筆力」といい、また「著者の目をもつて」といって、二つのことばを使いわけている点である。これは漱石が明確に自覚してはいないにしても、「作家」というときは現実の作者を、「著者」というときは〈表現主体〉をさしているのであるから、無意識のうちに区別を与えたものと見なければならない。無意識だけに混同することもあって、「作家に代ふるに Rebecca をもつてして」と、現実の作者と〈表現主体〉が入れかわるかのような説明が見受けられるし、あとのほうでは「この際における著者は Rebecca にあらずや」と正当に説明しているといった、食い違いが見られるのである。
「しかるに Rebecca は編中の一人物なり。戦況を叙述するの点において著者の用を弁ずるとともに、編中に出頭し、透迤として事局の発展に沿うて最後の大団円に流下するの点において記事中の一人たるを免かれず、このゆゑに吾人は著者としての Rebecca と同化するかたはら、すでに記事中の一人なる Rebecca と同化しをはるものなり。こゝにおいてか Ivanhoe の記事は重圜を描いて循環するを見る。外圜を描くものは Scott にして Rebecca はこの圜内に活動し、内圜を描くものは Rebecca にして、堞下の接戦はその中に活動す。吾人は幻惑を受けて戦況を眼前に髣髴するの結果、内圜を描くものと同時、同所に立つて覚らず。顧みればすなわち身はすでに外圜のうちに擒(とりこ)にせられて、編中の人物とともに旋転するを見る。翻つて Scott を索(もと)むればはるかに外にあつて、吾人と利益をともにせざるがごとく長嘯するに似たり。」
漱石がここで Scott とよんでいるのも、実は現実の作者ではない。「圜を描くもの」はすなわち〈表現主体〉であって、空想の世界の中にいて空想の世界を記録している無色透明の傍観者である。これを Scott とよんでいるのは、現実の作者と正しく区別できないことを示している。つまり、読者は作品の〈追体験〉において、まず「内圜を描く」無色透明の傍観者に観念的に「同化」し、空想の世界に展開する事件を客観的にながめていく。つぎに、そこに登場して「内圜を描く」Rebecca にさらに観念的に「同化」するという移行を行って、こんどは Rebecca の見聞する戦況を「眼前に髣髴する」ことになる。この移行によって、読者はもはや傍観者の立場ではなく、登場人物の立場に立っているのであるから、読者は観念的に事件の直接の体験者として行動し感情を持ち認識しているわけであって、自分たちの行動を外側からながめている無色透明の傍観者などは「吾人と利益をともにせざるがごとく」まったく別の立場の無関係な人間でしかない。
「このゆゑにこの場合における間隔的幻惑はもとより ――著――読のごとく隔靴掻痒の感あるものにあらず、あるひは読者の進んで著者と合したる著――読にもあらず。または著者の余となつて編中の人物を代表する意味においての記――読にもあらず。読者が記事そのもののうちに闖入せる場合なり。図をもつて示せば(読記)ならざるべからず。記事、読者ともに一圜中に生息して、尺寸の間隙なき場合ならざるべからず。さらに竿頭に一歩を進めていへば記事と読者が一団となるのみならず、真の著者をはるかの後へ(しりへ)に見捨てたる場合ならざるべからず。したがつてこの特殊なる吾人の幻惑は、記事を操つる著者が、記事に対するよりも、吾人が記事に対するの、はるかに親密の度において優れりとの自覚より来るものなり。みづから記事中に活動して圏外の著者を疎外視するより来る幻惑なり。これを図に示すとき(読記)――著なる変形を得るに似たり。」
この場合の「外圜」に対する「内圜」は、時枝のいうところの入子(いれこ)型構造になっていて、それぞれに〈表現主体〉すなわち漱石のいう著者が存在しているのである。だから「外圜」の著者が「真の著者」だと漱石が書いているのは、どちらの〈表現主体〉も真実には Scott の創作になるものだという意味での空想の世界の創作者と、物語を記録する「外圜」の無色透明の傍観者との混同が、ヒョイとことばの上に出て来たものと見ることができる。それはそれとして、漱石はここで、三人称小説の登場人物が〈表現主体〉となるときの読者の〈追体験〉を、事件の傍観者からさらにすすんで事件の中に「闖入」するときの「白熱度」のイリュージョンの高まりとして、問題にしているのである。それは、単に登場人物が〈表現主体〉になればすべてそうなるというのではなく、Rebecca の場合は特殊な条件にあるからだということを、つづいて指摘するのである。彼は Rebecca の表現が現在形であり、全体として〈歴史的現在〉とよばれる形式となっているところに注意を求めている。
「この場合にあつては記事そのものが吾人の目的なるをもつて、記事の面白ければ面白きほど(他に関係なく)吾人は満足の意を表すものとす。しかしてこれを面白くする一方法として戦争は現在において起らざるべからず。余は単に通俗なる修辞の一として教へられたる歴史的現在に付着せる普通の意義においてこれを主張するにあらず。単なる時間の短縮は、話材を事実に変じて活動の一睛を点ずるにおいて、その功力の争ふべからざるものは明かなりといへども、この場合における余の主張は、かく一般に認識せられたる功力以上のあるものを現在法に見留むるがゆゑなり。現在法によりて逐次に転回する事件は読者に対して未知数なるのみならず、これを活説する Rebecca にもまた未知数なり。単に Rebecca に対して未知数なるのみならず、事件の発展に対してその期に達せざるかぎりは、運命と号する怪物のほか天下また何人も知るあたはざるなり。知るあたはざるがゆゑに、読者の注意はもちろん、Rebecca の全精神もまた局面の発展に傾瀉(けいしゃ)するのは自然の理なり。未知数は不定なり。不定なるものは甲たらんも知るべからず。乙たらんも計りがたし。その結果の甲たり乙たるにおいて吾人の興味に大なる影響を与ふるとき、話すものの全身はことごとく目なり。聴くもの全身はことごとく耳なり。運命の一子を下すたびに一喜しまた一憂す。けだし運命のわが期待するごとく変ぜんかとの投機的希望に束縛せらるゝがゆゑなり。Rebecca の眼下に起るは戦にあらずや、戦とは敵と味方とを意味し、敵と味方とは勝負を意味す。The Black knight か、Front-de-Boeuf か、これ読者の呼吸を凝らして知らんと欲するのみならず、Rebecca のまた張胆明目して知らんと欲するところのものなり。しかして Rebecca のかく熱心なるは勝敗の数いまだ定まらざる現在の光景なればなり。一分の発展するごとに、一分の結果をもたらし、一分の結果をもたらしつゝ発展し去る刻下の状態なればなり。」
私はこの分析に同感であった。漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月〜三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。
映画やTVにおけるキャメラが、〈表現主体〉の目であるとともに、観客の〈追体験〉における目となっていることは、ちょっと反省すればすぐわかるであろう。空想の世界を扱ったドラマは文学の三人称小説に相当し、キャメラの目すなわち〈表現主体〉の目は空想の世界の中の無色透明の傍観者として、思うがままにあるきまわっている。あるときは登場人物の顔をながめ、あるときは空から金門橋を見おろし、いまインディアンのそばで遠くから走ってくる駅馬車をながめたかと思うと、つぎにはその駅馬車の上から追ってくるインディアンをながめるのである。そしてこの傍観者である〈表現主体〉の目は、時々登場人物に移行し、登場人物の目として事件のありかたをながめ、そのとき観客もまた登場人物に「同化」して登場人物の体験を〈追体験〉することになる。そのいくつかの例を、私は『日本語はどういう言語か』(一九五六年)でとりあげて、スリルをもりあげるために意図的に使われることも指摘しておいた。殺人の場面でキャメラの目が被害者の目に移行して、せまってくる殺人者がその両手を首をしめようとさし出してくるのを見るといった場面は、しばしば見られるし、反対に殺人者の目に移行して、隣のビルの屋上からライフルでアパートの窓をねらうといった場面もおなじみになっている。ヒッチコックの “Spellbound” では、キャメラの目が犯人の目に移行して、事件の真相を見ぬいた女医をピストルの銃口が追う場面がある。女医はドアから出ていくが、追って動いていく銃口は沈黙したままである。女医の姿はドアの向うに消えてしまい、やがて銃口はキャメラ自身すなわち犯人自身に向けられて、発射される。自殺の表現である。同じ作者の他の作品では、ドアから入って来た男のすがたが次第に逆立ちしてくる。仰向けに寝ている女が首を動かして、近づいてくる男を下から注視しているのである。
このような映画における登場人物への観客の「同化」は、文学と無関係に経験的に開発された方法であろうが、漱石の分析の正しさの傍証ともなるものである。フランスの評論家は文学における〈主体〉の解体とか飛散とか妄想をならべ、日本の評論家もそれをうのみにして口まねし、漱石の研究者と名のる人びとすら『文学論』の検討を避けて通るという現状において、私はあらためて漱石に敬意を表し脱帽したいと思うのである。
大カテゴリー 〔意識・認識〕 〔言語〕
5年余り愛用してきたノートパソコンが壊れてしまいました。現在は借りもののパソコンでたまに覗く程度のことしかできないので当ブログの更新はしばらく中断します。
6月初めまでには新しい XPノートを手に入れる予定です。その頃には復帰できると思います。
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個別概念・普遍概念・特殊概念(41) 三浦つとむ(30) マルクス(27) メイリオ(22) 概念の先在(22) MeiryoKe(19) ソシュール(17) 鏡・鏡像(17) 思考言語・内言・連辞関係(15) ラング・langue・「言語」(15) 観念的自己分裂3(14) 弁証法(14) 言語の意味(13) Gothic・PGothc・UIGothic(13) MeiryoKe_Gothic(12) 〔お知らせ〕(12) FC2ブログ(12) 一般言語学講義(11) 時枝誠記(11) 対象認識(11) システムフォント(11) 語規範・語韻・語概念(11) 観念的自己分裂1(10) 観念的自己分裂2(10) メイリオ系フォント(10) 価値・意味・意義(10) 対他的・対自的(10) 詞と辞(9) ディーツゲン(9) (メイリオ)(9) (三浦つとむ・認識と言語の理論)(9) 客体的表現・主体的表現(9) ブログ・リニューアル(8) MSゴシック(8) シーニュ・シニフィアン・シニフィエ(8) (認識と言語の理論I)(8) 音声・音像・音韻(8) ソシュール「言語学」とは何か(8) 存在・非存在(7) (自己の二重化)(7) フラッシュビデオ(7) (認識と言語の理論I-1)(7) 〔雑感〕(7) 対立物の統一(7) (認識覚書)(7) メイリオ改(7) YouTube(7) ClearType(6) 自己意識・他者意識(6) 否定の否定(6) (現実・弁証法・言語)(6) 言語過程説(6) システムフォントの変更(6) meiryoKeGothic.ttc(5) 対立物の相互浸透(5) 言語規範(5) 遠山啓(5) (概念)(5) 運用概念・規範概念(5) 板倉聖宣(5) (対象意識)(5) 調和する矛盾の定立(5) Firefox(5) エンゲルス(5) [概言先](5) 物自体(5) (三浦つとむ・時枝誠記の言語過程説)(5) 対象認知・対象認識(5) MSGothic.ttc(5) 概念の獲得・形成(5) 語音・語音像・語韻(4) (客体的表現と主体的表現)(4) ttfname3(4) 科学的方法論(4) (物自体)(4) (三浦つとむ・横目で見る立場から)(4) (ノートパソコンの発熱・冷却)(4) 仮説実験授業(4) [ソ言](4) 認知主体・認識主体(4) 零記号(4) 連合関係・連辞関係(4) (存在と対象)(4) CPU温度・HDD温度(4) ソシュール用語の再規定(4) 正負の数(4) 内包量・外延量(4) 個別・特殊・普遍(4) 真理・誤謬(4) 発熱対策(4) 示量因子・示強因子(4) ヘーゲル(4) ヤマカン的人間(4) 連合関係・語彙規範・言語規範(4) ノートパソコンの発熱・冷却(4) ディセンダ・アセンダ(4) MobileMeter(3) (三浦つとむ・意味とは何か)(3) 判断辞(3) 関係意識(3) (意味・意義・価値)(3) 温度計算(3) 神経系(3) (二つの主観)(3) 認知対象・認識対象(3) マイナスかけるマイナス(3) ケースファン(3) 古田武彦(3) フォイエルバッハ論(3) 概念(3) 価格(3) 言語とは何か(3) Visual_Style・スキンの変更(3) 主体的立場・観察的立場(3) 古代史(3) マイナス×マイナス(3) MeiryoKe_Console(3) 正負の数のかけ算(3) (ことばとは何か)(3) Styler(3) (温度のたし算)(2) 言語音・言語音像(2) 主観・客観(2) WinAmp(2) breakttc・makettc・ttfname3(2) ClearType_Tuner(2) SFC.exe(2) MeiryoKe_UIGothic(2) 表象(2) Gom_Player(2) (GomPlayer)(2) (Styler1.401)(2) meiryo.6.02(2) 科学的真理(2) [言無思](2) フォイエルバッハ(2) カテゴリー(2) パラディグム・シンタグム(2) 語規範・語彙規範・言語規範(2) プラス×マイナス(2) (一般言語学第三回講義)(2) 使用価値・交換価値(2) ソシュール「言語学」(2) 0の概念・マイナスの概念(2) 個別的概念・普遍的概念・特殊的概念(2) 認識における矛盾(2) 等幅・プロポーショナル(2) 〔その他〕(2) (時枝誠記と三浦つとむ)(2) 動画再生(2) 左右反転(2) 主体的立場(2) (割り算から見た量)(2) フォントブラウザ(1) なでしこ(1) 規範認識(1) クイック起動(1) ブラウザ(1) 日本語プログラミング言語(1) 先天主義(1) メイリオ5.00(1) 規範意識(1) 一般概念(1) 記事インデックス(1) 過程的統一(1) 音楽(1) 規範(1) (三浦つとむ・漢字と振り仮名)(1) 冷却ファン(1) 個別概念・語概念(1) 個別概念(1) 語・内語・語規範(1) 言語・内言・言語規範(1) 邪馬壹国・邪馬台国(1) 知覚表象(1) (WindowsXP)(1) BTO(1) (Winampの表示)(1) (STCfontBROWSER)(1) (JIS2004対応MSゴシック・MS明朝)(1) Google検索の電卓機能(1) MS明朝(1) Rapture(1) Quick_Launch(1) OEA配列(1) MS_*ゴシック_Ex+(1) (Google検索の電卓機能と温度計算)(1) (DownloadHelper)(1) 物質的交通・精神的交通(1) タグリスト一覧(1) (言語過程説の展開)(1) 事物自体(1) 物質的生活の生産(1) 個別科学(1) (認識と言語の理論M)(1) (言語過程説の展開H)(1) MeiryoKeパッチ(1) 予想・夢想(1) USBファン(1) XPサポート期限(1) 夏目漱石(1) 作者の消滅問題(1) (Sleipnir2.7)(1) Safari(1) Sleipnir(1) 表現主体(1) (三浦つとむ・夏目漱石における『アイヴァンホー』)(1) メイリオ6.02(1) 調和するものと調和せぬものとの結合(1) 敵対的矛盾・非敵対的矛盾(1) (三浦つとむ・調和の論理)(1) meiryo.zip(1) meiryo.5.00(1) 水道方式(1) meiryoKeGothic/fontforge・meir(1) meiryoKeConsole.ttf(1) XP販売終了(1) 三段階連関理論(1) 庄司和晃(1) (ブラインド・タッチ)(1) 科学の目(1) ことわざの目(1) 頭の中の目(1) (<対象→意識→表現>過程における認識の発展)(1) (小春日和?)(1) (コマンドプロンプトで使用するフォント)(1) (シニフィエについて)(1) (いつの間に)(1) (「言語」・「ことば」の語義)(1) (認識)(1) (南半球における月の満ち欠け)(1) (邪馬「臺(台)」国)(1) (ソシュール講義録注解)(1) (ちょっとボヤいてみる)(1) (langueとlangage)(1) (言語と内言)(1) 接続詞(1) (科学とは何か)(1) 勝手にブログ評論(1) fontxp(1) Bフレッツ(1) 過程的構造(1) 感覚・知覚(1) Meiryo_UI(1) 階層構造(1) 個体概念(1) イメージスキーマ(1) 観念(1) (とりとめのないこと)(1) (100万サイト突破)(1) (ちょっと反省)(1) (認識・思考における概念)(1) (北朝鮮・ミサイル試射実験)(1) (言語表現における概念の二重性と二種類の概念)(1) (誤読でした)(1) (幼児の頭の中は星雲のようなものか)(1) (脱「言語」宣言)(1) 勝手にリンク集(1) (古田武彦)(1) 転載(1) (プログラミング言語・なでしこ)(1) (誤読「言語の法典を利用するさいの結合」)(1) (「言語」の介在しない概念)(1) (言語音・言語音像・音韻についての覚書)(1) (貨幣の使用価値)(1) (古田武彦の仮説)(1) (ラングの特殊性とパロールの普遍性)(1) (個別概念を運用する手がかりとしての語音像)(1) (ソシュール言語学には個別概念が存在している?)(1) (言語規範)(1) (認識・意識が言語にとらわれるということの意味)(1) (鏡像における左右反転)(1) (個別概念が介在する表現⇒受容過程)(1) 対象認知(1)
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▼ 2008/03/25 ノートパソコンの発熱・冷却(4)――ケースファン 2008年
▼ 2008/03/22 『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展
▼ 2008/03/20 『認識と言語の理論 I』を読む 1(6)――表象の位置づけと役割
▼ 2008/03/19 『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化
▼ 2008/03/15 『認識と言語の理論 I』を読む 1(4)――主体的立場と観察的立場
▼ 2008/03/09 『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂
▼ 2008/03/07 『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾
▼ 2008/03/03 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学
▼ 2008/03/02 ブログ・リニューアル(8)――新管理画面統合
▼ 2008/03/01 時枝誠記と三浦つとむ(2)――「三浦つとむ選集1」から
▼ 2008/02/29 時枝誠記と三浦つとむ(1)――「三浦つとむ選集1」から
▼ 2008/02/28 三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章
▼ 2008/02/27 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
▼ 2008/02/21 ブログ・リニューアル(7)――テンプレートのスリム化
▼ 2008/02/19 ブログ・リニューアル(6)――新管理画面統合は大丈夫?
▼ 2008/02/05 Windows XP のこと
▼ 2008/01/29 科学とは何か
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(7)――観念的自己分裂
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(6)――概念のまとめ
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(5)――カテゴリー・概念の階層
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(4)――表象と概念
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(3)――知覚と知覚表象
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(2)――脳の機能
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(1)――中枢神経と末梢神経
▼ 2008/01/22 「勝手にブログ評論」なるものをしてもらった
▼ 2008.01.06 メイリオ(8)――Visual C# 2008 Express Edition版のメイリオ
▼ 2008.01.03 ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
▼ 2007.12.29 小春日和?
▼ 2007.12.27 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(6)――最終(改)
▼ 2007.12.26 メイリオ(7)――メイリオのディセンダを変える(改)
▼ 2007.11.21 「自薦他薦・勝手にリンク集」を設置しました
▼ 2007.11.18 ブログ・リニューアル(5)――気分を変えて
▼ 2007.11.17 客体的表現と主体的表現(4)――「ある」という関係意識
▼ 2007.11.16 客体的表現と主体的表現(3)――言語の過程的構造
▼ 2007.11.13 客体的表現と主体的表現(2)――日本語の特殊性と普遍性
▼ 2007.10.30 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量
▼ 2007.10.28 割り算から見た量(1)――内包量と外延量
▼ 2007.10.19 ブログ・リニューアル(4)――記事の表示順を変更しました
▼ 2007.10.18 存在と対象(4)――対象的なものは存在する
▼ 2007.10.17 存在と対象(3)――非存在という概念
▼ 2007.10.07 存在と対象(2)――現象するものは存在する
▼ 2007.10.07 概念は「言語」に先立つ(5)
▼ 2007.10.07 0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象
▼ 2007.10.06 ブログ・リニューアル(3)――元のテンプレートに戻します
▼ 2007.10.04 ノートパソコンの発熱(3)――ケースファン・その後
▼ 2007.10.03 思い出の曲ノート:YouTubeほか
▼ 2007.10.02 0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成
▼ 2007.10.01 Gom Player の映像が真っ暗――Styler との相性
▼ 2007.09.29 ブログ・リニューアル(2)――本文のフォントサイズを変更
▼ 2007.09.28 ブログ・リニューアル(1)――ようやく一段落
▼ 2007.09.27 「イラク・パレスチナ・チェチェンリンク」
▼ 2007.09.15 いつの間に……
▼ 2007.09.05 GOM Player 2.1.6.3499――多形式対応の動画プレイヤー
▼ 2007.09.03 DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
▼ 2007.08.23 ノートパソコンの発熱(2)――ケースファンで冷却
▼ 2007.08.17 ノートパソコンの発熱(1)――USB扇風機で冷却
▼ 2007.05.04 WinAmp の旧バージョン
▼ 2007.04.29 Bフレッツに四苦八苦中
▼ 2007.04.15 ホームページ変更のお知らせ
▼ 2007.03.28 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)
▼ 2007.03.27 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
▼ 2007.03.22 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)
▼ 2007.03.17 軌道修正
▼ 2007.03.12 コマンドプロンプトで使用するフォント
▼ 2007.03.06 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終
▼ 2007.02.28 メイリオのディセンダを変える
▼ 2007.02.19 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外
▼ 2007.02.17 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(3)
▼ 2007.02.13 WinAmp の表示をメイリオ系にする
▼ 2007.02.09 JIS2004対応 MSゴシック・MS明朝
▼ 2007.01.30 Styler 1.401(2)――手軽で便利な Styler
▼ 2007.01.28 シニフィエについて
▼ 2007.01.23 STC fontBROWSER
▼ 2007.01.20 Styler 1.401(1)――パッチ当て不要のスキンチェンジャー
▼ 2007.01.16 MeiryoKe_Console について
▼ 2007.01.14 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(2)――補足
▼ 2007.01.13 南半球における月の満ち欠け
▼ 2007.01.12 邪馬「臺(台)」国
▼ 2006.12.31 ClearType Tuner(2)――コントラスト調整
▼ 2006.12.23 言語と内言――言語の意味
▼ 2006.12.21 ClearType Tuner(1)――にじみ調整
▼ 2006.12.19 “langue” と “langage”
▼ 2006.12.17 ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」
▼ 2006.12.15 ソシュール「言語学」とは何か(8)――まとめ
▼ 2006.12.12 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5)
▼ 2006.12.10 三浦つとむ「漢字と振り仮名」
▼ 2006.12.10 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(4)
▼ 2006.12.09 [クイック起動] はランチャー化できる
▼ 2006.12.09 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(3)
▼ 2006.12.08 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(2)
▼ 2006.12.08 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)
▼ 2006.12.02 Rapture 1.3.0
▼ 2006.11.30 メイリオ(4)――メイリオ系フォントについて(2)
▼ 2006.11.28 ソシュール「言語学」とは何か(7)
▼ 2006.11.27 メイリオ(3)――メイリオ系フォントについて(1)
▼ 2006.11.25 ちょっとボヤいてみる
▼ 2006.11.24 ソシュール「言語学」とは何か(6)
▼ 2006.11.23 ソシュール「言語学」とは何か(5)
▼ 2006.11.22 ソシュール「言語学」とは何か(4)
▼ 2006.11.21 ソシュール「言語学」とは何か(3)
▼ 2006.11.20 ソシュール「言語学」とは何か(2)
▼ 2006.11.16 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)
▼ 2006.11.13 Firefox 1.50.8
▼ 2006.11.13 メイリオ(2)――WindowsXP とメイリオ系フォント(補足)
▼ 2006.11.11 メイリオ(1)――WindowsXP とメイリオ系フォント
▼ 2006.11.10 ソシュール「言語学」とは何か(1)
▼ 2006.11.06 ことばとは何か(2)――時枝誠記の言語観
▼ 2006.11.04 前田英樹訳『ソシュール講義録注解』
▼ 2006.11.01 FC2ブログ、登録100万サイトを突破
▼ 2006.10.31 とりとめのないこと
▼ 2006.10.31 ことばとは何か(1)
▼ 2006.10.23 ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言
▼ 2006.10.18 ラングの特殊性とパロールの普遍性――個別概念
▼ 2006.10.17 古田武彦の仮説
▼ 2006.10.17 『一般言語学第三回講義』を読んでいる
▼ 2006.10.15 ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 2006.10.05 意味・意義・価値(3)――ソシュールの「価値」
▼ 2006.10.01 意味・意義・価値(2)――表現・受容過程と販売・購買過程とのアナロジー
▼ 2006.09.30 貨幣の使用価値
▼ 2006.09.29 意味・意義・価値(1)――ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」
▼ 2006.09.26 言語音・言語音像・音韻についての覚書
▼ 2006.09.24 個別概念を運用する手がかりとしての語音像
▼ 2006.09.19 概念(5)――人間の思考・認識は個別概念を介して行われる
▼ 2006.09.14 〈対象→認識(意識)→表現〉過程における認識の発展
▼ 2006.09.13 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(3)
▼ 2006.09.12 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)
▼ 2006.09.11 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)
▼ 2006.09.09 ソシュール言語学には個別概念が存在している?
▼ 2006.09.08 個別概念が介在する表現⇒受容過程
▼ 2006.09.07 概念(4)――概念というものの性格
▼ 2006.09.06 概念は「言語」に先立つ(4)
▼ 2006.09.03 ソシュール用語の再規定(3)――暫定
▼ 2006.09.02 ソシュール用語の再規定(2)
▼ 2006.08.29 ソシュール用語の再規定(1)
▼ 2006.08.28 概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)
▼ 2006.08.28 概念は「言語」に先立つ(3)
▼ 2006.08.24 概念は「言語」に先立つ(2)
▼ 2006.08.23 鏡像における左右反転という現象について
▼ 2006.08.19 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ
▼ 2006.08.18 概念は「言語」に先立つ(1)
▼ 2006.08.18 認識・意識が言語にとらわれるということの意味
▼ 2006.08.17 客体的表現と主体的表現(1)――三浦つとむの認識論・言語論
▼ 2006.08.17 言語規範――規範と規範意識
▼ 2006.08.14 カテゴリー別全記事インデックス
▼ 2006.08.11 対象意識(5)――意識・認識の発展
▼ 2006.08.10 対象意識(4)――他者意識・自己意識
▼ 2006.08.05 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂
▼ 2006.08.01 対象意識(2)――自己意識の契機
▼ 2006.07.31 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識
▼ 2006.07.28 概念(2)――概念の獲得
▼ 2006.07.28 配色を変更しました
▼ 2006.07.27 概念(1)――人間の認識は徹頭徹尾概念的である
▼ 2006.07.26 「言語」の介在しない概念
▼ 2006.07.25 誤読「言語の法典を利用するさいの結合」
▼ 2006.07.23 言語学の対象と言語過程説
▼ 2006.07.23 脱「言語」宣言
▼ 2006.07.21 温度はたし算・引き算できないか(2)
▼ 2006.07.20 ブラインド・タッチと OEA配列
▼ 2006.07.20 Google検索の電卓機能と温度計算
▼ 2006.07.19 温度はたし算・引き算できないか(1)
▼ 2006.07.18 日本語のプログラミング言語「なでしこ」
▼ 2006.07.16 ソシュールの「言語」(3)
▼ 2006.07.15 「言語」・「ことば」の語義
▼ 2006.07.13 誤読でした
▼ 2006.07.12 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 2006.07.10 ソシュールの「言語」(2)
▼ 2006.07.09 北朝鮮・ミサイル試射実験
▼ 2006.07.09 ソシュールの「言語」(1)
▼ 2006.07.08 〔弁・抜〕先天主義
▼ 2006.07.08 ちょっと反省/イデオロギー
▼ 2006.07.07 認識・思考における概念(観念)について
▼ 2006.07.07 幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)
▼ 2006.07.06 「言語」なしの思考(2)
▼ 2006.07.05 「言語」なしの思考(1)
▼ 2006.07.04 物自体(4)――弁証法的なとらえ方
▼ 2006.07.04 〔弁・抜〕人は多かれ少なかれ「観念論者」である
▼ 2006.07.04 物自体(3)――物自体――『フォイエルバッハ論』から〔弁・抜〕
▼ 2006.07.04 物自体(2)――ディーツゲンの「事物自体」批判〔弁・抜〕
▼ 2006.07.03 物自体(1)――「物自体」は非存在である
▼ 2006.06.30 存在と対象(1)
▼ 2006.06.30 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ
▼ 2006.06.29 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して
▼ 2006.06.29 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂
▼ 2006.06.29 『ことば雑記』からの転載
▼ 2006.06.28 古田武彦
▼ 2006.06.28 再開します
▼ 2006.02.12 更新は中断しています。
▼ 2005.02.03 自己の二重化(6)――鏡としての表現
▼ 2005.01.31 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
▼ 2005.01.25 自己の二重化(4)――認識の発展
▼ 2005.01.25 自己の二重化(3)――観念的自己分裂
▼ 2005.01.25 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂
▼ 2005.01.24 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂
〔2008.03.25更新〕
▼ 言語>言語本質論
(0000.00.00) 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2) (まとめて読む)
(2008.03.01) 時枝誠記と三浦つとむ(2)――「三浦つとむ選集1」から
(2008.02.29) 時枝誠記と三浦つとむ(1)――「三浦つとむ選集1」から
(2008.02.28) 三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章
(2008.02.27) 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
(0000.00.00) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.12.12) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5)
(2006.12.10) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(4)
(2006.12.09) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(3)
(2006.12.08) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(2)
(2006.12.08) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)
(0000.00.00) ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8) (まとめて読む)
(2006.12.15) ソシュール「言語学」とは何か(8)――まとめ
(2006.11.27) ソシュール「言語学」とは何か(7)
(2006.11.24) ソシュール「言語学」とは何か(6)
(2006.11.23) ソシュール「言語学」とは何か(5)
(2006.11.22) ソシュール「言語学」とは何か(4)
(2006.11.21) ソシュール「言語学」とは何か(3)
(2006.11.20) ソシュール「言語学」とは何か(2)
(2006.11.10) ソシュール「言語学」とは何か(1)
(2006.10.18) ラングの特殊性とパロールの普遍性――個別概念
(2006.08.18) 認識・意識が言語にとらわれるということの意味
(0000.00.00) ことばとは何か(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.11.06) ことばとは何か(3)――時枝誠記の言語観
(2006.10.31) ことばとは何か(2)――言語と「言語langue」
(2006.07.23) ことばとは何か(1)――言語学の対象と言語過程説
(2006.07.15) 「言語」・「ことば」の語義
▼ 言語>言語規範
(2006.12.19) “langue” と “langage”
(2006.09.24) 個別概念を運用する手がかりとしての語音像
(0000.00.00) ソシュール用語の再規定(1)〜(4) (まとめて読む)
(2006.10.23) ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言
(2006.09.03) ソシュール用語の再規定(3)――暫定
(2006.09.02) ソシュール用語の再規定(2)
(2006.08.29) ソシュール用語の再規定(1)
(2006.08.17) 言語規範――規範と規範意識
(2006.07.25) 誤読「言語の法典を利用するさいの結合」
(0000.00.00) ソシュールの「言語(1)〜(4) (まとめて読む)
(2006.12.17) ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」
(2006.07.16) ソシュールの「言語」(3)
(2006.07.10) ソシュールの「言語」(2)
(2006.07.09) ソシュールの「言語」(1)
(2006.07.07) 認識・思考における概念(観念)について
(2006.07.07) 幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)
(0000.00.00) 「言語」なしの思考(1)(2) (まとめて読む)
(2006.07.06) 「言語」なしの思考(2)
(2006.07.05) 「言語」なしの思考(1)
▼ 言語>意味
(0000.00.00) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3) (まとめて読む)
(2007.03.28) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)
(2007.03.27) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
(2007.03.22) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)
(2006.12.23) 言語と内言――言語の意味
(2006.09.30) 貨幣の使用価値
(0000.00.00) 意味・意義・価値(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.10.05) 意味・意義・価値(3)――ソシュールの「価値」
(2006.10.01) 意味・意義・価値(2)――表現・受容過程と販売・購買過程とのアナロジー
(2006.09.29) 意味・意義・価値(1)――ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」
(2006.09.14) 〈対象→意識→表現〉過程における認識の発展
(2006.09.09) ソシュール言語学には個別概念が存在している?
(2006.09.08) 個別概念が介在する表現⇒受容過程
(2006.07.12) 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 言語>文法
(0000.00.00) 客体的表現と主体的表現(1)〜(4) (まとめて読む)
(2007.11.17) 客体的表現と主体的表現(4)――「ある」という関係意識
(2007.11.16) 客体的表現と主体的表現(3)――言語の過程的構造
(2007.11.13) 客体的表現と主体的表現(2)――日本語の特殊性と普遍性
(2006.08.17) 客体的表現と主体的表現(1)――三浦つとむの認識論・言語論
▼ 言語>音韻
(2006.09.26) 言語音・言語音像・音韻についての覚書
▼ 言語>雑文
(2008.01.22) 「勝手にブログ評論」なるものをしてもらった
(2006.11.25) ちょっとボヤいてみる
(2006.11.04) 前田英樹訳『ソシュール講義録注解』
(2006.10.17) ソシュール『一般言語学第三回講義』を読んでいる
(2006.10.15) ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 意識・認識>認識論
(0000.00.00) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.03.22) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展
(2008.03.20) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(6)――表象の位置づけと役割
(2008.03.19) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化
(2008.03.15) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(4)――主体的立場と観察的立場
(2008.03.09) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂
(2008.03.07) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾
(2008.03.03) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学
▼ 意識・認識>観念的自己分裂
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(7)――観念的自己分裂
(0000.00.00) 対象意識(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.08.11) 対象意識(5)――意識・認識の発展
(2006.08.10) 対象意識(4)――他者意識・自己意識
(2006.08.05) 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂
(2006.08.01) 対象意識(2)――自己意識の契機
(2006.07.31) 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識
(0000.00.00) 二つの主観(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.06.30) 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ
(2006.06.29) 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して
(2006.06.29) 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂
(0000.00.00) 自己の二重化(1)〜(7) (まとめて読む)
(2006.08.19) 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ
(2005.02.03) 自己の二重化(6)――鏡としての表現
(2005.01.31) 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
(2005.01.25) 自己の二重化(4)――認識の発展
(2005.01.25) 自己の二重化(3)――観念的自己分裂
(2005.01.25) 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂
(2005.01.24) 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂
▼ 意識・認識>概念・表象
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(6)――概念のまとめ
(2008.01.24) 認識(5)――カテゴリー・概念の階層
(2008.01.24) 認識(4)――表象と概念
(0000.00.00) 0の概念・マイナスの概念(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.07) 0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象
(2007.10.02) 0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成
(2007.01.28) シニフィエについて
(0000.00.00) 概念は「言語」に先立つ(1)〜(5) (まとめて読む)
(2007.10.07) 概念は「言語」に先立つ(5)
(2006.09.06) 概念は「言語」に先立つ(4)
(2006.08.28) 概念は「言語」に先立つ(3)
(2006.08.24) 概念は「言語」に先立つ(2)
(2006.08.18) 概念は「言語」に先立つ(1)
(0000.00.00) 概念(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.09.19) 概念(5)――人間の思考・認識は個別概念を介して行われる
(2006.09.07) 概念(4)――概念というものの性格
(2006.08.28) 概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)
(2006.07.28) 概念(2)――概念の獲得
(2006.07.27) 概念(1)――人間の認識は徹頭徹尾概念的である
(2006.07.26) 「言語」の介在しない概念
▼ 意識・認識>神経系
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(3)――知覚と知覚表象
(2008.01.24) 認識(2)――脳の機能
(2008.01.24) 認識(1)――中枢神経と末梢神経
▼ 弁証法>未分類
(2006.07.04) 弁証法的なとらえ方
(2006.07.03) 「物自体」は非存在である
(0000.00.00) 存在と対象(1)〜(4) (まとめて読む)
(2007.10.18) 存在と対象(4)――対象的なものは存在する
(2007.10.17) 存在と対象(3)――非存在という概念
(2007.10.15) 存在と対象(2)――現象するものは存在する
(2006.06.30) 存在と対象(1)
▼ 弁証法>抜き書き
(2006.07.08) 〔弁・抜〕先天主義
(2006.07.04) 〔弁・抜〕人は多かれ少なかれ「観念論者」である
(2006.07.04) 〔弁・抜〕物自体――『フォイエルバッハ論』から
(2006.07.04) 〔弁・抜〕ディーツゲンの「事物自体」批判
▼ 教育・知識>数学・自然科学
(2008.01.29) 科学とは何か
(0000.00.00) 割り算から見た量(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.30) 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量
(2007.10.28) 割り算から見た量(1)――内包量と外延量
(2007.01.13) 南半球における月の満ち欠け
(0000.00.00) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.09.13) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(3)
(2006.09.12) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)
(2006.09.11) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)
(2006.08.23) 鏡像における左右反転という現象について
(0000.00.00) 温度はたし算・引き算できないか(1)(2) (まとめて読む)
(2006.07.21) 温度はたし算・引き算できないか(2)
(2006.07.19) 温度はたし算・引き算できないか(1)
▼ 教育・知識>古代史
(2007.01.12) 邪馬「臺(台)」国
(2006.10.17) 古田武彦の仮説
(2006.06.28) 古田武彦
▼ 実用・遊び>コンピュータ
(2008.02.05) Windows XP のこと
(2008.01.03) ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
(0000.00.00) Gom Player(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.01) Gom Player(2)――映像が真っ暗・Styler との相性
(2007.09.05) GOM Player(1)――多形式対応の動画プレイヤー
(2007.09.03) DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
(0000.00.00) ノートパソコンの発熱・冷却(1)〜(4) (まとめて読む)
(2008.03.25) ノートパソコンの発熱・冷却(4)――ケースファン 2008年
(2007.10.23) ノートパソコンの発熱・冷却(3)――ケースファン・その後
(2007.08.23) ノートパソコンの発熱・冷却(2)――ケースファンで冷却
(2007.08.17) ノートパソコンの発熱・冷却(1)――USB扇風機で冷却
(2007.05.04) WinAmp の旧バージョン
(2007.04.29) Bフレッツに四苦八苦中
(2007.03.12) コマンドプロンプトで使用するフォント
(2007.02.13) WinAmp の表示をメイリオ系にする
(2007.02.09) JIS2004対応 MSゴシック・MS明朝
(2007.01.23) STC fontBROWSER
(0000.00.00) Styler 1.401(1)(2) (まとめて読む)
(2007.01.30) Styler 1.401(2)――手軽で便利な Styler
(2007.01.20) Styler 1.401(1)――パッチ当て不要のスキンチェンジャー
(0000.00.00) ClearType Tuner(1)(2) (まとめて読む)
(2006.12.31) ClearType Tuner(2)――コントラスト調整
(2006.12.21) ClearType Tuner(1)――にじみ調整
(2006.12.09) [クイック起動] はランチャー化できる
(2006.12.02) Rapture 1.3.0
(0000.00.00) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)〜(6) (まとめて読む)
(2007.12.27) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(6)――最終(改)
(2007.03.06) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終
(2007.02.19) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外
(2007.02.17) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(3)
(2007.01.14) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(2)――補足
(2006.11.16) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)
(0000.00.00) メイリオ(1)〜(8) (まとめて読む)
(2008.01.06) メイリオ(8)――Visual C# 2008 Express Edition版のメイリオ
(2007.12.26) メイリオ(7)――メイリオのディセンダを変える(改)
(2007.02.28) メイリオ(6)――メイリオのディセンダを変える
(2007.01.16) メイリオ(5)――メイリオ系フォント MeiryoKe_Console
(2006.11.30) メイリオ(4)――メイリオ系フォントについて(2)
(2006.11.27) メイリオ(3)――メイリオ系フォントについて(1)
(2006.11.13) メイリオ(2)――WindowsXP とメイリオ系フォント(補足)
(2006.11.10) メイリオ(1)――WindowsXP とメイリオ系フォント(1)
(2006.11.13) Firefox 1.50.8
(2006.07.20) ブラインド・タッチと OEA配列
(2006.07.20) Google検索の電卓機能と温度計算
(2006.07.18) 日本語のプログラミング言語「なでしこ」
▼ 実用・遊び>FC2ブログ
(0000.00.00) ブログ・リニューアル(1)〜(8) (まとめて読む)
(2008.03.02) ブログ・リニューアル(8)――新管理画面統合
(2008.02.21) ブログ・リニューアル(7)――テンプレートのスリム化
(2008.02.19) ブログ・リニューアル(6)――新管理画面統合は大丈夫?
(2007.12.18) ブログ・リニューアル(5)――気分を変えて
(2007.10.19) ブログ・リニューアル(4)――記事の表示順を変更しました
(2007.10.06) ブログ・リニューアル(3)――元のテンプレートに戻します
(2007.09.29) ブログ・リニューアル(2)――記事本文のフォントサイズを変更
(2007.09.28) ブログ・リニューアル(1)――ようやく一段落
(2007.09.15) いつの間に……
(2006.11.01) FC2ブログ、登録100万サイトを突破
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(2006.07.09) 北朝鮮・ミサイル試射実験
▼ 雑感>徒然
(2007.12.29) 小春日和?
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(2006.10.31) とりとめのないこと
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(2006.07.23) 脱「言語」宣言
▼ お知らせ>運営
(2007.12.21) 「自薦他薦・勝手にリンク集」を設置しました
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(2006.07.28) 配色を変更しました
(2006.06.28) 再開します(ブログ再開の告知)
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▼ その他>音楽
(2007.10.03) 思い出の曲ノート――YouTubeほか
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▼ メイリオ(1)〜(9)
▼ ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
▼ Styler 1.401(1)(2)
▼ ClearType Tuner(1)(2)
▼ WinAmp の旧バージョン
▼ ノートパソコンの発熱・冷却(1)〜(4)
▼ マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)〜(3)
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▼ コマンドプロンプトで使用するフォント
▼ Gom Player(1)(2)
▼ 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)
▼ 言語と内言――言語の意味
▼ 自己の二重化(1)〜(7)
▼ 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)〜(7)
▼ 認識についての覚書(1)〜(7)
▼ ブラインド・タッチと OEA配列
▼ WinAmp の表示をメイリオ系にする
▼ 割り算から見た量(1)(2)
▼ 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5)
▼ 貨幣の使用価値
▼ 南半球における月の満ち欠け
▼ 対象意識(1)〜(5)
▼ ことばとは何か(1)〜(3)
▼ ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8)
▼ 0の概念・マイナスの概念(1)(2)
▼ ソシュール用語の再規定(1)〜(4)
▼ ブログ・リニューアル(1)〜(8)
▼ Windows XP のこと
▼ 「言語」なしの思考(1)(2)
▼ 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 鏡像における左右反転という現象について
▼ 存在と対象(1)〜(4)
▼ 概念は「言語」に先立つ(1)〜(5)1944
▼ 意味・意義・価値(1)〜(3)
▼ 温度はたし算・引き算できないか(1)(2)
▼ Google検索の電卓機能と温度計算
▼ 客体的表現と主体的表現(1)〜(4)
▼ 三浦つとむ「漢字と振り仮名」
▼ 概念(1)〜(5)
▼ ソシュールの「言語」(1)〜(4)
▼ 科学とは何か
▼ 物自体(1)〜(4)
▼ 古田武彦
▼ 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2)
▼ ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 思い出の曲ノート:YouTube動画ほか
▼ “langue” と “langage”
▼ 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
▼ 言語規範――規範と規範意識
▼ 二つの主観(1)〜(3)
◆ 予算委――厳しい質問もあったが非常に意味ある議論だった (09年11月06日『提供:岡田かつや』)(★@「livedoor ニュース - BLOGOS」)
◆ 櫻井よしこ女史の「架空対談」のデッチアゲについて。 (09年10月29日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 日本の「保守」は社会主義 (09年10月17日@『田中良紹の「国会探検」』)
◆ マスメディアの歪んだ情報操作に警戒が必要 (09年10月16日@『植草一秀の『知られざる真実』』)
◆ 今日の話題:社会主義におびえるウヨさん (09年10月5日@『自由のための「不定期便」』)
◆ 八ツ場ダムの7不思議 (09年09月26日@『ダム日記2』by まさのあつこ)
◆ 新聞が書かない民主党の「公約破り」 (09年09月16日@『山口一臣の「ダメだめ編集長日記」』)(★参考「民主党 記者クラブ開放の公約を反故に 神保哲生 x 上杉隆」@YouTube)
◆ 自民党が撒いた「怪文書」に見る自民党の質的劣化 (09年09月15日@『SAFETY JAPAN | 日経BP社』)(★参考「自民党政策パンフレット」)
◆ 「貸し剥がし倒産」の危機 議席激減の自民党、借金60億円返せるか (09年09月14日@『AERA』2009年9月21日号)
◆ 小沢スキャンダル報道で、日本のメディアは権力の言いなり(NYタイムズ全文和訳) (09年05月31日@『カナダde日本語』)
◆ 2008年版序章 ー海に沈むより先にー (08年02月17日@『天国に一番近い島ツバルにて』)
◆ 書評『靖国問題』高橋哲哉 (05年05月09日@『アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動』)
◆ 『きっこのブログ』「人の痛みが分からない人たち」を読んで (08年04月28日@『カナダde日本語』)
◆ 准教授の個人blogの記述に勤務先大学学長が謝罪 (08年04月26日@『Matimulog』)
◆ 一部ではもはや本質とは関係なくなった「水伝」 (08年04月26日@『事象の地平線』)
◆ 『沖縄ノート』裁判にみられる「保守論壇」の目もあてられない劣化。 (08年04月27日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 小林よしのりは『沖縄ノート』を読んでいない。 (08年04月25日@『毒蛇山荘日記』)
◆ カケラほどの同意も同情もできないが (08年04月25日@『事象の地平線』)
◆ 政府の仕事、民間の仕事 (08年04月20日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 主権在米:MPは日本国の警察より上位 (08年04月17日@『なごなぐ雑記』)
◆ 「ニュース23」は偉い! (08年04月14日@『鈴木邦男をぶっとばせ!』)
◆ 逃げたマンガ右翼に未練はないが……(笑)。小林よしのりは、何故、逃げたのか? (08年04月11日@『毒蛇山荘日記』)
◆ inumash氏へ、「観客席なんかありません」 (08年04月04日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ シニシズムの放棄について (08年04月01日@『Dead Letter Blog』)
◆ 排外主義者、あるいは日曜サヨク(1)〜(4) (08年03月26日〜@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 暫定税率は、“夢か現か幻か”(その1)。, (その2) (08年04月05,06日@『永田町徒然草』)
◆ 宮平秀幸出演ビデオの証言……新証言の「嘘」を暴露する。 (08年04月05日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 小林よしのりよ、お前もか……。逃げ足の早い「マンガ右翼」よ。 (08年04月04日@『毒蛇山荘日記』)
◆ いささかの感慨ある3月31日 (08年03月31日@『永田町徒然草』)
◆ 「民間であれば破綻」? (08年03月29日@『Dead Letter Blog』)
◆ 赤木さんと話したいみたいね。 (08年02月20日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 現場にいなかった新証言者……宮平秀幸が本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」と比較せよ。 (08年03月10日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 吉清さんに言い放った福田康夫の「ああそう」 (08年03月03日@『反戦な家づくり』)
◆ トムグラム『チャルマーズ・ジョンソン、帝国の治外法権を語る』より (04年1月11日@『TUP-Bulletin』) ⇒ TUP-Bulletin が読めない方は『ボログ・ホンマ・タイムス』内に転載されたもの(ザ・レイプ・オブ・オキナワ)をご覧下さい。
◆ レイプと欲望の否定 (08年02月08日@『FemTumYum』)
◆ 憲法を権力者に守らせることが立憲主義の考え方です。 (08年02月05日@『お玉おばさんでもわかる 政治のお話』)
◆ わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由 (08年01月29日@『macska dot org』)
◆ 保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議 (08年01月25日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 語るに落ちた自民党 (08年01月24日@『きっこの日記』)
◆ 戸田ひさよし市議の鮮烈なる橋下批判 (08年01月20日@『反戦な家づくり』)
◆ (宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて (08年01月17日@『新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜』)
◆ 2月10日岩国市長選挙 (08年01月05日@『反戦な家づくり』)
◆ マガジン9条年末年始合併号特別対談「憲法改正、私はこう考える」伊藤真さん×小林節さん (@『マガジン9条』)
◆ 「魔苦怒」は聖域なのか? (07年12月27日@『喜八ログ』)
◆ NHKスペシャル「ワーキングプアIII 解決への道」の感想 (07年12月17日@『紙屋研究所』)
◆ 恐怖の毒毒モンスター (07年11月27日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 『フリーター漂流』 あるいは エンゲルスのこと (06年05月12日@『試稿錯誤』)
◆ 自明な「正しさ」を疑うことの意味 (07年12月01日@『遠方からの手紙』)
◆ 曽野綾子の「沖縄差別発言」を総括する。 (07年12月02日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 新テロ対策特別措置法に反対 (07年11月25日@『壊れる前に…』)
◆ 曽野綾子と宮城晴美の同一性と差異性 (07年11月24日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 岩国の怒り (07年11月17日@『反戦な家づくり』 ●関連「国の仕打ちに怒りの1万人集会 in 錦帯橋」)
◆ ねじれ国会について (07年11月10日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 読売販売店の店主らが「押し紙」排除に成功 (07年11月09日@『MyNewsJapan』)
◆ 創価学会を恐れる政治家たち!? (07年11月12日@『永田町徒然草』)
◆ 敵の本質を見誤るな! (07年11月06日@『永田町徒然草』)
◆ 対テロ戦争の正当性!? (07年11月01日@『永田町徒然草』)
◆ 片仮名語の悲惨 (@『翻訳通信』 2003年5月号)
◆ デル、6月30日以降もWindows XPの販売を継続 (08年04月25日@『@Computerworld.jph』)
◆ MS、「顧客が望めば」Windows XP延命の可能性 (08年04月25日@『@ITmedia News』)
◆ 編集者さん、ちゃんと仕事してあげてね。 (08年04月15日@『*minx* [macska dot org in exile]』)
◆ マイクロソフト、Windows XPのOEM販売期限を2010年以降まで延長 (08年04月04日@『@Computerworld.jph』)
◆ 筑紫朝廷と近畿大王 (93年01月15日@『新・古代学の扉』)
◆ IFRAME を探せ (08年04月02日@『Fcafe』) ●関連記事 FC2ブログのテンプレート改ざん事件〜IFRAMEタグとJavaScript (08年03月31日@『David the smart ass』)
◆ ダーウィン展に行ってきました。 (08年04月04日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 水を理解するために (@『冨永研究室びじたー案内』)
◆ 聖徳太子は実在しなかった!? (08年02月12日@『永田町徒然草』)
◆ さらばゆとり教育で去っていくもの (08年01月18日@『今日行く審議会@はてな』)
◆ MSN産経:【竹内薫の科学・時事放談】疑似科学 (08年01月26日@『事象の地平線』)
◆ XP販売終了に“待った”、米国で署名運動 (08年01月15日@『@IT』)
◆ もっと簡単な話なのだが (08年01月11日@『事象の地平線』)
◆ 反科学・反理性と科学教育 (北村正直 『数学のいずみ』)
◆ 「水からの伝言」関連リンク集-選定版 (No.4560 『7635番水路』)
◆ Visual Studio 2008 Express Edition 無償ダウンロード提供開始
◆ MSのクリスマス・プレゼント?,XPでも「メイリオ」が正式に利用可能に (07年12月25日@『ITpro』)
◆ 思考と言語の関係 (07年10月29日@『人間とウェブの未来』)
◆ 視覚と言語。 (07年07月15日@『はざまの庵』)
◆ ロバート・パリー『オバマを攻撃する理由』 (04年4月2日@『TUP-Bulletin』) ⇒ TUP-Bulletin が読めない方は『薔薇、または陽だまりの猫』に転載されたものがあります。
◆ イラク人女性たちは米軍の占領にもイスラム主義者の暴力にも反対する(イファト・サスキンド) (Falluja, April 2004 - the book)
◆ 5年、そして継続中(ダール・ジャマイル) (Falluja, April 2004 - the book)
◆ マイク・グラベル:インタビューで親日ぶりをアピール (暗いニュースリンク)
◆ 黒人保守論客シェルビー・スティールが語る「それでもオバマが勝てない理由」 (08年02月21日@『macska dot org』)
◆ マイケル・ムーアがエドワーズ候補を推薦? (暗いニュースリンク)
◆ 選挙不正大国アメリカ (暗いニュースリンク)
◆ イラク・パレスチナ・チェチェンリンク (ことば、認識と表現のページ)
◆ ホワイトハウスの演出作戦、その舞台裏 (ル・モンド・ディプロマティーク 日本語・電子版)
◆ イラク駐留米軍:狙撃兵の従軍拒否宣言 (暗いニュースリンク)
◆ "Maverick"と呼ばれた男:マイク・グラベル猛語録(2) (暗いニュースリンク)
◆ CNN・YouTubeディベート:バラク・オバマの欺瞞 (暗いニュースリンク)
◆ Stop and Think:マイク・グラベル猛語録(1) (暗いニュースリンク)
◆ 異色のド根性大統領候補:マイク・グラベル (暗いニュースリンク)
◆ おまけ:カート・ヴォネガットのラスト・インタビュー (暗いニュースリンク)
◆ 国の助成金カット問題で辞職表明した岩国市長が支援要請 その1 その2 (07年12月27日)
◆ テロ特措法:アフガンではなくほとんどがイラク攻撃支援 (2007/08/31 朝まで生テレビ)
◆ 検証 自衛隊"給油"の真実 イラク戦争「転用」の記録 (2007/9/20 報道ステーション)
◆ 日米が国連で働きかけ "給油"に「感謝」のウラ (同上)
◆ 消えた年金 Part1, Part2, Part3, Part4, Part5 (2007/5/23 衆院予算委員会・長妻昭議員)
◆ 消えた年金 国民の不安をあおっているのは誰なのか? (2007/5/31 衆院厚生労働委員会)
◆ 消えた年金 "一年以内の記録照合作業の完了"は嘘っぱち 1, 2 (愛川欽也 パックインジャーナル)
◆ 消えた年金 党首討論で"一年以内の記録照合作業の完了"を確約する安倍首相
◆ 消えた年金 今年の2月に承知しながら手を打たなかった政府 (2007/6/11 参院決算委員会)
◆ 消えた年金 本当は『突合』だけど『統合』と… (安倍首相) (2007/6/19 参院文教科学委員会)
◆ 消えた年金 名寄せ「1年で完了」の真相 オンライン上の記録だけ? (報道ステーション)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 片山さつき (2007/6/3 報道2001)
◆ 消えた年金 上↑の続き 長妻昭 vs 片山さつき-4 (同上)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 大村秀章 (2007/6/17 サンデープロジェクト)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 茂木敏 (2007/7/1 日曜討論)
◆ 消えた年金 岸井成格の社保庁クーデター説を瞬殺する江田憲司
◆ 消えた年金 長妻昭、舛添厚労相にNO! 1, 2 (2007/9/9 報道2001)
◆ 森田童子 - みんな夢でありました (YouTube)
◆ Chiméne Badi(シメーヌ・バディ) - Entre nous (YouTube)
◆ YMO - Rydeen Live at Greek Theatre 1979 (YouTube)
◆ Pablo Milanés/Víctor Manuel - Yo pisaré las calles nuevamente (YouTube)
◆ America - Sister Golden Hair (YouTube)
◆ The long and winding road, Spector vs Mccartney version (YouTube)
◆ John Lennon - Just Like Starting Over (YouTube)
◆ John Lennon - Mind Games (YouTube)
◆ John Lennon - Love (YouTube)
◆ John Lennon - Oh Yoko (YouTube)
◆ John Lennon - Love (YouTube)
◆ John Lennon - Mother (YouTube)
◆ John Lennon - Imagine (YouTube)
◆ John Lennon - Stand By Me (YouTube)
◆ John Lennon - Jealous Guy (YouTube)
◆ John Lennon - Oh My Love (YouTube)
▼ 思い出の曲ノート――YouTubeほか
◆ ニール・ヤングの悲痛なメッセージ:「音楽で世界は変えられない」 (2008年02月10日@暗いニュースリンク)
◆ 年の暮れには『第九』 (2007年12月31日@『愚樵空論』)
◆ YouTube sonybmg's Videos (Music Videos List)
◆ Janis Joplin - Move Over (YouTube)
◆ John Lennon & Yoko - Happy Christmas (War Is Over) (YouTube)
◆ Mariah Carey - All I Want For Christmas Is You (YouTube)
◆ ABBA - Thank You For The Music (YouTube)
● 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(2006年8月20日以降)
● 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)
● ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。
【規範レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語韻 (ある語音から抽出された音韻)(概念形態)
・シニフィエ → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)(概念形態)
・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)
・記号の体系 → 語彙規範 (語すべてについての規範認識)
・言語 → 言語規範 (言語表現に関するすべての規範認識)
*語規範は 語概念⇔語韻 ないし 語韻⇔語概念 という形態の連合についての規範認識です。ソシュールは言語規範をこのような諸連合(「諸記号」)相互の規定関係と考えてこれを「連合関係」とも呼びます。また、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。
● 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合関係を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)
・語 : 語規範に媒介された 語音⇔個別概念 という連合を背後にもった表現。
・内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。
・言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。
・内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。
なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれとを区別するために、ソシュール派のそれは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。
また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも langue と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します。この観点から見た langue は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュール「言語学」(1)〜(4)」「ソシュール用語の再規定(1)〜(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8)」を参照。
さらに、ソシュールは内語における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。実際、語韻⇔語概念 と 語音像⇔個別概念 とは形態が異なっています(前者は概念形態、後者は表象形態)。
【内言レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)
・シニフィエ → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)
・シーニュ・記号 → 内語(表象形態)
・言語 → 内言(表象形態)
● また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音⇔個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。
【言語(形象)レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語音(個別概念と語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象)
・シニフィエ → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的に語と結びついている(この個別概念は語規範の媒介によって語と連合している)
・シーニュ・記号 → 語(表現されたもの)
・言語 → 言語(表現されたもの)
● なお、存在形態(現象形態)の違いに応じて用語の背景色を形象形態(物質的形態・現実形態)・表象形態・概念形態のようにしています。
● 語音・言語音・語音像・言語音像・語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言・内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。


