『認識と言語の理論 第三部』1(3)規範による言語の形態変換(PC版ページへ)

2019年03月10日17:33  言語>表現論

『認識と言語の理論 第三部』1(1) <文法>とは何か
『認識と言語の理論 第三部』1(2)規範の矛盾と<文法>構造
『認識と言語の理論 第三部』1(3)規範による言語の形態変換
『認識と言語の理論 第三部』1(4)言語における物神崇拝

『認識と言語の理論 第三部』1(1)~(4) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』(1972年刊)から
  言語における文法と規範 (3) 規範による言語の形態変換

〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

(2) 引用文中の太字は原著のものである。

(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。

(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.1 

 言語学は言語についての本質論を必要とするが、言語哲学を必要とするわけではない。言語も、他の諸表現と同じように、対象→認識→表現という過程的構造を持っているのだが、対象のいかんにかかわらずそれを一般的なものとして把握し、これを規範に規定された音声や文字の種類によって表現するところに、本質的な特徴がある。この本質をつかんでさらに言語の具体的なあり方をふりかえってみるところに、言語理論が展開されなければならない。

 対象の一般性をとらえた一般的な認識を、音声や文字の種類という一般的な面で表現するという点で、言語表現は対象→認識→表現の過程がそれなりの対応を持って一貫しているわけである。但し、相手の耳や目に訴えるために、表現は何としてでも感性的でなければならないし、また感性的なちがいによって語としてのちがいひいては内容のちがいを示さねばならないから、その意味で言語表現の感性的な側面が問題になるとはいえ、この側面が言語としての表現なのではない。

言語表現の感性的な側面にも、さまざまな個人差が存在しているが、それらの差は「き」と発音すべきものが「い」になったり「末」と書くべきところに「未」と書いたりして、音声や文字の種類のちがいにまで逸脱しないかぎり、言語表現には無関係である。キイキイ声であろうとドラ声であろうと、うまい字を書こうと悪筆であろうと、言語表現のちがいにはならないし、原稿用紙になぐり書きした原文を八ポイントの活字で組んで印刷し複製しても、文字の種類さえ正しく対応しているならば、文字の感性的な側面は異っても言語として正確な複製である。

そしてまた、このような感性的な形式を用いて超感性的な一般的認識を表現しなければならぬという矛盾から、特定の概念はつねに特定の種類の音声や文字に対応させて表現することを強制するところの規範が必要になり、この規範による表現の媒介という特殊な運動形態の成立によって、感性的な形式から超感性的な概念の何であるかを読みとることが可能となったわけである。言語規範は言語表現の持つ本質的な矛盾の所産である。

 言語は対象の一般性をとらえるゆえに、絵画や映画などで扱うことの不可能な対象の構造を扱うことができる。対象が具体的で感性的でありながらそれを一般性においてしか扱えないことは、映画至上主義者の論拠になって来た。今村太平の『映画論入門』(1949年)はいう。

 文字は現実の抽象で実物とは似ても似つかぬものです。「人」という字も「花」という字も、実際の人や花とは何の共通するとこともありません。それは私たちにとってただの記号にすぎないものです。私たちはこの記号の組あわせから、記号とはまったく別なイメージを思い浮べるのです。このイメージはきわめて主観的です。

 文字から具体的なイメージをつくりだすための労力が読者に要求されること、それには長い間の修練が必要なこと、これに反して映画はこのような努力と修練を必要としないことが、誇張的にとりあげられるのである。たしかに、対象が同じ実体でありながらさまざまな異った視覚的な現象を示すとき、映画はそれらを忠実に表現できるけれども、同時に対象が同じ実体でありながら目に見えず手でつかめぬさまざまな関係をむすんだり絶ったりしているとき、映画はそれらを直接にとりあげることはできない。この超感性的な対象をとらえた超感性的な認識を、言語はきわめて容易に表現することができる。

同じ実体であっても、その担っている関係が異るときには、異った語を用いて表現するように規範が規定しているのである。対象それ自体としては「女」と表現されるのだが、夫との関係でとらえれば「妻」であり、子との関係でとらえれば「母」であり、親との関係でとらえれば「娘」であり、身分との関係でとらえれば、「姫」や「妃」であり、職業との関係でとらえれば「妓(ぎ)」や「婢(ひ)」である。騎兵隊の出現は、駅馬車の乗客にとって「味方」として受けとられるが、インディアンにとっては「敵」として受けとられることになる。

同じ対象であっても、表現主体のとらえかたによって異った表現となることはいうまでもないが、対象に空想的な関係を設定したとらえかたもある。警官から見れば単なる「拾得物」も、拾い主にとってみれば「天のたまもの」と受けとられ、第三者から見れば単なる「愛人」も、当事者にとっては「神さまのおひきあわせ」と受けとられ、われわれから見れば単なる人間も、新興宗教の信者にとっては「生き神さま」と受けとられる。学生が教師につける「馬」とか「キツネ」とかいう綽名(あだな)も、学生仲間で使うための目的的な言語規範の設定によるものだが、これも現実的な対象の認識にそれと似た動物の認識を感性的に二重うつしにするという操作を経て成立したものである。

同じ対象を「虎が人を食う」ととらえることもできるが「人が虎に食われる」ととらえることもできる。さらに同じ認識でありながら、規範による表現を単純化し、その単純化がさらに規範になるという、略語も存在する。「内閣総理大臣」が「総理」に、「前田武彦」が「マエタケ」に、日本放送協会が「NHK」に、post meridiam(午後)が p.m. に、General Head QuarterG.H.Q.になるというわけである。

 言語が、対象のふくんでいる超感性的な諸関係を、その一般性においてとらえて直接に表現できるということは、換言すれば諸理論・諸科学の表現に適しているということである。言語はこのような諸概念・諸範疇の直接的な表現としての、さまざまな学術用語を規範として持っている。これらは語法としての規範であるから、同じ学術用語を「日常の用足し」に使うこともできれば「文学の言語」に使うこともできる。学術用語の存在は、機能主義者の主張するような、<日常言語>に対して<科学言語>を区別するやり方を、何ら合理化しえないのである。

さらに、超感性的な存在は他の異った性質の超感性的な存在を複合しても、やはり超感性的なことに変りはない。透明な液体である水とアルコールを重ねて注いでもやはり透明であることに変りないように、超感性的な表現に別の意味の超感性的な表現を重ねても、言語の形式には変りがない。語の種類としての一般的な面を表象の一般的な把握である概念と範疇との二重の表現に用いて、二重の意味を持たせることができるし、現象的には一重の場合と変るところがない。大衆の間に親しまれているコトワザには、一般に比喩とよばれるこの種の二重の意味を持つものがすくなくない。「サルも木から落ちる」と「カッパの川流れ」とは別でありながら同じ意味を持っている。その道の専門家も時には失敗するという教訓である。

これらの言語表現が直接対象としているのは具体的な事物のありかたであって、しかも一方は現実の動物のありかたであるのに対し他方は空想の動物のありかたである。それらの具体的な事物のありかたとしては、この二つは異った意味を持っているが、それと同時にそれらを比喩として訴えているところの二重の意味においては、この二つは抽象的な真理を訴えているのである。このように、一つの抽象的な真理をさまざまな具体的な事物のありかたを媒介として、特殊な認識構造を用いて語ることができるというのも、一つの矛盾であるといわなければならない。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.31 

 言語表現の対象として重要なものの一つは、表現主体の認識における能動的な部分である。対象すなわち客体についての受動的な認識ではなくて、判断とか意志とかあるいは欲求とか敬意とか感動とかとよばれるいわゆる主体的な創造の部分である。そしてこれらの表現には、一度観念的に対象化して客体としてから一般的にとらえる媒介的なやりかたと、対象化することなく一般的にとらえかえして直接示すやりかたと、二種類を区別することができる。

「私はあなたを尊敬しています」と表現するとき、「尊敬」は客体化してとらえたもの、「ます」は直接示したものである。客体的表現と主体的表現が分離して別の語で表現されるというのも、超感性的に対象をとらえて直接表現できる言語なればこそであって、映画に存在しない<繋辞(けいじ)>が言語に存在するのは映画と言語との表現としての本質的な差違にもとづいている。

言語で表現する場合に、語と語とを連結していくけれども、なぜ言語が語と語とを連結しなければならないかは、なぜ演劇や映画や長編漫画が場面と場面とを連結しなければならないかと、本質的に同じことである。ただ言語の場合には言語としての特殊性がこの連結にもあらわれて、連結が規範によって規定され、<文法>に従わなければならないし、他の表現では存在しない客体的表現と主体的表現との連結や主体的表現の重加などが存在するために、生つき持っている特殊な能力によって連結が行われるかのような解釈が加えられがちなのである。

現実の世界は、諸事物・諸属性・諸機能・諸関係など、それぞれの部分において相対的に独立しながらも、相互にむすびついた一つの全体を形成しているし、空想の世界を創造する場合にも意識すると否とを問わず論理的にこれと共通するものを設定しなければならない。諸認識は反映としてこれらの世界にむすびついており、判断や意志にしても受動的な認識とむすびついており、欲求も何かの事物についての欲求、敬意も何かの事物についての敬意、感動も何かの事物についての感動である以上やはりそれなりのむすびつきにおいてとりあげられるべき存在である。

表現主体が表現内容を形成するためにつくりだす認識は、これらの対象の部分の把握であって、全体のそれではない。全体に近づこうとはするが、全体をつかみ終えることはできない。対象としてむすびついているものを、頭の中で観念的に切りはなしてとりあげることができるし、またそのことが必要とされているけれども、対象と認識を正しく照応させるには、その切りはなした部分をこんどは反対にむすびつけていかなければならない。

言語では、規範に従って、実体は<名詞>、その属性は<動詞><形容詞>というように、部分的な認識を個々の語によって表現するのであるから、この表現をやはりむすびつけていかなければならないし、その連結をやはり規範によって規定しているわけである。

 表現における連結は、直接的には認識のむすびつきの必要から規定されていると同時に、媒介的には対象のむすびつきから媒介的に規定されている。それゆえ表現を追体験する者は、表現の連結にみちびかれてその追体験をむすびつけ展開していき、それを通じて表現が扱った対象の世界の客観的なむすびつき・相互関係をも把握するのである。したがって、表現形式にどんな性格のものをえらぶかは、逆に認識のしかたや対象の観念的な切りとりかたを規定してくる。

演劇や映画や漫画などでは、作者が対象を視覚的な時間・空間で切りとっていくのに対して、言語では、作者が対象を超感性的な一般性で切りとっていくから、視覚的には切りはなして扱うことのできない現象の諸部分でも切りはなして微細にとりあげることができ、また主観を直接にとりあげて客観とのむすびつきを示すことができる。どこをどうとりあげどうむすびつけていくかは、作者の自由であって、そこに作者の対象についての理解の程度もしめされることになるのだが、切りとり、ひいてはむすびつけが究極的に対象のありかたから規定されていることに変わりはない(1)

言語表現では、切りとりもむすびつけも規範によって規定されているために、この表現を理解しようとする者も、表現のときに使われた規範と同じ種類の規範を身につけて、追体験の近似性を確保しなければならないのであって、演劇や映画や漫画のように規範を必要としない表現では追体験も前もって規範を身につけずにすむ。映画表現に何ら神秘的な謎的な部分が存在しないのと同様に、言語表現にも何ら神秘的な部分は存在しないし、演劇や映画の場面づくりや編集に何ら先験的な能力を必要としないのと同様に、言語の<文法>による表現構造の形成にも何ら先験的な能力を必要としないのである。

われわれはただ言語における規範の存在とその役割を正当に理解すればよい。ところがこの規範は、俗流唯物論では理解できない存在である。そのために哲学の歴史が個人の見解においてもくりかえされて、俗流唯物論からカント主義あるいはヘーゲル主義へとふみはずしていく。

(1) <文法>には対象それ自体の構造だけでなく、それをとらえる認識の構造も参加している。そのために、俗流反映論では対象それ自体の構造と<文法>とを直接に対応させてみると、その間にくいちがいが存在する。そのために反映論をすててしまって、<文法>をカント的あるいはデカルト的に、人間が生れつき持っている能力の所産と解釈する学説にすがりつくことにもなるのである。

 

『認識と言語の理論 第三部』 p.34 

 日本語で「ネコ」と書かれたものを英語の cat に翻訳するのは、文字言語から文字言語への相互転換のありかたであるが、音声として話された講演を文字に記録して印刷にまわすとか、文字として書かれた詩を音声として朗読するとか、誰でも容易に音声言語と文字言語との相互転換を行っている。これも一種の翻訳であるが、なぜ言語だけがこのような転換をやすやすと行えるかといえば、それらの感性的な形式とは関係なしに超感性的な種類の面で表現が行われており、本質的には超感性的な表現相互の転換にほかならないからである。

「ネコ」と表現される対象が何であるかを知れば、同じ対象を一般的に把握し表現する場合の英語の規範がどうなっているかをしらべて、その規範でとらえかえして cat と翻訳すればよい。音声と文字との対応はそれぞれの民族語において規範として規定されているから、表意文字である漢字にしてもそれに対応させられている音とか訓とかに転換させて読めばよい。音声言語と文字言語とは、できうるかぎり対応させたほうが転換に便利ではあるけれども、音声文字を用いる文字言語にしても音声言語に厳密に対応しているわけではなく、night とか through とか、音声と関係ない文字をもふくんでいる。ときには、NHK のように、文字としては表音文字を使っていても、音声としてはエヌエッチケーと発音するから、音声に対応しないところの表意文字化したものも存在する。文字の性質と語としての規範による対応とは必ずしも一致するわけではなく、表音文字の使用は表意文字的表現と完全に絶縁したことを意味するものではない。

音声言語と文字言語とは、それぞれ独自の体系的な規範を持っていて、音声言語の規範に機械的に文字言語の規範が対応しているわけではないことを、同じ音声でありながら異った文字で書きわけたり、同じ文字でありながら異った読みかたをする、日本語の漢字のありかたが端的に実証している。

漢字は同音異義語の弱点をカヴァーするのであり、また漢字が日本に輸入されたとき、中国語の音声を単純化して持ちこむと同時に日本語の音声とも対応させられるという、音声と文字との結びつきの多重化をもたらすこととなった。このことの善悪は別として、現にこのような事態が生れいまなお続いているという事実を、理論的によけてとおることはできないのである。

漢字と日本語の音声とのこうした結びつき(いわゆる字訓)は、さらに多重化して、「雨」(あめ)「苔」(こけ)など一字で一語とむすびつくものだけでなく、「時雨」(しぐれ)「海苔」(のり)など二字あるいはそれ以上で一語とむすびつくものも存在する。音声言語の音節と文字言語の文字数とがくいちがっても、それは感性的なかたちの問題であって、どちらも超感性的な種類という一般的な面では共通するゆえに、両者をそれぞれ一語としてむすびつけうるのである。

 われわれが外国人の<姓名>を日本語で書く場合は、その国の音声言語の音声の種類に近似的な日本語の種類を対応させ、これをさらに表音文字に転換している。そのために、近似的な音声の種類をどう選ぶかによって文字の書き方が異ってくることになり、「Goethe」("oe"の部分は原著では"oウムラウト"――引用者)がゲーテ、ギョエテ、ゴエテなどさまざまな書かれかたをしてきた。これでは混乱するとあって、新聞やTVなどでは外国人の姓名の書きかたを統一している。これも転換のための一つの規範の設定にほかならない。

さらに言語は必要に応じて特殊な形式に転換させられることがある。点と線との組合せを種類として扱って、文字の種類と規範でむすびつけたのがモールス信号であり、紙の上にこしらえた凸起(とっき)の配置を種類として扱って、文字の種類と規範でむすびつけたのが盲人の指先で読む点字であり、手に持った旗のかたちを種類として扱って、文字の種類と規範でむすびつけたのが手旗信号である。文字の大きさや線の太さなど、その感性的なありかたが言語としての表現に無関係なように、モールス信号の音質やスピードも、点字の紙の質も、手旗信号の大きさや布の質も、それらの表現に無関係である。文字にむすびつけられたこれらの表現は、文字と同じく種類という一般的な面で行われているという点で、言語表現の本質がつらぬかれているのである。

 当事者だけが知っている、文字の形態変換のための特殊な規範によって原文の形態を変えてしまい、たとえ当事者以外の者が見てもその内容を読みとれないようにした、秘密保持のための形態変換がいわゆる暗号である。この暗号によって書かれた文は、形態変換のための特殊な規範を知っていさえすれば原文にもどせるように、はじめから計画されたものであるから、いわば原文の実存形態である。暗号文が原文にくらべてどんなに異質に見えようとも、そこには原文に存在した<文法>が媒介されて暗号文の<文法>を形成しているわけであるから、暗号文を盗読しようとする者にとってはこの媒介関係の存在が解読の手がかりになる。

暗号の転換形態を大きくわけると、原文の文字それ自体を他の文字に変える変換法と、文字はそのままで配列を他の配列に変える置換法になる。変換法のもっとも簡単なものはポオの『黄金虫』で論じられているが、暗号文が英語を原文と推察できるなら、英語でもっとも多く使われる文字は e であるから、まず暗号文の中でもっとも多く使われている文字を e と想定し、この文字に終わる三つ組みの文字を調べ、それがいくつか存在したならば the と想定すればよい。これが手がかりになってさきへ進むことができる。置換法の実例は、ヤードリが『アメリカン・ブラック・チェムバ』の中で、第一次大戦のときドイツのスパイの使ったものとその解読についてくわしく述べている。ドイツ語では Ich とか deutsch とか ch の二字が連続して使われることが多い。それで置換された文の中に ch とをさがし、これらがどのような間隔をおいてあらわれているかを検討するならば、それが置換の規範についての手がかりになる。

このように原文の語法における特殊性が、変換や置換の規範を見出すために役立つわけである。暗号文は原文の<文法>を否定するけれども、それは<文法>を破壊するものではなく、弁証法でいうところの否定の否定を可能ならしめる特殊な否定であり、原文の<文法>をふくみつつ否定したものである。それだからこそ、背後にかくれている原文の<文法>が盗読の手がかりになりうるのである。

人間が音声や文字を創造してその種類としての面を表現に利用するだけでなく、語や文の種類と規範でむすびつけ、自然物を言語表現の代用物として使うのが、いわゆる花ことばである(2)。「バラ」が愛を、「オリーブ」が平和を意味するというように、使われている。異性から花を贈られたときには、自然物として贈られたのか、それとも花言葉として特殊な意味が与えられているのか、一応吟味してみなければならぬ場合もあるであろう。この花言葉にあっても、花の大きさや葉の枚数などは意味と無関係で、花あるいは色の種類がものをいうところに、言語表現の代用物としての性格を見なければならない。

(2) NHKのラジオ番組「とんち教室」で、野菜言葉をつくる遊びをしたことがあるが、これも野菜の種類と語や文との間に規範を設定して言語表現の代用とするものである。しかしこのように、人間から独立して存在する自然物が、規範を設定することによって言語の代用物となるという事実は、規範を正しく理解できない者にとって、自然物がそれ自体で言語なのだという解釈へふみはずす契機となりうる。フーコー的な言語学的世界観がもっともらしく思えてくるのである。

 

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

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