ラングの特殊性とパロールの普遍性――個別概念(PC版ページへ)

2006年10月18日18:14  言語>言語本質論

ラング(言語規範)が社会的であるのと同様にパロール(話し言葉)は社会的である。そして、パロールが個人的であるのと同じ地平においてラングも個人的である。エクリチュール(書き言葉)もまた同様に、社会的であると同時に個人的なものである。それは個人の意識の内部における語の音声表象やそれに結びついた概念が社会的な一般的・普遍的側面をもっていると同時に個人的・特殊的な側面をもっているからであり、同じようにパロールの語音やそれと結びついた概念もまた社会的な一般的・普遍的側面をもっていると同時に個人的・特殊的な側面をもっているからである。エクリチュールにおける語の形象やそれに結びついた概念についても同様である。

人間や動物の意識内に存在するものを含めて、現実の世界に存在する個物や個々の現象は、(さまざまな)特殊的な側面と(さまざまな)普遍的な側面との統一からなる存在であり、ディーツゲンがいうように人間はそれらを特殊的な側面と(ある種の)普遍的な側面との統一である個別概念(個別的概念)として認識する。そしてそれらの存在において、(ある種の)普遍的な側面は個物や個々の現象のもつある特殊な一面でもある。つまり、個物や個々の現象はさまざまな種類の普遍的な側面をもっているのであり、人間は時と場合に応じてそれらさまざまな種類の普遍的な側面のうちの一つをある個別概念として把握し認識するのである。

簡単にいえば、人間は個物や個々の現象をさまざまな性格をもつものとして認識するのであり、それらの性格を類別し分類して把握するのである。そして、ある個物や現象が分類のどのレベルにあるものかをとらえた認識が個別概念である。個別概念は個物や個々の現象を認知するたびにその都度形成され認識される。個物や個々の現象に対する(ある)普遍的な側面の認識においては、それ以外の特殊的な側面の認識は止揚されているが、普遍的な側面は依然として他のさまざまな特殊的な側面とのつながりを保持している。それゆえある個物や現象は、(ある)普遍的な側面をもった個別概念としてとらえられた後にも、再び三たび、他の(ある)普遍的な側面をもった個別概念として把握し返すことが可能なのである。

三浦つとむが指摘しているように、ソシュールは人間の認識・思想・思考がさまざまな個別概念の相互連関という形態で現象していることに気がつかずそれらを「無定形の不分明なかたまり」にしてしまった。そして個別概念を特殊的な側面と普遍的な側面との統一においてとらえることができず、普遍的な側面のみを個物を規定する概念であると考えてしまったから、ソシュールの概念は個物の特殊的な側面との連関を見失った〈抽象的な側面しかもたない根なし草〉になってしまった。それゆえ、通常の人間の意識においてラングがつねに個別的なものに媒介される形で現象することにまで思いが至らなかったのである(「思想・音が区分を内含している」ことには気がついていた――しかしそれがさまざまにとらえられ得る個物の個別概念であることには思いが及ばなかった)。

ソシュールはラング(言語規範)が前の世代から与えられたものであるという。しかし、個々の人間がラングを自らの意識のうちに社会的なものとして形成するためには、他者や自己のパロール(話し言葉)やエクリチュール(書き言葉)の実践を媒介することが必要であり、現実の世界に存在する個々の事物や現象を個別概念として把握し認識し、さらにそこからラングを形成する概念(普遍的な側面)を抽象してくることが必要である。個人におけるラングの形成にはこのような社会的かつ個人的な実践が必要なのであり、それゆえ個人の意識内に形成されるラングは社会的・普遍的な側面をもつと同時に個人的・特殊的な側面をももつのである。

ラングは、社会的な規範であるという(ある)普遍的な側面と、個人の意識のうちに形成された個人的な規範でもあるという特殊的な側面とが止揚され、社会的規範として統一的に認識された存在なのであり、個々の人間にとって、すべての規範認識と同様にラングという規範認識もまた個別的な認識として意識内に現象し存在しているのである。

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