江戸時代の国学者に始まり時枝誠記へさらに三浦つとむへと継承された言語論・言語学(言語過程説)が他の言語論・言語学と一線を画しているのは、言語表現が単に意識の表出であるという認識にとどまらず、日本語という言語が主体の認知内容・認識内容とそれを認知・認識している主体の立場・主体のあり方とをそれぞれ別の種類に属する語を用いて表現しているという認識に到達したことである。
言語は人間の意識の表現であり、表現された言語には人間の意識の動きが反映されている。意識は常に何ごとかについての意識であるから人間の意識はある対象についての意識、ある対象のあり方を反映した意識である。したがって言語に限らず人間が何ごとかを表現するときには、意識のスクリーンに映し出された対象のあり方が表現される。このことは誰でも気がつくことである。しかし表現には、ものごとについての認知・認識内容(認知対象・認識対象のあり方)だけでなく、自覚的であれ非自覚的であれそのものごとを認知・認識している認知主体・認識主体の立場やそのあり方(認知対象・認識対象に対する主体の関係意識)もまた現われてくる。比喩的にいえば、意識のスクリーンに映っているもののあり方だけでなく、スクリーンに映るものを見ている者の立場やそのあり方も同時に表現の中に現われる。意識が客体と主体との統一として現象する(タグ【自己意識】参照)のだから、意識の現実的な表出である表現が客体と主体との統一という形で現われることは不思議でもなんでもない。
表現一般のこのような性質から、三浦つとむは主体がとらえた認知対象・認識対象のあり方が表現されたものを客体的表現と呼び、認知対象・認識対象に対する主体の立場や関係意識*そのものが表現されたものを主体的表現と呼ぶ**。
* 三浦は関係意識ということばは使っていない。私の造語である。
** 日本語では客体的表現と主体的表現とが別々の語で表現されていることに初めて気づいたのは江戸時代の国学者たちである。本居宣長(もとおりのりなが)は前者を「玉(たま)」後者を「緒(お)」にたとえたが、本居門下の鈴木朖(すずきあきら)は前者を「三種の詞」(さす所あり/詞なり/物事をさし顕して詞となり/詞は玉の如く/詞は器物の如く/詞は「てにをは」ならでは働かず)と呼び、後者を「てにをは」(さす所なし/声なり/其の詞につける心の声なり/緒の如し/それを動かす手の如し/詞ならではつく所なし)と呼んだ。なお「三種の詞」とは「体の詞」「形状の詞」「作用の詞」であり、現在の「名詞」「形容詞・副詞」「動詞」にそれぞれ相当する。また「てにをは」は現在の助詞・助動詞・接続詞・感動詞等に当たる。「てにをは」という呼び方からも分かるようにこれは間接的には漢籍の読み下しについての研究に依拠し、直接的には古典ことに古代の古典の解釈・鑑賞の研究を通じて得られた成果である。明治以降の国語学者たちは西洋の「進んだ」文法を取り入れるのに必死で、その機能主義的なやり方でもって国学者たちの実果の表面だけしか受け継がなかった。
鈴木朖を再評価しその研究の実果を取り入れたのは時枝誠記である。時枝は前者を「詞(し)」後者を「辞(じ)」と名づけたがこれでは鈴木朖の「心の声」という発見が生かされていない。しかし時枝は後にこれらをそれぞれ客体的表現・主体的表現に改めた。三浦つとむは詞・辞では言語のみにしか適用できない概念であるし、言語においても非言語表現には詞・辞という概念が適用できないと時枝を批判した。そしてこの二つの批判的観点から、三浦は時枝の唱えた客体的表現および主体的表現という語を言語に限らず表現一般に通ずる概念として拡張し再規定した上でこれを採用し用いている。
『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明・勁草書房)が現在手元にないので確認できないが、吉本は三浦の客体的表現・主体的表現という概念に触発されて品詞を指示表出・自己表出という二つの軸を用いて分類したのではないかと思われる(吉本は三浦の畏友であり『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ・講談社学術文庫)の解説を書いている)。
〔2007/11/19 追記〕なお、言語が認識および関係意識の表出であることに最初に気づいたのは日本人ではなかったということを宮下信二が書いていたようだ。三浦の『日本語の文法』(勁草書房)にこれに関する記述があるので引用しておく。
しかしながら宮下信二は、一六六〇年にパリで出版されたいわゆるポール・ロワイヤル文法が、人間の思考を対象についてのそれと判断や欲望や命令や疑問などに二大別し、単語もそれに対して二大別していたこと、またジョン・ロックが一六八九年に出した『人間悟性論』も、同じく認識の二大別にもとづいて単語の二大別を行っていたことを指摘しながら、これは朖や時枝の見解と本質的に一致すると論じている(「英語はどう研究されてきたか」――『試行』三八号)。ヨーロッパの言語理論は、このような画期的な分類法を持ちながら、それを理解し受けつぐことができず、形式主義に転落していったのであり、いまだに反省していない。(p.45~46)
〔注記〕以下において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。
客体的表現とは主体が認知・認識した客体そのものを表現したものであり、ことばを換えれば主体が対象を存在(実体)あるいは現象(属性)として概念的にとらえたものの表現である。客体的表現は主体が明確に認知・認識しているものごとの表現であるからどんな表現であっても、受容者がこれを再びとらえる(追体験する)ことはそれほど難しいことではない。しかし、主体的表現は対象に対する主体の立場や関係意識が表現されたものであり、それは表現者が必ずしも明確に自覚しているわけではないから受容者にとってもこれを自覚的に追体験することは容易ではない。
膠着語(こうちゃくご)である日本語では主体的表現が個々の語として現われているので少し自覚的になりさえすれば、表現された言語から主体的表現を取り出すことはさほどむずかしくはないけれども、絵画や彫刻・映画・写真等の表現においては主体の立場や関係意識を自覚的に読みとる(追体験する)ことはかなりむずかしい。芸術がむずかしいとされる理由の一端はここにあるのだろうと私は思っている。
しかし、表現されたものには自覚的・非自覚的にかかわらず対象に対する主体の立場や関係意識が主体的表現として現われるのであるから、受容者もまた自覚的・非自覚的にかかわわらず表現者の立場や関係意識を追体験することになる。ただし、その感受性の違いや表現者に対する思い入れや表現者に対する認識の違いが受容者の観念的自己分裂の質の差という形でその追体験の質を左右することはいうまでもない。
さて、表現一般に関することは他に譲って、ここでは言語における客体的表現と主体的表現についてもう少し考えてみよう。
「三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(3)」に引用した「言語学のコペルニクス的転換」という節で、三浦は時枝が『日本文法・口語篇』(岩波書店)において客体的表現・主体的表現という一大観点から品詞を分類したことについて触れている。三浦もまたこのような観点から『日本語の文法』(勁草書房)で品詞分類を試みている。もとより私は時枝や三浦ほどの言語感覚や文献に関する知識を持ち合わせていないのでそれらについて批判的な見地にはほとんど立ち得ないし、ここでその詳細に立ち入ることもできない。興味や関心のある方は是非これらの書に直接あたって欲しい。
ごく大雑把にいうと、名詞(代名詞)・動詞・形容詞・副詞は対象のあり方を存在・現象として概念的に把握しそれを意識において客体化・概念化したもの(=客観)の表現つまり客体的表現の語である。これに対して感動詞・助詞・助動詞・接続詞は対象に対する主体の感情や立場あるいは対象に対する主体の関係意識(=主観)を直接表出したものつまり主体的表現の語である(三浦は形容詞は静詞と呼ばれる品詞の一部であると主張している)。
形容動詞と呼ばれているものは三浦が静詞と名づけたいわゆる「語幹」部分といわゆる「活用語尾」と呼ばれている助動詞とが連結したものであると三浦は主張している。私も自分の言語感覚からしてこれは正しいと思う。形容動詞の「活用語尾」と称される部分の活用は判断・指定の助動詞「だ」の活用とは異っているといわれている。形容動詞の活用語尾には連体形が存在するが助動詞「だ」には連体形が存在しないというのがその主張であるが実は決してそうではない。
助動詞「だ」にも連体形がある。「あいつが犯人なはずはない」「嘘なもんか。本当なんだよ」といった形で使われている「な」は助動詞「だ」の連体形なのである(それぞれの「な」は「はず」「もん(もの)」「ん(の)」という抽象名詞にかかっている)。「犯人であるはずがない」「嘘であるものか。本当であるのだよ」と言いかえてみるとそれがよくわかる。「な」はそれぞれ「はず」「もの」「の」という抽象名詞にかかる助動詞「だ」の連体的表現「で・ある」に置き換えられるのである(「で」は助動詞「だ」の連用形であり、「ある」は助動詞「ある」の連体形である)。つまり、いわゆる形容動詞の連体形の活用語尾「な」(「厳粛な」など)と呼ばれているものは実は助動詞「だ」の連体形なのである。
また、連体詞と呼ばれるものも各種の品詞の特殊形を単に連体修飾し・活用しないという機能主義的な分類にしたがっていっしょくたにまとめてしまったものであるというのが三浦の主張である。私もこれに同意する。連体詞「ある」は動詞「ある」の連体形が固定されて特殊な連体語として用いられるようになったものであり、連体詞「大きな」は静詞「大き(い)」に判断・指定の助動詞「だ」の連体形「な」が連接したものである。この「な」は連体形のまま固定された形でしか静詞「大き(い)」に連接しないという特殊性をもっている。連体詞「この・その・あの・どの」は代名詞「こ・そ・あ・ど」に格助詞「の」が連接したものである等々……。
また、補助動詞と呼ばれている存在の判断・関係意識を表わす語「ある」は動詞から抽象動詞へという転化を経てさらに助動詞へと転じたものであるというのが三浦の主張である。これにも私は同意する。
客体的表現・主体的表現の語について簡単にまとめてみたが、ここで注意しなければならないのは客体的表現が客観を表現したものであり、主体的表現が主観を表現したものであるという字面にひきずられてはならないということである。人間の意識活動においては客観が主観に浸透することもあれば、主観が客観に浸透することもある。主観的な客観もあれば、客観的な主観もあるわけである。したがって客体的表現だからといって完全に客観的であるとは限らないし、主体的表現だからといって100%主観的であるとは言えないのである。
客体的表現と主体的表現とが別々の語で表現されているということは日本語の特殊性であるが、言語表現が客体的表現と主体的表現との統一として現われるのは日本語だけの特殊性ではなく言語一般についていえる普遍的なことがらである。印欧語のような屈折語では客体的表現と主体的表現が一つの語の中で同居しているし、間投詞・接続詞・前置詞のように独立した主体的表現の語もある。また時枝が零記号という概念で呼んだ表に現われない表現(矛盾した言い方だが)は多かれ少なかれどんな言語にも見られる普遍的な現象である。中国語のような孤立語ではほとんどの主体的表現が零記号化している。それがゆえに漢籍を日本語で読み下すときに「テニヲハ」を付け加える必要が生じるのである。
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