〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔引用に関する注記〕 (1) 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
(2) 引用文中の太字は原著のものである。
(3) 長い段落は内容を読みとりやすくするために字下げをせずにいくつかの小段落に分割した(もとの段落の初めは一字下げになっている)。
(4) 読みやすさを考えて適宜 (ルビ) を付した。
『認識と言語の理論 第一部』 p.158
規範の形成される過程と、規範に従って実践が行われる過程とは、方向が逆なばかりか、時間的・空間的に異っているから、両者は正しく区別されなければならないけれども、これは両者が無関係だということを意味しない、大きな観点からすれば、規範の形成される基礎も、規範に従って働きかける対象も、同じ現実の世界であり、両者の間にはそれなりの客観的なつながりがある。それゆえ前者の過程での現実の認識は、後者の過程においてそれなりに役立つことになる。規範は抽象的な形態をとるけれども、そのときに捨象された現実の認識が、規範に従って実践が行われる過程での表象化に役立つからである。
われわれの日常生活でつくり出す約束も、抽象的な意志の統一であって、それは当事者のそれぞれの条件において具体化されなければならない。「五時に有楽町で会いましょう」ということでは二人の意志が一致しても、彼女は丸の内の事務所に勤めているのに自分は横浜で仕事をしているという条件のちがいがあれば、彼女は事務所からあるいて来るが、自分は国電で有楽町の駅まで乗って来るというように、異った交通のしかたを予想しなければならない。約束するときはおたがいに交通のしかたを予想して時刻をきめるのであるから、すでにそこに二人の独自の意志がそれぞれ存在しているわけであって、これが約束の実行に当って役立つことになる。
また、会いたいという意志の背後にあるもの、それをささえている情感または考慮にしても、必ずしも同じではない。彼女は会ってからいっしょに映画でも見たいと、ただ楽しむことだけを考えているが、彼はよそながら母親に見せたいと、母親の待っている喫茶店にそれとなくつれて行くことを考えているかも知れないのである。人生の大きな転換となる契約、たとえば婚約についても事情は同じであって、婚約が成立したときの男性の意志を規定しているものは異性としての肉体であったり、持参金や財産などの物質的な富であったり、あるいは哀れな人間を救いたい気もちであったり、男性仲間に見せつけて自慢したい気もちであったり、時には家族を失って孤独な魂を抱いている人間の気まぐれであったりする。女性の意志を規定しているものと大きなくいちがいのあることも珍しくない。そしてまた、悪友がけしかけるとか、善友が早く身をかためろと意見するとか、親戚や先輩が写真を持ってきて見合いをすすめるとか、他の人間の意志や行動がこれとからみ合ってくることもしばしばである。
抽象的な意志の統一は成立しても、それぞれ異った条件に規定されてこの意志をつくり出したのであり、またそれぞれ異った独自の意志を持ちうるということは、二つの重要な問題をはらんでいることを意味している。
第一に、この規範は当事者の意志の一致というかたちをってはいても、必ずしも本質的にそうとは限らないという問題である。いつもは東京駅で会っていたのに、今度に限って有楽町を主張したのは、彼の意志ではなく、母親の意志によるものだというように、他の人間の意志が当事者の意志にかたちを変えることもありうる。この程度ならそれほど重大な結果をもたらすわけではないが、女性が親のため兄弟のため家のためあるいは国とためと外部から強いられて、泣く泣くその意志に従って結婚を承知するような場合は、本質的には親や親戚やその他の人びとの意志がかたちを変えたものであり、これは女性にとってもまた相手の男性にとっても重大な結果をもたらしかねない。また男性も自発的に結婚の意志を示したとはいえ、そこに示された情感や考慮と実際とはくいちがっていることもある。口では「財産なんか眼中にない、あなただけを愛している」とか何とかいってはいるが、真の目的は財産だという場合もある。女性側の出した条件に反対でありながら、結婚してしまえば何とかなるだろうから、OKだといっておけと、これまた本心をかくして婚約を成立させる場合もある。自分が前から思っていた人が、他の人と結婚することになったので、心を傷つけられヤケになって好きでもない人のプロポーズを受け入れることもある。ヘーゲルのいうようにそこには「それぞれの意志が他と同一ではなく、それだけで独自の意志をなしかつそれを持続するということ」が見られるのであって、彼女の財産をものにしようという意志や、もし自分の思っている人が気持ちを変えて自分にプロポーズして来たらこんなやつとの婚約なんかパアにしようという意志や、極端な場合には新婚旅行のときにこの人間を殺して遺産を手に入れて愛人といっしょになろうという意志などが、それぞれ独自に持続しているわけである。
商品の売買契約に、はじめから相手をだます意志を伴っていて、契約はしてもそれを忠実に実行しようという気もちのまったくない、とりこみ詐欺とよばれるものがあるけれども、婚約にもこれと同じように、はじめから相手をだます意志を伴っていて、忠実に実行しようという気もちのまったくない結婚詐欺とよばれるものがある。
ここから第二の問題が出て来る。契約はその時点における意志の統一において、観念的に対象化され、客観的な意志として維持されているのであるから、それ自体は固定化された存在である。ところが、当事者の独自の意志はそうではなく、絶えず変化している。独自の意志は契約の実行に役立つものとして、いい変えるならば対象化された意志と調和するものとして、形成され発展させられることが要求されてはいるものの、必ずしもそうなるとは限らない。たとえはじめは調和するものとして存在していても、一変して敵対的なものになる可能性がある。
結婚したあとで家族関係が円満にいくようにという意志で、婚約中に前もって彼女の妹に好感を持たれるよう心をくばるのは調和のためであるが、そのうちに妹に自分への恋愛感情が生れ、自分も彼女より妹のほうに愛情がうつったとすると、彼女との婚約は一変して邪魔な存在になってしまう。前に述べたような、はじめからひそんでいた敵対的な意志が頭をもたげて来ることもある。こうして、対象化された意志に対する独自の意志のありかたが、調和を失って敵対的なものに変り、敵対的矛盾になったとすれば、そこに闘争が生れ、矛盾を打ち破ることによって解決しなければならない。婚約をあくまでも重んじて妹への愛情を殺すか、それとも愛情を重んじて婚約を破棄するか、彼の内的な闘争がはげしくなり、愛情を殺しえないときには婚約を破棄する方向へすすまないわけにはいかない。
商品の売買契約も、はじめは代金を期日に払う意志があって金策に努力していたにもかかわらず、不渡(ふわたり)手形をつかませられるなど思わぬ障碍(しょうがい)が起ってどうしても金の工面がつかないとわかれば、ええいまいましい代金を踏みたおそうかという気もちにも変って来よう。このように、契約と独自の意志との間の矛盾が存在し、質的な転化の起る可能性がひそんでいることは、誰しも経験を通して納得できるはずである。
『認識と言語の理論 第一部』 p.162
契約は抽象的であるから、これを実行するためには表象へと具体化していかなればならないし、これも「私にとって対象」であるようなかたちをとるのである。婚約の具体化は結婚式の具体的なプランや新家庭の具体的な設計へとすすんでいく。だがこれは、共通の意志の具体化であるから、やはり共通の表象として成立するところが個人の場合の単なる表象化と異っている。婚約が成立する以前から、二人はそれぞれ結婚式や新家庭についての夢を持っており、個人的にそれなりの表象をつくり出していたであろう。また二人でそれらの夢を語り合いながら、そこである程度共通の表象をつくり出したこともあろう。けれども婚約の成立は、かつての夢がいよいよ実現する新しい段階に入ったことを意味しているのであって、かつての夢の場合のような現実ばなれした空想の混入はもはや許されない。婚約後の新しい現実をふまえながら、共通の意志の具体化として共通の表象を目的的につくり出していくに際しては、かつての夢はいわば素材として・参考資料として・役立つにとどまるのである。
共通の表象をつくり出す活動は、それぞれの独自の意志によって行われるのであって、この表象の形成をめぐって当事者の間にくいちがいが生れ、争いの起ることもしばしばである。商品の売買契約にしても、代金を取りに来てくれ、いや届けてもらいたいと、押し問答する場合がある。結婚にしても、女性は外国映画に見るような衣裳を身につけて、キリスト教の教会で結婚式をやりたいと、ムードにあこがれるのに対して、男性は家の伝統を重んじて神前結婚がいいと、これに反対するようなことも起りうる。女性はアパートで二人だけの新家庭を営みたいと主張するのに対して、男性は経済的条件が許さないから両親の家の二階に住むことにしたいと反対するようなことも起りうる。
この共通の表象の形成は婚約から相対的に独立した、意志の発展の新しい段階であるから、そこでは当事者の独自の意志が具体化するだけでなく、さらに他の人間の意志がからみ合ってくることも一つの特徴である。これらは、婚約に賛成だという点ではいずれも共通しているが、その具体化に当って協力するかたちでのからみ合いだけでなく。そういう具体化では反対だと変更をせまるかたちでのからみ合いも生れてくる。親の意志・親戚の意志・友人の意志・職場の仲間の意志・雇主(やといぬし)の意志というようなものが、あるいは結婚式とか新婚旅行とかいう一時的な行事のありかたについて、あるいはどこにどう新家庭をつくるかという当面の生活のありかたについて、あるいは自分の一生の仕事を何に求めるかという生涯の生きかたについて、いろいろなかたちで関係を持ってくるから、それらの意志との調和や闘争の中で結婚式のプランや新家庭の生活の設計を具体化していかなればならないことになる。
友人たちが結婚記念に、新家庭で必要な家具をプレゼントしたいという意志を持っているならば、もちろんよろこんでそれを受け入れるであろう。また、雇主と休暇を交渉したが二日しか認めないとすれば、やむなく妥協して新婚旅行のプランもそれに合せなければならない。結婚式にはたくさんの友人をよんで楽しいパーティを開こうと思っても、親のほうでは親戚縁者を集めて昔ふうの宴会をやろうと考えているのでは、ここでも意志の衝突が起らざるをえない。交渉すなわち闘争の結果、午前に親の望むようなかたちで式をあげ、午後にパーティをするという妥協が成立したりする。彼女の父が重役で、彼にその会社のいいポストを与えようといっても、それが彼の理想とする生活の設計と大きくくいちがう内容のものならば、簡単に受け入れるわけにはいかない。当事者は婚約以前からいろいろな契約をむすんでいるので、それらも婚約の具体化に際してからみ合ってくる。雇傭契約はもっとも大きな制約の一つであるが、彼女が学校時代の友人と「あなたが結婚するときは私をよんでね、きっとよ」と約束しているとすれば、結婚式のプランを具体化するに際してこの意志関係の存在を無視するわけにはいかない。
『認識と言語の理論 第一部』 p.163
契約は一つの独立した規範であるが、孤立した規範ではなく、他の諸規範とむすびついている。道徳とよばれる規範が、商業道徳とか男女交際のモラルとかいうかたちでついてまわるし、契約をむすびながら相手がそれを実行しない場合には、法律の力によって強制することもできる。商品を受けとりながら代金を払わないとか、借金を返さないとか、婚約しても式をあげないで他の女性にのりかえたとかいう場合、契約不履行のかどで相手を訴え、法律とよばれる規範の力で金を払わせたり慰謝料を出させたりするのである。
契約不履行をそのままにすれば、経済はじめ社会生活全体の秩序を混乱させることになるから、これを防止するための別の規範がどうしても必要である。法律はそれを意図してつくり出されるのであって、この法律にも服従しない場合には国家が強力すなわち警察や軍隊の力によって実践的に干渉してくる。また、契約の中には、法律に対して敵対的な性格を持つものもあって、法律が禁止している密輸された麻薬の売買契約ををむすぶような場合、これは不法とよばれることになる。法律は特殊な人びとの間にではなく、社会全体に適用されるものとして成立するのであるから、ヘーゲルはこれを普遍意志とよんでいる。われわれも、一般的意志とか全体意志とか普遍規範とかよぶことができよう。
個別規範が「禁酒禁煙」や「がんばれ」などのかたちで、個人の意志から直接に成立することから、普遍規範である法律に対しても、個人の意志から直接に成立するという解釈をとる人びとが現れてくる。現に国王個人の意志から法律がつくり出されるという事実は、この解釈の正しさを証明しているかに見える。けれどもこの解釈は逸脱であって、規範が何に基礎づけられているかという問題を無視するところから出て来たあやまりである。国王にしても、彼個人の利害の上に法律をつくることはできないのであって、やはり国民全体の共同利害を考慮しなければならないのである。普遍規範である法律は、その適用される社会の共同利害に基礎をおくのであって、個人の恣意(しい)でどうにでもつくれるわけではない。
分業の出現と同時に、各個人もしくは各家族の利害と、相互に交通し合うすべての個人の共同利害との間における、矛盾が与えられる。……そして他ならぬ特殊利害と共同利害とのこのような矛盾に基いて、共同利害は国家として、現実の各個の、また総体の利害から分離させられて、一個独立な態容をとる、と同時に、それは幻想的な共同社会性として出現するのである。
共同のあるいは幻想上共同の諸利害に対して、絶えず現実的に対立しているところのこれら特殊利害は、国家としての幻想的な「一般」利害による実践的な干渉と制御とを、蓋(けだ)し当然に必要ならしめる。
各自の単なる「意志」に何らよるところなき諸個人の物質的生活、すなわち相互に制御し合う彼らの生産様式および交通形態が国家の現実的な基礎であり、そして分業と私有財産とを未だ必要とする段階にあっては、各個人の意志とまったく無関係に常にどこまでもそうなのである。
……かかる諸関係において支配する個人たちは、彼らの権力を国家として構成しなければならないばかりでなく、かかる特定の諸関係によって制約された彼らの意志に、国家意志、すなわち法律という一般的な表現 (allgemeine Ausdruck als Staatswillen geben als Geseltz) を与えなければならない。――この表現の内容がいつでもこの階級の諸関係によって与えられていることは、私法や刑法がきわめて明らかに証明するとおりである。
かかる全体意志 (Gesamtwillen) の執行は、ふたたび種々の鎮圧手段と一つの公的強力 (öffentlicher Gewalt) とを必要ならしめるであろう。(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)
家族はいわば社会の細胞であるが、家族にも全体としての共同利害があるから、これを処理するための家族内での意志の統一や素朴な規範が必要になってくる。原始共同体にあっても、全体の生活条件を向上させるとともに、自然の脅威や外部からの侵略や内部の破壊分子の活動に対処して秩序を維持するという、共同利害に基礎をおくところの掟(おきて)がつくり出されていた。個人もしくは集団が、その特殊利害を追求して共同利害を侵した場合には、この掟とよばれる幾百年の慣例から生れた暗黙の規範にもとづき、民主的に選ばれた代表たちが公開の席上の討論で処置を行っていたのである。
この、共同利害を侵す者は規範に照らして処置するというたてまえは、階級分裂後の国家においても変ってはいない。しかしながら国家において権力をにぎっているのは、経済的に支配している階級である。支配階級の利害は共同利害ではなく特殊利害である。彼らはこの特殊利害を共同利害であるかのように偽装し合理化しながら、権力によって実現していくのである。そこでは現実的な共同利害から遊離した幻想上の共同利害が強調されることになる。
たとえば、労働者のストライキは支配階級にとっての害悪であるから、特殊利害であるにもかかわらず、これを「公共の福祉を害するもの」とよんで共同利害を侵すものだと強調し、ストライキ禁止法案を国会に提出したりするのである。法案は政府の意志あるいは政党の意志の表現であるが、これが国会を通過するときは、全体意志として観念的に対象化されることになり、国家意志が成立する。もし労働者が、これまた特殊利害の一つである労働者の利害(1)を追求して、この国家意志に服従することを拒否するならば、幻想上の「一般」利害による公的強力の干渉と制御が行われるであろう。法律に反したストライキは弾圧されるのである。
(1) 国民のわずか数パーセントの人びとにとっての利害であろうと、それを除いた大部分の人びとにとっての利害であろうと、全体からすれば特殊利害であることには変りはない。ただ、どちらが共同利害に近いのか、どちらを尊重しなければならないかという、ちがいを無視することが許されないだけである。
『認識と言語の理論 第一部』 p.166
契約にあっては、当事者が共通の意志をつくり出して観念的に対象化するから、それぞれどのような規範が成立したかを知っているのだが、法律の場合はそうではない。現在では国会でどんな法律が可決成立したかを、マス・コミがひろく国民に知らせているとはいえ、知らない国民もすくなくない。この「法律として表現された一般意志による各個意志の被拘束」(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)が、その法律について何ら知るところのない個人に対しても適用されるのであって、法律を知らずに違反したという理由で処罰を免れることはできない。法律を「知る」ということは、医師が酒とタバコをやめなさいと命令するのに耳をかたむけることと同じであって、条文として表現されている国家意志を追体験によって自分の頭の中に複製するのであるが、この複製は自分の頭の中に存在しながらなお「外界」にあるものとして、個人の意志に対立し個人の意志を規定し拘束してくる。また契約が対象化された意志として当事者の独自の意志から相対的に独立しているように、法律もまた対象化された意志としてこれをつくり出した階級の独自の意志から相対的に独立して存在している。(2)
それゆえ当事者の独自の意志が契約と敵対的なものとなった場合には、当然法律の改正が日程に上ることになろう。憲法すなわち最高の国家意志にあっても、このことに変りはなく、現にわれわれは憲法改悪の問題にぶつかっているわけであり、利害の反する人びとの反対闘争も生れているわけである。
契約がそれを実行するために表象のかたちに具体化されていくように、法律もまたそれを実行しその国家意志を現実化するために、表象のかたちに具体化されていく。ここに政策が生れる。憲法に示された国家意志はきわめて抽象的であるから、どんなりっぱな条文が存在していてもそれが法律から政策へと正しく具体化されるのでなければ、その精神・その意志が生かされているということはできない。法律は必ずしも支配階級の特殊利害を露骨に押し出しているとは限らないのであって、共同利害のためにというたてまえからそれらしくふるまっているし、また現実に共同利害が存在してそれを反映しているものもある。しかしこれらが表象化される場合には、階級としての独自の意志が露骨に示されてくる。青年の非行を防止するのだと、共同利害を口にとなえながら、実は大衆運動の弾圧という階級的な政策を意図していたのが、反対運動でつぶされたかの警職法改正であった。
また公共事業のための諸法令は超階級的に奉仕しているかに見える。労働者が買っても資本家が買っても切符の値段は同じであるし、労働者の家でも資本家の家でも水道料金に変りはない。ところが独占資本が貨物を輸送していて、このほうの採算は赤字であるのに、大衆が通勤でゴッタがえす乗客のほうの採算は黒字であって、これで赤字を埋めるという政策がとられているならば、乗客大衆は自分の知らぬうちに切符代の中から独占資本にサービスさせられていることになろう。都営の水道を建設するに必要な資金を銀行から借りているならば、金融資本はその水道の収入から利息をゴッソリまきあげるのであって、この利息を計算に入れて料金が決定されるから、水道を利用している都民大衆は自分の知らぬうちに水道料金の中から金融資本にサービスさせられていることになろう。
婚約がその具体化の段階で他の人びとの意志とからみ合うように、国家意志も政策化の段階でいろいろな個人や集団の意志とからみ合ってくる。資本主義を維持し恐慌や不況や経済界の混乱を防止するために、国家が財政的にバックアップする法律をつくるのは、資本家階級にとっての共同利害に基礎をおくのであるから、どの資本家も歓迎する。しかし、国家が投融資や補助金や補償金をどこにどういうかたちで出すか、その具体的な政策になるとそれぞれの企業の特殊利害がからんでくるために、対立抗争が起るのである。企業の意志を政策に具体化させるために、役人を買収することもしばしば行われている。さらに、他国の支配階級との間の共同利害あるいは幻想上の共同利害にもとづいて、国際的なひろがりを持った全体意志が成立することもある。これが国際法あるいは条約とよばれるものである。(3)
この場合にも、これらの国際規範にもとづいてその具体化として国内法がつくられ政策が生れるし、段階が異るとやはり階級の独自の意志がからみ合ってくる。国際法や条約には異議がなくても国内法や政策については特殊利害からの対立抗争が起ってくる。たとえば日米安保条約には賛成しても、貿易の自由化や中国貿易や軍事基地の問題では反対の意思を持って動く個人や集団があるというわけである。
国家意志と個人の独自の意志とは相対的に独立して存在しているから、法律についてはよく知っているのにそれに従わないという人びとも存在する。交通取締法や食糧管理法を無視して自動車をブッとばしたりヤミ米を買いこんだりする人びともあれば、刑法なんかおかまいなしに他人の家へしのびこんで、貴重品をだまっていただいてくる人びともある。これに実践的に干渉して服従させるのは、警官であり裁判官であるが、彼らは国家意志によって規定された制度の中の位置につき(4)、国家意志によって規定された給与を受けとって、国家意志によって規定された服務上の生活規律に従いながら、国家意志に従わせるための実践として犯人を追跡し逮捕し裁判するために法廷へ入っていく。彼らは国家意志の人格化されたものにほかならない。それゆえ天皇の意志が国家の最高の意志であった天皇制の時代には、裁判官は「天皇の名において」判決を行ったのである。被告は警官や裁判官の意志のかたちをとって示されるところの国家意志に服従しないわけにはいかない。留置場や刑務所に入れられて、物理的に行動を阻止されるのであるから、彼の意志で出ることができず、どんなに不満でも国家意志に従わないわけにはいかない。
(2) 「観念的な自己疎外の論理構造を理解しない人たちは、疎外された意志の相対的な独立性とそれによる媒介作用を理解できない。そのために、階級国家の国家意志は支配階級の意志を反映し且(か)つこの国家意志が支配階級の意志をも規定してくるのだとは理解しないで、国家意志と支配階級の意志とを混同する。この俗流反映論の立場での単純化された論理が、ソビエト法学者の法の規定の基本的な特徴であって、ヴィンシンスキイにしても、ゴルンスキイ=ストロゴウィッチにしても、成文法を『支配階級の意志の表現』あるはソビエト法を『全人民の意志の表現』と表現して、国家意志という概念を抜き取っている。」(三浦つとむ『ヘーゲルの法理論とマルクス主義』)
(3) 法律や条約はすべて階級の利害のためだと頭からきめてかかっている学者は、この現実にぶつかって困惑するが、郵便や伝染病に関する国際条約などもその一つである。
(4) 国家機関それ自体を国家と規定する理論は、この機関が国家意志の規定によって存在している事実を無視している。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)