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▲ 2005.01.24 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂
▲ 2005.01.25 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂
▲ 2005.01.25 自己の二重化(3)――観念的自己分裂
▲ 2005.01.25 自己の二重化(4)――認識の発展
▲ 2005.01.31 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
▲ 2005.02.03 自己の二重化(6)――鏡としての表現
▲ 2006.06.29 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂
▲ 2006.06.29 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して
▲ 2006.06.30 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ
▲ 2006.07.31 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識
▲ 2006.08.01 対象意識(2)――自己意識の契機
▲ 2006.08.05 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂
▲ 2006.08.10 対象意識(4)――他者意識・自己意識
▲ 2006.08.11 対象意識(5)――意識・認識の発展
▲ 2006.08.19 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ
▲ 2008.01.24 認識についての覚書(7)――観念的自己分裂
▲ 2008.08.02 三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」
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▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
〔2004.03.13記/2005.01.22修正・追記〕
ことばというのは聞いてくれたり、読んでくれたりする人に向かって発せられるもの。ここにこうして書いているのも誰か読んでくださる方がいるだろうと思うからです。ことばに限らず表現というものはそういう性格をもったものとして生まれたのでしょう。五官では知ることのできない心の思いや自分の考えを他者に伝えたい、そしてまた他者が心に抱いている気持ちや他者の持つ知識を自分のものとしたい…。そういう願いや望みが原動力となって自分の頭の中にある思いや気持ち、考えや知識などを感性的な物質的な形として創り出したもの、それが表現なのだと思います。
その点、独り言は聞いてくれる他人がいないわけで、相手は自分自身。話している自分と聞いている自分、どっちが主役でしょうか。ここは三浦つとむのいう主体の観念的自己分裂という話になるのですが、まずは固いことは抜きにして、話している方が主体であって(話すということがなければ聞くことはできないから)、話し手である自分が聞き手である自分を頭の中のイメージとしてつくりあげ、その自分のイメージに話しかけているのだと考えておけば、たぶんそれほど間違ってはいないでしょう。
それで、実際に独り言を観察してみると、聞き手である自分もただ聞いているだけではないということに気がつきます。主導権を握っているわけではないけれど、話し手のことばに納得したり、反発したりと、実際に声に出して話しはしませんが、内心の微妙な動きがあるのです。だから独り言というのは、かなり一方的ではあるものの自分がつくり出したもう一人の自分(内心の声)と対話しているわけです。ドラマなどではこのあたりがおおげさに描かれたりして、内心の声が主導権を握ることがありますが、これは実は内心の声ではなく頭の中のイメージだったはずの自己がいつのまにか主体的な自己にすりかわっていて、それまで主導権を握っていた自己が逆に頭の中のイメージになるという形で、いわば主客逆転が起こったのではないかと思われます。そう考えると独り言というのはけっこうダイナミックな認識の運動かもしれません。
また、話しかけている自分はものごとを冷静に判断することができそうな自分ではない他の誰かや客観的な目で冷静に自分を分析しようとしている自分…のような現実の自己から他者の立場に移行した自己であり、この<現実の自己から他者の立場に移行した自己>が<現実の自己から対象化された自己>に話しかけているように見えます。この<他者>は実在する具体的な誰かというわけではなく、これまでに自分が出会ったり、本やらテレビやらで読んだり見たりしたことのある人たち、こういう人たちをモデルにしてつくりあげた主体です。<他者の立場に移行した自己>が<対象化された自己>に話しかける、それが独り言の構図なのだと思います。
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▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
〔2004.04.09記/2005.01.20修正・追記〕
鏡の話。子猫の目の前に鏡を置いてみると、はじめのうちは鏡に映っているものに前肢で触ろうとしたり、顔を近づけてみたりしますが、やがて鏡の後ろに回ってそこを覗きます。しかし何もいないことが分かると再び鏡を覗き込み、また後ろを覗くといったことを繰り返します。そのうちに飽きてしまいますがまた日をおいてこれを繰り返すうちに鏡に映っているのは自分だということに子猫は気づきます。二三度そんなことを繰り返すともう子猫は鏡に興味をなくしてしまいます。そして成長した後も鏡に興味を示すことはありません。
若い頃の私はよく鏡を見ていました。まあ私に限らず若いうちはみなそうなのだと思います。で近ごろの私はといえば、あまり鏡を見なくなりました。朝起床して洗面をした後か、外に出るとき、そして仕事を始める前くらいでしょうか。洗面のときは別にして、要するにひとと会うのに恥ずかしいすがたを見せたくないからなんですね。つまり私にとって鏡とは他人の目の替わりをしてくれるものです。正確にいうと、直接自分の目で見ることのできない自分の顔を鏡を媒介にして見ているということです。
ここで問題なのは見られている自分と見ている自分の関係です。鏡に映っているのは実は鏡の前にいる現実の自分なわけですから単純に考えれば、見ている自分が鏡の前にいて、見られている自分は鏡の向こうにいる。この構図は独り言の場合と同じです。
こ の心理を考えてみると、見られている私(鏡の向こう側にいる自己)は観念的に対象化された自己であり、それをもう一人の私がこちら側から見ているという図式です。そして観念的な対象を見ている私もやはり観念の中にいるはずですから、鏡のこちら側で鏡の向こう側にいる自己を見ている私は実は現実の自己ではなく、現実の自己から観念的に分裂した自己なのだということになります。
このことをさらによく観察してみます。
鏡に映った自分の姿(自分の映像)は、鏡を見ることによって精神的な模像(表象・概念)として自らの脳内に生じます(知覚される)。つまり鏡に映った自分の映像は認識の側から見ると脳内に生じている精神的な模像なのです。その模像が現実の自分であると考えるときには、その模像を媒介にして観念的な自己分裂が起こっています。このときの意識(認識)としては、鏡に映った自分の映像(虚像)の位置に精神的な模像である自分(観念的に対象化された自己)がいて、それを鏡のこちら側の現実の自己の位置にいる観念的に分裂した自己(主体)が見ているという形になります。簡単にいえば、観念的に対象化された自己の姿を、観念的に分裂した自己(主体)がいわば他人の目で見ているということです。しかし鏡から目をそらしたり、鏡の前から他の場所に移動したりするとこの観念的な自己はもとの現実の自己に復帰します。
人間は鏡を介したこのような経験を重ねていくうちに知らず知らずのうちに、鏡がなくても自分を客観的に観察する――観念的に他の人間の立場に移行して観念的に対象化された自分を観察する――ことができるようになります。想像の世界の中で鏡をみることができるようになるわけです。そうしてみると、自我が目覚める10代のころによく鏡を見るというのも何かしら意味があることかもしれません。
そして、観念的に他人の立場に移行した自分が観念的に対象化された自分に話しかけている形をとる独り言というのも、対象化された現実の自分を他者の視点から客観的に観察して叱咤激励しているわけですから、そのことを自覚している限り人間として極めて自然で健全な姿なのでしょう。
(補)鏡に写っている自分の姿はあくまでも単なる映像に過ぎませんから、そのことを強く意識しながら冷静に科学的な目で映像を観察する場合には観念的な自己分裂は起こりません。
大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
〔2004.06.21記〕
購入したばかりの『三浦つとむ選集』の第一巻『スターリン批判の時代』に鏡に関する興味深い論考がありましたので載せておきます。以下引用は「スターリンの言語学論文をめぐって」(p.59)から。なお下線は私がほどこしたものです。
まず、三浦はマルクス『資本論』第一巻の「価値形態」の節にあるマルクス自身の註を引用した後に、それは人間の認識のありかたについてマルクスが述べているのだとしてその内容に分析を加えています。
ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また、吾は吾なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間としての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである。
一言一句冷静に検討するなら、マルクスはここで人間の認識のありかた、実践の論理の一端をのべていることが、おぼろげながらもつかめるだろうと思う。認識はあたかも鏡のような作用をしている、客観的な実在のすがたを写しとる、これがすなわち反映論であり、この立場がマルクス主義の認識論である――と。……
マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。これこそが生きた現実の人間の認識論なのである。対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。「他の人間という鏡に自分を映す」事実を正しくつかまなければ、人間が自己を識(し)る認識、すなわち主体的自覚についての正しい理論は出てこない。それではドイツ古典哲学の継承など、思いもよらぬことなのである。
話を分かりやすくするために、普通のガラス製の鏡を例にとろう。顔を近づければ、その上に顔がうつる。これは映像であって、鏡の中に顔があるわけではない。だが、われわれは、そこに顔があるもの、自分がいるもの、と考えることもできるし、現にそう考えている。自分はほかの人間(たとえば恋人)から見てどう見えるだろう、などと考えながら鏡に向かうのは、誰でもやっていることである。鏡は、ほかの人間の眼の位置に自分を置いて自分自身を眺めることを可能ならしめる、そういった性質の道具である。
鏡の中に自分がいると考えても、鏡の外の自分が現実に自分であることにはかわりがない。しかし自分自身の像を現実の自分であるかのように考えている以上、観念的には、現実の自分に現実の自分としての資格を持たせたままそれから分離して、恋人その他の立場に移行していることになる。このように、現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。ポオも弁証法文学の傑作「盗まれた手紙」において、丁半勝負の上手な少年と、盗まれた手紙の奪還をえがき、相手の智力に自分の智力を一致させ、観念的に相手の立場に移行して考えることがいかに重要であるかを喝破した。
観念論者は、自覚をとりあげてこの問題にぶつかったのだが、観念的な主体の分裂を移行として正しく扱うことができなかった。両者を混同することによって、鏡の外の現実の自分までも観念的なものとして非現実化させてしまったり、あるいは観念的な自己をきりはなして、最初からこれが現実の自己の外にあるものと考え、これこそ本源的な自己、人間を人間として自覚させる人間以外の自己、純粋精神、普遍的な自我、神、として神秘化させたりした。青年マルクスは、ヘーゲルを 分析しながら、この問題を人間実践のなかで検討し、はじめて正しい解決を与えることができた。『経済学・哲学草稿』はそのことを具体的に立証している。実に、この研究あってはじめて『資本論』の価値形態の分析も可能になったのだし、この基礎的研究の片鱗が注釈のかたちでヒョイと顔をのぞかせることにもなったのである。
このマルクスの『草稿』は田中吉六氏によって理論的に再発見されたのだが、その重要性が強調されるまでわたしは関心をもたず、全然読んでいなかった。わたしは「観念的な自己分裂」とか、「夢の外の作者と夢の中の作者」という言葉をつかって論文を書いていたが、『草稿』を調べてみたらその問題について次のようにのべられてあるのを発見した。
「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」
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▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
〔2005.01.21記/2005.01.30追記〕
三浦つとむはその著書の中で、鏡像を媒介とする観念的自己分裂についてとりあげ、鏡以外にも鏡と同じような働きをするものがあるということを指摘しています。鏡と同じような働きをするものには、虫めがねや望遠鏡、顕微鏡などのほか各種のメーターやオシロスコープ、テスターなどの計測器をはじめレントゲンやCTスキャナー、MRIなどの医療用機器などがあります。
これらの検出装置や計測器に共通するのは、時間的・空間的に現実の人間の感覚では知覚できない対象を知覚可能な形態に変換し、それによって人間の感覚の限界を広げ、さまざまな対象についての認識を深めることを可能にしてくれるものであるということです。
感覚的にとらえられる物質的な対象の場合、このような物質的な鏡を利用して拡大された像や、針の振れ・波形・解析画像などの知覚可能な形態に変換された像を媒介にして観念的な自己分裂を行なうことによって人間は認識の限界を拡張してきました。
そして、「人間はまず、他の人間という鏡に自分を映して見る。人間たるペーテルは、自分と同等なるものとしての人間たるパウルに関連することによって、初めて、人間と しての自分自身に関連する。だがそれによって、ペーテルにとっては、パウル全体がまた、彼のパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態としての意義をもつのである」というマルクスの言葉は、自分以外の他の人間のあり方を媒介にして、観念的に自己分裂した自己が他人のあり方を自己の姿とし てとらえるところに「我」という認識が成立し、またそれを契機として他の人間と物質的・精神的に全的に関わることによって、人間は種としての人間の生活を成立させているということを示唆しているのでしょう。他者の姿を媒介にして、つまり他者を鏡として人間である自己に対する認識を深めていくのが人間の人間たる所以なのですね。
鏡についてのマルクスおよび三浦つとむの文章は、物質的な鏡による映像と精神的な鏡(認識)による模像との矛盾が観念的自己分裂を媒介し、それによって両者が相互浸透し合いながら統一され認識が発展するということを述べたものであると私は受け止めています。
〔2005.01.30追記〕
人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる。(『経済学・哲学草稿』)
上は「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」の最後に引用したマルクスの言葉です。このうち「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化する」の部分は精神における二重化つまり観念的自己分裂のことをいっています。「自分が作った世界」とは自己の意識内部の観念的な世界のことであり、そこで観念的に二重化し、<観念的に分裂した自己(主体)>が<観念的に対象化した自分自身>を見るということです。これが「意識にお」いて「理知的に自分自身を二重化する」の意味です。
三浦つとむはこの特殊な過程から弁証法(対立物の統一=矛盾の解決)の一般法則「否定の否定」を抽出します。現実の自己の立場のままでは現実の自己を認識することができないという矛盾を解決するために、人間は現実の自己を一旦否定して<観念的な自己の立場>に移行し(否定)、そこで<観念的に対象化した自己>を見る。そしてそこで得た自己についての新たな認識を携えて再び現実の自己に復帰する(否定の否定)というわけです。人間はこのように「否定の否定」という弁証法の論理に従って自己の認識を発展させているのだと三浦は指摘しているのです。
「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」については次項で書こうと思います。
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▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
さて、「行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」というマルクスの言葉に対して三浦つとむは次のように書いています。
「人間は意識における如く単に理知的に自分自身を二重化するばかりでなく、行動的にも、現実的にも自分自身を二重化する。従って、自分が作った世界のほかで自分自身をみる」
ここで行動的な現実的な自分自身の二重化といわれているが、これだけを読んでも何のことだかわからないかもしれない。これは人間の自然に対するはたらきかけであり、労働をもってする物質的な生産活動を指しているのである。マルクスはこれを「自然の人間化」(『草稿』)「人の客体化」(『経済学批判序説』)などとよんでいるのだが、これまでのマルクスの史的唯物論について解説した教科書には、この現実的な自分自身の二重化という見かたなど爪のアカほどもでてこないのにおどろく。われわれは労働能力を支出して生産物をつくりあげるという点で「人の客体化」が行われていることも大体わかるが、そればかりではない。「労働過程の終りには、その初めに当って、すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた一の成果が出てくる」(『資本論』(16))という意味で、生産物は観念的な面での「人の客体化」をも含んでいるのだ、マルクスは「自然の人間化」を、肉体と観念との統一である人間が、それぞれの面でことなった統一体としての生産物をつくりあげる点において、現実における分身・二重化としてとらえているのである。人間が労働能力を支出するのは労働能力を獲得するためでもある。これはひとつの矛盾だが、自然をまず人間化し、この人間化された自然をふたたび人間にとりもどす(使用あるいは消費)という生産的実践は、まさに実在する矛盾の発展、現実的な否定の否定である。ヨゼフ・ディーツゲンも、精神が自分自身について理解することは「円をえがいて走っているかのような観がある。」と、鋭い直観のひらめきを示している。マルクスがこの肉体的な観念的な活動の相互の結びつき、すなわち人間実践をヘーゲルのように観念論的な関係における弁証法ではなく、唯物論の立場からガッチリつかんだからこそ、弁証法も神秘の幕の中から救いだされ、ヘーゲルは正しく顛倒され、フォイエルバッハの欠陥も克服されたのであった。(スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』では、弁証法の根本法則である否定の否定が姿を消してしまっている。哲学者たちはこの尻馬にのって、否定の否定は重要ではないのだ、これはヘーゲル主義の残りかすだ、とエンゲルスを非難する口吻をふりまいた。その点の批判はここでは遠慮するが、スターリンの言語観にあらわれた史的唯物論の公式に対する理解と、この否定の否定の軽視とは、いろいろなかたちで内面的につながっているように考えられる。)
ミーチンたちが書いた認識論の論文をいくらさがしたところで、意識における自分自身の二重化の説明はない。だが書物でなく生きた現実の人間の認識を相手にする場合には、いやが応でもこの問題にぶつからざるをえない。(『三浦つとむ選集3 スターリン批判の時代』 p.62〜62「スターリンの言語学論文をめぐって」から)
生産物の中には投下された人間の労働力が結実しているという意味で、生産物が「外化された労働力」「対象化された労働力」であるということは比較的納得しやすいことですが、マルクスの指摘のように、生産物の中には「すでに労働者の表象のうちに、かくしてすでに観念的に・存在していた」認識活動つまり精神的な労働力も含まれており、その意味で生産物は「外化された意識」「対象化された認識活動」でもあるわけです。つまり生産物は人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、生産物はそれらの現実的な統一体として人間の肉体・精神の外部に対象化されたものであるとマルクスはいっているのです。
ところで人間が肉体的活動および精神的活動を投入して生産するのは何も商品生産物に限られたものではありません。日常生活において人間がつくりだすさまざまな生活用品や道具、工作物、料理などはすべて人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものです。
また表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要なものとされています。それは表現とよばれる活動が人間相互の精神的交通のためにつくりだされ、人間が人間として社会的生活を送るために不可欠なものとなっているからにほかなりません。
言語表現も表現の一つであり、表現された言語(話し言葉・書き言葉・手話・点字等)は物質的生産物であるという側面(音声や文字)と精神的生産物であるという側面(内容)とが分かちがたく結びついたものとして存在しています。つまり言語表現の意味とは表現された言語に結びついている表現者の認識活動であり、それは言語規範を介して言語表現に対象化されているのです。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕 〔言語〕
▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
人間が鏡や他者を媒介にして自己認識を深めること、さまざまな計器や観測機器を利用して外部の自然(人間の肉体を含む物質世界)についての認識を深めること、そのさい精神的に自己を二重化し、現実の自己の立場以外の立場に移行して思考し再び現実の自己に復帰すること、そして、そうやって人間は認識の限界を越え自己や世界に対する認識を広げ深化させてきたということを前項まで(タグ【観念的自己分裂1】)に書いてきました。それでは人間は人間の認識活動や精神活動それ自身についてはどうやってその認識を深め共有してきたのでしょうか。
自己の二重化(3)――観念的自己分裂(2005/01/25)に引用した三浦つとむの文章につぎのような部分があります。
マルクスは、認識そのものに一方的に鏡としての性格をみとめるのではなく、更に進んで認識の対象についてもやはり鏡としての性格があるということを承認して、その交互関係のなかで反映論をとりあげている。……対象という「鏡」は、物質的な構造を示すものもあれば、人間の観念を映し出すもの(表現)もある。……現実の自己から観念的な自己が分裂する事実は、対象を「鏡」とする人間の認識において常につきまとうのであって、人間の認識にとっては本質的なものである。(『スターリンの言語学論文をめぐって』)
三浦は、表現が人間(表現者)の観念を映し出す「鏡」であるといっています。このことと前項の「認識の対象化」の最後に書いた「表現とよばれるものも人間の肉体的活動および精神的活動が対象化されたものであり、そこでは対象化された精神的活動つまり、表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識内容がとりわけ重要」ということとは密接な関係があります。というのは、「表現する」ことは「精神のうちにある認識活動を現実的に外化(対象化)する」ことであり、表現の本質は自己の認識活動を表現物という形で現実的・物質的に対象化し、この対象化された表現物を介して自己の認識活動を他者に伝えることにあるからです。
したがって、表現を受け取る他者は、表現物に対象化された表現者の認識活動つまり表現物に直接的・間接的に結びついている表現者の認識活動(内容)をこの物質的な表現物を介して受け取ることになりますが、このとき表現物を鑑賞・受容する他者は、知覚した表現物の模像を媒介にして表現者の立場に観念的に移行し、その観念的な世界の中で対象化した表現者の認識活動を追体験する必要があります。この観念的な移行がうまくいかないと表現者の認識活動を適切に対象化することができず、鑑賞者(受容者)は適切な追体験をすることができません。つまり、表現物に対象化された表現者の認識活動(内容)を正しく受け取るためには表現者の立場への観念的な移行(観念的自己分裂・観念的追体験)がとても重要になってくるわけです。
表現物という「鏡」は三浦のいうように「人間の観念を映し出す」ものですが、表現者の認識活動を適切に追体験するには鑑賞者(受容者)の側にも単に受動的に表現を受け取るだけでなく能動的・主体的に表現に働きかけて表現者の精神の世界に自ら入っていくという努力が要求されるのです。また同時に、表現する側もそれを受け取る側が追体験しやすいように表現を工夫する必要があります。
〔追記〕人間が行なう表現の中でももっとも原初的なものは身体的表現とよばれるものであったと思われます。この身体的表現は人間だけでなく動物にも見られます。肉体的な動きや発声の形で表される身体的表現も認識活動の現実的な対象化ですから、この場合にも相手(人間や動物)の立場に移行してその相手の認識活動を追体験することが求められているのです。
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▼ 二つの主観(1)〜(3)をまとめて読む。
観念的自己分裂について語るときに三浦つとむは鏡の例を引く。
ある人が鏡の前に立って鏡に映った自分の姿を見ている場合、この状況を客観的に見ると、鏡という存在は鏡を見る主体[現実の人間]に対してその主体の視覚の対象となる客体[鏡に映った人間の像]をつくりだす媒介をしていることがわかる。つまり、鏡は主体にとってその客体をつくりだす媒介の作用を果たすものであり、〈主客対面の構図〉をつくりだす媒介となるものだということである。
しかしながら、鏡に対面して自分の姿を見ているときの意識内部の活動を観察・反省してみれば、鏡に映った自分の姿が映像であることを失念し、いつしか映像を現実の自分であるかのように見ているもう一人の自分がいることを発見できるであろう。このとき実は世界は二重化している。生きた人間である現実の自分[主体]が鏡の映像[客体]を見ている〈現実の世界〉に対して、意識内部では鏡の映像(鏡に映った映像[客体]に媒介されて意識内に形成された自己の像)を現実の自分として見ているもう一人の観念的な自分(現実の自己[主体]から分離した観念的な主体)がおり、意識内部にはこのような主客の対面構図からなる〈観念的な世界〉[想像の世界]が成立しているのである。
鏡(厳密にいえば鏡に映った自己の像)を媒介にした世界の二重化と、現実の自己からの観念的な自己の分離とは同時に起こることであり、〈鏡に映った自己の像〉と同じように世界の二重化を媒介するものはほかにもたくさんある。これについてはまた後に触れることにするが、三浦つとむはこうした〈世界の二重化〉とそれにともなう〈現実の自己からの観念的な自己の分離〉を観念的自己分裂と呼んでその過程的構造を理論的に明らかにしたのである。
観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動であるから、これまで幾多の哲学者や心理学者・言語学者・文学者等がそれなりの分析を行ない、この精神現象を扱ってきた。しかし、この意識活動をその過程的構造において分析し、その動的なメカニズムを理論的・概念的に明確に説明した最初の人は三浦つとむであった。そして、三浦つとむがこの観念的自己分裂という意識活動について理論的に研究しようと考えるきっかけをつくったのは推理作家エドガー・アラン・ポーの小説『モルグ街の殺人』であったことは特筆しておくべきことかもしれない。これについてはあらためて取りあげるつもりである。
さて、デカルト、カント以来のいわゆる「主観ー客観対立図式」はそこから生じた「主観主義」と「客観主義」、ことに「客観主義」に対する批判の声が近ごろはかまびすしく、「主観ー客観対立図式」の評判もとみに低下している。確かに「主観主義」も「客観主義」も主観と客観のそれぞれの性質を把握した上での論理であるからそれなりに説得力のあるものではあるが、主観と客観を対立し相容れないものとしてとらえる点では両者とも一面的な見方であり、ちょうど裏返した長所と短所を持っているという点では異父兄弟のようなものである。
「主観ー客観対立図式」を観念的自己分裂という観点から再評価すると、それは〈主観ー客観対面図式〉ではあっても単純な対立図式ではないことが分かる。
人間はあらゆるものを対象として意識する存在である。しかも自己を意識の対象として反省[自省]することのできる存在である。自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識、自己を含めあらゆるものを対象として思考する意識とはなんであろうか。それは〈自己意識〉である。しかも人間は自己意識をも意識の対象として意識することができる。自己意識がどのようにして形成され、人間がいかにして観念的自己分裂の能力を獲得したかについては別のところで述べるとして、ここでは観念的自己分裂という意識活動から見た「主観ー客観対面図式」と〈自己意識〉とについて私の私見を述べようと思う。
カントの定立した主観(subject)とはデカルトの「(我)思うゆえに(我)あり」の「(我)」であり、自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識すなわち自己意識である。そして客観(object)とは主観が「思う」対象としての客体である。人間の自己意識つまり主観は自己を含めあらゆるものを対象(客体)としてすなわち客観として意識し、思考することができる。客観は主観としての自己意識以外のあらゆるものつまり主観の対象のことであるから対象意識とも呼ばれる。
カントは人間の意識外部の物質および物質現象を現実的に把握する経験的な主観つまり直観・直覚の主体[感覚的な主体]と、意識外部および内部のあらゆる現象を対象つまり客観として把握する超越論的な主観つまり理性的な主体とを峻別し、後者の超越論的な主観す なわちデカルトのいう「絶対不動の基礎」である「肉体から切り離された純粋な精神としての思いつつある我」を「存在するものすべての存在を支える卓越した基体(subjectum)」であると位置づけて、この基体を「真の主観」すなわち形而上学的原理として定立したのである。
このような「二つの主観」という観点はギリシア哲学の哲学的霊魂観にも見られるものであって、特にアリストテレスの説く「感覚・運動と連動する植物的・動物的な霊魂」と「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とはカントの「経験的な主観」と「超越論的な主観」とにぴったり符合するものであろう。
観念的自己分裂という意識活動から見てこの「二つの主観」が何を意味するかはもはや明らかであろう。さきに触れたように観念的自己分裂においては世界は二重化しているのであって、一方では現実的な世界において現前(present)している自己の肉体を含むあらゆるものを客体として知覚・直観し、それらと肉体的・精神的な相互交通を行なっている現実の自己[現実の主体]として、他方ではその現実的な自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界において(観念的に)再現前(represent)している観念的なもの・現象を客体として認識し思考している観念的な自己[観念的な主体]として、これら二つの主観が二つの世界の中に別々にしかも同時に存在しているのである。そしてこれら二つの世界を自在に行き来しているのが人間のありふれた日常の意識活動としての観念的自己分裂であり、この観念的自己分裂を統御しているのは肉体的・精神的な統一体としての現実の自己[現実の主体]である。つまりカントの「経験的な主観」とはこの肉体的・精神的な統一体である現実の自己[現実の主体]であり、「超越論的な主観=真の主観」とは現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離し観念的な想像の世界に立場を移行した観念的な自己[観念的な主体]なのである。
そしていわずもがなではあるが、客観にも二つのものがあるということが自ずから明らかになる。一つは現実の自己[現実の主体]が直観*・直覚の対象として知覚し認知している現実の・実在の客体から直接にもたらされる客観、すなわち現実の世界に現前(present)しているもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)の知覚表象という形態をとった客観であり、もう一つは意識の内部で現実の自己から分離した観念的な自己[観念的な主体]が意識・思考の対象として認識し思考しているあらゆる客体、すなわち現実の自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界に再現前(represent)している表象や観念・概念という形態をとった客観である。
* 直観という語は一般的にもまた哲学的にもさまざまな意味をもった語として使われている。この文書では知覚・直覚と同義で用いているが、知覚・直覚はすでに獲得され・記憶されたさまざまな形態の認識(知識)からのフィードバックを受けて形成される統合的なもの(自覚的・無自覚的な認知)であるというのが今日の知見であるから、私は直観という語もまた同じ性格をもつものとして用いている。また、熟語としての直観は通常「直観すること」という意義と「直観されたもの・直観された内容」という意義あるいは両方の意義を含んだものであるが、意味の違いは文脈に依存している。これは直観という語に限らず多くの熟語に共通する性格である。この文書ではほとんどが「直観すること」という意味で使われている。
以上のことを整理すると以下のようになる。
(1) 観念的自己分裂は人間が日常的に絶えず自覚的[意識的]・無自覚的[無意識的]に行なっているありふれた意識活動であり、〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれるものである。
(2) 観念的自己分裂においては、世界は〈現実の世界〉と〈観念の世界〉[想像の世界]とに〈二重化〉しており、それら二つのそれぞれの世界ではともにそれぞれの〈主客が対面〉している。
(3) 現実の世界においては、肉体的・精神的な統一体である現実的な自己[現実的な主体]が、現実の世界に現前(present)しているあらゆるもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)をその客体として対面しており、意識内ではそれらの客体から直接にもたらされる統合知覚が直観的な客観(「感覚的な客観」)として現実の自己意識(「感覚的な主観」)の客体となっている。
(4) 現実の自己[現実の自己意識]によって意識のうちに自覚的・無自覚的につくりだされた観念的な世界においては、現実の自己[現実の自己意識]によって自覚的・無自覚的につくりだされて観念的に再現前(represent)している表象や観念・概念(「理性的な客観」)が、自覚的・無自覚的に現実の自己[現実の自己意識・現実の主体]から分離した観念的な自己[観念的な主体・観念的な自己意識](「理性的な主観」)の客体となっている。
西洋哲学に大きな影響を与えたパルメニデスが「論理法則を使って客観的に永遠不変なものをとらえる能力」を理性と呼び、アリストテレスやカントが観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と呼んだのは、自覚的・意識的に現実の自己から分離した観念的な自己であって、無自覚的・無意識的に分離したそれではない。人間は自覚的・意識的に観念的自己分裂を実践することによって対象[客体]に対する認識を深め・広め、現実の自己に復帰する。それによって現実の自己の認識も深まるし広まるのである。むしろ自覚的・意識的な観念的自己分裂の実践なくしては認識の深化は不可能なのである。そして創造力が想像力の別名であるように「理性的な主観」はまた創造的な主観でもある。
それゆえ観念的な自己[観念的な主体]を「理性的な主観」と一般化して呼ぶのは不適当であろう。観念的な自己[観念的な主体]にも〈妄想〉や〈勘繰り〉といった非理性的なものもあるからである。そして理性的だからといってそれが客観的なものであるとは限らない。それは方法論の問題であり、ここでの問題とはまた別の問題である。
パルメニデスが感覚を「変化するものだけをとらえる能力」であり主観的なものであるといい、アリストテレス、カント等が現実の自己[現実の主体]の主観を感覚的・一時的な不確かな主観であるとして、これを退けたのにも理由がある。彼らは直観・直覚は意識の外部にあって絶えず変転し、個々別々の個性を示す対象[客体]の千変万化な個別性をとらえる能力であると考え、自覚的な観念的な自己[観念的な主体]は対象[客体]の不変的・普遍的な側面を理性的に分析的にとらえる能力であると考えたからであり、このような考え方は一面的ではあるが真理の一部をついているからである。
しかし、物質は絶えず運動し世界は変化し続けているのだから対象[客体]が絶えず変転することは普遍的な事実である。また、観念的な世界において観念的な自己[観念的な主体]の客体となっている表象や観念・概念は、個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]から知覚表象として獲得された「感覚的な客観」を材料として不要な具体性が捨象され・抽象された結果形成され、あるいは再構成されたものである。したがって知覚表象がなければ表象や観念・概念を形成することはできず観念的な思考自体が不可能になる。そしてそのような抽象が可能なのは個別的・具体的なさまざまな現実の存在[客体]自身が普遍的な性質をも合わせもった存在だからであり、直観・直覚が現実の対象の個別性・特殊性を知覚表象としてとらえるばかりでなく、観念的な自己[観念的な主体]の働きによってすでに獲得され記憶されている認識のフィードバックを受けた観念的・概念的な把握・認識をも同時に行なっているからである。このことは日常生活における直観・直覚の内容である知覚表象について少し注意して自省してみれは理解できることである。そしてその折にフィードバックされた認識が不適切な誤ったものであったり先入見であったりした場合には、直観・直覚が誤認したり、錯覚をしたりすることもある。観念的な自己[観念的な主体]に非自覚的・無意識的な非理性的なものがあるように直観・直覚にも不注意な思いこみや錯覚、空耳のようなものもある。
しかしながら、自覚的な観念的自己分裂の実践を続けているうちにそれが習い性となり、無自覚・無意識に適切な観念的自己分裂をするようになるのも事実であるし、直観・直覚は受動的な場合はほとんどが無自覚・無意識ではあるがたいていは適切な知覚表象を得ていることを考えると無自覚・無意識の主観を一概に否定することはできない。
また、観念的自己分裂を統御しているのが現実の自己[現実の主体]であることは重要な点である。しかし、現実の主体の主観と観念的な主体の主観は相互に浸透しあいつくりあって(影響しあい補いあって)いること、それらの客体である現実的な客観と観念的な客観とが相互に連係していることも留意しておく必要があろう。
〔追記〕
上記における「自己意識」は「意識主体」というべきであるし、〈自己意識〉は「対象意識」とすべきである。また「対象意識」は「対象認識」(意識主体の認識対象となっている意識内の客体=表象や概念)に改めなければならない。自己意識・対象意識については対象意識(1)〜(5)の各記事を参照していただきたい。〔現実的な主体=認知主体、観念的な主体・観念的な自己意識=認識主体と呼ぶ方が適切かもしれない〕
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 二つの主観(1)〜(3)をまとめて読む。
〔2006.02.07記〕
『三浦つとむ選集3 言語過程説の展開』(勁草書房)の冒頭に載せられた「『言語過程説の展開』から『日本語はどういう言語か』さらに『認識と言語の理論』へ」の中で三浦つとむは次のように書いている。
絵画でも映画でもあるいは言語でも、その表現の場合に、そしてまたそれらを鑑賞や理解するという追体験の場合に、現実の世界から「もう一人の自分」が分裂するという観念的な自己分裂が行われることは、少年のときに経験的にわかっていたけれども、言語学や芸術学の本をいくら見ても、……このことについてはどこにも一言も述べてありませんでした。ところがただ一つ、ポオの『モルグ街の殺人事件』の中に、C. August Dupin が散歩中に不思議な分析的才能を発揮した事実を記したあとに、こう書いてある。I often dwalt meditatively upon the old philosophy of the Bi-Part Soul, and amused with the fancy of a Double Dupin――the creative and the resolvent. 分析活動を行ってその結果を脳中に描くということになると、これは観念的な自己分裂を行っての活動だから、Double Dupin と呼ばれるのも当然であろう。そこで私は、ポオが古代哲学とよんでいるものを自己分裂の理論だろうと予想して、さがしはじめました。恐らくアリストテレスだろうと見当をつけて、シュベグラーの『西洋哲学史』を見たら、思った通りでした。しかしこれでは、観念論的な解釈でもあるし、このままでは使いものになりません。それで私は自分自身で「人間の自己分裂」の理論をこしらえて、『日本語はどういう言語か』で、過去の回想や未来の予想など時の表現における主体の移行をこれで説明しました。
青空文庫の『モルグ街の殺人事件』(佐々木直次郎訳)から上記引用英文を含む段落の日本語訳を引用する。
そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな次中音(テナー)なのが最高音になり、発音が落ちついていてはっきりしていなかったら、まるで癇癪(かんしゃく)を起しているように聞えたろう。こんな気分になっている彼を見ていると、私はよく二重霊魂という昔の哲学について深く考えこみ、二重のデュパン――創造的なデュパンと分析的なデュパン――ということを考えて面白く思うのであった。
三浦は「二重霊魂(the Bi-Part Soul)」について『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房)所収の「二重霊魂の系譜」で詳しく書いている。長くなるが引用する。
ちょうどそのころ岩波文庫で出たシュベグラーの『西洋哲学史』を読んでみて、アリストテレスが自然哲学の中で説いているヌース(理性)であろうと見当をつけたのであるが、シュベグラーはつぎのようにいう。
「アリストテレスは人間のうちに二つのヌースを区別しているのである。一つは有限で、一時で、個人に属し、個人と生死をともにするものであり、もう一つは永遠で肉体から分離しうるもの、神の理性と同一なものである。かれは前者を受動的理性、後者を能動的理性と呼んでいる」
そしてつぎのように批判する。
「ここにもまたアリストテレスの二元論が突然その姿を表わしている。明らかにこの能動的理性と魂との関係は、神と自然との関係と同じであって、両者はなんら本質的な関係をもっていない。」(谷川徹三・松村一人共訳)
アリストテレスは、魂の能力としてつくりだされる諸機能と、理性とを区別して、理性は外部から肉体に入ってくるし、また肉体から外部へ出ていくのだという。つまり、魂と理性とはそれぞれ別個に成立して、あとから結合するわけである。魂は唯物論的に、理性は観念論的に説明するのだから、結論はたしかに二元論である。ポオがこの奇妙な「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬいたのに、シュベグラーは見ぬけなかった。三人称小説での表現主体は傍観者だが、一人称小説での主体は行動者で能動的に事件の当事者として活動する。現実的な作者との差異はあまりにも明瞭である。現実的な作者が現実の世界を分解して空想の世界を組立てるのための材料をとり出してくるのに対して、空想の世界における観念的な「私」はそこであたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていくことも、すこし反省すれば容易に納得できることである。
作家であるポーは、現実の自分と小説を書いているときの自分とは違う自分であること、つまり小説を書いているときの自分は現実の自分の立場を離れて小説の世界に入り込み、その中で進行する事件の「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりして創造的な仕事をしていることを十分に理解していたから、アリストテレスの「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬくことができたのに、シュベグラーにはそれができなかった。
小説を書いているときの作家は現実の自己の立場から小説の舞台となっている世界に自覚的に入り込んで「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりしており、このような架空の登場人物の立場に観念的に移行した作家は現実の自分にしばられることなく「あたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていく」ことができる。このことを三浦は『「創造的」な立場にいる人間の精神活動』といっているのである。ポーは自分がしているこうした創造的な精神活動を自分の作品の主人公デュパン――創造的なデュパン――の精神活動に仮託しているわけである。
われわれは鏡に向かって、その中に自分を見る。鏡の映像を自分すなわち現実の生きた人間と思うとき、同時に観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っていることになる。「能動的理性」はこのようにして、いつでも自分という個人からすなわち現実の生きた人間から観念的に分離できる。アリストテレスはこの理性を「自分自身を思惟する純粋な形相」だと説明した。純粋な形相とは、質料をもたぬ本質のことである。現実的な自己はつねに肉体を持ち、その意味で魂はつねに質料にささえられて存在するのだが、鏡の例でわかるように観念的な自己は認識上の分裂にすぎないし、現実の生きた人間としての自己の外側に位置してその肉体を眺めているのだから、肉体を持たぬ純粋な形相だということになる。われわれは現実には生命を持った地球上の人間でありながら、〈まだ人類が存在していない世界の人間〉として、その視線で赤熱状態の地球を見ることができるのだから、この視覚を人間の発生以前にすでに存在した特殊な霊魂のはたらきだと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。科学者は宇宙を永遠と考えるが、このときは対象と同じ永遠の立場に観念的に立ちながら論じていく。これを現実の生きた人間に入りこんでいる特殊な永遠の霊魂のはたらきと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。ポオの『モノスとユウナの対話』では、モノスが「無窮の魂」による「自分の生れ変り」を語っているが、世界各地に見る自然成長的な霊魂不滅論にしても哲学者の理性永遠論にしても、やはりそれなりの現実的な根拠が存在したのであるから、それを指摘しなければ正しい批判にはならない。
アリストテレスのいう「能動的理性」すなわち「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とは、現実の自己から分離し「観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っている」もう一人の自分なのであり、このもう一人の自分は「現実の生きた人間としての自己の外側に位置」する観念的な世界で生身の肉体の束縛から離れて自由に活動できる存在である。しかしその観念的な世界およびそこに移行したもう一人の自分は、生身の肉体をもった現実の自分によってその意識の内部につくりだされた観念的な存在[仮構・フィクション]であって、外部から自分の肉体に入りこんできた不滅な霊魂ではない。
人間の観念的な自己分裂をアリストテレスと同じく観念的にとりあげたのはヘーゲルであり、それを唯物論的に改作して受けついだのはマルクスであった。『資本論』は、人間が他の人間を鏡として、他人のありかたに過去や未来の自分のありかたを想像するという反映論を説き、観念的に分裂した自己を現実的な自己からひきださず逆に現実的な自己以前に存在する「我」だと解釈したフィヒテ主義者にも皮肉を投げつけている。観念的な自己の成立する過程がつかめなければ、有限のものと永遠のものとをならべてどちらが基礎的なのかと考えることになろう、それで私も『日本語はどういう言語か』(1956年)の中で、人間は観念的な自己として永遠の立場をとることができるから、観念論哲学者は永遠的存在こそ基礎であってそれから一時的存在を説明すべきだという常識的な論理をもちこんで、観念的な自己のほうを基礎的だと思いこむむね説明しておいた。神を肯定する者にとっては、このような永遠的存在は神ないし神的と考えられ、神の精神から個々の人間の精神が形成されるのだとも解釈されていく。アリストテレスにしても、「受動的に規定されている人間の理性はすべて本源的に能動的理性に依存している」と。基礎を個人の外に持っていった。個人の外部にある神的で永遠の「能動的理性」が個人に入りこむとき、個人が対象から受動的につくりあげると見られる「受動的理性」が成立するのだと、逆立ちさせて説明したのである。われわれが自分について知るという「受動的理性」にしても、ある時はガラスの鏡で姿かたちを、ある時は他の人間のことばすなわち認識を表現した鏡で眠っているときのありかたを、ある時は赤ん坊がどうして生まれてくるかという他の人間の鏡によって自分の過去のすがたを、それぞれ「能動的理性」のはたらきによってつかまなければ、一貫した統一のある認識にはならないことを、考えてみる必要があろう。
観念的な自己は現実の自己から観念的に分離したものであって、けっしてその逆ではない。外部から個人に入りこんだ「能動的理性」によって「受動的理性」が形成されるというのは逆立ちした考え方である。人間は鏡に映った自分の映像を媒介にして現実の自己の姿についての認識を深める。また、親が語ってくれた眠っているときの自分の姿を媒介にして自分の眠っている姿を想像する。あるいは赤ん坊を見てそれを自分に置き換えてみることによって自分が赤ん坊だった頃の姿を思い浮かべる。このようにさまざまな〈鏡〉を媒介にした観念的自己分裂によって人間は直接には知ることのできない自分のさまざまなありかたについて認識を深めていく。すなわち、さまざまな〈鏡〉の媒介によって観念的な自己が認識のうちに現実の自分のありかたを映し出すのであって、「能動的理性」が無媒介に現実の自分の姿を描き出すわけではない。
観念的な自己は、このように他者の姿を自己の姿に置き換えて映し出すことができるし、逆に作家がよくやるように自己の姿を他者の姿に置き換えて映し出すこともできる。つまり認識(意識)にも〈鏡〉(媒介)としてのはたらきがあるのである。
三浦は意識外部の〈鏡〉を〈物質的な鏡〉、認識(意識)を〈精神的な鏡〉と呼んでいるが観念的自己分裂においてはこの二種類の〈鏡〉が相互に浸透しあい統一されているのである。マルクスや三浦のいう反映とはこのようなものをいうのであっていわゆる「俗流唯物論」や「官許マルクス主義」のいうような単純な反映ではない。
エンゲルスは『反デューリング論』の旧序文で「ギリシァ哲学の多様な形態の中には、後世のほとんどすべての考えかたが、すでに芽ばえており、発生しかけている」といった。アリストテレスの理性論についてもこれはあてはまる。絶対的な主観(理性)がまず客観的に存在するというのだから、二元論か一元論をつらぬいたかのちがいこそあれ、ヘーゲルと同じ発想である。
私のぶつかった問題はシュベグラーを読んで一応片づいたが、かなりたってから(太平洋戦争がもうはじまっていた)レーニンの『哲学ノート』のヘーゲル『哲学史』批判がアリストテレスをとりあげていると知って、こんどはヘーゲルを読んでみた。当然のことではあるが、ヘーゲルはアリストテレスの二元論を自分の客観的観念論としての一元論の発想で評価し、かつ批判している。この点ではシュベグラーはヘーゲルに忠実にやはり一元論をつらぬこうとしたわけである。ところがレーニンは、ヘーゲルのアリストテレス論に反対して、ヘーゲルとは逆にアリストテレスの二元論の中の唯物論的側面を評価し、ヘーゲルは「アリストテレスを一八〜一九世紀の観念論者に偽造するものだ」と怒っている。このレーニンの批判自体は正しいのだが、彼もアリストテレスの「能動的理性」論がどうして生れたかをつかんでいないから、俗流唯物論の立場で論ずる以上に出られずに、観念論的側面を切りすててしまい、唯物論的に改作する作業を行っていない。私は『哲学ノート』を読んでから、ポオがアリストテレスの哲学について「考えふけり」、「二重デュパン」論でその現実的な根拠を事実上指摘したことを、評価しなおした。ポオは一般の文学評論家が考えているよりもはるかに有能な人間であって、学問の分野で仕事をしているわれわれも多くの学ぶべきものがあることを、私はこれまでもいろいろな機会に具体的にとりあげて来た。右の叙述もまた私が認識論・表現論を展開するに際して、役立ったことを、この小論で附け加えておく。つまり、ポオとマルクスと時枝という、一見無関係に思われる人びとの主張が、それなりに共通の問題にからんでいたし、それらが私の仕事の中で理論的に合流したのである。
三浦の観念的自己分裂論がポーの『モルグ街の殺人』の一節から生まれたということはこの小論を読むまでは私も知らなかった。
さきの『モルグ街の殺人』の引用文では、観念的な自己分裂を起しているときのデュパンを「私」が観察して、観念的な自己としての活動が現実的な自己のありかたにどんな影響を及ぼしているかを記したものである。目的的に観念的な自己として活動することは、自ら意識して夢を見ることであり、自分から「創造的」に他人の心の動きを想像し展開していくときにしても、あるいは他人の小説の追体験に夢中になって(うまいことばだ!)空想の世界を楽しんでいるときにしても、受動的に現実の世界からの理性が成立することを拒否し、現実的な意識をもっていない。そのために現実的な自己のありかたとしては、いわゆる「上の空」の放心状態という異常な態度を示すことになる。眠りながら夢を見て、それを現実的な自己の行動にあらわすのは、催眠術にかかった人間や夢遊病者で観察できるが、これらの人びとの態度と自ら意識して夢の中にいる人びとの態度との間に共通点があったとしても、別にふしぎではない。
上記の内容についてはあらためて書こうと思っている。
アンデルセンとポオとは、学問の分野でも子どもの発言を軽視してはならぬことを私に教えてくれた。エンゲルスは人類の文化のいわゆる子どもの時代におけるギリシャ哲学の意味を私に教えてくれた。言語学者たちがわが国の本居学派の言語観を軽蔑の目でながめ、構造言語学とかチョムスキー文法とか「見せかけの深遠さ」を得々としてかつぎまわっているのは、学問の本道をあるいているわけでも何でもない。「二重霊魂」説の系譜を無視して科学的な言語理論の建設はありえないのである。
こういった姿勢はマルクスやエンゲルスの著書では随所に見られる。子どもの発言に学ぶというのは日ごろから私のしていることでもあるのでとても納得できるが、過去の哲学や自分が共感できない思想にも学ぶところがあるというのは頭では分かっていてもなかなか難しい。最近ようやくマルクスや三浦の考え方(弁証法的な思考法)について理解できるようになってはじめてその意味が分かったような気がする。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 二つの主観(1)〜(3)をまとめて読む。
〔2006.02.12記〕
認識論的にみた観念的自己分裂 「主観・客観と観念的自己分裂」で書いたように、観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず頻繁に行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動である。その構造を認識論的観点から簡潔に表現すると、意識内外部の対象に触発・媒介されて現実の自己から分離・移行した観念的な自己が現実の世界の束縛から解き放たれ、現実の世界の外側に位置づけられた観念的な世界の中でさまざまな客体と対面・関係しながら活動し、そこで獲得した創造的なものをもって現実の自己に復帰する、という形態で現象している意識活動である。この〈→移行→復帰〉の過程は意識の内部で絶えず継起的に行なわれている。
存在論的にみた観念的自己分裂 しかし存在論的にみれば、それは意識内における活動であって、観念的な世界は現実の自己が意識の内部につくりあげたものであり、観念的な自己は現実の自己が自覚的にせよ無自覚的にせよみずから観念的な世界の中に分離させたものである。このとき現実の自己は消滅しているわけではない。現実の自己は、観念的な自己の担い手としてそのままその場にとどまっており、現実の自己と観念的な自己との統一体として観念的な自己とのあいだに交通関係を維持している。そして観念的な自己がはたらきかけているさまざまな客体は観念的な自己がつくりだしているかのように見えるけれども、それらの客体は実際には現実の自己と観念的な自己との統一体である現実の自己が現実の世界あるいは観念の世界にある材料をもとにして意識内につくりだしているものである。つまり観念的自己分裂を統御している主体は現実の自己なのである(この統御は自覚的・意識的・目的的に行なわれることもあれば無自覚的・無意識的・無目的的に行なわれることもある)。しかも現実の自己は肉体的な自己と精神的な自己との統一体であって、肉体的な自己と精神的な自己とが連携しながら現実の世界の中で現実の客体と対面し関係している現実的な存在である。こうして現実の人間は肉体的な自己と精神的な自己との統一体として、一方で肉体を介して外の世界とのあいだに物質的・精神的な相互関係を築きながら、他方で外界から得たさまざまな知識を加工して多様かつ創造的な精神活動を続けているのである。
観念的自己分裂という意識活動を存在という観点から大づかみすると以上のようになる。そして観念的に自己分裂した自己は観念的な世界で得た新しい認識を携えて遅かれ早かれもとの現実の自己に復帰するが、休むいとまもなく再び分裂して意識活動を続けるのであって、このように絶えず分裂したり復帰したりしているのが人間の意識のあり方なのである。
ヘーゲルにおける観念的自己分裂 マルクスはヘーゲルの弁証法が純粋思惟に始まり純粋思惟に終わる「思惟の弁証法」であることを批判する文章*の中で「(ヘーゲルの)主体はつねに意識ないし自己意識である。あるいはむしろ、対象はただ抽象的意識としてのみ現われ、人間はただ自己意識としてのみ現われる」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫)といっているが、ここでマルクスのいっている「意識」とは現実の自己の意識のことであり、「自己意識」とは現実の自己の意識から観念的に移行した自己のことである。また、「対象はただ抽象的意識としてのみ現われ」というのは「ヘーゲルにとっての対象は観念的な自己の客体つまり抽象的な対象認識(=概念)としてのみ現われ」るということを意味している。ヘーゲルの弁証法においては「観念的な自己」(精神)を否定するのがそこから分裂した「現実の自己」すなわち現実的感性であり、現実的感性の否定(つまり否定の否定)が真実の肯定つまり止揚された哲学的精神(認識を新たにして復帰した「観念的な自己」=理性的な自己)である。この止揚は抽象的な対象の「自己意識」(観念的な自己)への還帰(無化)と対象の抽象的な外化(対象化=自己の実現)として現れる。この哲学的精神は思惟の運動(観念的自己分裂)に媒介されて発展を続けついには絶対知・絶対精神に到達する(自己の完全性に目覚めそれを抽象的に確証する)のである。
ヘーゲルの逆立ち ヘーゲルは観念的自己分裂のことを認識論的に十分に認識していたが、ヘーゲルにおいては「観念的な自己」がすべての出発点であってそこから「現実の自己」が分裂してくるという形をとるのであるから、ヘーゲルの弁証法においては観念的自己分裂が転倒した形で現われている。しかもマルクスの指摘するようにヘーゲルの疎外は「自己意識と意識との」「思想そのものの内部での対立」(『経済学・哲学草稿』)によって止揚される限りでの純粋思惟における疎外、抽象態としての自己疎外である。
このバウアーの大胆さの秘密は、ヘーゲルの『現象学』である。ヘーゲルはここで人間のかわりに自己意識をおいているのであるから、いろいろさまざまの人間的現実性は自己意識の一つの規定された形式として、その規定性としてあらわれるにすぎない。だが自己意識のたんなる規定性は「純粋のカテゴリー」であり、したがって私がまた「純粋」な思考のうちで揚棄し、純粋な思考をつうじて克服することのできる、たんなる「思想」である。ヘーゲルの『現象学』では、人間的自己意識のいろいろの疎外された形態の物質的・感覚的・対象的な基礎は放置され、破壊的な全工作は、もっとも保守的な哲学をその成果としてもつのである。というのは、その工作が対象的世界を、感覚的・現実的な世界を、一つの「思想物」に、自己意識のたんなる規定性にかえ、そして精気のようになった対立者を、いまや「純粋な思想の精気」に解消することができるやいなや、これを克服したつもりでいるのだから。だから『現象学』は首尾一貫して、すべての人間的現実性のかわりに、『絶対知』をおくことで終るのである。――知というのは、それが自己意識の唯一の定在様式だからであり、自己意識が人間の唯一の定在様式とみなされるからである。――絶対知というのは、まさに自己意識がただ自分自身だけを知り、もはやなんら対象的世界にさまたげられることがないからである。ヘーゲルは、自己意識を、人間の、現実的な、したがってまた現実的・対象的世界にすみ、かつこれに制約されるところの人間の、自己意識としないで、人間をば自己意識の人間とする。彼は世界を頭で〔逆〕立たせ、したがって、また頭のなかですべての制限を解消させることができるのである。ただしそれによって、これらの制限が、悪しき感性にとり、現実の人間にとっては、いぜんとして存続するのはもちろんのことである。そのうえ彼にとっては、普遍的自己意識の制限性を示すすべてのもの、すべての感性、現実性、人間の個性ならびにその世界の個性が、必然に制限とみなされるのである。全『現象学』は、自己意識が唯一のそしてすべての実在性であることを証明しようと欲している。(マルクス『聖家族』大月書店/マルクス=エンゲルス全集第2巻203ページ)
歴史の契機としての観念的自己分裂 しかしながらマルクスはヘーゲルの弁証法において逆立ちしている観念的自己分裂が絶対精神の発展運動の契機となっていることを見ぬき、ヘーゲルの観念的自己分裂のなかに人間の意識の発生の契機をみた。そしてヘーゲルの自己疎外が現実の世界における人間の自己疎外の反映であることを鋭く見ぬいたマルクスはヘーゲルの弁証法を唯物論的・存在論的に転倒した上で、その弁証法的唯物論をもって人間の歴史・経済学の研究に向かったのである。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。
何か書こうと思っているのですが今は考える時間も書く時間もありません。以前書いたまま放置してある稿がありましたのでちょっと中途半端ですがお目汚しに。
〔2006.02.14記・2006.07.31追記〕
マルクス『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)から
人間が肉体的で、自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発展できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自分の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者にたいしてみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。
「自然力」とは人間の身体を形成するさまざまな組織・器官の諸作用・諸機能およびそれらの連携的・総合的な諸作用・諸機能であり、それらを媒介し統御している意識をも含む神経系諸組織・諸器官の諸作用・諸機能である。対象に対して働きかける能動的・受動的なこれらの力をマルクスは人間の本質力と呼ぶ。人間のもつさまざまな本質力つまり本質諸力は対象に働きかけ加工する生産・労働(精神的なものを含む)において発現され生産物として外化(物質的あるいは精神的な形態で自己の肉体の外部および内部に対象化・客体化)される。ただしここでいう生産物とは人間が作り出す物質的・精神的なあらゆるもののことであり、生産・労働とはそれらを作り出す活動(物質的・精神的生産活動)である(したがってマルクスは労働を精神的労働と身体的・肉体的労働との協働・統合・統一としてとらえている)。また、同時に人間の本質諸力は対象を享受する活動として発現する。生産物を消費することは本質諸力によって対象に働きかけ対象を享受することである。
類的本質・類的存在 人間の人間たる証、その本質は人間の意識のあり方にある、とフォイエルバッハはとらえた。そして人間以外の動物と人間とを区別する人間的な意識のその実践的なあり方すなわち「理性・意志・心情」を人間の類的本質(Gattungswessen)と呼んだ。
フォイエルバッハ『キリスト教の本質』(船山信一訳、岩波文庫)から
もっとも厳密な意味での意識はただ、自己の類・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。 …略… 人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。 …略… 人間は自己自身にとって私であり君である。人間は自己自身を他人の地位におくことができる。そしてそれはまさに、人間にとってはただ自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象であるからである。
人間が意識しているところの人間の本質とはいったい何であろうか? または、類――人間のなかにある本来の人間性――を形成するものは何であるか? 理性・意志・心情がそれである。 …略… 人間は対象において自己自身を意識する。対象の意識は人間の自己意識である。君は対象から人間を認識する。対象において君に人間の本質が現われる。対象は人間のあらわな本質であり、人間の真実で客観的な自我である。(同上)
人間は他の人間および自分の姿・あり方(生き方)を通して人間というものの姿・あり方(生き方)を知る。そればかりでなく、他の人間および自分が対象と関係する姿・あり方(生き方)を通して、つまり人間に対する対象の姿・あり方を通して人間のあり方(生き方)を知る。こうして類としての人間のあり方を知った人間にとって自己の「目」に現われる対象のあり方は同時に、対象の「目」に現われる自己のあり方である。そして他者の意識のあり方はまた自己の意識のあり方でもあるから人間が他者との関係を通じて自己のあり方を自己の意識の対象とする自己意識の契機となる。フォイエルバッハは対象に現われる人間の本質を「客観的な自我」と呼ぶ。そして、対象に現われるこの「客観的な自我」を自己自身として認識する意識を「自己意識」と呼び、人間のこのような実践的な意識のあり方を人間の類的本質ととらえた。
しかし、人間がこのような自己意識をもって自然や他の人間と関係をむすぶ存在であることをマルクスは類的存在(Gattungswessen)と呼ぶ。フォイエルバッハが人間の類的本質(Gattungswessen)を「理性・意志・心情」であるとし、人間の本質が人間の内的実践にあるとしたのに対して、マルクスは人間の本質は生活の生産・自然の加工・労働・協働を通じて自己を実現する内的・外的な実践にあるととらえたからである。その上でマルクスはフォイエルバッハの「類的本質」を「類的性格」としてとらえ直して「自由な意識活動が人間の類的性格である」とした。
『経済学・哲学草稿』(同上)から
人間はひとつの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をも彼の対象にするからであるが、そればかりではなくさらに――そしてそのことは同じ事柄にたいする別の表現にすぎないが――さらにまた、人間は自己自身にたいして、眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであリ、彼が自己にたいして、ひとつの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである。 …略… 生命活動の様式のうちには、一種属〔species〕の全性格が、その類的性格が横たわっている。そして自由な意識的活動が、人間の類的性格である。
…略…
動物はその生命活動と直接的に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない。動物とは生命活動なのである。人間は自分の生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。〔人間は生命活動をもつものとして規定されるとしても〕それは人間が無媒介に融けあうような規定ではないのである。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさにひとつの類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。ただこのゆえにのみ、彼の活動は自由なる活動なのである。
人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有〔現実的存在・現実的実践――引用者注〕においても、その知識〔意識的存在・理論的実践――引用者注〕においても、自分をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。(同上)
対象的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工は、人間が意識している類的存在であることの確証である。 …略… それゆえ人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的〔welktätig〕な類生活なのである。この生産を通じて自然は、人間の制作物および人間の現実性として現われる。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またし たがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである。(同上)
人間は他の人間を〈鏡〉として他の人間の中に自己を、自己および他の人間の(つまり人間という種の)類的性質を見る。そして意識の中に自己の認識として映し出だされたこの類的性質が類的存在である人間としての自己意識である(「意識のなかで」「知的に自分を二重化し」自己の類的意識それ自身を意識の対象とする)。人間が類的存在であることと人間が社会的存在であることとは同じことである。そしてそれはまた人間の意識が類的意識であること、類的性格をもった意識つまり意識の内部に自己意識をもつ意識であることとも同じである。したがって類的存在としての人間の意識は社会的な意識であるから類的存在である人間にとっての自然は他の動物にとっての自然とはちがう。自然に対する人間の働きかけは他の動物のそれとは異なった性格をもつものである。
しかし個人としての人間ははじめから自己意識をもって生まれてくるわけではない。物質的・精神的な社会的生活つまり類的生活の中で他の人間との交通を通じてはじめて自己意識・類的意識を獲得するのである。
マルクス『資本論』から
人間は鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間の中に、自分を映し出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係することによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。しかしながら、このようにしてペーテルにとっては、パウルなるものの全身が、そのパウル的肉体のままで、人間という種の現象形態と考えられるのである。
人間の歴史 そしてそのことは種(類)としての人間つまり人類の場合も同じである。人類は他の人間との物質的生活の中で、すなわち社会的生活を通じて自己意識・類的意識を獲得したはずである。そして人間の歴史は社会とともにはじまるのであるから、人間の前史は自己意識・類的意識の獲得とともに終わりを告げ、そこから類的存在としての人間の歴史すなわち「人間の真の自然史」が始まるのである。
「あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかし、この歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である」(『経済学・哲学草稿』同上)。
〔2006.07.31追記〕
二つ上の引用文中の「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである」(『経済学・哲学草稿』)については、「認識の発展」(2005.01.25)および「認識の対象化」(2005.01.31)で観念的自己分裂および認識の外化という観点からもう少し詳しく触れています。
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演繹的論理主義についての感想(かつさん)
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▼ 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。
人間の意識は外部の世界を映し出す鏡である。認識とはその鏡に映し出された像(客体)である。この意味で認識は対象認識ともよばれる。しかし意識という鏡は単に受動的に対象を映し出すだけのものではない。意識には認識を客体として把握している主体が存在しており、その主体は現実の主体の分身である。したがってあたかもカメラマンが対象に向かってカメラを向けるために自らの身体を動かし、被写体を自らの主体性によって選び取り最良のシャッターチャンスにおいて対象を写し取るのと同じように、現実の主体・現実の人間の意識は対象とする世界を選び取り、世界に働きかけ世界を認識しようとする能動的な存在でもある。
このようにさまざまなものを対象認識としてとらえている意識は、鏡に映った像を見ている主体であるが、この主体すなわち意識主体は意識に映し出される像を媒介にして自己を認識する。つまりこれらの像を見ている自分を意識することになる。これが自己意識の第一の契機である。
また意識は外部の世界を映し出すだけではなく自分の身体をも映し出す。目や鼻や耳や皮膚は自分の身体を知覚しているし、深部感覚は身体内部の状態を知覚している。水を飲んだり物を食べたりするときには味を感じたり、のどごし感を覚える。こうした知覚を介して意識は自己の身体の存在を認識している。また運動覚や平衡覚、視覚・聴覚等を通じて意識は自己の身体の位置や動きを認識している。こうして現実の意識主体は自己の身体を内と外の両側から知覚し認識している。身体(肉体)としての自己を認識しているこの意識は身体的自己意識とよばれている。身体的自己意識は他ならぬこの身体の中に自己が存在しているという意識である。これが自己意識の第二の契機となる。
表現とよばれるものは人間の意識を意識の外部につまり表に現したものである。表現は、人間が自己の意識を物質的・物理的な形態で表出したものであり、それ自身一つの鏡である。つまり、表現は表現した人間の意識を映し出す鏡である。あらゆる表現の中で言葉は人間の意識をもっとも忠実に映し出すことができるという意味で他の表現とは一線を画するものであるが、他の表現は言葉には不可能なやり方で人間の意識のあり方を映し出してもいるのである。
表現は人間の意識を映し出すのだから、人間は表現を介して他者の意識を知り、自己の意識を知る。つまり外化された他者の意識・自己の意識である他者の表現・自己の表現を介して人間は自己の意識のうちにこれらを対象意識として取り込むことができる。こうして人間(人間の意識)は、意識のうちに映し出された(客体化された)他者の意識・自己の意識を媒介にしてあらためて人間としての、類としての自己を認識することになる。これが自己意識の第三の契機になる。
〔注記〕
「第一の契機」「第二の契機」は説明の都合上つけた名称である。順番に意味はない。ただし「第三の契機」が「第一・第二の契機」に先立つことはない。そして「第三の契機」こそが自己意識形成における最大の契機である。
〔2006.08.17注記〕
対象認識は対象意識を形成する一つの意識実体であり、対象意識と対象認識とは異なるものであるので、文中で対象認識の意味で使われていた「対象意識」の語を「対象認識」に改めた。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。
人間が「意識する」というとき、意識の内部には意識する主体と意識される客体とが存在している。つまり「表象化・概念化されたものごとを対象・客体として意識している主体」と「主体によって意識される特定のものごとの表象・概念という形態の対象・客体」がかならず存在していて、意識している意識の内部では主体と客体とが常に対峙している。
このとき主体は概念化・表象化されない形態で存在している。この主体は身体・知覚を介して現実の世界との交渉を保っている現実の自己・主体とは性格を異にしているがこの二つの主体が互いに交通をしながら結局は現実の自己・主体のもとに統括されることは、「もの思いにふけっていたら時間を忘れてしまったが時計の音で我にかえった」というような経験からも分かる。もの思いにふけっていた間も現実の自己・主体は現実の世界との交渉を保っているから、後になって「あのとき母に声をかけられて確か生返事をしていたなあ」などと思い返すことができる。
ところで現実の世界と交渉をもって生きている現実の人間の意識は知覚および表象・概念をそれぞれその認知・認識の内容としており、認知と認識との間に相互の交通関係があるからこれらを完全に分離することはできない。しかし表象や概念を対象認識という形態で直接とらえている認識は、意識外部の対象を知覚(=対象認知)としてとらえている認知とは分けて考えることができる(「二つの主観(1)〜(3)」参照)。
上記のような意識の形態に留意するなら、対象意識というものはつぎのように考えるのがいいのではないかと私は思っている。
対象意識とは脳裏に何かを思い浮かべている意識状態である。「脳裏に浮かべる」という表現は、意識内のスクリーンに何かを映し出している状態をいい表わしたものであり、意識において何かを認識している状態を比喩的にいったものである。そして「脳裏に浮かべる」という言葉は脳裏に浮かべるイメージを作り出し、それを見ている者すなわちそれを認識している主体を前提としている。これを認識主体と呼べば、対象意識とは、意識内部において表象・概念として客体化されたものごと=対象認識を認識主体が認識しているその意識のあり方とみるのがいいのではないだろうか。
つまり対象意識においては、意識が意識される客体と意識する主体とに分離しそれらが対峙しつつ現実の自己の意識に内包され・統括されている。対象意識とはそのような意識の状態をとらえた概念であると私は考えている。したがって対象意識は現実の自己によって現実の自己の意識の内部に作られたもう一つの意識状態、もう一つの世界である。この世界は三浦つとむのいう「観念的な世界」であり、その中で意識する主体(認識主体)は「観念的な自己」すなわち「現実の自己から分離して観念的な世界に移行したもう一人の自己」である。
したがって三浦のいう観念的自己分裂は意識の自己運動を概念規定したものであり、対象意識はその運動過程における意識の一つの状態を概念規定したものだと位置づけられる。
対象意識における客体は知覚から直ちに取り出されるものもあれば、記憶された表象・概念群から取り出されるものもあるし、それらを再構成して作り出されるものもある。このような客体を作り出しているのは現実の自己から分離し現実の自己に統括されている認識主体である。したがって意識内に作り出される客体は認識主体の担い手である現実の自己の状況ひいてはその立場や判断や感情・意志…の影響を少なからず受けている。したがってその認識が適切なものであるかどうかは認識主体と現実の自己との連携によりその認識と現実のあり方との間に齟齬がないかどうかを突き合わせて確かめてみるしかない。このような現実的・理論的実践を通して認識主体の作り出す客体の質も内容も変化・発展し、またそれを認識する現実の自己の立場や判断や感情・意志…もその認識の影響を受けて変化・発展するのである。
対象意識――つまり観念的自己分裂を介した観念的な世界――と現実の世界との相互浸透がこのように人間の認識の発展をもたらしていることは私たちの日常の現実的・理論的な目的的活動を自省してみれば容易に理解できる。現実世界の客体のあり方とそれを原型として観念的な世界内に作り出した観念的な認識とを相互に対照し、現実的・理論的活動を通じて、認識を発展させその認識をもって外部世界にふたたび働きかけることができるのが人間という存在である。
マルクスの「人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するばかりでなく、制作活動的、現実的にも自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである」(『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)における「意識のなかで…知的に自分を二重化する」の部分は人間が自己の意識の中に観念的な世界つまり対象意識を作り出すことをいっており、「制作活動的、現実的にも自分を二重化する」の部分は、人間が外部の自然を加工し作り出した生産物は人間の本質諸力が結実したものであり、人間がその肉体的な力(労働力)・精神的な力(認識)を注ぎ込んで作り上げた自己の分身とでもいうべきものであるといっているのである。それゆえ「人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観する」つまり、人間によって作り出された生産物は彼にとって自己の本質諸力が対象化(外化)されたものであり、生産物のうちに彼は自己の本質諸力の結実を見るのである。
〔2006.08.16注記〕
以前の稿では「対象意識」を「対象認識」と同じ意味で用いたことがあったが、対象認識は対象意識における客体であるから、「対象意識」と「対象認識」とは異なる。以後「対象意識」という語はこの稿で書いたような概念として使用する。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。
前稿「対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂」(08/05)では人間の意識の一つのあり方である対象意識について取りあげた。ところで人間は初めから対象意識(観念的な世界)を意識のなかにもって生れてくるわけでもないし、人類もまた最初から対象意識をもった種として生れたわけでもない。マルクスはいう。
意識はもちろん最初はたんに身ぢかな感性的環境についての意識にすぎず、また意識的になりつつある個人のそとにある他 の人物および事物とのかぎられたつながりの意識にすぎない。それは同時に自然の意識でありそして自然ははじめ人間にむかってまったくよそよそしい全能かつ 不可侵な力としてあらわれ、人間はそれにたいして純粋に動物的に関係し、かれらは禽獣のようにそれに威圧される。したがってそれは自然について純粋に動物 的な意識である(自然宗教)。(『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)
しかし人間はこのような動物的な意識にとどまることなく、社会(最初は家族という小さな社会であろうが)を作り協働生活を始めるやいなや相互に精神的な交通をする必要に迫られる。きわめて大雑把にいうなら、やがて何らかの表現手段を発明し、それをもって他者と関わり合うことを通して人間の他者意識は徐々にではあろうが動物的なものから人間的なものに――つまり他者の意識が自己の意識のうちに浸透することによってあらゆる物を自己の鏡とするように――なる。すなわち人間は対象と自己との関係を意識して活動するようになり、遅かれ早かれ自己をそして自己の意識そのものを自己の対象とするようになる(自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ)。
それと相携える形で人間は記号的な表現をそして言葉を作り出すに至る。しかし記号や言葉を作り出す以前に人間は世界を概念的に把握する存在であったであろう。概念的な把握ができていなければ、異った種類の個物相互の間に差別を設け、ある同じ種類の個物に共通する名をつけるときに、それとは異ったある同じ種類のものにすでにつけた名と新しくつける名とを区別する必然性がない。そして個々の概念に対応する音声が記号ないし語として分節されるのはそれ以前に現実の個物から抽象された個々の概念が人間の認識において区別され分離されているからである。
言葉による表現を介して人間は自己の意識をより客観的にとらえることができるようになり、同時に他者の意識をより容易に自己の意識の中に取り込むことができるようになる。こうして人間は自己意識と類的意識(他者意識)とを内包する真に人間的な対象意識(観念的な世界)をもった存在となる。
人間の子供が自己の意識を形成し発展させる過程、言葉を習得し自己意識を獲得する過程もほぼ同じであろうと思われる。人間の子供時代が他の動物と比べて非常に長いのは意識の形成と言葉の習得とにおいて個体発生が系統発生を繰り返す必要があるからだ(教育による社会的遺伝)と私は思っている(社会的な存在として自己を作り上げ十分に社会に適応できるようになるためには意識の形成と言語の習得以外にも長い教育期間が必要とされるのはもちろんである)。
〔2006.08.16注記〕
以前の稿では「自己意識」は「(観念的世界における)意識主体」ないし「現実の自己における意識主体」という意味で使ってきた。この稿では単に意識主体を指すのみでなく、意識主体とその客体である認識とが意識内部で対峙している意識のあり方を「自己意識」と呼んでいる。つまり、自己意識も対象意識の一つであるという考え方をしている。「他者意識」についても同様である。
これは何を対象(客体)としている意識のあり方なのかという観点から「対象意識」「自己意識」「他者意識」をとらえなおした結果である。したがって、現実の自己の場合についても何を対象としているかによって「対象意識」「自己意識」「他者意識」は考えられるであろう。ただし、現実の自己の意識は記憶からのフィードバックを受けており、この場合の「対象意識」「自己意識」「他者意識」は知覚レベル以上のものである。
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大カテゴリー 〔意識・認識〕
▼ 対象意識(1)〜(5)をまとめて読む。
「対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂」(2006/08/05)において私は対象意識を「意識内部において表象・概念として客体化されたものごとを意識主体が認識しているその意識のあり方」であると考えていると述べた。これと同様に他者意識・自己意識についても私は次のように考えている。
他者意識とは、意識内において自己以外の他者を客体として映し出している状態、すなわち意識内において表象・概念として客体化された他者を意識主体が認識しているその意識のあり方である。
自己意識とは、簡単にいえば、意識内において自己を客体として映し出している状態、すなわち意識内において表象・概念として客体化された自己を意識主体が認識しているその意識のあり方である。
したがって自己意識も他者意識も対象意識(観念的な世界)の一つである。しかし自己意識や他者意識が特にそれとして取り上げられるのはそれらが自己や他者の身体的・活動的なあり方だけでなく、自己の意識・他者の意識のあり方をも意識主体の認識対象とする意識であり、それらが意識主体を介して現実の自己の意識的・行動的なあり方との間で相互浸透(相互に影響)し合い相互にその性格を規定し合うからであり、それによって対象意識が真に人間的な対象意識となるからである(「対象意識(1)――類的存在としての人間の意識」「自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ」)。
この相互浸透は自己意識においては、客体化された自己の意識や自己のあり方を反省することにより自己認識の変化をもたらす。また他者意識においては、客体化された他者の意識や他者のあり方が自己の立場や意志・判断・感情…に浸透して他者の立場や気持に思いをめぐらし、他者の立場に立ったものの見かたや考え方ができるようになる。さらに現実の自己によって作り出される自己意識と他者意識も相互に浸透し合い規定し合うことになり、それによって客観的な自己対象化や主体的な他者の立場への移行等(観念的自己分裂)を介した自己認識もより深化し、他者への共感・理解能力もまたより強いものになるのである。
このように現実の自己と対象意識との相互浸透の運動は自己および対象意識の変容をもたらす。それはときには後退でありときには発展であるが、この相互浸透(観念的自己分裂)を自覚的に行なうことができれば大筋として人間の現実的な行動様式も意識活動のあり方も認識の内容もともに発展・成長するであろう。
以上のことから分かるように、対象意識における客体(対象・自己・他者)には現実の自己の立場や意志・判断・感情…が浸透しているのであり、それらは決して純粋の客観ではない。しかし、現実の自己の立場や意志・判断・感情…にも対象意識において客体化された他者の立場や意志・判断・感情…が浸透しているから、自覚的に他者の立場に移行した対象意識(観念的自己分裂)においては客体(対象・自己・他者)もそれを見る意識主体もより客観的なものになる。そして対象意識(観念的自己分裂)を通じて得られた認識がどれだけ客観的なものであるかは、現実の自己と意識主体との連携によって現実の対象や自己・他者のあり方と突き合わせて検証してみるしか方法はない。しかし、このような現実的・実践的な検証を通して人間の認識はより客観的なものになるのであるから、そのことを忘れて人間の認識一般の主観性にばかり目を奪われ人間の認識の不確かさをいたずらに強調し悪しき相対主義の罠にはまり込むのは総じて愚かなことである。
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▼ 自己の二重化(1)〜(7)をまとめて読む。
「他人(ひと)の振り見てわが振り直せ」「他山の石」のようなことわざや故事、あるいは「人をもって亀鑑(かがみ)となす」といった表現の存在は人間が他者の姿や行動をわが身にあてはめて自己を反省する動物であることを示している。
マルクスはこのことを、ある商品A(リンネル)が他のある商品B(上着)に関連することによって自己の相対的価値を示すことを述べる部分の注で取りあげている。注の直前の段落と注とを以下に引用する。
『資本論』大月書店「マルクス=エンゲルス全集第23巻」所収、71ページ
こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(一八)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値はこのように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。
一八 見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分自身を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、ペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的肉体のまま で、人間という種族の現象形態として認められるのである。
人間ペテロは人間パウロを鏡としてつまりパウロの身を自分の身に置き換えて、パウロの姿の中に人間種族つまり類としての自分の姿を見るのである。
これは観念的自己分裂の一つの形態(想像→移行)であるが、宮田和保はマルクスのこの記述が自己意識の形成と発生についての解明の手がかりを与えるとして詳細に分析している。
『意識と言語』桜井書店、49〜50ページ
「価値形態」論で着目すべきことは、リンネルを織る私的労働の社会的性格が上着商品で表され、リンネルの価値が商品上着を媒介にして表現されている、という論理である。マルクスはこのおなじ論理が自己意識にも妥当するとして、つぎのように論及している。
「人間は、鏡〔Spiegel〕をもってこの世に生まれて来たのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる〔bespiegelt sich der Mensch zuerst in einen Menschen〕。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウロとの連関を通してはじめて人間としての自分自身に連関する〔Erstdurch die Beziehung auf den Menschen Paul als seinesgleichen beziehtsich der Mensch Peter auf sich selbst alsMensch〕。だが、それとともに、ペーターにとってパウロの全体が、そのパウロ的肉体のままで、人間という種族の現象形態として通用する」(『資本論』第一部 七一〜七二頁)。
この叙述は、自己意識の形成が「どのようにして」発生するのか、についての解明の手がかりを与えている。すなわち、「鏡」に自分自身を「映してみる」ことによって自分の姿を知るように、「鏡」としての「他の人間」から現実の自分を反省し、「自分自身に関連する」ことにより、自分自身の存在を意識するのだ、という、他者を媒介とした自己内反省がそれである。
さらに、この自己内反省のための「鏡」としての「他の人間」が自己に内化すること――これは同時に自己が他人となることでもある――によって、「自己の二重化」が確定する。ここでのちの論述のために注意しておかなければならないことは、「観念的な自己」が自己のうちに内化した「他者」であるがゆえに、「観念的な自己」はこの「他者」にふたたび「転換」でき、「他者」の立場から「現実的な自己」を「客体化する」ことが可能となる、ということである。
観念的自己分裂はさまざまな<鏡>を媒介にした観念的な世界への移行とそこからの復帰という意識の自己運動であるが、宮田はその機序を三浦つとむが用いた「観念的な置き換え」と「観念的な転換」という二つの概念を使って詳細に分析している。転換は主体の立場の移行である。置き換えには客体の置き換えと主体の置き換えとがある。長くなるが引用する。なお強調は私がつけたものである。
『意識と言語』、94〜97ページ
私たちが日常生活における人々の共感能力を理解するためには、まず〈観念的な置き換え〉と〈観念的な転換〉について正しく把握しなければならない。そこで、三浦つとむが「観念的な自己分裂」を説明するさいに、たびたび取りあげる「人のふり見てわがふりなおせ」という諺(ことわざ)の具体的な場面を取りあげてみよう。
他人が酔っぱらってベンチで醜態を演じているとき、私がそれを眺めながら、「こんな醜態を演じたなら、恋人が婚約解消というだろうから、注意しよう」と思ったとする。これを具体的に分析してみよう。(1)私は、酔っぱらって醜態を演じている「この現実の他人を観念的に自己[想像上において現実的な自己]に置き換え」(三浦つとむ『言語過程説の展開』 三〇頁)、そのことによって、(2)「こちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える」(同上)。このことは、私たちが日常的に鏡をみているとき、鏡のなかの自分は映像と知りながらも、想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に「観念的に置き換え」(=「観念的な対象化」)、それに照応して、こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に「置き換わる」のとまったくおなじである。このようにして自分がみずからを客観的な位置に置く。
この「観念的な自己」が、(3)想像のなかでの「現実的な自己」つまり醜態を演じている自分(酔っぱらった他人と観念的に置き換わった自己)を対象として取りあげ、「こんな醜態を演じたなら」と思う。さらに、(4)この「観念的な自己を恋人に観念的に転換させ」 て、この恋人の立場からこんな醜態を演じている自分をみて、「こんな自分をみたら婚約解消をいう―で―ある」と考える。ただし、このでの「で―ある」は、「恋人」が「こんな自分をみたら婚約解消をいう」ということを「観念的な自己」が判断したことをあらわす二重の〈指定(判断)の助動詞〉である。(5)「それからふたたび現実のありのまま眺める立場にもどり、観念的な自己分裂から復帰」した「現実的な自己」の立場から、「婚約解消をいう―で―ある」ということを〈推量〉し、そこで「う」(推量の助動詞)を追加する。「で―ある―う」が「だろう」と形式を変える。最後に、(6)おなじ立場からまずい事態を招く「から」、「注意しよう」(注意する・う(意志の助動詞「う」)→注意しよう)となる。このようにして「自己分裂のときの認識は現実的な自己の認識に止揚される」。
…… 中略 ……
一方で「現実の他人を観念的に自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」、他方で「こちらの側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換える」。このことは、想像力によって「現実の他人が観念的な自己[想像上の現実的な自己]に置き換え」られた想像的・観念的な世界にたいして、「観念的な自己」が向かい合うことを意味する。ただこの向かい合いは無意識的に行われる。このように「置き換え」は「観念的な自己分裂」と一体のもとで遂行される。つまり、さきの醜態を演じているのはあくまでも「他人」であるが、この「他人」を「現実的な自己」に置き換えたのは想像力によるフィックションであり、このフィックションの世界の形成に照応して「観念的な自己分裂」が生じた。これは〈時制の意識〉の成立の場合とおなじである。また、想像の世界に向かい合っている「観念的な自己」が「恋人」に「観念的に転換」するのは――「観念的な置き換え」と混同しないように――、「観念的な自己」が本源的には自己に内化した「他の人間」であることによる。すなわち、この「観念的な転換」は、出自を「他の人間」にもつ「観念的な自己」がふたたびこの「他の人間」に回帰したことを意味する。「人のふり」を「おのれのふり」へと投影(=観念的な置き換え)するのは「想像力」であった。「わがふりなおせ」の「わがふり」を「客観化」したのは、「他の人間」を媒介にして生成した「観念的な自己」であり、この「観念的な自己」がさらに「恋人」という「他の人間」に「観念的に転換」されたのだ。
ちなみに、以上述べたことが独白の "Du"(=you)においても妥当する。そこでさきの鏡の例にもどろう。(1)想像のなかで「鏡のなかの自分」をあたかも「現実的な自己」に観念的に置き換え(=観念的に対象化)、それに照応して、(2)こちらの側の「現実的な自己」が「観念的な自己」に置き換わる。(3)この「観念的な自己」は他者を自己の出自としていたのだから、この他者に「転換」される。(4)この転換された他者の立場からすれば、鏡のなかの「現実的な自己」は、”おまえ”(Du)という規定を受けとる。この鏡の場合とおなじく、他者に観念的に転換した「観念的な自己」の立場からすれば、現実的な自己は”おまえ”という規定を受けとる。これが独白の "Du"である。私(ich)が君(Du)に変換されるのはドイツ語だけに特有なものではない。日本語においても、自分自身を指して「われ/おのれの恥を知る」というが、同時に他人を指して「われ/おのれは何者ぞや」ともいう。このかぎりでは日本語とドイツ語とはおなじ構造をもっている。つまりこうであ る。自分自身を指して「われ/おのれ」というとき「観念的な自己」(想像上の話し手)が対象としての「現実の自分」を指し示す。しかし、この指し示す「観念的な自己」は本来的には「他者」に出自をもっていたのだから、この他者に「転換」する。したがって、自分自身を指し示した「われ/おのれ」は、この転換した他者からすれば、話し相手(あなた)を指示するものに転回する。
最後の部分は三浦が指摘している<一人称代名詞が二人称代名詞に変わる>理由をさらに詳細に分析していて興味ぶかい。これはやはり三浦が指摘している「おとうさん」「おかあさん」などの<本来は話者との関係を表わす名詞が自分や相手あるいは第三者を表わす代名詞のように用いられる>理由の分析ともつながっている(「おとうさん」「おかあさん」「おばあちゃん」「おじちゃん」「おねえちゃん」などの前に「指し示されている人の子供(あるいは孫、甥、姪、妹、弟…)の名前」+「の」を補ってみるとそのことがよくわかる。つまり、話者がその子供の立場に観念的に移行し、その子供の視点から見た対象を表現しているのである)。
〔2006.08.22注記〕
「他者を鏡とする観念的自己分裂」については「鏡と自己分裂(三浦つとむ)」(2005.01.25)に引用した三浦つとむの論考も参照して戴きたい。
(関連記事)
大カテゴリー 〔意識・認識〕 〔言語〕
〔2004.03.29記〕
▼ 認識についての覚書(1)〜(7)をまとめて読む。
〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。転載にあたって多少の体裁変更を行ないました。知見としては古いものもありますが大筋は変わっていないと思います。
9. 観念的自己分裂
「他人の立場になって」「〜したつもりになって」…というようないい方がある。実際に「他人の立場」になることはできないけれど頭の中で現実の自分とは異なる人間の立場に観念的な移行をすることはできる。このような観念的な移行は他の人間の立場への移行だけでなく、現実の位置と異なる場所への空間的な移行や、現在から過去へのあるいは未来への時間的な移行もある。これらは想像とよばれる認識活動で、その性格によって空想(夢想)・回想・予想・妄想…などとよばれている。また夢を見ているときも自己は空間的・時間的に移行している。何かに夢中になって我を忘れている状態のときも観念的な移行が起こっているのである。このように自覚的あるいは非自覚的に自己が異なる立場の自己に観念的に移行することを三浦つとむは観念的自己分裂とよんだ。
観念的自己分裂はそんなに特別な精神現象ではない。日常生活の中で人間が絶えず行なっている認識活動である。そして上のようにものを考えているときだけでなく対象を知覚・認識(受容)しているときや表現をしているときにも人間は観念的自己分裂を行なっている。
観察・鑑賞
観点とか視点、立脚点などといういい方は対象をみるときの立場を表している。現実の自己が実際に位置を変えてみる場合もあるが観念的に立場や見る位置を変えることも多い。子どもが親の立場に立って現実の自己を反省したりすることもあればその逆もある。教員が生徒の身になって自らや同僚の授業を評価する、弁護士が被害者の側に身を置いて事件をみる…等々、この手の移行はいくらでもある。また鏡に映る自分を見ているときには鏡に映る自分があたかも現実の自分であるかのように見ているわけで、このときの自己は現実の自己から観念的に分裂した観念の世界の中で、鏡に映った自分に対面する位置から鏡に映った「現実の自己」を見ているのである。そして鏡を見ているときのこの観念的な自己はいわば「現実の自分」を見ている「他者」なのであり、観念的に他者の立場に移行して自己を見ているのである。このように他者の立場に立って自己を見るという行為はある程度の年齢になれば鏡の媒介がなくても誰でもがしている。
観察や観測とよばれるものの中には、現実の自己の五感を直接使ったり、視点を直接移動したりするものばかりでなく観念的に分裂した自己が行なうものもある。たとえば顕微鏡を使った観察は自己を対象と同じ程度の大きさに観念的にミクロ化して対象が見える位置にまで移行して行なう観察である。このように機器を用いた観察や観測は、機器を媒介にして現実の感覚器官では到達できない位置や現実の感覚器官では感知できない能力をもったものに自己を観念的に移行させて行なうものである〔機器は現実的に人間にそのような能力を与えるものであるが観察・観測においても観念的な移行が起こるということ〕。いわば機器を鏡として観念的自己分裂を行なっているのである。
鑑賞には追体験とよばれる観念的自己分裂が必然的についてまわる。追体験にはさまざまな側面があるが、その一つは作者の認識そのものを追体験するためのもので、作品を表現した作者への観念的な移行である。作品はそれを媒介にして作者の認識を表現したものであるから、鑑賞者は作品を媒介にして逆に作者の認識そのものに迫ろうとする過程で自己を観念的に作者の立場に置くことになる。また写真や映像作品の場合作者はカメラを通して作品を映している(これ自体カメラを媒介にした観念的自己分裂である)。したがって鑑賞者もまた作品を媒介にしてカメラの視点へと観念的に移行することになる(制作過程における作者の視点への観念的移行については絵画や彫刻の鑑賞でも行われる)。
小説や映画の鑑賞では鑑賞者は作者が表現した表現世界の中に身をおくことを特に要求される(他の作品にもこのような側面はあるが文学や映画ではこの側面の比重がことに大きい)。鑑賞中の鑑賞者は作品の中に登場する人物やその世界に観念的に移行することなしには作品を楽しむことができない(ゲームを楽しんでいるプレーヤーもそのゲームの世界の中に観念的に移行している)。表現
表現においても観念的自己分裂が行われる。表現者は表現を受け取る相手のことを念頭に置いて表現するのがふつうである。鑑賞者が作者の立場に身を置いて鑑賞するのとは逆に表現者は表現を受容するものの立場に身を置きながら表現を行なうわけである。これは受容者の立場をいわば先行的に追体験することにほかならない。追体験は表現においてもついてまわるのである。
言語表現の特徴
上のように人間は生活のさまざまな場面できわめて自然に観念的自己分裂というものを行なっている。「〜の立場(身)になって」などのような表現がしばしば行われるのは人々が非自覚的ながら観念的な立場の移行というものの存在にうすうす気づいていた証拠である。しかし三浦つとむがそれを指摘するまでは多くの人たちは観念的な立場の移行というものの重要性に気がつかなかったのもたしかである。言語表現が他の表現と大きく異なるのはこの観念的自己分裂を表現それ自体の中で明示的に扱っており、しかもその表現法が規範化されていることである。これに注目した言語論の最初のものは、言語を対象→認識→表現の全過程においてとらえることを主張した時枝誠記の『言語過程説』である(時枝誠記『国語学原論』1941年岩波書店)。時枝のこの視点が何を源としているかはその著『国語学史』(岩波書店)に詳しい。時枝にこの視点をもたらしたのは江戸時代の国学である。具体的には国学者鈴木朗(アキラ)の詞辞論つまり「テニヲハ論」であった。ここでは詳しく述べることはできないが、おおざっぱにいうなら日本語の詞と辞こそ観念的自己分裂を明示しているものなのである(時枝は鈴木の詞辞論に再検討を加えた。三浦は観念的自己分裂という明確な視点からさらに詳細な検討を加えている)。
(注)観念的自己分裂に関しては カテゴリー【観念的自己分裂】 を参照。
◇◇◇ 2004.03.29/2004.10.11訂正・補足 ◇◇◇
(関連記事)
自己の二重化(1)〜(7) (観念的な自己の二重化/世界の二重化)
二つの主観(1)〜(3) (認知と認識/現前・対象認知と再現前・対象認識)
対象意識(1)〜(5) (意識と認識/認識の主体と認識の対象)
タグ【観念的自己分裂1】(自己の二重化/二つの主観)
タグ【観念的自己分裂2】 (対象意識)
タグ【観念的自己分裂3】 (観念的追体験)
客体的表現と主体的表現(1)〜(4) (対象認知・認識と関係意識)
三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5) (生産的消費と消費的生産)
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想像力(せとともこさん)
大カテゴリー 〔意識・認識〕
三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から、夏目漱石の文学論を再評価しながら、文学における作者と表現主体の問題についての持論を展開している小論「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」を紹介する。
〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点・句点のように表記し、適宜ルビを振った。
『現実・弁証法・言語』 p.287〜299
文学論はすくなくないが、読者が文学を鑑賞するという事実について理論的に解明したものは、ほとんど見ることができない。もちろんそれにはそれだけの理由がある。創作の理論的な解明ができないのに鑑賞だけ解明できるはずはない。創作活動にしても鑑賞活動にしても精神活動であるから、その解明には認識論の援助を受けなければならないのだが、これがまた確立されてはいない。それに、読者は作者に対して本質的には受動的な態度をとり、作者の創造を忠実に受けとらねばならないのだが、それには読者の能動的な精神活動が要求されるのであって、ポカンとただ文字をながめていたのでは与えられた作品を正しく読みとることができないし、またどんなに正しく読みとるべく努力したとしても、近似的にしか受けとることができない。作者の精神活動を読者が完全にそのままくりかえすことは不可能なのである。そのために、現実の世界と人間の認識とはどういう関係にあるかについて、哲学者がふみはずしたのと同じ発想が、文学作品と読者の認識との関係の説明にも現われてくる。現実の世界のありかたを完全にそのまま認識しているならば、唯物論者のいう〈反映〉論も承認しようが、認識は現実の世界のありかたとくいちがうし時には空想的な存在をも想像するのだから、反映論は認めるわけにはいかないと哲学者は不可知論から観念論へふみはずしていった。作品の鑑賞にあっても、読者の受けとり方はすべて不完全であるし時には誤解や曲解も起っているから、鑑賞を〈追体験〉というのは正しくないと、評論家はいい出しかねない。「読むという行為は誤解のつみかさねである」という者も出てくる。創作の理論的解明ができない左翼の評論家は、読者の鑑賞それ自体をとりあげようとしないで、機能論的に、文学は「生活を組織する」ものだと論じ立てたりしているのである。
私がこれまで著書や論文で述べてきたこの問題の理論的な解明を、簡単にスケッチしておこう。作者が空想の世界を小説に描くことは、作者が意識的・目的的に夢を見てその夢を読者に言語で伝えようとすることである。読者は小説を読みながら、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見ようとする。作者は自分の創造した夢の中で、織田信長の若き日の生活をながめたり、二一世紀の宇宙旅行で他の遊星に行って宇宙人の生活をながめたりしているが、そのときの現実の作者は依然として昭和四十何年というカレンダーのおいてある書斎の机の前にすわっている。
これは、夢の中でオバケに追われて必死に森の中を走っていても、その時の現実の人間はベッドの中で動かずに眠っているのと共通している。これを人間の観念的な自己分裂・二重化とよぶが、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見る読者にしても、郊外電車の座席に腰を下(おろ)して週刊誌のこまかい活字をながめながら、同時に平清盛の生活をながめるという観念的な自己分裂・二重化を行わなければならない。この、読者が観念的に自己分裂を行って夢の中の作者と同じ立場に立ち、同じ体験をすべく努力することが、〈追体験〉とよばれる精神活動である。
古典文学の解釈や、鑑賞経験を理論的に反省することは、これまでも行われなかったわけではない。たとえそれが認識論の未確立のために不充分なものに終ったとしても、それなりに正しい方向を進んだものは評価されてしかるべきである。それゆえこの小論では、時枝誠記と夏目漱石の主張をとりあげてみることにしよう。時枝の言語過程説は、京城帝大における「中古語研究」の題目での『源氏物語』の演習に負うところが多い。演習の開始に際して、彼は解釈ということの本質を考えるよう求めたむね、『国語学への道』(一九五七年)の中で述べている。
「解釈とは、どのやうな事実であるのか。この演習にあたつて、諸君はもう一度根本的にこの問題を考へるべきである。そこから出発して我々は解釈といふことを、その本質において生かさなければならない。解釈の本質を探つて行けば、勢ひ言語文章の本質が何であるかの問題に行き当る。言語文章の本質観に従つて、解釈といふことは、文字がその内に包蔵している音とか意味とかを引き出す作業だとも考へられるであらう。私は久しい以前から、言語文章の本質は、話手或は書手である言語主体が、自己の表現しようとする事物・事柄即ち表現行為の一形式であらうと考へて来た。であるから、文の解釈或は文を読むといふことは、文字面(もじづら)を通してこれを言語主体の音声、或は表現の素材である事物に還す仕事であると考へてゐる。解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へてゐる。解釈といふ仕事は、表現主体に立返るといふことによつて完成するのであるから、解釈者は常に己を空しくして、表現主体といふことを念頭から去つてはならない。
『国語学原論』(一九四一年)には、つぎのように記してある。
「古代言語の記述は、これを古代人の主体的行為に還元することによつてのみ、我々はこれを具体的な言語経験として把握することが出来るのである。古代人の主体的活動に還元するといふことは、……要するに、言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならないのである。一般に古代言語の研究といふことは文字を通して観察者に於いて古代言語の音声と意味とが理解せられるといふ経験そのものを対象として把握することから始まるのであつて、この様な主体的な経験を除外して我々は古代言語を対象とすることは出来ないのである。」
こうして、古代人の言語体験すなわち夢の中での作者の体験を主体的に〈追体験〉する立場と、現実の読者が現実の作者の作品について論じる観察的な立場とを、時枝は区別して、この識別が「極めて重要」であると強調したのであった。この言語における〈主体的立場〉と〈観察的立場〉との区別は、私が名づけたところの人間の観念的な自己分裂・二重化を経験的にとらえたものにほかならないのである。
夏目漱石については、まず『吾輩は猫である』の創作と鑑賞を考えてみよう。これはいわば「猫」の生活記録であり、漱石の空想の世界に生きている「猫」が身辺のさまざまな事件やその見聞で感じたことについて、ペンをとって記したことになっている。作品の〈表現主体〉は「猫」であるから、読者もこの「猫」の体験を主体的に〈追体験〉しなければならない。さらに、空想の世界の中では登場人物である苦沙弥や迷亭や寒月などがいろいろ語り合っているけれども、作品の中の彼らの会話は「猫」がそれらの発言を忠実に記録したことになっているから、読者も苦沙弥なり迷亭なり寒月なりそれらの発言の〈表現主体〉に立返って、彼らの身になってその思想を読みとるべく努力することになる。このような、作者の創造した夢を〈追体験〉によって正しく受けとろうと努力することが、作品の鑑賞活動である。けれどもこの活動は夢の世界の中ですすめられるから、そこには苦沙弥はいても現実の作者漱石は存在しないし、夢を〈追体験〉する「猫」の立場の読者はいても現実の読者はいない。ところが鑑賞活動を終えた読者が、この夢の世界の外に出てあらためて作品を観察すれば、「猫」はもちろんのこと苦沙弥も迷亭も寒月もすべて漱石の創造であり、彼らの思想もすべて漱石が与えたものでしかない。夢の世界の中で、さまざまな〈表現主体〉に立返って読者が読みとったものは、夢の世界の外へ出たとき漱石の創造としてとらえかえされることとなり、そこに創作活動の分析とか作者の研究とかいうことが新しくはじまるのである。時枝が「観察者と主体との二の立場は厳然と区別されなければならない」といったことばは、この作品にあっては現実の作者としての漱石の立場と、〈表現主体〉としての「猫」や登場人物の立場を混同して扱ってはならないことを意味するわけである。
さて、漱石によってなされた文学の鑑賞経験の理論的な反省は、『文学論』(一九〇七年)において展開されているが、読者が「表現主体に立返る」問題を具体的にとりあげた第八章「間隔論」をここで検討してみよう。この章では、作品中の事物や人物と著書との〈間隔〉、および著者と読者との〈間隔〉をとりあげて、その〈間隔〉の変化を論じるのである。
「普通の記述は作中に融化せられざる著者の媒介を待ってはじめてこれを納受するはまへに述べたるがごとし。記を記事とし、作を作家とし、読を読者として、三者の間隔を図に示せば記――著――読となる(これを第一図とす)。もし記事の性質と著者の技巧により、幻惑の高潮度に達したるとき、卒然として著者の存在を遺却して当面に記事を熟視するを得ば、間隔は縮(ちぢま)つて記――読となる。読者と著者と合したるの興致を示すものなり(これを二図とす)。作家もし余をもつて事を叙し、編中の一人を代表して文を遣るとき、単独なる作家は当初よりその存在を認むるの必要なきをもつて間隔ははじめより二図と異なるなく記――読をもつて示すを得べし。」(傍円は原文)
あとで説明するけれども、ここで著者とよばれているのは実は〈表現主体〉であり、自己分裂で生れた夢の中の作者である。時枝は二つの立場を区別して〈主体的立場〉への移行を説いているのに、漱石には移行の自覚がなくて図式に直ちに〈表現主体〉を持ってくるのであるから、理論的に未熟であったことは否定できない。しかしながら彼は、この間隔論をひっさげて、スコットの歴史小説『アイヴァンホー』の分析をすすめるのである。
「少時 Scott の Ivanhoe を読んで、Rebecca の盾を翳(かざ)して壁間より戦状を Ivanhoe に報ずるの章に至つて張目寝(い)ぬるあたはず、燈を挑(かか)げて天明に達せるは、今なほ明かに記憶にあり、当時庶幾(しょき)するところはただ書を楽しむにあつて、事を解するに存ぜざりしをもつて、そのなにがゆゑにわが心を動かすのかくのごとくはなはだかりしかはつひに脳裏に反問するの意なくして長く歳月を経たり。後年やうやく思索の街頭に往来の蒼頭白首を数へて、紅絹青衣を類別するに至つて、はじめて十年の昔に回頭して、考案のいまだ透過せざるものあるを思ひ、これを拈定(ねんてい)して一炷(しゅ)の香を焼くこと再三、いまだ分明に端的を会せずして已(や)めり。今またこの間隔論に逢着して、まへの話頭を挙しきたるの恰好なるを見る。もし弁じ得て釈然たらざるとき、おほかたの善知識余のために三十棒を揮(ふる)へ。」
これまでに三十棒を揮った「善知識」がいたかどうか、私は知らない。小泉信三はこの分析を「夏目理論」の展開だといい、理論的な検討はしていないが、「彼れに在(あ)つては、その凡(すべ)ての理論の前に人真似はしないといふ潔癖があつた。お伽話にある、裸の王様を裸だといふ正直があつた。」と書いている。たしかに、右の自分の経験を述べた文章にしても、彼が自己に誠実であることの一端がうかがわれる。
「Ivanhoe の場合にあつて上図の記に相当すべきは城下に起る戦闘の光景なり。黒兜白毛の騎士なり。長幹偉躯の悪僧なり。伏せて彎(ひ)く弓なり。空に鳴る矢なり。剣光なり。馬影なり。咄喊(とっかん)の声、甲冑の波なり。しかしてこれ等の動静を叙するものは著者にあらずして明眸皓歯(めいぼうこうし)の佳人 Rebecca なり。ゆゑにこの際における図式は記――著――読にあらずして、記――R――読となる。換言すれば作家に代ふるに Rebecca をもつてしてはじめて相当なる図式を得るものとす。幻惑(作家の技倆、記事の内容より生ずるもの、間隔より生ずるものにあらず)の熾(さかん)なる時読者、作家の筆力に魅せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進んでこれに近づき、近づいてこれに進み、つひに著者と同平面、同位置に立つて、著者の目をもつて見、著者の耳をもつて聴くに至るがゆゑに著者と読者の間に一尺の距離をも余すことなし。しかしてこの際における著者は Rebecca にあらずや。この際における幻惑は白熱度ならずや。吾人は進んで Rebecca に近づかざるを得ず。つひに Rebecca と同平面同位置に立たざるべからず。最後に R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴かざるべからず。R. と吾人との間に一尺の距離を余すなきに至つて已(や)まざるべからず。
まず、この作品が三人称小説であることを確認しておこう。それゆえこの小説の〈表現主体〉は、現実の作者スコットではない。作者から観念的に分裂して空想の世界の中にいる無色透明の傍観者であって、アイヴァンホーやレベッカや獅子王リチャードやロビン・フッドなどの活躍をながめて書き綴っているのである。この傍観者は、レベッカが目の前の戦況を、味方の黒騎士が倒れたとか、立ちあがって敵将を倒したとか、つぎつぎと語るのを忠実に記録していく。読者もこの記録を通じて、空想の世界の中の〈表現主体〉に立返って〈追体験〉するから、「R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴」くことになる。ここで注意しなければならないのは、右の文章で「作家の筆力」といい、また「著者の目をもつて」といって、二つのことばを使いわけている点である。これは漱石が明確に自覚してはいないにしても、「作家」というときは現実の作者を、「著者」というときは〈表現主体〉をさしているのであるから、無意識のうちに区別を与えたものと見なければならない。無意識だけに混同することもあって、「作家に代ふるに Rebecca をもつてして」と、現実の作者と〈表現主体〉が入れかわるかのような説明が見受けられるし、あとのほうでは「この際における著者は Rebecca にあらずや」と正当に説明しているといった、食い違いが見られるのである。
「しかるに Rebecca は編中の一人物なり。戦況を叙述するの点において著者の用を弁ずるとともに、編中に出頭し、透迤として事局の発展に沿うて最後の大団円に流下するの点において記事中の一人たるを免かれず、このゆゑに吾人は著者としての Rebecca と同化するかたはら、すでに記事中の一人なる Rebecca と同化しをはるものなり。こゝにおいてか Ivanhoe の記事は重圜を描いて循環するを見る。外圜を描くものは Scott にして Rebecca はこの圜内に活動し、内圜を描くものは Rebecca にして、堞下の接戦はその中に活動す。吾人は幻惑を受けて戦況を眼前に髣髴するの結果、内圜を描くものと同時、同所に立つて覚らず。顧みればすなわち身はすでに外圜のうちに擒(とりこ)にせられて、編中の人物とともに旋転するを見る。翻つて Scott を索(もと)むればはるかに外にあつて、吾人と利益をともにせざるがごとく長嘯するに似たり。」
漱石がここで Scott とよんでいるのも、実は現実の作者ではない。「圜を描くもの」はすなわち〈表現主体〉であって、空想の世界の中にいて空想の世界を記録している無色透明の傍観者である。これを Scott とよんでいるのは、現実の作者と正しく区別できないことを示している。つまり、読者は作品の〈追体験〉において、まず「内圜を描く」無色透明の傍観者に観念的に「同化」し、空想の世界に展開する事件を客観的にながめていく。つぎに、そこに登場して「内圜を描く」Rebecca にさらに観念的に「同化」するという移行を行って、こんどは Rebecca の見聞する戦況を「眼前に髣髴する」ことになる。この移行によって、読者はもはや傍観者の立場ではなく、登場人物の立場に立っているのであるから、読者は観念的に事件の直接の体験者として行動し感情を持ち認識しているわけであって、自分たちの行動を外側からながめている無色透明の傍観者などは「吾人と利益をともにせざるがごとく」まったく別の立場の無関係な人間でしかない。
「このゆゑにこの場合における間隔的幻惑はもとより ――著――読のごとく隔靴掻痒の感あるものにあらず、あるひは読者の進んで著者と合したる著――読にもあらず。または著者の余となつて編中の人物を代表する意味においての記――読にもあらず。読者が記事そのもののうちに闖入せる場合なり。図をもつて示せば(読記)ならざるべからず。記事、読者ともに一圜中に生息して、尺寸の間隙なき場合ならざるべからず。さらに竿頭に一歩を進めていへば記事と読者が一団となるのみならず、真の著者をはるかの後へ(しりへ)に見捨てたる場合ならざるべからず。したがつてこの特殊なる吾人の幻惑は、記事を操つる著者が、記事に対するよりも、吾人が記事に対するの、はるかに親密の度において優れりとの自覚より来るものなり。みづから記事中に活動して圏外の著者を疎外視するより来る幻惑なり。これを図に示すとき(読記)――著なる変形を得るに似たり。」
この場合の「外圜」に対する「内圜」は、時枝のいうところの入子(いれこ)型構造になっていて、それぞれに〈表現主体〉すなわち漱石のいう著者が存在しているのである。だから「外圜」の著者が「真の著者」だと漱石が書いているのは、どちらの〈表現主体〉も真実には Scott の創作になるものだという意味での空想の世界の創作者と、物語を記録する「外圜」の無色透明の傍観者との混同が、ヒョイとことばの上に出て来たものと見ることができる。それはそれとして、漱石はここで、三人称小説の登場人物が〈表現主体〉となるときの読者の〈追体験〉を、事件の傍観者からさらにすすんで事件の中に「闖入」するときの「白熱度」のイリュージョンの高まりとして、問題にしているのである。それは、単に登場人物が〈表現主体〉になればすべてそうなるというのではなく、Rebecca の場合は特殊な条件にあるからだということを、つづいて指摘するのである。彼は Rebecca の表現が現在形であり、全体として〈歴史的現在〉とよばれる形式となっているところに注意を求めている。
「この場合にあつては記事そのものが吾人の目的なるをもつて、記事の面白ければ面白きほど(他に関係なく)吾人は満足の意を表すものとす。しかしてこれを面白くする一方法として戦争は現在において起らざるべからず。余は単に通俗なる修辞の一として教へられたる歴史的現在に付着せる普通の意義においてこれを主張するにあらず。単なる時間の短縮は、話材を事実に変じて活動の一睛を点ずるにおいて、その功力の争ふべからざるものは明かなりといへども、この場合における余の主張は、かく一般に認識せられたる功力以上のあるものを現在法に見留むるがゆゑなり。現在法によりて逐次に転回する事件は読者に対して未知数なるのみならず、これを活説する Rebecca にもまた未知数なり。単に Rebecca に対して未知数なるのみならず、事件の発展に対してその期に達せざるかぎりは、運命と号する怪物のほか天下また何人も知るあたはざるなり。知るあたはざるがゆゑに、読者の注意はもちろん、Rebecca の全精神もまた局面の発展に傾瀉(けいしゃ)するのは自然の理なり。未知数は不定なり。不定なるものは甲たらんも知るべからず。乙たらんも計りがたし。その結果の甲たり乙たるにおいて吾人の興味に大なる影響を与ふるとき、話すものの全身はことごとく目なり。聴くもの全身はことごとく耳なり。運命の一子を下すたびに一喜しまた一憂す。けだし運命のわが期待するごとく変ぜんかとの投機的希望に束縛せらるゝがゆゑなり。Rebecca の眼下に起るは戦にあらずや、戦とは敵と味方とを意味し、敵と味方とは勝負を意味す。The Black knight か、Front-de-Boeuf か、これ読者の呼吸を凝らして知らんと欲するのみならず、Rebecca のまた張胆明目して知らんと欲するところのものなり。しかして Rebecca のかく熱心なるは勝敗の数いまだ定まらざる現在の光景なればなり。一分の発展するごとに、一分の結果をもたらし、一分の結果をもたらしつゝ発展し去る刻下の状態なればなり。」
私はこの分析に同感であった。漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月〜三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。
映画やTVにおけるキャメラが、〈表現主体〉の目であるとともに、観客の〈追体験〉における目となっていることは、ちょっと反省すればすぐわかるであろう。空想の世界を扱ったドラマは文学の三人称小説に相当し、キャメラの目すなわち〈表現主体〉の目は空想の世界の中の無色透明の傍観者として、思うがままにあるきまわっている。あるときは登場人物の顔をながめ、あるときは空から金門橋を見おろし、いまインディアンのそばで遠くから走ってくる駅馬車をながめたかと思うと、つぎにはその駅馬車の上から追ってくるインディアンをながめるのである。そしてこの傍観者である〈表現主体〉の目は、時々登場人物に移行し、登場人物の目として事件のありかたをながめ、そのとき観客もまた登場人物に「同化」して登場人物の体験を〈追体験〉することになる。そのいくつかの例を、私は『日本語はどういう言語か』(一九五六年)でとりあげて、スリルをもりあげるために意図的に使われることも指摘しておいた。殺人の場面でキャメラの目が被害者の目に移行して、せまってくる殺人者がその両手を首をしめようとさし出してくるのを見るといった場面は、しばしば見られるし、反対に殺人者の目に移行して、隣のビルの屋上からライフルでアパートの窓をねらうといった場面もおなじみになっている。ヒッチコックの “Spellbound” では、キャメラの目が犯人の目に移行して、事件の真相を見ぬいた女医をピストルの銃口が追う場面がある。女医はドアから出ていくが、追って動いていく銃口は沈黙したままである。女医の姿はドアの向うに消えてしまい、やがて銃口はキャメラ自身すなわち犯人自身に向けられて、発射される。自殺の表現である。同じ作者の他の作品では、ドアから入って来た男のすがたが次第に逆立ちしてくる。仰向けに寝ている女が首を動かして、近づいてくる男を下から注視しているのである。
このような映画における登場人物への観客の「同化」は、文学と無関係に経験的に開発された方法であろうが、漱石の分析の正しさの傍証ともなるものである。フランスの評論家は文学における〈主体〉の解体とか飛散とか妄想をならべ、日本の評論家もそれをうのみにして口まねし、漱石の研究者と名のる人びとすら『文学論』の検討を避けて通るという現状において、私はあらためて漱石に敬意を表し脱帽したいと思うのである。
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▼ 2008/03/25 ノートパソコンの発熱・冷却(4)――ケースファン 2008年
▼ 2008/03/22 『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展
▼ 2008/03/20 『認識と言語の理論 I』を読む 1(6)――表象の位置づけと役割
▼ 2008/03/19 『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化
▼ 2008/03/15 『認識と言語の理論 I』を読む 1(4)――主体的立場と観察的立場
▼ 2008/03/09 『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂
▼ 2008/03/07 『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾
▼ 2008/03/03 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学
▼ 2008/03/02 ブログ・リニューアル(8)――新管理画面統合
▼ 2008/03/01 時枝誠記と三浦つとむ(2)――「三浦つとむ選集1」から
▼ 2008/02/29 時枝誠記と三浦つとむ(1)――「三浦つとむ選集1」から
▼ 2008/02/28 三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章
▼ 2008/02/27 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
▼ 2008/02/21 ブログ・リニューアル(7)――テンプレートのスリム化
▼ 2008/02/19 ブログ・リニューアル(6)――新管理画面統合は大丈夫?
▼ 2008/02/05 Windows XP のこと
▼ 2008/01/29 科学とは何か
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(7)――観念的自己分裂
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(6)――概念のまとめ
▼ 2008/01/24 認識についての覚書(5)――カテゴリー・概念の階層
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▼ 2008/01/22 「勝手にブログ評論」なるものをしてもらった
▼ 2008.01.06 メイリオ(8)――Visual C# 2008 Express Edition版のメイリオ
▼ 2008.01.03 ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
▼ 2007.12.29 小春日和?
▼ 2007.12.27 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(6)――最終(改)
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▼ 2007.11.21 「自薦他薦・勝手にリンク集」を設置しました
▼ 2007.11.18 ブログ・リニューアル(5)――気分を変えて
▼ 2007.11.17 客体的表現と主体的表現(4)――「ある」という関係意識
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▼ 2007.10.04 ノートパソコンの発熱(3)――ケースファン・その後
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▼ 2007.10.01 Gom Player の映像が真っ暗――Styler との相性
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▼ 2007.09.15 いつの間に……
▼ 2007.09.05 GOM Player 2.1.6.3499――多形式対応の動画プレイヤー
▼ 2007.09.03 DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
▼ 2007.08.23 ノートパソコンの発熱(2)――ケースファンで冷却
▼ 2007.08.17 ノートパソコンの発熱(1)――USB扇風機で冷却
▼ 2007.05.04 WinAmp の旧バージョン
▼ 2007.04.29 Bフレッツに四苦八苦中
▼ 2007.04.15 ホームページ変更のお知らせ
▼ 2007.03.28 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)
▼ 2007.03.27 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
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▼ 2007.03.17 軌道修正
▼ 2007.03.12 コマンドプロンプトで使用するフォント
▼ 2007.03.06 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終
▼ 2007.02.28 メイリオのディセンダを変える
▼ 2007.02.19 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外
▼ 2007.02.17 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(3)
▼ 2007.02.13 WinAmp の表示をメイリオ系にする
▼ 2007.02.09 JIS2004対応 MSゴシック・MS明朝
▼ 2007.01.30 Styler 1.401(2)――手軽で便利な Styler
▼ 2007.01.28 シニフィエについて
▼ 2007.01.23 STC fontBROWSER
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▼ 2007.01.16 MeiryoKe_Console について
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▼ 2007.01.13 南半球における月の満ち欠け
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▼ 2006.12.31 ClearType Tuner(2)――コントラスト調整
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▼ 2006.12.17 ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」
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▼ 2006.12.12 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5)
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▼ 2006.12.10 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(4)
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▼ 2006.12.09 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(3)
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▼ 2006.12.02 Rapture 1.3.0
▼ 2006.11.30 メイリオ(4)――メイリオ系フォントについて(2)
▼ 2006.11.28 ソシュール「言語学」とは何か(7)
▼ 2006.11.27 メイリオ(3)――メイリオ系フォントについて(1)
▼ 2006.11.25 ちょっとボヤいてみる
▼ 2006.11.24 ソシュール「言語学」とは何か(6)
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▼ 2006.11.16 WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)
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▼ 2006.11.10 ソシュール「言語学」とは何か(1)
▼ 2006.11.06 ことばとは何か(2)――時枝誠記の言語観
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▼ 2006.11.01 FC2ブログ、登録100万サイトを突破
▼ 2006.10.31 とりとめのないこと
▼ 2006.10.31 ことばとは何か(1)
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▼ 2006.10.15 ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 2006.10.05 意味・意義・価値(3)――ソシュールの「価値」
▼ 2006.10.01 意味・意義・価値(2)――表現・受容過程と販売・購買過程とのアナロジー
▼ 2006.09.30 貨幣の使用価値
▼ 2006.09.29 意味・意義・価値(1)――ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」
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▼ 2006.09.14 〈対象→認識(意識)→表現〉過程における認識の発展
▼ 2006.09.13 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(3)
▼ 2006.09.12 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)
▼ 2006.09.11 マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)
▼ 2006.09.09 ソシュール言語学には個別概念が存在している?
▼ 2006.09.08 個別概念が介在する表現⇒受容過程
▼ 2006.09.07 概念(4)――概念というものの性格
▼ 2006.09.06 概念は「言語」に先立つ(4)
▼ 2006.09.03 ソシュール用語の再規定(3)――暫定
▼ 2006.09.02 ソシュール用語の再規定(2)
▼ 2006.08.29 ソシュール用語の再規定(1)
▼ 2006.08.28 概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)
▼ 2006.08.28 概念は「言語」に先立つ(3)
▼ 2006.08.24 概念は「言語」に先立つ(2)
▼ 2006.08.23 鏡像における左右反転という現象について
▼ 2006.08.19 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ
▼ 2006.08.18 概念は「言語」に先立つ(1)
▼ 2006.08.18 認識・意識が言語にとらわれるということの意味
▼ 2006.08.17 客体的表現と主体的表現(1)――三浦つとむの認識論・言語論
▼ 2006.08.17 言語規範――規範と規範意識
▼ 2006.08.14 カテゴリー別全記事インデックス
▼ 2006.08.11 対象意識(5)――意識・認識の発展
▼ 2006.08.10 対象意識(4)――他者意識・自己意識
▼ 2006.08.05 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂
▼ 2006.08.01 対象意識(2)――自己意識の契機
▼ 2006.07.31 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識
▼ 2006.07.28 概念(2)――概念の獲得
▼ 2006.07.28 配色を変更しました
▼ 2006.07.27 概念(1)――人間の認識は徹頭徹尾概念的である
▼ 2006.07.26 「言語」の介在しない概念
▼ 2006.07.25 誤読「言語の法典を利用するさいの結合」
▼ 2006.07.23 言語学の対象と言語過程説
▼ 2006.07.23 脱「言語」宣言
▼ 2006.07.21 温度はたし算・引き算できないか(2)
▼ 2006.07.20 ブラインド・タッチと OEA配列
▼ 2006.07.20 Google検索の電卓機能と温度計算
▼ 2006.07.19 温度はたし算・引き算できないか(1)
▼ 2006.07.18 日本語のプログラミング言語「なでしこ」
▼ 2006.07.16 ソシュールの「言語」(3)
▼ 2006.07.15 「言語」・「ことば」の語義
▼ 2006.07.13 誤読でした
▼ 2006.07.12 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 2006.07.10 ソシュールの「言語」(2)
▼ 2006.07.09 北朝鮮・ミサイル試射実験
▼ 2006.07.09 ソシュールの「言語」(1)
▼ 2006.07.08 〔弁・抜〕先天主義
▼ 2006.07.08 ちょっと反省/イデオロギー
▼ 2006.07.07 認識・思考における概念(観念)について
▼ 2006.07.07 幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)
▼ 2006.07.06 「言語」なしの思考(2)
▼ 2006.07.05 「言語」なしの思考(1)
▼ 2006.07.04 物自体(4)――弁証法的なとらえ方
▼ 2006.07.04 〔弁・抜〕人は多かれ少なかれ「観念論者」である
▼ 2006.07.04 物自体(3)――物自体――『フォイエルバッハ論』から〔弁・抜〕
▼ 2006.07.04 物自体(2)――ディーツゲンの「事物自体」批判〔弁・抜〕
▼ 2006.07.03 物自体(1)――「物自体」は非存在である
▼ 2006.06.30 存在と対象(1)
▼ 2006.06.30 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ
▼ 2006.06.29 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して
▼ 2006.06.29 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂
▼ 2006.06.29 『ことば雑記』からの転載
▼ 2006.06.28 古田武彦
▼ 2006.06.28 再開します
▼ 2006.02.12 更新は中断しています。
▼ 2005.02.03 自己の二重化(6)――鏡としての表現
▼ 2005.01.31 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
▼ 2005.01.25 自己の二重化(4)――認識の発展
▼ 2005.01.25 自己の二重化(3)――観念的自己分裂
▼ 2005.01.25 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂
▼ 2005.01.24 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂
〔2008.03.25更新〕
▼ 言語>言語本質論
(0000.00.00) 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2) (まとめて読む)
(2008.03.01) 時枝誠記と三浦つとむ(2)――「三浦つとむ選集1」から
(2008.02.29) 時枝誠記と三浦つとむ(1)――「三浦つとむ選集1」から
(2008.02.28) 三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章
(2008.02.27) 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
(0000.00.00) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.12.12) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5)
(2006.12.10) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(4)
(2006.12.09) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(3)
(2006.12.08) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(2)
(2006.12.08) 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)
(0000.00.00) ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8) (まとめて読む)
(2006.12.15) ソシュール「言語学」とは何か(8)――まとめ
(2006.11.27) ソシュール「言語学」とは何か(7)
(2006.11.24) ソシュール「言語学」とは何か(6)
(2006.11.23) ソシュール「言語学」とは何か(5)
(2006.11.22) ソシュール「言語学」とは何か(4)
(2006.11.21) ソシュール「言語学」とは何か(3)
(2006.11.20) ソシュール「言語学」とは何か(2)
(2006.11.10) ソシュール「言語学」とは何か(1)
(2006.10.18) ラングの特殊性とパロールの普遍性――個別概念
(2006.08.18) 認識・意識が言語にとらわれるということの意味
(0000.00.00) ことばとは何か(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.11.06) ことばとは何か(3)――時枝誠記の言語観
(2006.10.31) ことばとは何か(2)――言語と「言語langue」
(2006.07.23) ことばとは何か(1)――言語学の対象と言語過程説
(2006.07.15) 「言語」・「ことば」の語義
▼ 言語>言語規範
(2006.12.19) “langue” と “langage”
(2006.09.24) 個別概念を運用する手がかりとしての語音像
(0000.00.00) ソシュール用語の再規定(1)〜(4) (まとめて読む)
(2006.10.23) ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言
(2006.09.03) ソシュール用語の再規定(3)――暫定
(2006.09.02) ソシュール用語の再規定(2)
(2006.08.29) ソシュール用語の再規定(1)
(2006.08.17) 言語規範――規範と規範意識
(2006.07.25) 誤読「言語の法典を利用するさいの結合」
(0000.00.00) ソシュールの「言語(1)〜(4) (まとめて読む)
(2006.12.17) ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」
(2006.07.16) ソシュールの「言語」(3)
(2006.07.10) ソシュールの「言語」(2)
(2006.07.09) ソシュールの「言語」(1)
(2006.07.07) 認識・思考における概念(観念)について
(2006.07.07) 幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)
(0000.00.00) 「言語」なしの思考(1)(2) (まとめて読む)
(2006.07.06) 「言語」なしの思考(2)
(2006.07.05) 「言語」なしの思考(1)
▼ 言語>意味
(0000.00.00) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3) (まとめて読む)
(2007.03.28) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3)
(2007.03.27) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
(2007.03.22) 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)
(2006.12.23) 言語と内言――言語の意味
(2006.09.30) 貨幣の使用価値
(0000.00.00) 意味・意義・価値(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.10.05) 意味・意義・価値(3)――ソシュールの「価値」
(2006.10.01) 意味・意義・価値(2)――表現・受容過程と販売・購買過程とのアナロジー
(2006.09.29) 意味・意義・価値(1)――ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」
(2006.09.14) 〈対象→意識→表現〉過程における認識の発展
(2006.09.09) ソシュール言語学には個別概念が存在している?
(2006.09.08) 個別概念が介在する表現⇒受容過程
(2006.07.12) 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 言語>文法
(0000.00.00) 客体的表現と主体的表現(1)〜(4) (まとめて読む)
(2007.11.17) 客体的表現と主体的表現(4)――「ある」という関係意識
(2007.11.16) 客体的表現と主体的表現(3)――言語の過程的構造
(2007.11.13) 客体的表現と主体的表現(2)――日本語の特殊性と普遍性
(2006.08.17) 客体的表現と主体的表現(1)――三浦つとむの認識論・言語論
▼ 言語>音韻
(2006.09.26) 言語音・言語音像・音韻についての覚書
▼ 言語>雑文
(2008.01.22) 「勝手にブログ評論」なるものをしてもらった
(2006.11.25) ちょっとボヤいてみる
(2006.11.04) 前田英樹訳『ソシュール講義録注解』
(2006.10.17) ソシュール『一般言語学第三回講義』を読んでいる
(2006.10.15) ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 意識・認識>認識論
(0000.00.00) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.03.22) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展
(2008.03.20) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(6)――表象の位置づけと役割
(2008.03.19) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化
(2008.03.15) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(4)――主体的立場と観察的立場
(2008.03.09) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂
(2008.03.07) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾
(2008.03.03) 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学
▼ 意識・認識>観念的自己分裂
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(7)――観念的自己分裂
(0000.00.00) 対象意識(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.08.11) 対象意識(5)――意識・認識の発展
(2006.08.10) 対象意識(4)――他者意識・自己意識
(2006.08.05) 対象意識(3)――対象意識と観念的自己分裂
(2006.08.01) 対象意識(2)――自己意識の契機
(2006.07.31) 対象意識(1)――類的存在としての人間の意識
(0000.00.00) 二つの主観(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.06.30) 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ
(2006.06.29) 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して
(2006.06.29) 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂
(0000.00.00) 自己の二重化(1)〜(7) (まとめて読む)
(2006.08.19) 自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ
(2005.02.03) 自己の二重化(6)――鏡としての表現
(2005.01.31) 自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
(2005.01.25) 自己の二重化(4)――認識の発展
(2005.01.25) 自己の二重化(3)――観念的自己分裂
(2005.01.25) 自己の二重化(2)――鏡と自己分裂
(2005.01.24) 自己の二重化(1)――独り言と自己分裂
▼ 意識・認識>概念・表象
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(6)――概念のまとめ
(2008.01.24) 認識(5)――カテゴリー・概念の階層
(2008.01.24) 認識(4)――表象と概念
(0000.00.00) 0の概念・マイナスの概念(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.07) 0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象
(2007.10.02) 0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成
(2007.01.28) シニフィエについて
(0000.00.00) 概念は「言語」に先立つ(1)〜(5) (まとめて読む)
(2007.10.07) 概念は「言語」に先立つ(5)
(2006.09.06) 概念は「言語」に先立つ(4)
(2006.08.28) 概念は「言語」に先立つ(3)
(2006.08.24) 概念は「言語」に先立つ(2)
(2006.08.18) 概念は「言語」に先立つ(1)
(0000.00.00) 概念(1)〜(5) (まとめて読む)
(2006.09.19) 概念(5)――人間の思考・認識は個別概念を介して行われる
(2006.09.07) 概念(4)――概念というものの性格
(2006.08.28) 概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)
(2006.07.28) 概念(2)――概念の獲得
(2006.07.27) 概念(1)――人間の認識は徹頭徹尾概念的である
(2006.07.26) 「言語」の介在しない概念
▼ 意識・認識>神経系
(0000.00.00) 認識(1)〜(7) (まとめて読む)
(2008.01.24) 認識(3)――知覚と知覚表象
(2008.01.24) 認識(2)――脳の機能
(2008.01.24) 認識(1)――中枢神経と末梢神経
▼ 弁証法>未分類
(2006.07.04) 弁証法的なとらえ方
(2006.07.03) 「物自体」は非存在である
(0000.00.00) 存在と対象(1)〜(4) (まとめて読む)
(2007.10.18) 存在と対象(4)――対象的なものは存在する
(2007.10.17) 存在と対象(3)――非存在という概念
(2007.10.15) 存在と対象(2)――現象するものは存在する
(2006.06.30) 存在と対象(1)
▼ 弁証法>抜き書き
(2006.07.08) 〔弁・抜〕先天主義
(2006.07.04) 〔弁・抜〕人は多かれ少なかれ「観念論者」である
(2006.07.04) 〔弁・抜〕物自体――『フォイエルバッハ論』から
(2006.07.04) 〔弁・抜〕ディーツゲンの「事物自体」批判
▼ 教育・知識>数学・自然科学
(2008.01.29) 科学とは何か
(0000.00.00) 割り算から見た量(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.30) 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量
(2007.10.28) 割り算から見た量(1)――内包量と外延量
(2007.01.13) 南半球における月の満ち欠け
(0000.00.00) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)〜(3) (まとめて読む)
(2006.09.13) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(3)
(2006.09.12) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)
(2006.09.11) マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)
(2006.08.23) 鏡像における左右反転という現象について
(0000.00.00) 温度はたし算・引き算できないか(1)(2) (まとめて読む)
(2006.07.21) 温度はたし算・引き算できないか(2)
(2006.07.19) 温度はたし算・引き算できないか(1)
▼ 教育・知識>古代史
(2007.01.12) 邪馬「臺(台)」国
(2006.10.17) 古田武彦の仮説
(2006.06.28) 古田武彦
▼ 実用・遊び>コンピュータ
(2008.02.05) Windows XP のこと
(2008.01.03) ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
(0000.00.00) Gom Player(1)(2) (まとめて読む)
(2007.10.01) Gom Player(2)――映像が真っ暗・Styler との相性
(2007.09.05) GOM Player(1)――多形式対応の動画プレイヤー
(2007.09.03) DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
(0000.00.00) ノートパソコンの発熱・冷却(1)〜(4) (まとめて読む)
(2008.03.25) ノートパソコンの発熱・冷却(4)――ケースファン 2008年
(2007.10.23) ノートパソコンの発熱・冷却(3)――ケースファン・その後
(2007.08.23) ノートパソコンの発熱・冷却(2)――ケースファンで冷却
(2007.08.17) ノートパソコンの発熱・冷却(1)――USB扇風機で冷却
(2007.05.04) WinAmp の旧バージョン
(2007.04.29) Bフレッツに四苦八苦中
(2007.03.12) コマンドプロンプトで使用するフォント
(2007.02.13) WinAmp の表示をメイリオ系にする
(2007.02.09) JIS2004対応 MSゴシック・MS明朝
(2007.01.23) STC fontBROWSER
(0000.00.00) Styler 1.401(1)(2) (まとめて読む)
(2007.01.30) Styler 1.401(2)――手軽で便利な Styler
(2007.01.20) Styler 1.401(1)――パッチ当て不要のスキンチェンジャー
(0000.00.00) ClearType Tuner(1)(2) (まとめて読む)
(2006.12.31) ClearType Tuner(2)――コントラスト調整
(2006.12.21) ClearType Tuner(1)――にじみ調整
(2006.12.09) [クイック起動] はランチャー化できる
(2006.12.02) Rapture 1.3.0
(0000.00.00) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)〜(6) (まとめて読む)
(2007.12.27) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(6)――最終(改)
(2007.03.06) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(5)――最終
(2007.02.19) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(4)――番外
(2007.02.17) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(3)
(2007.01.14) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(2)――補足
(2006.11.16) WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)
(0000.00.00) メイリオ(1)〜(8) (まとめて読む)
(2008.01.06) メイリオ(8)――Visual C# 2008 Express Edition版のメイリオ
(2007.12.26) メイリオ(7)――メイリオのディセンダを変える(改)
(2007.02.28) メイリオ(6)――メイリオのディセンダを変える
(2007.01.16) メイリオ(5)――メイリオ系フォント MeiryoKe_Console
(2006.11.30) メイリオ(4)――メイリオ系フォントについて(2)
(2006.11.27) メイリオ(3)――メイリオ系フォントについて(1)
(2006.11.13) メイリオ(2)――WindowsXP とメイリオ系フォント(補足)
(2006.11.10) メイリオ(1)――WindowsXP とメイリオ系フォント(1)
(2006.11.13) Firefox 1.50.8
(2006.07.20) ブラインド・タッチと OEA配列
(2006.07.20) Google検索の電卓機能と温度計算
(2006.07.18) 日本語のプログラミング言語「なでしこ」
▼ 実用・遊び>FC2ブログ
(0000.00.00) ブログ・リニューアル(1)〜(8) (まとめて読む)
(2008.03.02) ブログ・リニューアル(8)――新管理画面統合
(2008.02.21) ブログ・リニューアル(7)――テンプレートのスリム化
(2008.02.19) ブログ・リニューアル(6)――新管理画面統合は大丈夫?
(2007.12.18) ブログ・リニューアル(5)――気分を変えて
(2007.10.19) ブログ・リニューアル(4)――記事の表示順を変更しました
(2007.10.06) ブログ・リニューアル(3)――元のテンプレートに戻します
(2007.09.29) ブログ・リニューアル(2)――記事本文のフォントサイズを変更
(2007.09.28) ブログ・リニューアル(1)――ようやく一段落
(2007.09.15) いつの間に……
(2006.11.01) FC2ブログ、登録100万サイトを突破
▼ 雑感>社会
(2006.07.09) 北朝鮮・ミサイル試射実験
▼ 雑感>徒然
(2007.12.29) 小春日和?
(2007.03.17) 軌道修正
(2006.10.31) とりとめのないこと
(2006.07.08) ちょっと反省/イデオロギー
▼ お知らせ>言葉
(2006.07.23) 脱「言語」宣言
▼ お知らせ>運営
(2007.12.21) 「自薦他薦・勝手にリンク集」を設置しました
(2007.09.27) 「イラク・パレスチナ・チェチェンリンク」
(2007.04.15) ホームページ変更のお知らせ
(2006.07.28) 配色を変更しました
(2006.06.28) 再開します(ブログ再開の告知)
(2006.02.12) 更新は中断しています(ブログ休止の告知)
▼ その他>音楽
(2007.10.03) 思い出の曲ノート――YouTubeほか
▼ その他>記事インデックス
▼ メイリオ(1)〜(9)
▼ ブログ内記事で取りあげたソフト・ファイルのDL情報
▼ Styler 1.401(1)(2)
▼ ClearType Tuner(1)(2)
▼ WinAmp の旧バージョン
▼ ノートパソコンの発熱・冷却(1)〜(4)
▼ マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)〜(3)
▼ DownloadHelper 2.4.1――動画ダウンローダー
▼ コマンドプロンプトで使用するフォント
▼ Gom Player(1)(2)
▼ 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)
▼ 言語と内言――言語の意味
▼ 自己の二重化(1)〜(7)
▼ 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)〜(7)
▼ 認識についての覚書(1)〜(7)
▼ ブラインド・タッチと OEA配列
▼ WinAmp の表示をメイリオ系にする
▼ 割り算から見た量(1)(2)
▼ 三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5)
▼ 貨幣の使用価値
▼ 南半球における月の満ち欠け
▼ 対象意識(1)〜(5)
▼ ことばとは何か(1)〜(3)
▼ ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8)
▼ 0の概念・マイナスの概念(1)(2)
▼ ソシュール用語の再規定(1)〜(4)
▼ ブログ・リニューアル(1)〜(8)
▼ Windows XP のこと
▼ 「言語」なしの思考(1)(2)
▼ 言語表現における概念の二重性と二種類の概念
▼ 鏡像における左右反転という現象について
▼ 存在と対象(1)〜(4)
▼ 概念は「言語」に先立つ(1)〜(5)1944
▼ 意味・意義・価値(1)〜(3)
▼ 温度はたし算・引き算できないか(1)(2)
▼ Google検索の電卓機能と温度計算
▼ 客体的表現と主体的表現(1)〜(4)
▼ 三浦つとむ「漢字と振り仮名」
▼ 概念(1)〜(5)
▼ ソシュールの「言語」(1)〜(4)
▼ 科学とは何か
▼ 物自体(1)〜(4)
▼ 古田武彦
▼ 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2)
▼ ソシュール『一般言語学第三回講義』を読み始めた
▼ 思い出の曲ノート:YouTube動画ほか
▼ “langue” と “langage”
▼ 三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき
▼ 言語規範――規範と規範意識
▼ 二つの主観(1)〜(3)
◆ 予算委――厳しい質問もあったが非常に意味ある議論だった (09年11月06日『提供:岡田かつや』)(★@「livedoor ニュース - BLOGOS」)
◆ 櫻井よしこ女史の「架空対談」のデッチアゲについて。 (09年10月29日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 日本の「保守」は社会主義 (09年10月17日@『田中良紹の「国会探検」』)
◆ マスメディアの歪んだ情報操作に警戒が必要 (09年10月16日@『植草一秀の『知られざる真実』』)
◆ 今日の話題:社会主義におびえるウヨさん (09年10月5日@『自由のための「不定期便」』)
◆ 八ツ場ダムの7不思議 (09年09月26日@『ダム日記2』by まさのあつこ)
◆ 新聞が書かない民主党の「公約破り」 (09年09月16日@『山口一臣の「ダメだめ編集長日記」』)(★参考「民主党 記者クラブ開放の公約を反故に 神保哲生 x 上杉隆」@YouTube)
◆ 自民党が撒いた「怪文書」に見る自民党の質的劣化 (09年09月15日@『SAFETY JAPAN | 日経BP社』)(★参考「自民党政策パンフレット」)
◆ 「貸し剥がし倒産」の危機 議席激減の自民党、借金60億円返せるか (09年09月14日@『AERA』2009年9月21日号)
◆ 小沢スキャンダル報道で、日本のメディアは権力の言いなり(NYタイムズ全文和訳) (09年05月31日@『カナダde日本語』)
◆ 2008年版序章 ー海に沈むより先にー (08年02月17日@『天国に一番近い島ツバルにて』)
◆ 書評『靖国問題』高橋哲哉 (05年05月09日@『アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動』)
◆ 『きっこのブログ』「人の痛みが分からない人たち」を読んで (08年04月28日@『カナダde日本語』)
◆ 准教授の個人blogの記述に勤務先大学学長が謝罪 (08年04月26日@『Matimulog』)
◆ 一部ではもはや本質とは関係なくなった「水伝」 (08年04月26日@『事象の地平線』)
◆ 『沖縄ノート』裁判にみられる「保守論壇」の目もあてられない劣化。 (08年04月27日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 小林よしのりは『沖縄ノート』を読んでいない。 (08年04月25日@『毒蛇山荘日記』)
◆ カケラほどの同意も同情もできないが (08年04月25日@『事象の地平線』)
◆ 政府の仕事、民間の仕事 (08年04月20日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 主権在米:MPは日本国の警察より上位 (08年04月17日@『なごなぐ雑記』)
◆ 「ニュース23」は偉い! (08年04月14日@『鈴木邦男をぶっとばせ!』)
◆ 逃げたマンガ右翼に未練はないが……(笑)。小林よしのりは、何故、逃げたのか? (08年04月11日@『毒蛇山荘日記』)
◆ inumash氏へ、「観客席なんかありません」 (08年04月04日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ シニシズムの放棄について (08年04月01日@『Dead Letter Blog』)
◆ 排外主義者、あるいは日曜サヨク(1)〜(4) (08年03月26日〜@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 暫定税率は、“夢か現か幻か”(その1)。, (その2) (08年04月05,06日@『永田町徒然草』)
◆ 宮平秀幸出演ビデオの証言……新証言の「嘘」を暴露する。 (08年04月05日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 小林よしのりよ、お前もか……。逃げ足の早い「マンガ右翼」よ。 (08年04月04日@『毒蛇山荘日記』)
◆ いささかの感慨ある3月31日 (08年03月31日@『永田町徒然草』)
◆ 「民間であれば破綻」? (08年03月29日@『Dead Letter Blog』)
◆ 赤木さんと話したいみたいね。 (08年02月20日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 現場にいなかった新証言者……宮平秀幸が本田靖春に語った「座間味島集団自決の真実」と比較せよ。 (08年03月10日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 吉清さんに言い放った福田康夫の「ああそう」 (08年03月03日@『反戦な家づくり』)
◆ トムグラム『チャルマーズ・ジョンソン、帝国の治外法権を語る』より (04年1月11日@『TUP-Bulletin』) ⇒ TUP-Bulletin が読めない方は『ボログ・ホンマ・タイムス』内に転載されたもの(ザ・レイプ・オブ・オキナワ)をご覧下さい。
◆ レイプと欲望の否定 (08年02月08日@『FemTumYum』)
◆ 憲法を権力者に守らせることが立憲主義の考え方です。 (08年02月05日@『お玉おばさんでもわかる 政治のお話』)
◆ わたしは左翼であるのかないのか、あるいは経済学をこのブログで取り上げる理由 (08年01月29日@『macska dot org』)
◆ 保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議 (08年01月25日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 語るに落ちた自民党 (08年01月24日@『きっこの日記』)
◆ 戸田ひさよし市議の鮮烈なる橋下批判 (08年01月20日@『反戦な家づくり』)
◆ (宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて (08年01月17日@『新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜』)
◆ 2月10日岩国市長選挙 (08年01月05日@『反戦な家づくり』)
◆ マガジン9条年末年始合併号特別対談「憲法改正、私はこう考える」伊藤真さん×小林節さん (@『マガジン9条』)
◆ 「魔苦怒」は聖域なのか? (07年12月27日@『喜八ログ』)
◆ NHKスペシャル「ワーキングプアIII 解決への道」の感想 (07年12月17日@『紙屋研究所』)
◆ 恐怖の毒毒モンスター (07年11月27日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 『フリーター漂流』 あるいは エンゲルスのこと (06年05月12日@『試稿錯誤』)
◆ 自明な「正しさ」を疑うことの意味 (07年12月01日@『遠方からの手紙』)
◆ 曽野綾子の「沖縄差別発言」を総括する。 (07年12月02日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 新テロ対策特別措置法に反対 (07年11月25日@『壊れる前に…』)
◆ 曽野綾子と宮城晴美の同一性と差異性 (07年11月24日@『毒蛇山荘日記』)
◆ 岩国の怒り (07年11月17日@『反戦な家づくり』 ●関連「国の仕打ちに怒りの1万人集会 in 錦帯橋」)
◆ ねじれ国会について (07年11月10日@『モジモジ君の日記。みたいな。』)
◆ 読売販売店の店主らが「押し紙」排除に成功 (07年11月09日@『MyNewsJapan』)
◆ 創価学会を恐れる政治家たち!? (07年11月12日@『永田町徒然草』)
◆ 敵の本質を見誤るな! (07年11月06日@『永田町徒然草』)
◆ 対テロ戦争の正当性!? (07年11月01日@『永田町徒然草』)
◆ 片仮名語の悲惨 (@『翻訳通信』 2003年5月号)
◆ デル、6月30日以降もWindows XPの販売を継続 (08年04月25日@『@Computerworld.jph』)
◆ MS、「顧客が望めば」Windows XP延命の可能性 (08年04月25日@『@ITmedia News』)
◆ 編集者さん、ちゃんと仕事してあげてね。 (08年04月15日@『*minx* [macska dot org in exile]』)
◆ マイクロソフト、Windows XPのOEM販売期限を2010年以降まで延長 (08年04月04日@『@Computerworld.jph』)
◆ 筑紫朝廷と近畿大王 (93年01月15日@『新・古代学の扉』)
◆ IFRAME を探せ (08年04月02日@『Fcafe』) ●関連記事 FC2ブログのテンプレート改ざん事件〜IFRAMEタグとJavaScript (08年03月31日@『David the smart ass』)
◆ ダーウィン展に行ってきました。 (08年04月04日@『女子リベ 安原宏美--編集者のブログ』)
◆ 水を理解するために (@『冨永研究室びじたー案内』)
◆ 聖徳太子は実在しなかった!? (08年02月12日@『永田町徒然草』)
◆ さらばゆとり教育で去っていくもの (08年01月18日@『今日行く審議会@はてな』)
◆ MSN産経:【竹内薫の科学・時事放談】疑似科学 (08年01月26日@『事象の地平線』)
◆ XP販売終了に“待った”、米国で署名運動 (08年01月15日@『@IT』)
◆ もっと簡単な話なのだが (08年01月11日@『事象の地平線』)
◆ 反科学・反理性と科学教育 (北村正直 『数学のいずみ』)
◆ 「水からの伝言」関連リンク集-選定版 (No.4560 『7635番水路』)
◆ Visual Studio 2008 Express Edition 無償ダウンロード提供開始
◆ MSのクリスマス・プレゼント?,XPでも「メイリオ」が正式に利用可能に (07年12月25日@『ITpro』)
◆ 思考と言語の関係 (07年10月29日@『人間とウェブの未来』)
◆ 視覚と言語。 (07年07月15日@『はざまの庵』)
◆ ロバート・パリー『オバマを攻撃する理由』 (04年4月2日@『TUP-Bulletin』) ⇒ TUP-Bulletin が読めない方は『薔薇、または陽だまりの猫』に転載されたものがあります。
◆ イラク人女性たちは米軍の占領にもイスラム主義者の暴力にも反対する(イファト・サスキンド) (Falluja, April 2004 - the book)
◆ 5年、そして継続中(ダール・ジャマイル) (Falluja, April 2004 - the book)
◆ マイク・グラベル:インタビューで親日ぶりをアピール (暗いニュースリンク)
◆ 黒人保守論客シェルビー・スティールが語る「それでもオバマが勝てない理由」 (08年02月21日@『macska dot org』)
◆ マイケル・ムーアがエドワーズ候補を推薦? (暗いニュースリンク)
◆ 選挙不正大国アメリカ (暗いニュースリンク)
◆ イラク・パレスチナ・チェチェンリンク (ことば、認識と表現のページ)
◆ ホワイトハウスの演出作戦、その舞台裏 (ル・モンド・ディプロマティーク 日本語・電子版)
◆ イラク駐留米軍:狙撃兵の従軍拒否宣言 (暗いニュースリンク)
◆ "Maverick"と呼ばれた男:マイク・グラベル猛語録(2) (暗いニュースリンク)
◆ CNN・YouTubeディベート:バラク・オバマの欺瞞 (暗いニュースリンク)
◆ Stop and Think:マイク・グラベル猛語録(1) (暗いニュースリンク)
◆ 異色のド根性大統領候補:マイク・グラベル (暗いニュースリンク)
◆ おまけ:カート・ヴォネガットのラスト・インタビュー (暗いニュースリンク)
◆ 国の助成金カット問題で辞職表明した岩国市長が支援要請 その1 その2 (07年12月27日)
◆ テロ特措法:アフガンではなくほとんどがイラク攻撃支援 (2007/08/31 朝まで生テレビ)
◆ 検証 自衛隊"給油"の真実 イラク戦争「転用」の記録 (2007/9/20 報道ステーション)
◆ 日米が国連で働きかけ "給油"に「感謝」のウラ (同上)
◆ 消えた年金 Part1, Part2, Part3, Part4, Part5 (2007/5/23 衆院予算委員会・長妻昭議員)
◆ 消えた年金 国民の不安をあおっているのは誰なのか? (2007/5/31 衆院厚生労働委員会)
◆ 消えた年金 "一年以内の記録照合作業の完了"は嘘っぱち 1, 2 (愛川欽也 パックインジャーナル)
◆ 消えた年金 党首討論で"一年以内の記録照合作業の完了"を確約する安倍首相
◆ 消えた年金 今年の2月に承知しながら手を打たなかった政府 (2007/6/11 参院決算委員会)
◆ 消えた年金 本当は『突合』だけど『統合』と… (安倍首相) (2007/6/19 参院文教科学委員会)
◆ 消えた年金 名寄せ「1年で完了」の真相 オンライン上の記録だけ? (報道ステーション)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 片山さつき (2007/6/3 報道2001)
◆ 消えた年金 上↑の続き 長妻昭 vs 片山さつき-4 (同上)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 大村秀章 (2007/6/17 サンデープロジェクト)
◆ 消えた年金 長妻昭 vs 茂木敏 (2007/7/1 日曜討論)
◆ 消えた年金 岸井成格の社保庁クーデター説を瞬殺する江田憲司
◆ 消えた年金 長妻昭、舛添厚労相にNO! 1, 2 (2007/9/9 報道2001)
◆ 森田童子 - みんな夢でありました (YouTube)
◆ Chiméne Badi(シメーヌ・バディ) - Entre nous (YouTube)
◆ YMO - Rydeen Live at Greek Theatre 1979 (YouTube)
◆ Pablo Milanés/Víctor Manuel - Yo pisaré las calles nuevamente (YouTube)
◆ America - Sister Golden Hair (YouTube)
◆ The long and winding road, Spector vs Mccartney version (YouTube)
◆ John Lennon - Just Like Starting Over (YouTube)
◆ John Lennon - Mind Games (YouTube)
◆ John Lennon - Love (YouTube)
◆ John Lennon - Oh Yoko (YouTube)
◆ John Lennon - Love (YouTube)
◆ John Lennon - Mother (YouTube)
◆ John Lennon - Imagine (YouTube)
◆ John Lennon - Stand By Me (YouTube)
◆ John Lennon - Jealous Guy (YouTube)
◆ John Lennon - Oh My Love (YouTube)
▼ 思い出の曲ノート――YouTubeほか
◆ ニール・ヤングの悲痛なメッセージ:「音楽で世界は変えられない」 (2008年02月10日@暗いニュースリンク)
◆ 年の暮れには『第九』 (2007年12月31日@『愚樵空論』)
◆ YouTube sonybmg's Videos (Music Videos List)
◆ Janis Joplin - Move Over (YouTube)
◆ John Lennon & Yoko - Happy Christmas (War Is Over) (YouTube)
◆ Mariah Carey - All I Want For Christmas Is You (YouTube)
◆ ABBA - Thank You For The Music (YouTube)
● 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(2006年8月20日以降)
● 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)
● ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。
【規範レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語韻 (ある語音から抽出された音韻)(概念形態)
・シニフィエ → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)(概念形態)
・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)
・記号の体系 → 語彙規範 (語すべてについての規範認識)
・言語 → 言語規範 (言語表現に関するすべての規範認識)
*語規範は 語概念⇔語韻 ないし 語韻⇔語概念 という形態の連合についての規範認識です。ソシュールは言語規範をこのような諸連合(「諸記号」)相互の規定関係と考えてこれを「連合関係」とも呼びます。また、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。
● 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合関係を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)
・語 : 語規範に媒介された 語音⇔個別概念 という連合を背後にもった表現。
・内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。
・言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。
・内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。
なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれとを区別するために、ソシュール派のそれは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。
また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも langue と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します。この観点から見た langue は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュール「言語学」(1)〜(4)」「ソシュール用語の再規定(1)〜(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8)」を参照。
さらに、ソシュールは内語における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。実際、語韻⇔語概念 と 語音像⇔個別概念 とは形態が異なっています(前者は概念形態、後者は表象形態)。
【内言レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)
・シニフィエ → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)
・シーニュ・記号 → 内語(表象形態)
・言語 → 内言(表象形態)
● また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音⇔個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。
【言語(形象)レベルにおける再規定】
・シニフィアン → 語音(個別概念と語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象)
・シニフィエ → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的に語と結びついている(この個別概念は語規範の媒介によって語と連合している)
・シーニュ・記号 → 語(表現されたもの)
・言語 → 言語(表現されたもの)
● なお、存在形態(現象形態)の違いに応じて用語の背景色を形象形態(物質的形態・現実形態)・表象形態・概念形態のようにしています。
● 語音・言語音・語音像・言語音像・語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言・内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。


