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子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


★参考<『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学>(三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

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シカゴ・ブルース

Author:シカゴ・ブルース (okrchicagob)

1948年生れ。理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

〔追記〕シカゴ・ブルースというハンドルネームは長いので、コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学

近頃は本を読んでもすぐに忘れてしまうので自分自身の覚えのために書いておきます。しかしながらこの根気がどれほど続くかまったく自信がないというのが本当のところです。やる気が失われないうちはとにかくボチボチとやっていきます。

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「一 認識論と言語学との関係」。

続きを...▽読む△隠す

〔注記〕 三浦が「認識論」というときの「認識」は、単に対象認識(認識内容)を指しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」(私はこれを関係意識と呼んでいる)をも含んでいる――つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、「認識論」は人間の精神・意識のありかたに関する科学という意味で「意識論」と呼ぶべきである。また、以下の文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.3 

 科学の成立は、それまで哲学の名でよばれていた解釈学を克服し清算してしまう。自然科学の確立は、自然哲学を片づけてしまった。経済学の確立は、経済哲学を片づけてしまった。いまだに哲学と名のるものがくっついてまわっているような分野があるとすれば、それは科学と名のっていてもまだ真に科学の名に値しないことを暗示しているといっていい。法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。

言語はある個人の認識(認識内容や関係意識――以下同様)を他の個人に伝えるための物質的・物理的媒介物である。個人の認識そのものを直接他の個人に伝えることは不可能であるからそれをなんとか伝えるための媒介物として人類は言語その他の表現を創り出した。したがって人間が自己の認識をいかにして言語という形態に変換し、また言語という形態からいかにして他者の認識――この場合の他者には自己も含まれる――という形態を再形成するのかを知るためには、人間の認識がいかなるものであるのかという科学的な研究が必要になる。つまり科学的な言語学の確立にはまず科学的な認識論の確立が不可欠だと三浦は言っている。上は本書『認識と言語の理論』第一部は科学的認識論の書であるという三浦の宣言でもある。

同上 p.3~ 

 人間の認識は社会的なものである。これは何も、認識が個々の人間の頭の中に成立することを否定しはしない。たしかに認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。それにもかかわらず認識を社会的なものと理解しなければならぬのは、個々の人間の認識が交通関係に入り込むからである。人間はその物質的生活において、交通関係をむすんでいる。他の人間の労働の対象化されたものが、場所を移動して自分のところへやってくるし、自己の労働の対象化されたものも同じように他の人間のところへ届けられている。そしてこれらを使用したり消費したりして生活を生産している(1)。そしてこの生活を生産するためには、精神的にもやはり交通関係をむすんで、他の人間の認識を自己の認識に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたりしなければならない。現にわれわれは、尨大(ぼうだい)な言語にとりまかれながら生活している。音声言語の流れが渦まき、文字言語がいたるところで訴えかけ積み上げられて手にされるのを待っている。地球の裏側に生活している人々も、国際電話で精神的な交通をすることが可能になっている。われわれはこれらと関係をむすび、また自己の側からも音声や文字を創造して関係をつくり出していく。人間はこのようにして精神的に相互につくり合っている。別のいいかたをすれば、他の人間の認識を自己の頭に受けとめることによって認識がさらに広く深くなるのであるから、自己の認識は他人的になることによって自己として成長していくのである。これが社会的という意味である。他人の認識は精神的な交通によって自己に統一され、正しく調和し融合していくのであるから、ここに矛盾が正しく調和したものとして形成され発展していくとも見なければならない。

(1) 「もろもろの個人は、たしかに肉体的にも精神的にも相互につくり合う」(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)のであるが、生活の生産とはこの人間自身の生産を含む概念である。これは「活動を相互に交換し合う」(マルクス『賃労働と資本』)ことによって行われ、対象化された労働の場所の移動すなわち交通関係もまた広い意味で生活の生産関係の一部を構成することになる。ただし、精神的な活動を相互に交換し合いつくり合うのは、物質的な活動のそれと区別しなければならない。精神が一個の実体として頭からぬけ出し、場所を移動して他の人間の頭へ入りこむのではないからである。

社会的な動物である人間は「肉体的にも精神的にも相互につくり合」って生きている。諸個人は対象化された労働である物質的な生産物の交換によって肉体的に相互につくり合うだけではなく、精神的な労働が対象化された精神的な生産物である認識を交換することによって精神的にも互いにつくり合っている。交通とはこのような物質的生産物・精神的な生産物が移動することである。しかし精神的な生産物である認識は個人の頭から抜け出して他の個人の頭の中に直接入り込むことはできない。つまり認識は認識そのものとして移動することは不可能なのである。この矛盾を解決するために人間は言語を始めとするさまざまな表現を創造し、それらの物質的・物理的な形態(形象)を介して認識を交換し合うことによって精神的につくり合っている。社会的とはこのように諸個人が交通関係を通じて肉体的・精神的に互いにつくり合うことをいう概念である。

同上 p.4~ 

 尨大で多種多様の言語のありかたを大別すると、実用的な言語と観賞用の言語の二つになる(2)。駅のスピーカーから流れ出るアナウンスは実用的な言語で、ラジオのスピーカーから流れ出る落語や漫才は観賞用の言語である。多くの数式をふくんだ抽象語を展開して、目に見ることのできぬ極微の世界についての理論的な認識を述べた自然科学の論文は、実用的な言語の一つのありかたであり、作家の奔放な空想の世界を展開して、さまざまな事件のからみ合いを目の前に見るように語りながら複雑微妙な登場人物の心の動きを追っていく長編小説は、観賞用の言語の一つのありかたである。観賞用の言語は、言語の持つ長所を十分に発揮できるように、その内容となるべき作家の世界を設定しうるが、実用的な言語は、物質的な生活を維持し発展させるために欠くことのできない存在であるばかりでなく、認識をえりごのみすることが許されない。どのような認識でも、直接あるいは間接にとりあげ、ときには身振りや表情などの協力をも求めて、何とかして交通関係に置かなければならない。一方、これを受けとめる側としても、音声言語は空気の震動として耳の鼓膜を動かし、文字言語は紙の上のインクの描線として目に映ってくるのだが、それらは単なる自然物ではない。それぞれの背後には話したり書いたりした人間の認識がひそんでおり、それを通じてさらに現実の世界のありかたへとつながっているのであるから言語を理解するにはこの過程的構造を正しくとらえなければならないことになる。言語の理論的な研究の重点は、とりもなおさずこの過程的構造の理論的な研究だということになる(3)。それゆえ言語学の確立にはどうしても認識論の援助を必要とするし、もし認識論があやまっているにもかかわらずそれに依存した場合には、言語の直接の基礎となっている存在をあやまって解釈するのであるから、言語学もまたあやまった方向をとることになろう。それゆえ、言語の理論的な研究を志す者は、自己の認識論が正しいか否か、意識することなしにあやまった認識論へとふみすべらしていないかどうか、常に吟味を怠ってはならない。

(2) ここでいう言語は、ソシュールの「言語」(ラング)のような頭の中にある規範をさすのではなく、表現をさすのである。表現ならこの二つの系列が大別できるけれども、ソシュール的な発想では表現としての特徴が捨象されてしまい、この区別も無視されることになる。

(3) 時枝誠記がこのことを強調したのは正当であった。

前半部は言語は実用的なものと観賞用のものとに大別されることを述べている。実用的な言語は観賞用の言語とは違い、物質的な生活のために必要不可欠なものでありその必要に応えるためにはいかなる認識であってもなんとか表現を工夫して他者にその内容を伝えなければならない。そうでないと物質的・精神的生活に支障をきたしてしまう。そのためには言語表現だけでなく身ぶりや表情・声の大小などの言語表現以外の表現の助けを借りるということも必要になる。しかし言語表現とそれに付随する非言語的な表現とは別のものであることには留意しなければならない。

言語は人間の認識の内容を物質的・物理的な形態(形象)で表現したものであるがそれは認識そのものではない。物理的にはそれは単なる音声あるいは描線の集まりにすぎない。しかしその背後には表現した者の認識が隠れており、その認識の背後にはその認識をもたらした現実の世界のあり方がつながっている。したがって言語がいかなるものであるかを理解するためには、時枝誠記が主張したように<現実の世界→認識→言語>という形でつながっている言語の過程的な構造を論理的にきちんとつかむ必要がある。そのためには科学的な認識論という解剖の武器がどうしても必要になる。言語過程説はこのような問題意識のもとに言語を研究する言語学である。

同上 p.5~ 

 現在の言語学はまだ蒐集(しゅうしゅう)と分類の学問の段階をあまり出ていない。現象をとらえて説明すればそれでいいのだと信じている学者もすくなくない。けれども語彙を蒐集し、それらの音韻・形態・意味を分類して記述し、さらに歴史的な変動・変遷の調査へと進んで、なぜ・いかにして・言語の意味が変動・変遷するのかという問題にとりくむと、それが人間の認識のありかたと深くかかわり合っているだけに、それらの「心理的理由」について検討しなければならなくなってくる。また、言語の表現は多くの単語をならべるというかたちをとるから、なぜ・いかにして・単語を構成していくのかという問題にとりくむと、それが人間の認識構造と深くかかわり合っているだけに、認識の構造をどう解釈するかによって文法の解釈が変り、文法論の性格も異って、いろいろな文法論が対立することになった。それゆえ、現在の文法論の対立を検討しようというときにも、やはり正しい認識論の援助を必要とするのである。

人間の認識は立体的・多面的・過程的である。しかし複雑な構造をしたこの人間の認識内容を言語に映すときには単語を並べた一次元的なつながりとして表現するしかない。それでは単語とはいかなる認識を表現したものなのか、文とは、文章とは……。時枝は単語は言語における単一なる全一体・質的統一体であり、文もまた一つの全一体・質的統一体であるという。しかもそれらは表現者の主体的意識においてそうなのだと喝破している(『国語学原論』)。したがって言語を構造として理解するためには認識の構造がいかにして言語の構造に映されるのかを解明しなければならない。そのためにも科学的な認識論が必要となってくる。

同上 p.6~ 

 そこで考えなければならぬのは、認識論の現状である。認識論は哲学の一分野と見なされて、古くから哲学者によって研究されて来た。ところが一九世紀に至って、実証的な個別科学がつぎつぎと確立し、哲学も哲学者ももはや歴史的な役割を終って退場すべき運命をたどることとなった。科学は哲学者が机に向かってあれこれと空想を展開しながら体系化していくものではなく、あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものである。認識の科学も、科学者の手によって一つの個別科学として体系化されなければならないのであり、認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならないのである。もちろんこのことは、従来の哲学の遺産を無視してよいことを意味するわけでもなければ、哲学でとりあげて来た世界観を無視してよいということを意味しているわけでもない。観念論の立場に立つのと唯物論の立場に立つのとでは、認識の寄ってたつ基礎のとりあげかたがまったく異ってくる。唯物論の立場を堅持することによって科学的な認識論の確立も可能なのであり、観念論にふみはずしたのでは混乱と誤謬からのがれることはできない。しかしこの世界観的な立場だけを抽象的に論じていたのでは、哲学者の態度にしがみつくわけであって、個別科学としての認識論の確立を放棄してしまうことになってしまう。それにもかかわらずマルクス主義者と自称する人びとさえ、いまもって認識論を哲学にとじこめておこうとしている。

個別科学としての認識論は原則としては物理学や化学といった自然科学の諸分野と同様に「あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものであ」り、「認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならない」。三浦のいう「唯物論の立場」とは科学的な立場であり、個別科学というのは科学的な方法論によってなされなければならない、と三浦は主張しているだけである。このあたりまえの考え方が認識論という学問においてはいまだ共通の立場(common sense)になっていない(時枝のいうようにこのことは言語学についてもいえるのだが)。

同上 p.6~ 

 「弁証法的唯物論の認識論は、諸科学にとって、それ自身の前提とを吟味し批判するための手段である。そして、これは、科学の問題や仕事を定式化し解決するために役立つところの、本質的な、あるものである。」(コーンプフォース『哲学の擁護』)

 「知ること(認識作用)およびその結果獲得された知識(認識)についての何らかの哲学的反省のすべてを、認識論とよぶ。」(寺沢恒信『認識論史』)

 「資本制段階をとおして確立したとくていの認識論という、哲学の存在形態を整序し、その基本的性格とことなるあたらしい哲学の存在形態が、出現し、現代認識論という理論形態をとった、というのが本書の見解である。」(山田宗睦『現代認識論』)

 なぜこれらの人びとが、個別科学の建設を主張しないで、「批判するための手段」や「哲学的反省」や「哲学の存在形態」にしてしまうのか? それはマルクス主義の創始者たちが「哲学一般はヘーゲルとともに終結する(4)」ことを指摘しているにもかかわらず、哲学者なるものは一個の職業として相も変らず社会的に維持されてきたからであり、マルクス主義者の中にも資本主義国はもちろんのこと社会主義国においてさえ哲学を説くことを職業とする人びとが現れたからである。そのちがいは「ブルジョア哲学」を説くかそれとも「プロレタリアートの哲学」なるものを説くかにあって、個別科学の建設に努力しない点では同様である。哲学なるものを説いて生計を立てることになれば、自分の存在理由を合理化するためにはどうしても哲学とよばれるものの分野を確保しなければならない。認識論が科学からぬけ出して個別科学として確立したのでは、存在理由が減少してしまう。そんな努力は自殺行為でもあるし、それに机の前で哲学的なエッセイを綴(つづ)るのとちがい、着実な研究のつみかさねを必要とする苦労の多い仕事であるから、哲学の文献について解説しながら生活して来たような人びとには耐えられないことでもある。そこで認識の理論としての認識論ではなくて、認識の評論としての認識論が作文されることにもなるのである。けれども科学的な認識論を実践的に必要とし、また自分が具体的な認識ととりくんでいるところからその経験を理論化しようとする人びとが、哲学者とは別のところから現れて来る。そしてこれらの認識論も、これまた唯物論の立場から説明したものもあれば、観念論の立場から説明したものもあり、認識の構造を機械的に説明したものもあれば、有機的に説明したものもある。具体的な認識のありかたを論じて、一応学問らしいかたちをとったものに心理学があるけれども、これもまだ認識のいろいろな側面を断片的に説明するにとどまって、真に体系化されているとはいいがたい。心理学の中にもいろいろな主張が対立しているし、心理学者もいろいろな学派にわかれている。

(4) エンゲルス『フォイエルバッハ論』第一章。

このあとに当時のソ連における認識論に対する批判が引用とともに取り上げられている。個々のことがらはこの際どうでもよいことなので割愛する。

同上 p.9~ からの抜粋 

 レーニンのこの認識論についての規定(「認識論は弁証法の別名である」という規定――シカゴ注)は、ヘーゲルにひきずられて足をふみすべらしたものである。唯物論では現実の世界をそれ自体として存在するものとして見なしているし、この世界の論理構造すなわち物質的な論理構造とその反映について論理学がとりあげるものと考えている。ところがヘーゲルにとっては、現実の世界がそれ自体として存在するのではなく、まず絶対的なイデーすなわち認識がさきに存在して、これがすがたを変えて自然になったのだと解釈されていた。つまり、現実の世界も認識のありかたなのである。それで現実の世界の論理構造とその反映をとりあげる論理学も実はすべて認識の論理構造をとりあげるゆえに認識論だということになる。ヘーゲル観念論ならば、たしかに論理学も弁証法も同一のものなのであるが、マルクス主義は唯物論であるから、けっして同一にはならない(5)。レーニンはヘーゲルの『大論理学』を読んで、そこから多くのことを学んだまではよかったのだが、ヘーゲルにとって弁証法が認識論ならばマルクス主義にとっても同じはずだと思いこんでしまったのである。

(5) この点の詳細については、三浦つとむ『弁証法とは何か」(論文集『レーニンから疑え』所収)を参照。なお、ヘーゲルは、客観的論理学に対する主観的論理学客観的弁証法に対する主観的弁証法という区別を与えているのだが、これも客観と主観とがともに絶対的なイデーのありかたであり、本質的に同一だとみているからである。これらのことばをそのまま受け入れると、やはりヘーゲル的偏向にすべりこむことになる。(シカゴ注:『三浦つとむ選集2』「レーニン批判の時代」にも同じことがらが「レーニンのヘーゲル的偏向とその影響」の中で取り上げられている)

認識論は人間の認識に関する個別科学であり、論理学は現実の世界における論理構造(一般的なありかた)に関する科学である、というのがマルクスやエンゲルスの科学についての規定から導かれる論理的帰結であり、三浦はそれを指摘している。同様に弁証法はヘーゲルの規定では哲学でありヘーゲル哲学においては弁証法も論理学も認識論も同一であるけれども、ヘーゲルの弁証法をひっくり返したマルクスやエンゲルスの弁証法(唯物弁証法)は現実の世界における一般的な論理を扱う論理学つまり一般科学ということになる。形式論理学および弁証法は具体的な個別科学それぞれを通じて取り出される一般的な法則=一般的論理を扱う科学なのである。三浦の書「弁証法はどういう科学か(講談社現代新書)というタイトルはそれを踏まえてつけられている

認識論は人間の認識をその対象とする科学であり、個々の人間の個々の認識そのものを研究の対象としなければならない。そういう意味では人間の精神の外部の事物を扱う自然科学とは具体的実践・具体的方法において大きな違いがある。認識は直接目にすることができないばかりでなく他者の認識そのものを直接知ることも不可能である。他者の認識を知るためにはその他者が外部に表出した表現を介するほかに方法はない。しかしマルクスのいうように「言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である(『ドイツ・イデオロギー』)から、他者の認識を知るには表現された言語が手がかりになる。そういう意味で言語学と認識論とは相互に相手を必要としている。

同上 p.10~ 

 認識が成立してから言語に表現されるという過程をとる以上、認識は言語の直接よって立つ基盤であるにちがいないけれども、言語のほうもまた認識のありかたを規定してくるのであって、ここに相互関係が存在している。それで認識について論ずるときには言語について触れないわけにはいかなくなる。ギリシャ以来、認識について論じた哲学者は、多少のちがいこそあるがいづれも言語に触れているし、近くは論理実証主義者たちも、認識論すなわち言語論ないし記号論というかたちのとりあげかたをしている。また言語について論じた言語学者にしても、「心理学的理由」を検討するところにふみこむや否や、唯物論の立場なり観念論の立場なりをとって認識のありかたを論じないわけにはいかなくなる。ヨーロッパ言語学において現在支配的な地位を占めているのは、フェルディナン・ド・ソシュールの流れをくむ学派であるが、これに属する人びとは不可知論ないし観念論の立場から認識をとりあげているし、またその立場を自覚している。これに対して、デンマークの言語学者イェスペルセンにしても、イギリスの心理学者であり文芸評論家であるオグデン=リチャーズにしても、国語学者の時枝誠記にしても、自然成長的であるとはいえ唯物論の立場から批判を加えたのであった。日本にソシュール理論を紹介しその学派の著作の多くを翻訳している小林英夫は、イェスペルセンのソシュール批判に反駁して、「氏はパウルと同じく、余りにも唯物論的な見方をしてゐる」といい、メイエの「ある言語の実在に何らか物質的なものがないとしても、それは依然として存在する」ということばを引用して強く抗弁した(6)

(6) 小林英夫『ランガージュの疑義解釈』(『国語と国文学』昭和七年七月号)。小林は言語規範をとりあげて、「この規範が言語を統一するところの隠然たる力」であると主張するが、この点は俗流唯物論の立場での言語論にまさっている。だが彼が「この規範は動かすべからざる心理的実在である。抽象物であるならば、如何にして我々を統制し言語の統一を保守する力となり得ようか。」というとき、抽象についての無理解が示されている。憲法は法律にくらべてヨリ抽象的でありながら、国民に対してヨリ高度の統制力を持つのであって、抽象と統制力とは両立する。なお小林の『言語学通論』は、「本質的なものと遇有的なものとの区別」が「研究者の研究目的」にもとづくとか、「科学が客観性を持つ」のは「研究者の予想」によるとか、客観性を観念論的な立場に立って論じている。

意識と言語とは互いに浸透しあい互いに作りあっているのだから、両者を同一であると見なしたり、意識(認識)の優位性を度外れに主張したりすると主観主義や観念論の過ちにはまり込んでしまう。ことばを使う人間の実践は人間的な意識・認識によって生まれるものであるが、認識について考えるときには認識の基盤が現実の世界にあることをひとときも忘れてはならない。

同上 p.11~ 

 言語表現は前に述べたように認識をえりごのみすることが許されない。どんな幻想でもそれなりに表現されなければならない。SFに出てくる火星人の住居も、ベトナムで戦火に焼かれている農民の小屋も、われわれには同じく家という概念でとらえ、同じ言語規範に従って「家」と表現している。現実に存在する対象も空想的な対象も、言語表現に際して同一視されるということから、対象が現実に存在するかしないかを論じることは意味がないと主張するのは、いわば、「認識のありかたをそのまま対象のありかたに押しつけようとする観念論的なやりかたであるが、これは論理実証主義者が言語ないし記号について論じるときの基本的なやりかた(7)であって、別にソシュール学派独自の発想ではない。日常の会話を反省してみれば、一つの文の中で現実の世界から想像の世界へ往復するくらいのことは絶えず行われている。「このお菓子を食べてください」というときにも、お菓子は現実の世界に存在するのだが、食べるということは話し手が想像しているだけのことであって、聞き手がそれを現実化してくれるよう求めているわけである。一つの文の中にさえ現実の世界と想像の世界と異った世界が二重にとりあげられていることが理解できなければ、言語表現を正しく理解したことにはならないのである。この世界の二重化を否定する哲学的な立場では、文の正しい説明すら不可能である。言語学は個別科学であって、唯物論とか観念論とか哲学的な議論だけをたたかわせることは強く戒められなければならないが、哲学的な議論を無視するわけにはいかない。哲学的な議論をするのは言語を哲学的に解釈して言語哲学を打ち立てるためではなく、反対に言語を哲学的に解釈する言語哲学を片づけてしまって、言語学を真に科学として確立するためである。従来のソシュール言語学説批判を検討するに際しても、そこに観念論と唯物論の対立が存在したことを理解し、自然成長的な俗流唯物論ではそれに制約されて批判が不徹底に終ってしまうことを反省し、自ら俗流唯物論をのりこえることによってソシュール言語学批判をさらに押しすすめ、言語学の建設へとすすむのである。そしてそのためには、まず認識論を哲学から脱皮させることが先決問題なのである。

(7) 本書第二部第一章八を参照。

表現された言語には意識・認識のあり方が反映している。そこから認識のあり方を考察し、それがどのように言語表現に現れているかを考察することなしには科学的な認識論も科学的な言語学も作り出すことはできない。意識における世界の二重化は単語の分類を始め、さまざまな言語学の分野に関連する重要な現象であるからこれについての科学的分析なくして言語学は確立できない。『日本語はどういう言語か』が観念的な自己分裂についての説明から始められているのはそういう理由によるのである。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「二 認識における矛盾」。

続きを...▽読む△隠す

〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.13~ 

 認識論をそして言語学を個別科学として確立するために、どのような研究方法が必要かといえば、それは対象の考察に際してつねに矛盾の存在に心をくばり、矛盾の発展を忠実にたぐっていくという態度である。しかしこういわれても、読者特に言語学の書物だけに親しんで来た人びとには納得がいかないかも知れない。かつては言語を、それ自身として成長し変遷する存在と考え有機体と解釈する、言語有機体説がひろく説かれていたこともある。この説はあやまりであるが、それにはそれだけの根拠が存在したのであって、有機体の持つ論理と共通するものが言語にも存在することに気づいたからである。有機体の持つ論理が言語の研究にも役立つと考えるのではなく、同じ論理をもっているから言語も有機体だと結論したところに、あやまりが生まれたのである。それでは有機体の持つ論理とは何かといえば、これがほかならぬ矛盾なのである。それゆえ、まず矛盾についてすこし語ることにしよう。

 矛盾は常識的には、変則的な・異常な・存在することののぞましくないものだと思われている。中国の故事にある、(ほこ)(たて)との説明のような、不合理な認識のありかたをさすものと考えられている。しかしどんな矛盾にしても、それが生れるだけの合理性があるからこそ存在できるのであるし、またのぞましくない消滅させることが必要な矛盾だけではなく、反対にのぞましいものとして維持したり創造したりすることが必要な矛盾もあることは、すでに古代から哲学者たちによってとりあげられている(1)。マルクス主義の創始者たちは、この矛盾論の遺産を唯物論の立場で受けぎ、科学的な矛盾論を確立したのである。現にわれわれ人間もふくめたあらゆる生物は、どの瞬間においても、同一のものでありかつ同一のものではない。個体として同一でありながらそのありかたは異っている。どの瞬間においても、それは外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している。これは絶えず自己を定立しかつ解決しつつある一つの矛盾であって、この矛盾がやめば直ちに生命もやみ死がはじまるから、生きていくためにはこの矛盾を維持していく必要があり、とりいれる面と排泄する面との調和に努力する必要がある。この種の矛盾は非敵対的矛盾とよばれている(2)。これは肉体の成長において見られるばかりか、精神の成長すなわち認識の発展においても見られるのであって、認識におけるもろもろの非敵対的矛盾をそのありのままにとらえなければ、認識論を体系化していくことができなくなってしまう。たとえマルクス主義者と名のっていても、非敵対的矛盾についてのあやまった解釈を信じているのでは、認識論を個別科学として確立することはできない。

(1) 三浦つとむ『矛盾論の歴史と毛沢東の矛盾』(季刊『社会科学』第九号、一九六六年五月)参照。たとえばヘラクレイトスは、「自分自身と分裂しながら自分と一致する」いわゆる「一分為二」の形態をとった矛盾のありかたに、調和するものを認めて、をその例の一つにあげている。弓は竹であれ木材や金属であれ、弾性のある材料を必要とするが、一方の弦には非弾性的なものを用いなければならないし、弓の長さ・太さ・強さも調和したものを用いなければならない。それゆえ弓の持つ矛盾は、矢をとばす原動力であり、調和するものとして成立した矛盾であると理解したのである。

(2) マルクス主義者と自称する人びとは、いずれも敵対的および非敵対的の二種類の矛盾を認めるのであるが、その区別のしかたは必ずしも同じではない。二種類の矛盾は本質的に異なるのだ(ソ連)という主張と、どちらも闘争的だという点で異っておらず、「闘争の形態」が異なるだけだ(中国)という主張との対立が、現に中ソ論争の中で火花を散らしている。前者は矛盾の調和を認め、後者は矛盾調和論に「修正主義」のレッテルをはっている。

ここでいう矛盾論とは要するに弁証法のことである。弁証法は論理学であり、運動・変化するものに関する一般的論理法則と言い換えてもいいと私は思っている。もとより私は弁証法については詳しく勉強したことがないので自信はないけれど、三浦つとむの著書やマルクス・エンゲルス・ディーツゲンの書を読んだ範囲でそれらの論理展開の仕方を見る限り、彼らは世界を運動するもの・変化するものととらえており、その運動・変化の中から一つの法則として「対立物の統一」というものを抽出している。矛盾とは二つの相対立するものが存在していることをいう概念である。矛盾が何らかの形で解決することを対立物の統一とよぶわけである。

運動・変化は静止と反対の概念であるが、静止自体が運動・変化の一つのあり方であるととらえる点でも彼らは一致している。世界を運動・変化するものととらえるのは自然科学の基本的な世界観であるからマルクスやディーツゲン、三浦は自然科学者と同じ立場に立って自然的および社会的な現象を分析・検討しているといえる。自然科学においては静止ないし平衡とは運動・変化における一つの特殊なあり方である。個々の運動・変化という現象は継続的なものであるからそこを貫いている法則をとらえるためには一つの過程として現象全体をとらえる必要があるが、過程の分析にあたっては現象の一部を固定したものとして見ることも必要になる。しかしその場合もそれはあくまでも過程の一断面であるということを忘れてはならない。因果関係とよばれるものも現象を一つの過程ととらえ、その端初と結果とを別々のものとして扱いながら過程全体としてそれらを一つの関係として見たものである。さらにまた個々の過程として観察される一つの現象もより大きな空間・時間から見ればかならず別の個々の過程の一部分をなしていることも忘れてはならない。

マルクスは科学を二つに大別し、人間の意識あるいは意思がその中に直接関係してこない現象(運動・変化)を対象とする科学を自然科学とよび、それ以外の人間の意識あるいは意思がそこに直接関係してくる現象を扱う科学を歴史科学とよんでいる。それは人間の意識が歴史的に形成され発展してきたものととらえるからである。したがっていわゆる社会科学は歴史科学であり言語学も認識論も歴史科学として分類されることになる。

閑話休題。上の引用文中で生物における非敵対的矛盾として「外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している」という二つの相対立する現象が取り上げられている。自律的にこれらを行なうのが生物の特徴であるから三浦が生物の持つ矛盾としてこれを取り上げたのは正鵠を得ている。ただし、三浦は自然科学に関しても詳しいとはいえ独学者の弊として個々の術語に関しては大雑把なところがあるのも否めない(私自身も独学の徒であるからえらそうなことはいえないが)。したがって注(1)はそのあたりを割り引いて読む必要がある。「弾性」という語はむしろ「剛性」と置き換えた方がよいと私は思う。

同上 p.14~ 

 認識の基礎となっているのは現実の世界であるが、この現実の世界を反映し模写するという認識の本質的なありかたがすでに一つの非敵対的矛盾を形成している。現実の世界は時間的にも空間的にもまたその多様性においても無限であるにもかかわらず、その現実の世界の一部分であるわれわれの頭脳への現実の世界の反映は、われわれの歴史的なありかたと個人の肉体的・精神的なありかたから規定されて、時間的にも空間的にもまたその多様性においても有限でしかありえない、という矛盾である。この矛盾は人間の認識にとって本質的なものであって、人類が消滅しない限り消滅しないのである。それゆえつぎの叙述は、認識論を建設するに際しての出発点を教えるものとして、きわめて重要になる。

 「人間の思惟は至上的なものであろうか。そうであるかないかを答える前に、われわれはまず人間の思惟とは何であるかを調べなければならない。それは一個人の思惟であろうか。そうではない。だが、それは過去、現在および未来の幾十億の人間の個々の思惟というかたちでしか存在しないものである。いまもし私が、この私の観念のうちに総括されている、未来の人間をもふくめてのこれら一切の思惟は、人類が十分長く存続しさえするなならば、そしてまた認識器官についても認識対象に関してもこうした認識作用に制限が加えられるようなことがないかぎり、至上的なものであって、現存の世界を認識することができるのだ、といったとしたら、私はかなり平凡な、そしてしかもかなり無益なことをいったことになる。というのは、そこから出て来るもっとも価値ある成果というのは、今日われわれの持つ認識に対してわれわれに極度の不信を起させるぐらいなものであろうからである。」

 「各個々の思惟にもとづく認識の至上的な妥当性はどうかといえば、われわれがみな知っているとおり、そんなことはとうてい問題にならないし、またこれまでの一切の経験からいって、そうした認識には、例外なくいつも、これ以上修正の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多くふくまれているのである。」

 いいかえれば、思惟の至上性はきわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、真理性を主張する無条件的な権利をもつところの認識は相対的誤謬の系列を通じて実現されるのであって、前者も後者も人類の生命の無限な存続を通じてでなければ、完全に実現されることは出来ないのである。

 ここでもまた、どうしても絶対的なものしか考えられなかった、人間の思惟の性格と、もっぱら制限のうちでしか思惟することのできぬ個々人の現実との間の、上述のような矛盾にぶつかる。それは無限の前進を通じなければ、すなわちわれわれにとっては少くとも実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じなければ、解決のできない矛盾である。この意味において人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている。素質、使命、可能性、歴史的終局目標から見れば、至上的であり無制限である。個々人の実行とそのつどつどの現実から見れば、至上的でなく制限を持つものである。」(エンゲルス『反デューリング論』)

人間の認識は現実の世界の反映であるから、時間的にも空間的にも有限である個人の肉体的・精神的能力に規定される個人の認識は有限でしかありえない。世界の無限性に対する人間の認識の有限性、これが認識のもつ本質的な矛盾である。しかし人間は社会的な動物であるから諸個人は物質的・精神的な交通を通じて肉体的にも精神的にも互いにつくり合っている。そこに個人が肉体的・精神的な限界を超えていく契機がある。

つまり、個々人は「もっぱら制限のうちでしか思惟することのでき」ない存在ではあるが「実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じ」て「思惟の至上性」は実現されるのであり、その意味で「人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている」といえるわけである。

エンゲルスはここで人間の認識の歴史性について語っている。これは真理というもののもつ歴史的性格の規定でもあり、科学的真理もまた同じ性格をもつものとして規定される。このことは自然科学の歴史の成果にもとづいて自然科学を実践している者にとってはきわめて自明なことがらである。

同上 p.16 

 人間の認識が変化し発展していくものであることは、誰もが認めている動かしがたい事実である。科学は事実を認めるだけでなく、なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない。たとえ観念論者が、人間の生れつき与えられている能力によるものだと解釈しても、われわれは認識の本質的な矛盾をとらえて、それがどのように発展していくのかをたぐって考えてみなければならない。現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界があるとしても、われわれは他の人間の認識を受けついでそれを補う方法を現に実践している。これは実際上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化することであり、個人が他の人間とむすびついてつぎからつぎへと認識を受けついでいく認識それ自体の交通・運動形態を創造することである。この無限の継続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられるのであるから、これは非敵対的矛盾を実現しかつ解決することなのである。この矛盾はさらに個人の認識の構造として具体化されていく。

科学の至上性は無限に系列化された諸個人の実践を通じて実現される。三浦の「この無限の継続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられる」という言は、歴史的な科学の成果を受けついだ諸個人が、科学的な理論的・現実的実践を行った成果として科学的真理は得られるのであり、無限に続く科学的真理の系列化という実践を通じて科学の至上性は実現されるという意味のことばであると私は思う。「認識それ自体の交通・運動形態を創造する」とは諸個人のそのような実践のありようを指していっている。

同上 p.16~ 

 まず第一に、対象から与えられたという意味での、受動的な反映としての認識にわれわれは甘んじていることができない。他の人間が頭の中で何を考えているか、直接に見ることはできないし、質問しても正直に語ってくれるとは限らないが、それでは生活にさしつかえるために、われわれは他の人間の「顔色を読んで」何を考えているか能動的に想像していく。未来のありかたを直接に見ることはできないし「一寸さきは闇」の状態にあるとはいえ、それでは生活にさしつかえるために、われわれは明日の、明後日の、一年さきの十年さきのありかたを想像しながら、生活を設計していく。認識が受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向かって問いかけその限界を超えていくというのも、一つの矛盾であって、ここに予想とよばれる認識の形態も成立するばかりでなく、単純なものから複雑なものへと発展していく。これは本質的には、認識の側から現実の世界のありかたへ近づこうとする、一致を目ざしての運動でありながら、現象的に見ると、現実にまだ存在していないもののイメエジを頭の中につくりだしていくのであるから、不一致というかたちをとっている。そのために、この本質と現象との矛盾を正しく扱えない俗流唯物論者が、現象的な不一致に目を奪われて予想を反映論から切りすててしまったり、夢を持つことはすべて現実ばなれすることだから意味がないのだと結論づけたりする。そこに夢想をダイナミックにその過程的構造においてとりあげた、つぎのようなロシアの一評論家からの反駁もつきつけられることになる。

 「一概に不一致といってもいろいろのものがある。私の夢想が事態の自然の歩みを追いこすこともあるし、あるいはまた事態のどんな自然の歩みもそこまでは決して到達できないような、まったくちがった道に入りこむこともありうる。前者の場合には、夢想はどんな害悪をももたらすものでなく、勤労する者のエネルギーを維持し増進することさえできる。……このような夢想にあっては、働く力をゆがめたり麻痺させたりするものは何もないばかりでなく、まったくその逆でさえもある。もし人間がこのように夢想する能力を完全に奪われているとしたら、もし人間が時には先走ったことを考え、その想像力によってようやく彼の手で形のつきかけたばかりの創作物を完全な完成したありかたでながめることができないならば、芸術、科学および実際生活の領域においてそもそもどんな動機が人間をして広大な精魂をすりへらす仕事を企てさせ、かつこれを最後までやりとげさせるのか、私はまったく想像することができない。……夢想と現実との間の不一致は、もし夢想する人間が自分の夢想をまじめに信じ、生活を注意深く観察しながら、自分の観察と自分の空中楼閣とを比較検討し、概して自分の空想の実現のために誠実に努力するならば、何らの害悪ももたらさないのである。夢想と現実の生活との間に何らかの接触が存在するときこそ、万事が好調に運んでいるときなのである。」(ピーサレフ『未熟な思想の失敗』)

 この主張は、夢想の積極的な役割について論じているだけでなく、夢想に対立する二つの性格を持つものがあることをとりあげている。現実に近づいていく先走りと、現実から遠ざかっていく幻想と、この二つの矛盾について問題にしているのである(3)。これもまた認識の矛盾の一つの発展した形態として検討しなければならぬ存在である。

(3) レーニンは、革命運動は夢想を持つべきだと主張して、このピーサレフのことばを『何をなすべきか』に引用した。けれども、ここで二種類の矛盾がとりあげられ、その対立した性格が明かに語られているにもかかわらず、レーニンはここから二種類の矛盾の理論をくみとりえなかったようである。先走りにおける矛盾は、現実の観察と空中楼閣との調和を、すすんでは空中楼閣が現実化することによって矛盾の調和を、問題にしているにもかかわらず、のちの『哲学ノート』ではそれらの問題が忘れられているからである。

想像といえどまったくの何もないところから生まれるわけではない。現実に経験したさまざまなものの中から必要なものを取り出してそれらを再構成することによってイメージを作り上げるのである。夢想あるいは予想にしてもそれらを構成する材料は現実の経験の中から持ってきたものであり、実際に経験したさまざまな因果関係をもとにして予想あるいは夢想を形成するのである。もちろん条件が整わないために結果が予想を裏切るということもありうるし、なんらかの偶然が加わって条件が変わってしまうということもある。むしろいまだ条件が整っていないためにこれからそれらの条件を整えていかなければならないということの方が多い。

実践の媒介を通じて意識と現実とが互いに浸透し合っていることを認めるのがマルクスや三浦の反映論である。認識は現実の反映としては受動的であるにもかかわらず、人間はそれに甘んじることなく予想や想像によって現実に働きかけその限界を超えようとする。現実との不一致を一致させて現実化させようとする認識のもつこの能動的な側面すなわち予想や夢想の積極的な意義や目的を正しく評価することが必要である。これは人間の意志や欲望の問題ともからんでくる問題である。

同上 p.18~ 

 第二に、認識の本質的な矛盾から、誤謬とよばれるものが必然的に生れてくる。真理に対立するものとしての誤謬、およびその相互転化ということも、認識の矛盾のありかたにほかならない。平凡な庶民が日常生活でさまざまな誤謬をおかしたり、競輪でもうけて家を新築しようという幻想を持ったりするのは、当然のことだと思いながら、それと同時にレーニンや毛沢東など偉大な革命家の著作には何の誤謬も存在しなかったし、その革命運動において何の幻想ももたなかったと信じているマルクス主義者もすくなくないのである。マルクスはその若かりしころヘーゲル主義者で、観念論的な考えかたを持っていたと認めながら、レーニンや毛沢東は生れながらマルクス主義者であり無謬であったと信じているのは、誤謬を無能なるが故の失敗であるかのように思いこんで、認識を矛盾として理解しないからである。誤謬をおかさぬ人間などというものは、実在しないことを知らないのである。認識の矛盾が不可避的に真理とその対立物である誤謬との統一を生み出すのであり、誤謬は認識にとって本質的なものであることを知らねばならない。

 これは個人の認識においていえるだけでなく、集団である組織の認識においてもいえることである。……(組織における――シカゴ注)思想闘争や理論闘争も、その根源をさぐるならこれまた認識の本質としての矛盾に根ざしているといわなければならない。ただし、個人の利害関係や思想条件が、さらには階級的な社会条件が、この矛盾の発展にからみ合って具体的なかたちをとっているために、これらの諸条件が根源であるかのように解釈されやすいのである。

 ……

 人間の頭はテープレコーダーではない。外部から与えられる主張を何であろうとそのまま忠実に受けとめて、機械的にくりかえすわけではない。あるものは受け入れあるものは拒否し、またあるものは正しいにもかかわらずそれを歪めたかたちで受け入れるのである。自分で考えようとする、真理に忠実でありたいとのぞんでいる人間は、その主張を正しいと認めるだけの理由があり、受け入れるだけの根拠があって、はじめて受け入れるであろう。そこには個人的・社会的条件がからみ合ってくるにはちがいないが、それらを超えた認識の本質もまた物をいうのである。……

 ……階級的矛盾の科学に対する制約・規定を理解することは重要である。しかしこれは体制側の主張ないし理論はすべて非科学的であるとか、大衆を欺瞞するための宣伝には一片の真理もないとかいうことを意味するものではない。主張も理論も頭の中だけで創造されるものではなく、現実の反映および先走りとして成立するものであるから、どんなに歪められたどんなに空想的な主張や理論でもそこには現実が何らかのかたちでとりあげられており、真理をふくんでいるわけである。またそれだからこそ、説得力を持ち相手に正しいと認めさせることができるのである。天動説は非科学的ではあるが、われわれの目には大地は不動で天体が回転しているように見えるのであって、視覚上の真理ということに限るならこれを認めなければならない(4)。ここから天動説が正しいもののように思われてくるのである。……サンルームを設計するときに、地球と太陽との関係を問題にするけれども、このときは視覚的な真理で十分なのであって、天動説でも地動説でも別に設計に影響するわけではない。だが……天動説をそのまま信じこんでいいことにはならない。天動説では海王星を発見するという、科学的な先走りの仕事はできないのである。……あやまった理論でもその一面的な正しさにおいて有効性を持つことを理解しないところに、有効性から直ちに理論の正しさを結論づけるプラグマティズムへの道が開けてくる。……

(4) 「太陽は一日に一回、地球の周囲をまわることにはじめて気がついた人は、誤謬におちいってはいたが、それでも真実の知覚をしたものである。太陽が二四時間かかって地球の周囲をまわることは、太陽と地球との運動の関係を明かにする理解のかくべからざる一部をなすものである。」(ディーツゲン『哲学の実果』)

時間的にも空間的にも無限である世界に対して個人の認識は有限であるという認識のもつ本質的な矛盾から誤謬は生まれる。上の方で引用されている部分でエンゲルスも「そうした認識(各個々の思惟にもとづく認識)には、例外なくいつも、これ以上修正の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多くふくまれている」と言い、これを「相対的誤謬」とよんでいる。つまり誤謬は一般に相対的なものだ(裏返して言えば真理もまた相対的である)ということである。世に「一面の真理」ということばがある通り、ある限られた条件のもとでは誤謬は真理に転化するのであり、逆に特定の条件を無視して度外れに真理性を主張するなら真理も誤謬に転化する。このように、誤謬とその反対物である真理とは互いに転化し合うものである。「認識の矛盾が不可避的に真理とその対立物である誤謬との統一を生み出すのであり、誤謬は認識にとって本質的なものである」ということを常に肝に銘じておく必要があろう。

人間の認識は個人の階級や政治的立場等の個人的・社会的条件に制約される部分があるとはいえ基本的には誤謬の原因は人間の認識のもつ本質的な矛盾である。このことも十分に留意されなければならない。

同上 p.20~ 

 第三に、人間は社会の一員であり、子どももまた社会の細胞である家族の一員として毎日生活しているという、人間の本質的なありかたから認識が規定されてつくり出す矛盾がある。それは意志の持つ矛盾としての規範の成立である。個人はどんな意思を持ちどんな行動をしようと勝手だということにはならない。それぞれの生活集団としての、共同利害を考慮しなければならない。それゆえ、認識の内部に意思に対立する意思として、いわばフィードバック的な構造を持つ矛盾がつくり出されることになる。この対立する意思は、ネガティヴ・フィードバックとして意志の成立を押えつけたり、あるいはポジティヴ・フィードバックとして意志の成立を促したり、その機能においてもこれまた一つの矛盾を持つところの存在である。規律・掟・道徳・規約・法律など、さまざまな種類の規範が存在している。

以上三つの矛盾は、人間の認識においてきわめて重要なものであるにもかかわらず、従来の哲学者の認識論も、心理学も、正当にそして体系化して扱ってはいない。それゆえ、これらについては詳細にとりあげることにする。

規範については私もそれについて簡単に書いたことがある(言語規範――規範と規範意識)が、詳細は第三章の規範論にゆずる。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「三 人間の観念的な自己分裂」。

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〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.22~ 

 われわれ人間は現実的には地球の上に生活していて、地球から脱出することはできない。……われわれは宇宙飛行士が何を見たかを、彼らの撮影したフィルムや彼らの報告から知ることができる。われわれの感覚は、精神的な交通で彼らの感覚を受けとって、現実の世界についての認識を拡大している。感覚器官は現実の世界との交渉によって感覚をつくり出すのであって、塩をなめてからいと感じるのは、舌にからいと感じさせるものが外界に存在したからである。われわれの感覚の源泉は、この客観的に存在する外界である。現実の世界は無限であるから、われわれの感覚にとらえられた部分はその一部でしかないわけであり、現実の世界それ自体は感覚にとらえられた部分にくらべて無限にゆたかであり多様である。感覚の限界は何ら現実の世界の限界ではない。目に見えない電磁波もあれば、耳に聞こえない超音波もある。……

 地球の上に生活しているわれわれに対して、感覚は地球が動かないものであり太陽や月が動いていると、教えてくれる。もし月の上に人間が到達できたならば、彼の感覚はこれと違って、月が動かないものとなり地球のほうが動いていると、教えてくれるだろう(アポロ14号の着陸船が月に着陸したのは1971年2月5日であり本書の出版は1967年7月10日である――引用者注)。人間の感覚はとりもなおさず感覚器官のその現実的な位置におけるところの現実の世界の反映として、いいかえるならば現実的な位置に束縛されているところの世界のとらえかたとして、成立する。

認識はそれを形成する対象を必要とする。人間の認識は外部に存在する対象からの物理的・化学的な刺戟を感覚器官が受け取ってそれを知覚表象として認知するところから始まる。しかし人間の感覚器官それ自体が限界をもったものであるから個人の認識には限界がある。たとえ諸個人が物質的・精神的交通を媒介として他の個人の認識をわがものとすることができるにしても、やはり地上に縛られ肉体的に限界づけられた人間は基本的にはその現実的な位置に縛られた感覚器官からもたらされる反映としてしか世界を認識(認知)できない。それでは人間はいかにしてこの限界を突破するのだろうか。

同上 p.23~ 

 視覚は光が目の網膜に像を結ぶことによって生れるものであって、人間の眼球は左右一対あるけれども、両眼に映じた像から一つの視野が合成されている。それぞれの眼球は眼窩(がんか)の中におかれ瞼(まぶた)で覆われるようになっているから、一つの眼球の視野は下部を鼻でさえぎられた楕円形をしているし、二つの視野の合成もほぼ三対四の比率を持つ楕円形になっている。映画の画面でスタンダードといわれるサイズが、三対四の比率になっているのは、当初多くの絵画の画面のサイズから平均値をとって決定したといわれているけれども、視野から自由にトリミングしたりあるいは視野をつないでパノラマにしたり自由に画面のサイズを決定できる絵画にあっても、究極的には視野の形態によって規定されているのだということが、平均値をとってみれば明らかになるわけである。……

 われわれはまず現実的な位置でこの視野を通して現実の世界をとらえていく。われわれが動けば位置が変化し視野も変化していく。時には地上をはなれて、海上や空中に自分を位置づけることもある。だが、この現実的な位置に束縛されて限界づけられていたのでは、日常生活さえいとなめないのである。われわれはこの限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活しているが、この限界を超える活動は、観念的になされている。たとえば、たづねてくる友人のために、自分の家のありかを教えようとするときには、簡単なものではあっても地図を書くのがつねである。これは、現実的な位置で動きながらえたところのいろいろな認識を頭の中で綜合(そうごう)してつくりだしたものであって、地図を書くときの自己もわが家の机に向かって現実的な位置で目の前の白紙をながめながら書くのである。ところが、この地図としてのわが家は、現実に自己の位置づけられているわが家ではない。現実的には自己はわが家の中にいるにもかかわらず、地図を書いているときには自己はわが家の外にいてわが家を外部からながめ、わが家を空中から見おろすところに位置づけていることになる。それゆえこの場合には、現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる。地図を書き終えて、目をそらすとき、空中からわが家を見おろす必要はもはやなくなっているから、観念的な自己も現実的な自己に復帰してしまう。必要に応じて分裂したり復帰したりするのである。

 このわが家を空中から見おろす位置は、観念的でありその意味で非現実的であるけれども、現実の世界の認識としては綜合的でありさらに広汎なものとなっているから、その意味では現実にさらに近づいたことになるのである。現実的な自己では認識できない限界を、観念的な自己において超えたのである。そしてこの観念的な自己は、さらに高く高く空中にのぼっていって、太陽系の中での地球のありかたを客観的にながめることもできる。空間的な旅行ばかりでなく時間的な旅行もできるのであって、人類の祖先がようやく地球の上に姿を現したところをながめたり、人類の存在しない時代の地球のありかたをながめたりすることも、科学者は行っているのである。

人間の認知能力(知覚による認識)は現実の位置に縛られているという意味で限界をもっているが、人間は想像するという能力を獲得して以来、この限界を突破することができるようになった。この想像という精神活動を三浦は観念的な自己分裂という概念を用いて詳細に分析している(私は観念的自己分裂と短縮してよんでいる)。観念的自己分裂は表象や概念を媒介とする精神活動であり、いわば現実の自己の外部にもう一つの世界をつくりあげ現実の自己から分離した観念的な自己がその世界をながめているという構図をもった精神活動である。観念的自己分裂においては現実の自己の立場という束縛を離れ時間的にも空間的にも自由な位置に自己を位置づけることができるので、そこでは人間(観念的な自己)は自由にどんな立場にもなれるし、どのようなものでも思い描くことができる。この精神活動は人間が日常的に行なっているのでそれと指摘されなければ自覚しにくいものであるが、無自覚ながらも現実の認知とは性質を異にしているためにそれらの精神活動はたいてい「想」や「思」を含むことばで表現されている。

なお観念的自己分裂の能力の獲得と人間の自己意識の形成とは同じ事柄の違った表現である。自己意識(対象意識)については「対象意識(1)~(5)」で簡単に触れている。また人間の自己意識がいかにして形成されたかについて宮田和保は『意識と言語』の第一編第一章「自己意識の形成」でかなり詳細に分析している。

同上 p.25~ 

 写真・絵画・地図のように、感覚を忠実に表現する場合は、その作者がどんな位置にいるかを読みとることも容易である。写真で表現する「わが家」は、カメラの背後にいる現実的な自己がファインダーを通して見たところの位置を示し、地図の「わが家」の観念的な自己の位置と異っていることは一見して明らかである。宇宙飛行士の撮影した写真を見れば、自己も宇宙に飛び出してながめている思いがする。ところが言語表現にあっては、作者がどんな位置にいようと、「わが家」という音声や文字からそれを直接読みとることはできない。認識の過程におけるちがいが、表現に現れて来ない。これは後に述べるけれども、実用的な表現と鑑賞的な表現とでは形式として同じでもその過程的構造がちがっていることが多く、それは内容のちがいを意味することになるのである。「春の海」と書かれていても、科学者の文章と俳人の文章とでは、内容に大きなちがいがあり、読者の読みとりかたもちがってくるのである。

 この観念的な自己分裂は、誰でも日常生活の中でくりかえしているのであるから、哲学者たちもこれに気づいたことは気づいたのだが、観念論の立場をとる哲学者はこれを逆立ちさせて解釈したのであった。唯物論の立場からすれば、まず現実的な自己が存在してそれから観念的な自己が分裂していく。ところが観念論哲学者は分裂の結果をとらえて現実的な自己と観念的な自己とをいっしょくたに扱ったり、さらにはまず観念的な自己が存在してそれから現実的な自己がつくり出されるかのように解釈したりした。ここに彼らのいう「我」(Ich)なるものが論じられた。現実的な自己は自然の産物であり、それが存在しないときにも地球は存在していた。そして現実的な自己から分裂した観念的な自己は、まだ人間の存在していない赤熱の地球を見ていることにもなる。いまこの過程を無視してしまい、観念的な自己を「我」とよんで、これを現実的な自己といっしょくたにすると、「我」とその見ているものすなわち「環境」とは不可分であって、「つねにいっしょに見出されるもの」であり、地球がまだ冷えていない時代にもすでに「我」は存在していたという結論になる。観念的な自己のありかたがそのまま現実の世界のありかたになり、「主観的=客観的なものあるいは客観的=主観的なものより以外のもの」は認められないことになる。こうして「我」と「環境」が、あるいは「自我」と「他我」が、不可分な同格において説明されるのである。これがフィヒテ的観念論であって、ここからさらに観念的な自己のほうを客観的な存在に移しかえ、この客観的な存在としての主観から客観的だとわれわれがとらえている世界がうみ出されたのだと解釈するならば、絶対的なイデーから現実の世界がうみ出されたというヘーゲル的観念論が成立する。ドイツ古典哲学の発展は、観念的な自己分裂のありかたについての解釈の発展という面からも、検討されなければならない(2)

 ジェームズの心理学でも、自己分裂がはじめから別の存在として解釈されている。自己を「純粋自我」すなわち観念的な自己と、「経験的自我」すなわち現実的な自己にまず区別し、心理学が対象とするのは「経験的自我」であって、「純粋自我」はア・プリオリに前提されているところの、自己を対象にして意識するときその意識する自己であると述べている。これもまた自己分裂の過程をとらえないために、ア・プリオリズムにいかれた観念論的解釈である。

(2) マルクス主義者であろうとするワレンチーノやバザーロフが、「不可分な同格」論を主張するアヴェナリウスを支持したとき、レーニンは「唯物論と経験批判論」でそれを主観的観念論だと批判した。たしかにそのとおりである。けれどもこの批判は結果をとりあげているだけで、なぜ・いかにして・このような観念論的主張が生れて来たかについての分析が欠けている。

表現の内容・意味を理解するには、表現者が表現の中に表した表現者の認識とその認識をもたらした対象とを正しくつかみ取る必要がある。そのためには受容する者(受け手・鑑賞者)は表現したときの表現者の立場に立ってその表現過程(対象→意識→表現)を観念的に追体験しなければならない。したがって追体験をうまく行なうために、受容者には表現者に関してその立場や表現したときの状況等についての理解が求められる。言語表現の場合、概念を媒介にするという特徴があるために特にこれが重要であるのは上で三浦が指摘している通りである(三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2))

観念的な追体験は観念的な自己分裂の一つの形態であり、表現の受容は常にこれを介して行なわれる。それゆえ認識論の確立・言語学の確立には観念的な自己分裂についてのきちんとした分析が必要になってくる。つまりいわゆる自己意識や自我といったものの立体的な構造についての科学的な理解が必要だということである。

デカルトが『方法叙説』において到達した「思う、ゆえにあり cogit ergo sum.」において、表現されていない「思う」の主体・「あり」の主体は思考しているデカルトの自己意識つまり現実のデカルトの意識の中で観念的に分裂した思考主体(思考しているもう一人のデカルト)である――私はこれを現実の自己(認知主体)と区別して認識主体とよんでいる(二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂)

また、「思う、ゆえにあり」においては、思考の直接の対象が表現されていない。思考しているときには当然その内容すなわち対象認識(represent)があるはずであり、対象認識を形成する元となった対象もまた存在しているはずである。たとえば猫のことを考えている場合には、対象となっている現実の猫が存在しており、意識内部にはその猫の表象(represent)=個別概念が脳裏に浮かんでおり、それについて考えているもう一人の自分=思考主体=認識主体が存在している。ただし、ここで気をつけなくてはいけないのは観念的な自己分裂の最中であっても現実の自己は現実の世界と向かい合ってそこに存在し、観念的な自己分裂を統御していることを忘れてはならないということである。しかし何ごとかに集中しているとこの統御がおろそかになり認識主体の活動が主となって、つい夢中になって我を忘れる(忘我の境地になる)のもよく経験することではある。

「思う、ゆえにあり」は「われ思う、ゆえにわれあり」と翻訳されることもあるが、ここで「われ」と表現されているのは思考主体=認識主体ではなく、脳裏に浮かんだ自分自身(思考主体)のイメージ(represent)すなわち対象認識である。この「われ」という語は時枝誠記が「主体の客体化されたもの」といっているものであり、意識内部で現実の主体あるいは思考主体=認識主体が自己自身を個別概念としてイメージ化・概念化・客体化したものつまり対象認識であり、これを言語として表現したものである。時枝がいうように表現者その人(表現の主体)や認識主体は表現の内部には存在しない。その表現をなした者・その認識をなした者という関係を通して表現の外部に存在しているのである。対象認識(represent)が表現されたものという点で言語表現における一人称は二人称・三人称ととなんら本質的に変わりはないと時枝はいっている。

フィヒテについてはハインリヒ=ハイネも「その(フィヒテ哲学の――引用者)内容は社会的というよりはむしろ、歴史的、科学的に重要なのである(『ドイツ古典哲学の本質』伊東勉訳・岩波文庫)といい、内容はさして重要ではないがカントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学の歴史的な段階の一つとして重要なのだとフィヒテ哲学の歴史的役割を指摘している。その内容をハイネは以下のように要約している。

 フィヒテが解決しようとした問題は、次のことである。「人間が物についてもっている観念と、人間のそとにある物とが一致すると仮定するのは、いかなる理由によるか?」そしてフィヒテはこの疑問に次のような解答をあたえた。「すべての物はわれわれの心のうちにおいてのみ実在している。」

ヘーゲルは観念的な自己分裂の過程を枠組みとして正しく把握している。しかし現実的な自己から観念的な自己が分裂すると考えずに、観念的な自己(認識主体)の方が先に存在しそこから現実的な自己(認知・知覚の主体)が分裂してくると考えたために、理論的実践による認識の発展によって現実の世界が発展するという風に論理が逆走してしまった。マルクスはこの顛倒したヘーゲルの弁証法をもう一度ひっくり返して正しく作り変えたわけである。それによってマルクスの弁証法は論理学つまり一般科学へと正しく位置づけられることになった。

〔09.03.10 追記 ヘーゲルによる「現実の世界の発展」とは実際はヘーゲルの意識内における再把握された「現実の世界の発展」であり、ヘーゲルの認識の発展によって実際に現実の世界が発展するわけではない。要するに現実→認識の上向(理論的実践)による認識の発展と、認識→現実の下向(現実に問いかける実践)による現実の再把握(確証)が交互に繰り返される認識の弁証法的発展においてヘーゲルは現実の再把握(確証)をイデー(絶対理念)の実現・イデーの外化と見たのである。イデーをア・プリオリのものと措定するなら結局はイデーの自己発展によって現実が発展するという論理的帰結にならざるを得ない。ヘーゲルにおいては人間とは自然と対峙している生身の人間ではなく、自己意識としての人間つまり認識主体であるからその現実的実践はヘーゲルの自己意識のうちで完結している(マルクスはヘーゲルにおける外化=疎外について「自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の表現、その現実的な疎外が知識と思惟のうちに自分を写しだしている表現」であるといっている)。イデーの理論的実践が自己意識内におけるものであることはいうまでもない。

ジェームズの心理学は認識主体をア・プリオリに存在するものと考えた点でヘーゲルと同じであるが、現実の主体と認識主体とを完全に別のものととらえた点でヘーゲルよりも後退している。現象を弁証法的なもの・過程的なものと考えずに固定したものと考えるとこのような形而上学的なものの見方に陥ってしまうと三浦はいいたいのであろう。この批判はソシュールを源流とする構造主義その他の新カント派的な現代思想に対する批判としても現在なお有効である(宮田和保『意識と言語』上掲)

同上 p.27~ 

 自己すなわち一者が、現実的な自己と観念的な自己という対立した二者に観念的な自己分裂を起すのは、中国でいうところの「一分為二」の形態であって、ここに新しい矛盾が発生したわけである。では現実的な自己は観念的な自己によってまったく排除されているかといえば、そうではない。わが家の地図を書いたとき、地図の上では黒い矩形(くけい)で示されているその家の中に、現実の自己もそれなりに正しく位置づけられている。これはさらにすすんで、東京を、日本を、地球を示す場合にあっても、変りがない。われわれは、東京の地図を見る場合に、東京の各地を現実にあるきまわりながめまわったときの認識を正しく結びつけ、日本の地図を見る場合に、各地へ旅行して現実にながめまわったときの認識を正しくむすびつけるというように、現実的な自己での認識と観念的な自己での認識とを正しく調和させて統一するよう努力しながら認識を豊富にし、拡大していく。すなわち、観念的な自己分裂は実践上の必要からつくり出され、正しい調和において維持していくことが要求されるのであるから、この矛盾は非敵対的矛盾とよばれるものの一種として理解すべきである。矛盾はすべて闘争的でありぶちこわして解決すべきものであって、調和すべき矛盾を論じるのは「修正主義」だ(3)というような、歪曲された矛盾論では認識論建設の方法論として役立たないばかりでなく、建設の妨害となるのである。

 人間は観念的な自己分裂のために必要な道具をつくり出している。その中で、どこの家庭にも存在するもの・われわれが日常使用しているもの・は、とよばれている。鏡像いま、鏡面から l の距離をおいて現実の人間 m が立つならば、鏡面からさらに l' の距離をへだてたかなたに、映像として m' が立っているように見える。 l を短くすると l' が短くなり、 m' がこちらに近づいてくるように見える。この場合の m' は像でしかないのだが、われわれは m' を現実の人間として、自己から ll' の距離に他の人間が実在しているものとして、扱うことができる。ところが、 m' は自己の像であり、自己が左右反転して映っているのであるから、これを現実の人間として扱うのは自己が向こう側に実在しているとして扱うことになる。それゆえ、この m' の自己を見ている m は、自己以外の存在だということにならないわけにはいかない。これは自己の映像と現実的な自己とを観念的に置き換えたのであるが、このことによって現実的な自己は鏡の中にいる現実的な自己を見ているところの他の自己、すなわち観念的な自己としての性格を獲得する。

 鏡を使って行われるこの観念的な自己分裂は、単に自己の姿を客観的な位置において見るにとどまらない。鏡のこちら側に位置づけられている観念的な自己は、さらに恋人や入社試験の試験官などに転換することができる。鏡像2われわれが「彼女にきらわれないように」と思いながら鏡の前に立って、「彼女の目には自分はどううつるだろうか」と気にしたり、「試験官が見て好青年だという印象を持つように」と思いながら鏡の前に立って、「試験官の目に自分はどううつるだろうか」と表情を吟味したりするときには、現実的な自己から分裂した観念的な自己は恋人や試験官に転換しているわけであり、鏡から目をそらすときはまたもや分裂から復帰しているわけである。この種の実践が自己についての認識の発展であり、実践的に大きな意味を持つことからいっても、認識を理論的にとりあげる場合見おとしてはならぬ問題である。けれども反映論を力説する人びとは、人間の認識は外界を反映するのだと認識が像であることだけを一面的に強調するにとどまり、向う側に存在する像についての理論的な検討がほとんど見られない。認識が精神的な鏡であるだけでなく、物質的な鏡との間に相互に関係をむすんでいることをとりあげない。物質的な鏡と精神的な鏡との対立物の統一および相互浸透(4)という事実も、これまた矛盾の一つのありかたである。認識の形態は感性的認識から理性的認識へ発展するとか、人間は直接的だけではなく間接的経験も行っているとか、いうだけでは、認識の持つ弁証法的な性格を十分につかんでいるとはいいえない。調和すべき矛盾を否定したり、相互浸透を「同一性」に解消させたりした、毛沢東矛盾論からはなれてマルクス=エンゲルスの矛盾論に立ちかえることが、弁証法的反映論を建設するために不可欠である。

(3) 中国で矛盾調和論を「修正主義」だと攻撃するときには、いわゆる実事求是という態度で、現実にはそのような矛盾の両側面を調和させることはありえないと指摘し説得するのではない。レーニンが「闘争は絶対的だ」といっているではないか、と文献をふりまわすのである。調和を求めるのはレーニンのことばに違反するものであり、それゆえ「修正主義」だというのである。

(4) 対立物が相互浸透することをことばの上で認めながら、相互浸透の具体的な論理構造をとりあげようとしないで、これを「同一性」と同じだといって解消させてしまうのが毛沢東矛盾論の一つの特徴である。鏡における対立物の統一と相互浸透が、マルクス主義認識論の一つの重要な特徴であることは、これまでの自称マルクス主義者によってまったく無視されて来た。詳細は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(ミリオン・ブックス)参照。――引用者注:現在は講談社現代新書から出ている。

観念的自己分裂における観念的な世界は、現実的な自己の現前にある現実の世界を直接反映しているわけではない。観念的な世界はその意味で虚構でありイメージであるが、“represent”(再現前)という概念が示しているようにどんなに加工が施されていたとしても基本的にはすべて現実の世界の直接の反映である知覚(感覚)・認知をもとにして再構成され意識の中で再現されたものである。つまり認識(対象認識)はその源泉を現実の世界にもっている。そして認知は知覚(感覚)から始まるとしても認識からのフィードバックを受けて成立するのであり、その認知がまた認識の深化をもたらすのである。

また、上で三浦が指摘しているように観念的な自己は現実的な自己のあり方を認識しているのである。これは観念的な自己が現実的な自己とは別のものでありながら現実的な自己から分裂して形成されたものであり、いわば現実の自己の分身ともいえる存在であることからすれば当然のことだろう。その意味で観念的な自己が自己意識――自己を認識している意識――とよばれるのは不思議ではない。

現実の世界に存在するものはすべて認識にとっては鏡である。認識は現実の反映として受動的に成立するが、新しい認識をもった人間がとって返して再び現実に能動的に働きかけることによって現実はその反照を認識に返してくるのである。そしてその繰り返しによって認識は深化し発展するのである。ただしエンゲルスやディーツゲンのいうように人間の認識にとって誤謬は本質的なものであるから、認識の深化も発展も直線上に進むわけではない。現実から認識へと上る理論的実践と認識から現実へと下る現実的実践との上り下りの交互の実践を通じて認識は深化し発展するのであり、その過程においては認識の後退も大いにありうるのである(マルクスは認識→現実を「上り」、現実→認識を「下り」とよんでいる)。三浦が「認識が精神的な鏡であるだけでなく、物質的な鏡との間に相互に関係をむすんでいる」というとき、自然の持つ弁証法性を認識が受け取り、認識のもつ弁証法性がこれを真理として確証するために弁証法的に自然に働きかけることをいっているのだと私は考えている。

弁証法性というのは単純なことで人間の認識を含めすべての存在は対象的である(互いに鏡である)ということであり、それが現象としては対立物の統一(矛盾およびその解決)という過程をとって現れるということに過ぎない。そして対立物の統一という過程(正→反→合(止揚))はその矛盾の解決(止揚)としては「否定の否定」とか「対立物の相互浸透」とか「量から質への転化およびその逆」という一般的な形態をとるということである。またすべての存在が対象的であるということと世界は運動・変化するものであるということは同じことの違った表現にすぎないと私は考えている。矛盾の形態としては敵対的矛盾と非敵対的矛盾とがあるというのは三浦つとむの指摘している通りである。

マルクス『経済学・哲学草稿』城塚・田中訳/岩波書店「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」p.207~ 

 しっかりした、よく仕上がった大地の上に立ち、あらゆる自然力を呼吸している、現実的で肉体をもった人間が、彼の現実的で対象的な本質諸力を自分の外化を通じて疎遠な諸対象として措定するとしても、この措定が主体であるわけではない。この措定が対象的な本質諸力のもつ主体性であり、したがってこれら本質諸力の活動もまた一つの対象的なものであらざるをえない。対象的な本質は対象的に作用する。そしてもしそれの本質諸規定のうちに対象的なものが存しないとすれば、それは対象的には作用しないであろう。対象的な本質は、諸対象によって措定されているからこそ、その生まれからすれば自然であるからこそ、諸対象を創造し措定するのである。したがって、対象的な本質は、措定するという行為においてその〔純粋活動〕から対象創造へとはいりこむのではなくて、その対象的生産物がもっぱらそれの対象的な活動を、一つの対象的な自然的本質の活動としてのそれの活動を、確証するのである。

 ここにおいて、貫徹された自然主義あるいは人間主義が、観念論とも唯物論とも異なっていること、また同時にわれわれは、〔このような〕自然主義だけが世界史の行為を概念的に把握する能力をもつということも見いだすのである。

 《人間は直接的には自然存在である。自然存在として、しかも生きている自然存在として、人間は一方では自然的な諸力を、生命諸力をそなえており、一つの活動的な自然存在である。これらの力は、人間のなかに諸々の素質、能力として、衝動として実存している。他方では、人間は自然的な人間的な感性的な本質として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している〔leidend〕、制約をうけ制限されている本質である。すなわち、人間の衝動の諸対象は、彼の外部に、彼から独立している諸対象として実存している。にもかかわらず、これらの対象は、人間の欲求の対象であって、彼の本質諸力が活動し自己を確証するためには欠くことのできない本質的な諸対象である。人間が肉体的で、自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発展できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自分の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者にたいしてみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。》 飢えは自然的な欲求である。したがって、それを満足させ鎮めるためには、自分の外部にある自然、自分の外部にある対象を必要とする。飢えは、肉体の外にあって肉体の保全と本質発現のために不可欠である対象を求める、肉体の対象的な欲求である。太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である。同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである。

 自分の外部にその自然をもたない存在は、なんら自然的な存在ではなく、自然の存在に関与しない。自分の外部にいかなる対象をももたない存在は、けっして対象的な存在ではない。それ自身が第三者にとって対象ではない存在は、いかなる存在をも自分の対象としてもたない。すなわち、対象的にふるまわない。それの有〔Sein〕は、けっして対象的なものではないのである。

 非対象的な存在とは一つの非存在である。

 自身が対象でもなく、また対象をもってもいない存在を措定してみるがよい。このような存在は、まず第一に、唯一の存在であろう。それの外部にはいかなる存在も実存しないであろう。それはただ独りそれだけで実存することであろう。なぜなら、私の外部に諸対象があるならば、私が独りでないならば、たちまち私は、私の外部にある対象とは別の一つのもの別の一つの現実、すなわち、それの対象である。それゆえ、他の存在の対象ではない存在というものは、いかなる対象的存在も実存していないということを前もって想定しているのである。私が対象を持つようになるやいなや、この対象は私を対象としてもつようになる。しかし、非対象的な存在とは、非現実的な、非感性的な、思惟されただけの、つまり想像されただけの存在であり、抽象化による存在である。感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。

 それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔Leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftich〕存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力を傾ける人間の本質力である。

 《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自分をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接的にあたえられたままの自然的諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は――客体的にも――主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》 そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかし、この歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.29~ 

 観念的な自己分裂に使われる物質的な鏡は、何もガラスの鏡に限られるわけではない。すでにマルクスは物質的な鏡の一つとして、「他の人間という鏡」の存在することを指摘している。

 「人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また我は我なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。人間たるペーテルは、自分と同等なものとしての人間たるパウルに連関することによって、初めて、人間としての自分自身に連関する。だがそれによって、ぺーテルにとっては、パウル全体がまた、そのパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態として意義を持つのである。」(マルクス『資本論』第一章註18)

 これはマルクスのフィヒテ的観念論にたいする批判でもある。さきに述べたように、フィヒテの「我」は実は観念的な自己であって、はじめからこの「我」が存在しているもののように主張している。これに対してマルクスは、この観念的な自己は生れつき存在しているのではなく、現実的な自己が「他の人間という鏡」を見ることによって分裂形成されるのだと指摘するのである。ガラスの鏡にあっては、現実的な自己を一定の空間をへだてたところから、客観的なものとしてとらえることができた。「他の人間という鏡」にあっては、現実的な自己を一定の時間をへだてたところから、客観的なものとしてとらえることができる。われわれは、自分自身がどのようにして生れ、どのようにして育って来たか、認識できなかったし記憶してもいないが、自分と同等なものとしての人間であるパウルやカールが生れるところを見て、その現実的な他人を観念的に自己に置き換えることにより、そこに自分自身の過去のありかたを読みとることができる。同じように、われわれは自分自身の死後について直接経験することができないが、自分の同等なものとしての人間ハンスやフランツが死ぬところや死後扱われるところを見て、その現実的な他人を観念的に自己に置き換えて見ることにより、そこに自分自身の未来のありかたを読みとることができる。

 ここでマルクスもいうように、人間はこれまで生活の中で「他の人間という鏡」を役立てて来たのであるから、学者が認識論としてこれについて検討する以前に、大衆がこれをとりあげたとしても別に不思議はない。日本でも昔からこれをとりあげている。この人こそ模範で、われわれはそれにならうべきだという人間を、「人の亀鑑(かがみ)」とよんで来た。ことわざにも、「人のふり見てわがふり直せ」といわれて来た。たとえば、他人が酔っぱらって深夜の駅のベンチなどで醜態を演じているとき、われわれはそれをながめながらこの現実的な他人を観念的に自己に置き換え、そのことによってこちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換えてみる。「こんな自分を誰かが見たらずいぶん軽蔑するだろう」と思う。さらにその観念的な自己を職場の上役や恋人などに観念的に転換させ、「課長が見たら首にするぞと怒るだろうな」とか「彼女が見たら婚約解消をいい出すだろうな」とか考えていく。それからふたたび現実をありのままながめる立場にもどり、観念的な自己は分裂から復帰するけれども、自己分裂のときの認識は現実的な自己の認識に止揚され、正しく位置づけられ役立てられる。「自分がああいうことになると、まづい事態をまねくから気をつけよう」ということになる。自称マルクス主義者の俗流唯物論よりも、ことわざのほうがマルクス主義に近いというわけである。

 物質的な鏡はこのように至るところに存在するし、科学と技術の発展は多種多様の鏡をつくり出している。実験室での実験の成功は工業化の可能性を示すところの鏡になる。肉眼で見えない世界を見せてくれるものが望遠鏡や顕微鏡であるが、これらもわれわれの観点を観念的に天体の近くに位置づけたりする器具である。感覚においてとらええない存在を認識するための鏡も、さまざまなものがつくられている。放射能をとらえて音として聞くことのできるガイガー・ミューラー管を使った検出器も、ただ見れば何の変りもない光の中に特殊の鏡を見つけて元素の所在を確認するスペクトル分光器も、宇宙線の中の素粒子の軌跡をとらえる霧箱も、みな一種の鏡として考えることができよう。これらは物質のありかたを認識するための物質的な鏡に属するが、さらに精神のありかたを認識するための物質的な鏡が多種多様に創造されているのであって、これが言語をはじめとするさまざまな表現である。物質的な鏡が観念的な自己分裂において使われるという、基本的なありかたは、精神のありかたを認識するための物質的な鏡においてもつらぬかれることになる。

『資本論』におけるマルクスの註と、観念的な自己分裂についての上記の三浦の文章については宮田和保も自己意識の発生とからめて『意識と言語』でこれを取り上げている。それについては「自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ」に引用があるので参照していただきたい。

三浦はここで観念的な自己分裂から現実的な自己に復帰したとき、観念的な自己であったときの認識は現実的な自己の認識として止揚される(保存される)と述べている。これは先の観念的な自己は現実的な自己のありかたを認識しているという三浦の指摘と表裏をなすものであり、これらは認識の発展にとって欠くべからざる条件である。観念的な自己が現実的な自己とは対立する別の存在でありながら、現実的な自己によって統御されているという対立物の統一とその相互浸透がここに見られる。人間の認識はこの相互浸透を介して深化・発展するわけである。

先に書いたように人間の認識にとっては現実に存在するものはすべて鏡であるが、人間はさらに進んで多種多様の物質的な鏡を自ら創り出しそれによって認識の限界を突破し認識を深化・発展させている。そして認識(意識)そのものを映し出す物質的な鏡が言語をはじめとするさまざまな表現であるという三浦の指摘はどれほど強調してもし切れない重要な指摘であろう(マルクスは「言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である(『ドイツ・イデオロギー』)といっている)。言語論を始めるにあたってまず三浦は絵画や写真などの例をあげ、それらと言語表現とのもつ性格の共通性と差異とを取り上げる。表現一般のもつ性格をきちんと把握した上で他の表現とは異なる言語特有の性格について取り上げていく。そうした分析のあとで表現一般の中に言語をきちんと位置づけるという論理的方法は科学一般に通じる方法である。マルクスがよくいう区別と連関というのはこのことであろう。特殊を一般と取り違える誤りはありがちであるからものごとの探求にあたってはつねにこの区別と連関について注意を払う必要がある。ソシュールのように「言語」には共通性と差異しかない、というだけでは何も説明したことにはならない。そもそも概念のもつ矛盾が共通性と差異なのであるから、その共通性と差異とがどのようにしてもたらされ、それがどのようにして止揚されるかを突き止めなければ解決にはならないのである。それが類別と分類による概念および言語規範の構造化であることはちょっと考えてみれば分かることであろう。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(4)――主体的立場と観察的立場

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「四 『主体的立場』と『観察的立場』」。

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〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.32~ 

 これまでは個人がその感覚の限界を超えるために、観念的な自己分裂を自発的に行う事実をとりあげて来た。つぎに、精神的交通において、他の人間の認識を受け取る場合にも、観念的な自己分裂を要求されるという事実を問題にしよう。

 ある他の人間が、自己の認識を表現によって精神的な交通へと発展させたとき、この認識がたとえ現実的な自己の位置において行われたものであったとしても、受けとる側の人間としては現実的な自己のままでは正しく受けとることができないのである。ここにも、一つの矛盾がある。たとえば、ベトナムの記録写真やニュース映画は、それを撮影したときの作者の現実的な自己の位置での認識を表現しているけれども、これがグラフ雑誌やテレビの電波にのってわれわれの家の茶の間でながめたり、映画館のスクリーンに映写されて観客として鑑賞したりすることになると、現実的な自己として東京にとどまっているだけではすまない。それらはひとつの物質的な鏡として、かつて作者が現実の世界をながめたところの目の位置にわれわれの目を置くことになり、これによってわれわれの位置は観念的にかつての作者の位置に転換させられてしまう。すなわち、鑑賞しようとのぞむ人びとには、観念的な自己分裂が強制されるわけである。アフリカの奥地で、土人たちに映画を見せたところ、スクリーンにあらわれる事物をそのまま現実の世界だと思いこみ、スクリーンの背後にまわってどこからあらわれてくるか調べようとしたという話があるけれども、これは土人たちが映像の事物をそのまま現実の世界だとおもいこんで、実は空想の世界の自己を定立するのであるから、ここにも観念的な自己分裂が存在していることはいるのである。ただ正しい観念的な自己のありかたではない。作者の現実の世界の見かたに忠実ではないからである。それゆえ鑑賞者の観念的な自己分裂も、やはり経験を通じて要求されるのであり、その意味で浸透がヨリすすんでいくことが要求されているといえるわけである(1)。この鑑賞においては、現実的な自己は依然として東京の自宅にとどまっており、茶の間で印刷物を見たり、ブラウン管にうつる像をながめたりしているのだが、それと同時に、観念的な自己が分裂して時間的・空間的に飛躍した過去のベトナムの作者の位置に観念的に位置づけられ、作者の目に導かれて戦場をながめていることになる。あるいは、現実的な自己は映画館のイスに腰を下してスクリーンに向かっているのだが、それと同時に、観念的な自己が分裂して爆撃機の上に位置づけられ、空中から地上のありさまをながめていることになる。ブラウン管から視線をそらしたり、ニュース映画が終ってスクリーンが明るくなったりすれば、観念的な自己はまた復帰してくる。

 友人が彼の家のありかを地図を書いて教えてくれたときにも、われわれは友人と同じ目の位置にその目を置くことになり、観念的にかつての作者の位置に転換させられる。観念的な自己分裂が強制されるという点では、写真を見せられる場合も地図を見せられるばあいも変りがない。だが、われわれが人間の認識を受けとる場合にいつでも観念的な自己分裂を行うということから、逆に、その精神的な交通によって伝えられる他の人間の認識をいつでも観念的な自己分裂におけるものだときめてしまうとすれば、それは大きなあやまりである。結果として同じであるからといって、過程までも同じだときめてはならない。現実的な自己の立場で表現した写真と、観念的な自己の立場で表現した地図とは、区別しなければならない。言語表現にもやはり写真的な認識の場合と地図的な認識の場合とがある。野球や角力(すもう)の実況放送のときは前者が中心となり、電話で道を教えたり事件を報告したりするときは後者になる。ところが言語表現には話し手の位置が表面化していないし、現実的な自己でも観念的な自己でも同じ語彙を使って表現するために、表現における立場のちがいを見ぬくことは必ずしも容易ではない。

(1) これは多くの人びとが経験的によく知っているのであるが、観念的な自己分裂とか浸透とか把握していないのである。説明すると、哲学など読んだことのない人びとはすぐ納得するのに反して、哲学とか認識論とか名のつくものをかじった人びとのほうが、むしろ納得できないという顔をする。

言語をはじめとして絵画や写真・映画等の表現とよばれるものは、それらを介してある人間の認識を他の人間が受けとるために――精神的な交通を行なうために――人間が創り出した物質的な鏡である。表現を介して他者の認識を受けとるとき、受けとる側の人間は現実的な自己の立場のままでは表現した者の認識を正しく受けとることができない。この矛盾を解決するには受け手は一旦表現者の立場に立って表現者が表現を行なった過程を追体験する必要がある。つまり表現を受けとる側には時間的・空間的な観念的な移行(想像)が否応なしに要求されるのである。

三浦が挙げている「土人」の例はたしかに極端だが、多少の違いはあれ観念的自己分裂による追体験がうまくいかずに表現の内容を正しく受け取れなかったり誤解したりすることが少なくない。逆にいえば、内容を正確に受け取って欲しいのなら表現者の側も受け手の立場や状況に応じて分かりやすい表現を心がける必要がある。つまり表現者にも受け手の立場に立つ先行的な観念的な追体験が要求されるのである。ただし相手を混乱させたり煙に巻いたりあるいはごまかしたりするためにわざと分かりにくい表現をする場合もあるし、善意にせよ悪意にせよ嘘をついたり心にもないことを言ったり書いたりすることもあるので受け手側の対応も一筋縄では行かない。

さて、受け手側は確かに表現者の立場において観念的な追体験をしなければ表現者が表現したその認識内容やそれをもたらした対象について正しい理解を得ることは不可能であるが、三浦が指摘しているように表現する場合には必ずしも観念的な自己分裂が要求されるわけではない。現に目の前で起こっている現象について認知した内容をそのまま表現する場合には観念的な自己分裂をする必要はない。実況放送などの写真的(写実的)な表現においてはむしろ想像を交えずにありのままに描写する方が望ましい。ノンフィクションでは事実を表現する部分は写真的・写実的なやり方で、感想や意見を表現する部分は地図的なやり方でという風に表現者は二つの表現を使い分けている。

同上 p.33~34 

 言語学も、言語の現象を説明することにあき足らず、その背後にある認識の検討へとすすんでいけば、結局この観念的な自己分裂の問題にぶつからないわけにはいかなくなる。そして時枝誠記の言語過程説は、この問題を「二の立場」の識別としてとりあげ、「言語の実践に於いても、又言語の研究に於いても、極めて重要である」ことを力説したのであった。これは言語学として劃期的(画期的)なことであったが、認識論の持ち合せがなかったり観念的な言語学を支持していたりした言語学者や国語学者は、この時枝の「立場」論を受けとめることができなかったのである。難解だとかあるいは観念論だとか、持てあましたり非難したりした。しかしながら時枝の理論にもまだ未熟なところがあって、それが理解を妨げていたことも事実である。「立場」論が認識論として十分説得的に述べられていなかっただけでなく、混乱もあったのである。まずその「立場」論を聞いてみよう。

 「具体的経験としての言語に対して、我々は二の立場の存在を識別することが出来ると思ふ。その一は、言語を思想表現の手段と考へて、実際に表現行為としての思想の分節や、発音行為や、文字記載をなし、聴手の側からいへば、言語を専ら話手の思想を理解する媒介としてこれを受入れ、文字を読み、音声を聴き、意味を理解する処の立場である。普通の談話文章に於いては、我々はこの様な表現或は理解の立場で言語的行為を遂行し又受容してゐるのである。我々が言語の発音を練習したり、文字の点劃(点画)を吟味したり、文法上の法則を誤らない様に努力したりするのは、かかる立場に於いてであり、又談話文章の相手に応じて語彙を選択したり、敬語を使用したり、言語の美醜を判別したり、標準語と方言との価値を識別してこれを使分けたりするのもこの立場に於いてである。かかる立場に於いては、我々は言語に対して行為的主体として臨んでゐるのであつて、この様な立場に於いて、主体によつて意識せられてゐる言語の美醜或は価値の意識を主体的言語意識と名付けることが出来るのである。

 右の様な主体的立場とは別に、言語を専ら研究対象として把握し、これを観察し、分析し、記述する処の立場がある。原始的な語源解釈から始めて、近代の体系的言語研究がこれに入る。この立場に於いては、言語を観察する者は、言語的行為の主体とならず、第三者として、客観的に言語的行為を眺めてゐる処の観察者としての立場にゐるのである。文法組織がどの様になつてゐるか、言語の歴史、方言の分布がどの様になつてゐるか、等のことを考へるのは、この観察者としてのたちばである。これを観察的立場といふことが出来ると思ふ。以上二の立場を表によつて示せば、

          ┏ 一 主体的立場――理解、表現、鑑賞、価値判断
 言語に対する立場 ┫
          ┗ 二 観察的立場――観察、分析、記述

 言語に対する一切の事実即ち日常の実践より始めて、言語の教育、言語の政策及び言語等の研究は、凡て(すべて)この二の立場を明かにすることから始められねばならない。」(時枝誠記『国語学原論』)

 我々はまず映画で「二の立場」を検討してみよう。映画館のスクリーンに映写されている映画を見るときにも、やはり「立場」のちがいが存在する。その一は映画を鑑賞する立場であって、このときには目の前に映画館のスクリーンがあるなどということはまったく考えていない。そこは江戸の神田でいま銭形平治が活躍しているのだとか、ヨーロッパの古城が実在して吸血鬼ドラキュラが姿をあらわしたとか見る立場である。この場合には目の前に現実に映画が与えられていながら、それが映画であることを否定する立場に立つのである。いま一つはこれと異なり、目の前に現実に映画が与えられているものとしてこれを観察する立場である。映画館がありスクリーンが存在して、現に映写機から投げられた映像がスクリーンの上にいろいろなかたちを示しており、その映写機にかかっているフィルムは映画会社のスタジオで俳優の演技を撮影したものであり、いまスクリーンの上ではチョンマゲのかつらをつけた長谷川一夫が演技しているとか、古城のセットのベラ・ルゴシが怪奇なメーキャップですごみを利かしているとか、現実の映画のありのままを肯定する立場である。それでは映画俳優自身はどのような立場に立っているかといえば、現実的な自己はセットの中で演技している俳優であることに変りないと同時に、観念的には銭形平治になりドラキュラになって、それらとしての生活を行っている(2)。それゆえ、俳優が創作活動をすすめているときのこの立場と、われわれが映画館で鑑賞活動をすすめているときの立場とは、同じ立場だといわなければならない。ここから、この表現のときの立場と鑑賞のときの立場とを「主体的」なものと考え、これらと映画のありのままを観察するする立場とは異質のものとして区別し、「観察的」立場とよぶのは、その限りにおいてもっともである。これと同じことは、言語芸術すなわち文学においてもいえるわけであって、『源氏物語』や『神曲』の作者は机の上で紙に向かっていると同時に、観念的には光源治の部屋に入りこんで女性との語らいをながめていたり、地獄へ下って罪人たちの受ける刑罰をながめていたりするのであるが、われわれが鑑賞するときにもやはりこれと同じ立場に立たなければならない。それゆえ時枝が、古典研究における解釈作業は、主体的立場において追体験として行わなければならぬと強調したのは、正当であった。

(2) 俳優は二つの立場に立つこと、いわば「二重人格」になることを、職業としている人間であって、現実的な自己とはまったく異った空想の世界の人物として観念的な自己をつくり出すために、努力を重ねなければならない。われわれが日常生活で、認識を発展させるために行う観念的な自己分裂の場合には、観念的な自己は頭の中に成立しているにとどまって、外部から知りえない。しかし俳優にあっては、観客から空想の世界の人間としてふるまうことを要求されているから、視覚的にも現実的な自己とはまったく異ったありかたを示さなければならないし、扮装ということも重要になってくる。これは観念的な自己の現象形態であり、それらが同時に現実的な自己のありかたでもあることを見るならば、ここに浸透が行われているといわなければならない。

上の三浦の記述には分かりにくいところもあるが、時枝誠記が『国語学原論』の中でいっている「主体的立場」というのは観念的な体験観念的な追体験をしているときの立場である。観念的体験・観念的追体験は観念的な自己分裂の一つの形態であり、地図を書いたり・読んだりしているときの立場と同じ立場であるから観念的な主体の立場あるいは想像の世界における主体の立場といい換えてもいいかもしれない。芸術や文学作品の作者・作家も作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めたり登場人物の立場になったり、あるいはその作品を鑑賞するであろう受け手の立場になって先行的に追体験しながら作品を創っているし、俳優も作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めながら登場人物になりきって演技をしているから、このときの作者・作家や俳優も「主体的立場」に立って仕事を進めている。また映画や小説などを鑑賞しているときの客や読者は作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めたり登場人物になったりしながら観念的な体験をしているわけだから、このときの客や読者も「主体的立場」に立って鑑賞を進めている。

これに対して時枝のいう「観察的立場」は現実的な自己の立場のまま作品そのものを客観的に眺めながら観察し分析し、それをありのままに記述する立場であり、これは写真を撮ったり実況放送をしているアナウンサーと同じ立場である。自然科学において科学者がその研究対象に対して観察・分析を進めているときの立場もこの立場である。

しかし時枝は古典研究における解釈作業は「主体的立場」において行なわなければならないと主張したのである。

同上 p.37~38 

 「解釈作業といふのは、単に甲の言語を乙が受容したことを意味することでもなく、又文字に表されたものに訓を附し意味をあてることでもなく、厳密にいへば、乙が甲の言語を追体験することである。今、甲が『花』といつた時、乙がこれを『桃の花』の意味に理解しようと『桜の花』に理解しようと、それは一の言語の受容であり、理解であるには違ひないが、これを解釈作業による理解といふことは出来ない。解釈作業とは、甲の意味した『花』が何であるかを逆推して、甲の体験をそのままに乙が体験しようとすることでなければならない。今乙が、甲の言語を観察的立場に立つて対象とし、これを観察する為には、観察者自らを主体甲の立場に置いてこれを解釈し、主体的に追体験をなし、更にこの自らの経験を観察的立場において観察するといふ段階を経なければならない。解釈が言語の対象的把握に必要であるといふことは、即ち、主体的実践といふことが観察に必要であることを意味するのである。この場合、乙は観察者である前に、先づ主体的立場に立つことが必要なのである。多くの観察者は、自らは客観的に言語を観察してゐる積りで居つても、実は解釈作業によつて無意識に主体的立場を前提としてゐることが多いのであるが、これが方法論として確認されてゐない為に、解釈作業自身その真義が失はれ、言語研究の前提を誤ることも従つて屡々(しばしば)生ずるのである。本居宣長が、源氏物語を解釈するには、物語中に用ゐられた語の意味を以つてすべきであることを主張したのは、前代の主体的立場を無視した観察的立場に対して、主体的立場を力説したことに他ならない。」(同右)

 ところで問題は、ここでいうところの「甲の体験」である。表現の場合には、それを鑑賞する人びとの条件を考慮することが必要になってくる。たとえ写真や映画のように、対象をとらえるに際しては現実的な自己のままでおしとおすにしても、鑑賞する人びとのことを考えるときには、現実的な自己のままではすまない。「会社の営業部はこれを見てどう思うか」とか、「映倫ではこれを見てどう感じるか」とか、いわば事態の自然の歩みを追いこした、他の人間の立場に自己を置いて考えながら、創作活動をすすめなければならないので、その意味では創作活動にいつでも観念的な自己分裂がついてまわるということができる。言語表現でも、聞き手が子どもなら表現をやさしくするとか、聞き手をよろこばせるために、「甘ったるい」ことばを使うとか、あるいは怒らせるために「悪口」をつくとかする必要がある。そのためには聞き手が追体験したときの精神状態を知らなければならないが、これは直接につかむことのできない・話し手が観念的な自己分裂によって聞き手の「身になって」想像しなければならない・存在である。それゆえ話し手は、聞き手を現実的な位置で見るだけでなく、そこから観念的に聞き手と「同一化」するところへ移行していかなければならない(3)。それゆえ時枝は、観念的な自己の立場と現実的な自己の立場との違いを経験的にとらえて、主体的立場と観察的立場との区別を与えたわけであるが、「総ての言語はこの主体的立場の所産」であると、話し手の立場を一つにしてしまったところに行きすぎがあった。これは話し手の写真的な位置と地図的な位置とのちがいを、論理的に抹殺してしまったことにほかならない。言語表現の一つの重要な特徴は、話し手が写真的な位置から地図的な位置に移行してとりあげながらまた写真的な位置に復帰してきたり、現在の位置から過去や未来の位置に移行してとりあげながらまた現在の位置へ復帰して来たりする、複雑な認識のありかたをきわめて容易に短い文として展開できるところにある。「きれい―だっ」という場合の、二つの助動詞の間には、話し手の位置の移行が、立場の飛躍(4)があるのである。時枝が話し手の立場を一つにしてしまったことは、彼の文法論の足をひっぱる結果となり、言語表現の過程的構造における話し手の位置の移行という問題の正しい解明を阻止する結果となった。その詳細は、のちに言語を論じるときにのべることにする。

(3) 鑑賞者は作者の精神のありかたを忠実に複製しようと努力するとともに、作者もまた前もって鑑賞者の精神のありかたに自己のそれを近づけようと努力する。すなわち浸透のための努力は交互に行われるわけであって、対立物の相互浸透としての矛盾の発展が、調和を意図しながらすすめられていく。

(4) 「きれい―である」は同じように二つの助動詞を重加しているが、立場の飛躍はない。どちらの重加も現象的に同じであるから、「である」も「だった」も同じだと平面的に扱われるのがふつうである。過去の追想の世界と現実の世界とをむすびつけてとりあげる場合には、話し手が観念的な自己分裂によって二つの世界を往復するのであるが、客観的な世界が二重化していることは経験的に承認できても、自己の側の二重化はなかなか自覚しにくい。

言語の解釈は純粋に観察的(客観的)な立場において行なわれるだけでなく、主体的立場においてなされたのちに、それを観察的立場において再把握することによってなされるべきだと、時枝は主張している。つまり、表現された言語の内容を理解するためには表現した者の表現過程を追体験することが必要であり、客観的な分析は追体験によって得られた内容を前提としてなされるものだといっている。そして多くの観察者は純粋に観察的(客観的)立場で言語を研究しているつもりであっても非自覚的ながらも主体的立場に立って言語を理解しそののちに客観的な分析を行なっているのだという。にもかかわらず無自覚であるがゆえに言語解釈の方法論として主体的立場の必要性に気がついていないという。時枝は国語学史の研究ことに江戸時代の国学の研究を通じてこのような見解に至ったようである(『国語学史』岩波書店 昭和15年)

話はまったく違うが古代史における文献批判において古田武彦が採っている方法もこれと同じである。古田が本居宣長の「師の説にななずみそ」(『玉勝間』)を座右の銘にしていることは象徴的である(三浦も同じことを主張している)。また私が学生時代にお世話になった参考書『古文研究法』(洛陽社・今でも出ているが当時はハードカバーだった)の著者小西甚一は古文の勉強法として「a 語学的理解」と並べて「b 精神的理解」と「c 歴史的理解」とを挙げて後の二者にかなりの分量を割いていたことを思い出す。今思えばこれも古文解釈における「主体的立場」の大切さを説いているものと考えられる(高校生の私には小西のそんな深い親心が分かるはずもなく「語学的理解」の部分をこなすのに精一杯で後二つの部分はざっと読み流しただけだったがそれでもそれなりのご利益はあった。小西の政治的立場は反動的であったが専門の古典解釈の方法論は正しかったといえる)

閑話休題。時枝のこの主張はまっとうであり、言語を受け取る側の立場の説明としては正しい。表現を受け取る側は主体的立場に立つことをつねに要求され、一貫して主体的立場において表現を受容している。しかし言語を表現するものの立場にまでこの主張の正しさを押しつけたのは行き過ぎ・逸脱であったと三浦はいう。

表現においては表現者はあるときは写真的な立場(観察的な立場)に立ち、あるときは地図的な立場(主体的立場)に立つという風に絶えず立場の移行を行なっている。受容者は表現者のこの立場の移行を追体験する必要があるからつねに主体的立場に立たざるをえない(とはいえ音声を聞いたり、文字を読んだり、映像を見たりしているのは現実の自己である)。しかし、表現者は必要に応じて観察的立場と主体的立場とを使い分けているのであり、つねに主体的立場に立つことを要求されるというわけではない。

自らの認識したものを正しく受け取ってもらうためには表現者は受け取る側のことを考慮して先行的な追体験をしなければならないしこのときは観念的な自己の立場(主体的立場)で表現をしているが、目の前で起こっていることをありのままに表現する場合には表現者は現実的な自己の立場(観察的な立場)で表現を行なっている。時枝も表現者としては非自覚的ながらこの二つの立場の移行を行なっていたはずであるがそれに気づくことはなかった。というより受容者における立場の移行と表現者における立場の移行とはその性質が異なることに気づかなかったという方が適切かもしれない。創作活動は観念的な自己の立場への移行なくしては不可能だから(想像なくして創造はできないから)古典研究・古典解釈が頭の中にあった時枝にとっては無理からぬ思い込みだったともいえる。

言語表現では主体的表現の語(助動詞・助詞等)によって表現者の立場や立場の移行が示される。たとえば上で三浦が例に挙げている「きれいだった(きれいであった)」という表現では、「きれい」は対象の属性をとらえそれを概念化して客体的表現の語(静詞・形容詞)として表現したものだが、主体については「だっ」(「で」+「あっ」)と「た」という三つの主体的表現の語(助動詞)によって立場および立場の移行が示されているのである。文の末尾にある「た」によってそれまでの表現が観念的な自己による過去・回想であったこと(現実的な自己の立場における把握・判断)、および現実的な自己の立場に復帰したこと(立場の移行)が示されており、その直前の「で」「あっ」は過去・回想の世界において観念的な自己の立場で何かが「きれい」であることを把握・判断していることが二重に示されている(重加)。日本語の言語表現においては現象が現実的な自己の眼前に現前しているか、現象が観念的な自己の眼前に再現前しているのかの違いや二つの立場の間の移行は助動詞や助詞などの主体的表現の語によって示されるのである。表現に現れるこのような立場の違いや立場の移行過程を正しくつかみ取らなければ歴史的現在とか時制とかいったことがらについての正しい分析も不可能なのである。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(5)――真理から誤謬への転化

「『認識と言語の理論 I』を読む」という一連の記事は私が自分の覚えのために書いています。つまり私なりに読み取った内容を私のことばで書き直しています。そのときに気がついたことも書き込んでいますので引用した内容と直接関係のないことがらもそこには含まれています。また、私の能力は三浦つとむや時枝誠記には到底及ばないので彼らの表現過程・思索過程を追体験するのは私にとってとてもむずかしいことです。したがって私の未熟さゆえの誤読・誤解や読み落としがたくさんあるだろうことは自覚しています。そのあたりのことを考慮しながらお読み下さるようお願い致します。誤読・誤解や足りない点・認識の誤り等をご指摘いただけたら有り難いと思っております。また分かりにくい表現等についてのツッコミも歓迎致します。

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「五 認識の限界と真理から誤謬への転化」。

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〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.39~ 

 認識の限界は、鉄板の向うを透視できないというようなかたちのものだけでなく、その他にもいろいろあることをわれわれは経験で知っている。たとえば、雪におおわれた野原でウサギを発見しても、すぐ背景にとけこんで見えなくなってしまい、灰色の岩を背にしたカモシカも、どこにいるのかわからなくなってしまう。それらはたしかに視野の中に存在するにちがいないが、その輪郭を視覚的にとらえることができないのである。空気中にはきわめて多くの細菌が存在しているにもかかわらず、われわれの目にはみえない。いうまでもなく、それらはあまりにも微小であるからである。

 鏡が視覚の限界を超えるための道具であることは、さきに述べておいた。われわれは、自分の目をその目で直接に見ることができないが、鏡を使えば媒介的に見ることができる。前方を見ながら同時に後方を見るという矛盾も、バック・ミラーによって実現しかつ解決するのであって、この二つの側面をうまく調和したところにバック・ミラーの位置を決定するという意味では、自動車の設計者は実践的に毛沢東の矛盾論を批判しているともいえよう。電池の直流で電球を光らせても、電燈線の交流で電球を光らせても、見たところは変りがないが、交流のそれは一秒間に数十回もの点滅をくりかえしている。直接見えないこの点滅も媒介的に見ることができる。交流による点滅を利用して、モーターの回転数を調整するに使う道具が、ストロボ・スコープあるいは「おどろき板」とよばれるもので、……これも一種の鏡であって、ここから逆に電源が交流であるか否かをしらべることもできる。……放送局のアンテナから発射されている電波も、視覚的にとらえることができないが、受信機をオッシロスコープにつなげば、その波形を目で見ることができる。やはりこれも一種の鏡である。……電気のメーター、水道のメーター、速度計その他、いわゆる計器はすべて鏡として理解すべきものである(1)

(1) 直接には針が目盛を指すにすぎないが、事物のありかたの変化がこの針の変化に媒介されてくるのであり、かつ両者の変化が調和されているという意味で、計器を使うことはすなわち矛盾を創造して役立てることである。測定という問題の解決はこの矛盾を創造し実現することに基礎づけられ、この客観的な非敵対的矛盾が、針を見る現実的な自己とそれを通じて事物のありかたを見る観念的な自己との分裂をもたらすのである。われわれの周囲にはさまざまな計器がそれこそゴロゴロ存在し、これらによる測定が行われているにもかかわらず、認識論に計器の問題が正しくとりいれられた例を見ないのも、正しい矛盾論を欠いた俗流唯物論の制約によるものである。

個々の人間が直接経験することができるのは五官(感覚器官)によってとらえられる限られた範囲の対象・現象だけである。しかも五官のそれぞれが感知できる範囲や強度・精度にもそれぞれ限界が存在する。つまり「直接」的な経験の限界をもたらしているのは対象→認識の過程を媒介している肉体・感覚(知覚)のもつ限界なのであり、私たちが直接的経験=直覚・直観とよんでいるもの自体が実は間接的な経験・媒介的な経験なのである。人間の認識は感覚(知覚)・知覚表象に媒介されたものであり、媒介するものの限界が認識の限界を規定している。

しかし人間は肉体的・感覚的な媒介のもつこの限界を、鏡を始めとする道具・計器・測定器等の各種の物質的媒介物すなわち<物質的な鏡>を作り出すことによって克服しその認識の限界を広げてきた。また人間は<人間の意識・認識を映し出す物質的な鏡>(媒介)として言語を始めとする各種の表現を作り出し、それらを介した物質的・精神的交通によって自己の認識を他者に伝え・他者の認識をわがものとすることによって認識を共有し、そうすることで個々人の認識を深化・発展させてきた。

このような物質的な鏡(媒介)によって個々人がその認識を深化・発展させることができるのは人間の認識自身がその対象を映し出す<精神的な鏡>(媒介)だからである。しかもこの<精神的な鏡>は感覚器官がとらえたままの姿(知覚表象)で対象を映し出すだけでなく、想像力という能力によって対象を加工し再構成し新しい形(表象・概念)で対象を映し出し、創り出すことができる鏡なのである。またそれだからこそ道具・計器等の<物質的な鏡>によって加工された形で映し出される現実のありかたを、さらに変形・加工し直して元の現実のありかたとして再現し映し出す(概念的に把握する)ことができるのである。

なお「われわれは、自分の目をその目で直接に見ることができないが、鏡を使えば媒介的に見ることができる」という三浦のことばをさらに進めて考えるならばつぎのようないい方も可能である。「われわれは自分の目の存在を自分の目で直接確かめることはできないが、目に映るものを通して媒介的に自分の目の存在を確証することができる」つまり私たちの外部に存在する対象が目に映じて生じる視覚映像(視覚表象)は直接にはその対象の存在を示しているが、それと同時にその視覚映像は私たちには視覚があること・光を感じる感覚器官(目)があることを私たちに示しているのであり、それによって私たちは自分の視覚・自分の目の存在を認識し確証する――弁証法的に知る――ことができるのである。これは視覚・目に限らず私たちの五官(感覚器官)・五感(知覚)すべてについていえることである。このことはまた、私たちの五官を介して五感に映ずる対象の映像(知覚表象)はその対象の存在と同時に五官・五感の能力を有する私たち自身の存在をも同時に確証しているということでもある。

デカルトの「思う、ゆえにあり」は思考している主体が対象認識を媒介として自己の存在を確証したことを示している。このようにして人間は他者の存在を媒介として自己の存在を、対象認識を媒介にして自己意識の存在を確証するのである。

閑話休題。

同上 p.41~ 

 カモシカや細菌などは、それら自体が感性的なのであるから、背景を変えるとか光学的に拡大するとかいう方法をとれば、目で見ることができる。顕微鏡にしてもあるいは望遠鏡にしても、それらは肉眼で見えるものを大きく拡大してみることができるという経験から、人びとはそこに見えるものが存在しているのだということを納得したし、すすんで肉眼で見えないものを見たときにも、それらはやはり存在しているのであって肉眼ではとらえられないのだということを納得したのである。なぜ大きく拡大できるのかという点で神秘的で魔法的なものを感じたとしても、存在しないものを存在するかに見せるものだとは思わなかったのである。けれども科学者が、肉眼の限界を顕微鏡や望遠鏡で超えられるということから、肉眼の限界はすべてこれらで超えられるのだと思いこんだとすれば、これもまたあやまりである。対象は感性的であるとは限らない。対象それ自体が感性的なものを持たず、目で見ることがそもそも不可能な存在であるならば、もはや顕微鏡や望遠鏡は役立たないのであり、これらとは構造の異った別の鏡を創造してそれを目で見えるかたちにみちびいてくることが必要である。たとえば人間の精神活動のありかたは、脳波を記録する装置によって、紙の上のグラフとして見ることができる。けれどもこのように、直接つかむことのできない精神活動のありかたを、脳波を媒介にしてつかむことができるということから、すべての精神活動のありかたをこの装置によってとらえられるのだと思いこんだとすれば、これもまたあやまりである。その人間がいま夢を見ているということは大体推察できたとしても、なぜそんな夢を見たのかということまで装置は教えてくれはしないのである。つまりどんな鏡にもそれなりの限界が存在するのである。

 すべての存在はそれなりの限界をもつと同時に、それを超える可能性もまた与えられている。われわれの生命は死によって失われてしまうが、身体を構成する物質は分離して自然の中へとけこんでしまうのであって、に帰るわけではない。そしてこれらの物質は、またいつかの時代に、与えられた条件の中で、生命を生み出す可能性を失ってはいないのである。この限界を固定化すると、生命は物質と無関係なものだという切りはなした解釈になり、限界を無視して延長すると、生命は肉体のありかたと関係なく死後も存在するものであって、自然すなわち生命であり、宇宙すなわち生命であるというような、創価学会的生命観になってしまう(2)認識における誤謬という問題は、この限界に深くかかわり合っているといわなければならない。ウサギやかもしかの場合には、肉眼で区別できるということにも一つの限界があり、区別できなくても異ったものが存在することを認めねばならない場合であるにもかかわらず、区別できなくなったことからそこに存在しなくなったと判断するところに誤謬が生れる。肉眼では直接見ることの不可能な存在を、光学機械で拡大すれば見ることができるという場合にもこれまた一つの限界があり、感性的なものを持たぬ存在は見ることが不可能であるにもかかわらず、機械の性能を高め拡大率を上げていけばそのうちに見えるようになると判断するならば、これもまた誤謬である。あるいは、感性的なものを持たず感覚で直接とらえられない存在は決して認識できないものだと思いこみ、これを感覚で直接とらえられる存在に関係づけうつしかえれば限界を超えられることを、限界を超える可能性の存在することを、考えようとはしないところに誤謬が生れる。

 誤謬はこのように、限界が存在することを無視してしまって対象のもっている限界を超えたところにまで認識のありかたを逸脱させたり、あるいはこれと反対に、対象のもっている限界を絶対化してしまってそれらは超えられぬのだと逸脱させてとりあげたり、するところに生れてくる。それゆえ、誤謬がいかにして生れるのかをダイナミックにかつ論理的に追求するならば、当然にこの逸脱というところに目をつけなければならなくなる。すでに一九世紀の労働者哲学者が、この本質を指摘しているのであるが、現在のマルクス主義の教科書にはそもそも誤謬論という実践の正否を左右するきわめて重要な問題を扱う項目が欠けており(3)、この労働者哲学者の功績もまた無視されている。

 「昔から学者も著述家も、真理とは何であるか、という問題でたがいに困惑して来た。この問題は数千年来の根本的な問題を、特に哲学の根本問題をかたちづくって来た。この問題は、哲学そのものと同じように、結局のところその解決を人間の思惟能力の認識において見出すのである。いいかえるならば、一般に真理とは何かという問題は、心理と誤謬との区別いかんという問題と同一なのである。哲学はこの謎を解くために力をつくし、思考過程を最後的に明かに認識することによって、この謎とともに遂に自分自身を解消するに至った科学である。」

 「理性と同じように、真理は感性的世界の与えられた一定量から一般的なものを、抽象的な理論を展開させることの中に存在している。従って一般的な真理が真の認識の標準なのではなくて、一定の対象の真理をすなわちその一般的なものを生み出すような認識が真理であるといえるのである。真理は客観的でなければならない、すなわち一定の対象の真理でなければならない。認識はそれ自体として真理であることはできず、単に相対的に、一定の対象に関係してのみ、外面的事物にもとづいてのみ真でありうる。……一般者がどれだけ一般的であるかという程度の区別、存在と仮象、真理と誤謬との区別は、一定の限界内にあって、特殊な客体への関係にもとづいている。一つの認識が真理であるかないかは、その認識それ自体によるのではなく、その認識が自分自身に課し、あるいはよそからその認識に与えられる限界ないし課題によって決定される。完全な認識は定められた制限の内においてのみ可能である。完全な真理とは常に自己の不完全を意識している真理である。」

 「真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中でいっしょに住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的な表現は思想一般であって、その中には誤謬もふくまれている。ところで誤謬が真理から区別されるゆえんは、その誤謬がそれがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が教えている以上にヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度はづれに認めるところにある。誤謬の本質は逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめて偽物となる。」(ディーツゲン『人間の頭脳労働の本質』)

 一八九六年に出版されたこの本がマルクス=エンゲルスを驚嘆させ、唯物弁証法は自分たちが発見しただけでなく自分たちから独立に、ヘーゲルからさえも独立に、「一人のドイツの労働者によって発見された(4)」といわしめたのも、やはりそれだけのものがあったからである。見るように、ディーツゲンは誤謬から切りはなして真理を論ずることを拒否しており、真理をその対立物である誤謬との統一においてとりあげている。これがすなわち真理の弁証法的な扱いかたなのである。彼は観念論哲学の真理論を批判して、真理がア・プリオリに頭の中にまず成立するのだという主張に反対するだけでなく、それ自体として真理とよばれる資格があるのだという主張にもきびしい反論を加えている。ここから、真理論はとりもなおさず真理と誤謬との区別およびその転化を論ずべきものとして、真理は認識それ自体においてではなく「客体との関係」において「一定の限界」の問題で論ずべきものとして、具体的に展開されたのであった。

(2) 自然科学者の中にこの幼稚な生命論にひっかかる人びとがあるのは、自然科学がタコツボ的な分業においてすすめられ、真理の限界という問題をほとんど問題にしないですむような条件の中で科学者が思惟していることと、無関係ではない。

(3) 真理論があって誤謬論がないのは、対立物の統一という弁証法的な発想をつらぬけないためではあるが、教科書を執筆する哲学者が非実践的で誤謬の重要性に鈍感だということも考える必要があろう。

(4) エンゲルス『フォイエルバッハ論』第四章。

人間は身体的な位置の限界を超えるために自らその位置を変えたり、また生身の肉体では移動するのが困難な場所に移動するための機械を作ったりしてきた。また、感覚器の限界を超えるためのさまざまな機器が創造されてきた。しかし三浦が指摘しているようにこれらの機械・機器にはかならず限界が存在する。人間はそのような限界を超えるための機械や機器を次から次へと作り続けてはいるがそれらにもかならず限界が存在するのである。このような限界のために人間の認識はつねに制限されている。

個々の人間の認識が肉体的・身体的な条件によって制限されているということは、たとえば観測や観察から得られる認識は観察者の肉体的な位置という条件に左右されるという形で現れる。ある人が何の断りもなしに「太陽は北から昇る」と主張すればそれは誤りである。しかし自分が南極点にいることを承知した上で「太陽は北から昇る」と認識したとすればその認識は正しいし、「南極点では太陽は北から昇る」というならそれも正しい言説である。このことは「太陽は東から昇る」という認識や言説についてもいえる。極点では太陽は東からは昇らない。しかしふつうの人間は極点で暮らしているわけではないからそのことを承知した上で「太陽は東から出て西に沈む」と認識・判断するのは正しい。しかし「いついかなる場所でもつねに太陽は東から昇る」と判断したり、いい張ったりするのは間違いである。

また同じことは人間の感覚器官の限界についてもいい得る。ごくふつうの日常生活において、空っぽのコップを見て「何も入っていない」と考えるのは正しい判断である。しかしその人がコップの中に空気が入っていること、ほこりの粒子や菌類の胞子・細菌等が入っている可能性まで否定するならそれは間違った認識・判断である。だから空っぽのコップを見て「目で見る限りは何も入っていない」という認識・判断を下すのは正しいが、いついかなる場合においても空っぽのコップには「何も入っていない」と認識したり判断したりするならそれは正しいとはいえない。

真理も誤謬も人間の認識であり、判断である。ディーツゲンが指摘しているように「真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中でいっしょに住んでいる」のである。特定の対象についての特定の認識・判断が正しいときその認識・判断は真理とよばれ、その認識・判断が誤っているときそれは誤謬とよばれる。したがって、問題は人間の肉体的・感覚的限界の存在それ自体やさまざまな道具や機器に限界が存在することそれ自体ではない。重要なのは世界の無限性に対する人間の認識の有限性という認識のもつ本質的な矛盾によって個々人の認識・判断には必然的に限界が存在するということであり、それゆえ真理と誤謬との区別は個々の認識・判断がその限界をしっかりとわきまえてなされているか否かによるということである。つまり「誤謬の本質は逸脱ということである(ディーツゲン)なのである。三浦もこの後の引用部で「誤謬は、現実の世界の多様性による限界と、これに対する認識の限界とのからみ合いにおいて、逸脱が生ずるところに起る」といっている。そしてこのことはある特定の種類の対象からもたらされる一般的な認識・科学的な認識・科学的真理についてもいえることである。

同上 p.44~ 

 それから八年後に、こんどはエンゲルスが同じ問題をとりあげないわけにはいかなくなった。それはオイゲン・デューリングが「現実哲学」と称するものをふりかざし、この「根底的な科学」だと誇示する著作の中で、「ほんとうの真理というものは決して変化することのないものである。」と主張し、「時間や現実の変動によって認識の正しさが、そこなわれうると考えるのは、総じておろかなことである。」とその絶対的妥当性を強調したからである。この俗流唯物論を批判せざるをえなくなったエンゲルスは、ディーツゲンと同じように真理の「一定の限界」をとりあげて、真理と誤謬とが「いっしょに住んでいる」という事実は自然科学の法則においても見られるのであり、この対立物は相互に転化することを論じたのであった。

 「真理と誤謬とは、両極的な対立をなして運動するすべての思惟規定と同じように、きわめて限られた分野に対してしか絶対的な妥当性をもたない。……真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い分野の外に適用するや否や、この対立は相対的となり、したがって正確な科学的な表現のしかたとしては役に立たなくなる。もしまたわれわれがこの対立を絶対的に妥当するものとして、この分野の外に適用しようと試みるならば、われわれはそれこそ破綻してしまう。対立の両極はその反対物に転化し、真理は誤謬となり、誤謬は真理となる。有名なボイルの法則を例にとろう。この法則によると、温度が一定であれば、気体の体積はその気体の受ける圧力に逆比例する。ルニョーは、この法則がある種の場合にあてはまらないことを発見した。ところで、もし彼が現実科学者であったなら、彼は義務としてつぎのようにいわなければならなかったであろう。ボイルの法則は変るものであり、したがってそれは本当の真理ではないのであり、したがってそれは何ら真理ではないのであり、したがって誤謬である、と。だが、そうしたなら、彼はボイルの法則にふくまれていた誤謬よりも、ずっと大きな誤謬をおかしたことになったろう。彼の一粒の真理は誤謬の砂山の中に影を没したであろう。つまり彼は、本来正しい彼の結論を誤謬に仕立て上げてしまったであろうし、それにくらべれば、ボイルの法則はわずかの誤謬がそれにこびりついたままでも、なお真理と見えたであろう。しかし、科学者であるルニョーは、このような子どもじみたことにはたづさわらずに、さらに研究をすすめ、ボイルの法則は一般に近似的に正しいだけであって、特に圧力によって液化させうる気体の場合にはその妥当性を失い、しかも、圧力が液化の起る点に近づくや否やそうなる、ということを発見した。こうして、ボイルの法則は、一定の限界の中でだけ正しいことがわかったのである。」(エンゲルス『反デューリング論』)

 真理のもつこの種の相対性、限界は、マルクス主義の法則や命題においても変るところがない。唯物弁証法にも限界が存在する。静止・不変の範囲で事物を扱うときには、弁証法の「あれもこれも」ではなく形而上学の「あれかこれか」で考えるし、また資本主義の永遠性や宗教の正しさを証明するために唯物弁証法を役立てることはできない。マルクス主義者が法則や命題の真理であることを強調するあまり、これらに絶対的妥当性を与えるならば、それはマルクス主義を逸脱してデューリングの誤謬をくりかえすことでしかないのである。戦争には正義の戦争と不正義の戦争とがあるという、レーニンや毛沢東の命題にしても、ボイルの法則と同じく「わずかの誤謬がそれにこびりついた」近似的に正しいものであり、世界核戦争の場合にはその妥当性を失って誤謬に転化してしてしまう。マルクス主義の法則や命題は「普遍的真理」であるといい、その絶対的妥当性を主張する二〇世紀の中国の現実哲学者たちは、エンゲルスはもちろん一九世紀の労働者哲学者よりもさらに理論的に後退しているわけである。

三浦のいう「一定の限界」が上の『反デューリング論』では「きわめて限られた分野」「狭い分野」と表現されている(岩波文庫版では「分野」が「領域」と訳されている)。いずれにせよエンゲルスもディーツゲンと同じように真理は一定の限界のもとで成立しその限界を無視するなら真理は誤謬に転化するといっているわけである。現在の科学的真理の体系は過去から現在に至る人間の認識の発展過程が系列化・体系化されたものである。ボイルの法則もその系列の一つを構成しており、他のすべての科学的真理と同様に一定の限界内で成立するのであり、ある一定の領域に属さない気体においてはボイルの法則は誤謬に転化する。つまり、ある特定の状態におけるある特定の気体は圧力が一定の限度を越えると体積が 0 になる=液化してしまうのである。ゴムやつるまきバネのような弾性体に関するフックの法則についても同様である。加える力が一定の範囲内にあれば弾性体の伸び(または縮み)は加える力に比例するが、加える力がある一定の大きさ(個別の弾性体の性質によって異なる)より小さい場合には伸び(または縮み)は 0 になるし、加える力がある一定の大きさより大きくなると弾性体は弾性を失って伸び(縮み)切ってしまったり破壊されてしまったりする。すべての科学的真理はこのような限界=例外規定を有している。

同上 p.46~ 

 誤謬は、現実の世界の多様性による限界と、これに対する認識の限界とのからみ合いにおいて、逸脱が生ずるところに起るのであるから、個々の認識がたとえ真理であってもそれらを統一した場合に真理であることを保証されはしない。われわれは統一された全体としての現実の世界を、想像の部分において認識するのであって、現実の世界と認識とを正しく照応させるためには、いわば分解によって獲得された認識をふたたび観念的に結合していくことが必要である。これは、個々の認識の限界を他の認識を結合することによって超えたのであるが、この結合のしかたが正しくないならば限界の処理をあやまったわけであって、現実の世界との正しい照応でなくなり、誤謬となる。探偵小説の名探偵もつぎのようにいう。

 「この世の中で、わづかながらも私がしとげて来たことは、私たちがやかましく聞かされている推理の力というものには案外負うところが少くて、それよりもっともっと綜合の精神に負うところが多いと思うのです。事実を綜合しつなぎ合わせるというのが私の有力な武器だったのです。またこれこそが成功の大切な骨組なのであって、事実がうまくつなぎ合わされないときには、きまって結果は失敗です。……いかにも、あなたは事実をたくさんつかんだが、役に立つ事実はすべてつかみはしなかった――あるいは、役に立つ立たぬはさておいて、何もかも全部というわけではなかった。つまりあなたは、壁もできないうちから屋根をつくろうとなさったのだ。」(フィルボッツ『赤毛のレドメイン』)

 映画の一つ一つの場面は、対象の世界をそれぞれの位置からとらえた、いわば分解したものであって、編集においてこれを結合させ、観客が分解と同時に結合しながら対象の世界の認識をすすめていけるように仕上げるわけである。ところが映画の製作は分業であるから、監督ないしは編集者のところへは、すでに分解ずみの、できあがったフィルム断片がまわって来る。彼らはそれを結合させるだけである。この現象をとらえて、分解が先行しているという過程を無視したところに、モンタアジュ論とよばれるあやまった映画理論が誕生した(5)

 誤謬はそれを真理と信じているからこそ誤りなのであって、それを誤謬と認めれば正しい認識であり有用である。事件に関係のなかった人間を犯人だと思うのは、誤謬であるが、それを誤謬と認め彼は犯人ではないと認めれば、それだけ疑わしい人間の範囲が狭くなったのであって、誤謬も無意味ではなかったことになる(6)。誤謬を真理と別のものとして切りはなし、かつ実践と切りはなしてとりあげる人びとが、これを認識の中の特殊例外として仲間はづれにしたり、まったく役に立たぬ意味のない存在だと考えたり、するのである。

(5) この映画理論の詳細については三浦つとむ『モンタアジュ論の亡霊』(『現代思想』一九六一年一一・一二月合併号)を参照。

(6) 「すべての誤謬は、真実の理解を助ける。」(ディーツゲン『哲学の実果』)

子どもの頃私はやっと買ってもらったおもちゃを遊ぶのに飽きるとすぐに分解してしまった。中がどうなっているのかが不思議だったからである。ブリキ製のおもちゃは穴にはまった爪を曲げて組立ててあるだけだから外側を外すのはごく簡単である。ゼンマイじかけの精密な機構を枠組みからバラしていく過程で私はそのおもちゃがいかにして動くかの秘密を知ることができたが、問題は組立てである。バラバラになったさまざまな大きさの歯車をもう一度再構成し元の通りに組立てなければならない。分解するのは時間もかからず簡単にできるが組立てはそう簡単にはいかない。分解したときと逆にやっていけばよいと分かっていても分解のときにその仕組みをきちんと理解しながら部品を分類し保管しておかないとまず組立ては失敗する。しかも機構の全体的な把握ができていないと駄目なのである。この全体的な把握は分解するときに絶えず頭の中に入れておかなくてはならない。

私はこのことを数多くの失敗を通して学んだ。子どもの頃住んでいた家の床下には私が分解したまま組立てができなかったおもちゃの残骸がいくつも転がっていた。

ものごとについての分析と綜合とはそういったものである。モンタージュ論とやらは綜合というものについての理解が欠けていたのであろう。バラしたものを適当に組み合わせて何か新しいものが生れると単純に考えるのは間違いである。もっともそのような中から偶然に新しい何かすばらしいものが生れることもある。ただしそれにはそれなりの理由があってのことであろう。やはり再構成には全体観が必要であり、適切な新しい全体観によって組立てられたものから新しいものは創造されるのだと私は思う。分析にあたっては綜合的な見地・全体的な見地が絶対に必要なのである。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(6)――表象の位置づけと役割

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「六 表象の位置づけと役割」。

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〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.48~ 

 われわれの感覚器官が受動的に現実の世界を反映していることは疑う余地がない。目はカメラのレンズと同じように、対象からの光を受けとめて像をつくり出しているのであって、手のひらで目をおおえば見えなくなるのは、レンズにキャップをかぶせれば写らなくなるのと同じことである。けれどもわれわれの目は受動的に働くにとどまるものではなく、それと同時にわれわれの側からも能動的な、現実をとらえよう現実を見ようとする働きかけが行われている。この能動性の第一歩は注意である。これも、受動的な反映から反射的に行われるような段階もあれば、未来に対する先走った認識に基礎づけられて、それが実現するのを期待するような段階もあって、発展的に理解しなければならない。あるいていると後方で大きな声がしたので、思わずそちらへ視線を向けるような段階もあれば、まいた朝顔の種子がもう芽を出すころだと考えて、庭に目をやるような段階もある。彼女と六時に駅で会いましょうと約束したので、時計の針の動きと駅の出口からはきだされてくる乗客とを交互にながめるような注意のありかたは、発展した段階のものであって、同じ注意にも主体的条件のちがいが存在する。さらに能動的な働きは発見である。これも注意と同じように、受動的な反映から反射的に行われるような段階もあれば、未来に対する先走った認識に基礎づけられて、それが実現するのを期待するような段階もあって、発展的に理解しなければならない。下を向いてあるいていたら小さな紙包が落ちていたので、直観的にさてはと思って開いてみたら百万円の紙幣束が入っていたような段階もあれば、手さげ金庫の中にかなりの現金が入っているはずだとにらんでしのびこんだ泥棒が、開けて思わずニッコリするような段階もある。ぬすまれた重要な手紙は大臣の身辺のすぐ目につくところにあるにちがいないとにらんで、緑色の眼鏡の後から部屋を見まわし、状差(じょうさし)の中にあるのが見かけこそちがえ問題の手紙だと見破るような発見のありかたは、発展した段階のものであり、同じ発見にも主体的条件のちがいが存在する。

人間の認知・認識は外部の対象からの受動的な反映から始まるが、人間の意識はそれに甘んじていることができない。人間は生きて生活している。生活を維持するには外部と交通しなければならない。それゆえ人間は外部の対象に積極的に能動的に否応なしに働きかけていく。そうした実践を媒介にして人間の認識は能動的なものになる。マルクスや三浦のいう反映はこのような能動的な意識・認識を包含した概念であり、俗に理解されているような単純な唯物論的反映=受動的反映ではない。また三浦のいう「認識」は哲学的な概念である思惟(知覚を除く意識のあらゆる活動)と知覚とを含んでいる、つまり意識のあらゆる活動を含んでいるので三浦の書いたものを理解するにはその点を考慮しながら読まなくてはならない。

意識の能動性は欲望や意欲から生まれるがこれは生存本能としては基本的にすべての動物(誤解を恐れずにいえば植物も)が生まれながらにもっているものである。しかし人間は現実に働きかける現実的実践のみならず概念化能力を駆使した理論的実践をも行なっているし、ある程度の年齢で自己意識を獲得するから人間の意識は単に動物的な意識にとどまってはいないし欲望や意欲も再生産される(人間の自由な意識活動は自己意識の賜物である)。

注意発見も現実への働きかけ(現実的実践)を促す能動的な意識活動の一つのあり方であり、理論的実践との交互関係(相互浸透)によってこれらも発展する。理論的実践(思考)は観念的自己分裂過程の一つの形態である。

同上 p.49~ 

 認識は感覚を出発点としてのぼるだけではない。反対に感覚へとくだることも絶えず行われているから、のぼるとくだるという対立した過程を統一してとらえることが必要になってくる感覚をみがくとか感覚を訓練するとかいう問題は、くだる過程の問題でもあって、受動的な単なる経験のくりかえしと考えてはならない。

 対象のありかたが変化したり、われわれの現実的な位置が変化し感覚器官のありかたが変化したりすれば、感覚はつぎつぎと変化していく。感覚はその意味で現実の世界のありかたの変化を鋭敏に感じとることができるが、さきの感覚はもはやつぎの瞬間には存在しなくなってしまう。実践は感覚の変化だけでなく維持をも要求するが、脳は対象から与えられた感性的な像を記憶にとどめることによってこの矛盾した要求にこたえるのである。感覚をそのまま再生することは不可能であるが、ある程度の具体性を持たせて再生することは可能であり、この再生は単にかつての経験を追想するにとどまらず、認識の発展にとって一つの段階をつくり出すことにもなる。シルエット対象の感性的なありかたはたしかに千差万別であり、個々の人間はそれぞれ感性的に異ったかたちを持っているにはちがいないが、すこしはなれた位置から大きなつかみかたをすれば、それらの個性を超えてそれなりに共通したものをとらえることができる。同じことが、個々の馬についてもいえる。それゆえ、人間と馬の頭のシルエットを見せられれば、これが何であれは何だと、大多数の人びとが正しく指摘できるわけである。ディーツゲンのことばをかりるなら、人間は感覚から「一般的なものを生み出すような認識」へとのぼっていくのではあるが、特殊性を捨象してしまった一般的な認識ではなく、まだ感性的な特殊性をある程度伴ったままでの一般的な認識も、いわば過渡的な段階としてそれなりの有用性を持っており、実践的にいろいろな役割を果しているのである。これが表象である。

知覚表象*とよばれる対象認識は現前の対象からの物質的・物理的刺戟を感覚器官がとらえそれが脳においてただちに映像化されたものであり視覚映像にせよ聴覚映像にせよ私たちにとって非常にリアルな映像である。知覚表象は知覚とも感覚表象ともよばれるが日常用語としては感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・体性感覚等)という語が使われている。これに対し表象(represent)は上で三浦が書いているように記憶から再現された映像である。表象は知覚表象から抽象されたものでありその像は知覚表象ほど鮮明ではない。しかしそれは映像であると同時に概念的な把握をともなっている。それゆえ三浦がいうように表象は特殊的・感性的な認識と一般的・非感性的・概念的な認識とを同時に備えた対象認識である。言語についての記事で私が個別概念とよんでいるのはこの表象のことである。「個別」に特殊的・感性的な側面を、「概念」に一般的・非感性的な側面を受け持たせてそうよんでいるわけである(「個別」という語には特殊と普遍との統一という意味合いもある)。表象は私たちが想像的な意識活動を行なっているときに脳裏に浮かんでいる像であり、夢を見ているときにも私たちは表象を見ている。比喩的な意味で「夢」という語が使われる場合も私たちはなんらかの表象を心の内に思い描いている。

* 知覚表象(知覚)は高次の連合野において感覚が分析・統合されて形成される。知覚表象は個別的・特殊的な対象認識ではあるが通常は記憶からのフィードバックを受けて同時に概念的な把握も伴っている。それゆえ概念的な把握を伴っているという意味を込めたいときには知覚表象という語ではなく認知あるいは対象認知という語が使われる。

同上 p.50~ 

 表象も単純なものから複雑なものへと発展していく。窃盗・強盗・殺人など、犯罪のありかたは千差万別であって、さらに窃盗の常習犯といわれる者もそれぞれ異なった犯罪を行っているにはちがいないが、大きなつかみかたをすれば個々の犯罪のありかたを超えた共通した特徴をとらえることができる。これを警察では「手口」とよんでいるが、これも一つの表象としての認識である。新しい犯罪が行われたとき、その感性的なありかたの特徴をつかみ、前科者の「手口」をカードでしらべてこれと一致する者をえらび出し、これらに注意してついに犯人を発見したということも、しばしば起る事実であって、表象の有用性の一例をここに見ることができる。

 表象は感覚からの抽象としてのぼるかたちをとって成立するが、「手口」のようにつぎに一転してくだるかたちをとって感覚における発見のための基礎となり、能動的な役割を果すことも多い(1)配線図家や機械などの設計のように、はじめ抽象的なありかたを思い浮べ、それを次第に具体化していくときにも、その過渡的な段階として表象を持ちこんであてはめていくことがしばしば行われる。つぎの図はトランシーヴァーの初歩的なものの設計であって、見るように(1)がもっとも抽象的であり、(2)から(3)へと順次に具体的になっている。技術者がこれを設計するときには、まず(1)を頭の中に描いて、それから(2)に具体化する。彼が自分でこの装置を製作しようとするならば、(2)の12(変圧器1, 変圧器2を指している――引用者)はどこの会社の何という製品を使おうとか、このくらいのケースをつくってこのように部分品をおさめようとか、完成した装置のありかたにまで先走って具体化して考えていく。けれども、他の人びとにこの設計を教えてつくらせようとするならば、(2)だけではさらに具体化して考えることのできない人びとのために、(3)をつけ加えることが効果的である。(2)を配線図、(3)を実体配線図とよぶ。(2)と(3)を比較すれば、(2)の記号に相当するものを感性的なかたちでつかむことができ、どんな部分品を使って相互をどのようにむすびつけるかを、ヨリ具体的に知ることができる。(3)では部分品が感性的なかたちで示されているが、それは特定の部分品の忠実な模写ではない。各会社の製品は千差万別であって、ここではそれらに共通したものを大きくつかんでいるにすぎない。それゆえ実際に製作するときの部分品のかたちは、この(3)に示されているものと異ってくるかも知れないが、それは(3)の筆者もそして読者も暗黙のうちに了解ずみのことである。それゆえ(3)の部分品のとらえかたは、現実に使われる部分品の感性的な特殊性をある程度保持することによって、具体的な理解に役立てながら、しかも特定の製品ではなく一般的な種類としてとりあげたものだということになる。それゆえこれは表象である(「表象」というより「表象的なもの」という方が適切かもしれない――引用者)

(1) 感性的認識から理性的認識への発展であるとか、理論と実践との統一であるとかいう考えかたは、認識の一面をとらえたものであるから、その把握が正当であるとはいってもこれだけをバカの一つ覚えでふりまわすと誤謬に転化しかねない。認識のそれぞれの段階はそれなりに能動性を持ち、実践においてはそれぞれ独自の役割を果すことを具体的にとらえなければならない。

人間の意識活動の中で表象の果たす役割は多様でありかつ重要である。表象なくして人間の意識活動はありえない。人間の理論的実践が概念的把握のもとで行われることは誰もが指摘しているが、しかしながら非感性的な抽象的概念はつかみどころがなく思考においても、その他各種の想像的的活動においても感性的な手がかりを持ちながら一般的・非感性的・概念的な性格をも合わせ持った表象がその主役を演じていることを指摘する者は少ない。哲学者が純粋な非感性的な概念のみを概念として認め、表象を概念よりもレベルの低い抽象像であるとして個別概念を概念として認めていないこともその原因の一つであろうが、何よりも現実に即して人間の頭の中で起きている現象を対象との結びつき・対象から概念形成に至る過程においてとらえないところにその主な原因があると私は考える。実際のところ表象が非感性的・概念的な把握を伴っていることさえも認めない者が多いのである。そういう人々は自分の頭の中で起こっていることを対象との結びつきで考えたこともないのであろう。

表象あるいは表象的なものが抽象的・非感性的なものから具体的なものへと下る現実的実践の中間過程で重要な役割を果していることは上の三浦の指摘でも明らかであるが、私の仕事に即していえばその逆の過程つまり現実の対象から上っていって概念的な把握をするに至る理論的実践過程においても具体的・感性的対象と抽象的・非感性的な概念とを媒介する中間的な抽象物として表象の果たす役割は大きい。子どもは概念化能力が未熟であるから抽象的な思考に慣れておらず抽象的な概念を直観的に把握するのに苦労するのであるが、そのときに表象的な性格を持ったシェーマという教具が子どもの教育に果たす役割の重要性を無視することはできない。シェーマはそれを用いることによって子どもの認識活動において表象を喚起しそこから概念をつかみとるための橋渡しをするものであるから、感性的であると同時に抽象的な性格を有するもの・概念の構造が目に見えるものをシェーマとして用いることが要求される。水道方式におけるタイルはそのような両面的な性格を持つシェーマとして量や数を概念的に把握しそれらの持つ構造をつかみ取るために大きな役割を果たしている*。またシェーマにもその抽象度にそれぞれ差があり、それらを段階的に導入することによって子どもの理解段階に応じた適切な指導が可能になる。

* かつての教科書は量や数の導入にオハジキやどんぐりといった具体物を教具として使っていたが、最近では抽象度の高いタイルを使う教科書が主流になっている。概念化能力の未発達な幼児期にオハジキやどんぐりのような抽象度の低いものを使うのは理由のあることであり、小学一年生の教科書で手始めにウサギや猫などの動物の絵を用いるのもそれなりに意味のあることであるが、数概念を身につけるにはやはりタイルが効果的である。小学一年生は類別を難なくやってのける程度の概念化能力をすでに獲得しているし、分類する能力もある程度獲得している。具体的なモノを教具として用いるとその特殊性の側面にとらわれて抽象的な側面をとらえにくい。算数の苦手な子どもは具体物のもつ特殊性の側面にとらわれてしまっていることが多いのであるから、抽象的・概念的な把握がしやすいように適切な教具を工夫する必要もそこから生じてくる。タイルは極めて抽象度の高いものであるが、面積という量的な側面を保存しており、一つずつ分離していながら縦方向にも横方向にも自由に連結できるという特長をもっているがゆえに、数や量の概念をとらえやすいし、連結・分割を通じて数や量が持っている構造を容易に直観することができるのである。

同上 p.52~ 

 (1)を具体化すれば必ず(2)(3)になるかといえば、そうではない。(1)から出発しても、(2)(3)と異った部分品を使って異った配線図をつくることができるし、さらに多くの部分品を加えてヨリ複雑な配線図にすることもできる。さらに(2)(3)で予想した性能が、実際に製作すれば必ずえられるかといえば、そうではない。部分品の質が悪ければ性能が予想とくいちがったものになるし、時にはまったく動作しないことも起りうるのである。それゆえ、これらは異った段階として区別するだけでなく、相対的に独立したもの、一面ではむすびついているが一面ではむすびついていないもの、すなわち一つの矛盾として理解しなければならない。このような認識の立体的な構造の持つそれぞれの面での限界を、正しく扱わなければ誤謬におちいることになる。

 以上は一つの装置の設計をその表現において検討したわけであるが、このような認識の発展は装置の設計だけに見られるものではなく、われわれの生活の設計すべてに共通して見られるものである(2)。たとえば若い男女が「われわれは結婚しよう」と意思を統一して、婚約が成立したときは、(1)の段階に相当する抽象的な生活の設計でしかない。それがやがて、今年の冬ごろ式をあげるか明年の春にするか、誰と誰を招くか、……(2)の段階にまで具体化されていく。さらに服装をどうするか、花嫁は洋装かそれとも和装か、料理は……、……式の時刻はどうきめるかなど、(3)のかたちに表象化することを通じて、はじめて実現するわけである。(2)の段階では意見が一致しても(3)の段階では意見がくいちがうこともしばしばであって、そこに相対的な独立を見ることができる。また契約とか協定とかいわれるものも、仕事についての一種の設計である。……さらに政治も、これまた国民の生活の設計を行うことであって、まず(1)の段階に相当する法律とよばれる抽象的な規定が生れ、これが政策とよばれる(2)から(3)の段階へと具体化していき、実現するのである。これは支配者の側から生活の設計を押しつけるのであり、法律としては国民全体の福祉に貢献するような美辞麗句がならべられていても、現実の政治はそれと似ても似つかぬ結果をもたらしているとすれば、それはちょうど装置の設計として(1)がどんなにすぐれていても、(2)から(3)が不合理な接続になっていたり不適当あるいは不良な部分品を使ったりして、できあがった装置が動作しないようなものである。

(2) 抽象から具体へという認識の過程も認識の一面であるから、これをことばの上で実践にむすびつけたとしても認識の弁証法的性格を明らかにしたことにはならないのである。抽象から具体への過程において実践にむすびつくこの過程の検討が、マルクス主義者の認識論に欠けていることを反省する必要がある。設計論なしの実践論では、動物的行為と人間の実践との区別を具体的に展開することができなくなる。

機器の設計から実際に機器を製造するまで・婚約から結婚式を挙げるまで・法律から政策の実現に至るまでといった三浦の挙げた具体例をみると、抽象的設計の段階から具体的・現実的な実現段階に至る過程において中間的な段階・表象的な段階が重要な役割を果たしていることが分かる。人間の認識においてもそれらの各段階に対応する段階が存在しており、抽象的な理論的実践段階から現実的実践段階に至る過程の中間段階としてやはり表象(表象的実践)が重要な役割を果している。人間の認識は抽象から一気に具体へと進むように見えても実際は表象段階を媒介して進んでいる。逆に具体から抽象へと進む場合にもやはり中間的な表象段階に媒介される形で進む。

そして抽象→表象→具体、あるいは具体→表象→抽象といった下り、上りの実践は一直線に進むとは限らない。抽象→表象→具体の下る過程では表象的実践の影響を受けて抽象が修整されたり、具体的実践の手前で現実的な状況に対応するために表象が修整されたりといったことがしばしば起こる。このように、下る過程では下る向きに浸透が生じるだけでなく上る形で浸透が生じることもある。これは具体→表象→抽象の上る過程でも同じであり、上る一方だけでなく下ることによる浸透も生じるのがふつうなのである。このような相互浸透によって認識も現実もダイナミックに変化せざるをえないのである。

科学の実験においても同様である。仮説という抽象的段階から実験という具体的段階に至る前に科学者は思考実験とか机上実験あるいは仮想実験とかとよばれる表象的な段階を踏む。机上実験によって仮説が修正されたり、現実のさまざまな制約を受けて机上実験の方法を変更したりといったことはやはりしばしば起こることである。このことは科学に限らず何かを作る場合に私たちがしばしば経験することでもある。今晩の献立をどうしようかと考え、何をつくるかを決定し頭の中で手順をおさらいしていざ料理しようと冷蔵庫の中を覗いたら必要な材料がなかったので代わりの材料を使うことにしたりすることも多い。このときには手順が変ってしまうこともあるし、最初の計画を変えなければならなくなることもある。

同上 p.53~ 

 表象は「手口」カードのように具体から抽象への過渡的な段階で、あるいは実体配線図のように抽象から具体への過渡的な段階で、成立し表現し役立てられるとは限らない。認識の対象が表象の形成を要求し、それにとどまる場合もある。藤田まことの例が示すように、顔の長い俳優は、観客が表象において馬と二重写しにして滑稽感を持つところから、喜劇俳優にふさわしい(3)。さらに経済学において商品に値段をつけるという事実を分析してみるならば、これも表象の形式なのである。商品は鉄であろうと小麦であろうと、物体として感性的な存在であり、これと交換される貨幣も金であろうと銀であろうと、物体として感性的な存在である。交換は等しい価値における交換であるから、商品と貨幣は物体としての具体的なありかたにおいて、その特殊性においてむすびつけてろりあげられると同時に、両者にふくまれている価値において、その共通した一般性において等しくなるようにとりあげなければならない。徹夜小麦は現実に存在するが、貨幣としての金は観念的にこれらの商品に対応するものとしてその量を観念的に思いうかべながら、現実の商品の価値と観念的な金の価値とが等しくなるときの金の量を決定して、ここから価格をつけるのである。それゆえ、価格の背後には、物体としての特殊性と価値としての一般性とを統一した認識、すなわち表象が形成されていることになる(4)

 「商品としての商品は交換価値である。それは一の価格を持つ。交換価値と価格とのかかる区別においては、商品にふくまれている特殊的・個人的労働は、外化の過程によってはじめて、その反対者である、個性を失った・抽象的で一般的な・そしてこの形態においてのみ社会的な・労働として、すなわち貨幣として表示されねばならぬ、ということが現われている。ところで、個人的労働がかようにして貨幣として自らを表示しうるか否かは、偶然のことに見える。だから価格においては、商品の交換価値は、ただ観念的にのみ商品と異る実存を受けとるのであり、商品にふくまれている労働の二重の定有は、ただ異った表現様式としてのみ実存するのである。したがってまた他方において、一般的労働時間の物象化である金は、ただ表象された価値尺度としてのみ現実の商品に対応しているのであるけれども、しかし価格としての交換価値の・あるいは価値尺度としての金の・定有のうちには、キラキラ光る金と引換えに商品が外化される必要と商品が譲渡されえない可能性とが、――簡単にいえば生産物が商品であるということから・あるいは、私的個人の特殊的労働が社会的効果を持つためには自らをその正反対者として、抽象的・一般的労働として、表示せねばならぬということから・生ずるすべての矛盾が、潜在的にふくまれている。……

 金が価値尺度となり、交換価値が価格となった過程を前提すれば、すべての商品は、それらの価格においては、種々の大いさの表象された金分量であるにすぎない。それらのものは、金という同一物のかかる種々なる分量として、相互に等しいとされ、比較され、かつ度量されるのであって、そこでそれらのものを度量単位としての一定分量の金に関係させる必要が、技術的に生じてくる。」(マルクス『経済学批判』)

 「諸商品の価格または貨幣形態は、それらの価値形態一般と同じように、それらの感覚的実在的な物体形態から区別された、つまりたな観念的または表象的な形態である。鉄・亜麻布・小麦などの価値は、目に見えないけれども、これらの物それ自体のうちに実存する。それは、それらの物の金との同等性、金に対する一の連関――それはいわば、それらの物の頭の中でのみ幽霊のように現われる――によって、表象される。だから、諸商品の保護者は、それらの諸価格を外界に伝えるためには、彼の舌で諸商品の代弁をするか、諸商品に紙札をぶら下げるか、しなければならない。金によっての諸商品価値の表現は観念的なものであるから、この処置のためには、やはりただ表象的または観念的な金が充用されうる。諸商品の保護者が誰でも知っているように、たとえ彼が自分の諸商品の価値価格の形態または表象的な金形態を与えても、彼はまだそれらを金化したのではなく、また、幾百万という諸商品価値を金で評価するためにも、彼は現実の金の一片も要しない。だから、価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ表象的または観念的な貨幣として役立つのである。」(マルクス『資本論』)(強調は原文)

 紙幣の上に印刷されている金額は、金の一定分量表象するところからみちびかれたものであり、紙幣それ自体として価値を持ってはいないが価値章票(Wertzeichen)として流通している。

(3) 表象論が欠けていると、アダ名をつけるという事実の認識論的な説明ができない。

(4) 一部のマルクス主義者は、経済学を物質的な生活関係の理論的な把握であると考え、精神的な生活過程あるいは上部構造からまったく切りはなして展開されているかのように思いこんでいるらしい。これは大きな誤解である。商品は精神的な生活過程あるいは上部構造とのむすびつきなしには、価格を持つことも交換されることもできないのであって、物質的な生活関係を理論的にとりあげて叙述する場合にもそれらに触れずにはすまないことを知るべきである。

物が表象的な形態そこに存在(定在)しているということ(=定有)の意味は、その物を見る人間にある特定のイメージ(表象)を喚起させるものとしてその物がそこに存在しているということである。そしてそのイメージは単に特定のイメージであるばかりでなくそこに一定の一般的なもの・概念的なものを伴っているということも含意している。藤田まことの顔はそれを見る観客に馬という特定の種類の動物をイメージさせるという意味で表象的な存在なのである。あだ名はその人物のあり方がある特定の種類のもののイメージを喚起させるからこそその人物につけられるのである。

生産物は物としては生産者個人が私的特殊的な労働(肉体的・精神的労働)を注いで創り出した――肉体的・精神的労働を外化した――ものである。その意味で生産物はそのもの固有の使用価値(有用性)をもっている。しかし流通過程に入り込んだ商品としての生産物は価格を付けられることによって表象的な存在になるのである。売手は価格の背後にまだ実現されていない貨幣のイメージ(表象)を思い浮べるのであるが、その貨幣の表象の内にはその商品の生産において投入された一般的抽象的労働と等価量の金、交換価値としての金が観念されている。しかしこの貨幣・金の表象はいまだ果たされていない――表象としてしか存在していない――観念的な存在なのである。

同上 p.56 

 表象のありかたとその果している役割は、以上にとどまらないのであるが、このような重要な認識の形態が従来の認識論においては軽視され、あるいは無視されている理由はどこに求められるか? まず第一に、表象それ自体が矛盾した不明瞭な存在だというところにある。感性的認識か理性的認識か、あれかこれかと割り切ってしまう形而上学的な考えかたをすると、表象はいわば中間的な存在であるから、どちらにも入らない中途半端なものは切りすてようということになりかねない。第二は、個々の単純な表象を断片的に扱ったところにある。断片的に他から切りはなしてとりあげるかぎり、感覚にくらべて感性的なものを相当多く失ったその意味で抽象的な認識であるというにとどまってしまう。表象として複雑な発展したありかたを、認識のダイナミックな過程に位置づけてとりあげなければ、その有用性をとらえることができない。第三は、実践との関係で理解しようとしなかったところにある。科学の応用という実践の過程を具体的に検討してみるだけでも、表象の果す役割の重要性はほぼ納得できるのであるが、哲学者もそして心理学者も、認識の発展の中に構造的に実践をふくめてとりあげる姿勢を欠いていたのであった。

 不明瞭な存在を研究することの意義は、すぐれた思想家によってすでに指摘されたところである。エンゲルスはフーリエの著書『産業的社会的新世界』についてのメモで、つぎのことばに注目し抜き書きしている。

 「現代の学者たちが自然の研究においていたるところで失敗しているゆえんのものは、例外もしくは過渡の理論、不明瞭なものに関する理論を無視していることによる(不明瞭なものの概念、木瓜(ぼけ)、油桃(あぶらもも=ネクタリン)、鰻、蝙蝠(こうもり)等々)(5)

(5) このメモは一九二五年のリヤザノフ版『自然弁証法』に収録されていたのであるが、一九四一年M・E・L研究所以降は削除され、『反デューリング論』のための準備労作のほうへほうりこまれている。

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『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「七 予想の段階的発展――庄司の三段階連関理論」。

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〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.57~ 

 日本では、昔から「文盲」とか「あきめくら」とかいうことばを使って来たが、このことばの内容に深い注意を払った者はいないようである。われわれが日常生活の中で何げなく使っていることばの中に、「有難迷惑」とか「痛しかゆし」とか、二つの対立する意味を持つ語をむすびつけて合成した単語、すなわち客観的な矛盾を反映・表現した単語が存在する事実は、認識論的に見て興味ある問題だといわなければならない。「あきめくら」もこの種のことばである。これは、暗黙のうちに人間が二種類の目を持つことを認めたものであり、その一つの目は「あき」ながらも他の目は「めくら」だというとらえかたから、このことばが生れて来たわけである。

 紙の上に書かれた言語表現を、目で見ることはできるのだが、意味をとらえることのできない人びとが「文盲」である。時枝の用語を使うなら、観察的立場での目は「あき」ながらも主体的立場での目は「めくら」だという場合が「あきめくら」なのである。私のいいかたをすれば、現実的な自己の目は見えるが、観念的な自己の目は盲目なのである。この、観念的な自己分裂を二重の目としてとらえることは、日本ばかりでなく外国でも行われている。クリスティの探偵小説に登場するエルキュール・ポアロは、「頭の中の目は実際の目よりよく見えますよ」と語っているが、現実的な自己の視野の限界が観念的な自己によって突破されること、および観念的な自己がその「目」によって空間的・時間的にいかに遠く広く現実の世界をとらえていくかを、端的に表現したものといってよい。科学者も探偵も謎を解くという点では共通している。その対象は直接見ることのできない原子核の内部やガン細胞の内部であったり、すでに物的証拠の抹殺された殺人事件であったりして、その空間的時間的制約をのりこえて真理をとらえるだけの鋭い「頭の中の目」を持つことが欠くことのできぬ条件になる。

 子どもの教育は、子どもたちの「頭の中の目」の視力を高めることである。小学校の教師が、理科教育であるいは文学教育で努力しているのも、自然の法則を見ぬいたり作者の世界を作者とともにながめたりする「頭の中の目」を育てることである。いま小学校の教師の中に、科学教育をこの「頭の中の目」で見る能力を身につけさせる過程として、ダイナミックにとらえながら、さらにその中における表象の役割を正しく位置づけようとする動きがあらわれていることは、教育学の建設という観点からも注目すべきものといわなければならない。

 「科学は、事物・現象の中にひそむコトワリ、すなわち法則性の現存を知るとともに、そこから法則をみちびきだし認識するという仕事をになっている。

 法則そのものは目に見えるものではない。私たちの頭脳活動によって認識するものであるから、『頭の中の目でみる』といいかえたほうがよいかもしれない。

 私たちに直接見える=ふれるのは、ある形や動きをもったものであり、感覚器官によってとらえられるものである。

 今、かりに、前者を『裏』の世界、後者を『表』の世界といっておくことにしよう。むろん両者は密接にかかわりをもってはいるが、質的にちがった世界のものである。

 このことは、ある種の言語の世界においてもいいうる。『サルモ木カラオチル』というコトワザにおいて、“サルが木からおちるなんてあるのかな。サルスベリの木ならつるつるしているからおっこちるかも知れないな” などといっている段階の子どもは、このコトワザの表の世界のみを見ているのであり、コトワザなるものをとらまえていない証拠といってもいい。それを “その道ですぐれている人でも時には失敗することもある” というぐあいに受けとめている子どもは、裏の世界(→法則性・法則の世界→意味の世界)をつかんでいる子どもであり、同時に表の世界をも理解している証左とみられよう。ここに到着することなしに、ほんとうのコトワザの行使・駆使はありえない。

 このように、裏の世界を把握しうる能力というものは、このような過程をへて形成されてくるものである、ここにコトワザのもつ論理=表象論をより深く解明するひとつの手がかり、ないしはカギがあるといってよいようである。

 そのことはまた、『法則の認識』という科学の仕事に関係する大きな問題を内包しているといってもよいようである。」(庄司和晃『「コトワザ」以前の段階=「ナゾナゾ」の持つ論理・第一段階の構造』(1))

 この子どもの「頭の中の目」は、子どもが自覚すると否とにかかわらず、現実ととりくんで能動的に現実をとらえようとするところに育っていくのであるから、その過程での両親はじめ家族の役割をも検討してみなければならない。

(1) 以下とりあげる庄司の諸論文は、著者が自らプリントして少数の人びとに配ったものである。著者は成城学園初等学校の教諭で、仮説実験授業研究会の中心メンバーの一人として科学教育研究活動をすすめている。

「あきめくら」を「文盲」と同じ意味の語として用いている三浦の表現に違和感を覚えるのは世代の差であろうか、あるいは育った環境の違いなのであろうか。私は「文盲」の意味で「あきめくら」という語を使うことがまったくない。「すぐそこに目当てのものがあるにもかかわらずそのことに気づかない」という状態を私は「あきめくら」という語で表現する。目を開けているにもかかわらずものが見えていないからである。このあたりも表現された言語の意味を理解するには主体的立場において行わなければならないという時枝の指摘の正しさを示している*。

* 「あきめくら」や「文盲」という表現を「差別語」だとして排除するのが近頃の一般的風潮である。しかし、時枝がいうように表現の意味を正しく読み取るには主体的立場においてすなわち表現者の表現過程を観念的に追体験することによってこれを行なわなければならない。つまり表現された語の意味は個別の表現そのものに即して理解すべきであって、差別表現**か否かはそこに表現者自身の差別感情が含まれているか否かで判断すべきものである。差別感情を込めた表現は批判すべきであるがそうでない表現にまでめくじらを立てるのは愚かなことであると私は思う(最初から侮蔑の意義を含んでいる「チャンコロ」や「チョン」、"Jap"は 侮蔑語である)。

私は中国のことを「支那」とは呼ばないがそれは「支那」という語を用いている人たちのうちの多くが差別や侮蔑の感情を込めて敢えてこの語を用いているからである(「支那」それ自体にはもともと差別・侮蔑の意味合いは含まれていない。高齢者の中には差別や侮蔑の感情を込めずに使っている人もいるがこのような場合は侮蔑表現とはいえない)。また一般に使われている「東シナ海(東支那海)」とか「シナチク(支那竹)」ということばにも侮蔑の意味合いは含まれていないし、これらを使っている人々の大多数は「太平洋」とか「チャーシュー」といったことばと同類のものという認識でこれらのことばを使っているのであってそこには侮蔑感情は存在していない(中には侮蔑の意味を込めて意図的に「支那竹」を使う人もいるかもしれないがそれは少数派である)。「東シナ海」には代替語がない。その必要がないからである。このこと自体「シナ」が侮蔑語ではない証拠である。したがって侮蔑感情を込めて意図的に「支那」という語を使う人たちが自己の侮蔑感情を隠蔽し自己の表現を正当化するために「東シナ海」や「シナチク」の例を持ち出してくるのは論理的に間違っている。

最近は「シナチク」といっても通じないことが多い。私自身も知らず知らずのうちに「メンマ」ということばを使っている。私が子どもの頃は「支那そば」という語が日常語であったが最近は「ラーメン」「中華そば」ということばにとって代わられた。しかし私は「支那そば」という語に「ラーメン」にはない懐かしい香りやスープの味、ちぢれ麺の触感を覚える。私にとって「支那そば」は子どもの頃に鳥ガラを煮出して作ってくれた母の支那そばなのである。

言語規範は規範一般と同様に規範意識における対象認識であるから社会的な意味でも個人的な意味でも歴史性・イデオロギー性をもっている。しかし言語規範の持つイデオロギー性と個々の言語表現の持つイデオロギー性とは区別して考えなければならない。

〔2011.03.01追記〕** 何の規定もなしに "差別語" と表記していた部分を青字の "差別表現" あるいは "侮蔑表現"・"侮蔑語" に改めた。

閑話休題。表現された文字言語の内容を理解するには語の文字列の形を見るだけではなく、文字列を一定の種類の形象(字韻)としてとらえ、頭の中にある言語規範**に照らしてその意義(語の概念)をそれに結びつける必要があり、さらにその概念から過去の経験によって記憶された表象を喚起しそれ相応の個別概念として思い描くという段階を踏まなければならない。つまり文字言語を理解するためには肉体的な目だけでなく観念的な自己の目(「頭の中の目」)が必要なのである。文字言語を理解できない人(文盲)という意味で使われる「あきめくら」という語は、肉体的な目で文字の形は見えるけれども言語規範の獲得ができていないために観念的追体験ができず――「頭の中の目」で見ることができず、それゆえ言語の意味を理解することができないという状態を端的に表している。

庄司は言語表現の一つであることわざを取り上げて、ことわざは「頭の中の目」で見るものだと喝破している。いわれてみれば簡単であるが私たちはことわざの意味する「裏」の世界つまり一般的なことがらのもつ法則性をとらえそこから教訓を学びとっているのである。「表」の世界自体は何の変哲もないよくある現象であり、ちょっと注意を払うにしてもふつうはそのまま見過ごしてしまうようなことがらである。しかしごく日常的な現象の裏に現象一般に通じる真理が隠れていることをことわざは教えてくれる(庄司の「裏」という比喩は秀逸である)。ことわざは象徴(表象)を用いた一種の比喩であるが、比喩とよばれる表現はこのような表・裏の世界という論理構造をもっている。言語表現自体が個別概念(特殊/普遍)という二重性を隠しもっているのだが、ことわざや比喩は個別概念の特殊・個別の側面それ自体の「裏」にもう一度普遍・一般を読み取らせるという二重の二重性をもっている。「頭の中の目」で見る訓練のできていない子どもがことわざの「表」の世界しかとらえられず「裏」の世界に思い至らないのも無理からぬことである。ことわざの存在は人間の認識(表象)が個別の事柄を特殊と普遍(一般)という構造においてつねに二重にとらえている――概念的にとらえている――ことの一つの例である。ことわざの目は科学の目に至る一つ前の段階なのである。

** 私自身の頭の中を観察する限り文字言語の受容過程では文字言語の規範だけでなく音声言語の規範もそこに関与している。これは文字言語の習得過程において音読・黙読という音声言語が関与する訓練過程が重要な位置を占めていることから文字言語の規範は字韻から音韻(音声言語の規範)への橋渡しをしていると考えられるからである。ただし、文字列の形象(字韻)に直ちに語の概念が結びつくことも多い。象形文字である漢字では個々の文字の字韻と字の概念が直接結びついているので日本語でも漢字語においてその傾向が大きいと思われる。読めないけれど意味(意義)は分かるということは若い頃に私もよく経験した。また、それとは逆に音声言語を聞いて文字形象(字韻)が頭に浮かぶこともある(同音異義語の場合は特にそうである)。そう考えると音声言語の規範と文字言語の規範とは相互に浸透し合って結びついておりそれが一つの言語規範として統一されているというのが本当のところかも知れない。

同上 p.60~ 

 注意・発見という感覚的な能動性は、自然成長的に身につくだけでなく、周囲の人びとによっても育てられていく。親が子どもに「イナイイナイ……バァ」といって、顔をかくしたりまた顔を出したりする遊びをして見せる。家族が自分の前にすわると、テレビの映像がかくれてしまうが、身体を横にどけるとまた見えてくる。立って部屋から出ていくと、姿が消えてしまうが、声を出してよぶとまた姿があらわれてくる。箱を持って来てオモチャや道具を入れ、上からふたをすると、入れたものはみんな見えなくなってしまうが、ふたをとるとまた見えてくる。このような経験は、目で見えないところに存在するものがあるのだということを、くりかえしくりかえし教えているわけであって、そこに見えないところに存在するものを予想し、目に見えているありかたとむすびつけて現実の世界をヨリひろくとらえていく活動が、すすんでいくことになる。家族が部屋から姿を消したりあらわしたりするのは、この部屋のむこうにさらに部屋があってそこへ行ったり来たりしているからだと経験に教われば、道をあるいている人が急に姿を消したり突然自動車が姿をあらわしたりしたときにも、そこにさらに道があり横丁があるのではないかと予想するようになる。これはまた、家族が死んで現実の世界から姿を消したときに「パパは遠いところへいらっしゃったのよ」と目に見えないところでやはり元気に生活しているかのような説明が、子どもに対して説得力を持つことにもなるのである。

 この子どもの予想活動は、「このむこうを向いている人は誰か?」「この箱の中には何があるか?」「道のあの家の横から自動車があらわれたがあそこはどうなっているのか?」と、自分に問いかけて自分で答えるというかたちにもなっていく。他の人間との間で行う当てっこという遊びは、この自問自答の成長の上に成立するのである。

 予想とよばれる認識は、どんなに素朴幼稚であろうとも、「頭の中の目」が開きはじめたことを意味するのであり、まだよく見えぬ目を見はって能動的な冒険旅行へふみ出したのであるから、それはそれなりに位置づけ評価する必要がある。障子・猫縁側の障子からシッポがあらわれているのを見て、そのかげに猫がいることを予想するのは、現実の目と「頭の中の目」とで一匹の猫を半分づつ見ていることになるけれども、これはすでに見えない世界へ一歩ふみ出したものである。このような、経験を重ね十分信用できる手がかりを与えられている場合の予想は、ほとんど正しいことがわかるし、予想に自信を与えることになる。しかし手がかりがほとんど与えられていないときには、いわばあてずっぽの予想をしなければならないから、認識活動としては大冒険である。箱の中に何か入っていて振るとカタカタと音がするとか、お客が何かふろしきに包んで持って来たとかいう場合、経験をふりかえりそのものの大きさを考えてその大冒険をあえてやってのけている(2)。たとえ予想が失敗しても、別に損害をこうむるわけではないからである。お客の持って来たのはケーキだろうと予想して、お客が帰ればお母さんがくれると期待していたところ、予想に反して持って来たのは石鹸だとわかっても、ぬかよろこびしたとガッカリするだけのことで現実に損したわけではない。そしてこの予想の失敗は、つぎのときの予想を成功させることになる。去年の年末にあのお客が持って来たお歳暮は石鹸だったから、今年もおそらくそんなものだろうという、前よりも確実性のある予想が立てられるからである。「頭の中の目」の視力は、前の失敗を通じて一層高まったということになる。

庄司は自ら試みている仮説実験授業の経験を論理的に反省しながら、手がかりも根拠もほとんどないようなもっとも素朴な予想、言語で表現するならば

 「タブンコウデアロウ」

 「オソラクコウナルニチガイナイ」

 「コウデハナカロウカ」

 「何トナクコウナルヨウナキガスル」

 「キットコウナルカモ知レナイ」

などの直観的な予想を、予想の「第一段階」と見て、つぎのように位置づけ評価した。

 「ここには、アテズッポ的要素のもの、いわゆるカケ的なものも含むことになる。また、はっきりとした予想という形で表明することはできないが、『そこ』にはきっと何かがあるにちがいない、という予想以前の予想にくらいするのもここにはいることになる。いずれにしても、一歩でてみる、あるいは数歩でてみるという論理のあることだけはたしかである。この論理は、この段階のものとしてぜひとも認めなければならないし、ここにちゃんとした正当な地位を与えておく必要がある。いくら思考の発達の教育とか科学的な思考の教育だからといって、かならずリクツがなければならないというクソ合理主義は捨てなければならない。現実のつきつけてくる問題の解決にあたってはいくらでもこういうばあいがあるからである。それに理路整然としたものが常に勝つ、常に真実であるという保障はどこにもない。リクツを通してもダメだ、失敗した、というばあいだっていくらもある。科学的な認識のキメテは、実験=実践にのみ存するのである。だから、リクツなしの『何トナク』も一段階のものとして当然認めなければならない。このような意味において、リクツがたたなくても、ちっともおびえることはいらないし、『カモ知レナイ』という自分の気持や『コウカナ』という自身の直観を尊重するようにとり運ぶ必要があるわけである。」(庄司和晃『仮説実験授業の論理的構造』)(強調は原文)

(2) われわれはこれを大人の立場から、現実的な自己のありかたと比較して考えがちである。子どものあてずっぽの予想も、現実の世界に問いかけるという点で大冒険であることを無視すると、子どもの自主性を育てるとか主体性を持たせるとかいう問題も正しい解答を見出すことができなくなる。この大冒険をそれなりに評価し尊重すべきであって、いじけさせてはならない。

観念的自己分裂の能力つまり想像力は生得的な能力ではなく他者との交通を通じて経験的に獲得する社会的な能力である。つまりこの能力は学習によって習得されるものであるから親や教師はそのことに留意して子どもの教育にあたる必要がある。したがって庄司や三浦が指摘しているように予想という科学的(論理的)精神活動も子どもの認識の個々の発展段階のそれぞれについてその意味を探り適切に評価し、教育の場において正当な位置づけを与える必要がある。

庄司のいう予想の「第一段階」はいわば認識の「具体的・感覚的段階」に当たる。この段階の直観は記憶に蓄積された認識からのフィードバックがほとんどない状態であるから「あてずっぽ」や「賭け」的なものにとどまらざるを得ない。経験の少ない子どもはこの段階を踏んではじめてつぎの段階の認識段階があることを身をもって知るわけである。

同上 p.63~ 

 子どもにとっては、あそびが生活の大きな部分を占めている。あそぶことが訓練になり教育になるという、実用的な一面をも持っている。子どもたちの当てっこも、その発展を認識論的に検討してみる必要がある。予想の第一段階に相当するものとしては、「何が入っているか当ててみな」のあてずっぽの答えを要求するものや、「左の手ににぎっているか右の手ににぎっているか当ててみな」の賭けを要求するものがひろく行われている。これらからいま一歩すすむと、しっぽを見せてそこから隠れている動物を当てさせるときのような、感性的なありかたの一部を手がかりないしヒントとして与えておいて、そこから何が隠れているかを当てさせる謎々が生れてくる。その手がかりないしヒントは、そのものズバリからすすんで象徴的なものになっていく。

 「段々畑に穴一つ、なんだ?」(ゆたんぽ)

 「暗い中で光り、涙を流しながら小さくなるもの、なんだ?」(蝋燭(ろうそく)

 さらにすすむと、なぞの解き手の精神的な冒険旅行をあやまった道にさそいこむための、方向をあやまらせる手がかりを特に加えた謎々もつくられる。

 「ナポレオンはなぜ赤いズボン吊りをしていたか?」(ズボンが落ちるから)

 「小学校の五年生電車道を横切るとき、まず左を見てそれから右を見た、なぜか?」(一ぺんに左と右は見られないから)

 この種の謎々は、手がかりらしく見えることばにひっかかって、あやまった理由を考えていくように工夫されている。この与えられた問題に対して理由を考えて、その合理性をたぐりながら予想を立てていく認識活動は、さきの「第一段階」からすすんだものとして、「第二段階」から「第三段階」に位置づけることができる。庄司のいう「第二段階」は

 「コウイウコトガアルカラ、コウナルダロウ」

 「カツテコウイウコトガアッタカラ、コンドモコウナルハズ」

 「コノヨウニナルカモ知レナイ、ナゼナラバ、コウイウワケダカラ」

 などのように、理由を考えて予想をすすめていく段階である。

 「この理由の出どこにも、つぎのように五つの種類のものが考えられる。

 (1) 過去における類似の直接的な経験

 (2) 以前に学習した事項

  ア 前の実験がこうだったからというもの

  イ 前の実験の意味がこうだったからというもの

 (3) 思考実験

 (4) 読書・映画・テレビ・耳学問などの間接的な経験

 (5) とんでもないばかげたような考えによるもの

 この中で、(1)や(2)のアや(5)などは第一段階に近いものであり、(2)のイや(3)や(4)のものはつぎの第三段階により近よっているということができる。そういう点で、この段階はヌエ的であり、アイノコ的であり、人魚的である。かような性格をおびた段階なのだ。」(同上)

 この段階は合理性をたぐりながら認識がすすんでいくという点で、理論的な認識へ近づいている。庄司のことばをかりれば、亜理論的である。

 大人たちの楽しむこの段階でのゲームとしては多くの探偵小説が書かれているし、その中で作者としては読者が容易に真犯人を見破れないように、あやまった道にさそいこむためのいろいろな落しあなを設けておくのがつねである。けれども、読者が十分に注意して読んでいくときには真犯人が何者であるかを発見できるような、事件の真相を見ぬくための手がかりも何げなく与えている作品でなければ、謎解きゲームとしてよくできているものとはいいえない。手がかりを与えてなく、直観やあてずっぽでしか真犯人を予想できない作品では、アンフェアだといわれることになる。犯罪の謎を解決するための法則は、別に体系的なものとして存在しているわけではなく、「それによって誰が利益をうるか」とか「犯罪の影に女あり、女をさがせ」とか、いくつかの原理みたいなものがつくられている状態であるから、これも亜理論的だといってさしつかえない。

 最後の「第三段階」は

「コウイウ一般的ナリクツガナリタチソウダ、ダカラコウナルデアロウ」

「カナラズヤコウナルニチガイナイ、ダッテ、ホボコウイウコトガドレニモイイウルトイッテヨサソウダカラ」

などのように、理論的な予想をすすめる段階である。

 「第三の段階は、ある一般的理論をもってことを決しようとする段階である。いわゆる仮説的段階である。かなり広範囲にわたる理論をたしかめんとする高次の段階であるといってもよい。」(同上)

 人間の認識はすでに子どものときからその生活条件に規定されて不均衡である。山の中に育った子どもは海を見たことがなく、兄弟を持っていない子どもは兄弟の協力や対立についての経験を欠いている。そして能動的な冒険旅行にしても一定の方向づけを持つものであるから、ここにも不均衡が生れてくる。ある分野で獲得した能力は他の分野にも役立ちはするものの、さまざまな分野のさまざまな問題を扱うときそれらの発展段階はそれぞれ相対的に独立していて、不均衡が存在する。大人のわれわれにしても、ある問題については「第三段階」に達してつねに理論的に正しく予想できるが、ちがった分野のある問題については「第一段階」であてずっぽの予想しかできないとい状態にある。人間に対して名医であることと犬や猫に対して名医であることは別であり、これらの名医もテレビの故障の診断ではあてずっぽしかいえぬ場合もありうるわけである(3)。学校で行う科学教育にあっても、ある問題については小学生のうちに「第三段階」まで行けるが、他の問題については高校生になってようやく「第三段階」へ行けるというような、ちがいを考慮しなければならない。庄司の提出したこの三段階連関理論(4)は、教育を分類的・平面的にとらえやすい傾向を克服して発展的・立体的にとらえるためにも有効である。

(3) すぐれた科学者が、異性との問題ではまったく子どもみたいな幼稚な失敗をしたとしても、特別におどろくほどのこともない話である。現在の専門家は一種の精神的不具者だからである。

(4) 「この理論をマクロ的に単純化し」て図(実際は真ん中の囲みが両端のものより小さく書かれている――引用者注)のような三段階連関図式がつくられた。Cは「第一段階」「素朴的な段階」Bは「第二段階」「過渡的な段階」Aは「第三段階」「本格的な段階」である。三つを関連づけてあるのは、「否定保存のかたちで連関しあっていることを示すものである」またBを「小さな囲みにしてあるのは発展論において重要な意味と役割をしめる段階だからである。それは、一面からいえば結節点になるところであり、素朴的な段階から本格的な段階への転位移行を可能ならしめるカギをにぎる段階である」したがってBの段階が、フーリエ=エンゲルスのいうように、きわめて重要視され、「三段階連関理論の中核」と規定されて、「この理論は、発展の過渡的段階を明らかにする理論であると、極言してもよい」といわれている。(庄司和晃『三段階連関理論ならびに「続」転位移行論おぼえがき』による)

 ┏━┓ ┏━┓ ┏━┓

 ┃C┃―┃B┃―┃A┃

 ┗━┛ ┗━┛ ┗━┛

「第二段階」はいわば「中間的・表象的・個別概念的段階」であり、現実の事物や現象と結びついた個別的な認識の中に一般的・普遍的な性格や論理を見出す段階である。そして「第三段階」はいわば「抽象的・概念的段階」であり、個別の事物や現象が属するカテゴリーにおける一般的な性格や論理が見出されそれらが抽象され仮説として立てられる段階である。「第二段階」も「第三段階」も「頭の中の目」でものを見ていることに違いはないが、「第二段階」が「ことわざの目」でものを見ている(表象・個別概念を通して法則性を認識している)段階だとすれば、「第三段階」は「科学の目」でものを見ている(概念として法則性を認識している)段階であって、「第三段階」においては個別の事物や現象における特殊的な側面ははぎとられ捨象されており一般的な法則性のみがとりあげられ抽象される。しかしこの抽象においては「第一段階」「第二段階」の経験は捨象されると同時に認識の背後に保存されている――止揚されている――ことを忘れてはならない。

科学的真理の体系の背後には「第一段階」「第二段階」を踏んだ先人たちの数多くの経験が蓄積されている。私たちはそれら数多くの経験を実際に体験することは不可能であるが、言語や映像等の表現を媒介とする観念的な追体験によってこれを行なうことができる。「第三段階」は「第一段階」から直接に到達できるものではなく、ましてや「第一段階」「第二段階」の経験的実践なしに成立するものではない」。経験的実践を踏まえない理論的実践は単なる机上の空論である。

「第三段階」は「第一段階」の後に必ず「第二段階」を経て獲得されるものである。認識の発展における表象的実践の役割とその重要性は前稿の「表象の位置づけと役割」において三浦が指摘している通りであるが、子どもの教育においては子どもの「頭の中の目」の視力を高め「科学的な目」を養成する過程で表象的実践つまり庄司のいう「第二段階」が果たす役割がことに大きいのである。

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記事内の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュール「言語学」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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