〔2004.03.09記/2008.01.24転載〕
〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。転載にあたって多少の体裁変更を行ないました。知見としては古いものもありますが大筋は変わっていないと思います。
5. 知覚表象と表象/表象と概念
脳の精神作用――意識
脳の生理的な機能である知覚・認知・認識・記憶・思考・判断・意志・欲求・感情・創造・人格などは相互に関連し合い影響し合って働いている。心理学ではこれらの生理的機能を知覚・理性・悟性・知性・感性といった各精神作用に分類し、哲学ではこのうち知覚 (perception) を除いたものを思惟(しい)――思考 (thinking) ――とよんでいる。なお、知覚は心的な像として現れるので知覚表象ともよばれる。また、一般にすべての精神作用およびその精神作用が行なわれる場のことを意識 (consciousness) とよぶ。
知覚表象と表象/認知と認識
本を読んでいるときには映像が脳裏に浮かんだり、音像が脳内できこえたりする。これらの映像や音像などは記憶された知覚表象が再現されたものである――知覚表象については「認識についての覚書(3)――知覚と知覚表象」を参照。哲学・心理学ではかつては知覚表象や記憶表象、想像表象、幻想、妄想、さらには知覚に続いて起こる残像、夢に現われる像など、脳裏に浮かぶ心的な像(心像 image )をすべて表象 (representation) とよんでいた。しかしさまざまな心像のうち知覚表象以外は、記憶された知覚表象がなんらかの形で意識内に再現されたものであり知覚表象とは性格が異なる――知覚表象は感覚表象とも呼ばれるように、現前している現実の対象の像(反映)であるがそれ以外の心像は経験された現実の対象の再現前(再生)である。したがって今日では単に表象という場合には知覚表象を除外して、再現された心像(意識内に再現前している心像)だけをいうのがふつうである。そして心理学では知覚表象が再現されたものはすべて表象と認めるから、視覚表象(映像表象)・聴覚表象(音声表象・音像表象)に加えて、味覚表象や嗅覚表象・痛覚表象・運動表象…やこれらの連合した連合表象も表象とよばれる。
意識内に心像が現れているとき、そこには意識の客体(対象 object)とそれを見聞きしている意識の主体 (subject) とが存在している。この場合、目の前に現前しているものごとを意識の主体が意識の客体(知覚表象)として概念的にとらえることを「認知する (recognize)」といい、意識内に再現前しているものごとを意識の主体が意識の客体(表象)として概念的にとらえることを「認識する (cognize)」という。そして意識の主体によって認知された内容を対象認知といい、意識の主体によって認識された内容を対象認識という。
厳密にいえば対象認知(知覚表象として概念的にとらえた内容)と対象認識(表象として概念的にとらえた内容)とは区別されるが、日常用語では意識の客体はすべて「認識」とよばれている。したがってふつうは「認知する」と「認識する」とを合わせて「認識する」という。さらに、意識主体が意識の客体を明確に認知・認識している (be aware) ことを「意識する」と表現することもある――「意識に上っている」という意味の「意識する (be conscious)」よりも狭い意味で使われている。
このように、日本語では「認識」という語はかなり幅広い意味の言葉として使われている。つまり「認識」は「意識 (consciousness)」と意味が重なり合っており、「認知 (recognition)」と「認識 (cognition)」もまた混用されている――例:認知科学 (Cognitive Science)・認知心理学 (Cognitive Psychology)・認知言語学 (Cognitive Linguistics)。
表象と概念/概念と観念
上で「表象は知覚表象が再現されたもの」と書いたが、実際によく観察してみると表象 (representation) は知覚表象の単なる再現ではない。表象は精神活動にともなって現れる。逆にいえば精神活動は表象の媒介なしには不可能なのである。それゆえ表象は知覚表象の単なる再現ではなく、知覚表象の中から精神活動に必要な情報だけが選択的に抽出されて形成されるものである。したがって一口に表象といってもその抽象化レベルはさまざまであり知覚表象に近い明瞭なものからかなり不分明なかすかなものまで多種多様である。しかも表象は表象そのものとして単独に現れることはほとんどない。ある程度の年齢になりさまざまな経験を経た人の場合、脳内に生じている表象は幼少のころから積み重ねられた知覚体験と精神活動を通じて多くの同種の表象の中から抽象された非感性的なもの、すなわち概念 (concept) をともなっている。つまり表象はほとんどつねに非感性的な内容をともなっているという特徴をもっている。ふつうはこのような表象と概念が結びついている心像も概念とよんでいるが、哲学では純粋な概念と表象と概念が結びついている心像とを区別して、後者を特に観念 (idea) とよぶこともある――一般には観念はすべての心像を表わす語として用いられる。しかし、逆にいえば純粋な概念は非感性的なものであるから、感性的なものつまりなんらかの心像 (image) をともなわなければその存在を認知・認識することができないのである。そういう意味では多くの辞書が表象・概念・観念を同列に並べて扱っているのはそれなりの理由があるわけである。
一般化能力
近年の発達心理学(無藤 隆著『赤ん坊から見た世界』――1994年)によると人の乳児は生後二か月過ぎから大脳皮質が働き始めるとともに、四六時中自分の世話をしてくれる保護者と他の人とを顔で見分けるようになるという。これは学習の始まりであり、繰り返し出会う保護者の顔の特徴をつかみ取る能力が働き始めていることを意味する。そしてこの一種生得的な学習システムの発動が乳児の一般化・抽象化の能力を触発し大脳皮質の発達を促すといわれている。
1歳~1歳半の乳幼児は言語(言語規範)獲得以前に思考の基本であるカテゴリー(ここでは語彙の前形態的なもの)をすでにもっており、もっと後になって獲得される語彙はこの言語以前の思考を基礎として形成されるということが分かってきている。ただし、この時期のカテゴリーは抽象的な概念ではなく知覚表象に関連したイメージ(表象)によって構成されており、一般化能力も類別の段階にとどまっていて分類の段階にはまだ至っていない。
言語(言語規範)獲得以前の乳幼児の思考はおとなが行なう概念をともなった思考とは異なり、前概念的なイメージスキーマ (image schema) によるものだという。イメージスキーマとは現実の空間的な構造が概念の構造として写し取られたものである。つまり、物体の運動の経路とか物と物の上下関係などといった空間的構造の知覚が表象の構造→概念の構造として抽出されたものをいう。このイメージスキーマは、異なる種類のもの同士を共通する概念構造(論理構造)をもったものとして関連づけ、比喩表現を行なうときにおとなも無意識のうちに用いているものである。
幼児は成長にしたがって分類の能力をも獲得し3歳ころまでには表象を用いた上位・下位のカテゴリーを分別できるようになり、言語(言語規範)を獲得するための一般化・抽象化能力つまり概念化能力の準備を始める。こうして認識能力、概念化能力、ならびに聴覚や視覚などの知覚をある観念に対応させる能力の発達を待って幼児は言語(言語規範)を獲得するべくその一歩を踏み出すことになる。
個別概念と普遍概念
私自身の観察(内省)によれば、知覚表象はその直後に引き続く残像的な表象をともなっていることが多い――かなり集中した状態で観察しないとこの表象は確認できないが。独断的にいえばこの知覚表象にともなう残像的(エコー的)な表象が概念(観念)形成に直接関与しているように思われる。対象の知覚表象にともなって形成される概念(観念)はいわば個別的な概念であり、このリンゴ、あのリンゴというような個別性をもったものである。もちろん概念(観念)であるからそれはリンゴ一般を貫く共通性をそのうちに含んでいる。このような個別概念(個別的概念)は観念として記憶の内に貯えられることになる。あらたにリンゴと出会うとこのとき形成されるリンゴの個別概念(観念)は記憶されたリンゴの個別概念(観念)と比較・対照され、そのうちから共通なものが抽象されることによってリンゴというものの概念が形成される。こうして多くのリンゴと出会ううちにリンゴの概念はより一般的・抽象的なものになり、それはリンゴの普遍概念(一般概念・純粋概念)となり、周囲にかつて存在し、現に目の前に存在するリンゴという具体的な存在を完全に概念的に把握することができるようになる。そして通常の知覚においては、まず「このリンゴ」=個別概念(観念)が形成されそれとほとんど同時に「リンゴ」=普遍概念としての認識が成立する。この普遍概念としての認識(リンゴという種類に属するもの)は記憶されていたリンゴの普遍概念の媒介によって成立するのである。
一方、概念(観念)の中には個体(個性)の概念とでもいうべきものもある。たとえば、自宅の近くにある一本の桜の木である。この桜の木を見るたびに私の脳中にはこの桜の木の個別概念が形成されるが、その後に桜の木一般としての「サクラノキ」=普遍概念とともに、いつに変らぬ「この桜の木」という概念が生じているのである。いつに変らぬ「この桜の木」という概念は、何度も何度もこの桜の木と出会うたびに、脳中に生じる個別概念のうちから抽出された、時の変化にもかかわらず変化することのないこの桜の木の個性の概念である。このような概念を個体概念と名づけるなら、これは同一個体のアイデンティティ(同一性)を抽象した概念ということができる。言語学では固有名詞は概念(一般概念)をもたない、つまり固有名詞は「意義」をもたないといわれている。しかし、固有名詞は実は個体概念と結びついているのであって、それなりの「意義」をもっているのではないかと私は思っている。人々はこの個体概念のことをアイデンティティとよんでいるだけではないかと思うのである。さらにいうなら、個体概念は他の概念と同様に一般化・抽象化の過程を経て形成されるものであるから概念としての資格をりっぱにもっているのである。
◇◇◇ 2004.03.09/2004.03.14訂正/2006.07.19修正 ◇◇◇
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