▼ ソシュール「言語学」とは何か(1)~(9)をまとめて読む。
前稿に引用した『一般言語学講義』(小林英夫訳) の「音的資料へと組織された思想としての言語」の冒頭部については、それに相当する部分が「一般言語学第三回講義」の中にある(後述するように両者は必ずしも内容が一致しない)。また、冒頭部に続く「思想と向かい合っての言語独特の役割は,…」以下については、相当部分が「一般言語学第二回講義」中にある(この両者にも微妙な差異がある――前稿を参照)。
バイイ、セシュエによる『一般言語学講義』の内容がなぜ講義録と異っているのかという疑問は『ソシュール講義録注解』の「あとがき」を読むと氷解する。
…バイイとセシュエは三回にわたるソシュールの「一般言語学講義」の記録を詳細に〈読んだ〉最初の人たちである。読み終わったうえで彼らがとった編纂方針は、あらゆる方針のなかでもっとも大胆なものだった。すなわち、彼らは講義録の鮮明な読後感から出発して、講義全体をあらたな文章で書きおろしたのである。構成上の骨格は第三回講義を参考にしている。けれども、この書物が彼らの読後感から一息で書きおろされていることは、いまとなっては疑う余地がない。
『一般言語学講義』の内容にはバイイとセシュエ(この二人は聴講者ではない)による解釈が付加*されているのである。しかも三回にわたる講義がばらばらにされつぎはぎされている。つまり文脈にも変更が加えられているのである。『一般言語学講義』が一貫性を欠いたまとまりのない書物になっていて、その内容が講義録のものと異なっているのはそういう理由である。ソシュールの講義録が最初に紹介されたのはこの『一般言語学講義』であり、一般にはソシュールの講義をバイイとセシュエがまとめたものとして受けとめられた(小林英夫訳のものは「フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』となっている)。そういった経緯もあって、「ソシュール言語学」像の骨格はこの書物によって形成され、それがいわゆる「ソシュール言語学」として現在も流布している。
なお、『一般言語学講義』によって流布された「言語」の概念やいわゆる「ソシュール言語学」については「ソシュール言語學」祖述(1)が簡潔によくまとまっていて、参考になる(当然ながらそこには内言も「言語」の領域であるという視点はない)。いずれにせよ、ソシュールの「言語langue」を理解するには小林英夫訳の『一般言語学講義』は役に立たない。
「第二回講義」の説明はむずかしく、私もまだ理解できずにいる。しかし、『一般言語学講義』のあの有名な部分(前稿で引用した冒頭部分)に相当する「第三回講義」の部分もまたそれに劣らず理解するのはむずかしい。『一般言語学第三回講義』(相原・秋津訳)からその当該部分の一つ前の段落以降当該部分より少し後の段落まで引用してみよう。
『一般言語学第三回講義』p.273~274
価値(valeur・ヴァラー)の観念(イデ)に到着するため、孤立した語(モ)とは対立的に、私たちは語(モ)の体系からの出発を選びました。別の基盤からの出発も選べたでしょう。
言語(ラング)から作られた抽象である私たちの諸々の観念(イデ)とは、心理学的には何なのでしょう〔か〕。諸観念(イデ)は、おそらく、存在しません。あるいは、無定形と呼ばれる形態でしか。〈哲学者や言語学者によれば〉、言語(ラング)(当然、内的言語(ラング))の介助なしには、おそらく、私たちは二つの観念(イデ)を〈明確に〉区別する方法を持た〈ない〉でしょう。
その結果、私たちの諸観念(イデ)の、それ自体の純粋に概念的な(コンセプチュエル)な集塊、言語(ラング)から拘束されない集塊は、予め何も区別できない不完全なある種の星雲を思わせます。ですから、また、逆も、また真なりで、種々な観念(イデ)は、言語(ラング)に先行する何ものも示しません。次のような a)、b) もないのです。つまり、a) 確固として樹立された、対立する明確な諸観念(イデ)のすべて。b) これらの諸観念(イデ)に対する諸記号(シーニュ)。もちろん、音声記号(ラングィスティックシーニュ)よりも前に思考(パンセ)の中に何かはっきりしたものなどありません。それが原理です。このまったく混沌とした観念(イデ)の王国に直面すれば、他の面で、音の王国が、(観念(イデ)の外でそれ自体として) 極めて明確な観念(イデ)を、〈予め〉提出しているかどうか疑ってみるべきです。
音の中には、予め限定された、極めて明確な単位(ユニテ)さえありません。
言語なるものの(ラングィスティック)出来事が生じるのは、次のような両者の間です。
言語なるものの(ラングィスティック)出来事
この〈言語なるものの(ラングィスティック)〉出来事は、もちろんその語(モ)に付着する意味に伴って、〈初めて〉決定される価値(valeur・ヴァラー)を、いずれにせよ価値(valeur・ヴァラー)に他ならない価値(valeur・ヴァラー)を作り出すでしょう。出来事自体に付け加えるべきこともあります。今、そこに戻りましょう。言語なるものの(ラングィスティック)出来事が生じる二つの領域が無定形なだけでなく、価値(valeur・ヴァラー)を創造する〈(両者の間)〉の婚姻 mariage、〈両者の間の関係の選択〉も、完全に恣意的(アルビトレール)なのです。
そうでなければ、価値(ヴァラー)は、ある絶対的な領分にあることになるでしょう。〈もしも恣意的(アルビトレール)でなければ、この価値(valeur・ヴァラー)の観念(イデ)は制限されるはずで、絶対的な要素があることになるでしょう〉
けれども、この契約は紛れもなく恣意的(アルビトレール)なので、価値(valeur・ヴァラー)は完全に相関的だと言えます。
今、シニフィアンとシニフィエの対比を示す図に戻れば、
この図が存在理由を持つのは確かですが、価値(valeur・ヴァラー)の二次的な産物でしかないのもわかります。シニフィエだけでは何ものでもありません。形をなしていない集塊の中に融解しているのです。シニフィアンも同じです。
しかし、シニフィアン〈と〉シニフィエが関係を結ぶのは、無数の聴覚記号(シーニュ)が、集塊の中で作られた多数の〈裂け目〉と結合して生まれる、一定の価値(valeur・ヴァラー)に従ってなのです。それ自体(アンソワ)で与えられる〈ためには〉、何が必要なのでしょう〈か〉。何よりもまず観念(イデ)が、〈予め〉確定されていなければなりませんが、観念(イデ)とはそういうものではありません。〈何よりもまず、シニフィエが予め確定されたもの(ショーズ)である必要がありますが、シニフィエもまた確定されたものではありません〉。
〈ですから〉、その関係は、対立の中で、〈(体系の中で)〉採り入れられた価値(valeur・ヴァラー)の一つの表現でしかないのです。〈それは、どんな言語(ラング)の秩序でも真実です〉。
ソシュールは、言語(ラング)の介助なしには思考は明確にわけることができないし、「音」にもまた明確な切れ目がないという。そして「シニフィアン〈と〉シニフィエが関係を結ぶのは」、「集塊の中で作られた多数の〈裂け目〉」に「無数の聴覚記号(シーニュ)」が「結合し」た結果として「生まれる、一定の価値(valeur・ヴァラー)に従ってなの」だという。それではこのような「言語なるものの(ラングィスティック)出来事」はいかなる力ないし契機によって起こり、「多数の〈裂け目〉」はどうやって生じるのか。
『一般言語学講義』が「第三回講義」のこの部分の後に「第二回講義」をつぎはぎした理由はそこであろう。「第二回講義」では「思考-音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実」という告白で、その契機を説明している。しかし、それは何の説明にもなっていない。一方では価値によって「シーニュ」が生まれるといい、他方では「シーニュ」相互の関係・対立によって価値が生まれるというのでは納得せよという方が無理である。この後は、「言語なるものの(ラングィスティック)出来事」の結果として生まれた諸単位――連辞――相互の関係によってそれぞれの単位の価値(valeur・ヴァラー)が定まる…というような説明へとつながっていく。つまり「言語」という閉じた領域・閉じた体系の中で、「シーニュ」という連合の形態をとった諸事項相互の関係・対立が思考のうちに裂け目を作り出すことによって諸言語単位(これらも「シーニュ」という形態をとる)が生まれ、諸言語単位相互の関係・対立(連辞)によって諸言語単位の価値が生まれる。そしてそれら諸言語単位の価値から体系における諸事項の意義が再び抽象されて、その結果諸事項相互の関係・対立が生まれ諸事項が体系として再構築される。このような「言語」における円環運動・自己産出運動がソシュールの「言語」なのである。ある意味ではソシュールの「言語」はソシュールの自己意識とその自己運動ともいえる。
先に書いたように思考のうちに内含されている「神秘的な」区分とは、私からみれば質・価値そのものである個別概念(個別的概念)である。しかし、こういった自ら区分をもった個別概念が思考の中に存在していることをソシュールは認めない。それゆえ質・概念・単位・言語的実在がいかにして生まれるかを「言語」そのものの中に求めて連合・連辞関係の入り組んだジャングルの中にソシュールは突き進んでいく。そして「言語」固有の論理によって言語単位が生みだされる過程を論理的にみちびきだそうとするのである。
それは私にとっては迷路のようなものである。どのような契機かは分からないがとにかく連合から単位がそして連辞から価値が生み出されるのである。体系としての連合は最初から与えられている。連辞はそこから生じる。そして連辞から価値が生まれ、体系に変化がもたらされる。しかし、そもそも「無定形と呼ばれる形態でしか」存在しないという「諸観念(イデ)」はいったいどこからやってきたのか。「言語(ラング)から作られた抽象である私たちの諸々の観念(イデ)」と無定形な「諸観念(イデ)」とは同じものなのか。同じだとすれば、「私たちの諸観念(イデ)の、それ自体の純粋に概念的な(コンセプチュエル)な集塊、言語(ラング)から拘束されない集塊」(思考)における諸観念は言語(ラング)から抽象されて生じるのだろうか。そうだとすると内言の領域も制度的な言語(ラング)の領域に呑みこまれてしまうような気がする。しかし、思考一般はそんな閉鎖的なものでないことは確かである。思考は言語(ラング)の外部に対して開かれている。言語(ラング)の外部に対して開かれていない思考など何ものでもない、と私は思う。しかしソシュールにおいては内言の領域も「言語」という閉じた円環の内部にある。したがって、諸観念(イデ)(思考)もまた「言語」内部で自己生成するしかないのである。
〔2006.11.29追記〕
* 解釈が付加されているというよりもむしろ、バイイとセシュエの解釈によって講義録が取捨選択されその解釈のもとで大胆に再構成されているといった方がいいかもしれない。さらにいえば小林英夫訳の『一般言語学講義』(岩波書店)は訳語の選択に留まらない範囲で小林自身の解釈が加わっていると思われる。
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