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2006年06月29日(木)| 意識>観念的自己分裂 |  
二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂

 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂

 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して

 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ

 二つの主観(1)~(3)をまとめて読む。

 関連:自己の二重化(1)~(7)

 関連:対象意識(1)~(5)

観念的自己分裂について語るときに三浦つとむは鏡の例を引く。

ある人が鏡の前に立って鏡に映った自分の姿を見ている場合、この状況を客観的に見ると、鏡という存在は鏡を見る主体(現実の人間)に対してその主体の視覚の対象となる客体(鏡に映った人間の像)をつくりだす媒介をしていることがわかる。つまり、鏡は主体にとってその客体をつくりだす媒介の作用を果たすものであり、〈主客対面の構図〉をつくりだす媒介となるものだということである。

しかしながら、鏡に対面して自分の姿を見ているときの意識の活動(精神活動)を観察・反省してみれば、鏡に映った自分の姿が映像であることを失念し、いつしか映像を現実の自分であるかのように見ているもう一人の自分がいることを発見できるであろう。このとき実は世界は二重化している。生きた人間である現実の自分[現実の主体]が鏡の映像[現実の客体]を見ている〈現実の世界〉に対して、意識内部では鏡の映像(鏡に映った映像[現実的な客体]に媒介されて意識内に形成された自己の像[観念的な客体])を現実の自分として見ているもう一人の観念的な自分(現実の自己から分離した観念的な自己[観念的な主体])がおり、意識内部にはこのような主客の対面構図からなる〈観念的な世界〉(想像の世界)が成立しているのである。

鏡に映った自己の像を媒介にした世界の二重化と、現実の自己からの観念的な自己の分離とは同時に起こることであり、〈鏡に映った自己の像〉と同じように世界の二重化を媒介するものはほかにもたくさんある。これについてはまた後に触れることにするが、三浦つとむはこうした〈世界の二重化〉とそれにともなう〈現実の自己からの観念的な自己の分離〉を「観念的な自己分裂」と呼んでこの意識活動の過程的構造を理論的に明らかにしたのである(私は簡略して「観念的自己分裂」と呼んでいる)

観念的自己分裂という意識活動そのものは人間ならだれしも日常的にしかも絶えず行なっているありふれた活動すなわち〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれる意識活動であるから、これまで多くの哲学者や心理学者・言語学者・文学者等がそれなりの分析を行ない、この精神現象を扱ってきた。しかし、この意識活動をその過程的構造において分析し、その動的なメカニズムを理論的・概念的に明確に説明した最初の人は三浦つとむであった。そして、三浦つとむがこの観念的自己分裂という意識活動について理論的に研究しようと考えるきっかけをつくったのは推理作家エドガー・アラン・ポーの小説『モルグ街の殺人』であったことは特筆しておくべきことかもしれない。これについてはあらためて取りあげるつもりである。

さて、デカルト、カント以来のいわゆる「主観ー客観対立図式」はそこから生じた「主観主義」と「客観主義」、ことに「客観主義」に対する批判の声が近ごろはかまびすしく、「主観ー客観対立図式」の評判もとみに低下している。確かに「主観主義」も「客観主義」も主観と客観のそれぞれの性質を把握した上での論理であるからそれなりに説得力のあるものではあるが、主観と客観を対立し相容れないものとしてとらえる点では両者とも一面的な見方であり、ちょうど裏返した長所と短所を持っているという点では異父兄弟のようなものである。

「主観ー客観対立図式」を観念的自己分裂という観点から再評価すると、それは〈主観ー客観対面図式〉ではあっても単純な対立図式ではないことが分かる。

人間はあらゆるものを対象として意識する存在である。しかも自己を意識の対象として反省(自省)することのできる存在である。自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識、自己を含めあらゆるものを対象として思考する意識とはなんであろうか。それは〈自己意識〉である。しかも人間は自らの自己意識をも意識の対象として意識することができる。自己意識がどのようにして形成され、人間がいかにして観念的自己分裂の能力を獲得したかについては別のところで述べるとして、ここでは観念的自己分裂という意識活動から見た「主観ー客観対面図式」と〈自己意識〉とについて私の私見を述べようと思う。

カントの定立した主観(subject)とはデカルトの「(我)思うゆえに(我)あり」の「(我)」であり、自己を含めあらゆるものを対象として意識する意識すなわち自己意識である。そして客観(object)とは主観が「思う」対象としての客体である。人間の自己意識つまり主観は自己を含めあらゆるものを対象(客体)としてすなわち客観として意識し、思考することができる。この客観は主観としての自己意識以外のあらゆるものつまり主観の対象のことであるから対象認識とも呼ばれる。

カントは人間の意識外部の物質および物質現象を現実的に把握する経験的な主観つまり直観・直覚の主体[感覚的な主体]と、意識外部および内部のあらゆる現象を対象つまり客観として把握する超越論的な主観[理性的な主体]とを峻別し、後者の超越論的な主観すなわちデカルトのいう「絶対不動の基礎」である「肉体から切り離された純粋な精神としての思いつつある我」を「存在するものすべての存在を支える卓越した基体(subjectum)」であると位置づけて、この基体を「真の主観」すなわち形而上学的原理として定立したのである。

このような「二つの主観」という観点はギリシア哲学の哲学的霊魂観にも見られるものであって、特にアリストテレスの説く「感覚・運動と連動する植物的・動物的な霊魂」と「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とはカントの「経験的な主観」と「超越論的な主観」とにぴったり符合するものであろう。

観念的自己分裂という意識活動から見てこの「二つの主観」が何を意味するかはもはや明らかであろう。さきに触れたように観念的自己分裂においては世界は二重化しているのであって、一方では現実的な世界において現前(present)している自己の肉体を含むあらゆるものを客体として知覚・直観し、それらと肉体的・精神的な相互交通を行なっている現実の自己[現実の主体]として、他方ではその現実的な自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界において(観念的に)再現前(represent)している観念的なもの・現象を客体として認識し思考している観念的な自己[観念的な主体]として、これら二つの主観が二つの世界の中に別々にしかも同時に存在しているのである。そしてこれら二つの世界を自在に行き来しているのが人間のありふれた日常の意識活動としての観念的自己分裂であり、この観念的自己分裂を統御しているのは肉体的・精神的な統一体としての現実の自己[現実の主体]である。つまりカントの「経験的な主観」とはこの肉体的・精神的な統一体である現実の自己であり、「超越論的な主観=真の主観」とは現実の自己[現実の主体]から分離し観念的な想像の世界に立場を移行した観念的な自己[観念的な主体]なのである。

そしていわずもがなではあるが、客観にも二つのものがあるということが自ずから明らかになる。一つは現実の自己が直観*・直覚の対象として知覚し認知している現実の・実在の客体から直接にもたらされる客観、すなわち現実の世界に現前(present)しているもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)の知覚表象という形態をとった客観であり、もう一つは意識の内部で現実の自己から分離した観念的な自己が意識・思考の対象として認識し思考しているあらゆる客体、すなわち現実の自己が意識内部につくりあげた観念的な想像の世界に再現前(represent)している表象や観念・概念という形態をとった客観である。

直観という語は一般的にもまた哲学的にもさまざまな意味をもった語として使われている。この文書では知覚・直覚と同義で用いているが、知覚・直覚はすでに獲得され・記憶されたさまざまな形態の認識(知識)からのフィードバックを受けて形成される統合的なもの(自覚的・無自覚的な認知)であるというのが今日の知見であるから、私は直観という語もまた同じ性格をもつものとして用いている。また、熟語としての直観は通常「直観すること」という意義と「直観されたもの・直観された内容」という意義あるいは両方の意義を含んだものであるが、意味の違いは文脈に依存している。これは直観という語に限らず多くの熟語に共通する性格である。この文書ではほとんどが「直観すること」という意味で使われている。

以上のことを整理すると以下のようになる。

(1) 観念的自己分裂は人間が日常的に絶えず自覚的(意識的)・無自覚的(無意識的)に行なっているありふれた意識活動であり、〈想像〉とか〈思考〉・〈移入〉などと呼ばれるものである。

(2) 観念的自己分裂においては、世界は〈現実の世界〉と〈観念の世界〉[想像の世界]とに〈二重化〉しており、それら二つのそれぞれの世界ではともにそれぞれの〈主客が対面〉している。

(3) 現実の世界においては、肉体的・精神的な統一体である現実的な自己[現実的な主体]が、現実の世界に現前(present)しているあらゆるもの(自己の肉体や肉体的活動を含む)をその客体として対面しており、意識内ではそれらの客体から直接にもたらされる統合知覚が直観的な客観[感覚的な客観]として現実的な自己の客体となっている。

(4) 現実の自己によって意識のうちに自覚的・無自覚的につくりだされた観念的な世界においては、現実の自己によって自覚的・無自覚的につくりだされて観念的に再現前(represent)している表象や観念・概念[観念的な客観]が、自覚的・無自覚的に現実の自己から分離した観念的な自己の客体となっている。

西洋哲学に大きな影響を与えたパルメニデスが「論理法則を使って客観的に永遠不変なものをとらえる能力」を理性と呼び、アリストテレスやカントが観念的な主体を「理性的な主観」と呼んだのは、自覚的意識的に現実の自己から分離した観念的な自己であって、無自覚的・無意識的に分離したそれではない。人間は自覚的・意識的に観念的自己分裂を実践することによって対象[客体]に対する認識を深め・広め、現実の自己に復帰する。それによって現実の自己の認識も深まるし広まるのである。むしろ自覚的・意識的な観念的自己分裂の実践なくしては認識の深化は不可能なのである。そして創造力が想像力の別名であるように「理性的な主観」はまた創造的な主観でもある。

それゆえ観念的な自己を「理性的な主観」と一般化して呼ぶのは不適当であろう。観念的な自己にも〈妄想〉や〈勘繰り〉といった非理性的なものもあるからである。そして理性的だからといってそれが客観的なものであるとは限らない。それは方法論の問題であり、ここでの問題とはまた別の問題である。

パルメニデスが感覚を「変化するものだけをとらえる能力」であり主観的なものであるといい、アリストテレス、カント等が現実の自己の主観を感覚的・一時的な不確かな主観であるとして、これを退けたのにも理由がある。彼らは直観・直覚は意識の外部にあって絶えず変転し、個々別々の個性を示す対象[客体]の千変万化な個別性をとらえる能力であると考え、自覚的な観念的な自己は対象の不変的・普遍的な側面を理性的に分析的にとらえる能力であると考えたからであり、このような考え方は一面的ではあるが真理の一部をついているからである。

しかし、物質は絶えず運動し世界は変化し続けているのだから対象が絶えず変転することは普遍的な事実である。また、観念的な世界において観念的な自己の客体となっている表象や観念・概念は、個別的・具体的なさまざまな現実の存在[現実的な客体]から知覚表象として獲得された「感覚的な客観」を材料として不要な具体性が捨象され・抽象された結果形成され、あるいは再構成されたものである。したがって知覚表象がなければ表象や観念・概念を形成することはできず観念的な思考自体が不可能になる。そしてそのような抽象が可能なのは個別的・具体的なさまざまな現実の存在自身が普遍的な性質をも合わせもっているからであり、直観・直覚が現実の対象の個別性・特殊性を知覚表象としてとらえるばかりでなく、観念的な自己の働きによってすでに獲得され記憶されている認識のフィードバックを受けた観念的・概念的な把握・認識をも同時に行なっているからである。このことは日常生活における直観・直覚の内容である知覚表象について少し注意して自省してみれは理解できることである。そしてその折にフィードバックされた認識が不適切な誤ったものであったり先入見であったりした場合には、直観・直覚が誤認したり、錯覚をしたりすることもある。観念的な自己に非自覚的・無意識的な非理性的なものがあるように直観・直覚にも不注意な思いこみや錯覚、空耳のようなものもある。

しかしながら、自覚的な観念的自己分裂の実践を続けているうちにそれが習い性となり、無自覚・無意識に適切な観念的自己分裂をするようになるのも事実であるし、直観・直覚は受動的な場合はほとんどが無自覚・無意識ではあるがたいていは適切な知覚表象を得ていることを考えると無自覚・無意識の主観を一概に否定することはできない。

また、観念的自己分裂を統御しているのが現実の自己であることは重要な点である。しかし、現実の主体の主観と観念的な主体の主観は相互に浸透しあいつくりあって(影響しあい補いあって)いること、それらの客体である現実的な客観と観念的な客観とが相互に連係していることも留意しておく必要があろう。

追記

上記における「自己意識」は「意識主体」というべきであるし、〈自己意識〉は「対象意識」とすべきである。自己意識・対象意識については対象意識(1)~(5)の各記事を参照していただきたい。――〔現実的な主体=認知主体、観念的な主体=認識主体、現実的な客体=対象認知(知覚表象)、観念的な客体=対象認識(表象)と呼ぶ方が適切かもしれない〕

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

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ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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