携帯版 ことば・その周辺 [PC版トップページへ]


パソコンをご利用の方はPC版のページでご覧下さい。

記事の内容

*前へ | 次へ#

ソシュール「言語学」とは何か(8)――まとめ [PC版ページへ]
2006/12/15 18:40

 関連記事:ソシュール「言語学」とは何か(9)――〔補足〕言語と内言、言語の意味

 ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(9)をまとめて読む。

いわゆる「ソシュール言語学」が一般に知られるようになったのは、F. Saussure “Cours de linguistic générale” (Ch. Bally(バイイ), Alb. Sechehaye(セシュエ) 編 1916) によるものだろう。日本における「ソシュール言語学」の流布は小林英夫の訳書に多くを負っていると思われる。なお、小林による “Cours de linguistic générale” の翻訳は三回にわたっている (『言語学原論』岡書院 1928年、『言語学原論 改訳新版』岩波書店 1940年、『一般言語学講義』岩波書店 1972年) 。


〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。また、カッコつきの「受容」は表現ではない内言を自身の意識の中で解釈ないし理解しようとすることを表わしている。

ところで『ソシュール講義録注解』(前田英樹 訳・注) のまえがきによると「一般言語学」はジュネーブ大学におけるソシュールの講義の題目であるが、この名称はソシュールがつけたものではなく大学側によるものだという。また、講義を直接聴講した学生たちの講義録ノートが翻訳され日本でも紹介されはじめたのは最近のことであるから、時枝や三浦のソシュール理解はそのほとんどが小林訳の上記二書ないし三書に拠っている(時枝や三浦に限ったことではないが)。

私もまたそのように考え、『一般言語学講義』によって「ソシュール言語学」というものを理解してきた。しかしその一方で聴講生の講義録ノートの原本(あるいはその写し)に直接あたってソシュール理解をした言語学者や国語学者から時枝や三浦のソシュール批判はソシュールの「言語」についての誤解に基づいているという批判があった。先に私が誤読したように『言語学原論』や『言語学原論 改訳新版』、『一般言語学講義』は「内言」をも「言語」と訳しているし、講義録とつきあわせて見ると langage を「言語」と訳している箇所もある。また、ソシュールは言語活動と言語能力とを厳密に区別していないようにも思われる。このような事情から時枝や三浦が小林の訳した「言語」が「ラング langue」=「記号の体系」であると考えたのは無理のないことであり、三浦が「言語langue」をすべて言語規範であると受け取ったのも当然であったと思われる。そしてその限りで時枝や三浦のソシュール批判はまともなものであり、三浦が「言語langue」を言語規範であると規定したことは正しい。したがって、その点からする三浦のソシュール批判は的を射ている。さらに、いわゆる「ソシュール言語学」を源流とする構造主義に対して行われた三浦の批判もまた正しいと私は思っている。

さて、『ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(7)』で書いてきたように、ソシュールにとって「言語langue」は制度として個人に与えられたものであり、あらゆる個人的な性格を剥ぎ取られた純粋に「社会的」なものとして規定されている。ソシュールのいう社会的制度としての「言語langue」は三浦つとむが規定した言語規範であるが、言語規範は社会的な規範ではあっても社会の成員である個人を離れて存在するものではない。それは個々の人間の個人的な意志に対立する社会的な意志として個人の意識のうちに存在する。つまり言語規範は社会を構成する個々人相互の言語表現・受容の実践を通じて個人の意識のうちに形成されるものである(言語規範を構成する語概念シニフィエや語韻シニフィアンは個人みずからが言語の実践を通じて意識内に形成するよりほかに獲得・形成することができない)。したがって、個人から切り離され個人の外に存在するとされるソシュールの「言語langue」は、言語規範そのものではなく特殊性の側面(現実性)が切り捨てられた仮構の存在である。

さらに、ソシュールの「言語langue」は内言の領域をも含むものであるが、その内言は表現を前提としない純粋に意識内の現象である。つまりソシュールの「内言 langue」は「パロール parole」とは一切関わりをもたない「ラング langue」内部での「表現」「受容」過程に限られている。ソシュールの研究は「言語langue」のうちにひたすら単位を求めることに向かう。そしてソシュールが「言語langue」の制度的側面(言語規範)のうちに見つけたのが「音声映像」と「概念・意義」との「連合 association」であり、「内言」つまり「連辞 syntagme」のうちに見つけた言語単位が「音声映像」と「価値・意味」との「連合」であった。これら二つの単位は異なるものであり、ソシュールはそれらを区別しているが、それらの共通する形態を「シーニュ・記号」(シニフィアン⇔シニフィエの連合)と呼んでいる。つまりソシュールの解釈では両者は「音声映像と概念との連合」という形をとっているという点で共通しているわけである(前者は音韻――概念形態――と普遍概念との結合、後者は音声表象と個別概念との結合であって両者は形態を異にしているということをすでに私は明らかにしている)。

構造言語学では「言語langue」の制度的な側面(つまり言語規範)を「連合関係 rapport associatif, associative relationship」と呼び、内言の側面を「連辞関係 rapport syntagmatique, syntagmatic relation」と呼ぶが、のちに「連合関係」という語は紛らわしいとして「範列関係(範例関係) paradigmatic relation」と呼ばれるようになる。日本ではこれらを単に「パラディグム」「シンタグム/サンタグム」ともいうようである。ただし、構造言語学では「内言」における「連辞関係・シンタグム」は「パロール」あるいは「エクリチュール」における「連辞関係」にまで拡張されている。さらに構造主義においては「範列関係(範例関係)・パラディグム」は制度的なあるいは記号的なあらゆるものにまで、もはや制度や記号とはいえないようなものにまで際限なく拡張されてしまう。しかしながら構造言語学や構造主義のこのような野放図な拡張・逸脱はソシュールの与(あずか)り知らぬところであろう。とはいえ、「言語学」の認識論的探求をまだ見ぬ「記号学」に丸投げしてしまったソシュールにも一半の責があるといえなくもない。「記号学」の惨状は「言語学」のそれに劣らぬありさまである。

〔注〕 paradigme はもともとラテン語で「模範・ 範例・規範」といった意味を持つことば。文法では「語形変化表」を表す。なお英語では「パラダイム(paradigm)」。「パラダイム」という用語はトーマス・クーンが提唱した科学史の概念――ある時代において科学者たちが共有している思考の枠組み――としてよく知られていることばである。

さて、ソシュールは「ラングの場」において思考が分節されることによって「内言・連辞」が生まれ「言語単位」としての「音声映像⇔価値」の連合が成立すると考えた。その際、分節は「制度的なラング」=「連合関係」における「音声映像⇔意義」の「連合」からもたらされる。しかし、「言語単位」の「価値・意味」は「連合」のもつ「意義」そのものではなく、隣接する「言語単位」相互の関係つまり「連辞関係」から生み出されるとする(大雑把にいえば、「連辞関係」=文脈によって意味が生まれると解釈する)わけである。そしてその結果、ソシュールは「内言化された思考」の中に「神秘的な区分が内含されている」ことを見出すのである。

ソシュールにおいては「混沌とした思考」は直接に「制度的な連合」の諸単位へと分節され、諸単位の連なり=「連辞」が生まれる。このように「連合関係」から規定された「意義・概念」をもつ諸単位に分節された思考は、さらに「連辞関係」を介して「価値・意味」をもつ「言語単位」へと直接に分節され「内言・思考言語=連辞的な連合の連なり」が生まれると解釈するわけである。

結局ソシュールは「制度的な連合関係」と「内言・連辞関係」とをともに「言語langue」として扱い、両者を厳密に区別することができなかった。言語規範を機能的にとらえるとコードという無機的な解釈になってしまうのだが、ソシュールは「制度的なラング」をコードであるとする見解を排除する。なぜならソシュールは「言語langue」を直観的なもの・現象ととらえており、コードという無機的な「目録」からは現象としての実在的な「言語単位」を生み出すことができないと考えるからである。つまりソシュールは「連合関係」も「連辞関係」も意識内の実在的な現象であると考えているのである。その点ではソシュールは素朴ながらも認識論的な視点に立っており、単なる機能主義から免れている。しかし、「制度的な連合関係」の実体が言語規範という規範意識であり、この言語規範と「内言・連辞関係」とはまったく別のものであることに気がつかなかったソシュールは、両者を「言語langue」のもとに包括してしまう。それゆえ、個別概念として把握された思考のうち言語規範によって媒介されて形成された内言が思考の一部を構成しているにすぎないという明確な認識に到達することができなかったのである。ソシュールにおいては媒介性という観点がすっぽりと抜けている。

ソシュールの「言語langue」分析は「内言」領域において行われている。そこではソシュールは「内言」を作り出す「表現者」であり、「内言」を分析する「受容者」「観察者」である。ソシュールは観念的自己分裂を介して自己の作り出した「内言」を受容者として追体験しながら(主体的立場)「内言」を観察している(観察的立場)。ソシュール自身は閉じた「内言」領域で純粋に「言語」体験をしているつもりであったろうが、ソシュールの意識内で現象している「連合関係」(言語規範)はソシュールが現実の言語体験・実践を通じて形成したものであり、同じく意識内に現象している「連辞関係」(思考)もまたソシュールが現実の何らかの対象から抽出してきたものである。それゆえ、ソシュールの解釈は現実の対象を切り捨ててしまった形而上学的なものではあるが、意識内の現象として「言語langue」をとらえた限りではソシュールのつかみ取った解釈にもそれなりの妥当性・論理性はあるわけである――ただしそれは逆立ちした論理である。

あえてソシュールの土俵に上って思考を考えるならば、それは現実の対象・現実のものごとから人間が取り出し、知覚あるいは再現表象として把握した個別概念であり、内言とは思考を構成している個別概念群が言語規範に媒介されて形成された「音声表象個別概念」という結合単位の連なりつまり「連辞」である。ソシュールは「連辞関係」が「連合関係」(言語規範)から生み出される原理を何とかして導き出そうとしているが結局論理的な説明に失敗している。なぜなら「連辞関係」は思考の一部であって思考は「連合関係」(言語規範)から生まれるものではなく、上に述べたように現実のものごとの反映としての知覚や想起された再現表象が個別概念として認識されたものだからである。そしてこれらの個別概念の普遍的な側面である普遍概念が言語規範に媒介されて形成されたものがソシュールのいう「言語単位」なのである。したがって内言はあくまでも思考の一部を形成するのであって、思考全体を意味しないのである。とはいえ、「連辞関係」によって定められる「言語単位」が発生の都度その「価値・意味」を形成する――つまり個別的なものである――ととらえたソシュールの直観(神秘的な区分)は正しかったわけである。ソシュールの失敗は、思考から「言語単位」が形成される際に「連合関係」(言語規範)が媒介として働くことに気がつかず、「連合関係」から直接に「連辞関係」つまり「言語単位」が生み出されると考えたところにある。いい換えれば、ソシュールは意識内に先在する思考(個別概念群)を本質的なものとして見ず、これを媒介として扱い、「連合関係」の方を「連辞」に先行しそれを生み出すより本質的な現象であると見誤ったのである。

(関連記事)

ソシュール「言語学」とは何か(1)
ソシュール「言語学」とは何か(2)
ソシュール「言語学」とは何か(3)
ソシュール「言語学」とは何か(4)
ソシュール「言語学」とは何か(5)
ソシュール「言語学」とは何か(6)
ソシュール「言語学」とは何か(7)
ソシュール「言語学」とは何か(9)――〔補足〕言語と内言、言語の意味)
ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」
言語と内言――言語の意味
三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)



*前へ | 次へ#

コメントを見る(0)
コメントを書く
トラックバック(0)
BlogTOP

↑PageTop | ログイン


Powered By FC2 BLOG



アクセスランキング ブログパーツ