二つの主観(2)――二重霊魂説に関して(PC版ページへ)

2006年06月29日22:02  意識>観念的自己分裂

 二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂

 二つの主観(2)――二重霊魂説に関して

 二つの主観(3)――観念的自己分裂の位置づけ

 二つの主観(1)~(3)をまとめて読む。

 関連:自己の二重化(1)~(7)

 関連:対象意識(1)~(5)

〔2006.02.07記〕

三浦つとむ選集3 言語過程説の展開』(勁草書房)の冒頭に載せられた「『言語過程説の展開』から『日本語はどういう言語か』さらに『認識と言語の理論』へ」の中で三浦つとむは次のように書いている。――全文は「三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章」で読めます。

 絵画でも映画でもあるいは言語でも、その表現の場合に、そしてまたそれらを鑑賞や理解するという追体験の場合に、現実の世界から「もう一人の自分」が分裂するという観念的な自己分裂が行われることは、少年のときに経験的にわかっていたけれども、言語学や芸術学の本をいくら見ても、……このことについてはどこにも一言も述べてありませんでした。ところがただ一つ、ポオの『モルグ街の殺人事件』の中に、C. August Dupin が散歩中に不思議な分析的才能を発揮した事実を記したあとに、こう書いてある。I often dwalt meditatively upon the old philosophy of the Bi-Part Soul, and amused with the fancy of a Double Dupin――the creative and the resolvent. 分析活動を行ってその結果を脳中に描くということになると、これは観念的な自己分裂を行っての活動だから、Double Dupin と呼ばれるのも当然であろう。そこで私は、ポオが古代哲学とよんでいるものを自己分裂の理論だろうと予想して、さがしはじめました。恐らくアリストテレスだろうと見当をつけて、シュベグラーの『西洋哲学史』を見たら、思った通りでした。しかしこれでは、観念論的な解釈でもあるし、このままでは使いものになりません。それで私は自分自身で「人間の自己分裂」の理論をこしらえて、『日本語はどういう言語か』で、過去の回想や未来の予想など時の表現における主体の移行をこれで説明しました。

青空文庫の『モルグ街の殺人事件』(佐々木直次郎訳)から上記引用英文を含む段落の日本語訳を引用する。

 そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな次中音(テナー)なのが最高音になり、発音が落ちついていてはっきりしていなかったら、まるで癇癪(かんしゃく)を起しているように聞えたろう。こんな気分になっている彼を見ていると、私はよく二重霊魂という昔の哲学について深く考えこみ、二重のデュパン――創造的なデュパンと分析的なデュパン――ということを考えて面白く思うのであった。

三浦は「二重霊魂(the Bi-Part Soul)」について『認識と言語の理論 第三部』(勁草書房)所収の「二重霊魂の系譜」で詳しく書いている。長くなるが引用する。

 ちょうどそのころ岩波文庫で出たシュベグラーの『西洋哲学史』を読んでみて、アリストテレスが自然哲学の中で説いているヌース(理性)であろうと見当をつけたのであるが、シュベグラーはつぎのようにいう。

「アリストテレスは人間のうちに二つのヌースを区別しているのである。一つは有限で、一時で、個人に属し、個人と生死をともにするものであり、もう一つは永遠で肉体から分離しうるもの、神の理性と同一なものである。かれは前者を受動的理性、後者を能動的理性と呼んでいる」

 そしてつぎのように批判する。

「ここにもまたアリストテレスの二元論が突然その姿を表わしている。明らかにこの能動的理性と魂との関係は、神と自然との関係と同じであって、両者はなんら本質的な関係をもっていない。」(谷川徹三・松村一人共訳)

 アリストテレスは、魂の能力としてつくりだされる諸機能と、理性とを区別して、理性は外部から肉体に入ってくるし、また肉体から外部へ出ていくのだという。つまり、魂と理性とはそれぞれ別個に成立して、あとから結合するわけである。魂は唯物論的に、理性は観念論的に説明するのだから、結論はたしかに二元論である。ポオがこの奇妙な「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬいたのに、シュベグラーは見ぬけなかった。三人称小説での表現主体は傍観者だが、一人称小説での主体は行動者で能動的に事件の当事者として活動する。現実的な作者との差異はあまりにも明瞭である。現実的な作者が現実の世界を分解して空想の世界を組立てるのための材料をとり出してくるのに対して、空想の世界における観念的な「私」はそこであたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていくことも、すこし反省すれば容易に納得できることである。

作家であるポーは、現実の自分と小説を書いているときの自分とは違う自分であること、つまり小説を書いているときの自分は現実の自分の立場を離れて小説の世界に入り込み、その中で進行する事件の「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりして創造的な仕事をしていることを十分に理解していたから、アリストテレスの「能動的理性」を「創造的」な立場にいる人間の精神活動と見ぬくことができたのに、シュベグラーにはそれができなかった。

小説を書いているときの作家は現実の自己の立場から小説の舞台となっている世界に自覚的に入り込んで「傍観者」の立場になったり、あるいは「能動的な当事者」の立場になったりしており、このような架空の登場人物の立場に観念的に移行した作家は現実の自分にしばられることなく「あたえられる現象や事実を客観的に結びついたものとして扱い創造的に認識を深めていく」ことができる。このことを三浦は『「創造的」な立場にいる人間の精神活動』といっているのである。ポーは自分がしているこうした創造的な精神活動を自分の作品の主人公デュパン――創造的なデュパン――の精神活動に仮託しているわけである。

 われわれは鏡に向かって、その中に自分を見る。鏡の映像を自分すなわち現実の生きた人間と思うとき、同時に観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っていることになる。「能動的理性」はこのようにして、いつでも自分という個人からすなわち現実の生きた人間から観念的に分離できる。アリストテレスはこの理性を「自分自身を思惟する純粋な形相」だと説明した。純粋な形相とは、質料をもたぬ本質のことである。現実的な自己はつねに肉体を持ち、その意味で魂はつねに質料にささえられて存在するのだが、鏡の例でわかるように観念的な自己は認識上の分裂にすぎないし、現実の生きた人間としての自己の外側に位置してその肉体を眺めているのだから、肉体を持たぬ純粋な形相だということになる。われわれは現実には生命を持った地球上の人間でありながら、〈まだ人類が存在していない世界の人間〉として、その視線で赤熱状態の地球を見ることができるのだから、この視覚を人間の発生以前にすでに存在した特殊な霊魂のはたらきだと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。科学者は宇宙を永遠と考えるが、このときは対象と同じ永遠の立場に観念的に立ちながら論じていく。これを現実の生きた人間に入りこんでいる特殊な永遠の霊魂のはたらきと解釈するのも、それなりに根拠がないわけではない。ポオの『モノスとユウナの対話』では、モノスが「無窮の魂」による「自分の生れ変り」を語っているが、世界各地に見る自然成長的な霊魂不滅論にしても哲学者の理性永遠論にしても、やはりそれなりの現実的な根拠が存在したのであるから、それを指摘しなければ正しい批判にはならない。

アリストテレスのいう「能動的理性」すなわち「普遍的で不滅な理性的・超越的な霊魂」とは、現実の自己から分離し「観念的に自分から独立して存在する自分以外の人間すなわち他人の立場に立っている」もう一人の自分なのであり、このもう一人の自分は「現実の生きた人間としての自己の外側に位置」する観念的な世界で生身の肉体の束縛から離れて自由に活動できる存在である。しかしその観念的な世界およびそこに移行したもう一人の自分は、生身の肉体をもった現実の自分によってその意識の内部につくりだされた観念的な存在[仮構・フィクション]であって、外部から自分の肉体に入りこんできた不滅な霊魂ではない。

 人間の観念的な自己分裂をアリストテレスと同じく観念的にとりあげたのはヘーゲルであり、それを唯物論的に改作して受けついだのはマルクスであった。『資本論』は、人間が他の人間を鏡として、他人のありかたに過去や未来の自分のありかたを想像するという反映論を説き、観念的に分裂した自己を現実的な自己からひきださず逆に現実的な自己以前に存在する「我」だと解釈したフィヒテ主義者にも皮肉を投げつけている。観念的な自己の成立する過程がつかめなければ、有限のものと永遠のものとをならべてどちらが基礎的なのかと考えることになろう、それで私も『日本語はどういう言語か』(1956年)の中で、人間は観念的な自己として永遠の立場をとることができるから、観念論哲学者は永遠的存在こそ基礎であってそれから一時的存在を説明すべきだという常識的な論理をもちこんで、観念的な自己のほうを基礎的だと思いこむむね説明しておいた。神を肯定する者にとっては、このような永遠的存在は神ないし神的と考えられ、神の精神から個々の人間の精神が形成されるのだとも解釈されていく。アリストテレスにしても、「受動的に規定されている人間の理性はすべて本源的に能動的理性に依存している」と。基礎を個人の外に持っていった。個人の外部にある神的で永遠の「能動的理性」が個人に入りこむとき、個人が対象から受動的につくりあげると見られる「受動的理性」が成立するのだと、逆立ちさせて説明したのである。われわれが自分について知るという「受動的理性」にしても、ある時はガラスの鏡で姿かたちを、ある時は他の人間のことばすなわち認識を表現した鏡で眠っているときのありかたを、ある時は赤ん坊がどうして生まれてくるかという他の人間の鏡によって自分の過去のすがたを、それぞれ「能動的理性」のはたらきによってつかまなければ、一貫した統一のある認識にはならないことを、考えてみる必要があろう。

観念的な自己は現実の自己から観念的に分離したものであって、けっしてその逆ではない。外部から個人に入りこんだ「能動的理性」によって「受動的理性」が形成されるというのは逆立ちした考え方である。人間は鏡に映った自分の映像を媒介にして現実の自己の姿についての認識を深める。また、親が語ってくれた眠っているときの自分の姿を媒介にして自分の眠っている姿を想像する。あるいは赤ん坊を見てそれを自分に置き換えてみることによって自分が赤ん坊だった頃の姿を思い浮かべる。このようにさまざまな〈鏡〉を媒介にした観念的自己分裂によって人間は直接には知ることのできない自分のさまざまなありかたについて認識を深めていく。すなわち、さまざまな〈鏡〉の媒介によって観念的な自己が認識のうちに現実の自分のありかたを映し出すのであって、「能動的理性」が無媒介に現実の自分の姿を描き出すわけではない。

観念的な自己は、このように他者の姿を自己の姿に置き換えて映し出すことができるし、逆に作家がよくやるように自己の姿を他者の姿に置き換えて映し出すこともできる。つまり認識(意識)にも〈鏡〉(媒介)としてのはたらきがあるのである。

三浦は意識外部の〈鏡〉を〈物質的な鏡〉、認識(意識)を〈精神的な鏡〉と呼んでいるが観念的自己分裂においてはこの二種類の〈鏡〉が相互に浸透しあい統一されているのである。マルクス*や三浦のいう反映とはこのようなものをいうのであっていわゆる「俗流唯物論」や「官許マルクス主義」のいうような単純な反映ではない。

* 「人間の思考に対象的な真理が属するかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践の問題である。実践のうちで人間はその思考の真理を、言いかえれば、その思考の現実性と力、此岸性を証明しなければならない。実践から遊離している思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は、まったくスコラ的な問題である。(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」『フォイエルバッハ論』エンゲルス/松村一人訳・岩波文庫所収、p.87)

 エンゲルスは『反デューリング論』の旧序文で「ギリシァ哲学の多様な形態の中には、後世のほとんどすべての考えかたが、すでに芽ばえており、発生しかけている」といった。アリストテレスの理性論についてもこれはあてはまる。絶対的な主観(理性)がまず客観的に存在するというのだから、二元論か一元論をつらぬいたかのちがいこそあれ、ヘーゲルと同じ発想である。

 私のぶつかった問題はシュベグラーを読んで一応片づいたが、かなりたってから(太平洋戦争がもうはじまっていた)レーニンの『哲学ノート』のヘーゲル『哲学史』批判がアリストテレスをとりあげていると知って、こんどはヘーゲルを読んでみた。当然のことではあるが、ヘーゲルはアリストテレスの二元論を自分の客観的観念論としての一元論の発想で評価し、かつ批判している。この点ではシュベグラーはヘーゲルに忠実にやはり一元論をつらぬこうとしたわけである。ところがレーニンは、ヘーゲルのアリストテレス論に反対して、ヘーゲルとは逆にアリストテレスの二元論の中の唯物論的側面を評価し、ヘーゲルは「アリストテレスを一八~一九世紀の観念論者に偽造するものだ」と怒っている。このレーニンの批判自体は正しいのだが、彼もアリストテレスの「能動的理性」論がどうして生れたかをつかんでいないから、俗流唯物論の立場で論ずる以上に出られずに、観念論的側面を切りすててしまい、唯物論的に改作する作業を行っていない。私は『哲学ノート』を読んでから、ポオがアリストテレスの哲学について「考えふけり」、「二重デュパン」論でその現実的な根拠を事実上指摘したことを、評価しなおした。ポオは一般の文学評論家が考えているよりもはるかに有能な人間であって、学問の分野で仕事をしているわれわれも多くの学ぶべきものがあることを、私はこれまでもいろいろな機会に具体的にとりあげて来た。右の叙述もまた私が認識論・表現論を展開するに際して、役立ったことを、この小論で附け加えておく。つまり、ポオとマルクスと時枝という、一見無関係に思われる人びとの主張が、それなりに共通の問題にからんでいたし、それらが私の仕事の中で理論的に合流したのである。

三浦の観念的自己分裂論がポーの『モルグ街の殺人』の一節から生まれたということはこの小論を読むまでは私も知らなかった。

 さきの『モルグ街の殺人』の引用文では、観念的な自己分裂を起しているときのデュパンを「私」が観察して、観念的な自己としての活動が現実的な自己のありかたにどんな影響を及ぼしているかを記したものである。目的的に観念的な自己として活動することは、自ら意識して夢を見ることであり、自分から「創造的」に他人の心の動きを想像し展開していくときにしても、あるいは他人の小説の追体験に夢中になって(うまいことばだ!)空想の世界を楽しんでいるときにしても、受動的に現実の世界からの理性が成立することを拒否し、現実的な意識をもっていない。そのために現実的な自己のありかたとしては、いわゆる「上の空」の放心状態という異常な態度を示すことになる。眠りながら夢を見て、それを現実的な自己の行動にあらわすのは、催眠術にかかった人間や夢遊病者で観察できるが、これらの人びとの態度と自ら意識して夢の中にいる人びとの態度との間に共通点があったとしても、別にふしぎではない。

上記の内容についてはあらためて書こうと思っている。

 アンデルセンとポオとは、学問の分野でも子どもの発言を軽視してはならぬことを私に教えてくれた。エンゲルスは人類の文化のいわゆる子どもの時代におけるギリシャ哲学の意味を私に教えてくれた。言語学者たちがわが国の本居学派の言語観を軽蔑の目でながめ、構造言語学とかチョムスキー文法とか「見せかけの深遠さ」を得々としてかつぎまわっているのは、学問の本道をあるいているわけでも何でもない。「二重霊魂」説の系譜を無視して科学的な言語理論の建設はありえないのである。

こういった姿勢はマルクスやエンゲルスの著書では随所に見られる。子どもの発言に学ぶというのは日ごろから私のしていることでもあるのでとても納得できるが、過去の哲学や自分が共感できない思想にも学ぶところがあるというのは頭では分かっていてもなかなか難しい。最近ようやくマルクスや三浦の考え方(弁証法的な思考法)について理解できるようになってはじめてその意味が分かったような気がする。

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