三浦は言語の意味(内容)について『認識と言語の理論 第二部』(勁草書房)の第一章において非常に詳しく論じている。ここではそれとは別にとくにソシュールや構造言語学に言及する形で言語の意味を語っている『言語学と記号学』(勁草書房)所収の「言語学と記号学」という論文の第四節「意味とは何か、どこに存在するか」を引用して私なりの考え・感想を書いてみたい。なお引用にあたって傍点は傍点のように表記した。
三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学と記号学』勁草書房所収)
こうして見てくると、言語規範が言語表現を媒介する過程的構造を正しくつかめないことに言語学のぶつかっている大きな壁の一つがあり、ここから記号規範が記号表現を媒介する過程的構造を正しくつかめないという記号学の壁も生れていることが、大体予測できるはずである。そしてこの壁はまた、言語や記号の意味について正しい理解を持つことを妨げているのである。
言語学はもちろん、記号学でも意味論を欠くことができないし、意味論でふみはずすと言語学も記号学もズッこけてしまう。われわれは経験から、ごく素朴に、音声言語や文字言語それ自体意味を持つものとして扱ってはいるが、意味とは具体的にどんなものかそのありかたを説明してくれといわれると、返事に苦しまなければならない。音声や文字をどんなに調べてみても、それに意味とよぶにふさわしい実体がふくまれているわけではないし、また音声や文字が言語であるか否かにしても、それらの物質それ自体によって決定されているわけではなくて、それらが表現主体によって特定の形態を与えられているか否かで決定されているのである。それで、ソシュールも、「言語は形態であって、実体ではない。ひとはこの真理をいかにふかく体得しても充分ということはない。」と強調したのであった。
それでは意味はいったいどこに存在するのか? この解釈には二つの異った系列が生れている。一つは主観の側に存在するという解釈で、時枝誠記も『国語学原論』でこの解釈を採用し、「文字によって或る意味を理解したことから、文字が意味を持ってゐると考へるのは、主体的な作用を客体的に投影することで」あると、意味を読み手の側に持っていった。この意味の主観化が極端にまで達すると、世界それ自体はカオスで無意味な存在で、人間は言語によってそれに意味を与えるのだという、鈴木孝夫的な解釈にも行きつくことになる。そしていま一つは意味をあくまでも表現の側に実在すると解釈する系列で、ソシュールの langue も意味と関係づけて説明されている。langue は言語規範であるから、彼の langue の説明にも、規範が表現を媒介するという事実が反映しないわけにはいかなかった。「思想と向かい合っての langue 独特の役割は、観念を表現するために資料的な音声手段をつくり出すことではなくて、思想と音との仲を取りもつことである。」そうだとすれば、その思想と langue を構成するところの概念とが、この「取りもつ」ことでどう関係づけられるかを説明しなければならないが、この関係の正しい解明は彼の手にあまったのである。「いささか神秘めくが、『思想・音』は区分を内含し、langue は二つの無定形のかたまりのあいだに成立しつつ、その単位をつくりあげるのである。」と、langue における概念の成立すら神秘的なもののようにしか説明できなかった。(p.25~26)
三浦によるソシュールの引用には注釈が必要である。三浦は私がかつてやったのと同じ誤読誤解をしている〔私の誤読・誤解については ソシュールの「言語」(1)~(3)、誤読「言語の法典を利用するさいの結合」を参照〕。しかし、それは三浦の責任というよりも翻訳者の小林英夫の責任に帰するところが大きい(ソシュールの講義録そのものに直接当らなかったという意味で三浦にも責があるが、講義録そのものの翻訳はまだ存在しなかったし、講義録に直接当たるのも困難だった当時としては仕方がなかったと私は思う)。しかし、小林訳の『一般言語学講義』を忠実に引用していないという意味では三浦は責められて然るべきである。つまり、三浦は小林が「言語」と翻訳している部分はすべて “langue” であると誤解して引用文の「言語」を “langue” に改めてしまっているのである。詳しくは「ソシュール「言語学」とは何か(6)」で引用した小林訳『一般言語学講義』を参照していただきたいが、三浦の引用した部分はつぎのようになっている。
「思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との仲を取り持つことである」
「いささか神秘めくが,『思想・音』は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである」
「ソシュール「言語学」とは何か(6)」には該当する「一般言語学第三回講義」の部分も引用してある(前田英樹訳『ソシュール講義録注解』)。その該当部分の和訳はそれぞれ「思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある」および「そこにあるのは、思考-音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」となっており、一つ目の文で小林が「言語」と訳している部分が「ことば」と訳されている。二つ目の文で小林が「言語」と訳している部分に相当しそうなのは「これらの単位」および「中間地帯を創りだすことば」である。
前田はこの著書では “langue” を「言語」、“langage” を「ことば」という風に訳し分けているから、小林が言語と訳した一つ目の部分は “langue” ではなくて “langage” であり、二つ目の部分は「言語単位」および “langage” だったと思われる。そのため、小林訳の該当部分をその先を含めて読むと非常に奇妙な表現になっている。
上記のように三浦が引用した二つ目の部分は、前田訳の『講義録注解』では「そこにあるのは、思考-音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」となっており、これに対する小林訳は「いささか神秘めくが,『思想・音』は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである」になっている。小林訳によれば「言語」が「二つの無定型のかたまりのあいだに」自身で成立しつつ「単位をつくりあげる」というのであるから、言語自身が自らをつくり出すかのような奇妙な表現になっている。しかし前田訳から読み取れるのは、“langage” が「創りだ」した「思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような」「中間地帯」で「混沌とした思考」が「ことば(langage)によって諸単位に配分される」ということである。この「中間地帯」とは「内言」の領域であり、配分された諸単位とは「連辞」つまり「内言」(langue)であるから、ソシュールは「言語能力(langage)によって内言(langue)がつくりだされる」といっているのであって、「言語規範(langue) が 内言(langue) をつくりだす」などという訳のわからないことをいっているわけではない。
したがって三浦のいう「langue における概念の成立」というのは誤解であり、正しくは「langage による言語単位の成立」である。ただ、そうだとしてもソシュールが言語単位の成立を神秘的なものとしてしか説明できなかったことは事実であるし、ソシュールも後の構造言語学者たちもこの言語単位の価値を「シニフィエ」と呼んでいるのだから三浦がこれを言語規範における「シニフィエ」つまり普遍概念(意義)だと誤解したのも無理からぬことであった。そして、言語単位の成立における言語規範(langue)の媒介ということについてもソシュール自身は明言してはいないが、言語単位の成立や言の成立に連合関係(langue)が関与していることはソシュールも認めているから、ソシュール「言語学」に「規範が表現を媒介するという事実が反映し」ているという三浦の指摘は正しい〔つまり、「思考に対することば特有の役割は、音的、物質的手段たることにあるのではない。それは、思考と音の合一が不可避的に各単位に到達していくような、そういう性質の中間地帯を創りだすことにある」「そこにあるのは、思考-音が言語学の究極的単位としての諸区分を含んでいるという、どこか神秘的なこの事実である。音と思考が結合されうるのは、これらの単位によってでしかない」の部分は、語規範の媒介によって個別概念(個別的概念)に語音像が結びつけられる過程に対するソシュールなりの解釈を示していると思われる――03/24追記〕。
思想は概念的な把握であるから、そこに感性的な区切りはないが、概念としての超感性的な区切りが存在している。これがなければ言語規範を用いる契機が存在しない。それゆえソシュールも、思想を「無定形のかたまり」とか「星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない」とかいいながら、そこに「区分を内含している」かのように感じないわけにはいかなかった。思想は、そのよって立つ現実の世界のありかた、すなわち概念に反映した対象のありかたによって必然的に区切られているのであって、さもなければ思想相互の客観的な区別すら存在しないことになろう。ソシュールおよびその学派の学者たちは、langue が「思想と音とを取りもつ」事実を、合理的に説明できなかった。そのために時枝が小林の langue の説明に対して、「語が文脈に於いて話手の内面的生活を表現し、又文脈に於いて語が個性的となり、性格的となるといふことは、『言語(ラング)』の使用によって実現することであると考へられてゐるが、それに先立って、話手が一の『言語(ラング)』を他より優先的に選択し、使用するについては、素材と『言語(ラング)』の間に、如何なる契機の存在があつて結合せられるかを問ふことなしにこの問題は解決し得られないと思ふのである。」と指摘することにもなったのである。
とにかくソシュールのいうように、langue の意義すなわち言語規範によって規定される辞書的な意義が、「聴覚映像の反面にほかならない」とすれば、音と思想が不可分で両者の結合が形態として存在する以上、現実の音声のいわば裏側に言語の辞書的な意義が存在することになる。ソシュール派の学者は、われわれが言語から直接感覚で受けとるのは音の側面で思想ではなく、思想は音と形態を同じくする「透明」な存在として結合していて、これが意味だと解釈した。いずれにしても、ソシュールおよびその学派の学者たちの意味論は、意味を表現の側に実在すると主張はしたものの、神秘的な説明から抜け出すことができなかったのである。(p.26~27)
三浦の指摘する「langue が『思想と音とを取りもつ』事実」とは実は「langage が『思想と音とを取りもつ』事実」のことであるが、“langage” は前田のいうように「言語能力・言語活動」全般を指しており、それにはものごとを概念的に把握する能力つまりものごとを個別概念として把握する能力や、言語規範を身につけその規範意識のもとで言語規範を媒介した言語表現をする能力も含まれているのであるから(「“langue” と “langage”」を参照)、誤解とはいえ狭い意味では三浦のいうように「規範が表現を媒介する事実」と解してもあながち的外れではない。
いずれにせよ、言語(実は「内言 langue」)が言語規範に媒介されて成立する契機についてソシュールは何も説明できなかったという時枝、三浦の指摘は的を射ている。
〔2007.03.23追記〕
「思想は、そのよって立つ現実の世界のありかた、すなわち概念に反映した対象のありかたによって必然的に区切られているのであって、さもなければ思想相互の客観的な区別すら存在しないことになろう」という三浦の指摘はソシュール「言語学」の最大の瑕疵を突いている。そしてこの瑕疵はソシュールが自己の「言語学」を静態言語学と規定したことから必然的に生じたものである。連合関係(語規範)および連辞関係(内言)についてのソシュールの分析は緻密であり、言語学にとって大きな貢献をなしたことは確かである。しかし、連合関係(語規範)を固定的・静的なものと規定したことによってソシュールは、連合関係(語規範)がいかにして形成され、連辞関係(内言)がいかにして生じるか、その動的な過程を分析する目を自らふさいでしまった。それがゆえに連辞関係(内言)の形成や言語表現において連合関係(語規範)が媒介として働くことに気がつかなかったのである。いかなる現象であってもその全過程をその考察の対象としなければそれを解明することはできない。自然科学においては当たり前のこのことがソシュールには分からなかったのであろう。ソシュールは自らの「言語学」を科学と考えていたようである。細胞分裂の過程を研究するためにかつて生物学者がある状態をプレパラートに固定して観察したように、ソシュールもまた連合関係(語規範)を固定したものとして扱った。しかし、プレパラートに固定された状態は細胞分裂の過程の一部であって、そこから細胞分裂の全過程を解明することはできない。同様に、人間の認識・意識がどのようにして生じ、それがどのようにして言語や内言として表現・形成され、言語がどのようにして受容され(内容や意味が理解され)、内言がどのようにして反省されるのかを、その全過程を通じてつぶさに観察することなしには言語について解明することはできないのである。
ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では音声言語で表現されている概念も、langue の一面である非個性的な概念が思想と結合することによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって、前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であることは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立しない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのである。時枝が「我々の具体的な言循行において経験し得るものは、聴覚映像と概念との連合したものではなくして、聴覚映像が概念と聯号(れんごう)すること以外にはない。」とソシュールを批判したとき、その概念とは表現される概念をさしたのであり、その限りにおいて正当であった。但し時枝は、ソシュールのいう langue とそこでの概念が、実は規範のそれであることを見ぬけなかったために、批判が裏がえしになってしまった。(p.27~28)
ここで三浦のいっている二種類の概念のうち後者の「現実の世界から思想として形成された概念」を私は一括して個別概念(個別的概念)と呼んでいる。それは後者が直接的・間接的・媒介的に現実からもたらされ意識内にその反映として形成された概念であり、その普遍的な概念の裏側に現実のものごとのもつ具体的・特殊的な認識(表象)をともなった概念――すなわち概念的に把握された現実の像――だからである。また、後者の個別概念と明確に区別するために前者の「言語規範の概念」を語概念と私は呼んでいる。
なお、川島正平さんは「<概念の二重化>説 2」という小論で、小川文昭さんとの相互応答を通して、後者を運用概念と呼び、前者を規範概念と呼んでおられる。そしてさらに運用概念を詳しく分析してそれには3種の別があるという考察をしておられる。私も大筋ではその考え方に同意したい。私は川島さんの規定した3種の運用概念がいずれも現実の事物から直接的・間接的・媒介的に形成されたものであり、元になった現実の事物とのつながりを保持しているという意味で個別概念という語を用いているのであり、運用概念という語に異を唱えている訳ではないし、語概念を規範概念と呼んでも一向に構わないと思う。さらにいうなら、個々の人間の意識においては規範概念(語概念)は運用概念(個別概念)から止揚されて形成される普遍概念(個別概念の一側面)が言語規範の概念として語韻と連合したものであると私は考えており、語韻と結びついていない普遍概念もまた概念の階層的・関係的構造の一構成単位として個々の人間の意識の中にいくらでも存在していると考えている。また、そうでなければ人間が言語規範や記号規範をつくりだす契機が存在しない。そして、個々の人間が日常生活の中で状況と条件に応じてその都度合理的につくり出している個別概念(概念的に把握されたものごとの表象)から抽象されるこの根源的な普遍概念がフランス語の mouton と英語の sheep との差異をもたらす原因であると私は考えている。
つまり「概念は「言語」に先立つ(2)」で書いたように「個物の持つ属性は多様であり、それゆえに人間が個物から取り出す概念もまた多様です。そしてまた人間のまわりにある個物は無数ですから、人間が把握し認識する概念も無数です。しかし、人間が取り出し特に注意をはらうのは自分の生活に必要なものに限られるでしょう。生活に不自由しない限りの概念さえ把握していれば通常の生活には事足りるわけです。言語は人間がその認識や意識の内容を他者に伝えるために作り出したものですから、言語化される概念は人間がそしてその人間が生きている社会が必要とするもので十分です。つまり、特に注意を払い他と区別しなければ不便であるような概念が、まず言語化されるわけです。それ以外の多くの概念は言語化されません。なんでもかでも言語化していたら覚えるのも使い分けるのも大変ですしすべての概念を言語化するなどということは不可能だから」であり、「関係概念や人間の衣食住に直接関係する事物の概念は他の事物の概念にくらべると社会や文化のあり方からの影響をより強く受けるもの」であると私は考えており、このことが言語規範(語規範)の成立に先だつ普遍概念の存在に私がこだわり続ける理由なのである。
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