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三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2) [PC版ページへ]
2007/03/27 17:04

 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)をまとめて読む。

 関連:『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

さて、言語学の分野では表現された言語(自然言語)の意味とは何かということについての定説が存在しない。つまり、意味論が確立されていない。その中では最近よく耳にするようになった認知意味論は三浦の関係意味論に比較的近いといえるかもしれない。三浦の関係意味論はある意味でマルクスがその著作の端々で触れている言語についての断片を系統的にまとめたものとみることができる。つまりマルクスはすでに言語の意味について商品の使用価値や交換価値、意識の外化・対象化(疎外概念を含む)といった概念のもとで語っているのであり、関係意味論に欠くことのできない観念的自己分裂つまり、人間の対象意識の運動についても語っているのである。また、ふつうの人々も表現された言語の意味を直観的につかんでいるのであり、そうでなければ人類がかくも長く言語を用いた意思疎通を行ってきたことを説明できないし、人々がさまざまに工夫して自分の意志や意図を他者に伝え、他者の意識やその伝えたい内容を的確につかみ取ってきたことも説明できない。にもかかわらず、三浦のいうようにいざ言語の意味とは何かを問われると言葉につまってしまうのである。


このことは言語とは何かについて一致した見解がないということも含めて、現在の言語学において主流となっている構造言語学の限界を端的に示している。したがって、言語とは何か、意味とは何かについての構造言語学の「解釈」はまちがっているのである。そもそも、構造言語学は意味論どころか意味を形成する上で最重要な位置を占める概念についての把握、つまり概念論ですでにつまづいているのである。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学と記号学』勁草書房所収)

 言語表現においては対象から認識へすなわち表現されるべき概念の成立する過程的構造は表現されることによって止揚されている。つまり、背後にふくまれており表現に関係づけられてはいるが、直接にあらわれてはいない。音声の種類において関係づけられているこの過程的構造を、音声の聞き手は逆にたどって追体験していくときに、意味をとらえ意味を理解したというのである。意味とはすなわちこの表現に止揚されている過程的構造であり、音声の持つ関係をさすことばである。表現される概念は、意味を形成する実体であるが、それ自体が意味ではない。概念それ自体が頭からぬけ出して音声のうえにこびりついているわけではない。ソシュールは langue の概念のみを概念と解釈して、「なにもかも、聴覚映像と概念とのあいだで、それ自体のために存在する・閉ざされた領域と見なされた語の限界内で、おこる。」と考えたのだから、事実上意味を形成する実体である表現される概念のほうを、理論的に追放してしまったわけである。彼は理論的に追放しても、実際には langue の概念とは別個の新しく成立する異質の〈個性的な〉概念が表現されるのであるから、学者たちは何らかの形でこの二種の区別と連関をとりあげることを強制されないわけにはいかない。哲学者はどういうかたちでとりあげたであろうか?(p.28)

言語表現における〈対象→認識(意識)→表現〉過程を図示するとつぎのようになる。

  対象(普/特)個別概念(普/特)語概念(普)⇔語韻(普)語音(普/特)

(注) 対象(普/特)および個別概念(普/特)における(普/特)は、言語に表現される現実の事物つまり対象が個別の事物であって、それぞれがさまざまな普遍的・特殊的な性格や属性をもった存在であること、またそれらが認識され概念的に把握された個別概念もまたそれぞれの状況や条件に応じて合理的につかみとられたさまざまな普遍的・特殊的な概念をともなう表象であることを示している。また〈語概念(普)⇔語韻(普)〉は語規範であり、そこにおける語概念・語韻はともに普遍的な概念形態をとった対象認識・規範認識であることを示している。最後の語音(普/特)の「普」は言語音における普遍的な側面つまり音声が種類としての普遍的な性格(音韻)をもったものであることを示しており、「特」は音の特殊な側面つまり個人における音声がそれぞれ特殊な性格(音声の質:高低や大小など)をもったものであることを示している。〔03/28追記

たとえば、「家の前に白くて尻尾の長い小猫がいた」という表現において〈対象→認識(意識)〉過程では、「小猫」という普遍的・特殊的な把握は言語化される以前に「白い」「尻尾の長い」といった他の普遍的・特殊的な把握と同時に「可愛らしい」とか「これまで見たことがない」とか「ひもじそうな」とかといった普遍的・特殊的な把握やそれらを含む無数の普遍的・特殊的な把握をともなった個別的な概念すなわち個別概念個別的概念)として認識されている。

この対象を「コネコ」という音声で表現する過程は、現実の小猫(普/特)「小猫」個別概念(普/特)語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)語音「コネコ」(普/特) のように図示できる。したがって語規範〈語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)〉に媒介される過程で、表現者が把握した現実の小猫のさまざまな普遍的・特殊的な認識(個別的な認識=個別概念)のうち普遍概念「小猫」以外の認識は、表現された語音「コネコ」においては、事実上捨象されてしまっている。しかし、表現された「コネコ」という語音の背後には語規範〈語概念「小猫」(普)⇔語韻/コネコ/(普)〉に媒介される形で「小猫」個別概念(普/特)がつながっているのであり、さらに「小猫」個別概念(普/特)を介して現実の小猫(普/特)がつながっているのである。

このことを三浦は「表現されるべき概念の成立する過程的構造は表現されることによって止揚されている」と、上の引用文でいっている。つまり、語音「コネコ」においては普遍概念「小猫」以外は捨象されてしまっている(「直接にあらわれてはいない」)が媒介的・間接的なつながりとして「小猫」個別概念(普/特)現実の小猫(普/特)が表現の背後に目に見えない関係として保存されている(「背後にふくまれており表現に関係づけられてはいる」)のである。ヘーゲルやマルクス・エンゲルス、三浦のいう「止揚」とは「抽出・抽象(捨象・廃棄)の背後に捨象・廃棄されたものが目に見えない関係として保存される」という意味を持った動的・過程的な概念なのである。

したがって、「音声の種類」(語韻)と語概念すなわち語規範において関係づけられている」(媒介されている)「この過程的構造を」「逆にたどって追体験していく」ことによって「音声の聞き手は」「意味をとらえ意味を理解」するのである。この受容過程(観念的な追体験過程)はつぎのように図示される。

  語音(普/特)語韻(普)⇔語概念(普)個別概念(普/特)対象(普/特)

  語音「コネコ」(普/特)語韻/コネコ/(普)⇔語概念「小猫」(普)
  →「小猫」個別概念(普/特)現実の小猫(普/特)

以上を一言でいい表わすと「意味とはすなわちこの表現に止揚されている過程的構造であり、音声の持つ関係をさすことばである」ということになる。

ソシュールは思想の中に存在している個別概念を的確につかむことができず、思想を不定形の(観念の)塊と考えてしまったから、この個別概念を「言語学の究極的単位としての諸区分(=言語単位)」としてとらえたものの、これが語規範の媒介を経て言語として表現される意識内の実体であることに気がつかなかった。結果的にソシュールは個別概念を概念としてとらえることに失敗したわけである。いい換えれば、ソシュールは個別概念(特殊と普遍とを統一的にとらえた概念)を「言語学の究極的単位としての諸区分」としてとらえ、そこから言語単位が生れる「神秘的な」「事実」を語り、その言語単位の内容を「価値」と呼んではみたものの、その「価値」が、表現者がつくり出そうとしている「使用価値」=言語の意味を形成する実体である個別概念であることには気づかなかったのである。その結果、ソシュールは言語単位(内語化された個別概念)を根源的なものと直観したにもかかわらず、媒介として働く連合関係(語規範)の概念(普遍的な概念=「交換価値」)の方をより根源的なものと見誤って、連合関係から言語単位が、そして連辞関係(内言)が生まれると考えたのである。後の構造言語学者たちは、それを鵜呑みにして語規範を形成している語概念(普遍的概念)のみを概念と呼び、それ以外の概念(特殊的・普遍的概念=個別概念)の存在を完全に抹消してしまった(「事実上意味を形成する実体である表現される概念のほうを、理論的に追放してしまった」)。

〔03.28追記

規範概念(語概念)以外の概念の存在を抹消してしまった構造言語学や構造主義の立場をとる人たちには、個々の人間の意識の中には個別概念から止揚されて形成される普遍概念が語韻と結びつかない状態で存在することなど思いもよらないことなのであろう。しかし、個々の人間の世界観を形成する概念の中には語規範の概念だけでなく、現実からもたらされ形成された生き生きとした個別概念・普遍概念が数多く存在しているのである。それに語規範の概念は元はといえばこのような個別概念・普遍概念から形成されるのである。

 マルクス主義哲学者と名のるルフェーブルは、『言語と社会』(以下の引用は広田昌義の訳文による)で、構造言語学以前の学者たちが「意味作用(signification)と意味(sens)を混同していた」という。そしてまた、「音楽場の分析は、われわれの見るところ、意味と意味作用との混同によって理解し難いものにされてきた。ある音楽作品は意味をもつが意味作用はもたないのである。」と主張する。そして両者の性質をつぎのように規定する。「意味作用は正確で抽象的だが、内容に乏しい。意味は内容に富んでいて錯雑しているが、汲みつくすことができない。汲みつくすことができる意味とは意味ではない。あるいは意味ではなくなっているのである。意味作用は字義的である意味はあらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす。一方においては、過去へ、既得の知識へ、現在性へ、記憶へと、――他方においては、潜在性へ、可能性へ、意味を担った知覚場の多様性へと送りかえすのである。」つまり、ルフェーブルは言語の表現内容から、概念として音声や文字の種類によって直接に表現されている、規範の概念に対応する部分と、直接に表現されていない表現主体の独自の認識の部分とを切りはなし、前者は意味作用で後者は意味だと区別するのである。これは規範の概念と表現主体のつくり出した概念との区別と連関が理解できないために、後者の概念が前者の概念の機能としてすなわち前者の作用において成立したかのように錯覚したのである。音楽においては、ある楽章の中で主題が展開され発展していくかたちをとるが、この主題に相当するものが言語の意味作用で、内容の乏しい抽象的な存在だと解釈したわけであるから、これも規範についての無理解から生れた解釈ということができる。

 それでは、意味の発生についてルフェーブルはどう考えているか? 「意味の発生は複雑である。それはどのようにして、また、だれのために、何によって産出されるのか? 意味が生れるのは言葉の中にか、あるいは可感的なものの中にか、それともその両者の関係の中になのか? それはどのようにして可感的なもの(知覚されたもの)の中に、超言語的なある場を構成するような仕方で、投入されるのか? これらの継起的な、あるいは同時的な、活動は言語の内部においてではなく、言語と社会、あるいは言語形態と他の実践的諸形態(内容も同様に問題になる)の間の関係の中で展開されるのである。」どうしてこんな問題の立てかたをするのか、そこから考えてみよう。われわれが「家」と表現するとき、この表現された概念には表象や感覚が含まれているし、さらにこれらの認識は対象である現実の世界の事物に根ざしている。つまり、「家」の意味は、対象である現実の世界の事物にむすびついており、この事物をとりあげている。けれどもこの事物を意味とよべるのはあくまでも言語に表現したからであり表現の過程的構造に関係づけられているからであって表現なしに事物それ自体が意味であるとか意味をもっているとかいうことはできないそれゆえ言語の意味は表現において過程的構造を止揚することによってすなわち言語の内部において成立するのである。ルフェーブルは止揚ということばを知ってはいても、表現が止揚であることを理解できなかった。そして「言語と社会、あるいは言語形態と他の実践的諸形態」との関係で、言語の外部で事物それ自体が「意味を帯びる」のだと解釈した。「無意味なものが意味を帯びるのである。一九世紀中葉以前、マルクスの著作以前には、人間の労働とプロレタリアートの貧困はキリスト教的慈愛とユートピア主義者にとってしか意味をもっていなかった。以後それは政治的、歴史的意味をもつようになった。そのことはマルクス主義の思想に影響をもたせた広汎な運動(社会主義)によって始めて可能になったのである。」こうしてバルト的意味論への道が準備されるのであるから、ルフェーブルがバルトを大いに賞めちぎったのも不思議はない。(p.28〜30)

ここは解説の要はないであろう。ただ最初の段落の最後の部分「この主題に相当するものが言語の意味作用で、内容の乏しい抽象的な存在だと解釈した」というのは間違いであろう。この段落の最初のところに引用されているルフェーブルの「ある音楽作品は意味をもつが意味作用はもたないのである」から判断して、ルフェーブルは音楽作品には「意味作用」がないと考えていたと思われる。つまり音楽作品には言語規範の語概念に相当するような規範概念が存在しないゆえに、「言語の意味作用」すなわち規範に媒介される過程に相当する過程が音楽作品には存在しないとルフェーブルは考えたのであろう。

また二番目の段落の太字部分はきわめて重要であって、言語過程説の関係意味論の根幹をなす部分である。意味は表現された言語なくしては存在しない。記号表現も同様であって、表現された記号なくして事物そのものが意味をもつと解釈する構造主義的記号観(バルト的記号観)は記号概念を度外れに拡張した結果、もたらされた大いなる錯誤=誤謬であるとしかいいようがない。

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