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三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(3) [PC版ページへ]
2007/03/28 17:56

 三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)をまとめて読む。

 関連:『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いている。したがって「受容者」には「解釈者」「鑑賞者」の意味も含まれている。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)で引用したうちの後の方の二番目の段落で、ルフェーブルが「意味はあらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす。一方においては、過去へ、既得の知識へ、現在性へ、記憶へと、――他方においては、潜在性へ、可能性へ、意味を担った知覚場の多様性へと送りかえすのである」と書いている部分について三浦は「表現主体のつくり出した概念」あるいは「直接に表現されていない表現主体の独自の認識の部分」であるといっている。つまりルフェーブルが「意味」であると考えているものは実は表現者が言語のうちに表現した個別概念である、と三浦は指摘している。しかし、ルフェーブルはこれを表現者とは関りなく受容者が自ら作り出すものだと考えている。


前稿で書いたように構造言語学はソシュールの解釈を鵜呑みにして連合関係(語規範)から連辞関係(内言)や言語表現が作り出されると考えるので、表現された言語の意味は受容者が連合関係(語規範)と連辞関係とから勝手に解釈するものだという風に短絡して考える。これは構造言語学(ソシュール)が「受容過程における『連辞関係』の成立を表現過程に直結させ表現過程を受容過程に還元してしまっている(言語と内言――言語の意味)からであり、それは内言を作り出しているつもりのソシュールが無自覚のうちに内言を観察・受容する立場に移行し、受容者の立場で「言語単位」の成立を説明しようとしたからである(ソシュールの「言語」(4)――「言語単位」と「価値」)。しかしソシュールが言語単位の成立を神秘のヴェールの陰から覗き見ることしかできなかったのは彼自ら告白している通りである。

ルフェーブルは連合関係(語規範)と連辞関係とから意味が生れるとするソシュールの解釈をさらに拡大させ、連合関係(語規範)のみならず表現とは直接関係のない「社会」および「他の実践的諸形態」と「言語」(連辞関係)との関係で意味が生じると考えている(このような解釈を度外れに拡大すると、バルト流に表現でないものの中に勝手に意味を見いだして、実際には記号(記号規範に媒介された表現)でも象徴(直喩的・隠喩的な表現)でもないあらゆるものを記号や象徴だと見誤るバルト流の解釈に行きつく)。

にもかかわらず(というよりソシュール的思考の裏返しとして)ルフェーブルもまた無自覚のうちに受容者の立場から表現者の立場に移行し、知らず知らずのうちに表現者の〈対象→認識(意識)→表現〉過程を逆にたどり、表現過程を追体験しているのである。そして、その追体験においてルフェーブルの意識の中に生じている個別概念のさまを生き生きと語っているのが上記の引用部分(「知覚場の多様性」)なのである。

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(『言語学と記号学』勁草書房所収)

言語の話し手や書き手は、統一された全体としての思考をもっていて、その表現に際して概念の部分を表面化することになる。この表面化は、聞き手や読み手がその観念的な追体験において、同じ統一された全体としての思想を複製するための、いわば手がかりである。ルフェーブルが言語の意味とよんでいるのは、表現を対象とする追体験において、表面化している概念以外にいろいろな他のものを感じとることをさしている。意味を、統一された全体の思想によって形成されるものとして、過程的構造のありかたから理解するならば、彼が意味作用とよぶものも実は意味の一部であって、両者を切りはなして対立させるべきではないくらい、すぐ判ったはずである。そしてルフェーブルの切りはなしは、意味作用とならべて意味を聞き手・読み手の側で受けとるものとして扱っているために、表現を対象とする追体験でなくても、「あらゆる側面から他のものへわれわれを送りかえす」ような事物それ自体は「意味を帯び」ているのだという、バルト的発想へのふみはずしを準備していたのである。たとえば、多種多様の商品によって形成されている現実の世界も、「独自のやりかたで、すなわち特定的に、ひとつの記号体系、ひとつの言語、ひとつの記号学の場を構築している。」と、解釈するのである。精神的交通、表現主体の思想の追体験による複製という問題で、表現において意味が形成されると考えず、対象が意味と関係があることから対象それ自体が意味を帯びるのだと考えるなら、商品が意味を持っていて記号と同じように記号学の対象となる思いこむのも不思議はない。

こうしてルフェーブルは、商品はそれらを買うことができるという「意味」を持つから記号なのだとか、それらは楽しみを与えてくれるという「意味」を持つことで、「約束されてはいるが手に届かない享楽の記号」であるとか、バルト的な解釈をならべていく。さらに、金や装身具やダイヤモンドその他の宝石などは、そこから富や富が与えている権力を感じるから、象徴であるともいう。彼は、宝石商のショーケースに入っている商品それ自体を象徴とよぶのであって、それらを身につける人間がそのことで自分の富や権力を他の人間に示すという、表現によって象徴が成立すると考えるのではない。こんな記号や象徴の説明は哲学者の思弁的な解釈であって、マルクス主義でも何でもないし、この主張が科学的な記号論だなどと自惚れるとすれば、チャンチャラおかしいのである。(p.30〜31)

(関連記事)

三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)
三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2)
タグ【言語の意味】
タグ【ソシュール「言語学」】



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