「マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)」(2006.09.12)に対して秀さんからトラックバックを頂いている。→「数学的法則性とその現実への適用 」
記事の中で、数学・算数教育における、タイルというシェーマの有用性について秀さんが述べておられる部分については同意するし、負の量・負の数(マイナスの量・マイナスの数)を黒いタイルというシェーマで表わすという私の考案について現役の教師である秀さんに評価して頂いたことはとてもうれしい。
しかし、「(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという法則性の理解は難しい。これは数学においては論理法則であって、加減乗除の計算、より基本的には加法と乗法が定義されている集合においては、その基本定義から論理的に導かれる法則になる。(減法と除法は、それぞれ加法と乗法によって定義される」とか、「そもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だから」といった記述に見られる論理法則に対する先験主義(ア・プリオリズム)的な解釈には私は同意することができない。
これは数学的な思考を思考の基本とする秀さんともっぱら理科的な思考を思考の基本とする私との、論理あるいは論理法則というものに対する見解の違いから来るものであるから、過去のこれまでのやりとりと同様に双方の見解の一致をみることはまずないであろう。しかしトラックバックを頂いた以上何らかの見解を示すことは礼儀であろうと思うので、「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性について私の考えを簡単に書いておきたい。
「ことば」に対する概念の先行性についてはこのブログでもたびたび書いてきた。それらの記事で書いてきたことをひとことでいえば、「ことばや語規範(記号規範や象徴も)は個々のものごとを概念的に把握する人間の認識能力から生まれたものであり、ことばや語規範(記号規範や象徴)によって個人の認識に個々の概念が生じるのではない」ということであり、特に強調して述べてはいないけれどそれらの記事を読んでいただければ、私が概念に対する現実の先行について触れていることが分かると思う。
人間が現実のものごとを概念的に把握するのは生まれ持った本能(生得能力)ではあるが、この能力は現実のものごととと出会うことによって初めて発現するものであり――およそ本能とはそういうものである――、どんな概念も現実のものごととの接触がなければ個人の頭のなかに生じることはないというのが私の基本的な見解であり、これが私が唯物論の立場に立つ理由である。
数学で用いられるさまざまな概念についても同様であって、ある概念が現実とは何の関わりもなく個人の頭のなかにいきなり生じることはない。そして現実のものごとからもたらされる概念的認識(個別概念)なくして「ことば」が生まれることはない。数学の用語や概念の中には現実のものごとから直接に生み出されたようには見えないものがたくさんあるが、現実のものごとからもたらされ抽象された表象や概念とそれらをもとにして形成される想像的な表象・概念がなければこれらの数学用語や数学的概念が生まれることはない。つまり、想像もまた現実のものごとからもたらされる表象や概念なくして生まれることはないのである。マルクスが「非対象的な存在とは一つの非存在である」(『経済学・哲学草稿』)というとき、人間の認識(表象・概念)もまた非対象的な存在ではありえないということ、つまり表象・概念にはそれを生み出した対象がかならず存在しているということも含意しているのである。
たとえば、0(零)という数概念は無という概念から生まれたものであるが、無(ない)という概念自体が有(ある)という概念から生まれたものである。現実に無(ない)そのものは存在しないが、現実に存在するものはすべて有であり、遠山啓さんが指摘しているように、無とは「あるべきものの非存在」(有の非存在)を概念的に把握しそれを言語として表現したものであり、0(零)という数概念はあるべきものの非存在を抽象化したものである。つまり、三浦つとむのいうように「ない」という否定の把握は「ある」という肯定判断を観念的に追体験したのちに、それの非存在・否定としてなされるのであって、いきなり「ない」という否定判断がなされるのではない。0個のリンゴ(no apples)はあるべきリンゴ(some apples)を認めた後に否定判断としてなされるのであって、何の前提もなくいきなり0個のリンゴという否定的認識が頭の中に生じるわけではないのである。何ごとかを否定するには、それ以前にその何ごとかの存在・肯定が前提されていなければならない。アンチテーゼはそれに先だつテーゼを必要とする。
マイナスという概念も同様である。現実の世界には方向性をもった概念(ベクトル)が無数に存在する。方向性の概念には起点(原点)が必要であり、そのような概念の場合、ある一定の方向に対して起点から見て反対の方向が必ず存在する。したがって元の方向に対して反対の方向を示す概念が人間の頭の中に生じるのはきわめて自然なことである。元の方向に対して人間は「反対の」とか「逆の」とかいう観念を抱く。これは量についても同じである。量は増えたり減ったりするものであるから、「ある大きさの量」(some)がすっかりなくなってしまった状態が「ないという量」(no)の状態でありそれを抽象したものが0であるが、方向性をもった量の場合は「ある大きさの量」(some)がすっかりなくなってしまって「ないという量」(no)の状態になるだけでなく、さらに0を越えて反対の方向をもった量へと進んでいく。こうして人間は元の量とは「反対の方向」「反対の性質」をもった量を認識する(概念的に把握する)し、さらに「反対の性質」をもった量を認識した人類はそれを「マイナス(負)の量」として概念化・言語化するに至る。そうなると元の量をあらためて再認識・再把握し、それを「プラス(正)の量」として概念的にとらえ返す必要も理解できるであろう。量→反量→正負の量という風に弁証法的な認識がなされて、現実の量が正の量と負の量との統一として存在していることが認識されるのである。
正の数・負の数とは、このように現実に存在する正の方向をもった量とそれと反対の(負の)方向をもった量とを概念的に把握し、そこから抽象した数として認識したものと考えるべきである。そして0(無)という量は単に(正の)量の非存在としてではなく、相反する二つの方向をもった量の基準量として再把握され、正の量・負の量両者の非存在が抽象されたものとしてあらためて概念化される。そこでは、0はもはや単なる非存在ではなく、正の量・負の量(正的な有と負的な有)とが同量ずつ存在するがゆえに両者がともに非存在として認識されたものとして統一的に概念化されるのである。
量子力学における「ディラックの海」という仮説は、真空はまったくの虚無ではなくそこから粒子と反粒子(量子と反量子)とが対生成し、対消滅する場としてとらえる。この仮説は泡箱や霧箱といった器具を用いて実際に観測される粒子の生成・消滅という事実を矛盾なく説明できるものであり、上のようにあらためて再認識され概念化された0という数あるいは無という概念がこのような真空の概念にも適用されうることを示している。
私は小学校5年生のときに近所の遊び仲間である中学生から「3−5 はマイナス2 になるんだぜ」という話を聞かされたが、そのとき私は私の頭の中にすでに存在していたある概念がマイナス2 ということばで表現される概念に相当するのだということを直観した。というのは、小学校の算数では「引く数は引かれる数よりも大きくてはいけない」ということになっているが、私自身の経験では 3−5 という引き算に相当する事象が現実の世界に存在していることを知っていたからであり、その答えが「2 足りない」であることも承知していたからである。「足りない」の反対の概念は「余っている」であるが、余っている量を抽象した数が小学校で学んできた0を除く通常の数であり、そうだとすれば足りない量を抽象化した数が中学校で学ぶ負の数であることは容易に理解される。そして、負の数に対立する概念として通常の数があらためて正の数という概念で再把握されるのはごく自然なことであり、0が余剰も不足もない状態を抽象化したものとして再認識されるのも同様に自然の成り行きとして理解できた。
こんなことは私があらためて指摘するまでもなく、普通の生活をしている人間にとっては当たり前のことであろう。世界にはマイナスの量があふれているのである。
(関連記事)
概念は「言語」に先立つ(5)
0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象
人間の認識は徹頭徹尾概念的である
概念というものの性格
人間の思考・認識は個別概念を介して行われる
マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)〜(3)
(トラックバックを送った記事)
数学的法則性とその現実への適用(秀さん)
リンゴ8個とミカン6個(renqingさん)
大カテゴリー 〔意識・認識〕 〔教育・知識〕
秀さんの考え方は、論理的な計算法則が先にあって、その次にそれが当てはまるモデルを見つけるという順になってますね。
しかし、実際にはたとえば債権と債務のような相反する関係が先にあって、そういった関係を統一的に計算するために、マイナスという概念が提案され、その計算方法が矛盾しないものとして考案されたというべきでしょう(歴史的なことはよく知りませんが)。
マイナスを関係としてではなく、いきなり「非存在」として考えてしまえば、存在しないモノは存在しないという「同語反復」から抜け出せないのは当然だと思うのですが。
数学をやる方はたいていそうですね。それに、「当てはまるモデルを見つける」のは他の科学にまかせてしまっている方がほとんどではないでしょうか。純粋に数学という閉じた体系の中だけでひたすら……。
科学の人間も間違いを検証したり仮説を立てるときは基本的には論理的な道筋をたどって考えます。そうやってある程度の見通しが立つと、実際に実験したり計測したりしてその道筋が正しいかどうか必ずチェックしますね。その結果をもってもう一度仮説なり、予想なりを再検証しなおすことになります。これの繰り返しですね。
理科的な思考というのは、現実に与えられたものの中から真理を探し出すというのが基本ですから現実に合致しない仮説はどんどん乗り越えられます。科学(特に実験科学)をやっていると、科学的真理がどんなときにも必ず正しいなどということはない、それが成立するのは限られた一定の前提・一定の状態のときだけだということを思い知らされます。学校で習った法則通りにはいかないことがけっこう多い。もちろん、きちんと前提や条件をを満足させるようにこころがけて実験するわけですが、見落としがあったりして失敗する。しかし、失敗の中に実は真理へのヒントが隠れていたりしていて、失敗のおかげで新しい知見やさらに優れた仮説が見つかる。大変だけど面白い。
でも、よく注意してみれば日常生活でも同じなんですよね。日常生活空間では理科的な思考をせざるを得ない。そうしないと料理も洗濯もうまくやっていけません。
>実際にはたとえば債権と債務のような相反する関係が先にあって、そういった関係を統一的に計算するために、マイナスという概念が提案され、その計算方法が矛盾しないものとして考案されたというべきでしょう(歴史的なことはよく知りませんが)
貸借対照表にはマイナスというものがありませんが、右と左はともにプラスの数値でありながらお金の動きの向きが反対なんですね。これを見ても人間の認識におけるマイナスの本来的なあり方は、ご指摘の通り実体ではなく方向性・現象そのものなんだと思います。だから、現実世界の実体の中にマイナスを求めて、そういうものが身近にないからマイナスはフィクションだというのは短絡した見方だと思います(イオンのようにプラスやマイナスの大きさをもった実体もありますが、数少ない例でしょう)。
>マイナスを関係としてではなく、いきなり「非存在」として考えてしまえば、存在しないモノは存在しないという「同語反復」から抜け出せないのは当然だと思うのですが。
秀さんの考え方はカント的ですね。現象は仮象であり、実体でないものは有ではない。有ではないものは存在しない、すなわちフィクションだということになる。そんなこといったら科学は終わりです。ディーツゲンの指摘をまつまでもなく、「現象しないものは存在しない」わけですから。実体と現象を別物と考えてはいけない。誤解をおそれずにいうなら、両者はともに同時に存在している。
現象を一方の実体から見たものが「関係」ですから、現象を理解するには関係という概念がどうしても必要になってくると思います。ものごとの本質は関係にあり、それだけに関係に注意を払う必要があるわけですが、一方の実体ばかり見ていると関係は見えにくいのでつい見落としがちになります。
しかし、そう考えなくても負の直線上に移った部分を、もう一度180度だけ原点のまわりに回転すれば、もとの数直線上の正の部分に帰ります。これはマイナス×マイナス=プラスとなることを図形的に表していることになると思うのです。
実は平面を愎素平面と考えて複素数を極座標形式でかけば、そうなっていることがわかります。小川洋子さんの「博士の愛した数学」に出てくる数式はそのことを表していました。以上は遠山啓著「数学入門」の下巻からの受け売りです。遠山さんは実はこの極形式を用いて、虚数単位 i を導いています。
タイルを使うものも悪くはありませんが、この説明も知っていて欲しいです。失礼を致しました。

