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2007年10月02日(火)| 科学>数学 |  
0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成

マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)」(2006.09.12)に対して秀さんからトラックバックを頂いている。→「数学的法則性とその現実への適用

記事の中で、数学・算数教育における、タイルというシェーマの有用性について秀さんが述べておられる部分については同意するし、負の量・負の数(マイナスの量・マイナスの数)を黒いタイルというシェーマで表わすという私の考案について現役の教師である秀さんに評価して頂いたことはとてもうれしい。

しかし、「(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという法則性の理解は難しい。これは数学においては論理法則であって、加減乗除の計算、より基本的には加法と乗法が定義されている集合においては、その基本定義から論理的に導かれる法則になる。(減法と除法は、それぞれ加法と乗法によって定義される」とか、「そもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だから」といった記述に見られる論理法則に対する先験主義(ア・プリオリズム)的な解釈には私は同意することができない。

これは数学的なものの見方を思考の基本とする秀さんともっぱら理科的なものの見方を思考の基本とする私との、論理あるいは論理法則・論理構造というものに対する見解の違いから来るものであるから、過去のこれまでのやりとりと同様に双方の見解の一致をみることはまずないであろう。しかしトラックバックを頂いた以上何らかの見解を示すことは礼儀であろうと思うので、「ことば」「シーニュ〔記号〕:signe」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性について私の考えを簡単に示しておきたい。

「ことば」に対する概念の先行性についてはこのブログでもたびたび書いてきた。それらの記事で書いてきたことを簡潔にいえば、「語彙の規範や語の規範(記号規範や象徴も)は個々のものごとを概念的に把握する人間の認識能力から生まれたものであり、語彙規範や語規範(記号規範や象徴)によって個人の意識に個々の概念が生じるのではない」ということであり、特に強調して述べてはいないけれどそれらの記事を読んでいただければ、私が概念に対する現実の先行性について触れていることが分かると思う。

人間が現実のものごとを概念的に把握するのは生まれ持った本能(生得能力)ではあるが、この能力は現実のものごととと出会うことによって初めて発現するものであり――およそ本能とはそういうものである――、どんな概念も現実のものごととの接触がなければ個人の頭のなかに生じることはないというのが私の基本的な見解であり、これが私が唯物論の立場に立つ理由である。

数学で用いられるさまざまな概念についても同様であって、ある概念が現実とは何の関わりもなく個人の頭のなかにいきなり生じることはない。そして現実のものごとからもたらされる概念的認識(個別概念)なくして「ことば」が生まれることはない。数学の用語や概念の中には現実のものごとから直接に生み出されたようには見えないものがたくさんあるが、現実のものごとからもたらされ抽象された表象や概念とそれらをもとにして形成される想像的な表象・概念がなければこれらの数学用語や数学的概念が生まれることはない。つまり、想像もまた現実のものごとからもたらされる表象や概念なくして生まれることはないのである。マルクスが「非対象的な存在とは一つの非存在である(『経済学・哲学草稿』)というとき、人間の認識(表象・概念)もまた非対象的な存在ではありえないということ、つまり表象・概念にはそれを生み出した対象がかならず存在しているということも含意しているのである。

たとえば、0(零)という数概念は無という概念から生まれたものであるが、無(ない)という概念自体が有(ある)という概念から生まれたものである。現実に無(ない)そのものは存在しないが、現実に存在するものはすべて有であり、遠山啓(とおやまひらく)さんが指摘しているように、無とは「あるべきものの非存在」(有の非存在)を概念的に把握しそれを言語として表現したものであり、0(零)という数概念はあるべきものの非存在を抽象化したものである。つまり、三浦つとむのいうように「ない」という否定の把握は「ある」という肯定判断を観念的に追体験したのちに、それの非存在・否定としてなされるのであって、いきなり「ない」という否定判断がなされるのではない。0個のリンゴ(no apples)はあるべきリンゴ(some apples)を認めた後に否定判断としてなされるのであって、何の前提もなくいきなり0個のリンゴという否定的認識が頭の中に生じるわけではないのである。何ごとかを否定するには、それ以前にその何ごとかの存在・肯定が前提されていなければならない。アンチテーゼはそれに先だつテーゼを必要とする。

 もう大分前になるが、遠山さんたちが作った非検定教科書『わかるさんすう 1』で小学一年生に0の概念を導入する際に採用していた方法を思い出す。その教科書では、水槽に入っている金魚の絵を示し、絵の中の金魚の数に対応する形でタイルと数字を示しながら水槽から金魚を一匹ずつ網ですくい上げていって金魚の数が …3匹、2匹、1匹と減っていくことを理解させ、最後にすべての金魚がいなくなった状態――つまり水槽の中に水だけが入っている状態――の絵を示して、同時にタイルもすっかりなくなったこの金魚の数を0匹であると教えていた。ほかに皿に載ったリンゴを1個ずつ取り出していって最後に皿の上に何も残っていない絵が示され「リンゴが0個」などの例も挙げられていたと記憶している。子どもたちはこれらの例によって具体的な量の非存在――「ない(無)」という状態――が0という数に対応することを苦労せずに理解したのではないかと思う。『わかるさんすう』(むぎ書房・装丁安野光雅)は今でも大きな書店の参考書コーナーで売られているはずである。

マイナスという概念も同様である。現実の世界には方向性をもった概念(ベクトル)が無数に存在する。方向性の概念には起点(原点)が必要であり、そのような概念の場合、ある一定の方向に対して起点から見て反対の方向が必ず存在する。したがって元の方向に対して反対の方向を示す概念が人間の頭の中に生じるのはきわめて自然なことである。元の方向に対して人間は「反対の」とか「逆の」とかいう観念を抱く。これは量についても同じである。量は増えたり減ったりするものであるから、「ある大きさの量」(some)がすっかりなくなってしまった状態が「ないという量」(no)の状態でありそれを抽象したものが0であるが、方向性をもった量の場合は「ある大きさの量」(some)がすっかりなくなってしまって「ないという量」(no)の状態になるだけでなく、さらに0を越えて反対の方向をもった量へと進んでいく。こうして人間は元の量とは「反対の方向」「反対の性質」をもった量を認識する(概念的に把握する)し、さらに「反対の性質」をもった量を認識した人類はそれを「マイナス(負)の量」として概念化・言語化するに至る。そうなると元の量をあらためて再認識・再把握し、それを「プラス(正)の量」として概念的にとらえ返す必要も理解できるであろう。 量→反量→正の量・負の量 という風に弁証法的な認識がなされて、現実の量が正の量と負の量との統一として存在していることが認識されるのである。

正の数・負の数とは、このように現実に存在する正の方向をもった量とそれと反対の(負の)方向をもった量とを概念的に把握し、そこから抽象した数として認識したものと考えるべきである。そして0(無)という量は単に(正の)量の非存在としてではなく、相反する二つの方向をもった量の基準量として再把握され、正の量・負の量両者の非存在が抽象されたものとしてあらためて概念化される。そこでは、0はもはや単なる非存在ではなく、正の量・負の量(正的な有と負的な有)とが同量ずつ存在するがゆえに両者がともに非存在として認識されたものとして統一的に概念化されるのである。
――ニュートン力学における「作用反作用の法則」や「力のつりあい」を考えるとそのことがよく分かる。物理における静止概念や化学における平衡概念は互いに反対の方向をもつ二つの量がつりあっているために、何の変化もない――どんな力もどんな運動も存在していない――ように見えることを表している。

量子力学における「ディラックの海」という仮説は、真空はまったくの虚無ではなくそこから粒子と反粒子(量子と反量子)とが対生成し、対消滅する場としてとらえる。この仮説は泡箱や霧箱といった器具を用いて実際に観測される粒子の生成・消滅という事実を矛盾なく説明できるものであり、上のようにあらためて再認識され概念化された0という数あるいは無という概念がこのような真空の概念にも適用されうることを示している。

私は小学校5年生のときに近所の遊び仲間である中学生から「3-5 はマイナス2 になるんだぜ」という話を聞かされたが、そのとき私は私の頭の中にすでに存在していたある概念がマイナス2 ということばで表現される概念に相当するのだということを直観した。というのは、小学校の算数では「引く数は引かれる数よりも大きくてはいけない」ということになっているが、私自身の経験では 3-5 という引き算に相当する事象が現実の世界に存在していることを知っていたからであり、その答えが「2 足りない」であることも承知していたからである。「足りない」の反対の概念は「余っている」であるが、余っている量を抽象した数が小学校で学んできた0を除く通常の数であり、そうだとすれば足りない量を抽象化した数が中学校で学ぶ負の数であることは容易に理解される。そして、負の数に対立する概念として通常の数があらためて正の数という概念で再把握されるのはごく自然なことであり、0が余剰も不足もない状態を抽象化したものとして再認識されるのも同様に自然の成り行きとして理解できた。

こんなことは私があらためて指摘するまでもなく、普通の生活をしている人間にとっては当たり前のことであろう。世界にはマイナスの量があふれているのである。

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量の理論は認識論(メタメタさん)

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コメント
 
[161] お久し振りです
2007/10/04(木)17:39:25 | URL | かつ編集
秀さんのほうのエントリも読みました。
秀さんの考え方は、論理的な計算法則が先にあって、その次にそれが当てはまるモデルを見つけるという順になってますね。
しかし、実際にはたとえば債権と債務のような相反する関係が先にあって、そういった関係を統一的に計算するために、マイナスという概念が提案され、その計算方法が矛盾しないものとして考案されたというべきでしょう(歴史的なことはよく知りませんが)。
マイナスを関係としてではなく、いきなり「非存在」として考えてしまえば、存在しないモノは存在しないという「同語反復」から抜け出せないのは当然だと思うのですが。
 
[168] こちらこそ、お久しぶりです。
2007/10/05(金)11:47:27 | URL | シカゴ・ブルース[編集
>秀さんの考え方は、論理的な計算法則が先にあって、その次にそれが当てはまるモデルを見つける

数学をやる方はたいていそうですね。それに、「当てはまるモデルを見つける」のは他の科学にまかせてしまっている方がほとんどではないでしょうか。純粋に数学という閉じた体系の中だけでひたすら……。

科学の人間も間違いを検証したり仮説を立てるときは基本的には論理的な道筋をたどって考えます。そうやってある程度の見通しが立つと、実際に実験したり計測したりしてその道筋が正しいかどうか必ずチェックしますね。その結果をもってもう一度仮説なり、予想なりを再検証しなおすことになります。これの繰り返しですね。

理科的な思考というのは、現実に与えられたものの中から真理を探し出すというのが基本ですから現実に合致しない仮説はどんどん乗り越えられます。科学(特に実験科学)をやっていると、科学的真理がどんなときにも必ず正しいなどということはない、それが成立するのは限られた一定の前提・一定の状態のときだけだということを思い知らされます。学校で習った法則通りにはいかないことがけっこう多い。もちろん、きちんと前提や条件をを満足させるようにこころがけて実験するわけですが、見落としがあったりして失敗する。しかし、失敗の中に実は真理へのヒントが隠れていたりしていて、失敗のおかげで新しい知見やさらに優れた仮説が見つかる。大変だけど面白い。

でも、よく注意してみれば日常生活でも同じなんですよね。日常生活空間では理科的な思考をせざるを得ない。そうしないと料理も洗濯もうまくやっていけません。

>実際にはたとえば債権と債務のような相反する関係が先にあって、そういった関係を統一的に計算するために、マイナスという概念が提案され、その計算方法が矛盾しないものとして考案されたというべきでしょう(歴史的なことはよく知りませんが)

貸借対照表にはマイナスというものがありませんが、右と左はともにプラスの数値でありながらお金の動きの向きが反対なんですね。これを見ても人間の認識におけるマイナスの本来的なあり方は、ご指摘の通り実体ではなく方向性・現象そのものなんだと思います。だから、現実世界の実体の中にマイナスを求めて、そういうものが身近にないからマイナスはフィクションだというのは短絡した見方だと思います(イオンのようにプラスやマイナスの大きさをもった実体もありますが、数少ない例でしょう)。

>マイナスを関係としてではなく、いきなり「非存在」として考えてしまえば、存在しないモノは存在しないという「同語反復」から抜け出せないのは当然だと思うのですが。

秀さんの考え方はカント的ですね。現象は仮象であり、実体でないものは有ではない。有ではないものは存在しない、すなわちフィクションだということになる。そんなこといったら科学は終わりです。ディーツゲンの指摘をまつまでもなく、「現象しないものは存在しない」わけですから。実体と現象を別物と考えてはいけない。誤解をおそれずにいうなら、両者はともに同時に存在している。

現象を一方の実体から見たものが「関係」ですから、現象を理解するには関係という概念がどうしても必要になってくると思います。ものごとの本質は関係にあり、それだけに関係に注意を払う必要があるわけですが、一方の実体ばかり見ていると関係は見えにくいのでつい見落としがちになります。
 
[302] なぜマイナス×マイナス=プラスか
2008/05/10(土)01:34:08 | URL | あおやま[編集
マイナス×マイナス=プラスの説明ですが、数直線上で原点を中心にして正の部分を180度回転するとちょうど負の部分に回転して移ります。これがプラスの数にマイナスの数をかけたことになります。もちろんその負の部分は正の部分にこの回転で移りますから、マイナス×マイナス=プラスとなるわけです。

しかし、そう考えなくても負の直線上に移った部分を、もう一度180度だけ原点のまわりに回転すれば、もとの数直線上の正の部分に帰ります。これはマイナス×マイナス=プラスとなることを図形的に表していることになると思うのです。

実は平面を愎素平面と考えて複素数を極座標形式でかけば、そうなっていることがわかります。小川洋子さんの「博士の愛した数学」に出てくる数式はそのことを表していました。以上は遠山啓著「数学入門」の下巻からの受け売りです。遠山さんは実はこの極形式を用いて、虚数単位 i を導いています。

タイルを使うものも悪くはありませんが、この説明も知っていて欲しいです。失礼を致しました。
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(69歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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