0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象(PC版ページへ)

2007年10月07日19:03  科学>数学

0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成」に対して秀さんから「先験主義(アプリオリズム)の間違い」というトラックバックを頂いている――本論とは関係ないが、秀さんは同じ記事を複数のブログに掲載しておられる。トラックバックを頂いたライブドアブログの記事は老眼の私には文字が小さ過ぎるしその上1行の横幅が広いため読むのがつらい。それに比べると、同じ内容のはてなダイアリーの記事「先験主義(アプリオリズム)の間違い」は文字が少し大きいし、1行の横幅も適切なので私にはこちらの方が読みやすい――

この稿では「マイナスの数が現実に存在しない想像上の産物である」という秀さんの主張について私の考えを述べる。

0という数概念について

私の主張は「無というのはあるべきものの非存在という事実をとらえた概念である。そして無という概念からその量的な側面のみを抽象したものが0という概念である」というものである。このことをより詳細に述べてみよう。

あるもののあり方(存在の仕方)を量的な側面からとらえて概念化したものが各種の量である。どのような側面をとらえるかによって質量(重さ)・体積(かさ)・面積(広さ)・長さ等々のさまざまな量が考えられるが、量のもっとも基本的な性格は大小比較が可能であるということである*。

* 一つ、二つ、三つ、…という風に個数や人数という形で数えることができる量(水道方式ではこのような量を分離量とよぶ。日本語ではこのような量には「人」「個」「本」「匹」といった助数詞がつくが、印欧語では数をそのまま裸で用いる)は大小比較が簡単にできるが、重さやかさ、長さといった量は人為的な切れ目をつくって一つ、二つ、…と数えあげていかなければ大小の比較ができない。つまり、単位というものさしを使って数えあげなければその大きさを測ることができない量なのである(水道方式ではこのような量を連続量とよぶ。日本語でも印欧語でもこれらの量には単位がつく)。

大小比較ができるという量の性格から、量においては小から大に向って変化する増加という現象と、大から小に向かって変化する減少という現象が見られる。あるものの量がどんどん減っていき、もともとあったそのものがなくなってしまったとき、人間はそのようなもののあり方を無という概念で把握する。そしてその量的な側面を抽象したものが0という数概念である。秀さんが書いているように日本人もヨーロッパ人もインド起源のその概念が輸入されるまで0の概念をもたなかった。しかし、0の概念がなかったからといって、インド人やマヤ人が発見した0の概念のもととなった無の概念が存在しなかったわけではないのはいうまでもないことである。0という数概念がなくても無という概念があれば通常の生活には十分こと足りたのである。

秀さんは0にはその現実的な実体がないから0という数はフィクショナルなものであり、1や2、3…といった自然数には1対1に対応する現実の実体(物)が存在するから自然数は現実的な存在であるという。しかし秀さんのこの主張には、現実の事物のあり方と現実の事物のあり方から抽象された量概念と、その量概念からさらに抽象された数概念との間の相互の区別とその連関とについて認識上の混乱が見られる。そのような混乱のままに、私の主張を誤解して反論しているのが「先験主義(アプリオリズム)の間違い」という記事の後半部なのである。

私の考えは一貫している。現実の事物は存在している。そして人間はその現実の事物のあり方を概念的に把握する。そうやって現実の事物のあり方のうちから大小比較が可能なある側面を把握したものが量概念であり、さらにその量概念を抽象したものが数概念である。つまり、数概念は現実の事物のあり方の中にその起源をもつのである。したがって、0という数が現実に存在するかどうかなどという議論はそもそも無意味なのである。[レイ]と発音された音声言語、「0」という形象で表現された文字言語は眼前に存在するが、それらの言語は、事物の非存在という現実のあり方を0という数概念でとらえたという認識を表現したもの以外のものではない。1、2、3…といった数概念についても同様である。0も1も現実の事物のあり方を量としてとらえ、そこから抽象した概念であるという点では根本的な差異などないのであって、概念が目に見え、手に取れるような現実的な事物として存在しているなどと主張する者はいない。したがって、0という数はフィクショナルなものであり、自然数は存在するという属性をもっているのだというような秀さんの主張はナンセンスである。自然数は有という存在のあり方から抽象され、0は無という存在のあり方から抽象されたものであるから、確かに0という数は特殊な数である。しかし、どちらも存在のあり方から抽象された概念である以上、0はフィクショナルだが自然数はそうではないなどと主張するのは論理的一貫性に欠けるというものである。現実の事物のあり方から抽象されたという限りで0も自然数もどちらもリアルな現実の反映であることには違いはないと私は考えている客体的表現と主体的表現(4)――「ある」という関係意識

マイナスという概念について

マイナスというのは、普通の数をプラスと捉え返したときに、その属性が正反対になるようなものとして想像されたことから設定されたものだ」という秀さんの主張は逆立ちしていると私は思う。つまり、量→反量→負の量・正の量というのが歴史の流れであり、秀さんのいうように正の量→負の量という流れで負の量が認識されたのではないというのが私の考えである。通常の量に対して反対ないし逆の性質をもつ量(反量)というものの存在を認識したがゆえに、反量にマイナスの概念が生じ、それに対するものとして通常の量をプラスの量として再把握・再認識したというのが合理的な見方であろうと私は考えている。マイナスという概念の認識がなければ「普通の数をプラスと捉え返」す契機は存在しない。これについては「0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成」で私はすでに述べている。

マイナスの数がフィクショナルなものであるという秀さんの主張に対しても、現実の事物のあり方を量としてとらえ、それを数として抽象したものがマイナスの数概念であるという私の認識からすれば、0という数概念と同様にマイナスの数も、プラスの数に劣らずリアルな現実の反映であると主張するだけのことである。これで私の考えの骨子は尽きている。

しかし、ゆうべ眠る前にマイナス概念について一気に書き上げたものがあるので、それをそのまま以下に載せておきたい。思うにまかせて書いたのでまとまりのないものになっているがご容赦願いたい。

秀さんは、存在(有)というものにプラスという属性を与えるのだが、プラス・マイナスというのはあくまで存在の仕方に対して名づけられた概念である。あるものがどのような方向性をもった量として存在しているかを示すのがプラス・マイナスであるから、マイナスそのものが存在しないようにプラスそのものも存在しない。秀さんのように「マイナスの数が現実に存在しない想像上の産物である」といいうるならそれと同等の資格をもって「プラスの数も現実に存在しない想像上の産物である」といわなければならないし、マイナスの数が「想像上でフィクショナルに実体化」したものだというなら、同様にプラスの数も「想像上でフィクショナルに実体化」したものだということになるのが論理的必然である。

しかし、数は存在するもの(有)の量的なあり方を抽象して作られた概念であり、その量の方向性をあらわす概念がプラス・マイナスなのである。そしてプラスかマイナスかは存在そのものにア・プリオリに備わっているわけではない。どちらからどちらへと向かうものをプラスとするかは歴史的にそれなりの理由があって決まるのであり、時と場合によっては偶然や気まぐれによって決まることもある。数直線上の右にプラスを取り、左にマイナスを取るのは慣習以上のものではない。

そして、プラスとかマイナスというのは関係概念である。関係概念はある一定の関係を有する複数のものの存在を認識することによって生まれ、そのときそれら複数のものの間に(相互に)「関係がある」というのである。そのような複数のものが存在しなければ関係概念は生まれない。しかし関係は物とちがって手でつかむことができないし、中には目に見えない関係もある。だからといって関係が存在しないとか、関係はフィクショナルであるとかいうことにはならない。関係はある一定の関係を有する複数のものの存在をもってその存在が証されるという性格のものである。

また、増えたり減ったりする現象として現われるものにプラスやマイナスの概念を用いることもある。増えることも減ることも現象として存在するのであるから、これらの現象を概念化・抽象化してプラスの数やマイナスの数で表わすこともある。したがって、現実に存在するお金や物も増えたり減ったりするものという観点から見ればプラスでもマイナスでもありうる。たとえば、販売・購買が行われる場にあっては両者の間に置かれた現金は、買う者からみれば手持ちの現金の減少つまりマイナスであるし、売る者からみればそれは手持ちの現金の増加つまりプラスである。同時に両者の間に置かれた商品は、買う者からみれば手に入ることが期待されるものつまりプラスであるし、売る者からみればそれは手放さなければならないものつまりマイナスである。つまり、お金や物に最初からプラスとかマイナスとかいう属性が備わっているわけではない。プラスとかマイナスというのはある存在(有)のあり方についての関係概念であるから、そのお金が何に対してどのような減少・増加関係をもつかによってプラスかマイナスかが決まるのである。現象は物ではないが、現象も関係の一つの現われであるからその現象を生じさせている複数のものの存在をもってその存在が証される。もっと本質的なことをいえばむしろ現象することによってものの存在が証されるのである存在と対象(1)――存在は対他的である

別の例を挙げよう。電子の電気量がマイナスで、陽子の電気量がプラスになっているのは偶然の結果である。導線の中を流れる電流に限っていえば、プラスの電気というものは実体としては存在しない。電流はマイナスの電気をもった電子の流れである(つまりマイナスの電気量をもったものが存在し運動している)。電子がマイナス極からプラス極に向かって流れる現象を、プラスの電気がプラス極からマイナス極に向かって流れていると説明しているのである。これは電流理論が電子の存在がまだ知られてなかったときにつくられ、電気をもった物質が特定の極からもう一方の極に向かって流れているという仮説が立てられたからであり、その理論が現実の電気的な現象を無理なく説明できるものだったためにそれが真理であるとされたからである。しかし実際は電気の流れは逆向きだったのである。そこで実際に流れている粒子(電子)の電気量をマイナスとすることによって従来の理論との整合を図ったわけである。もし最初に電流の向きを逆方向に取っていたなら電子の電気量はプラスになっていたであろう。

また、マイナスイオンは電子の余剰によって生じ、プラスのイオンは電子の不在(欠如)によって生じる。もちろんマイナスイオンもプラスイオンも現実に存在している。

「非存在」そして「不足」と「余剰」について――存在との関係

秀さんは存在というものをきわめて素朴に考えているようである。しかし「リンゴがある」という非常に単純な状況でさえもその背後にはリンゴの存在を支える他のものの存在が前提されている。人はつい忘れてしまいがちであるが、存在とはある特定の空間における存在なのである。空間を前提としない存在はありえない。なぜなら存在は何ものか(生物か無生物かを問わない)に対する存在としてしかありえないものだからである。リンゴに目を向けるときふつう人間はそれが存在している空間を意識しないし、それを見ている自分の存在を忘れている。しかし、リンゴの存在という認識はそれを認知している人間の存在とリンゴおよびリンゴが存在している空間とをともに含んだ認識である。たとえば、仏壇に具えてあったリンゴを親の目を盗んで食べようとしたところ昨日あったはずのリンゴがなくなっていたようなとき、子どもは「リンゴがない」と認識する。このとき「リンゴがない」という認識は、「仏壇の上にあるはずのリンゴがない」という事実の認識であって、この場合は仏壇という空間とそれを見ている自分とを含めた認識なのである。したがってこの場合の「リンゴがない」における「ない」はフィクションなどではなくて現実なのである。しかも面白いことに、リンゴは家というさらに大きな空間の内部ではまだ存在しているかも知れないのである。もしかしたら、夕食のデザートにするために母親が台所の冷蔵庫の中に保管したのかもしれない。この場合、母親の認識ではリンゴは家の中からまだ消滅せずに存在している。にもかかわらず、子どもの認識では仏壇という限られた空間においてはリンゴは非存在という現実を示しているのである。

マイナスについても同じである。「足りない」という認識も、「足りない」ものとそれを認知している当人の存在とさらにその両者を含むある特定の空間についての総合的な認識なのである。

たとえば、5万円入れておいた封筒を机の引き出しにしまっておいたところ、夜帰宅して中を確かめたら3万円しか入っていなかったという状況を考えてみよう。この人にとって封筒の中のお金が2万円足りないというのは現実であってフィクションではない。5万円入っているはずなのに3万円しか入っていないという状況は、その人と封筒を含むせまい空間において2万円が非存在となっているということを示している。それは2万円があったはずの場所が空っぽになっているという認識なのである。つまり「2万円足りない」というのは本来埋まっているべき場所が2万円分空いているということなのである。2万円では分かりにくいかも知れないが、金庫の中の500万円を考えてみれば分かりやすいであろう。100万円の束を5個入れておいたのに開けてみたら束が3個しかなかったとすれば、その人の目にはもともと2個の札束があった場所が空っぽになって見えているのである。マイナス200万円(200万円足りない)という現実は空っぽの空間という形で目に見えているのである。この人にとって「200万円足りない」がフィクションであるはずがない(フィクションだったらどんなにかよかっただろう)。

最後に苦情を少々

私は、黒いタイルを具体的・現実的存在であるマイナスの量と抽象的存在であるマイナスの数とを仲立ちする表象的教具(シェーマ)として位置づけている(マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(1)――負の数とタイル・正負の数の加減)。タイルのような表象的なシェーマが認識においてきわめて重要であることを三浦つとむや遠山啓さんは力説しているし、それに関しては秀さんも私も何度も書いているのだから、私がタイルをどのような位置づけで用いているかということを秀さんは百もご承知のはずである。そういう経緯を無視して、黒いタイルと白いタイルをくっつけて「合成したとたんに存在そのものが0(ゼロ)になる……ような属性を持った「負の数のタイル」は存在しない」などと子どもじみたいいがかりをつけられても私としては困惑するしかない。タイルが消滅するのは頭の中の想像の世界であるのは分かり切ったことであろう。現実の世界で合体して消滅するのは粒子(りゅうし)反粒子(電子(でんし)と陽電子・陽子(ようし)と反陽子…等々)のような存在である(電子の対消滅・対生成「ディラックの海」――『EMANの物理学』)。タイルはそのモデルであるにすぎない。モデルと現実とをいっしょくたに論じられても困るのである。

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