「ことば」(「言語langue」)に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性という私の見解に対する秀さんの主張の要は
「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性*」というものも、無条件にそれを肯定することは出来ない。もし、このことを無条件に肯定してしまえば、それこそ間違った「先見的判断」として「先験主義」に陥ってしまうのではないかと思われる。「ことば」はそれがまったく新しい実体に対する命名であった場合は、もちろん現実がまず第一にあって、そこから概念が引き出され、それに命名されるという順番になるだろう。しかし、「ことば」の洪水の中で育っている現代の我々においては、まず「ことば」の意味が先行して後に概念が形成され、その概念に合致する現実を発見するという逆のコースも存在する。(注* 強調はシカゴによる)
という部分と
だが、その言葉(神――シカゴ注)が生まれた後に生きている人々は、まずは言葉の意味としての「神」の概念があり、その神の概念の現れを現実に発見することで信仰を深めていくということになるのではないだろうか。それこそ、「神」の意志の現れを現実に体験して、そこから「神」の概念を創っていく人は、現代人には皆無ではないかと思われる。
に尽くされているように思われる。
しかし上記二つの引用部における秀さんの主張は、「ことば」に対する概念の先行、概念に対する現実の先行という私の主張に対する反論になっていない。
話を進める前に、私がこれまで「ことば」あるいは「言語」というカッコつきの表現をしてきたことに注意をしていただきたい。このブログの記事ではソシュールや構造言語学の用語である言語(ラング)・記号(シーニュ)等を表わすのにカッコつきの「言語」や「シーニュ」を用いている。したがって、「言語」とは「言語langue」(語彙規範)のことであり、「ことば」とは「シーニュ」(語規範)のことである。繁雑さを避けるため、この記事においても「言語langue」(語彙規範)を単に「言語」と表わし、「シーニュ」(語規範)を簡単に「ことば」と表記する。
したがって、「ことば」に対する概念の先行というのは、「シーニュ」(語規範)に対する概念の先行という意味である。つまり、個々の語規範(語概念⇔語韻という形態の連合)の形成に先立つ概念の形成を私は主張しているのであり、個々の「ことば」が個人の意識内に形成されるためには、「ことば」の形成に先立ってそれを構成する個々の概念(語概念)および個々の音韻(語韻)が個人の意識のうちに形成されていなければならないと私は主張しているのである。
話を順に進めていこう。秀さんは「まったく新しい実体に対する命名であった場合」や「神という概念が形成された」時点における概念に対する現実の先行と「ことば」に対する概念の先行とを認めているから、まずはそのような状況における概念の形成および「ことば」の創出について、その過程がどういうものであるかを観察してみよう。
人間は現実のものごとをその頭脳において認識する(個別概念という形態で概念的に把握する)が、その個別概念から抽象した普遍的な概念と、これまた個別の音声を頭脳において概念的に把握した個別の音像(音声表象)から抽象した普遍的な音韻列とが結びつけられて初めて、ある特定の「ことば」は誕生する。そして、今となっては誰が命名したかは分からないが、ある特定の個別の「ことば」は、誰か特定のある個人あるいは特定の複数の個人によって特定の概念と特定の音韻列とが結びつけられることによって生まれたのである。したがって、ある特定の個別の「ことば」が創り出される以前にそれを形成する概念と音韻とがある集団内の特定のある個人あるいは特定の複数の個人の頭脳のうちに形成されていなければ、その特定の個別の「ことば」が創り出されることはない。
したがって、ある「ことば」の創造に先立ってその「ことば」を創造する個人の頭の中にはそれを構成するための概念のみならず、音韻もまた先行して存在しているということもつけ加えておく必要がある。そして、繰り返し強調しておかなければならないことは、新しく創り出される「ことば」を形成するための概念は、ある個別の複数のものごとから抽象されてそれら個人の頭の中に「ことば」の創出に先立って形成されていなくてはならないし、音韻もまた同様にそれら個人の個別の音声から抽象してそれら個人の頭の中に「ことば」の創出に先立って形成されていなければならない、ということである。これは、ある製品が作られるときにはその製品を形づくるための原料や部品が(製品よりも先に)存在していなければならないのと同じである。
しかし、さらに進んで秀さんが「「ことば」の意味が先行」すると主張している例、つまりすでに創り出されている「ことば」を、その「ことば」を知らない者が理解しようとしている状況においても、「ことば」に対して概念が先行し、概念に対して現実が先行しているということに違いはない。なぜなら、未知のある「ことば」をある個人が理解し、新たに獲得する過程は、上で述べた「ことば」が創造される過程を、その個人が現実的かつ観念的に追体験する過程だからである。
たとえば「言語」を習得中の幼い子どもが親からさまざまな言葉を教えてもらっている状況を想像してみれば分かることだが、子どもは目の前にあるものから個別概念を作り出してそこから特定の概念を抽出する。同時に子どもは親の発した音声から語音の音像を作り出してそこから特定の音韻列を抽出する。このようにして自分の頭の中に作り出した概念と音韻列とを結びつけることによって子どもはある「ことば」を習得するのである。自分自身の力で概念とそれに対応する音韻列とを頭の中で作り出すことができなければ、子どもは「ことば」を自分の頭の中に形成することができない。現実のものごとと出会うことによって頭の中に形成される個別概念とそこから抽象されて作り出される概念以前に、子どもの頭の中にどこからか知らないが音韻列と概念とが結合した「ことば」が降って湧くなどということはない*。
* ただし、未知の言葉の音声(語音)を耳にしてなんらかの概念が想像として思い浮かぶということは確かにある。しかし、それはすでに獲得している何らかの概念からもたらされる想念であって、「ことば」を構成する概念つまり「シニフィエ」(語概念・規範概念)そのものではない。また、ある未知の言葉の音声を聞いたり、あるいはその文字形象を見ただけでその言葉の意味(=語概念)が類推できる場合もあるが、そういう場合はその「ことば」を構成するための概念(語概念)に相当する概念が、その音韻(語韻)と結びつかない状態ですでにその人の頭の中に明瞭に存在していたのである(当然それは未知のその言葉と出会う以前に現実のものごとから抽出されて形成されていたものである。しかし、音韻列と結びつかない形態のさまざまな概念が個人の頭の中に形成されているというごく当たり前のことがらを、構造言語学や構造主義の立場に立つ人たちは認めない。そういう人たちは、言葉を話さない動物でさえ自分の周りの世界を概念的に認識し行動しているということも認めないのだろう)。
これに対して、ある程度「言語」に習熟している者が、未知の「ことば」を習得する過程はやや複雑ではあるが、基本的には幼児の場合と異なるところはない。しかし未知のその「ことば」を習得していない最初の段階では、秀さんの言う「「ことば」の意味が先行」は成立していない。秀さんの言う「「ことば」の意味」の先行は、その「ことば」を知っているものの立場で成立しているにすぎない。もしも、いまだその言葉を知らない者の頭の中でその「「ことば」の意味が先行」していると秀さんが主張するなら、その者にとってその言葉はすでに既知の言葉であると主張しているのと同じであり、これはみずからの前提をくつがえして結論を先取りするという反則である。なぜなら「「ことば」の意味」という表現は、「ことば」の存在を前提しているからである。未知の「ことば」をこれから習得しようとしている者の頭の中では、概念はその「「ことば」の意味」という形態、すなわちそれに対応すべき音韻列と結びついた形態では未だ存在していない。
さて、未知の「ことば」を習得する場合、その「ことば」を構成するための音韻列「シニフィアン」(語韻)は頭の中にすぐに作ることができるとしても、それに対応する概念「シニフィエ」(語概念・規範概念)は明瞭な形で頭の中に形成されていないことが多いから、その人は辞書を引くなり、人に聞くなり、書物やインターネットで調べるなりしてその音韻列(語韻)と結びつけるべき概念(語概念・規範概念)を頭の中に形成しなければならない。その場合辞書その他の説明は他の多くの既知の言葉によってなされていなければ意味がない。説明の中に未知の言葉があるときは、その新たな未知の言葉についても調べる必要がある。いずれにせよ他の既知の言葉によってなされる説明を聞いたり、読んだりしながらその人はそれらの既知の言葉に媒介されて作られる概念を用いて思考し、ある特定の個別概念を自分の頭の中に作り出すのである。そしてその個別概念から普遍的な側面を抽象して作り出した概念(語概念)と、音声や文字形象から抽出した音韻(語韻)や字韻とを結びつけて自身の頭の中にその「ことば」を形成し、それまでに習得してきた言語規範(語彙規範)の内部のしかるべき位置に配置する。このように、個人は自らの概念化能力(抽象化能力)を使って未知の「ことば」を習得するのである。
しかしこのように、現実に存在するものごとと出会わずに習得した「ことば」はいまだ不完全なものであることが多い。辞書や書物を読んで形成される概念は、そこに記述されている既知の言葉の概念がすべて現実のものごとと出会った末に形成されたものだとしてもやはり現実そのものから直接形成されたものでない以上、やはり不完全なのである。だからこそ、多くの辞書は次善の策として絵や写真や図あるいは表などを用いて学習者が追体験しやすいように工夫しているわけであり、秀さんが指摘しているように、現実と出会ってその「ことば」本来の概念を獲得する必要もあるのである。そうしてこそ初めてその「ことば」を習得したと言えるのである。百聞は一見に如かずということわざはこのことを経験的につかんでいた先人の戒めと知るべきである。
いずれにせよ未知の「ことば」を習得するには自らの追体験によって概念や音韻列・字韻列を形成することがどうしても必要である。そして、その追体験の質によっては「ことば」の習得に失敗したり、「ことば」の意味を間違って覚えてしまったりといったことも起こるし、その追体験の仕方次第で習得した「ことば」の質にも差異が出るのである。
「ことば」に対する概念の先行性と概念に対する現実の先行性という私の主張は以上の通りである。
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