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2007年10月07日(日)| 意識>概念・表象 |  
概念は「言語」に先立つ(5)

 概念は「言語」に先立つ(1)~(5)をまとめて読む。

この稿は秀さんの「先験主義(アプリオリズム)の間違い」という記事の前半部に対するものであり、前稿「0の概念・マイナスの概念」よりも先に書き上げたものであるが、内容の先後を考えた結果後に回すことにした。

「ことば」(「言語langue」)に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性という私の見解に対する秀さんの主張の要は

「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性*」というものも、無条件にそれを肯定することは出来ない。もし、このことを無条件に肯定してしまえば、それこそ間違った「先見的判断」として「先験主義」に陥ってしまうのではないかと思われる。「ことば」はそれがまったく新しい実体に対する命名であった場合は、もちろん現実がまず第一にあって、そこから概念が引き出され、それに命名されるという順番になるだろう。しかし、「ことば」の洪水の中で育っている現代の我々においては、まず「ことば」の意味が先行して後に概念が形成され、その概念に合致する現実を発見するという逆のコースも存在する。(注* 強調はシカゴによる)

という部分と

だが、その言葉(神――シカゴ注)が生まれた後に生きている人々は、まずは言葉の意味としての「神」の概念があり、その神の概念の現れを現実に発見することで信仰を深めていくということになるのではないだろうか。それこそ、「神」の意志の現れを現実に体験して、そこから「神」の概念を創っていく人は、現代人には皆無ではないかと思われる。

に尽くされているように思われる。

しかし上記二つの引用部における秀さんの主張は、「ことば」に対する概念の先行、概念に対する現実の先行という私の主張に対する反論になっていない。

話を進める前に、私がこれまで「ことば」あるいは「言語」というカッコつきの表現をしてきたことに注意をしていただきたい。このブログの記事ではソシュールや構造言語学の用語である言語(ラング)・記号(シーニュ)等を表わすのにカッコつきの「言語」「シーニュ」を用いている。したがって、「言語」とは「言語langue」(語彙規範)のことであり、「ことば」とは「シーニュ」(語規範)のことである。繁雑さを避けるため、この記事においても「言語langue」(語彙規範)を単に「言語」と表わし、「シーニュ」(語規範)を簡単に「ことば」と表記する。

したがって、「ことば」に対する概念の先行というのは、「シーニュ」(語規範)に対する概念の先行という意味である。つまり、個々の語規範(語概念⇔語韻という形態の連合)の形成に先立つ概念の形成を私は主張しているのであり、個々の「ことば」が個人の意識内に形成されるためには、「ことば」の形成に先立ってそれを構成する個々の概念(語概念)および個々の音韻(語韻)が個人の意識のうちに形成されていなければならないと私は主張しているのである。

話を順に進めていこう。秀さんは「まったく新しい実体に対する命名であった場合」や「神という概念が形成された」時点における概念に対する現実の先行と「ことば」に対する概念の先行とを認めているから、まずはそのような状況における概念の形成および「ことば」の創出について、その過程がどういうものであるかを観察してみよう。

人間は現実のものごとをその頭脳において認識する(個別概念という形態で概念的に把握する)が、その個別概念から抽象した普遍的な概念と、これまた個別の音声を頭脳において概念的に把握した個別の音像(音声表象)から抽象した普遍的な音韻列とが結びつけられて初めて、ある特定の「ことば」は誕生する。そして、今となっては誰が命名したかは分からないが、ある特定の個別の「ことば」は、誰か特定のある個人あるいは特定の複数の個人によって特定の概念と特定の音韻列とが結びつけられることによって生まれたのである。したがって、ある特定の個別の「ことば」が創り出される以前にそれを形成する概念と音韻とがある集団内の特定のある個人あるいは特定の複数の個人の頭脳のうちに形成されていなければ、その特定の個別の「ことば」が創り出されることはない。

したがって、ある「ことば」の創造に先立ってその「ことば」を創造する個人の頭の中にはそれを構成するための概念のみならず、音韻もまた先行して存在しているということもつけ加えておく必要がある。そして、繰り返し強調しておかなければならないことは、新しく創り出される「ことば」を形成するための概念は、ある個別の複数のものごとから抽象されてそれら個人の頭の中に「ことば」の創出に先立って形成されていなくてはならないし、音韻もまた同様にそれら個人の個別の音声から抽象してそれら個人の頭の中に「ことば」の創出に先立って形成されていなければならない、ということである。これは、ある製品が作られるときにはその製品を形づくるための原料や部品が(製品よりも先に)存在していなければならないのと同じである。

しかし、さらに進んで秀さんが「「ことば」の意味が先行」すると主張している例、つまりすでに創り出されている「ことば」を、その「ことば」を知らない者が理解しようとしている状況においても、「ことば」に対して概念が先行し、概念に対して現実が先行しているということに違いはない。なぜなら、未知のある「ことば」をある個人が理解し、新たに獲得する過程は、上で述べた「ことば」が創造される過程を、その個人が現実的かつ観念的に追体験する過程だからである。

たとえば「言語」を習得中の幼い子どもが親からさまざまな言葉を教えてもらっている状況を想像してみれば分かることだが、子どもは目の前にあるものから個別概念を作り出してそこから特定の概念を抽出する。同時に子どもは親の発した音声から語音の音像を作り出してそこから特定の音韻列を抽出する。このようにして自分の頭の中に作り出した概念と音韻列とを結びつけることによって子どもはある「ことば」を習得するのである。自分自身の力で概念とそれに対応する音韻列とを頭の中で作り出すことができなければ、子どもは「ことば」を自分の頭の中に形成することができない。現実のものごとと出会うことによって頭の中に形成される個別概念とそこから抽象されて作り出される概念以前に、子どもの頭の中にどこからか知らないが音韻列と概念とが結合した「ことば」が降って湧くなどということはない*。

* ただし、未知の言葉の音声(語音)を耳にしてなんらかの概念が想像として思い浮かぶということは確かにある。しかし、それはすでに獲得している何らかの概念からもたらされる想念であって、「ことば」を構成する概念つまり「シニフィエ」(語概念・規範概念)そのものではない。また、ある未知の言葉の音声を聞いたり、あるいはその文字形象を見ただけでその言葉の意味(=語概念)が類推できる場合もあるが、そういう場合はその「ことば」を構成するための概念(語概念)に相当する概念が、その音韻(語韻)と結びつかない状態ですでにその人の頭の中に明瞭に存在していたのである(当然それは未知のその言葉と出会う以前に現実のものごとから抽出されて形成されていたものである。しかし、音韻列と結びつかない形態のさまざまな概念が個人の頭の中に形成されているというごく当たり前のことがらを、構造言語学や構造主義の立場に立つ人たちは認めない。そういう人たちは、言葉を話さない動物でさえ自分の周りの世界を概念的に認識し行動しているということも認めないのだろう)。

これに対して、ある程度「言語」に習熟している者が、未知の「ことば」を習得する過程はやや複雑ではあるが、基本的には幼児の場合と異なるところはない。しかし未知のその「ことば」を習得していない最初の段階では、秀さんの言う「「ことば」の意味が先行」は成立していない。秀さんの言う「「ことば」の意味」の先行は、その「ことば」を知っているものの立場で成立しているにすぎない。もしも、いまだその言葉を知らない者の頭の中でその「「ことば」の意味が先行」していると秀さんが主張するなら、その者にとってその言葉はすでに既知の言葉であると主張しているのと同じであり、これはみずからの前提をくつがえして結論を先取りするという反則である。なぜなら「「ことば」の意味」という表現は、「ことば」の存在を前提しているからである。未知の「ことば」をこれから習得しようとしている者の頭の中では、概念はその「「ことば」の意味」という形態、すなわちそれに対応すべき音韻列と結びついた形態では未だ存在していない。

さて、未知の「ことば」を習得する場合、その「ことば」を構成するための音韻列「シニフィアン」(語韻)は頭の中にすぐに作ることができるとしても、それに対応する概念「シニフィエ」(語概念・規範概念)は明瞭な形で頭の中に形成されていないことが多いから、その人は辞書を引くなり、人に聞くなり、書物やインターネットで調べるなりしてその音韻列(語韻)と結びつけるべき概念(語概念・規範概念)を頭の中に形成しなければならない。その場合辞書その他の説明は他の多くの既知の言葉によってなされていなければ意味がない。説明の中に未知の言葉があるときは、その新たな未知の言葉についても調べる必要がある。いずれにせよ他の既知の言葉によってなされる説明を聞いたり、読んだりしながらその人はそれらの既知の言葉に媒介されて作られる概念を用いて思考し、ある特定の個別概念を自分の頭の中に作り出すのである。そしてその個別概念から普遍的な側面を抽象して作り出した概念(語概念)と、音声や文字形象から抽出した音韻(語韻)や字韻とを結びつけて自身の頭の中にその「ことば」を形成し、それまでに習得してきた言語規範(語彙規範)の内部のしかるべき位置に配置する。このように、個人は自らの概念化能力(抽象化能力)を使って未知の「ことば」を習得するのである。

しかしこのように、現実に存在するものごとと出会わずに習得した「ことば」はいまだ不完全なものであることが多い。辞書や書物を読んで形成される概念は、そこに記述されている既知の言葉の概念がすべて現実のものごとと出会った末に形成されたものだとしてもやはり現実そのものから直接形成されたものでない以上、やはり不完全なのである。だからこそ、多くの辞書は次善の策として絵や写真や図あるいは表などを用いて学習者が追体験しやすいように工夫しているわけであり、秀さんが指摘しているように、現実と出会ってその「ことば」本来の概念を獲得する必要もあるのである。そうしてこそ初めてその「ことば」を習得したと言えるのである。百聞は一見に如かずということわざはこのことを経験的につかんでいた先人の戒めと知るべきである。

いずれにせよ未知の「ことば」を習得するには自らの追体験によって概念や音韻列・字韻列を形成することがどうしても必要である。そして、その追体験の質によっては「ことば」の習得に失敗したり、「ことば」の意味を間違って覚えてしまったりといったことも起こるし、その追体験の仕方次第で習得した「ことば」の質にも差異が出るのである。

「ことば」に対する概念の先行性と概念に対する現実の先行性という私の主張は以上の通りである。

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トラックバック:属性の帰属先としての存在
シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」と「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないかと思う。たぶ?...
2007/10/08 Mon 13:05:45 | 数学屋のメガネ
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

75歳♂。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール他)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

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