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存在と対象(2)――現象するものは存在する [PC版ページへ]
2007/10/15 06:21

 存在と対象(1)――存在は対他的である

 存在と対象(2)――現象するものは存在する

 存在と対象(3)――非存在という概念

 存在と対象(1)〜(3)をまとめて読む。

 関連:0の概念・マイナスの概念(1)――マイナス概念の形成

 関連:0の概念・マイナスの概念(2)――量概念からの抽象

 0の概念・マイナスの概念(1)(2)をまとめて読む。

あるものごとを取り上げて言及するとき、私たちはそのものごとがそこに存在することを疑わない。そして言及することのうちにそのものごとの存在を無自覚のまま前提している。眼前にあるものは私の感覚・知覚に対するものとして対象認知(知覚表象=個別概念という形態で)されている。また、たとえそのものごとが眼前に存在していなくても、それは意識している私に対するものとして対象認識(表象=個別概念という形態で)されている。つまり、対象として認知・認識されているものごとは私たちにとって存在している。したがって私たちにとって、ものごとが存在するとはそのものごとが私たちに対するもの(認知対象・認識対象)として現前・再現前していることである。しかし、ものごとが認知対象・認識対象として現前あるいは再現前しているとはどういうことであろうか。


ディーツゲンは『人間の頭脳活動の本質(小松攝郎訳・岩波文庫)でつぎのように言っている(「〔弁・抜〕ディーツゲンの「事物自体」批判」参照)

『人間の頭脳活動の本質』「三 事物の本質」から

 事物が事物として存在するのは「自体」として、本質においてではなく、他者との接触において、現象としてのみであるということは、自然的事物についてのみでなく、精神的事物についても、更に形而上学的にすべての事物について言いえられる。この意味において我々は次のように言うことができよう。すなわち、事物は存在するのでなく現象するのである。そしてそれが空間・時間において接触する他の諸現象が多様であるように、無限に多様な現れ方をするものであると。しかし、「事物は存在するのでなく、現象するのである」という命題は、誤解を避けるためには、「現象するものは存在する」しかしそれが現象する範囲内においてのみである、という命題で補われなければならない。(p.53)

これから分かるように、ものごとが認知対象・認識対象として現前あるいは再現前しているとは、ものごとが私たちの感覚・知覚に対するものとして眼前に現象しているか、あるいは意識している私に対するものとして意識の内部で現象していることである。そしていかなるものごとも単独でそれ自体として現象することはできない。対象をもたないもの=対象と関係をもたないものは現象することができない。ものごとが現象するためにはそれと互いに関係し合う対象を必要とするのである。したがって現象するものはそれと互いに関係し合う対象をかならずもっている(その対象と互いに接触しあっている)。そしてものごとが現象するさまが、私たちの認知・認識の対象となるとき(=私たちに対して現象するとき)私たちはそのものごとの存在をとらえるのである。そのとき私たちもその現象の対象となっているのであり、私たちもまたその現象にとって存在しているのである。

したがって存在とはものごとがその対象と関係しあって現象すること、私たちがその現象をとらえたことをいうことばである。「事物は(存在するのでなく、)現象する」「現象するものは存在する」「それが現象する範囲内においてのみ」というディーツゲンのことばはそのように受けとめるべきである。

また、同書においてディーツゲンはつぎのようにも言っている(「人間の思考・認識は個別概念を介して行われる」の 引用部 参照)。

『人間の頭脳活動の本質』「二 純粋理性或は一般的思惟能力」から

 感覚的現象は何れも、それによって自己を表現する対象を必要とする。暖かさが現実的に存在するためには、対象が、すなわち暖められる他者が存在しなければならない。能動的なものは受動的なものなしにはありえない。見えるものも視覚がなければ見えないし、視覚も見えるものがなければ視覚ではない。思惟能力もまた現象するものであるが、しかし、すべての事物と同じように、決してそれ自体だけで(an und für sich)現れるのではなく、常に他の感覚現象と結合して現れる。思想は、すべての現実的現象と同じく、或る客体において、またそれと共に現れる。…(p.30〜31)

この部分について「人間の思考・認識は個別概念を介して行われる」の中で私は

非対象的な存在とは一つの非存在である」とマルクスもいっているように、人間の意識もその例外ではなく、「思惟能力もまた…すべての事物と同じように、決してそれ自体だけで(an und für sich)現れるのではなく、常に他の感覚現象と結合して現れる」のである。

と書いた。つまり、存在はつねに現象のうちに、すなわち対象的な存在、対他的な存在として――他者との相互関係をもった存在として――現われるしかないのである。

『人間の頭脳活動の本質』はカント批判においてなされた書である。存在についてのディーツゲンの指摘はまさにカントの「物自体」をその根源から批判している。新カント派は「物自体」を存在という属性しかもたないものと規定し、「物自体」は認識できないもの、知ることのできないものとして不可知論を唱えている。しかし、ものごとの属性は他者との関係を通じて現象として現われ、それによってものごとの存在を示すものである。つまり、ものごとは現象することによってその属性を現わし、それによって存在を示す。したがって、たとえ存在という属性をもつとしても存在以外の属性をもたない「物自体」は現象することができない。それゆえ「物自体」はその属性である存在を示すことさえできない。しかし現象として現われることのない属性とは一体何であろうか。そのようなものはもはや属性とはいえない。

存在はものごとの属性の一つではあるが、もっとも一般的・普遍的な属性すなわちすべてのものごとがもつ属性である。しかし存在という属性は他の属性をもって示すことしかできない。つまり存在とは、ものごとが他者との関係において現象すること――ものごとはかならず現象として現われること――を一般性として精神が概念的にとらえること以外の何ものでもない。

『人間の頭脳活動の本質』「三 事物の本質」から

「事物自体」・本質とその現象との矛盾は、完全な理性批判によって解決される。すなわちその矛盾は、人間の思惟能力は任意の数の感覚的に与えられた多様性を精神的統一・本質として捉えること、特殊のもの或は雑多なものにおいて同種のもの或は一般的なものを認めること、従って一般者に対立するすべてのものをヨリ大きな全体の個々の部分として理解すること、等を認識することによって完全に解決される。

 言いかえれば、感覚世界の絶対に相対的な・一時的な・形態は我々の脳髄活動にとっての材料となり、我々の意識は同種のもの或は普遍的なものという標識によってこの材料を抽象し、これを体系化し、秩序づけ或は規制する。無限に多様な感覚界は精神すなわち主観的統一に出会う。すると、そこで精神は多者から一者を、部分から全体を、現象から本質を、消滅から不滅を、属性から実体を作り上げる。実在、本質或は事物自体は理想的な、精神的な産物である。(p.50)

『人間の頭脳活動の本質』「二 純粋理性或は一般的思惟能力」から

 意識(Bewusstsein)は既にその語義からみてもわかるように存在の知識(Wissen des Seins)である。従って意識は一つの形式、特性であって、他の特性から区別されるのは、知っている(bewusst ist)ということによってである。(p.45〜46)

(関連記事)

存在と対象(1)
〔弁・抜〕ディーツゲンの「事物自体」批判
〔弁・抜〕物自体――『フォイエルバッハ論』から
人間の思考・認識は個別概念を介して行われる
主観・客観と観念的自己分裂



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