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2007年10月28日(日)| 科学>数学 |  
割り算から見た量(1)――内包量と外延量

 割り算から見た量(1)――内包量と外延量

 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量

 割り算から見た量(1)(2)をまとめて読む。

子どもは(実は大人も)割り算が苦手である。その一つの理由は割り算という計算のアルゴリズム(算法・計算手順)が複雑なことにある。しかし、「たてる→かける→ひく→おろす」の繰り返しという割り算のアルゴリズムの複雑さは経験によって比較的簡単に克服できる。つまり、日本の算数教育の主流である計算ドリルによって割り算の計算だけはなんとかなるのである。実は「割り算が苦手」の真の理由は他にある。にもかかわらずそのことに気がついている教師は少ない。

中学受験の参考書や塾では昔から割り算には等分除と包含除と、二種類のものがあるという指導をしている。これについては教師向けの教科書の指導書にはもちろん記載されている。しかし、教科書ではことさらに明文化して取り上げていないので子どもたちはそのことを明確に意識せずに小学校を卒業していく(割り算を学ぶ小学3年生・4年生にとって等分除・包含除ということばは難しい。しかし「一人あたりをもとめる割り算」「何人分かをもとめる割り算」という表現を使えば十分理解可能であるし、さらに「一台あたり」「何台分」といった風に広げていくこともできる。そして後に述べるように最終的に「1あたり量」「いくら分」という形で一般化することができるはずである)。しかも「等分除と包含除と、二種類のものがある」ということを頭で理解しただけではまだ十分ではない。現実の事象に即してこの二種類の割り算を理解しそれによって、割り算の結果として得られる量についても二種類の量が存在するのだということを理解して初めて割り算について、そして量について分かったといえるのである。

ことばだけでは直観的な理解がむずかしいので、タイル図を用いて等分除と包含除について説明しよう。

「一人あたり3個のみかんを4人の子どもに配るには、全部で12個のみかんが必要である」の計算はかけ算を使って (1) 3個/人 × 4人 = 12個 のように表わされる。このかけ算はタイル図では

(1)
S×S
SS

のように表わされる。そして(1)のかけ算で表されるこの関係は、逆算である割り算を使って(2) 12個 ÷ 4人 = 3個/人 、および(3) 12個 ÷ 3個/人 = 4人 の二通りに表現できる。また、(2)、(3)の割り算をタイル図で示すとつぎのようになる。

(2)
S÷S
SS
(3)
S÷S
SS

(2)は一人あたりのみかんの数を求める割り算(等分除)であり、(3)は何人分のみかんがあるかを求める割り算(包含除)である。

この例を一般化して「一人あたりm個ずつn人の子どもに配るのに必要なみかんの総数はs個である」とすれば、このことを表すかけ算は
     m個/人 × n人 = s個
となる。さらにこれを一般化すれば
   (1あたり量)×(いくら分)=(全体量)
と表せる。

そうすると、(2) 等分除とは(全体量)を(いくら分)で割って(1あたり量)を求めることであり、狭い意味では「s個のものをn等分すると一つ分はいくつになるか」という問題を解くときに使う割り算であることが分かるし、(3) 包含除とは(全体量)を(1あたり量)で割って(いくら分)を求めることであり、狭い意味では「s個のものをm個ずつ分けると何等分できるか」という問題を解くときに使う割り算であることが分かる。タイル図を見ると(1あたり量)は縦一列にタイルを並べたもので表わされ、(いくら分)は横一列にタイルを並べたもので表わされ、全体量は縦×横で表わされていることも直観的に理解できる。

(2)等分除、(3)包含除の二種類の割り算の結果として求められる二種類の量のうち(2)等分除の結果として求められる(1あたり量)は教科書では「単位量」と呼ばれているが、水道方式ではこれを内包量(intensive factor)と呼んでいる。内包量は自然科学の分野では示強因子あるいは強度因子(intensive factor)と呼ばれる量であり、その和を単純なたし算で求めることができない*。それゆえ、一人あたりとか単価とか平均とかといった身近な1あたり量は別として、仕事率とか密度とか速度とかいった抽象的な1あたり量は子どもにとっても大人にとってもその大きさを実体として把握することが難しい量なのである。

* これについては「温度はたし算・引き算できないか(1)(2)」にも書いた。また、学力調査の結果に関連して瀬戸智子さんが「学力テスト結果から、具象と抽象について」で速度や割合のような内包量が単純にたし算できないことを書いておられる――割合も内包量であるがこれについては別の記事で扱う予定。

内包量に対して長さや質量・体積・時間などのようにその大きさが単純にたし算できる量のことを水道方式では外延量(extensive factor)と呼ぶ。また、自然科学の分野では外延量を示量因子とか容量因子(extensive factor)と呼んでいる。上のかけ算・割り算で挙げた例では(いくら分)と(全体量)は外延量である。人間の社会を含めた自然界には(1あたり量)×(いくら分)=(全体量)つまり 示強因子×示量因子=示量因子 という線形(一次の比例)で表わされる関係や現象がたくさんある。

1あたり量・単位量については小学校5年生で小数のかけ算・割り算、6年生で分数のかけ算・割り算と関連づけて学ぶのであるが、説明が天下り式になりがちなので子どもたちはしっかりと理解できないまま公式だけを覚えて終ってしまう。こうして小学校の小数・分数の計算はアルゴリズムの複雑さと同時に応用問題の構造的複雑さという二つの大きな壁を乗り越えなければならないという宿命を負っている。特に後者の1あたり量(内包量)の構造を理解できない限り応用問題は解けないのである(似たような問題を類型化・公式化した受験参考書のテクニックを丸暗記しただけでは真の実力は身につかない)。にもかかわらず、小中学校の算数・数学・理科の授業では1あたり量・単位量を含めて量というものに関する指導にあまり力を入れているようには見えない。水道方式を見習って小中学校の算数・数学は量と図形という二つの柱について体系的な指導を行なうことがもっとも重要であると私はずっと感じている*。

* 1あたり量(内包量)はその単位(名数を含む)が「/」(毎,per)を含む形式で表わされる(個/人, km/時, g/cm3, など)ことを小学校の段階で指導すべきであると私は思うし、実際にそうしている。なぜなら単位の中に割り算が隠れていることが見ただけで分かるからである。たとえば小学生や中学生が(高校生も)苦手な速さの計算では速さ(km/秒)が km/秒=km÷秒=道のり÷時間 で得られることが直観的に分かる。

〔2012年4月6日 追記〕かけ算の順序に関して最近、ネット上を賑わしている小学校算数の文章題とかけ算の順序についての議論の中で当記事のタイル図が取り上げられて、それをもとに的外れな非難をしている方が見うけられる。当記事ではかけ算の順序については何も言及していないが、文章題の答案におけるかけ算の順序には意味があると私は考えている。子供も教師もそれぞれ自分の考えた解き方に基づいて立式するのであるから表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映されるのは当然のことである。そしてある一つの問題についての解法は一つに定まったものではなく複数の考え方が存在する。ある問題に対する解法にもいろいろなものがあるのは真摯に子供に向き合っている教師ならみな承知しているはずである。

したがって、自分の解き方だけが正解でありそれに従った立式だけが正しいという考えは間違っている。世の中にはそういう教師がいて自分の教えたやり方に従わない子供の考えた式に×をつける者も確かに存在する。その教師は文章題の解決に用いられた式には意味があると考えているかも知れない。しかし「間違った」立式をした子供が表現した式にも意味があるというところまで想像力が及ばなかったのではないか。だから、そういう固定観念に縛られた教え方に対する批判は、文章題を解いた時に表現された式には意味があるということを踏まえたものでなければ的を射たものにはならない。

この記事に載せたタイル図における縦に並べたタイルと横に並べたタイルにはそれぞれ意味を持たせてあることは、きちんと記事を読んだ方にはお分かりであろう。「3個/人のみかんを4人に配る」を「3個/人 × 4人」と表現するのは自然であるし、「4人のそれぞれに3個/人のみかんを配る」を「4人 × 3個/人」と表現するのも自然である。ただ、教科書では「(1あたり量)×(いくら分)=(全体量)」というのがほぼ公式的に扱われているために「3個/人のみかんを4人に配る」→「3個/人 × 4人」と表現する子供の方がかなり多いことは確かであり、教える側としては公式は一通りの表記の方が子供が混乱せずに済むという意味でありがたいことはたしかである。

「4人のそれぞれに3個/人のみかんを配る」と考えて「4人 × 3個/人」と立式した数少ない子供の例を授業の中ですくい上げて、「3個/人 × 4人」も「4人 × 3個/人」もともに正しい考え方であることを説明し、それを通してかけ算の交換法則へと話を展開する教師もいるのではないか。そういう教師のもとで学んだ子供なら長方形の面積の公式が「縦×横」と「横×縦」と二つ示されていても混乱することはないだろう。要は、教師には「子供の立場に立って子供の行動や思考過程を理解する」ことが求められるということではないかと私は思う。自身の経験をいえば、教えることを通して子供から沢山のことを私は学んだ。教える者はまた教えられる者でもある。マルクスのいうように「人間はたがいにつくり合」って生きている。教育という過程にも弁証法性は貫かれているのである。

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コメント
 
[526] トラックバック届かず
2012/04/07(土)16:58:46 | URL | さつき[編集
拙ブログにコメントいただいた さつき です。
大変参考になりました。

トラックバックを送った記事として私のブログ記事がリストされていますが、
届いていないようです。
フリーで受け付けるようにしていますので、もう一度トライしていただけないでしょうか。
それでダメなら、設定の問題をチェックしてみます。
なお、私自身は、どこへもトラックバックは送らない、相互リンクはしないという主義ですので、ご了承下さい。
 
[738] 遠山さんのこと
2013/09/22(日)19:38:39 | URL | さつき[編集
ご無沙汰しています。さつきです。
今朝の毎日新聞に遠山啓さんについての長い記事が載ったので、拙ブログにて関連するエントリをあげました。
シカゴ・ブルースさんのここのエントリの追記に「表現された式には、子供や教師それぞれが頭の中でたどった個々の問題解決過程が反映される」と書かれていることの重要性について言及したものです。
 
[741] Re: 遠山さんのこと
2013/09/23(月)19:54:34 | URL | シカゴ・ブルース[編集
さつきさん、こんばんは。

私は子どもの頃からことばの持つ不思議な働きにずっと関心と興味を抱き続けてきました。不思議な働きというのはなぜ人々は相手の発することばの意味を理解し合えるのだろうということに尽きるのですが、その理由をはっきりと理解できるように私に教えてくれたのが三浦つとむの『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)でした。

ことばは表現の一種であるということ。表現は個々人の意識の中身を他の人間に伝えるために人々が発明したものであること。表現によって伝えられる「個々人の意識の中身」こそが表現の意味であること。そして言葉という表現は絵や写真や映像などと違って人が生きて暮らしている特定の社会の中で作られた一つの約束事に従ってなされる表現であること。この約束事こそ "langue" であるとソシュールは喝破したのであり、三浦つとむはそれを法律や掟や道徳などと同じ社会的なきまり――社会的な規範であると規定し、それを言語規範と名づけたのでした。

言語規範とは「ある特定の概念を表すには特定の語(単語)を用いるべし」という一種の体系的な決まりです。

これだけならどうということもない事実であり、辞書には言語の語義として載っている当たり前のことがらなのですが、ではなぜこの決まりに従って表現された他者のことばの内容・意味を人は理解できるのでしょうか。同じように「お前は馬鹿だな」という表現でありながら、一方は侮蔑の表現であり一方は愛情の表現であることがあります。同じ言葉でもちがった内容を表現することがある、というのが言語表現の持つ不思議なのですね。というよりも同じことばであっても実際に表現された時の意味はそれぞれみな違っているのだというのが本当のところです。

このことを「表現されたことばの意味は相手の立場――主体的な立場――になって心の中でそれを追体験しなければ分からない」と言ったのが言語過程説を唱えた時枝誠記(ときえだもとき)であり、そのことを人間の想像力の働きから説明したのが三浦つとむです。つまり他者のことばを理解するときには、人々は意識の中で現実の自分とは違った他者の立場になって――観念的に自己分裂をして――(ほとんど無意識のうちに)ものごとを考えているのだといい、これを観念的な追体験と呼んでいます。つまり意識の中で自己を二重化し、そのことばを表現した他者の立場になってそのことばが表現された過程を観念的に追体験することによって人々はそのことばの意味を理解しているのだ、と三浦は言っているのです。

数学で使われる数式もまた一種の言語であり、一つの規範に従ってなされる表現ですからふつうの言語表現と同じように表現された数式の意味を理解するにはやはり表現した他者の立場に立って観念的な追体験をしなければその意味を理解することはできません。遠山啓さんはそのことを十分に理解していたのだと私は思います。

だから同じように「3×4=12」と書かれている式であってもその意味は実にさまざまであり、答案に書かれている数式の意味もその答案を書いた子どもの思考過程を観念的に追体験してみなければ理解することはできないわけです。

そんなわけでこのような観点に立たないかけ算の順序論議などは意味がないと私は考えています。なお、私もまたさつきさんと同じく遠山啓ファンの一人であることを自認しています。彼の自然科学者的な数学思考ゆえに私は彼のものの考え方に惹かれているのだなと自己分析しています。

数学が自然科学かどうかというのはおもしろい議論ですが、三浦つとむがふつうの自然科学を社会科学などと同じように個別科学とよび、形式論理学や弁証法を一般科学と呼んでいるのに鑑みれば、数学という科学は一般科学でありながら様々な科学に応用される時には個別科学という側面を担っているのではないかと私は思います。学校教育では純粋に一般科学としての数学を学ぶのではなく個別科学の側面を特に色濃く含んだ個別科学としての数学を通して一般科学としての数学を学んでいるのだと思います。西洋で算数と数学という2分類が成立したのはこのような数学の性格を無意識のうちにつかみとっていたからではないかと考えています。

私は国語と理科が好きでありながら算数や数学には苦手意識を持っていました。今思えば個別科学としての自然科学が好きだったんですね。ものごとを概念としてきちんと理解することが私の勉強でした。数学は私にとって概念的に理解することがとてもむずかしかったのでしょう。理科好きのこどもの例に漏れず私は現実の事物に即して体験しながら概念的な把握をして初めてものごとを理解するという思考過程を常にたどってきました。数学は私にとってその追体験がとてもむずかしい教科だったのです。数学は公式を暗記してたとえ試験で良い点を取っても私にはなぜか分かった気がしない不思議な教科だったのです。それは今も同じです。
 
[744] 
2013/09/24(火)22:06:39 | URL | さつき[編集
シカゴ・ブルースさん、
いろいろとお教えいただきありがとうございます。
私は、ソシュールも三浦つとむも読んだことはないのですが、おっしゃることは何となくわかるような気がします。

私の記事のタイトルに、最初は(ことばといみ)と付けていたのを、次に(表現と意味)に変えてみると、こちらの方がスッキリくることに気づき、次にこれを(表現といみ)に変えてみると、同じ日本語なのに、なんだか意味が違ってくるような気がしておもしろいなあと思ったのでした。

言語学は奥が深く、いまさら深く学ぶ気力もないのですが、チョムスキーの生成文法についての本を読んだときは遠山さんの哲学に通じるものがあると感じて、こちらは少し勉強してみようと思っています。数学が言語(学)の一つだという考えはその辺りからきています。

なお、私は、いろいろな科学をまとめたものが哲学で、その中では社会科学も人文科学も自然科学も平等な科学の要素で、科学というときにとりわけ自然科学を特権的に扱うべき理由は何もないと思っています。

では科学とは何か、芸術と何が違うのか、これを考えるためにブログを立ち上げました。今のところ、科学とは、「証拠をもとに何事かを語ろうとする態度のこと」だという以外、妙案が思いつきません。先はながいです。

では、御礼まで。
 
[746] Re: タイトルなし
2013/09/25(水)11:19:37 | URL | シカゴ・ブルース[編集
さつきさん、こんにちは。

科学と芸術、ジャンルが違います。では最大の違いは何か。

科学は人間が外的な世界・自然界からつかみとってきた真理の体系です。マルクス風に言えば人間の意識・認識に到達した対象的真理の体系ですね。ですから科学は認識という形態で個々の人間の意識の中に存在するものです。

一方、芸術は人間が自分の意識の中で起こっていることのうち感動に属するものを人間の五官に映る形態にして絵画や映像・彫刻・音楽・文章などの物象として表現したものです。したがって芸術は目に見える作品として存在するものです。感動は真理であるかどうかを条件としません。感動が真か偽かなどと論ずること自体が無意味です。

真理は人間の意識の中できちんと概念化され類別・分類されるので必然的に一つの体系の中で一定の場所に納まります。科学とは科学的真理の体系にほかなりません。しかし科学的真理には必ず「ある特定の条件の下で成立する真理である」という限定があります。というより真理というものは前提条件なしに真であるか偽であるかの判定ができない性格のものです。

かつて自然科学は自然哲学として存在していました。しかし自然科学の成立・発展とともに自然哲学は消滅してしまいました。未だに「~哲学」として残っているものは個別科学がまだ未熟でそれが科学的真理として体系化されていないがゆえに残っているだけです。言語学はまだ未熟です。言語学者はそれを自覚していないので人間の意識や認識に対する分析がきちんとできずにその分析や研究を言語哲学に丸投げしてしまって自ら自分の意識の中を覗いて研究することを怠っているのです。

なおチョムスキーの理論はソシュールの言語学に立脚しています。ソシュールは自分の研究が不十分な部分を言語哲学や記号学に丸投げしたまま放ってしまったのでソシュール言語学は科学としては未だに未完成なままです。記号学もソシュール理論をなぞっているだけなのでやはりまだ科学と呼べるところに到達できずに記号哲学にとどまっています。
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(69歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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