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物自体(2)――ディーツゲンの「事物自体」批判〔弁・抜〕 [PC版ページへ]
2006/07/04 06:07

 物自体(1)〜(4)をまとめて読む。

ディーツゲンの『人間の頭脳活動の本質』からカントの事物自体(物自体)を批判している部分を紹介する。


ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』小松攝郎訳/岩波文庫「三 事物の本質」p.52〜54 

 精神は一般的に、属性から実体へ、相対者から絶対者へ、仮象を越えて真理へ、事物「自体」へ到達しようと努力したが、その努力の結果、実体は思想によって集められた属性の総計であること、従って、精神或は思想は、感覚的多様性から精神的統一を創り出し、世界の移り変る事物或は属性を結合することによって、独立的な存在「自体」すなわち絶対的な全体として捉えるところの唯一の実体的な存在であることが明かになった。精神は属性に満足せず、絶えず実体を尋ね、仮象を捨て去り、真理・本質・事物自体を求め、そして最後にこの実体的真理が、真理でないと想像されたものの総計、すなわち現象の全体であることを明かにしたが、それによって精神は自分が実体の創造者であることを実証した。しかし、この創造者は無からでなく属性から実体を、仮象から真理を産み出すものである。

 現象の背後に本質が隠れていてこの本質が現象するという観念論的な考えに対しては、この隠れた本質は外界にではなく、人間の頭脳の中に別に住んでいるという認識をもって酬いることができる。しかし、頭脳は仮象と本質、特殊なものと一般的なものとを感覚的経験にもとづいてのみ区別するのであるから、この区別は根拠のあることであり、この認められた本質は現象の背後にはなくても、しかし現象のには存し、客観的に現存するということ、そして我々の思惟能力は本質的・実在的な能力であるということ、を見失ってはならない。

 事物が事物として存在するのは「自体」として、本質においてではなく、他者との接触において、現象としてのみであるということは、自然的事物についてのみでなく、精神的事物についても、更に形而上学的にすべての事物について言いえられる。この意味において我々は次のように言うことができよう。すなわち、事物は存在するのでなく現象するのである。そしてそれが空間・時間において接触する他の諸現象が多様であるように、無限に多様な現れ方をするものであると。しかし、「事物は存在するのでなく、現象するのである」という命題は、誤解を避けるためには、「現象するものは存在する」しかしそれが現象する範囲内においてのみである、という命題で補われなければならない。

「我々は熱そのものを知覚することはできない、」とコッペ教授の物理学は言っている。「我々は熱の作用から推論して、この動因が自然の中に存在することを推測するだけである。」このように推論する自然科学者は、実践的に物の作用を熱心に帰納的に研究することによって物の認識を求めているのであるが、論理学の理説の理解を欠いているために、隠れた「事物自体」への思弁的信仰に助けを求めるのである。それとは逆に、我々は熱そのものの知覚できないことから推論して、自然においてこの動因は現存せず、自体として存在することもないと考える。むしろ我々は、熱の作用は物質的材料であって、この材料から人間の頭脳が「熱そのもの」という概念を作り上げると理解している。科学がおそらくまだこの概念を分析していないので、教授は、我々は熱概念の対象を知覚しえないと、云ったのであろう。熱の種々の作用の総和、これが熱そのものであり、それ以外に熱はない。

思惟能力はこの種々の作用を概念において統一として捉える。この概念を分析すること、熱と呼ばれている極めて多様な現象或は作用の中から共通なもの或は一般的なものを発見することが帰納的科学の職分である。しかしその作用から引離された熱は、柄も刀もないリヒテンベルクの小刀と同じように、思弁の産物にすぎない。

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