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2007年10月30日(火)| 科学>数学 |  
割り算から見た量(2)――絶対量と相対量

 割り算から見た量(1)――内包量と外延量

 割り算から見た量(2)――絶対量と相対量

 割り算から見た量(1)(2)をまとめて読む。

1あたり量の問題と並んで難しいのは割合の問題である。割合も小数・分数のかけ算・割り算と関連して小学5・6年生で学ぶ。5年生では小数と関連して歩合・百分率を、6年生では分数と関連して「~の何分のいくつ」という形の問題、および比(比の値)の問題を学ぶのであるが、子どもにとっては1あたり量に劣らず難しい。

しかし、3・4年生で学ぶ倍のかけ算・割り算を最初から復習しなおして、割合は倍を拡張した概念であるという形で導入すると比較的すんなりと入っていける。つまり、いきなり歩合や百分率に入らずに 整数倍→小数倍→歩合・百分率→分数倍 というふうに順を追って時間をかけて導入すればたいていの子どもはつまずかずに済む。

さて、倍のかけ算の一般形は、
     (1にあたる量)×(倍)=(倍にあたる量)
であるが、少し表現を変えると、
   (b) (1にあたる量)×(いくつ分)=(いくつ分にあたる量)
となる。また、倍は狭い意味では整数倍であるが、整数倍だけでなく小数倍や分数倍にまで倍の概念を拡張したものが割合であるから、割合のかけ算は
   (b') (1にあたる量)×(いくら分)=(いくら分にあたる量)
となる。これを「割り算から見た量(1)――内包量と外延量」で扱った1あたり量のかけ算の一般形
   (a) (1あたり量)×(いくら分)=(全体量)
と比べてみよう。これも少し表現を変えると、
   (a') (1あたり量)×(いくら分)=(いくら分にあたる量)
の形になる。

(b')(a')とを見比べるとそっくりである。つまり、1あたり量のかけ算と割合のかけ算とは構造が同じである。しかしこの二つは具体的な量の関係を名数・単位を含んだ式で表わすとまったく違うもののように見える。

たとえば、1あたり量のかけ算「1人あたり3個のみかんを4人の子どもに配るには、全部で12個のみかんが必要である」の式は
   (a1)  3個/人 × 4人 = 12個
のように表わされるが、倍のかけ算「3m の4倍は12m になる(3m を1とすると、4にあたる長さは12m である)」の式は
   (b1)  3m × 4= 12m
のようになる。タイル図で示すとどちらもつぎのようになる(構造は同じである)。

(1)
S×S
SS

名数・単位を含んだ式 (a1),(b1) を見比べてもっとも大きな違いはいくら分の部分である。(b1)の式では名数・単位のない量(無名数)になっている。その理由は割合という量の特殊性にある。割合・比(ratio)ということばからも分かるように、割合(倍)はもともと同種の二つの量の大きさを比較するために用いられる量で、どちらかを基準にして、もう一方がそれの何倍(いくつ分・いくら分)に当たるかを表わす量であるから、割合(倍)は(比較される量)÷(基準にする量)という割り算をして得られる量である(これは、(b1) で用いたことばを使うと(いくつぶんに当たる量)÷(1にあたる量)になる)

(a1),(b1) のかけ算で表わされる関係を(いくら分)を求める割り算で表わすとそれぞれつぎのようになる。
   (a3)  12個 ÷ 3個/人 = 4人
   (b3)  12m ÷ 3m= 4

つまり、(b3)から分かるように割合(倍)は
    12m ÷ 3m= 12m/3m =4 m/m = 4
という計算の過程で同種の単位どうしが約分されて結果的に名数・単位のつかない特殊な量になるわけである。しかも重要なのは割合(倍)は二つの量の間で割り算をして得られる量であるから、割合は内包量であるということである。普通の1あたり量における(いくら分)が外延量であったことを考えるとこれは大きな違いである。つまり、1あたり量のかけ算と割合(倍)のかけ算とは共通の構造をもつが外延量・内包量という観点から見るとその構造には違いもあるということである。

また、(a1),(b1) を比べてわかるもう一つの違いは(1あたりの量)と(1にあたる量)の名数・単位部分である。(a1)の(1あたりの量)には「/」が含まれているが(b1)の(1にあたる量)には「/」がない。しかし、これは構造の違いというよりは表記法による違いとみるべきであろう。つまり割合(倍)の(いくら分)が単位のない量であるために、本質的には 3m/1 と表記されるべきところを単に 3m と表記しているだけのことだからである。つまり(b1)は本質的には、
    (b1) 3m/1 × 4 = 12m
のように表記されるべきものなのである。この表記は「3m の4倍は12m である(3m を1とすると、4にあたる長さは12m である)」という関係を比で表わしたときの、
    12m:3m = 4:1, または 12m/3m = 4/112m/4 = 3m/1
ともぴったり符合する。したがって、割合(倍)のかけ算における(1にあたる量)は内包量である。

以上をまとめると、普通の1あたりの量のかけ算が 内包量×外延量=外延量 という構造をしているのに対して、割合(倍)のかけ算は 内包量×内包量=外延量 (外見的には 外延量×内包量=外延量 とも解釈できる) という構造になっているのであり、これが倍(割合)のかけ算の特殊性である。この特殊性が割合(倍)の問題の難しさの主な原因となっている。

割合(倍)という内包量には外見上名数・単位がつかないという特殊性は、量というものを単純にたし算できるものかそうでないものかという観点から外延量と内包量とに分けただけでは不十分であるということを意味する。割合(倍)が外延量や一般の内包量と異なって外見上名数・単位をもたないということを現実の事象に即していうと、外延量や一般の内包量が現実の事物の絶対的な大きさそのものを表わす量であるのに対して割合(倍)は二つの同種の量の間の相対的な大きさの関係を表わす量であるということである。簡単にいえば、外延量や一般の内包量は絶対量であり、割合(倍)は相対量であるということなのである。

というわけで、瀬戸智子さんが「学力テスト結果から、具象と抽象について」で速度や割合のような内包量が単純にたし算できないことを書いておられるのは、速度や割合の内包量としての性質に即しての論であり、「分数」には「量分数」と「割合分数」があると書いておられるのは、絶対量と相対量という観点に即しての論であることがご理解いただけるのではないかと思う。私自身は「量分数」と「割合分数」に関しては、つぎのような理由から子どもたちにはもっと広い視野に立った指導をすべきであると考えている。

教育界では具体的な量(絶対量)を表わす分数を「量分数」、割合・倍(相対量)を表わす分数を「割合分数」として区別するのであるが、絶対量と相対量の両者に用いられる数は分数だけではない。「8m の 3/4(倍) は 6m である」という風に割合(倍)を表わすのに使われる分数は「割合分数」であり相対量である。しかし日常生活では「1リットルは1ミリリットルの 1000倍である」とか「2.4kg の 1.5倍は 3.6kg である」といったように整数や小数も割合(倍)を表わすために用いられる。つまり、そのようなことばは使わないにせよ「量整数」「割合整数」「量小数」「割合小数」という概念も存在するのである。したがって本当に大切なのは「量分数」「割合分数」という区別そのものではなく、量には絶対量と相対量との2種の区別が存在し、割合(倍)は同種の2つの量の比(ratio)を表現した相対的な量であるということである*。そのような広い視点から「量分数」「割合分数」の概念をあらためてとらえ返す必要があると私は思う。「2m の 3倍は 6m」は簡単に分かるのに、「2m の 1/4は 1/2m」ということが理解できない子どもがたくさんいるという現実からすれば、割合についての教え方を考え直す必要があるだろう**。

* 分数だけに「量分数」「割合分数」という区別が存在するのは分数がもともとヨーロッパ(起源はエジプト)から輸入されたものであり、分数というものが本来比(ratio)を表わすものとして作られ、絶対量を表わすために使われるようになったのは後のことであるという歴史的な経緯が関係しているのだろうと私は思っている。また、1より小さい数を 1/10, 1/100, … という風に10進数として表わす小数の考え方がインドから中国を経て日本に伝わったこと(整数も)、インドでは小数も整数と同様に絶対量を表わすものとして使われたという歴史も合わせて考えてみると私の推測は間違っていないと思われる。

このことは現在の学校教育において、小数は絶対量としての用法が先に導入されるのに対して、分数は相対量つまり「割合分数」としての用法が先に導入されるという一貫しない指導法にも現われている。私自身は分数も絶対量つまり「量分数」を先に教えるべきであると思う。水道方式では小数と同じように分数も絶対量としての用法(量分数)をしっかりとやったあとで相対量としての用法(割合分数)を教えるという筋の通った指導をしている。

** 整数倍・小数倍の場合は「□の 5倍」とか「□の 2.4倍」という言い方をするのに対して、分数の場合は「□の 2/3倍」とは言わずに単に「□の 2/3」というように「倍」をつけずに表現するということも分数(割合分数)を特別扱いしている理由かもしれない。分数だけがこのように特別扱いされるのは上記の分数の歴史に原因があるのであろう。しかし歴史は歴史として尊重すべきであるとしても、量の体系の中では整数も小数も分数も同等に扱われるべきである。「□の 2/3」の意味を理解するのは「□の 2/3倍」の意味を理解するよりも子どもたちにはずっと難しいのである。それは「□の 2/3」には「倍」がついていないために、この「2/3」が倍を表わす相対量であることに気づきにくいからである。また、分数のみが特殊なものであるという妙な刷り込みが残ってしまうのも問題であろう。2m をある長さの線分で図示しその線分を 3等分したものを見せたとき、その2つ分の長さが 4/3m であると正しく答えられる子どもはどれくらいいるだろうか。いや大人の中にも正しい答えを出せない人がたくさんいるはずである。

〔2007.11.02 追記

温度はたし算・引き算できないか(1)(2)」でも書いたように、内包量は単純に足したり引いたりはできない量であるが、基準になるもの・元にするものが同一のものである場合はその増減は引き算で求めることができるし、増減分を足したり引いたりすることもできる。また相対量(割合)の場合についても、基準になるものが同一ならその増減は引き算で求められ、増減分を足したり引いたりするという操作も許される。また二つの相対量どうしの大きさを直接比較するときには相対量でありながら絶対量として扱うことも可能である。

たとえば昔から使われている「八掛け(はちがけ)」という表現はあるものの2割引を意味することばだが、この例では元の大きさを10割(=1)としてそこから2割(=0.2)を引くと8割になることから、元の大きさに 0.8 をかけることによって割引後の大きさが求められることを簡潔に表現したものである。また、濃度は溶液の質量に対する溶質の質量の含有率(相対量)であるから、4% の食塩水と 6% の食塩水を混ぜてできる食塩水の濃度は 10% にはならないし、それぞれの食塩水の質量が分からなければそれぞれに溶けている食塩の質量を比較することもできない。しかし濃度を絶対量として扱い、4 < 6 のように大小比較して 6% の食塩水の方が濃いという判断はできる。

要は、ものごとの判断には区別と連関とを常に正しく認識する必要があるということである。内包量や相対量を外延量や絶対量と同じように扱うことは間違いであるが、時と場合によっては外延量や絶対量と同等に扱わなければならないこともあることを忘れてはならない。ディーツゲンやエンゲルスが指摘しているように真理は相対的なものであって、それを適用する範囲(時と場合)を間違えると真理は誤謬に転じてしまう。誤謬もまた相対的なものであり、それを適用する範囲がごく限られたものである場合には真理となることもある。ことわざの中には相反するようなものが多く見られるのはそのためである。ことわざはその適用範囲を誤るとひどい目に会うのである。

〔2012年4月6日 追記〕かけ算の順序この記事ではかけ算の順序に関しては何も触れていませんが、ネット上を賑わしている小学校算数の文章題とかけ算の順序についての議論の中で当記事のタイル図が取り上げられて、それをもとに的外れな非難をしている方が見うけられました。文章題とそれに対する答案におけるかけ算の順序については <割り算から見た量(1)――内包量と外延量> に追記を書きましたのでそちらをご参照下さい

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コメント
 
[527] 分類の目的を間違えてはいけない
2012/04/10(火)11:50:37 | URL | K.K編集
>「一人あたり3個のみかんを4人の子どもに配るには、全部で12個のみかんが必要である」の計算はかけ算を使って (1) 3個/人 × 4人 = 12個 のように表わされる。

 こういう罠にはまって抜けられないのに、追記で、

>「3個/人のみかんを4人に配る」を「3個/人 × 4人」と表現するのは自然であるし、「4人のそれぞれに3個/人のみかんを配る」を「4人 × 3個/人」と表現するのも自然である。

と掛け算順序自由を言っても説得力はありません。そこで抜け落ちているものに気が付かないと駄目でしょうね。

 4個/回×3回、あるいは3回×4個/人でもいいのですから。トランプ配りと呼ばれます。4人の一人ひとりにミカンを1個ずつ配る。この1回4個を3回繰り返す。そういうやり方です。

 トランプ遊びで複数にカードを配る、袋菓子をみんなで分けるとき等々、ごくありふれた配り方です。

 教える側としては、等含除、等分除と割り算を区別してもいい。教えるうえで、分かりにくそうにしている子を救うためには。

 教える側としては、外延量と内包量を考えてもいい。教えるうえで、分かりにくそうにしている子を救うためには。

 でも、それを子どもに押し付けては駄目です。教える側が使うツールなのですから。教わる子も、慣れれば何でもないことなのですから。

 それを、「こういうつもりで教えるから、それもきっちり覚えて理解せよ」というのは無理があり、横着でしょう。教える側が責任を持って負い、考えるべきことを、子どもに投げ落としてしまうわけですから。

 習う子は最初のうちは「これとこれは違う感じ」ということもあるでしょうけど、そのうち気にしなくなります。

 むしろ、そうなるよう、つまり等含除も等分除も外延量も内包量も取っ払えるような方向でないといけません。

 別に理系でなくても、日常的に四則演算電卓使うことは、ごくありふれたことです。そのとき、等含除、等分除、外延量、内包量、絶対量、相対量などということは気にしていない。あたかも、呼吸する空気の酸素と窒素等々を区別しないように。

 せっかく、ブロック並べで説明しているのに、そういうことに気が付かないとは、極めて残念なことです。そのブロック並べ、おはじき並べとも言われる方法は、掛け算に順序がないことを、一目でわかるための有用な方法です。

 長方形のどちらの辺を縦としてもよいし、横にしてもよい。どちらから見たところで、数は変わらない。ならば掛け算として、どちらでもよいことは明白です。

 割り算でお示しのブロックを縦にしたり、横にしたりすれば、割り算も同様です。掛け算に直したとき、割り算の答が×の前か後かなんて気にしなくてもよくなってくる。

 掛け算に順序がないと身についていれば、等含除と等分除の垣根を崩すことは容易くなります。そういうことも、よくお考えいただきたいところですね。

P.S.

 外延量や内包量なんて、算数の教え方の教える側の工夫でしかありません。そんなもの、自然科学にも経済学にもありませんよ。特に外国には。日本の算数独自のものですからね。それも、嘘も方便の類。

 示強と示量に結び付けるとかすると、少なくとも物理学関係者は「(ポカーン)何それ?」ですよ。下手をすると、「勝手定義するな!」と怒ります。
 物理ファンとしての私は 力学での速度や、熱力学用語の示量変数(因子)や示強変数(因子)等々に結び付けてる人を以前に見て、既に呆れています。たとえば速度って足せるものですしね、ガリレイ変換では(ローレンツ変換では単純には足せない)。
 
[528] 真理か誤謬は条件次第
2012/04/10(火)14:18:46 | URL | シカゴ[編集
K.Kさん、こんにちは。

お説、ごもっともです。
「4人のそれぞれに3個/人のみかんを配る」を「4人 × 3個/人」と表現するのも自然であると書いているときには、おっしゃる通り「トランプ配り」というやり方を意識していました。

実際、教える立場では相手の子供の状況に応じて臨機応変にするのが私のやり方ですが、私が開いていた塾は少人数相手の個別・個人指導だったのでそれが可能でしたが、学校の先生にはほとんど不可能でしょうね。時間が許す限りそういうことをしていた先生もいましたが、すべての授業でそうするわけには行かないでしょう。

だから、ある一定の条件の下で公式化できるものは公式にしておく。発達段階がさまざまな子供たちに教えるにはそれが一番効果があります。ニュートン力学を教える前に相対性理論を教えることなど不可能です。

小・中学校の学校の先生に求められるものと大学の先生に求められるものは質がちがいます。先に行ってつまづかないためには、公式を絶対化しないことでしょう。でも、ある段階ではそれを絶対的なものとして扱うことは必要です。

科学の歴史は、そうやって進んで来たのだと思います。

教育とは、そういう人類の進化過程を短い時間で系統的に身につけさせるものだと私は思っています。教育の過程でもやはり個体発生は系統発生を繰り返すことが必要でしょう。

最初から教育のプロである教師はいません。教師もまた生徒と交わることによって成長するわけです。そういう中で築かれた教育法が現在いろいろなところで実践されている。中には間違ったやり方もあるでしょう。それは正されればよい。批判は必要。

私自身は数学が得意ではないので、物理も不得意です。数学も物理も難なくこなすことのできる K.Kさんのような方には、たぶん大多数の子供が算数や数学、科学でつまづいていること。その子供たちの頭の中がどうなっているかなどご興味がないだろうと推察します。

進学塾ではない町中の小さな塾の教師にとって、自分の力だけでどんどん伸びていく子供を教えるための教育法よりも、基本的な計算や、大人から見ればごく簡単な文章題を解くことができない子供に自分の力で問題を解くことができる学力を身につけさせることができる教え方を工夫することがもっとも重要なこと。それが科学史や数学史をなぞるような形でできれば最良です。で、実は頭のよい子にこそ科学史や数学史が必要なのではないかと私は思っています。

それと同時に「真理は絶対ではない、しかしだからといってなんでもありというわけではない。真理はある条件の下でのみ絶対的である。条件をかえりみずに真理性を主張するならそれは誤謬に転化する。しかし世に誤謬と呼ばれるものもその歴史をみれば、ある一定の条件の下ではそれも真理であった」というようなことを踏まえた教育を私はしてきたつもりです。

失敗の中に真理は隠れている。だから子供の失敗は非難しないで評価する。自分自身に対してはそうやって生きて来たのだから…。
 
[529] 過去をなぞる徒労
2012/04/11(水)11:15:09 | URL | K.K[編集
シカゴさん:

 ご返信、ありがとうございます。

 私自身に関して誤解されておられるようですので、申し上げておきますが、私は生まれてこの方、ずっと「愚鈍」です。
 小学校のころなど、教師らから『特別な教育』のできるところでないと駄目なのではないか、と私も言われ、保護者にも通知されました。結局はそうはならなかったのですが。
 当時も今も、普通の人が1回読んで分かることも、私は最低3回は読まなければ分かりません。普通の人が素直に一本道で分かることも、私は泥沼を這いずる回らないと分かりません。

 一例を挙げておきます。10歳頃でした。「源氏七歳のしゃれこうべ」、七歳だったかどうか、記憶があいまいですが。ご存じとは思いますが、源頼朝のしゃれこうべと称するものを売っていた物売りが、見ていた人に「頼朝は大男だったそうだが、そのしゃれこうべは小さすぎる」と言われ、「いやこれは、頼朝公七歳のみぎりのしゃれこうべでして」と言い訳するという話ですね。

 友人らはすぐに理解しました。私は、その話のどこがおかしいのか、さっぱり分かりません。困った私は、友人ら、教師を含む大人に訊いてみました。こんな具合の会話でした。

私「この話はどこもおかしくないと思う」
教「いや、頼朝は大人になって大男だったんだから」
私「でも、七歳の時のしゃれこうべだよ?」
教「いや、七歳からずっと後まで育って大きくなったんだからね。七歳の時のしゃれこうべがあるわけないだろう」
私「大きくなったけど、頼朝は七歳の時にはしゃれこうべ持ってなかったの?」
教「いや、持ってたに決まってるだろう」
私「持ってたなら、それを売っててもいいんでしょ?」
教「だから、持ってたからって売れるわけないだろう!」
私「なんで? 持ってるものは売れるでしょ?」
教「だから、頼朝はもっと大きくなったわけだから。そうだろ?」
私「小さかったときもあるんでしょ? 七歳の時もあったんでしょ?」
教「小さかったときもあるし、七歳だったときもあるけど、もっと大きくなったんだから」
私「大きくなったのは分かるけど、小さかったときもあって、七歳の時もあって、ずっとしゃれこうべはあったんでしょ? そしたら、売ってておかしくないと思う」
教「だから、そうできるわけがないだろう!(怒)」
(と延々とループして、遅々として進まず)

 結局、2日かけて、ようやく理解しました。一事が万事、そんな具合です。
 今までも、これからも。生きて行くためには、そうするしかない。

>教える立場では相手の子供の状況に応じて臨機応変(略)、学校の先生にはほとんど不可能でしょうね。

 不可能です。まずクラスという多人数であり、かつ他のクラス・同じ教科の他の先生、他の教科の先生、みんなが協働しなければ初等教育は成り立ちません。公立校であれば、他の公立校との共通性も求められます。

 そういうマス教育です。もちろん、昔と違って、個人の周りまで浸透してきた文明の利器(ネット等)はありますから、それは活かす方向で。

 それでも、多数を相手に同じように教えなければいません。特に掛け算なりなんなり、初めて習うことについての説明は統一しておく必要があります。でないと、子ども同士で混乱します。

 それには大枠ということを考える必要があります。まずは半分でもいい。半分の子が分かる説明。あくまでも説明です。分かりやすい側面を見せる。その後に、だんだんと全体を埋めていく。

 その最初の大枠からこぼれてしまう子はいます。だから、こぼれてしまった子どもの半分を覆う大枠を考える。最初の大枠で分かった子にはかえって分かりにくくてもいい。その子らは、もう分かったのだから。

 分からなかった子をクラスを超えて集めての授業もいい。そのほうが労力と時間が省けるなら、省けた分で他のことを教えられる。そうして、また分からなかった半分の子の半数を覆う大枠で救い上げて行く。そしてごく少数で個人指導も可能なまでに絞り込んでいく。

 そういう何段階かの大枠を考えて行かねば、マス教育はできません。教える側にも労力と時間の限界はありますから。

>ある一定の条件の下で公式化できるものは公式にしておく。発達段階がさまざまな子供たちに教えるにはそれが一番効果があります。

 公式とは何かと言うと、よく使う式。数字は入らない。小学校では言葉を遣います。長方形の面積なら「縦×横」ですが、縦は長方形のどの辺であってもいい。横もそうですが、縦と直角な方向の辺。
 それだけです。何が縦で、何が横かは問わない。問えるわけがない。見た方向とかで決めても、向きを変えるなりすれば簡単に入れ替わってしまう。
 どちらを縦と呼ぶかは、一人なら勝手に決めればいい。二人以上のグループで話すなら、そのときのグループで合意を作っておけばいい。

 三角形の高さや底辺って何か。それも決められることではない。

 掛け算も掛け順がどうでも、掛けるべき二つの数が分かれば、それで答えは一つに決まる。区別のしようがない。

 決められないことは判別ができない。判別できないものを判別させらる。それは苦痛です。イヌを使った動物実験でもストレスによる障害が出ることが判明しています。ましてや人間です。

>ニュートン力学を教える前に相対性理論を教えることなど不可能です。

 そうですが、前段とつながらない文に見えます。もし、ニュートン力学が公式で、公式の「応用」が相対性理論ということなら間違っています。物理学的に言えば、ニュートン力学を相対性理論で記述して、より精密にするということになりますが、そういう話をしているのではありません。
 ニュートンからアインシュタインということを算数で言ってみれば、四則演算はそのままに、扱う数を自然数から小数や分数に拡張して行くことと似ています。四則演算というものは、可換などの法則を含めて変わらない。扱える数の範囲が増えるだけ。

>小・中学校の学校の先生に求められるものと大学の先生に求められるものは質がちがいます。

 その質とは何かということです。生活含めて何かを学んだ前提を持っている人間に、さらに新しい知識を学んでもらうということでは、何も変わりません。それすら質が違うということであれば、小学1年生と小学2年生でも、教える側に求められる質は違う。

>先に行ってつまづかないためには、公式を絶対化しないことでしょう。でも、ある段階ではそれを絶対的なものとして扱うことは必要です。

 絶対化とはどういうことか、そして誰が絶対化しているかということが問題なんですね。
 掛け算で掛け順を気にしない、割り算で等含除と等分除を気にしない、外延量と内包量を気にしない、「きはじ」なり「みはじ」が要らない、そういう子にまで、そういった教える側の予備的なツールを強制する。場合によってはツールのありもしない「意味」まで理解させようとする。

 それは駄目なんですね。ツールは必要なときだけ使えばいい。使うにしても、ツールの成り立ちやら何やらは知らなくてもいい。困ったときに使ってこそのルールだから。

 乾電池がどうして電気を持っているかは知らなくていい。もし、たとえばアルカリとマンガンで使用上の差があることを知っていれば、少しは便利なこともあったりする。その程度です。

>科学の歴史は、そうやって進んで来たのだと思います。

 これは違います。ある時点まで進んだ科学を学ぶことと、それを発展させることは分けて考えないといけません。勉強と研究は、これこそ質が違います。勉強は教えられても、研究は教えられない。
 まだ誰にも分からないことを分かるようにするのが研究ですから。分からないことを教えられはしません。

 大学でも必要な知識は勉強します。そこは義務教育、さらには高校と同じです。そして問題としているのは勉強のほうです。しかも、教える側のシステム全体のほうです。

>教育とは、そういう人類の進化過程を短い時間で系統的に身につけさせるもの

 そうではありません。進化過程を一から全てやらせたら、人類の進歩は止まります。人間の寿命は有限ですから。
 こんな話があります。長い歴史を持つ武術流派(少なからぬ数です)で、一切の格闘能力を持たないけれど、人間国宝的な達人がいます。武術なのに戦えない。素人と喧嘩しても負ける。それなのに達人。
 その達人らは、それらの武術で培われてきた、膨大な種類と量の演武などの練習方法を覚え込んでいるのです。

 そして流派は飽和してしまい、進歩がなくなります。全ての技法を覚えて、やっと練習を開始できると思ったら、もう老人になってしまうからです。

 しかし、文明の利器が彼らを不要のものとしつつあります。3次元映像のみならず、モーションピクチャーによる解析等々、いろいろなメディアで、記録に残せますから。

 算数なら、暗算や算盤に習熟する必要はなくなっています。電卓もエクセルもあります。機械に任せてよいことは任せてしまい、先に進むべきでしょう。そうしなければ、学問は停滞します。それに連なる科学技術等々も停滞します。人間が一生で覚えられることには限りがあるのですから。それは望ましいことではありません。

>教育の過程でもやはり個体発生は系統発生を繰り返すことが必要でしょう。

 生物学の反復説と子どもの後天的発展過程にアナロジーはありません。そこにあるのは、むしろバタフライ効果です。あるいは不確定性原理。

>大多数の子供が算数や数学、科学でつまづいていること。その子供たちの頭の中がどうなっているかなどご興味がない

 つまづいてはいないです。日本の子どもの理系学力は世界2位です。大人は知識も興味も平均を下回っています。

 でも、不合理な教え方に苦労しているのは事実です。仮にそれを分かったつもりになっても、結局は何も分からない。徒労ですし、拷問ですらあります。

 本当の知識を身に着ける苦労ならいいのです。それは実を結んでくれて、それが無上の喜びとなります。「分かった!」の感動は何よりも大きいし、だからこそ貴重です。

 生まれてこの方、ずっと愚鈍である者として、そこは分かっているつもりです。子どもに無駄な苦労はさせたくない。延々と暗算・筆算練習をさせるより、もっとやるべきことは他にいっぱいある。

>自分の力で問題を解くことができる学力を身につけさせることができる教え方を工夫することがもっとも重要なこと。

 その通りです。

 掛け順も、たとえば文章や絵を見て、掛け算をすればいいことが分かっても、どの数から書いたらいいかと言う、無垢な悩みを持つ子もいます。
 それなら、仮に掛け順を決めてあげればいい。もちろん、その子のやりやすい順序で。決して、「幾つずつの数×塊の数」に固執しない。「幾つずつ」も「塊の」も、その子がイメージしやすいものでいい。

>それが科学史や数学史をなぞるような形でできれば最良です。

 最良ではありません。古典は、どうしても必要なものだけ知っていればいいのです。

 たとえばそろばんや計算尺を見て、何に使うものか分からなくていい。それに代わるツールは、もう身の回りに浸透している。

 エニアックを知らなくても、コンピュータのハードウェアの基本構成を知らなくても、フロッピーディスクを知らなくても、Windowsもアプリも使える。それでいいわけです。
 そんなことより、関数電卓使いこなしたり、PCアプリやネットを使いこなす方が大事です。
 開発当時「5台あれば世界の計算需要を満たせる」と言われたエニアックを作ったり使ったりする知識を、今持っていたとして、それは役に立ちはしません。

>で、実は頭のよい子にこそ科学史や数学史が必要なのではないかと私は思っています。

 興味のある子が片手間に勉強してもいいでしょう。あるいは教える側が興味を持ってもらうためのスパイスとして使ってもいいでしょう。
 でも、それがメインディッシュになってはなりません。それを専攻し、その専門家になるのでなければ、ですが。

>「真理は絶対ではない、しかしだからといってなんでもありというわけではない。真理はある条件の下でのみ絶対的である。条件をかえりみずに真理性を主張するならそれは誤謬に転化する。しかし世に誤謬と呼ばれるものもその歴史をみれば、ある一定の条件の下ではそれも真理であった」

 一般論としては、そういうこともあるでしょう。しかし、掛け算で掛け順を気にしない子の方が多い、割り算で等分除と等含除の違いが気にならない子もいるといった本題とは関係のない論です。
 
[530] おっしゃる通りです
2012/04/11(水)16:38:37 | URL | シカゴ[編集
K.Kさん、こんにちは。

特に反論することはありません。おっしゃることはもっともです。

K.Kさんの戒めは「子どもに押し付けては駄目」ということだと思います。それには同意致します。まあ、ときには押しつけも必要だとは思いますが…。

日本の公教育は算数・数学に限らず、理科も社会も国語も「子どもに押し付ける」ものになっていますね。
 
[531] お茶は濁らず
2012/04/11(水)18:11:20 | URL | K.K[編集
 ごもっとも、で片付くことではないのですよ。
 子どもに押し付けることもある。それが大人の責任です。
 自由を認めるか否か。それも大人の責任です。
 その責任について、どう思うか。そこが問題なのです。

 知らなかったら、関わらなかったら。だから責任はないのだろうか?
 そうではない。そのはずはないのです。
 少なくとも子どもにそうは言えない。言ってはならない。言えるわけがない。
 大人の子どもに対して負う責任として。子どもが知らぬ時代を生きた人間として。
 違うでしょうか?

P.S.

 掛け算より割り算のほうが分かりやすい。この意味が分かりますか?
 
[532] すみません
2012/04/11(水)22:54:42 | URL | シカゴ[編集
何をご主張なさりたいのか、私に何を要求なさっているのか、まったく理解できないので、頭の悪い私にもわかるように整理して下さればありがたく思います。

あなたのおっしゃる大人とは誰ですか?
子供とは誰ですか?
責任とは誰が誰に対して負っている責任ですか?

誰を対象にしているのか全く分かりませんのでもう少し具体的にお願いします。

これ以上抽象的な議論を続けたいのならどこか他の場所でお願い致します。
 
[533] 
2012/04/12(木)11:41:03 | URL | K.K[編集
シカゴさん:

 曖昧な言辞に対してはは、少なくとも最初のうちは、どうしても曖昧になります。

 明確でいいのですね? ではお言葉に甘えまして。

 あなたは、少なくとも文章題における掛け算に一意な掛け順を子どもに強いる大人です。

 たとえば、3人にミカンを4つずつ配るなら、4×3が正しく、3×4は間違いと。

 それはおかしい。可換を履修する前でも順序などない。

 それでも掛け順を強制するメリットがあるなら、教えてください。

 そこからなら、非常に具体的な話も出来ます。
 
[534] 最初からそう指摘して下されば…
2012/04/12(木)22:15:32 | URL | シカゴ[編集
K.Kさん、こんばんは。

>あなたは、少なくとも文章題における掛け算に一意な掛け順を子どもに強いる大人です。
>たとえば、3人にミカンを4つずつ配るなら、4×3が正しく、3×4は間違いと。

割り算から見た量(1)――内包量と外延量
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-159.html

の追記で書いているように、<割り算から見た量(1), (2)> の両記事の中でかけ算の順序について私は何も言及していません。

>「一人あたり3個のみかんを4人の子どもに配るには、全部で12個のみかんが必要である」の計算はかけ算を使って (1) 3個/人 × 4人 = 12個 のように表わされる。

と説明しています。これは「一人あたり3個のみかんを4人の子どもに配る」をその意味するところに従って「3個/人 × 4人 = 12個」という式で表わし、それを 縦3個×横4個 のタイル図で示しているのに過ぎません。

「4人の子どもに一人あたり3個のみかんを配る」という例を挙げて、それを「4人 × 3個/人 = 12個」と表わし、縦4個のタイル×横3個 のタイルで図示してもいいし、タイルの向きについても 横4個×縦3個のタイル図で示してもいいでしょう。

この手の説明ではどれか一つの式、あるいはタイル図を示せば十分なので、単純に教科書や書籍の多くが使っている「3個/人 × 4人 = 12個」と 縦3個×横4個 のタイル図を私は示したわけです。

この記事の目的は等分除および包含除とはどんな割り算なのかを簡潔に分かりやすく示すことにあり、この文章の中でかけ算の順序について取り上げる必然性はありません。記事の趣旨からそれた脇道にわざわざ入り込む必要もないでしょう。

したがって、私の説明を「文章題における掛け算に一意な掛け順を子どもに強いる」という風に K.Kさんが読み取ったのは誤読です。「3人にミカンを4つずつ配るなら、4×3が正しく、3×4は間違い」と主張しているような表現は私の文章のどこにもないはずです。

ですから、

>それはおかしい。可換を履修する前でも順序などない。

というのは的外れの非難です。

最後に。

現実に小学校低学年の子供にかけ算の意味を教えることは実際にやってみるとけっこう大変なことです。そこではかけ算の順序について説明することはまだまだ先の話であり、まずはかけ算とはどんな計算であり、その結果をどうやって求めるかを身につけさせるのが最優先されます。これをどう教えるかは教科書によっても、教える教師によっても違います。教科書通りに説明する教師もいれば自分なりに工夫して教える教師もいます。私はどんな教えかたでも子供がすんなり理解してくれるなら教授法にこだわる必要はないと思いますし、小学校低学年の場合は「3個 × 4 = 12個」という式で説明するのがいいのではないかと思います。私は実際そうやってきました(なお、今は引退の身です)。

その後、かけ算九九を学びます。ここでは正確に覚えることが目的です。計算の得意な子供は、最初からたとえば3の段ならかける数が1増えるごとに答えが3ずつふえるとか、3×4と4×3は同じになるとかという法則性にすぐ気づきます。九の段では答えの数字の各位をたすとぜんぶ9になっているとか、十の位の数字が1ずつ増えると一の位の数字が1ずつ減るとかといった九の段の答えの数字の並びの不思議さに気づく子供もいます。しかし、一方で覚えるのに精一杯でそういう規則性に気づかない子供もたくさんいます。教師はその子供の状況を見ながら必要であればそれらの規則性についても教えているのではないかと私は思います(私はそうしてきました)。

ある一つの文章題の採点を例に挙げて、教師の教えかたが押しつけであり子供の伸びる芽を摘むやりかたであると非難し、すべての教師がみんなそういうやり方をしているかのように思い込むのはおかしな話です。採点の基準にしてもどういう意図で×をつけたのかはその教師に聞いてみなければ分かりません。

というわけですので、私の方からは以上です。これ以上の議論を K.Kさんと行なうつもりはありませんので、あしからず。かけ算の順序に関すること以外であっても記事の内容と無関係のコメントは削除いたしますので、どうかご了承下さい。
 
[535] 
2012/04/14(土)13:21:55 | URL | K.K[編集
シカゴさん:

><割り算から見た量(1), (2)> の両記事の中でかけ算の順序について私は何も言及していません。

 それは欺瞞です。
 シカゴさんは、よく世にいわれる割り算の「等含除」「等分除」の説明を是としておられます。

 その区別は、掛け算順序を背景としたものです。

>(1あたり量)×(いくら分)=(全体量)
>(2) 等分除とは(全体量)を(いくら分)で割って(1あたり量)を求めることであり
>(3) 包含除とは(全体量)を(1あたり量)で割って(いくら分)を求めることであり

 シカゴさんご自身がこのように言明されておられます。さらに、何か追加する必要をお感じなのか、

>内包量は自然科学の分野では示強因子あるいは強度因子(intensive factor)と呼ばれる量

という、明白な間違いを言っておられる。日本ローカルの算数言葉が、世界の自然科学で通用するわけはないのです。

>「3人にミカンを4つずつ配るなら、4×3が正しく、3×4は間違い」と主張しているような表現は私の文章のどこにもない

 そんなことはない、主張されておられる、というのが「等含除」「等分除」にこだわって、そこで止まってしまっている点を注目しての私の言です。

 掛け算における「1あたり量」と「いくら分」。それをどう見るかは、非常に自由度があることは、ご存じの通りでしょう。今更、そこをお認めにならないはずはない。

 そして、もちろん掛け順にこだわらないのですね?

 それなら、どうして「等含除」「等分除」にそこまでこだわるのでしょう?

 割り算のブロック図、いろいろ縦にしたり横にしたりしてみましたか?

 それでも、そこで、分かりにくくなってしまう子はいるでしょう。それなら、その原因は何か?

 まだ教えていないけど、助数詞的に隠れている単位でしょうか?
 掛け順や、そこに連なる「1あたり量」や「いくら分」でしょうか?

 そこを突き詰めて考え、子どもと接していますか?

 今に始まったことではない。少なくとも明治が始まって数年で出てきた算術教科書に、すでにそっくりそのままに、こういう問題は出ているのです。

 そういう、ずっと歴史的にも続いてきた問題であることを認識していますか?

 もちろん、だからといって子どもに全てを、これは算数の自由性も含むのですが、一度に学んでもらう必要はありません。そんなこと、普通の子どもができるはずもない。

 掛け算なら、必要に応じて同数累加まで単純化してもいいくらいです。まずは慣れてもらう。九九も覚えてもらう。

 それでは「後で」問題が出ると言う人がいる。物凄く思考がおかしい言辞です。慣れた後まで同数累加に固執するのだと思っている。慣れて不要になれば取っ払うに決まっている。

 蟹は己に似せて穴を掘るといいます。まず慣れて、次にどんどん自由度を広げて行く、ということが分からないのでしょう。

>仕事率とか密度とか速度とかいった抽象的な1あたり量は子どもにとっても大人にとってもその大きさを実体として把握することが難しい量なのである。

 速度って把握しにくいですか? 抽象的ですか? 走っている車、飛んでくるボールは抽象的ですか?
 こういう言葉の罠はやめましょうよ。
 
[536] 
2012/04/14(土)16:26:07 | URL | シカゴ[編集
K.Kさん。

上のご投稿は削除せずに残しておきますが、以後 K.Kさんのご投稿はご遠慮申し上げます。
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(69歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

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そうして最後になぞがとける
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        朝永振一郎

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