▼ 客体的表現と主体的表現(1)〜(4)をまとめて読む。
「である」という表現の中に「ある」という語が含まれていることに関して、子どもの頃私は「である」における「ある」と存在を表わす「ある(有る)」との両者には異った性格があると同時に何か共通な性格があることを感じていた*。また、<判断・指定>の助動詞「だ」に相当する古語的な表現「なり」「たり」の中に存在の「あり(有り)」が隠れているのではないかとも思っていた**。
* 「である」という現代語表現は<判断・指定>の助動詞「だ」の連用形「で」に「ある」が連接したものであるということを知ったのはそれよりも後である。そして<判断・指定>の助動詞「だ」はその出自を助詞「て」+「あり」にもつこと、さらに古語「なり」の未然形・連体形「なら」「なる」がそれぞれ仮定形「なら」、連体形「な」としてそれに加わってできあがったのが現代語の「だ」であることを知るのはさらに後である(已然形「なれ」や別系統の「たり」も古語的表現として残存している)。つまり「だ」には「ある」が含まれており、現代語「である」の中には二つの「ある」が含まれている。丁寧表現「です」は「であります」の縮約であるからここにも二つの「ある」が含まれている(「ます」は「まいらする」の縮約)。
** 私が子どもだった頃(1950〜60年代)の音楽教科書には文部省唱歌というものがたくさん載っていた。私はそれらの文部省唱歌が大好きで一人になったときに家の裏などで口ずさんだものである。それらの歌詞の多くは古語的な表現で書かれており、なかには意味の分からない表現もあったがそんなことは気にもせず歌っていた。年を経て意味が分かるようになってからはもっと愛着を感じるようになった。今でもときどき口ずさむ。
小学生の私の言語感覚では「なり」は「にあり」であり、「たり」は「てあり」あるいは「とあり」であるように感じられた。今あらためて考えてみると<完了>の「たり」は「てあり」で現象の<存続・継続>を表わし、いわゆる「形容動詞活用語尾」の「たり」は「とあり」で状態の<存続・継続>を表わしているように思われる。
中学校に入ると英語の授業の最初に be動詞を習った。それは日本語の「だ」「なり」「たり」に相当するものと私には思われた。その後、be動詞には「ある」「いる」という用法があるということを習うと、小学生時代の私の直観は正しかったのだと確信した。そして日本語も英語も基本的な部分では同じなんだなあと妙に納得したのであった。しかし中学生の私が考えたのはそこまでであり、古語「あり」の持つ本質性に気がつくのは高校で本格的に古典文法を学んだときである。「あり」やその類語(日本語には敬語がある)が数多くの助動詞や形容詞・形容動詞と呼ばれているもののなかに隠れていることもそのときに知ったのである*。
* 形容詞のいわゆる「カリ活用」やいわゆる「形容動詞活用語尾」の「なり」「たり」のいずれにも内部に「あり」が隠れていることに気がつけばラ変型活用だのなんだといった形式的なことは瑣末なことであり、むしろ形容詞の「カリ活用」とか「形容動詞」という分類の方が不自然なのだということに気がつくはずである。「カリ活用」は形容詞の連用形語尾の「く」に「あり」が連接したものである。このような形の「あり」はすでに助動詞といってよいものであり、三浦のいうように主体の<判断・指定>を表わしていると思われる。
動詞「ある(有る)」(およびその類語「いる」「おる」等)は、ものごとを実体としてとらえ(名詞)、その存在を(動的な)属性として表現したことばである。これに対して助動詞「だ」内部の「ある」や補助動詞の「ある」はものごとを実体としてとらえ、そのあり方(形態・様態)を実体あるいは属性としてとらえ(名詞・動詞・形容詞)、それが主体の眼前に現象しているという主体の関係意識を表現したことばである。つまり「だ」内部の「ある」や補助動詞「ある」は、ものごとの形態・様態を概念的にとらえたことの背後に、同時にその現象の存在をとらえている主体の関係意識があることを示す主体的表現なのである。存在を概念として表現する動詞「ある」(客体的表現)が助動詞「だ」内部の「ある」や補助動詞「ある」(主体的表現)として転用されたのは、後者が眼前の現象として存在をとらえているという主体の関係意識を表現するものだったからだろう。
意識は常になにごとかについての意識であり、そのとき意識には対象の存在(現実的存在・想像的存在)を認知・認識している主体(認知主体および認識主体)が常に存在している。このことは認知・認識において、認知対象・認識対象がそれぞれ認知主体・認識主体に対して存在(現前present・再現前represent)しているという主体の関係意識が必然的なものであることを意味する。主体の認知・認識の対象として対象が現前・再現前しているというこの関係意識は認知対象・認識対象に対するもっとも根本的な関係意識であり、この関係意識を欠いた認知・認識はあり得ない。したがって、認知対象・認識対象を概念的に把握し、これを客体的表現の言語として表現することの背後には関係意識「ある」が必ず存在している*。
* 存在と対象(2)――現象するものは存在するの冒頭で同じ内容のことを私は「あるものごとを取り上げて言及するとき、私たちはそのものごとがそこに存在することを疑わない。そして言及することのうちにそのものごとの存在を無自覚のまま前提している。眼前にあるものは私の感覚・知覚(認知主体)に対するものとして対象認知(知覚表象=個別概念という形態で)されている。また、たとえそのものごとが眼前に存在していなくても、それは意識している私(認識主体)に対するものとして対象認識(表象=個別概念という形態で)されている。つまり、対象として認知・認識されているものごとは私たちにとって存在している。」のように書いた。
「なり」「たり」「かり」や「だ」の内部に「あり」が存在しているということは、「存在の判断・存在の現前」という関係意識が人間の認識にとって本質的なものだということを意味しているように私には思われる。時枝誠記によって発見された零記号*としての「判断辞**」の存在は、時枝から三浦へと継承された言語過程説における画期的な発見――いかなる文も表現されているか否かにかかわらずその述部に<判断・指定>の助動詞をもっている――をもたらしたが、このことも「存在の判断・存在の現前」という関係意識が本質的なものであることを示している。
* 対象の構造をとらえた意識のうちには認識構造・意識構造として存在しているにもかかわらず、表現の構造には明示的に現われていないものがある。これが言語過程説における零記号である。風呂敷型統一形式では通常斜線を付した正方形で表わされる(このブログ内の記事では■を用いている)。時枝は表現されていない判断辞を零記号と名づけたが、三浦は他の客体的表現・主体的表現の中にも零記号と呼ぶべきものがあることを明らかにした。
** 詞・辞という分類は表現一般や非言語表現における客体的表現・主体的表現を含まないので確かに不適切であるが、言語表現に限ってかつ「判断辞」のような熟語として用いるのは簡潔な表記であるから私はこれを用いたいと思う。
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