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2006年07月04日(火)| 弁証法>抜き書き |  
物自体(3)――『フォイエルバッハ論』から〔弁・抜〕

 物自体(1)~(4)をまとめて読む。

エンゲルスの『フォイエルバッハ論』から、物自体批判に関する部分を抜萃・引用する。

エンゲルス『フォイエルバッハ論』(松村一人訳/岩波文庫)「二 観念論と唯物論」から

 しかし思考と存在との関係という問題は、なおもう一つの側面をもっている。それは、われわれをとりかこんでいる世界についてのわれわれの思想は、この世界そのものとどんな関係にあるのか、われわれの思考は現実の世界を認識することができるか、われわれはわれわれの表象と概念のうちで現実の世界について正しい映像をつくりだすことができるか、という問題である。この問題は、哲学上の言葉では、思考と存在との同一性の問題とよばれ、哲学者の圧倒的多数によって肯定されている。

たとえばヘーゲルにおいてはその肯定は自明の理である。というのは、ヘーゲルによれば、われわれが現実の世界のうちに認識するものは、この世界の思想的内容にほかならないからである。それは世界を絶対的理念の段階的な実現とするものであってこの絶対的理念は、永遠の昔から、世界から独立して、かつ世界より以前に、どこかに存在していたものである。ところで、思考が、はじめからすでに思考内容であるところの内容を認識しうるということは、わかりきったことである。にもかかわらずヘーゲルは、思考と存在との同一性についてのかれの証明から、さらに進んで次のような結論をひきだしている。すなわち、かれの哲学はかれの思考にとって正しいのであるから、唯一の正しい哲学でもあり、そして思考と存在との同一性は、人類がかれの哲学をすぐに理論から実践に移し、全世界をヘーゲル的諸原則にしたがって改造することによって証明されなければならない、というのである。これは一つの幻想であって、かれはほとんどすべての哲学者と同じく、こうした幻想を抱いているのである。

 しかし、そのほかになお一連の哲学者があって、かれらは世界が認識できるということ、あるいは少くともあますところなく認識できることに、異論をとなえている、このなかにはいるのは、近代ではヒュームとカントであって、この二人は哲学の発展のうえに非常に重大な役割を演じている。このような見解を反駁するための決定的なことは、観念論の立場から可能なかぎりでは、すでにヘーゲルによって語られている(注一)。フォイエルバッハがつけ加えた唯物論的なものは深いというよりもむしろ才気に富んだものである(注二)

このような見解にたいするもっとも有力な反駁は、その他のあらゆる哲学的妄想にたいすると同じく、実践、すなわち実験と産業である。もしわれわれがある自然的現象を自分自身でつくり、それをその諸条件から発生させ、そしてそれをわれわれの目的に役立たせることによって、この現象にかんするわれわれの認識の正しさを証明することができれば、カントの認識できない「物自体」はそれで終りである。動植物体内でつくられる科学的諸物質は、有機化学がつぎつぎとこれらをつくりはじめるまでは、このような「物自体」にとどまっていた。有機化学がそれらをつくりはじめると、この「物自体」は、われわれにたいする物となった。例えば、あかね草の色素アリザニンがそうで、われわれはそれを今ではもう畑のあかね草の根のうちに生じさせないで、コールタールからずっと安くかつ簡単に製造している。

コペルニクスの太陽系は、三〇〇年のあいだ仮説であった。それは九分九厘までたしかであったが、やはり一つの仮説であった。しかしルヴェリェ〔一八一一~一八七七、フランスの天文学者〕がコペルニクスの太陽系によってあたえられたデータから、一つの未知の遊星の存在の必然だけでなく、この遊星が天体のなかで占めなければならない位置をも算出したとき、そしてガレ〔一八一二~一九一〇、ドイツの天文学者、1846年に海王星を発見〕がこの遊星〔海王星〕をじっさいに発見したとき、コペルニクスの太陽系は証明されたのである。にもかかわらずドイツではカントの見解の復活が新カント学派によって企てられ、イギリスではヒュームのそれの復活が不可知論者たちによって企てられているが(イギリスではヒュームの見解が死に絶えたことがない)、それは、とっくに理論的にも実践的にも反駁されているのを考えてみると、科学的には退歩であり、実践的には、唯物論を内々では受け入れて世間のまえでは否定する、はにかみのやり方にすぎない(注三)

(注一)エンゲルスが直接念頭においているのは、ヘーゲルの論理学(とくに『大論理学』)のうちで、「物」(Ding)について述べ、そこでカントの「物自体」をも 批判しているところであろう。カントが物自体の諸性質は認識できず、われわれが物について知覚し認識するものは、たんに主観的な「現象」にすぎないと言うのにたいして、ヘーゲルは例えば次のように言っている。

「物は、他のもののうちにあれこれのことをひきおこし、そしてこの関係のうちで自己を独自の仕方で表出するという性質をもっている。物はこうした性質を、他のものがそうしたことに対応した性状をもっているという条件のもとでのみ示すが、しかし同時にこの性質は第一のものに特有のものであって、その自己同一の基礎である……」(グロックナー編『ヘーゲル全集』第四巻、六〇七~六〇八ページ。鈴木・武市訳『大論理学』中巻、二一九ページ)

ところで、物の諸性質は認識できるかもしれないが、「物自体」は認識できないではないかという不可知論者のもう一つの議論にたいするエンゲルスの答えは、 『空想から科学へ』へのイギリス版序文(岩波文庫版『空想より科学へ』八四-八五ページ)のうちで、エンゲルスによって次のように要約されている。

「しかし次に新カント派の不可知論者がやってきて言う。われわれは物の諸性質を正しく知覚するかもしれないが、しかしわれわれはどんな感覚過程または思考 過程によっても物そのものをとらえることはできない。この『物自体』はわれわれの認識のかなたにある、と。これにたいしてヘーゲルは、とっくの昔にこう答えている。もし諸君がある物のすべての性質を知るならば、諸君はまた物そのものをも知るのである。そうすると残るのは、この物がわれわれの外に存在するという事実だけである。そして諸君の感官が諸君にこの事実を知らせるとき、諸君はこの物の最後の残りものを、すなわちカントの物自体をとらえたのである、と。」

なおひとことつけ加えると、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』では、特にヘーゲルのそことさしているのではないから、もっと広くヘーゲルの不可知論批判をも念頭にもっていたとも考えられる。レーニンは『哲学ノート』のなかで(岩波文庫版、第一分冊、一四〇ページ)、エンゲルスがおそらく念頭においたであろうところとして、ヘーゲルの『大論理学』の「概念論」のはじめの「概念一般について」というところにあるカントの認識論の批判(グロックナー版『ヘーゲル全集』第五巻、一四~二八ページ)をあげている。ここでヘーゲルが言っている主なことは、概念を空虚な形式と見ることにたいする批判である。

(注二)カントの認識できない物自体にたいするフォイエルバッハの批判の主なものは、『将来の哲学の根本問題』の第二二章にある(岩波文庫『将来の哲学の根本問題』八四~八五ページ)。そこでフォイエルバッハは次のようにカントを批判している。

 「カントは言う、『われわれが感官の対象を正当にもたんなる現象と見なすとき、われわれはこれによって同時に、次のことを認めるのである。すなわち、これらの現象の根底には物自体が、たとえわれわれがそれをあるがままに知るのでなく、ただその現象を、言いかえれば、われわれの感官がこの知られない或るものによって触発される仕方を知るにすぎないにしても、存在しているということを認めるのである。したがって悟性は、まさにそれが現象を想定することによって、物自体の存在をも認めるのであり、そしてそのかぎりにおいてわれわれは、現象の根底にあるこうした本質の表象は、したがってまたたんなる悟性的本質、たんに許容されるのみでなく、不可避的でもあると言うことができる。』

 したがってカントによれば、感官、経験の対象はたんなる現象にすぎず、真理ではない。それは悟性を満足させない。言いかえれば、それは悟性の本質に一致しない。したがって悟性は、その本質においては、感性によって制限されていないのである。もし制限されていたら、それは感性的事物を現象とは見ず、輝かしい真理と見るであろう。……にもかかわらずカントは、悟性的本質は悟性にとって現実的な対象ではないということである。カントの哲学は主観客観本質現存在思考存在との矛盾である。そこで本質は悟性に、現存在は感官に属するとされる。

 本質をもたない現存在たんなる現象であり――それが感性的事物である――現存在をもたない本質はたんなる思想である――それが悟性的本質、本体である。それは思考されはするが、現存在――少くとも――われわれにとっての現存在――客観性が欠けている。それは物自体、真の物であるが、ただそれはなんら現実的なものでなく、したがってまた悟性にとっての物、言いかえれば、悟性にとって認識され規定されうる物でもない。しかし、真理を現実から、現実を真理から切りはなすとは、なんという矛盾であろう!」

(注三)「はにかみや」の唯物論については、『空想から科学へ』のイギリス版序文(岩波文庫版『空想より科学へ』八二~八二ページ)を参照。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(68歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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