はページ内リンク、は当ブログ内別ページへのリンク、は外部リンク(別窓で開きます)を表しています。

 人気のある記事・よく読まれている記事は 人気のある記事/連番記事 からどうぞ。

表示中ページの案内・他
各種記事検索(アーカイブ)
月別記事検索
カテゴリー別記事検索
ページ別記事検索
 
ブログ内記事から検索
(タグ検索もできます)[Step Search]
記事をまとめて読む
大カテゴリー内の記事を読む
言語  意識・認識  弁証法
教育・知識  実用・遊び
連番記事をまとめて読む
「言語」なしの思考(1)(2)
意味・意義・価値(1)〜(3)
ことばとは何か(1)〜(3)
三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5)
三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)
客体的表現と主体的表現(1)〜(4)
ソシュール用語の再規定(1)〜(4)
ソシュールの「言語」(1)〜(4)
ソシュール「言語学」とは何か(1)〜(8)
メイリオ(1)〜(8)
WindowsXP のシステム・フォントを変更する(1)〜(6)
ClearType_Tuner(1)(2)
Styler 1.401(1)(2)
ノートパソコンの発熱・冷却(1)〜(4)
関連記事をまとめて読む
キー【言語過程説】
タグ【詞と辞】
タグ【価値・意味・意義】
タグ【言語の意味】
タグ【連合関係・語彙規範・言語規範】
タグ【思考言語・内言・連辞関係】
タグ【ラング・langue・「言語」】
タグ【パラディグム・シンタグム】
タグ【シーニュ・シニフィアン・シニフィエ】
タグ【メイリオ系フォント】
タグ【メイリオ】
タグ【MeiryoKe】
タグ【システムフォント】
タグ【Visual_Style・スキンの変更】
上記以外の関連記事はタグ一覧、あるいはブログ内検索(兼タグ検索)を利用してまとめて読めます。
また、各記事の下部にあるタグリストを利用して関連記事や連番記事をまとめて読むこともできます。
最近のコメントほか
最近のコメント
最近のトラックバック
外部リンク集
新・古代学の扉』内の文書から
社会・政治・経済等
科学・コンピュータ・実用
メイリオ関連
RSSフィード
track feed
メールフォーム
個人的なご連絡やご意見・メッセージの送信、あるいはコメント欄では不都合と思われるような一般的なことがらについてのコメント等はこのメールフォームをご利用下さい。なお、返信ご不要の場合はメール欄に no_reply@dummy.jp とご記入下さい。

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Author:シカゴ・ブルース

1948年生れ。理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱きつづけています。

〔08/01/08追記〕シカゴ・ブルースというハンドルネームは長いので、以後コメント等では単に シカゴ という略称を使います。

「勝手にブログ評論」なるものをしてもらった

ひょんなことで「勝手にブログ評論」というページを見つけた。

面白そうなので私のブログのいろいろなページで試してみた。それぞれ違った「評論」が得られてそれなりに楽しめた。記事やメニューで使われているキーワードをランダムで拾っていくつかの構文パターンにあてはめて文をつくっているようだが段落の数は決まっていないようで、長いときもあれば短いときもある。同じページでもやるたびに違った結果が出る(現われるキーワードは同じようなものになる)。結局一番最初に試した最新記事のページのものが評価点は低かったがもっとも長くて内容も面白かったのでそれを以下に採録しておく。

勝手にブログ評論
ことば・その周辺評論
14世紀中頃のフランスでは、まさに運用 開始が必要とされていた。その結果、フォント変更と講義 聴講がもたらされたのだ。

総合得点 35

各種ソフトのようであるとも言える。少年よ、ページ別アーカイブを見よ。少女よ、各種ソフトを愛せ。新管理画面を手に入れるためなら、セーヌ川に飛び込むという若者があとを立たない。嘆かわしい。コンピュータが絶対に必要だと思っているとしたら、それは大いなる幻想だ。本当に必要なのは午前中早々である。人間にとってFC2ブログほど重要なものはない。

そういうわけでFC2ブログは大切なのだ。

いくらかのリニューアル、それとフォント 変更があれば上等だ。不自由はない。パレスチナを知らずして、講義 聴講は語れないだろう。

二十一世紀のポストモダン=「ダウンロード情報」型社会では、フォント 変更はいわば、講義 聴講におけるロマネ・コンティだ。どうだろう。アルゴリズムではだめなのか。

講義 聴講は、率直に言ってリニューアルである。

常にフォントサイズ 変更を胸に抱け。それが紳士だ。どう考えても曲ノート YouTubeは割にあわない。それでも新管理画面が必要だというのか。どれだけ苦しいことがあっても、トラックバックを決して忘れてはならない。大人とは、時に狡い生き物である。動画プレイヤーに絡んだときは特にそうだ。スコットランドの言い伝えに寄れば、「好奇心はFC2ブログを殺す」のだそうな。

そうは言っても、人間、誰しもフラッシュなしでは生きて行けない。

どれだけ多くの血を流そうとも、必ずやディセンダ 変を手に入れるという作者の強い意志を感じる。パリ9区のガラリエには、ページが山ほどある。パスタにディセンダ 変。どうかなこの組み合わせは。
まこと残念なことは、レディにお勝手登録リンクを与える幸福は、ほんの一握りの幸運な男性にしか与えられないということだ。これを口惜しいと感じても、どうにもならない。そういうものなのだ。たとえディーツゲンだろうと。純白のア・プリオリズムは、乙女を惑わす。

言語過程説にはドイツ哲学に通底する鉄壁さを感じることができる。

白銀のアーカイブ検索結果は、まばゆい輝きを放ち、悪を砕く。

どう考えてもマイナス概念は割にあわない。それでも動画プレイヤーが必要だというのか。


このブログの読者にお勧めの一冊
ソシュールと言語学 (講談社現代新書) ¥ 756
講談社

〔2008.01.23 追記

「勝手にブログ評論」を作った方(shi3zさん)が「勝手にブログ評論」の種明かしという記事でその仕組みを明らかにされている。やはり構文のネタ(テンプレート)は「実際の評論家のスノッブな文章」や「海外のことわざ」だという。なお、キーワードは自作のストップワード検索エンジンでブログの RSS から名詞を抜き出しているそうだ。

〔2008.01.23追記

秋川さんからいただいたコメントへのご返事であるが、言語論的にみてもこの「勝手にブログ評論」は面白いので以下に私のコメントを転載しておく。

ことば遊びの面白さと「コラージュ」の「意味」(2008/01/23 シカゴ)

ネタが何なのかよく分かりませんが言葉の配置の妙とでもいいましょうか。私の書いたものから抜き出したキーワードと地の文のきどった言い回しのアンバランスさ。それでいてできあがった文の「意味」の意外な真実性にちょっと驚きました。記事を書いた当人としては、キーワードとして表現した語の意味を理解しているだけに偶然できあがった文の「意味」を深読みしてしまう。と、これが自分の書いた内容について意表を突かれた思いがするのですね。実際はだれかが具体的な意味を付与することを意図してつくった文章ではないのですからそれに「意味」を見いだすのは無意味なことなのでしょうが、面白さというのはそういう無意味なものに「意味」を見つけるところにあるのでしょう。

モンタージュとかコラージュといったものには作者の意図が入り込んでいますから、そこには何らかの意味(内容)が表現されているわけで受けとる側もそれを真面目に受け取ろうと努力する。しかし、上の「評論」にはそういった作者の意図が存在しない。強いて言えば元になったネタの文章には意味があったわけですし、抜き出されたキーワードには私の込めた意味があります。その無関係な二つの意味が「コラージュ」によって偶然に新しい「意味」を生み出す(この場合「意味」は読者によって創造されるわけですが)。そういう思いがけない偶然から生まれたこの「評論」では読者が勝手に「意味」を読み取るということが最初から前提されています。そういう意味ではこの「評論」こそまさに作者が不在なのですね。

もっともこれは言語過程説の意味論であって、ソシュール的・バルト的にはこの「評論」には意味があることになりますが……。というわけで、言語論的にも面白いネタかもしれません。

(トラックバックを送った記事)

大カテゴリー 〔言語〕

言語>雑文 | Trackback (0) | Comment (2) | 言語学・言語論 | PageTop↑ [編集] #171
タグリスト 勝手にブログ評論
コメント
おかしい
2008/01/23 水 07:15:39 | URL | 秋川 [編集]
これは笑っちゃいますね。アイディアが面白い。フランス起源のものなのか、それとも哲学好きのフランス人を茶化しているのか分かりませんが。

思い出したのは自分の寝言のことです。聴いている人が言うには「なんだかひどく理路整然としている感じで、一所懸命、人を説得しているらしいんだけれども、でも、結局、何を言っているのか分からない。うっかりまじめに応答して損したなあと思ったこともある」と言われます。
ことば遊びの面白さと「コラージュ」の「意味」
2008/01/23 水 13:34:11 | URL | シカゴ [編集]
秋川さん、こんにちは。

昼過ぎにはやむといっていた雪がまだ降っています。大した降りではないし気温も低くはないのでそれほど積もるようには思えませんが融けた雪で道がビチャビチャするのは嫌ですね。長靴で外出するのは大仰だけど靴が濡れるのは気分が悪い。靴の中に水が入り込むのはもっと気持ちが悪い。まあ、積もれば積もったで文句をいい、積もらなければそれでまた文句をいう。なんと手前勝手な、とは思いますが……。

で、ネタが何なのかよく分かりませんが言葉の配置の妙とでもいいましょうか。私の書いたものから抜き出したキーワードと地の文のきどった言い回しのアンバランスさ。それでいてできあがった文の「意味」の意外な真実性にちょっと驚きました。記事を書いた当人としては、キーワードとして表現した語の意味を理解しているだけに偶然できあがった文の「意味」を深読みしてしまう。と、これが自分の書いた内容について意表を突かれた思いがするのですね。実際はだれかが具体的な意味を付与することを意図してつくった文章ではないのですからそれに「意味」を見いだすのは無意味なことなのでしょうが、面白さというのはそういう無意味なものに「意味」を見つけるところにあるのでしょう。

モンタージュとかコラージュといったものには作者の意図が入り込んでいますから、そこには何らかの意味(内容)が表現されているわけで受けとる側もそれを真面目に受け取ろうと努力する。しかし、上の「評論」にはそういった作者の意図が存在しない。強いて言えば元になったネタの文章には意味があったわけですし、抜き出されたキーワードには私の込めた意味があります。その無関係な二つの意味が「コラージュ」によって偶然に新しい「意味」を生み出す(この場合「意味」は読者によって創造されるわけですが)。そういう思いがけない偶然から生まれたこの「評論」では読者が勝手に「意味」を読み取るということが最初から前提されています。そういう意味ではこの「評論」こそまさに作者が不在なのですね。

もっともこれは言語過程説の意味論であって、ソシュール的・バルト的にはこの「評論」には意味があることになりますが……。というわけで、言語論的にも面白いネタかもしれません。
コメントの投稿

この記事のトラックバックURL