ひょんなことで「勝手にブログ評論」というページを見つけた。
面白そうなので私のブログのいろいろなページで試してみた。それぞれ違った「評論」が得られてそれなりに楽しめた。記事やメニューで使われているキーワードをランダムで拾っていくつかの構文パターンにあてはめて文をつくっているようだが段落の数は決まっていないようで、長いときもあれば短いときもある。同じページでもやるたびに違った結果が出る(現われるキーワードは同じようなものになる)。結局一番最初に試した最新記事のページのものが評価点は低かったがもっとも長くて内容も面白かったのでそれを以下に採録しておく。
各種ソフトのようであるとも言える。少年よ、ページ別アーカイブを見よ。少女よ、各種ソフトを愛せ。新管理画面を手に入れるためなら、セーヌ川に飛び込むという若者があとを立たない。嘆かわしい。コンピュータが絶対に必要だと思っているとしたら、それは大いなる幻想だ。本当に必要なのは午前中早々である。人間にとってFC2ブログほど重要なものはない。
そういうわけでFC2ブログは大切なのだ。
いくらかのリニューアル、それとフォント 変更があれば上等だ。不自由はない。パレスチナを知らずして、講義 聴講は語れないだろう。
二十一世紀のポストモダン=「ダウンロード情報」型社会では、フォント 変更はいわば、講義 聴講におけるロマネ・コンティだ。どうだろう。アルゴリズムではだめなのか。
講義 聴講は、率直に言ってリニューアルである。
常にフォントサイズ 変更を胸に抱け。それが紳士だ。どう考えても曲ノート YouTubeは割にあわない。それでも新管理画面が必要だというのか。どれだけ苦しいことがあっても、トラックバックを決して忘れてはならない。大人とは、時に狡い生き物である。動画プレイヤーに絡んだときは特にそうだ。スコットランドの言い伝えに寄れば、「好奇心はFC2ブログを殺す」のだそうな。
そうは言っても、人間、誰しもフラッシュなしでは生きて行けない。
どれだけ多くの血を流そうとも、必ずやディセンダ 変を手に入れるという作者の強い意志を感じる。パリ9区のガラリエには、ページが山ほどある。パスタにディセンダ 変。どうかなこの組み合わせは。
まこと残念なことは、レディにお勝手登録リンクを与える幸福は、ほんの一握りの幸運な男性にしか与えられないということだ。これを口惜しいと感じても、どうにもならない。そういうものなのだ。たとえディーツゲンだろうと。純白のア・プリオリズムは、乙女を惑わす。
言語過程説にはドイツ哲学に通底する鉄壁さを感じることができる。
白銀のアーカイブ検索結果は、まばゆい輝きを放ち、悪を砕く。どう考えてもマイナス概念は割にあわない。それでも動画プレイヤーが必要だというのか。
このブログの読者にお勧めの一冊
ソシュールと言語学 (講談社現代新書) ¥ 756
講談社〔2008.01.23 追記〕
「勝手にブログ評論」を作った方(shi3zさん)が「勝手にブログ評論」の種明かしという記事でその仕組みを明らかにされている。やはり構文のネタ(テンプレート)は「実際の評論家のスノッブな文章」や「海外のことわざ」だという。なお、キーワードは自作のストップワード検索エンジンでブログの RSS から名詞を抜き出しているそうだ。
〔2008.01.23追記〕
秋川さんからいただいたコメントへのご返事であるが、言語論的にみてもこの「勝手にブログ評論」は面白いので以下に私のコメントを転載しておく。
ことば遊びの面白さと「コラージュ」の「意味」(2008/01/23 シカゴ)
ネタが何なのかよく分かりませんが言葉の配置の妙とでもいいましょうか。私の書いたものから抜き出したキーワードと地の文のきどった言い回しのアンバランスさ。それでいてできあがった文の「意味」の意外な真実性にちょっと驚きました。記事を書いた当人としては、キーワードとして表現した語の意味を理解しているだけに偶然できあがった文の「意味」を深読みしてしまう。と、これが自分の書いた内容について意表を突かれた思いがするのですね。実際はだれかが具体的な意味を付与することを意図してつくった文章ではないのですからそれに「意味」を見いだすのは無意味なことなのでしょうが、面白さというのはそういう無意味なものに「意味」を見つけるところにあるのでしょう。
モンタージュとかコラージュといったものには作者の意図が入り込んでいますから、そこには何らかの意味(内容)が表現されているわけで受けとる側もそれを真面目に受け取ろうと努力する。しかし、上の「評論」にはそういった作者の意図が存在しない。強いて言えば元になったネタの文章には意味があったわけですし、抜き出されたキーワードには私の込めた意味があります。その無関係な二つの意味が「コラージュ」によって偶然に新しい「意味」を生み出す(この場合「意味」は読者によって創造されるわけですが)。そういう思いがけない偶然から生まれたこの「評論」では読者が勝手に「意味」を読み取るということが最初から前提されています。そういう意味ではこの「評論」こそまさに作者が不在なのですね。
もっともこれは言語過程説の意味論であって、ソシュール的・バルト的にはこの「評論」には意味があることになりますが……。というわけで、言語論的にも面白いネタかもしれません。
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あなたのブログ、評論します。(shi3zさん)
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