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2004年03月29日(月)| 意識>観念的自己分裂 |  
認識についての覚書(7)――観念的自己分裂

〔2004.03.29記/2008.01.24転載〕

〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。転載にあたって多少の体裁変更を行ないました。知見としては古いものもありますが大筋は変わっていないと思います。

9. 観念的自己分裂

「他人の立場になって」「~したつもりになって」…というようないい方がある。実際に「他人の立場」になることはできないけれど頭の中で現実の自分とは異なる人間の立場に観念的な移行をすることはできる。このような観念的な移行は他の人間の立場への移行だけでなく、現実の位置と異なる場所への空間的な移行や、現在から過去へのあるいは未来への時間的な移行もある。

他人の気持ちを思いやることができない人に対して「想像力が足りない」という批判がなされることもあるようにこれらは想像とよばれる意識活動で、その性格によって空想(夢想・物思い)・回想・予想(予測)・仮想(仮定)・思考(思索・思案・沈思・黙考)・構想・妄想…などとよばれている。また夢を見ているときも自己は空間的・時間的に移行している。何かに夢中になって我を忘れていたり、ものを考えたり、本を読んだり、テレビドラマを見たり、ロールプレイング・ゲームをしたり…しているときも観念的な移行が起こっているのである。

このように自覚的あるいは非自覚的に自己が異なる立場の自己に想像の中で(=観念的に)移行することを三浦つとむは観念的な自己分裂とよぶ――当ブログの記事では「観念的自己分裂」と表記している――

観念的自己分裂はそんなに特別な精神現象ではない。日常生活の中で人間が絶えず行なっている意識活動である。ものを考えているときだけでなく何か(対象)を認知・認識しているときや表現をしているときにも人間は頻繁(ひんぱん)に観念的自己分裂を行なっている。

観察・鑑賞

観点とか視点、立脚点などといういい方は対象をみるときの立場を表している。現実の自己が実際に位置を変えてみる場合もあるが観念的に立場や見る位置を変えることも多い。子どもが親の立場に立って現実の自己を反省したりすることもあればその逆もある。教員が生徒の身になって自らや同僚の授業を評価する、弁護士が被害者の側に身を置いて事件をみる…等々、この手の移行はいくらでもある。また鏡に映る自分を見ているときには鏡に映る自分があたかも現実の自分であるかのように見ているわけで、このときの自己は現実の自己から観念的に分裂した観念の世界の中で、鏡に映った自分に対面する位置から鏡に映った「現実の自己」を見ているのである。そして鏡を見ているときのこの観念的な自己はいわば「現実の自分」を見ている「他者」なのであり、観念的に他者の立場に移行して自己を見ているのである。このように他者の立場に立って自己を見るという行為はある程度の年齢になれば鏡の媒介がなくても誰でもがしている。

観察や観測とよばれるものの中には、現実の自己の五感を直接使ったり、視点を直接移動したりするものばかりでなく観念的に分裂した自己が行なうものもある。たとえば顕微鏡を使った観察は自己を対象と同じ程度の大きさに観念的にミクロ化して対象が見える位置にまで移行して行なう観察である。このように機器を用いた観察や観測は、機器を媒介にして現実の感覚器官では到達できない位置や現実の感覚器官では感知できない能力をもったものに自己を観念的に移行させて行なうものである〔機器は現実的に人間にそのような能力を与えるものであるが観察・観測においても観念的な移行が起こるということ〕。いわば機器を鏡として観念的自己分裂を行なっているのである。

鑑賞には観念的追体験(タグ【観念的追体験】)とよばれる観念的自己分裂が必然的についてまわる。観念的追体験にはさまざまな側面があるが、その一つは作者の認識そのものを追体験するためのもので、作品を表現した作者への観念的な移行である。作品はそれを媒介にして作者の意識・認識を表現したものであるから、鑑賞者は作品を媒介にして逆に作者の意識・認識そのものに迫ろうとする過程で自己を観念的に作者の立場に置くことになる。また写真や映像作品の場合作者はカメラを通して作品を映している(これ自体カメラを媒介にした観念的自己分裂である)。したがって鑑賞者もまた作品を媒介にしてカメラの視点へと観念的に移行することになる(制作過程における作者の視点への観念的移行については絵画や彫刻の鑑賞でも行われる)。

小説や映画の鑑賞では鑑賞者は作者が表現した表現世界の中に身をおくことを特に要求される(他の作品にもこのような側面はあるが文学や映画ではこの側面の比重がことに大きい)。鑑賞中の鑑賞者は作品の中に登場する人物やその世界に観念的に移行することなしには作品を楽しむことができない(ゲームを楽しんでいるプレーヤーもそのゲームの世界の中に観念的に移行している)。

表現

表現においても観念的自己分裂が行われる。表現者は表現を受け取る相手のことを念頭に置いて表現するのがふつうである。鑑賞者が作者の立場に身を置いて鑑賞するのとは逆に表現者は表現を受容するものの立場に身を置きながら表現を行なうわけである。これは受容者の立場をいわば先行的に追体験することにほかならない。

小説や脚本を書いている作者はその小説や脚本の舞台となっている世界に能動的に入り込んで、その世界の中で起こるさまざまなことを客観的な目で俯瞰したり、登場人物たちの立場からさまざまな出来事に向き合ったりしているのである。映画や舞台の俳優たちも表現者であるが彼らは自らが演ずる人物に観念的に移行し、その人物になりきって演じなければならない(ロールプレイ)。アニメーション映画の声優たちについても同じことがいえる。

観念的追体験は表現においても常についてまわるのである。

言語表現の特徴

上のように人間は生活のさまざまな場面できわめて自然に観念的自己分裂というものを行なっている。「~の立場(身)になって」などのような表現がしばしば行われるのは人々が非自覚的ながら観念的な立場の移行というものの存在にうすうす気づいていた証拠である。しかし三浦つとむがそれを指摘するまでは多くの人たちは観念的な立場の移行というものの重要性に気がつかなかったのもたしかである(時枝誠記は表現されたことばの内容や意味を正しく受けとめるためには表現した者の立場に立って表現過程を追体験しなければならないと言っている――主体的立場・観察的立場)。言語表現が他の表現と大きく異なるのはこの観念的自己分裂を表現それ自体の中で明示的に扱っており、しかもその表現法が規範化されていることである。これに注目した言語論の最初のものは、言語を対象→認識→表現の全過程においてとらえることを主張した時枝誠記(ときえだもとき)の『言語過程説』である(時枝誠記『国語学原論』1941年岩波書店)。時枝のこの視点が何を源としているかはその著『国語学史』(岩波書店)に詳しい。時枝にこの視点をもたらしたのは江戸時代の国学である。具体的には国学者鈴木朗(すずきあきら)の詞辞論つまり「テニヲハ論」であった。ここでは詳しく述べることはできないが、おおざっぱにいうなら日本語の詞と辞こそ観念的自己分裂を明示しているものなのである(時枝は鈴木の詞辞論に再検討を加えた。三浦は観念的自己分裂という明確な視点からさらに詳細な検討を加えている)。

〔注記〕 観念的自己分裂に関しては カテゴリー【意識・認識>観念的自己分裂】 を参照。

◇◇◇ 2004.03.29/2004.10.11訂正・補足 ◇◇◇

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想像力(せとともこさん)

意識 | Trackback (1) | Comment (2) | URL | 携帯 | スマフォ |  | 記事番号:178
コメント
 
[277] 
2008/02/21(木)21:39:07 | URL | せとともこ[編集
こんばんは。
三浦つとむさんは存じていませんが、シカゴさんや、
あるいは、秀さんもよく引用なさっていましたね。
私も機会があれば読んでみたいと思います。
観念的自己分裂ですかぁ~~~
なかなかドキリとする表現ですね。
ところで、今日トラックバックをお送りしました。
シカゴさんやTAKESANさんに刺激され想像力について考えてみたのです。
いろいろ勉強になります(^.^)
いつもありがとうございます。
では、、、またね!
 
[278] 観念的自己分裂
2008/02/22(金)10:08:27 | URL | シカゴ[編集
せとさん、こんにちは。

私が三浦つとむの著書に出会ったのは20代半ば、古書店で購入した『日本語はどういう言語か』(季節社)が最初でした。今から三十数年前のことです。子どもの頃からことばの不思議さにずっと心を惹かれていた私はそれまでに言語哲学や詩人の書いた意味論の本などを読んでいたのですが、今一つピンとこないというもどかしさを感じていました。ところが『日本語はどういう言語か』には私がそれまで疑問に思っていたことのほとんどに解答が与えられていました。この本は今では講談社学術文庫↓で手軽に手に入ります。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1580434
三浦は言語のみならず表現というものを理解するためには認識論が欠かせないとして、この本では客体的表現と主体的表現という観点から表現を分析し始めていますが、観念的自己分裂はこれに直接関わってくる概念です。この本ではクリちゃんのさし絵を利用して観念的自己分裂を分かりやすく説明しています。

観念的自己分裂という概念はマルクスの言う自己の二重化(理論的な二重化)であり、哲学的には理性的な自我(主観・客観)といった術語で説明されるものです。心理学的には対象意識(対象認識)と呼ばれる精神の状態であり、日常では思考・推理・想像・構想・追憶・移行・……等々の名で呼ばれる心の働き全般を表しています。

言語表現の意味を理解するには表現者の立場に立ってその表現過程を観念的に追体験する必要がありますが、この観念的追体験も観念的自己分裂の一つの形態です。

要するに人間が何かを考えているとき、その何かとは脳裏に浮かぶさまざまな心像(イメージ)や概念でありその心像や概念を想い描いている主体が現実の主体とは別に意識の中に存在しています。このような心像や概念は対象認識あるいは客観と呼ばれるものであり、それらを想い描いている主体は認識主体・主観です。デカルトの「(われ)思うゆえに(われ)あり」における「(われ)」はこの認識主体・主観です。ラテン語では「(われ)」は言語化されていません。つまり「思うゆえにあり」で、「思う」の主体は認識主体つまり観念的に二重化した(私)なのです。デカルトは思考しているときの主体「(われ)」の存在は疑うことができないといっているわけです。このように現実の主体から分離して意識の中で認識対象を認識している主体(認識主体)を三浦は「観念的な自己」とよんで現実の主体(認知主体)である「現実の自己」とは明確に区別しています(哲学者たちはこの二つの主体をそれぞれ「理性的な自我(植物的理性)」「感覚的な自我(動物的理性)」などと呼びました)。

このあたりのことは
「二つの主観(1)~(3)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=(二つの主観)
や「対象意識(1)~(5)」
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/?tag=(対象意識)
をお読みいただけるとうれしいです。

なお「想像力が足りない」などと言われるときの「想像」は自覚的・客観的な観念的自己分裂であり、観念的な自己が自覚的に他者の立場に移行することをいっています。「想像をたくましくする」などというときの「想像」や妄想は主観が十分に客観化されないままに行われる観念的自己分裂でしょう。言語表現において誤解・誤読が生じるのは表現者の立場に立った観念的追体験が不適切・不十分であることが原因です。それゆえ言語表現をするときにはそれを受けとる側に立った表現の仕方を工夫することが表現者の側にも要求されます。つまり表現においてはそれを受けとる側に立った先行的な観念的追体験が表現者にも求められているわけです。せとさんなら、子どもの立場に立った表現というものの重要性は十分お分かりになるのではないでしょうか。分かりやすい表現をするためには表現者には「想像力」という自覚的観念的自己分裂の能力が必要なのですね。

料理をつくるときにはその出来上がったイメージを想い描きながら素材や調味料等を工夫するわけですがこれもまた観念的自己分裂の能力が試される実践です(思考実験もそうですね)。ものづくりに長けた人は例外なくみなこの能力に優れている人だと私は思います。

というわけで、何か創造的な仕事をするときには人間はだれでも観念的自己分裂をしているということですね(自覚的・非自覚的かの差はありますが)。
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トラックバック:想像力
色んな想像力と言うタイトルでTAKESANさんがエントリーを挙げていらっしゃいま
2008/02/21 Thu 12:35:37 | 瀬戸智子の枕草子
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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年10月生れ(74歳♂)。国語と理科が好き。ことばの持つ意味と自然界で起きるできごとの不思議さについて子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。長い間続けた自営(学習塾)の仕事を辞めた後は興味のあることに関して何でも好き勝手にあれこれ考える日々を過ごしています。千葉県西部在住。

2021年の2月下旬から海外通販(日系法人)を通じてイベルメクチンのジェネリック(イベルメクトール:インド Sun Pharma 社製)を購入し、定期的に服用しています。コロナワクチンは接種していません。

ツイッターは okrchicagob(メインアカウント)、または Chicagob Okr(サブアカウント)。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 第一部』 1章(1) 認識論と言語学との関係

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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