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認識についての覚書(7)――観念的自己分裂 [PC版ページへ]
2004/03/29 14:04

〔2004.03.29記/2008.01.24転載〕

 認識についての覚書(1)――中枢神経と末梢神経/感覚と知覚

 認識についての覚書(2)――脳の機能

 認識についての覚書(3)――知覚と知覚表象

 認識についての覚書(4)――意識と認識/知覚表象と表象/表象と概念

 認識についての覚書(5)――カテゴリー・概念の階層

 認識についての覚書(6)――概念のまとめ

 認識についての覚書(7)――観念的自己分裂

 認識についての覚書(1)〜(7)をまとめて読む。

 関連記事:長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』――「解説」〈疎外・外化・弁証法〉

 関連記事:城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』――「訳者解説」ほか

 関連:自己の二重化(1)〜(7)

 関連:二つの主観(1)〜(3)

 関連:対象意識(1)〜(5)

〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。転載にあたって多少の体裁変更を行ないました。知見としては古いものもありますが大筋は変わっていないと思います。

9. 観念的自己分裂

「他人の立場になって」「〜したつもりになって」…というようないい方がある。実際に「他人の立場」になることはできないけれど頭の中で現実の自分とは異なる人間の立場に観念的な移行をすることはできる。このような観念的な移行は他の人間の立場への移行だけでなく、現実の位置と異なる場所への空間的な移行や、現在から過去へのあるいは未来への時間的な移行もある。

他人の気持ちを思いやることができない人に対して「想像力が足りない」という批判がなされることもあるようにこれらは想像とよばれる意識活動で、その性格によって空想(夢想・物思い)・回想・予想(予測)・仮想(仮定)・思考(思索・思案・沈思・黙考)・構想・妄想…などとよばれている。また夢を見ているときも自己は空間的・時間的に移行している。何かに夢中になって我を忘れていたり、ものを考えたり、本を読んだり、テレビドラマを見たり、ロールプレイング・ゲームをしたり…しているときも観念的な移行が起こっているのである。


このように自覚的あるいは非自覚的に自己が異なる立場の自己に想像の中で(=観念的に)移行することを三浦つとむは観念的な自己分裂とよぶ――当ブログの記事では「観念的自己分裂」と表記している――

観念的自己分裂はそんなに特別な精神現象ではない。日常生活の中で人間が絶えず行なっている意識活動である。ものを考えているときだけでなく何か(対象)を認知・認識しているときや表現をしているときにも人間は頻繁(ひんぱん)に観念的自己分裂を行なっている。

観察・鑑賞

観点とか視点、立脚点などといういい方は対象をみるときの立場を表している。現実の自己が実際に位置を変えてみる場合もあるが観念的に立場や見る位置を変えることも多い。子どもが親の立場に立って現実の自己を反省したりすることもあればその逆もある。教員が生徒の身になって自らや同僚の授業を評価する、弁護士が被害者の側に身を置いて事件をみる…等々、この手の移行はいくらでもある。また鏡に映る自分を見ているときには鏡に映る自分があたかも現実の自分であるかのように見ているわけで、このときの自己は現実の自己から観念的に分裂した観念の世界の中で、鏡に映った自分に対面する位置から鏡に映った「現実の自己」を見ているのである。そして鏡を見ているときのこの観念的な自己はいわば「現実の自分」を見ている「他者」なのであり、観念的に他者の立場に移行して自己を見ているのである。このように他者の立場に立って自己を見るという行為はある程度の年齢になれば鏡の媒介がなくても誰でもがしている。

観察や観測とよばれるものの中には、現実の自己の五感を直接使ったり、視点を直接移動したりするものばかりでなく観念的に分裂した自己が行なうものもある。たとえば顕微鏡を使った観察は自己を対象と同じ程度の大きさに観念的にミクロ化して対象が見える位置にまで移行して行なう観察である。このように機器を用いた観察や観測は、機器を媒介にして現実の感覚器官では到達できない位置や現実の感覚器官では感知できない能力をもったものに自己を観念的に移行させて行なうものである〔機器は現実的に人間にそのような能力を与えるものであるが観察・観測においても観念的な移行が起こるということ〕。いわば機器を鏡として観念的自己分裂を行なっているのである。

鑑賞には観念的追体験(タグ【観念的追体験】)とよばれる観念的自己分裂が必然的についてまわる。観念的追体験にはさまざまな側面があるが、その一つは作者の認識そのものを追体験するためのもので、作品を表現した作者への観念的な移行である。作品はそれを媒介にして作者の意識・認識を表現したものであるから、鑑賞者は作品を媒介にして逆に作者の意識・認識そのものに迫ろうとする過程で自己を観念的に作者の立場に置くことになる。また写真や映像作品の場合作者はカメラを通して作品を映している(これ自体カメラを媒介にした観念的自己分裂である)。したがって鑑賞者もまた作品を媒介にしてカメラの視点へと観念的に移行することになる(制作過程における作者の視点への観念的移行については絵画や彫刻の鑑賞でも行われる)。

小説や映画の鑑賞では鑑賞者は作者が表現した表現世界の中に身をおくことを特に要求される(他の作品にもこのような側面はあるが文学や映画ではこの側面の比重がことに大きい)。鑑賞中の鑑賞者は作品の中に登場する人物やその世界に観念的に移行することなしには作品を楽しむことができない(ゲームを楽しんでいるプレーヤーもそのゲームの世界の中に観念的に移行している)。

表現

表現においても観念的自己分裂が行われる。表現者は表現を受け取る相手のことを念頭に置いて表現するのがふつうである。鑑賞者が作者の立場に身を置いて鑑賞するのとは逆に表現者は表現を受容するものの立場に身を置きながら表現を行なうわけである。これは受容者の立場をいわば先行的に追体験することにほかならない。

小説や脚本を書いている作者はその小説や脚本の舞台となっている世界に能動的に入り込んで、その世界の中で起こるさまざまなことを客観的な目で俯瞰したり、登場人物たちの立場からさまざまな出来事に向き合ったりしているのである。映画や舞台の俳優たちも表現者であるが彼らは自らが演ずる人物に観念的に移行し、その人物になりきって演じなければならない(ロールプレイ)。アニメーション映画の声優たちについても同じことがいえる。

観念的追体験は表現においても常についてまわるのである。

言語表現の特徴

上のように人間は生活のさまざまな場面できわめて自然に観念的自己分裂というものを行なっている。「〜の立場(身)になって」などのような表現がしばしば行われるのは人々が非自覚的ながら観念的な立場の移行というものの存在にうすうす気づいていた証拠である。しかし三浦つとむがそれを指摘するまでは多くの人たちは観念的な立場の移行というものの重要性に気がつかなかったのもたしかである(時枝誠記は表現されたことばの内容や意味を正しく受けとめるためには表現した者の立場に立って表現過程を追体験しなければならないと言っている――主体的立場・観察的立場)。言語表現が他の表現と大きく異なるのはこの観念的自己分裂を表現それ自体の中で明示的に扱っており、しかもその表現法が規範化されていることである。これに注目した言語論の最初のものは、言語を対象→認識→表現の全過程においてとらえることを主張した時枝誠記(ときえだもとき)の『言語過程説』である(時枝誠記『国語学原論』1941年岩波書店)。時枝のこの視点が何を源としているかはその著『国語学史』(岩波書店)に詳しい。時枝にこの視点をもたらしたのは江戸時代の国学である。具体的には国学者鈴木朗(すずきあきら)の詞辞論つまり「テニヲハ論」であった。ここでは詳しく述べることはできないが、おおざっぱにいうなら日本語の詞と辞こそ観念的自己分裂を明示しているものなのである(時枝は鈴木の詞辞論に再検討を加えた。三浦は観念的自己分裂という明確な視点からさらに詳細な検討を加えている)。

〔注記〕 観念的自己分裂に関しては カテゴリー【意識・認識>観念的自己分裂】 を参照。

◇◇◇ 2004.03.29/2004.10.11訂正・補足 ◇◇◇

(関連記事)

ことばについての覚書(1)〜(3)
自己の二重化(1)〜(7) (観念的な自己の二重化/世界の二重化)
二つの主観(1)〜(3) (認知と認識/現前・対象認知と再現前・対象認識)
対象意識(1)〜(5) (意識と認識/認識の主体と認識の対象)
タグ【観念的自己分裂】(自己の二重化/二つの主観)
タグ【観念的追体験】
客体的表現と主体的表現(1)〜(4) (対象認知・認識と関係意識)
三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(5) (生産的消費と消費的生産)

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