科学とは何か(PC版ページへ)

2008年01月29日20:20  科学>科学

ことばとは何かについての一致した見解がないように、科学とは何かについての一致した見解がない、というのが私の認識である。それではお前はどういうものが科学であると考えているのかと問われると、ことばと同様に簡潔にいい表わすのは困難であるとしか答えられない。しかし概念としては私の頭の中にそれなりのものがあって、科学とそうでないものとの境界はある程度はっきりしている。

科学は学問であり論理体系であるからそこには実践的な側面と理論的な側面とがあり、しかも両者はそれぞれ依存し合い影響し合っている。つまり両側面は独立して成立するものではないから両側面を切り離して考えることは不可能である*。しかしあえて切り離していうなら、実践的側面は科学的な方法論であり論理的・理論的側面は科学的真理の体系である。また実践には現実の事物や現象を対象とする現実的実践(仮説に基づく現実への適用と確証)と、そこから得られた成果を整理し仮説を立て論理的な組立てを行なう理論的実践(思考実験もこれに属する)とがあり、この両者もたがいに依存し合い関連し合っている。

* 「思惟と意志との区別は単に理論的態度と実践的態度との区別にすぎない。しかし決して二つの能力があるのでなく、意志は思惟の一種特殊な仕方、すなわち自己を定有へと移すものとしての思惟、自己を具体化せんとする衝動としての思惟である。」

「自我は世界を知っているとき世界に安らっているが、世界を概念的に把握したとき、なお一層世界に安らうのである。ここまでが理論的態度である。これに対して実践的態度は思惟に、すなわち自我そのものにはじまり、まず何よりも思惟に対立せしめられたものとしてあらわれる。すなわちこの態度は直ちに分裂を提起するからである。私が実践的・活動的であること、すなわち行為することによって、私は自己を規定する。そしてこの自己を規定するということは、まさにある区別を定立する謂である。しかし私が定立するこの区別は、同時に依然として私のものであり、その規定は私に帰し、私がそれへ駆り立てられる目的は私に属する。ところでたとえ私がこれらの規定や区別を外化する、すなわちいわゆる外界に定立するとしても、なおそれらは私の為せるもの、作れるものであり、それらは私の精神の痕跡をおびている。さてかくのごときが理論的態度と実践的態度との区別であるとすれば、さらに今度は両者の相関関係が示されねばならぬ。理論的なものは本質的に実践的なもののうちに含まれている。このことは、両者がはなればなれのものであるとする考えに反する。けだし我々はいかなる意志をも知性なしにこれを持ちえないからである。逆に、意志は理論的なものを自己のうちに含んでいる。意志は自己を規定する。この規定はさしあたり内面的なものである。私の意志するものを私は自己に表象し、それは私にとって対象である。動物は本能にしたがって行動し、内面的なものによって動かされる。かくて動物もまた実践的である。しかし動物はなんらの意志を持たぬ。けだし動物はその欲求するものを自己に表象しない。しかるに人間はまた同様意志を欠いては理論的態度をとること、すなわち考えることはできない。けだし我々は考えることによって、まさに活動的であるのだから。」(ヘーゲル『法の哲学』第四節補遺――三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』勁草書房 p.109~110からの孫引き)

ヘーゲルにおいては理論的実践(理論的態度・思惟)が主役で現実的実践(現実的態度・意志)はそれを実証・確証するための実践にすぎないという意味で逆立ちしており、その現実的実践もヘーゲルの意識内で行われる思考実験の枠内にとどまっている。上の論考はその点を考慮して読まなければならないが、その弁証法的実践についての考察は評価に値するものである。マルクスは現実的実践なしの理論的実践は机上の空論であることを見抜き、ヘーゲルの弁証法を転倒して、現実を真の契機とし理論的実践は意識の外部にある客観的な現実に対する真に現実的な実践を通してその真理性が確証されると喝破している。

人間の思考に対象的な真理が属するかどうかという問題は、理論の問題ではなくて、実践の問題である。実践のうちで人間はその思考の真理を、言いかえれば、その思考の現実性と力、此岸性を証明しなければならない。実践から遊離している思考が現実的であるか非現実的であるかという論争は、まったくスコラ的な問題である。(「フォイエルバッハにかんするテーゼ(マルクス)」 『フォイエルバッハ論』エンゲルス/松村一人訳・岩波文庫所収 p.87)

ある言説が科学であるかそうでないかという問題は、その言説が科学的真理の体系に属するか否かという問題である。したがってここでいわれている科学とは科学的真理のことである。ところで、真理は一般に命題の形式をとっており、あらゆる命題のうち正しい命題のことを真理とよび、正しくない命題のことを誤謬とよぶ。命題は仮定(前提条件)と結論とからなり、「~であるならば…である」「~する(である)ならば…する(である)」のように前提条件と結論とが判断辞「である」および接続詞「ならば」で結ばれた形式で表現される。

このように命題は表現として表わされることが多い。しかし上の引用でマルクスが指摘している通り、命題そのものは人間の対象認識・対象意識という形態で人間の頭の中に到来するものであり、科学的真理もまた現実の事物や現象に対する現実的および理論的な実践の結果として人間の頭の中に対象認識・対象意識として形成されるものである。三浦つとむが「科学は認識であって表現されることを必要条件としない。芸術は表現であって、認識ではない(『認識と言語の理論 第一部』勁草書房 p.130)と指摘しているのはこのことである*。

* 物質的実践を或は存在を対象とする科学或は思惟は、その対象其のままを、或はその感覚的物質的性質其のままを求めているのではない。それは科学とは別に既に存在している。科学が何か新しいものを求めないならば、それは余計なものであろう。科学は物質・質量に新しい要素をもたらすからこそ、特殊の承認をうるのである。科学が求めているのは材料ではなく、認識、しかも材料の認識であり、物質における一般的なもの、真なるもの、普遍的なもの、「現象の怱忙裡(そうぼうり)における静止した極(注)」である。(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』岩波文庫 p.87~88)

こうして科学的真理は命題という形式をとって表現されるものであるが、どんな簡単な科学的真理であってもそれは人間の複雑な認識活動と数多くの現実的・理論的実践の結果獲得されたものである。一見非常に簡潔に言い表わされている科学的真理もその背後にはそれなりの前提条件を有している。たとえば「酸素と水素が化合すると水になる」という言説は科学的真理として中学校の科学の教科書等で普通に見られる。しかし中学校の教室実験でも分かるように酸素と水素とを試験管の中に一緒に入れたからといって直ちに水が生成することはない。水が生成するためには一定のエネルギーが必要なのであって、それゆえ水を生成するために試験管の口にマッチの火を近づけたり電極を利用して電気火花を発生させたりする必要がある。「化合する」という言葉はこのような前提を含んでいるのである。

水の化合に関する記述はこうした前提を暗黙の了解として成立している。暗黙の了解が成立している上でこのような言説がなされるのなら問題はないが、このような前提を無視してあるいは意図的に隠してどんな状況でもその言説が成立するといいはるならそれはもはや科学(科学的真理)ではない。それは誤謬とよばれる。ましてやどのような前提のもとでも成立しそうもない言説はいまだ科学とよばれる資格をもたない言説つまり誤謬である。ディーツゲンはつぎのようにいっている。

はじめに云ったように、真理の標準には理性の標準が含まれている。理性と同じように、真理は、感性界の与えられた一定量から一般者、抽象的理論を展開させることの中に存している。従って一般の真理が真の認識の標準であるのではなく、一定の対象の真理をすなわちその一般者を産み出す如き認識が真理であるといえる。

真理は客観的でなければならない、すなわち一定の対象の真理でなければならない。認識は自体的に真であることはできず、単に相対的に、一定の対象に関係してのみ外面的事物にもとづいてのみ真でありうる。認識の課題は特殊の者から一般者を発展させることの中に存する。特殊なものが一般者の尺度(すなわち、制約、前提)であり、真理の尺度である。凡そ存在するものは、その多少に拘らず、悉く真である。

一度び存在が与えられれば、その一般的性質は真であるという結果が生ずる。一般者がどれだけ一般者であるかという程度の区別、存在と仮象、真理と誤謬との区別は、一定の限界内にあり、特殊の客体への関係にもとづいている。一つの認識が真であるかないかはその認識そのものによるのではなく、その認識が自分自身に課し、或は他処からその認識に与えられる限界乃至は課題によって定まる。完全な認識は定められた制限のうちにおいてのみ可能である。完全な真理とは常に自己の不完全を意識している真理である。

……

真理はある前提の下に真理であり、前提によっては真理も誤謬となる。太陽が輝くということは、雲のない空という前提の下に理解されれば真である。真直ぐな棒は流れる水の中では曲がるということも、この真理を視覚的真理のみに限るならば鳥の例に劣らず真である。感覚的現象の或る与えられた範囲内における一般者が真理である。感覚的現象のある与えられた範囲内における個別的なもの或は特殊のものを一般者と称するのが誤謬である。真理の反対である誤謬は、一般的に、思惟能力或は意識が無考えに、あさはかに、経験なしに、感覚或は感性が立証する以上の一般的拡張を現象に与えることによって生ずる。例えば、現実の本当の視覚的存在を、早まって有形的存在と憶測する場合の如くである。

誤謬(Urteil)の判断は先入見(Vorurteil)である。真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中に一緒に住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的表現は思想一般であって、その中には誤謬も含まれている。ところで誤謬が真理から区別される所以のものはその誤謬が自らがその表現であるところの一定の事実に対して感覚的経験が教えるよりヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を僭称するところにある。僭越が誤謬の本質である。ガラス玉は真珠であると僭称するときはじめて贋物となる。(上掲書 p.62~64)

〔2008.01.30 追記

科学的真理でないものがその前提条件を隠して科学的真理であることを装うならそれは「偽科学」である。しかし「偽科学」とよばれる言説がその前提条件をしっかりとわきまえ、その限りで真理であると主張するならばそれは科学的真理たる資格をもつ。「太陽は東から昇って西に沈む」という命題は天動説がその分をわきまえ、南極点と北極点とを除く地球上のすべての地点での観察の限りにおいてそれは成立する、と主張するならその命題は立派な真理なのである。

(関連記事)

(関連サイト)

科学とは何か--反証可能性の意味 (秀さん:数学屋のメガネ)

科学的認識における相対性と相対主義 (佐野正博:科学論・科学史・技術論・技術史・科学思想論 入門講座)

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ある親子の架空の対話より(かつさん)
科学の共有(瀬戸智子さん)

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