三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき(PC版ページへ)

2008年02月27日05:36  言語>言語本質論

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

三浦つとむの本とはじめて出会ったのは 1970年代半ば頃であったと記憶している。池袋東口の古書店(名前は失念)で『日本語はどういう言語か』を手にしてパラパラと内容を読んですぐに購入した。この書の初版は 1956年(昭和31年)の9月に講談社「ミリオンブックス」シリーズの一冊として出版されたものだが、私が手に入れたのは 1971年(昭和45)年の3月に季節社から刊行された復刻版である(現在は新訂版が講談社学術文庫から、復刻版(三浦つとむ文庫2)が季節社から出ている)

引き込まれるようにして一気に読み終えた私はその古書店に三浦つとむの本が他にあったことを思い出して、急いで買いに走った。手に入れたのは『認識と言語の理論』(勁草書房)の第一部と第二部だった。

『認識と言語の理論』は『日本語はどういう言語か』と並ぶ三浦の主著であり、三浦の言語過程説が体系的に語られているのもこの両著である。『認識と言語の理論』は「第一部 認識の発展」「第二部 言語の理論」「第三部」の三分冊からなる。第一部と第二部は 1967年(昭和42年)に、そして第三部は第二部の言語論を補う論文集として 1972年(昭和47年)にそれぞれ出版された(第一部と第二部の合本が『言語過程説の展開』という名で「三浦つとむ選集3」〔勁草書房, 1983年(昭和58年)刊〕に収録されている)

こちらは『日本語はどういう言語か』に比べると内容が難しかった。当然一気に読了とはいかず、ちゃんと理解できたかどうかおぼつかないながらも数ヶ月かけてなんとか読み終えた。その後何回か読み返したがある程度分かったと思えるようになったのは数年前のことである。しかし読み返す度に読み落としていた部分を発見するといった具合でいまだ完全に理解したといえないのが我ながら情けない(『日本語はどういう言語か』についても同様である)

最近第一部をまた拾い読みをしているのだが、まえがきを読み直しながら私はそこに書かれていることを後追いしているだけなのだなあ、と今さらながら感じている。

『認識と言語の理論』(勁草書房) 「まえがき」, 第一部 p.1~6 

 ちょっと見ると言語は自明な平凡なもののように思えるが、さて分析をはじめると、複雑な曲りくねった構造をかくし持った、手のつけられぬ存在だということを思い知らされる。会話のときの音声は、のどの声帯が動いて空気を振動させたものであって、波の音や航空機のエンジンの音と同じ物理的な現象であることは明らかである。音声そのものに何ら神秘的なところはない。だがこれを空気の振動としてではなく音声言語として扱うや否や、音声は感性的であるとともに超感性的な存在になってしまう。話し手のつくり出した空気の振動が、聞き手の頭のなかにさまざまな精神的な世界をくりひろげさせることになる。手紙を書くときの文字もこれと似ている。文字はインクの描線で、インク瓶から供給されたインクがペン先から紙上へ流れ出たものである。インク瓶がひっくりかえったとき生れる汚点と同じように、何ら神秘的なところはないが、文字言語として扱うなら感性的であると同時に超感性的であって、単なる汚点とはちがっている。この言語の謎を解きほぐして理論を建設するには、具体的な言語現象を集め整理しながらその背後の構造をさぐっていく仕事ももちろん必要であるが、逆に大きな観点から言語の本質は何かを考え、仮説を立てて実証的に具体化していく仕事も怠ってはなるまい。多くの言語学者は前者に重点をおいて業績を示して来たが、後者の努力が不足しているために前者の仕事も前進が阻まれているように思われる。

 私は戦前から映画・音楽等々表現全体にわたって理論的な関心を持って来たし、職業的な言語学者ではなかったから、言語のとらえかたも言語学者とはくいちがっていた。言語は映画・音楽等と同じく表現の一種類であって、言語の表現としての特殊性を理論的に明らかにしなければならぬと考えて来た。ところが私のようなとらえかたは、美学でも言語学でもどちらかといえば異端視されている。「機械芸術」を論じる美学者の中には、写真や映画を絵画とはまったく異質のものだと解釈し、写真機は「物質的視覚」を持っているから、「もはや描く者の主観がなくなっている」と主張する者がある。タイプ印刷や活版印刷も、同じように機械が言語をつくり出すのだと主張する者がある。これらは表現を人間の認識から切りはなすわけである。伝統的な美学では芸術を一種の認識だと説明し、また多くの言語学者は表現以前にすでに頭の中に「言語」が存在していると説明するが、これらは認識と表現とを正しく区別できず混乱するわけである。創作に精進しているある写真家は、創作態度の反省の中で、講談美学者を理論的に一蹴するつぎのことばを語った。「作品とはすなわちそれを凝視した作者の写真の目であって、目はまた作者の心でもある。心は作者の過去の経験の総和を意味するが故に、”写心”すなわち”写真”である。」(水野千香)機械芸術も手書き芸術も本質的に同じであって、タイプで印刷しようとペンで書こうと文字言語の本質に変りはない。言語表現以前に頭の中に存在しているのは、語法・文法を規定した言語規範とそれに媒介された概念であって、それら自体は言語でも何でもない。言語・映画・音楽等いずれもその作者の心の物質的な模像であるから、心(すなわち認識)に対する模像(すなわち表現)をそのむすびつきにおいて正しく区別することが必要である。切りはなすことも混同することもともにあやまっている。

 われわれが言語をはじめさまざまの表現をつくり出すのは、他の人間と精神的な交通を行おうとしてである。精神を伝えるには物質的な模像をつくる以外に方法がないという事実は、われわれが矛盾に当面しその矛盾を実現して解決することを意味しているのだが、そこでは精神的と物質的、個人的と社会的などの対立した両側面がむすびつき、からみ合いながら発展していく。認識は言語にとって直接の基盤で、言語についてまわる言語規範も認識の一形態であるが、これらはまた言語の側から規定されるという、深く多面的な関係にある。あやまって従来の語法に反した表現をしても、それが社会的な習慣になるならば自然成長的に新しい規範をつくり出したことになる。したがって、科学的な認識の理論を持たずに言語の理論的な解明を志すのは、まっくらな道を手さぐりで前進しようとするようなものだといっても、いいすぎではない。手さぐりだと交錯した側面をとりちがえたり、転倒させて扱ったりしがちである。現に欧米の従来の言語学者や文学評論家もみなつまづいたし、マルクス主義と自称する人びとも失敗した。本書は前半を認識の理論に、後半を言語の理論にあてて、かなり異色ある構成をとったが、それは右の事情を考慮したからである。誰も成功していないなら自分がやってみようと、認識から言語表現への過程を原理的に解明する仕事に手をつけてみたのである。

 認識も言語も、しばしば不可解な異常な現象を示すので、そこでわれわれも「異常なことと難解なこととを混同するという、あの大きな、しかしよくある誤謬」(ポオ『モルグ街の殺人』)におちいりやすい。これはとても手におえぬときめて避けて通ったり、観念論的な解釈を与えてしまったりする。この点は反省する必要があろう。自然科学は複雑な事物の本質を単純な命題ないし単純な数式で語っているし、科学の歴史をながめても、異常な事実こそむしろ謎を解く鍵となるものでその本質は意外に単純なのだと、くりかえしわれわれに教えてきた。認識や言語は複雑な曲りくねった構造をかくし持っていても、その本質は単純だと予想してさしつかえないし、本質が単純ならばそれについての叙述もこれまた単純なもので足りることになる。新しいわけのわからぬ術語が目まぐるしくとび出してくる複雑難解な文章にこそ、深い真理が語られているのだと思いこむ人がまだ多いけれども、それは迷信の一つである。本書ははじめて認識の理論を学ぶ読者も相当あることと考えて、認識の諸矛盾を見のがさぬようつねに強調し、また図解を使って理解しやすいように心をくばった。既成の理論に対して批判的な態度で接することを忘れず、学問の道をすすもうとする読者にとって、難解なところはすこしもないであろう。

 学問は個々の人間の獲得した成果をとりいれまとめあげ、個人を超えたかたちの体系に成長していく。私の理論の展開にしても、やはり先輩の獲得した成果を遺産として受けつぎながらすすめられた。これを学問の諸系列に位置づけるならば、認識の理論は唯物論的な反映論の系列に属し、言語の理論は「言語過程説」すなわち時枝言語学の系列に属している。ただしこの二つの系列は、これまで正しくむすびついていなかっただけではなく、むしろ相いれないかたちで論じられるところへ向っていた。これらを一貫した立場で体系化するには、両者の欠けていた部分を埋めるだけでなく、歪められ切りはなされていた部分を訂正しつなぎ合せる作業を必要とした。それに、遺産として受けつぐべきものすら、必ずしも正当に評価されてはいないのである。本書では、先輩の仕事と私の仕事との境界線はどこか、誰の遺産をどう評価しどう受けついだかを示すために、多くの文献からいろいろ引用しておいた。これまで反映論が十分展開できなかったというのも、せっかく先輩が遺してくれた貴重な成果を活用しないからである。反映は対象を受動的に認識するにとどまるものではない。事態の進行を先走ってとらえて予想を描き出すとか、生活の秩序を維持し不当な欲望を押えるために規範を創造するとか、能動的な認識を多種多様につくり出している。日本の仮説実験授業とよばれる教育研究運動が提出している予想論・仮説論も、能動的な認識の発展過程を論じている点で見のがしえないものである。認識はその受動的な側面と能動的側面とがたがいに移行し合いからみ合い矛盾を形成していて、これらの矛盾を解明することから言語表現の矛盾の解明へとたどっていかなければならない。矛盾を正しく扱うには、弁証法を意識的に適用するのがもっとも有効であるから、弁証法の歴史をふりかえってみることも決して無益ではあるまい。大哲学者ヘーゲルは、世界をできあがった事物の複合体とする従来の見かたをしりぞけて、過程の複合体としてとらえようとした。マルクス主義もまた唯物論の立場に立って、この根本的な思想を受けつぎ、世界を過程的なできごととしてとらえるべきだと主張する。このとらえかたを言語の理論的研究に適用すれば、認識の成立から表現にいたる過程的構造の解明に努力せよということになろう。ところがこの解明に努力して言語の理論に結実させたのはマルクス主義者ではなく、間接にヘーゲルの影響を受けた日本の国学者であった。「言語過程説」が言語学のコペルニクス的転換となりえた理由も、また唯物論的な反映論の系列と正しくむすびつきえなかった理由も、ここに見出すことができる。

 現在の「言語過程説」はまだ十分に理論的に仕上げられていない。機能主義的なふみはずしもあり、言語規範のとらえかたそのほか認識の構造の説明にも混乱がふくまれている。唯物論的な反映論を正しく展開していくと、それらを訂正することになり、これまで言語学者が「言語過程説」に投げかけた疑問や批判の正否も明らかになる。しかし、それらの批判と私の批判とが一致しても、「言語過程説」全体の評価が一致したことを意味するものではない。言語学者はそれらの部分的な弱点をつっついて、理論全体を破りすてる方向へ進んだのだが、私は二〇年前からこの理論を革命的な業績だと公けに主張して、弱点を訂正し前むきに発展させる方向へ進んだからである。革命はどれもこれも革命らしい見かけを示すとは限らない。革命と自称し革命らしく見せかけた逆コースないし反革命もあれば、反動的な国家がそれとは知らずに支持する静かな革命もある。国家の任命した大学教授がペンをとった官許国定の理論の中に、革命がひそんでいたというような事態は、何も一九世紀のプロイセン王国だけに限られるわけではない。

 サイレント時代のチャップリン映画は非常に単純でしかも複雑な意味を持つタイトルを使っていた。サウンド版の『街の灯』でも、盲目の花売娘が目をなおしてくれた恩人にめぐり合い、あまりにもみすぼらしいことの驚きとこの人だったかというよろこびとを、“You !” の一語で表現していた。日本語版の翻訳者三人がどう訳したらいいかと二時間も考えこんでしまい、あとでそれをチャップリンに話すと、「君たちもそうだったのか」と微笑したという。この作品は六カ国語版をつくったから、前にも似たことがあったとみえる。この種の事実にぶつかったとき、同じ単語が使いかたで複雑な意味になるとは奇妙なものだとここで思惟をストップするか、かたちはちがうが似た問題は絵画や映画でも起るから表現形式と表現内容は相対的に独立していると一般化してとらえるかに、学問としての別れ道があろう。ことばには「霊魂」があるとか文章には精神がこもっているとか、昔から言語表現は物神崇拝されて来た。そんなことは古くさい迷信だと嘲笑してここで思惟をストップするか、商品特に貨幣商品に対してもやはり昔から物神崇拝がなされている事実を見のがさず、形はちがうが労働生産物の価値と言語の意味とは論理的に共通していると一般化してとらえるかに、学問としての別れ道があろう。現象面で思惟をストップさせて、言語表現の過程的構造へ自力でふみこんでいこうとしない人びとだけが、言語をできあがったものとして固定的にとらえ、与えられた道具を使うのだというような現象的な解釈に安住できるのである。小説に挿画を入れるとか、映画やテレビに解説がつくとか、言語と他の表現とが共存している例は多い。これらをつきつめて検討していけば表現一般のありかたにぶつからずにはすまないし、また言語と他の表現との同一性および差別を考えずにはすまないのである。

 本書は言語の理論を述べた部分でも、表現一般のありかたをふくむ言語の原理的な問題の解明に重点をおいたから、言語の特殊な具体的な問題についてはかなり圧縮したかたちで論じることとなった。旧著『日本語はどういう言語か』では論じたが、本書では省略した問題もいくつかある。やむをえなかったことと諒解していただきたい。長い年月の間、いつ発表できるかわからない論文を断片的に書きためてきたが、このように体系的にまとめて公にできるのはまことにうれしいことである。勁草書房と編集部の石橋雄二氏に深く感謝する。

一九六七年五月

 著  者

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