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時枝誠記と三浦つとむ(2)――「三浦つとむ選集1」から [PC版ページへ]
2008/03/01 19:08

 時枝誠記と三浦つとむ(1)(2)をまとめて読む。

 関連:三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5)

引き続き「三浦つとむ選集1 スターリン批判の時代」(勁草書房) 第二部「スターリンの言語学論文をめぐって」から。なお引用にあたって旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた。


「なぜ表現論が確立しないか」 p.64〜67 

 わたしが時枝誠記氏の言語理論を支持し、これを「言語理論として世界の最高水準を行くもの」「前人未踏のきわめて見事な弁証法の展開*1」と賞讃したことに対しては、大久保忠利氏その他から強い反対が出ている。シムポジウムの席上でも、大久保氏から、時枝理論は観念論だ、弁証法ではない、時枝のスターリン批判はまちがいだ、と反対意見が述べられた。わたしは、時枝理論が絶対無瑕疵(かし)だなどといってはいない。「著者のこの努力が、高度の論理学に正しく媒介されていなかったために、本質論的規定における混乱と誤謬とをのがれえなかったことを附言して*2」おいてあることを忘れないでほしい。わたしは一部の人々のとっているやりかた、すなわちソシュール言語学のホコロビをあちらこちら何かとぬいあわせ、それに史的唯物論の衣裳をきせてやれば、唯物論の立場に立つ言語学ができはしないかと考えるような、甘い空想には反対である。時枝言語学の長所をのばし短所をあらためて完全なものに仕上げていくことが、いまのわれわれにとって必要であり、これがわれわれの民族語である日本語をまもるための・発展させるための、正しい道でもあると考えている。だから時枝言語学を理解できずに勝手な解釈を押しつけたり、批判と称して遠吠えをしたりするような態度の人々に深い反省を求める。

 言語理論家も、現実の人間の認識を相手にすれば、不可避的に自分自身の二重化の問題にぶっつかる。時枝氏もこれにぶつかったが、この問題をどう理解したであろうか。それは次の文章からよみとることができる。読者諸君はマルクスの理解と比較検討していただきたい。

 「主体は言語に於ける話手(はなして)であって、言語的表現行為の行為者である。……主体はそれ自らを如何なる方法によって言語に表現するか。屡々(しばしば)文法上の主格が言語の主体の如く考えられるが、主格は、言語に表現せられる素材間の関係の論理的規定に基くものであって、言語の行為者である主体とは全く別物である。例えば、『猫が鼠を食う』という表現に於いて、『猫』『鼠』『食う』といふ素材的事実相互に於いて、『猫』が『鼠』『食う』に対して主体となるようなものである。こういう場合の主体は、素材間の関係に過ぎないのであって、『猫が鼠を食う』という言語的表現そのものの主体は別でなければならない。言語の主体は語る主体であって『鼠を食う』という事実の主体であってはならないのである。次に文法上の第一人称が主体と考えられることがある。成る程、『私は読んだ』という表現に於いて、この表現をなしたものは、『私』であるから、この第一人称は、この言語の主体を表している様に考えられる。しかしながら、猶(なお)よく考えて見るに、『私』というのは、主体そのものではなくして、主体の客体化され、素材化されたものであって、主体自らの表現ではない。客体化され、素材化されたものは、もはや主体の外に置かれたものであるから、実質的に見て、『私』は前例の猫と何等択(えら)ぶ処(ところ)がなく、異る処は『私』が主体の客体化されたものであり、『猫』は全然第三者の素材化されたものであるということであって、そこから第一人称、第三人称の区別が生ずる。従って『私』は主格とはいい得ても、この言語の主体とはいい得ないのである。この様に第一人称は、第二、第三人称と共に全く素材に関するものである。後に述べることであるが、第二人称も場面即(すなわ)ち聴手(ききて)そのものではく、聴手の素材化され、客体化されたものであるのと斉(ひと)しい。この考方(かんがえかた)は極めて重要であって、かようにして、言語の主体は、絶対に表現の素材とは、同列同格には自己を言語に於いて表現しないものである。これを譬(たと)えていうならば、画家が自画像を描く場合、描かれた自己の像は、描く処の主体そのものではなくて、主体の客体化され、素材化されたもので、その時の主体は、自画像を描く画家彼自身であるということになるのである。言語の場合に於いても同様で、『私が読んだ』といった時の『私』は主体そのものではなく、主体の客体化されたものであり、『私が読んだ』という表現をなすものが主体となるのである。主体は『私』という語によって自己を表現しているのでなく、若し主体の表現それ自体を知ろうとするならば、『私が読んだ』全体を主体的表現と考えなくてはならないのである。主体の本質は以上の様なものであって、言語の存在条件として主体の概念を導入することは、本論の展開の重要な基礎となるものである。*3(強調は三浦)

 時枝氏は、言語における「主体の客体化」を、自画像を描く場合と本質的に一致するものと見た。自画像を描く場合、われわれはどういう方法をとるだろうか? 鏡にむかってそこに映った自分のすがたを描きとるのである! 鏡のなかの自分を「もはや主体の外に置かれたもの」として扱うのである。前に説明したように、これを描いているのは「自画像を描く画家彼自身である」が、それと同時に、観念的には彼自身でなく、傍観者としての他人の立場に移行しているのである。時枝氏は表現の主体が客体化された主体と区別されなければならないことを「極めて重要」であると力説し、またこの主体が同時に現実の話し手自身であることをも認めているが、客体化された主体に対する表現の主体が、観念的な自分自身の二重化であることを論理的に明白に打ちだしてはいない。この二重化が確固として把握されれば、表現の主体は現実の主体の場合もあり、また観念的な主体にもなり、観念的な主体としてさらに無限に変化し*4、ひとつの文のなかにおいてさえ主体が観念的に移行しあうことも、理論的にハッキリと示すことができたはずである。「主体の客体化」という言葉だけをながめると、観念論のようにみえるからわからずやの非難をうけやすいし*5、またここで誤ると観念論に顛落(てんらく)することにもなるのだが、何をのべてあるかを理解してそれを正しく仕上げることが必要なので、表現の主体を客体化された主体と区別したこと、言語理論にこのような主体の概念を導入し、「展開の重要な基礎」としたことは、時枝言語学の功績の一つである。

 ……言語の弁証法を云々するならば、それを対象に押しつけるのではなく、対象のなかに発見し、かつ対象から次々と展開していかなければならない。全体として表現論が未確立であっても、どこかの分野で突破口が開けられれば、それを正しく拡大することによって全体が前進できるのである。時枝言語学は、全芸術理論家にとって、こうした突破口として扱われるだけのものをもっていると、わたしは強調したい。特に文学理論は言語理論と切っても切れぬ深い関係にある。この意味からも、文学理論家が時枝言語学に関心を持たれるように、『国語学原論』および『日本文法・口語篇*6(岩波全書)を座右に置いて検討を進められるよう、希望する。

*1 三浦つとむ『弁証法、いかに学ぶべきか』二三七〜八頁。

*2 同上。弁証法の術語を使ってないと弁証法でないかのように思うのはあまりに子供らしい幼稚な論理水準である。

*3 時枝誠記『国語学原論』四一〜三頁。岩波文庫版 p.58〜60。

*4 小説や戯曲の文章のように、作者は登場する各人物それぞれの主体につぎからつぎへと移行していく。

*5 わたしや田中吉六氏が、マルクスのいう「自然の人間化」「客体の主体化」をとりあげたら、森信成氏その他、関西の一部の「マルクス主義者」は、三浦や田中の主張は観念論で実存主義だとはげしい非難をあびせている。言語論のそれと思いあわせると、すこぶる教訓的である。

*6 「文法は単語の変化と単語の結合の法則をあつめたものである」という、スターリン式の考え方は、この書物で正しく批判されている。このような機械論はもっとも初期のモンタアジュ論につながっている。時枝氏は語と文と文章とをそれぞれ質的に異った単位としてとりあげ、「その性質・構造・体系を研究し、その間に存する法則を明かにする学問」(二四〜五頁)が文法学であると規定する。形式的に平面的な「結合」としてとりあげることなく、あくまでも内容から立体的な統一体としてつかむところに、時枝理論の著しい特徴がある。「文法学は言語に於ける……潜在意識的なものを追求し、これを法則化するのである。ここに文法学がややもすれば観念的に、思弁的になる危険があるのであるが、ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない。」(五五〜六頁)まさにそのとおり!

『国語学原論』からの引用の前に三浦が「読者諸君はマルクスの理解と比較検討していただきたい」と注意を促している「マルクスの理解」というのはこの論文の前の方に引用されているマルクスの二つの文章(『資本論』および『経済学・哲学草稿』)のことである。それら二つのマルクスの文章とそれに加えられた三浦の検討・分析については「自己の二重化(3)――観念的自己分裂」と「自己の二重化(5)――認識の外化・対象化」とを参照していただきたい。

「言語の謎を解くには科学的な認識論が必要である」と三浦が口を酸っぱくして言っているのは人間の認識についてのきちんとした理解がなければ科学としての言語学は成立しないからである。上の時枝の論考を理解し批判的に吸収するにはやはり認識論という武器(ここでは観念的自己分裂という概念)が必要なのである。

なお、ここで時枝が「素材が客体化されたもの」といっているのは後に時枝によって「客体的表現」と名づけられたもののことである。また、「言語の主体は、絶対に……自己を言語に於いて表現しないものである」という時枝の指摘はことに重要である。言語に限らず表現一般において、表現者その人は表現されたものの中には存在しない。表現者は表現の背後に隠れている――関係として存在している=止揚されている――のである。

同じく「三浦つとむ選集1 スターリン批判の時代」(勁草書房) 第二部「スターリンの言語学論文をめぐって」から。

「スターリンは如何に誤っていたか」 p.75〜76 

 昭和二十五年十月の『中央公論』は、国語学者時枝誠記氏の論文「スターリン『言語学におけるマルクス主義』に関して」を掲載した。時枝氏はつぎのように述べている。

 「ありのままに云って、私はこの感想文の執筆を承諾したことを、何度も後悔した。それは、原著者の採用した言語理論と言語に対する理解とに対して、多くの疑問が感ぜられる一方、彼が政治的立場から言語に課した多くの重要な意義について、好意を寄せることが出来るように思えたからである。」

 この言葉は、わたしの心を強く打った。もちろん時枝氏が意識的にマルクス主義の立場に立つ学者でないことは知っている。しかし誠実な一学徒としての国語の研究からうまれた「言語過程説」は、部分的に未熟なところがあるにしても日本の学界として誇るべき成果であり、マルクス主義言語学に近づいていることも理解しているわたしにとって、この批判が真摯な態度で書かれていることは一点の疑いもなかった。しかも時枝氏の指摘している多くの疑問乃至批判はそのほとんどが全部が正当であって皮肉な事実ではあるがスターリンの形而上学を弁証法的に批判しているのである。立場こそちがえわたしの意見を問われれば、結局さきの時枝氏の言葉のように、一方では批判を一方では支持を表明することになるのである。そればかりではない。昭和二十三年以来わたしは言語理論を研究していることも時枝理論を支持することも公けにのべているのだから、学問にたずさわる人間として、スターリン言語学に対する自分の態度を表明しなければならない義務があった。ここで表明をさけて口をつぐんだり、あるいは良心にそむいてウソをのべたりするのは、学問にたずさわる人間としては堕落であり自殺的行為である。わたしは正面から批判をぶつけることを決意した。十月一日発行の『民科研究ニュース』臨時特集第一号に、「スターリンの見解とわたしの見解とはどこがちがうか」と題して、スターリンがマルクスの唯物史観の公式を誤解していることから、川上肇氏との一致、『ドイツ・イデオロギー』の記述など、大体のアウトラインを書き、また九月三十日民科主催のシムポジウムの「スターリンの言語論」で講演した。……

……

 ……やがて民科の哲学者たちのグループは、雑誌や単行本に発表する論文を事前検閲するとわたしに申しわたすようになったのである。「分派」らしきものを見るや、アメリカのスパイというレッテルをはって片っぱしから処分しているこの時代に、スターリン批判をはじめたらどうなるか、結果はわかりすぎるほどわかっていた。ただちに処分が行われ、雑誌その他へは発表防止の措置がとられた。時枝氏に対してはタカクラ・テル氏はじめ「進歩的」言語学者から、学界にのさばっている反動学者という罵倒が投げつけられた。わたしは『文学』の論文のつづきを同じ岩波の『思想』へ出してくれるよう依頼したが、責任者は「スターリンがまちがっていることはたしかにみとめる。しかし掲載は拒否する」旨を伝えてよこした。そして、何カ月か立ってからどこから流したか「三浦の理論はまちがっている。その証拠にはもうあとを書かず発表しないではないか」といううわさがわたしの耳にも入ってきた。

(関連記事)

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章
自己の二重化(3)――観念的自己分裂
自己の二重化(5)――認識の外化・対象化
客体的表現と主体的表現(1)〜(4)



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