近頃は本を読んでもすぐに忘れてしまうので自分自身の覚えのために書いておきます。しかしながらこの根気がどれほど続くかまったく自信がないというのが本当のところです。やる気が失われないうちはとにかくボチボチとやっていきます。
〔注記〕 三浦が「認識論」というときの「認識」は、単に対象認識(認識内容)を指しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」(私はこれを関係意識と呼んでいる)をも含んでいる――つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、「認識論」は人間の精神・意識のありかたに関する科学という意味で「意識論」と呼ぶべきである。また、以下の文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。
〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.3
科学の成立は、それまで哲学の名でよばれていた解釈学を克服し清算してしまう。自然科学の確立は、自然哲学を片づけてしまった。経済学の確立は、経済哲学を片づけてしまった。いまだに哲学と名のるものがくっついてまわっているような分野があるとすれば、それは科学と名のっていてもまだ真に科学の名に値しないことを暗示しているといっていい。法律学には法哲学なるものが、言語学には言語哲学なるものがそれぞれくっついてまわっているばかりでなく、法律学者あるいは言語学者も、この問題は法哲学に属するとか言語哲学に属するとか述べて、いわば下駄を預けている状態にある。しかも、それではいけないのだという反省さえ見られないのである。では、この哲学に下駄を預けている問題はどんな問題かというと、それは精神活動に関する問題である。法律は国家の意志という特殊な認識として成立する。言語は話し手や書き手の頭の中にまず訴えようとする思想や感情が成立し、それから音声や文字を創造する活動がはじまるのである。法律学あるいは言語学が、いまだに哲学と名のるものによりかからなければならないのは、認識についての科学的な理論を持たないためであって、この理論を持つことによって真に科学の名に値するものになるであろう。それゆえ、本書はまず言語学にとって必要な認識論を述べてから、言語についての理論に入っていくことにする。
言語はある個人の認識(認識内容や関係意識――以下同様)を他の個人に伝えるための物質的・物理的媒介物である。個人の認識そのものを直接他の個人に伝えることは不可能であるからそれをなんとか伝えるための媒介物として人類は言語や絵画などの表現を創り出した。したがって人間が自己の認識をいかにして言語(表現)という形態に変換し、また言語(表現)という形態からいかにして他者の認識――この場合の他者には自己も含まれる――という形態を再形成するのかを知るためには、人間の認識がいかなるものであるのかという科学的な研究が必要になる。つまり科学的な言語学(表現論)の確立にはまず科学的な認識論の確立が不可欠だと三浦は言っている。上は本書『認識と言語の理論』第一部は科学的認識論の書であるという三浦の宣言でもある。
同上 p.3~
人間の認識は社会的なものである。これは何も、認識が個々の人間の頭の中に成立することを否定しはしない。たしかに認識は、客観的に存在している現実の世界のありかたを、個々の人間が目・耳その他の感覚器官をとおしてとらえるところにはじまるのである。認識は現実の世界の映像であり模写であって、たとえどのような加工が行われたとしてもその本質を失うことはないし、脳のはたらきとして個々の人間の頭の中にしか存在しない。それにもかかわらず認識を社会的なものと理解しなければならぬのは、個々の人間の認識が交通関係に入り込むからである。人間はその物質的生活において、交通関係をむすんでいる。他の人間の労働の対象化されたものが、場所を移動して自分のところへやってくるし、自己の労働の対象化されたものも同じように他の人間のところへ届けられている。そしてこれらを使用したり消費したりして生活を生産している(1)。そしてこの生活を生産するためには、精神的にもやはり交通関係をむすんで、他の人間の認識を自己の認識に受けとめたり自己の認識を他の人間に伝えたりしなければならない。現にわれわれは、尨大(ぼうだい)な言語にとりまかれながら生活している。音声言語の流れが渦まき、文字言語がいたるところで訴えかけ積み上げられて手にされるのを待っている。地球の裏側に生活している人々も、国際電話で精神的な交通をすることが可能になっている。われわれはこれらと関係をむすび、また自己の側からも音声や文字を創造して関係をつくり出していく。人間はこのようにして精神的に相互につくり合っている。別のいいかたをすれば、他の人間の認識を自己の頭に受けとめることによって認識がさらに広く深くなるのであるから、自己の認識は他人的になることによって自己として成長していくのである。これが社会的という意味である。他人の認識は精神的な交通によって自己に統一され、正しく調和し融合していくのであるから、ここに矛盾が正しく調和したものとして形成され発展していくとも見なければならない。
(1) 「もろもろの個人は、たしかに肉体的にも精神的にも相互につくり合う」(マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)のであるが、生活の生産とはこの人間自身の生産を含む概念である。これは「活動を相互に交換し合う」(マルクス『賃労働と資本』)ことによって行われ、対象化された労働の場所の移動すなわち交通関係もまた広い意味で生活の生産関係の一部を構成することになる。ただし、精神的な活動を相互に交換し合いつくり合うのは、物質的な活動のそれと区別しなければならない。精神が一個の実体として頭からぬけ出し、場所を移動して他の人間の頭へ入りこむのではないからである。
社会的な動物である人間は「肉体的にも精神的にも相互につくり合」って生きている。諸個人は対象化された労働である物質的な生産物の交換によって肉体的に相互につくり合うだけではなく、精神的な労働が対象化された精神的な生産物である認識を交換することによって精神的にも互いにつくり合っている。交通とはこのような物質的生産物・精神的な生産物が移動することである。しかし精神的な生産物である認識は個人の頭から抜け出して他の個人の頭の中に直接入り込むことはできない。つまり認識は認識そのものとして移動することは不可能なのである。この矛盾を解決するために人間は言語を始めとするさまざまな表現を創造し、それらの物質的・物理的な形態(形象)を介して認識を交換し合うことによって精神的につくり合っている。社会的とはこのように諸個人が交通関係を通じて肉体的・精神的に互いにつくり合うことをいう概念である。
同上 p.4~
尨大で多種多様の言語のありかたを大別すると、実用的な言語と観賞用の言語の二つになる(2)。駅のスピーカーから流れ出るアナウンスは実用的な言語で、ラジオのスピーカーから流れ出る落語や漫才は観賞用の言語である。多くの数式をふくんだ抽象語を展開して、目に見ることのできぬ極微の世界についての理論的な認識を述べた自然科学の論文は、実用的な言語の一つのありかたであり、作家の奔放な空想の世界を展開して、さまざまな事件のからみ合いを目の前に見るように語りながら複雑微妙な登場人物の心の動きを追っていく長編小説は、観賞用の言語の一つのありかたである。観賞用の言語は、言語の持つ長所を十分に発揮できるように、その内容となるべき作家の世界を設定しうるが、実用的な言語は、物質的な生活を維持し発展させるために欠くことのできない存在であるばかりでなく、認識をえりごのみすることが許されない。どのような認識でも、直接あるいは間接にとりあげ、ときには身振りや表情などの協力をも求めて、何とかして交通関係に置かなければならない。一方、これを受けとめる側としても、音声言語は空気の震動として耳の鼓膜を動かし、文字言語は紙の上のインクの描線として目に映ってくるのだが、それらは単なる自然物ではない。それぞれの背後には話したり書いたりした人間の認識がひそんでおり、それを通じてさらに現実の世界のありかたへとつながっているのであるから言語を理解するにはこの過程的構造を正しくとらえなければならないことになる。言語の理論的な研究の重点は、とりもなおさずこの過程的構造の理論的な研究だということになる(3)。それゆえ言語学の確立にはどうしても認識論の援助を必要とするし、もし認識論があやまっているにもかかわらずそれに依存した場合には、言語の直接の基礎となっている存在をあやまって解釈するのであるから、言語学もまたあやまった方向をとることになろう。それゆえ、言語の理論的な研究を志す者は、自己の認識論が正しいか否か、意識することなしにあやまった認識論へとふみすべらしていないかどうか、常に吟味を怠ってはならない。
(2) ここでいう言語は、ソシュールの「言語」(ラング)のような頭の中にある規範をさすのではなく、表現をさすのである。表現ならこの二つの系列が大別できるけれども、ソシュール的な発想では表現としての特徴が捨象されてしまい、この区別も無視されることになる。
(3) 時枝誠記がこのことを強調したのは正当であった。
前半部は言語は実用的なものと観賞用のものとに大別されることを述べている。実用的な言語は観賞用の言語とは違い、物質的な生活のために必要不可欠なものでありその必要に応えるためにはいかなる認識であってもなんとか表現を工夫して他者にその内容を伝えなければならない。そうでないと物質的・精神的生活に支障をきたしてしまう。そのためには言語表現だけでなく身ぶりや表情・声の大小などの言語表現以外の表現の助けを借りるということも必要になる。しかし言語表現とそれに付随する非言語的な表現とは別のものであることには留意しなければならない。
言語は人間の認識の内容を物質的・物理的な形態(形象)で表現したものであるがそれは認識そのものではない。物理的にはそれは単なる音声あるいは描線の集まりにすぎない。しかしその背後には表現した者の認識が隠れており、その認識の背後にはその認識をもたらした現実の世界のあり方がつながっている。したがって言語がいかなるものであるかを理解するためには、時枝誠記が主張したように<現実の世界→認識→言語>という形でつながっている言語の過程的な構造を論理的にきちんとつかむ必要がある。そのためには科学的な認識論という解剖の武器がどうしても必要になる。言語過程説はこのような問題意識のもとに言語を研究する言語学である。
同上 p.5~
現在の言語学はまだ蒐集(しゅうしゅう)と分類の学問の段階をあまり出ていない。現象をとらえて説明すればそれでいいのだと信じている学者もすくなくない。けれども語彙を蒐集し、それらの音韻・形態・意味を分類して記述し、さらに歴史的な変動・変遷の調査へと進んで、なぜ・いかにして・言語の意味が変動・変遷するのかという問題にとりくむと、それが人間の認識のありかたと深くかかわり合っているだけに、それらの「心理的理由」について検討しなければならなくなってくる。また、言語の表現は多くの単語をならべるというかたちをとるから、なぜ・いかにして・単語を構成していくのかという問題にとりくむと、それが人間の認識構造と深くかかわり合っているだけに、認識の構造をどう解釈するかによって文法の解釈が変り、文法論の性格も異って、いろいろな文法論が対立することになった。それゆえ、現在の文法論の対立を検討しようというときにも、やはり正しい認識論の援助を必要とするのである。
人間の認識は立体的・多面的・過程的である。しかし複雑な構造をしたこの人間の認識内容を言語に映すときには単語を並べた一次元的なつながりとして表現するしかない。それでは単語とはいかなる認識を表現したものなのか、文とは、文章とは……。時枝は単語は言語における単一なる全一体・質的統一体であり、文もまた一つの全一体・質的統一体であるという。しかもそれらは表現者の主体的意識においてそうなのだと喝破している(『国語学原論』)。したがって言語を構造として理解するためには認識の構造がいかにして言語の構造に映されるのかを解明しなければならない。そのためにも科学的な認識論が必要となってくる。
同上 p.6~
そこで考えなければならぬのは、認識論の現状である。認識論は哲学の一分野と見なされて、古くから哲学者によって研究されて来た。ところが一九世紀に至って、実証的な個別科学がつぎつぎと確立し、哲学も哲学者ももはや歴史的な役割を終って退場すべき運命をたどることとなった。科学は哲学者が机に向かってあれこれと空想を展開しながら体系化していくものではなく、あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものである。認識の科学も、科学者の手によって一つの個別科学として体系化されなければならないのであり、認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならないのである。もちろんこのことは、従来の哲学の遺産を無視してよいことを意味するわけでもなければ、哲学でとりあげて来た世界観を無視してよいということを意味しているわけでもない。観念論の立場に立つのと唯物論の立場に立つのとでは、認識の寄ってたつ基礎のとりあげかたがまったく異ってくる。唯物論の立場を堅持することによって科学的な認識論の確立も可能なのであり、観念論にふみはずしたのでは混乱と誤謬からのがれることはできない。しかしこの世界観的な立場だけを抽象的に論じていたのでは、哲学者の態度にしがみつくわけであって、個別科学としての認識論の確立を放棄してしまうことになってしまう。それにもかかわらずマルクス主義者と自称する人びとさえ、いまもって認識論を哲学にとじこめておこうとしている。
個別科学としての認識論は原則としては物理学や化学といった自然科学の諸分野と同様に「あくまでも対象ととりくんで対象からつかみとりたぐっていくものであ」り、「認識の具体的なありかたととりくんで研究しなければならない」。三浦のいう「唯物論の立場」とは科学的な立場であり、個別科学というのは科学的な方法論によってなされなければならない、と三浦は主張しているだけである。このあたりまえの考え方が認識論という学問においてはいまだ共通の立場(common sense)になっていない(時枝のいうようにこのことは言語学についてもいえるのだが)。
同上 p.6~
「弁証法的唯物論の認識論は、諸科学にとって、それ自身の前提とを吟味し批判するための手段である。そして、これは、科学の問題や仕事を定式化し解決するために役立つところの、本質的な、あるものである。」(コーンプフォース『哲学の擁護』)
「知ること(認識作用)およびその結果獲得された知識(認識)についての何らかの哲学的反省のすべてを、認識論とよぶ。」(寺沢恒信『認識論史』)
「資本制段階をとおして確立したとくていの認識論という、哲学の存在形態を整序し、その基本的性格とことなるあたらしい哲学の存在形態が、出現し、現代認識論という理論形態をとった、というのが本書の見解である。」(山田宗睦『現代認識論』)
なぜこれらの人びとが、個別科学の建設を主張しないで、「批判するための手段」や「哲学的反省」や「哲学の存在形態」にしてしまうのか? それはマルクス主義の創始者たちが「哲学一般はヘーゲルとともに終結する(4)」ことを指摘しているにもかかわらず、哲学者なるものは一個の職業として相も変らず社会的に維持されてきたからであり、マルクス主義者の中にも資本主義国はもちろんのこと社会主義国においてさえ哲学を説くことを職業とする人びとが現れたからである。そのちがいは「ブルジョア哲学」を説くかそれとも「プロレタリアートの哲学」なるものを説くかにあって、個別科学の建設に努力しない点では同様である。哲学なるものを説いて生計を立てることになれば、自分の存在理由を合理化するためにはどうしても哲学とよばれるものの分野を確保しなければならない。認識論が哲学からぬけ出して個別科学として確立したのでは、存在理由が減少してしまう。そんな努力は自殺行為でもあるし、それに机の前で哲学的なエッセイを綴(つづ)るのとちがい、着実な研究のつみかさねを必要とする苦労の多い仕事であるから、哲学の文献について解説しながら生活して来たような人びとには耐えられないことでもある。そこで認識の理論としての認識論ではなくて、認識の評論としての認識論が作文されることにもなるのである。けれども科学的な認識論を実践的に必要とし、また自分が具体的な認識ととりくんでいるところからその経験を理論化しようとする人びとが、哲学者とは別のところから現れて来る。そしてこれらの認識論も、これまた唯物論の立場から説明したものもあれば、観念論の立場から説明したものもあり、認識の構造を機械的に説明したものもあれば、有機的に説明したものもある。具体的な認識のありかたを論じて、一応学問らしいかたちをとったものに心理学があるけれども、これもまだ認識のいろいろな側面を断片的に説明するにとどまって、真に体系化されているとはいいがたい。心理学の中にもいろいろな主張が対立しているし、心理学者もいろいろな学派にわかれている。
このあとに当時のソ連における認識論に対する批判が引用とともに取り上げられている。個々のことがらはこの際どうでもよいことなので割愛する。
同上 p.9~ からの抜粋
レーニンのこの認識論についての規定(「認識論は弁証法の別名である」という規定――シカゴ注)は、ヘーゲルにひきずられて足をふみすべらしたものである。唯物論では現実の世界をそれ自体として存在するものとして見なしているし、この世界の論理構造すなわち物質的な論理構造とその反映について論理学がとりあげるものと考えている。ところがヘーゲルにとっては、現実の世界がそれ自体として存在するのではなく、まず絶対的なイデーすなわち認識がさきに存在して、これがすがたを変えて自然になったのだと解釈されていた。つまり、現実の世界も認識のありかたなのである。それで現実の世界の論理構造とその反映をとりあげる論理学も実はすべて認識の論理構造をとりあげるゆえに認識論だということになる。ヘーゲル観念論ならば、たしかに論理学も弁証法も同一のものなのであるが、マルクス主義は唯物論であるから、けっして同一にはならない(5)。レーニンはヘーゲルの『大論理学』を読んで、そこから多くのことを学んだまではよかったのだが、ヘーゲルにとって弁証法が認識論ならばマルクス主義にとっても同じはずだと思いこんでしまったのである。
(5) この点の詳細については、三浦つとむ『弁証法とは何か」(論文集『レーニンから疑え』所収)を参照。なお、ヘーゲルは、客観的論理学に対する主観的論理学、客観的弁証法に対する主観的弁証法という区別を与えているのだが、これも客観と主観とがともに絶対的なイデーのありかたであり、本質的に同一だとみているからである。これらのことばをそのまま受け入れると、やはりヘーゲル的偏向にすべりこむことになる。(シカゴ注:『三浦つとむ選集2』「レーニン批判の時代」にも同じことがらが「レーニンのヘーゲル的偏向とその影響」の中で取り上げられている)
認識論は人間の認識に関する個別科学であり、論理学は現実の世界における論理構造(一般的なありかた)に関する科学である、というのがマルクスやエンゲルスの科学についての規定から導かれる論理的帰結であり、三浦はそれを指摘している。同様に弁証法はヘーゲルの規定では哲学でありヘーゲル哲学においては弁証法も論理学も認識論も同一であるけれども、ヘーゲルの弁証法をひっくり返したマルクスやエンゲルスの弁証法(唯物弁証法)は現実の世界における一般的な論理を扱う論理学つまり一般科学ということになる。形式論理学および弁証法は具体的な個別科学それぞれを通じて取り出される一般的な法則=一般的論理を扱う科学なのである。三浦の書「弁証法はどういう科学か」(講談社現代新書)というタイトルはそれを踏まえてつけられている
認識論は人間の認識をその対象とする科学であり、個々の人間の個々の認識そのものを研究の対象としなければならない。そういう意味では人間の精神の外部の事物を扱う自然科学とは具体的実践・具体的方法において大きな違いがある。認識は直接目にすることができないばかりでなく他者の認識そのものを直接知ることも不可能である。他者の認識を知るためにはその他者が外部に表出した表現を介するほかに方法はない。しかしマルクスのいうように「言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である」(『ドイツ・イデオロギー』)から、他者の認識を知るには表現された言語が手がかりになる。そういう意味で言語学と認識論とは相互に相手を必要としている。
同上 p.10~
認識が成立してから言語に表現されるという過程をとる以上、認識は言語の直接よって立つ基盤であるにちがいないけれども、言語のほうもまた認識のありかたを規定してくるのであって、ここに相互関係が存在している。それで認識について論ずるときには言語について触れないわけにはいかなくなる。ギリシャ以来、認識について論じた哲学者は、多少のちがいこそあるがいづれも言語に触れているし、近くは論理実証主義者たちも、認識論すなわち言語論ないし記号論というかたちのとりあげかたをしている。また言語について論じた言語学者にしても、「心理学的理由」を検討するところにふみこむや否や、唯物論の立場なり観念論の立場なりをとって認識のありかたを論じないわけにはいかなくなる。ヨーロッパ言語学において現在支配的な地位を占めているのは、フェルディナン・ド・ソシュールの流れをくむ学派であるが、これに属する人びとは不可知論ないし観念論の立場から認識をとりあげているし、またその立場を自覚している。これに対して、デンマークの言語学者イェスペルセンにしても、イギリスの心理学者であり文芸評論家であるオグデン=リチャーズにしても、国語学者の時枝誠記にしても、自然成長的であるとはいえ唯物論の立場から批判を加えたのであった。日本にソシュール理論を紹介しその学派の著作の多くを翻訳している小林英夫は、イェスペルセンのソシュール批判に反駁して、「氏はパウルと同じく、余りにも唯物論的な見方をしてゐる」といい、メイエの「ある言語の実在に何らか物質的なものがないとしても、それは依然として存在する」ということばを引用して強く抗弁した(6)。
(6) 小林英夫『ランガージュの疑義解釈』(『国語と国文学』昭和七年七月号)。小林は言語規範をとりあげて、「この規範が言語を統一するところの隠然たる力」であると主張するが、この点は俗流唯物論の立場での言語論にまさっている。だが彼が「この規範は動かすべからざる心理的実在である。抽象物であるならば、如何にして我々を統制し言語の統一を保守する力となり得ようか。」というとき、抽象についての無理解が示されている。憲法は法律にくらべてヨリ抽象的でありながら、国民に対してヨリ高度の統制力を持つのであって、抽象と統制力とは両立する。なお小林の『言語学通論』は、「本質的なものと遇有的なものとの区別」が「研究者の研究目的」にもとづくとか、「科学が客観性を持つ」のは「研究者の予想」によるとか、客観性を観念論的な立場に立って論じている。
意識と言語とは互いに浸透しあい互いに作りあっているのだから、両者を同一であると見なしたり、意識(認識)の優位性を度外れに主張したりすると主観主義や観念論の過ちにはまり込んでしまう。ことばを使う人間の実践は人間的な意識・認識によって生まれるものであるが、認識について考えるときには認識の基盤が現実の世界にあることをひとときも忘れてはならない。
同上 p.11~
言語表現は前に述べたように認識をえりごのみすることが許されない。どんな幻想でもそれなりに表現されなければならない。SFに出てくる火星人の住居も、ベトナムで戦火に焼かれている農民の小屋も、われわれには同じく家という概念でとらえ、同じ言語規範に従って「家」と表現している。現実に存在する対象も空想的な対象も、言語表現に際して同一視されるということから、対象が現実に存在するかしないかを論じることは意味がないと主張するのは、いわば、「認識のありかたをそのまま対象のありかたに押しつけようとする観念論的なやりかたであるが、これは論理実証主義者が言語ないし記号について論じるときの基本的なやりかた(7)であって、別にソシュール学派独自の発想ではない。日常の会話を反省してみれば、一つの文の中で現実の世界から想像の世界へ往復するくらいのことは絶えず行われている。「このお菓子を食べてください」というときにも、お菓子は現実の世界に存在するのだが、食べるということは話し手が想像しているだけのことであって、聞き手がそれを現実化してくれるよう求めているわけである。一つの文の中にさえ現実の世界と想像の世界と異った世界が二重にとりあげられていることが理解できなければ、言語表現を正しく理解したことにはならないのである。この世界の二重化を否定する哲学的な立場では、文の正しい説明すら不可能である。言語学は個別科学であって、唯物論とか観念論とか哲学的な議論だけをたたかわせることは強く戒められなければならないが、哲学的な議論を無視するわけにはいかない。哲学的な議論をするのは言語を哲学的に解釈して言語哲学を打ち立てるためではなく、反対に言語を哲学的に解釈する言語哲学を片づけてしまって、言語学を真に科学として確立するためである。従来のソシュール言語学説批判を検討するに際しても、そこに観念論と唯物論の対立が存在したことを理解し、自然成長的な俗流唯物論ではそれに制約されて批判が不徹底に終ってしまうことを反省し、自ら俗流唯物論をのりこえることによってソシュール言語学批判をさらに押しすすめ、言語学の建設へとすすむのである。そしてそのためには、まず認識論を哲学から脱皮させることが先決問題なのである。
表現された言語には意識・認識のあり方が反映している。そこから認識のあり方を考察し、それがどのように言語表現に現れているかを考察することなしには科学的な認識論も科学的な言語学も作り出すことはできない。意識における世界の二重化は単語の分類を始め、さまざまな言語学の分野に関連する重要な現象であるからこれについての科学的分析なくして言語学は確立できない。『日本語はどういう言語か』(三浦つとむ)が観念的な自己分裂についての説明から始められているのはそういう理由によるのである。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)
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