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2008年03月07日(金)| 意識>認識論(意識論) |  
『認識と言語の理論 I』を読む 1(2)――認識における矛盾

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「二 認識における矛盾」。

〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.13~ 

 認識論をそして言語学を個別科学として確立するために、どのような研究方法が必要かといえば、それは対象の考察に際してつねに矛盾の存在に心をくばり、矛盾の発展を忠実にたぐっていくという態度である。しかしこういわれても、読者特に言語学の書物だけに親しんで来た人びとには納得がいかないかも知れない。かつては言語を、それ自身として成長し変遷する存在と考え有機体と解釈する、言語有機体説がひろく説かれていたこともある。この説はあやまりであるが、それにはそれだけの根拠が存在したのであって、有機体の持つ論理と共通するものが言語にも存在することに気づいたからである。有機体の持つ論理が言語の研究にも役立つと考えるのではなく、同じ論理をもっているから言語も有機体だと結論したところに、あやまりが生まれたのである。それでは有機体の持つ論理とは何かといえば、これがほかならぬ矛盾なのである。それゆえ、まず矛盾についてすこし語ることにしよう。

 矛盾は常識的には、変則的な・異常な・存在することののぞましくないものだと思われている。中国の故事にある、(ほこ)(たて)との説明のような、不合理な認識のありかたをさすものと考えられている。しかしどんな矛盾にしても、それが生れるだけの合理性があるからこそ存在できるのであるし、またのぞましくない消滅させることが必要な矛盾だけではなく、反対にのぞましいものとして維持したり創造したりすることが必要な矛盾もあることは、すでに古代から哲学者たちによってとりあげられている(1)。マルクス主義の創始者たちは、この矛盾論の遺産を唯物論の立場で受けぎ、科学的な矛盾論を確立したのである。現にわれわれ人間もふくめたあらゆる生物は、どの瞬間においても、同一のものでありかつ同一のものではない。個体として同一でありながらそのありかたは異っている。どの瞬間においても、それは外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している。これは絶えず自己を定立しかつ解決しつつある一つの矛盾であって、この矛盾がやめば直ちに生命もやみ死がはじまるから、生きていくためにはこの矛盾を維持していく必要があり、とりいれる面と排泄する面との調和に努力する必要がある。この種の矛盾は非敵対的矛盾とよばれている(2)。これは肉体の成長において見られるばかりか、精神の成長すなわち認識の発展においても見られるのであって、認識におけるもろもろの非敵対的矛盾をそのありのままにとらえなければ、認識論を体系化していくことができなくなってしまう。たとえマルクス主義者と名のっていても、非敵対的矛盾についてのあやまった解釈を信じているのでは、認識論を個別科学として確立することはできない。

(1) 三浦つとむ『矛盾論の歴史と毛沢東の矛盾』(季刊『社会科学』第九号、一九六六年五月)参照。たとえばヘラクレイトスは、「自分自身と分裂しながら自分と一致する」いわゆる「一分為二」の形態をとった矛盾のありかたに、調和するものを認めて、をその例の一つにあげている。弓は竹であれ木材や金属であれ、弾性のある材料を必要とするが、一方の弦には非弾性的なものを用いなければならないし、弓の長さ・太さ・強さも調和したものを用いなければならない。それゆえ弓の持つ矛盾は、矢をとばす原動力であり、調和するものとして成立した矛盾であると理解したのである。

(2) マルクス主義者と自称する人びとは、いずれも敵対的および非敵対的の二種類の矛盾を認めるのであるが、その区別のしかたは必ずしも同じではない。二種類の矛盾は本質的に異なるのだ(ソ連)という主張と、どちらも闘争的だという点で異っておらず、「闘争の形態」が異なるだけだ(中国)という主張との対立が、現に中ソ論争の中で火花を散らしている。前者は矛盾の調和を認め、後者は矛盾調和論に「修正主義」のレッテルをはっている。

ここでいう矛盾論とは要するに弁証法のことである。弁証法は論理学であり、運動・変化するものに関する一般的論理法則と言い換えてもいいと私は思っている。もとより私は弁証法については詳しく勉強したことがないので自信はないけれど、三浦つとむの著書やマルクス・エンゲルス・ディーツゲンの書を読んだ範囲でそれらの論理展開の仕方を見る限り、彼らは世界を運動するもの・変化するものととらえており、その運動・変化の中から一つの法則として「対立物の統一」というものを抽出している。矛盾とは二つの相対立するものが存在していることをいう概念である。矛盾が何らかの形で解決することを対立物の統一とよぶわけである。

運動・変化は静止と反対の概念であるが、静止自体が運動・変化の一つのあり方であるととらえる点でも彼らは一致している。世界を運動・変化するものととらえるのは自然科学の基本的な世界観であるからマルクスやディーツゲン、三浦は自然科学者と同じ立場に立って自然的および社会的な現象を分析・検討しているといえる。自然科学においては静止ないし平衡とは運動・変化における一つの特殊なあり方である。個々の運動・変化という現象は継続的なものであるからそこを貫いている法則をとらえるためには一つの過程として現象全体をとらえる必要があるが、過程の分析にあたっては現象の一部を固定したものとして見ることも必要になる。しかしその場合もそれはあくまでも過程の一断面であるということを忘れてはならない。因果関係とよばれるものも現象を一つの過程ととらえ、その端初と結果とを別々のものとして扱いながら過程全体としてそれらを一つの関係として見たものである。さらにまた個々の過程として観察される一つの現象もより大きな空間・時間から見ればかならず別の個々の過程の一部分をなしていることも忘れてはならない。

マルクスは科学を二つに大別し、人間の意識あるいは意思がその中に直接関係してこない現象(運動・変化)を対象とする科学を自然科学とよび、それ以外の人間の意識あるいは意思がそこに直接関係してくる現象を扱う科学を歴史科学とよんでいる。それは人間の意識が歴史的に形成され発展してきたものととらえるからである。したがっていわゆる社会科学は歴史科学であり言語学も認識論も歴史科学として分類されることになる。

閑話休題。上の引用文中で生物における非敵対的矛盾として「外からもたらされた物質をとりいれ、別の物質を排泄している」という二つの相対立する現象が取り上げられている。自律的にこれらを行なうのが生物の特徴であるから三浦が生物の持つ矛盾としてこれを取り上げたのは正鵠を得ている。ただし、三浦は自然科学に関しても詳しいとはいえ独学者の弊として個々の術語に関しては大雑把なところがあるのも否めない(私自身も独学の徒であるからえらそうなことはいえないが)。したがって注(1)はそのあたりを割り引いて読む必要がある。「弾性」という語はむしろ「剛性」と置き換えた方がよいと私は思う。

同上 p.14~ 

 認識の基礎となっているのは現実の世界であるが、この現実の世界を反映し模写するという認識の本質的なありかたがすでに一つの非敵対的矛盾を形成している。現実の世界は時間的にも空間的にもまたその多様性においても無限であるにもかかわらず、その現実の世界の一部分であるわれわれの頭脳への現実の世界の反映は、われわれの歴史的なありかたと個人の肉体的・精神的なありかたから規定されて、時間的にも空間的にもまたその多様性においても有限でしかありえない、という矛盾である。この矛盾は人間の認識にとって本質的なものであって、人類が消滅しない限り消滅しないのである。それゆえつぎの叙述は、認識論を建設するに際しての出発点を教えるものとして、きわめて重要になる。

 「人間の思惟は至上的なものであろうか。そうであるかないかを答える前に、われわれはまず人間の思惟とは何であるかを調べなければならない。それは一個人の思惟であろうか。そうではない。だが、それは過去、現在および未来の幾十億の人間の個々の思惟というかたちでしか存在しないものである。いまもし私が、この私の観念のうちに総括されている、未来の人間をもふくめてのこれら一切の思惟は、人類が十分長く存続しさえするなならば、そしてまた認識器官についても認識対象に関してもこうした認識作用に制限が加えられるようなことがないかぎり、至上的なものであって、現存の世界を認識することができるのだ、といったとしたら、私はかなり平凡な、そしてしかもかなり無益なことをいったことになる。というのは、そこから出て来るもっとも価値ある成果というのは、今日われわれの持つ認識に対してわれわれに極度の不信を起させるぐらいなものであろうからである。」

 「各個々の思惟にもとづく認識の至上的な妥当性はどうかといえば、われわれがみな知っているとおり、そんなことはとうてい問題にならないし、またこれまでの一切の経験からいって、そうした認識には、例外なくいつも、これ以上修正の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多くふくまれているのである。」

 いいかえれば、思惟の至上性はきわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、真理性を主張する無条件的な権利をもつところの認識は相対的誤謬の系列を通じて実現されるのであって、前者も後者も人類の生命の無限な存続を通じてでなければ、完全に実現されることは出来ないのである。

 ここでもまた、どうしても絶対的なものしか考えられなかった、人間の思惟の性格と、もっぱら制限のうちでしか思惟することのできぬ個々人の現実との間の、上述のような矛盾にぶつかる。それは無限の前進を通じなければ、すなわちわれわれにとっては少くとも実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じなければ、解決のできない矛盾である。この意味において人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている。素質、使命、可能性、歴史的終局目標から見れば、至上的であり無制限である。個々人の実行とそのつどつどの現実から見れば、至上的でなく制限を持つものである。」(エンゲルス『反デューリング論』)

人間の認識は現実の世界の反映であるから、時間的にも空間的にも有限である個人の肉体的・精神的能力に規定される個人の認識は有限でしかありえない。世界の無限性に対する人間の認識の有限性、これが認識のもつ本質的な矛盾である。しかし人間は社会的な動物であるから諸個人は物質的・精神的な交通を通じて肉体的にも精神的にも互いにつくり合っている。そこに個人が肉体的・精神的な限界を超えていく契機がある。

つまり、個々人は「もっぱら制限のうちでしか思惟することのでき」ない存在ではあるが「実際上限りなく継続してゆく人間世代を通じ」て「思惟の至上性」は実現されるのであり、その意味で「人間の思惟は至上的であって、至上的でなく、またその認識能力は無制限であるとともに制限を持っている」といえるわけである。

エンゲルスはここで人間の認識の歴史性について語っている。これは真理というもののもつ歴史的性格の規定でもあり、科学的真理もまた同じ性格をもつものとして規定される。このことは自然科学の歴史の成果にもとづいて自然科学を実践している者にとってはきわめて自明なことがらである。

同上 p.16 

 人間の認識が変化し発展していくものであることは、誰もが認めている動かしがたい事実である。科学は事実を認めるだけでなく、なぜ・いかにして・この変化と発展が起るのかを説明しなければならない。たとえ観念論者が、人間の生れつき与えられている能力によるものだと解釈しても、われわれは認識の本質的な矛盾をとらえて、それがどのように発展していくのかをたぐって考えてみなければならない。現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界があるとしても、われわれは他の人間の認識を受けついでそれを補う方法を現に実践している。これは実際上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化することであり、個人が他の人間とむすびついてつぎからつぎへと認識を受けついでいく認識それ自体の交通・運動形態を創造することである。この無限の継続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられるのであるから、これは非敵対的矛盾を実現しかつ解決することなのである。この矛盾はさらに個人の認識の構造として具体化されていく。

科学の至上性は無限に系列化された諸個人の実践を通じて実現される。三浦の「この無限の継続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられる」という言は、歴史的な科学の成果を受けついだ諸個人が、科学的な理論的・現実的実践を行った成果として科学的真理は得られるのであり、無限に続く科学的真理の系列化という実践を通じて科学の至上性は実現されるという意味のことばであると私は思う。「認識それ自体の交通・運動形態を創造する」とは諸個人のそのような実践のありようを指していっている。

同上 p.16~ 

 まず第一に、対象から与えられたという意味での、受動的な反映としての認識にわれわれは甘んじていることができない。他の人間が頭の中で何を考えているか、直接に見ることはできないし、質問しても正直に語ってくれるとは限らないが、それでは生活にさしつかえるために、われわれは他の人間の「顔色を読んで」何を考えているか能動的に想像していく。未来のありかたを直接に見ることはできないし「一寸さきは闇」の状態にあるとはいえ、それでは生活にさしつかえるために、われわれは明日の、明後日の、一年さきの十年さきのありかたを想像しながら、生活を設計していく。認識が受動的であり限界づけられていると同時に、能動的に現実に向かって問いかけその限界を超えていくというのも、一つの矛盾であって、ここに予想とよばれる認識の形態も成立するばかりでなく、単純なものから複雑なものへと発展していく。これは本質的には、認識の側から現実の世界のありかたへ近づこうとする、一致を目ざしての運動でありながら、現象的に見ると、現実にまだ存在していないもののイメエジを頭の中につくりだしていくのであるから、不一致というかたちをとっている。そのために、この本質と現象との矛盾を正しく扱えない俗流唯物論者が、現象的な不一致に目を奪われて予想を反映論から切りすててしまったり、夢を持つことはすべて現実ばなれすることだから意味がないのだと結論づけたりする。そこに夢想をダイナミックにその過程的構造においてとりあげた、つぎのようなロシアの一評論家からの反駁もつきつけられることになる。

 「一概に不一致といってもいろいろのものがある。私の夢想が事態の自然の歩みを追いこすこともあるし、あるいはまた事態のどんな自然の歩みもそこまでは決して到達できないような、まったくちがった道に入りこむこともありうる。前者の場合には、夢想はどんな害悪をももたらすものでなく、勤労する者のエネルギーを維持し増進することさえできる。……このような夢想にあっては、働く力をゆがめたり麻痺させたりするものは何もないばかりでなく、まったくその逆でさえもある。もし人間がこのように夢想する能力を完全に奪われているとしたら、もし人間が時には先走ったことを考え、その想像力によってようやく彼の手で形のつきかけたばかりの創作物を完全な完成したありかたでながめることができないならば、芸術、科学および実際生活の領域においてそもそもどんな動機が人間をして広大な精魂をすりへらす仕事を企てさせ、かつこれを最後までやりとげさせるのか、私はまったく想像することができない。……夢想と現実との間の不一致は、もし夢想する人間が自分の夢想をまじめに信じ、生活を注意深く観察しながら、自分の観察と自分の空中楼閣とを比較検討し、概して自分の空想の実現のために誠実に努力するならば、何らの害悪ももたらさないのである。夢想と現実の生活との間に何らかの接触が存在するときこそ、万事が好調に運んでいるときなのである。」(ピーサレフ『未熟な思想の失敗』)

 この主張は、夢想の積極的な役割について論じているだけでなく、夢想に対立する二つの性格を持つものがあることをとりあげている。現実に近づいていく先走りと、現実から遠ざかっていく幻想と、この二つの矛盾について問題にしているのである(3)。これもまた認識の矛盾の一つの発展した形態として検討しなければならぬ存在である。

(3) レーニンは、革命運動は夢想を持つべきだと主張して、このピーサレフのことばを『何をなすべきか』に引用した。けれども、ここで二種類の矛盾がとりあげられ、その対立した性格が明かに語られているにもかかわらず、レーニンはここから二種類の矛盾の理論をくみとりえなかったようである。先走りにおける矛盾は、現実の観察と空中楼閣との調和を、すすんでは空中楼閣が現実化することによって矛盾の調和を、問題にしているにもかかわらず、のちの『哲学ノート』ではそれらの問題が忘れられているからである。

想像といえどまったくの何もないところから生まれるわけではない。現実に経験したさまざまなものの中から必要なものを取り出してそれらを再構成することによってイメージを作り上げるのである。夢想あるいは予想にしてもそれらを構成する材料は現実の経験の中から持ってきたものであり、実際に経験したさまざまな因果関係をもとにして予想あるいは夢想を形成するのである。もちろん条件が整わないために結果が予想を裏切るということもありうるし、なんらかの偶然が加わって条件が変わってしまうということもある。むしろいまだ条件が整っていないためにこれからそれらの条件を整えていかなければならないということの方が多い。

実践の媒介を通じて意識と現実とが互いに浸透し合っていることを認めるのがマルクスや三浦の反映論である。認識は現実の反映としては受動的であるにもかかわらず、人間はそれに甘んじることなく予想や想像によって現実に働きかけその限界を超えようとする。現実との不一致を一致させて現実化させようとする認識のもつこの能動的な側面すなわち予想や夢想の積極的な意義や目的を正しく評価することが必要である。これは人間の意志や欲望の問題ともからんでくる問題である。

同上 p.18~ 

 第二に、認識の本質的な矛盾から、誤謬とよばれるものが必然的に生れてくる。真理に対立するものとしての誤謬、およびその相互転化ということも、認識の矛盾のありかたにほかならない。平凡な庶民が日常生活でさまざまな誤謬をおかしたり、競輪でもうけて家を新築しようという幻想を持ったりするのは、当然のことだと思いながら、それと同時にレーニンや毛沢東など偉大な革命家の著作には何の誤謬も存在しなかったし、その革命運動において何の幻想ももたなかったと信じているマルクス主義者もすくなくないのである。マルクスはその若かりしころヘーゲル主義者で、観念論的な考えかたを持っていたと認めながら、レーニンや毛沢東は生れながらマルクス主義者であり無謬であったと信じているのは、誤謬を無能なるが故の失敗であるかのように思いこんで、認識を矛盾として理解しないからである。誤謬をおかさぬ人間などというものは、実在しないことを知らないのである。認識の矛盾が不可避的に真理とその対立物である誤謬との統一を生み出すのであり、誤謬は認識にとって本質的なものであることを知らねばならない。

 これは個人の認識においていえるだけでなく、集団である組織の認識においてもいえることである。……(組織における――シカゴ注)思想闘争や理論闘争も、その根源をさぐるならこれまた認識の本質としての矛盾に根ざしているといわなければならない。ただし、個人の利害関係や思想条件が、さらには階級的な社会条件が、この矛盾の発展にからみ合って具体的なかたちをとっているために、これらの諸条件が根源であるかのように解釈されやすいのである。

 ……

 人間の頭はテープレコーダーではない。外部から与えられる主張を何であろうとそのまま忠実に受けとめて、機械的にくりかえすわけではない。あるものは受け入れあるものは拒否し、またあるものは正しいにもかかわらずそれを歪めたかたちで受け入れるのである。自分で考えようとする、真理に忠実でありたいとのぞんでいる人間は、その主張を正しいと認めるだけの理由があり、受け入れるだけの根拠があって、はじめて受け入れるであろう。そこには個人的・社会的条件がからみ合ってくるにはちがいないが、それらを超えた認識の本質もまた物をいうのである。……

 ……階級的矛盾の科学に対する制約・規定を理解することは重要である。しかしこれは体制側の主張ないし理論はすべて非科学的であるとか、大衆を欺瞞するための宣伝には一片の真理もないとかいうことを意味するものではない。主張も理論も頭の中だけで創造されるものではなく、現実の反映および先走りとして成立するものであるから、どんなに歪められたどんなに空想的な主張や理論でもそこには現実が何らかのかたちでとりあげられており、真理をふくんでいるわけである。またそれだからこそ、説得力を持ち相手に正しいと認めさせることができるのである。天動説は非科学的ではあるが、われわれの目には大地は不動で天体が回転しているように見えるのであって、視覚上の真理ということに限るならこれを認めなければならない(4)。ここから天動説が正しいもののように思われてくるのである。……サンルームを設計するときに、地球と太陽との関係を問題にするけれども、このときは視覚的な真理で十分なのであって、天動説でも地動説でも別に設計に影響するわけではない。だが……天動説をそのまま信じこんでいいことにはならない。天動説では海王星を発見するという、科学的な先走りの仕事はできないのである。……あやまった理論でもその一面的な正しさにおいて有効性を持つことを理解しないところに、有効性から直ちに理論の正しさを結論づけるプラグマティズムへの道が開けてくる。……

(4) 「太陽は一日に一回、地球の周囲をまわることにはじめて気がついた人は、誤謬におちいってはいたが、それでも真実の知覚をしたものである。太陽が二四時間かかって地球の周囲をまわることは、太陽と地球との運動の関係を明かにする理解のかくべからざる一部をなすものである。」(ディーツゲン『哲学の実果』)

時間的にも空間的にも無限である世界に対して個人の認識は有限であるという認識のもつ本質的な矛盾から誤謬は生まれる。上の方で引用されている部分でエンゲルスも「そうした認識(各個々の思惟にもとづく認識)には、例外なくいつも、これ以上修正の余地のないもの、すなわち正しいものよりも、修正の余地のあるものの方がずっと多くふくまれている」と言い、これを「相対的誤謬」とよんでいる。つまり誤謬は一般に相対的なものだ(裏返して言えば真理もまた相対的である)ということである。世に「一面の真理」ということばがある通り、ある限られた条件のもとでは誤謬は真理に転化するのであり、逆に特定の条件を無視して度外れに真理性を主張するなら真理も誤謬に転化する。このように、誤謬とその反対物である真理とは互いに転化し合うものである。「認識の矛盾が不可避的に真理とその対立物である誤謬との統一を生み出すのであり、誤謬は認識にとって本質的なものである」ということを常に肝に銘じておく必要があろう。

人間の認識は個人の階級や政治的立場等の個人的・社会的条件に制約される部分があるとはいえ基本的には誤謬の原因は人間の認識のもつ本質的な矛盾である。このことも十分に留意されなければならない。

同上 p.20~ 

 第三に、人間は社会の一員であり、子どももまた社会の細胞である家族の一員として毎日生活しているという、人間の本質的なありかたから認識が規定されてつくり出す矛盾がある。それは意志の持つ矛盾としての規範の成立である。個人はどんな意思を持ちどんな行動をしようと勝手だということにはならない。それぞれの生活集団としての、共同利害を考慮しなければならない。それゆえ、認識の内部に意思に対立する意思として、いわばフィードバック的な構造を持つ矛盾がつくり出されることになる。この対立する意思は、ネガティヴ・フィードバックとして意志の成立を押えつけたり、あるいはポジティヴ・フィードバックとして意志の成立を促したり、その機能においてもこれまた一つの矛盾を持つところの存在である。規律・掟・道徳・規約・法律など、さまざまな種類の規範が存在している。

以上三つの矛盾は、人間の認識においてきわめて重要なものであるにもかかわらず、従来の哲学者の認識論も、心理学も、正当にそして体系化して扱ってはいない。それゆえ、これらについては詳細にとりあげることにする。

規範については私もそれについて簡単に書いたことがある(言語規範――規範と規範意識)が、詳細は第三章の規範論にゆずる。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(69歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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