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プロフィール

Author:シカゴ・ブルース

1948年生れ。理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱きつづけています。

〔08/01/08追記〕シカゴ・ブルースというハンドルネームは長いので、以後コメント等では単に シカゴ という略称を使います。

『認識と言語の理論 I』を読む 1(3)――観念的な自己分裂

三浦つとむ『認識と言語の理論』第一部「認識の発展」から
  第一章「認識論と矛盾論」「三 人間の観念的な自己分裂」。

〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.22〜 

 われわれ人間は現実的には地球の上に生活していて、地球から脱出することはできない。……われわれは宇宙飛行士が何を見たかを、彼らの撮影したフィルムや彼らの報告から知ることができる。われわれの感覚は、精神的な交通で彼らの感覚を受けとって、現実の世界についての認識を拡大している。感覚器官は現実の世界との交渉によって感覚をつくり出すのであって、塩をなめてからいと感じるのは、舌にからいと感じさせるものが外界に存在したからである。われわれの感覚の源泉は、この客観的に存在する外界である。現実の世界は無限であるから、われわれの感覚にとらえられた部分はその一部でしかないわけであり、現実の世界それ自体は感覚にとらえられた部分にくらべて無限にゆたかであり多様である。感覚の限界は何ら現実の世界の限界ではない。目に見えない電磁波もあれば、耳に聞こえない超音波もある。……

 地球の上に生活しているわれわれに対して、感覚は地球が動かないものであり太陽や月が動いていると、教えてくれる。もし月の上に人間が到達できたならば、彼の感覚はこれと違って、月が動かないものとなり地球のほうが動いていると、教えてくれるだろう(アポロ14号の着陸船が月に着陸したのは1971年2月5日であり本書の出版は1967年7月10日である――引用者注)。人間の感覚はとりもなおさず感覚器官のその現実的な位置におけるところの現実の世界の反映として、いいかえるならば現実的な位置に束縛されているところの世界のとらえかたとして、成立する。

認識はそれを形成する対象を必要とする。人間の認識は外部に存在する対象からの物理的・化学的な刺戟を感覚器官が受け取ってそれを知覚表象として認知するところから始まる。しかし人間の感覚器官それ自体が限界をもったものであるから個人の認識には限界がある。たとえ諸個人が物質的・精神的交通を媒介として他の個人の認識をわがものとすることができるにしても、やはり地上に縛られ肉体的に限界づけられた人間は基本的にはその現実的な位置に縛られた感覚器官からもたらされる反映としてしか世界を認識(認知)できない。それでは人間はいかにしてこの限界を突破するのだろうか。

同上 p.23〜 

 視覚は光が目の網膜に像を結ぶことによって生れるものであって、人間の眼球は左右一対あるけれども、両眼に映じた像から一つの視野が合成されている。それぞれの眼球は眼窩(がんか)の中におかれ瞼(まぶた)で覆われるようになっているから、一つの眼球の視野は下部を鼻でさえぎられた楕円形をしているし、二つの視野の合成もほぼ三対四の比率を持つ楕円形になっている。映画の画面でスタンダードといわれるサイズが、三対四の比率になっているのは、当初多くの絵画の画面のサイズから平均値をとって決定したといわれているけれども、視野から自由にトリミングしたりあるいは視野をつないでパノラマにしたり自由に画面のサイズを決定できる絵画にあっても、究極的には視野の形態によって規定されているのだということが、平均値をとってみれば明らかになるわけである。……

 われわれはまず現実的な位置でこの視野を通して現実の世界をとらえていく。われわれが動けば位置が変化し視野も変化していく。時には地上をはなれて、海上や空中に自分を位置づけることもある。だが、この現実的な位置に束縛されて限界づけられていたのでは、日常生活さえいとなめないのである。われわれはこの限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活しているが、この限界を超える活動は、観念的になされている。たとえば、たづねてくる友人のために、自分の家のありかを教えようとするときには、簡単なものではあっても地図を書くのがつねである。これは、現実的な位置で動きながらえたところのいろいろな認識を頭の中で綜合(そうごう)してつくりだしたものであって、地図を書くときの自己もわが家の机に向かって現実的な位置で目の前の白紙をながめながら書くのである。ところが、この地図としてのわが家は、現実に自己の位置づけられているわが家ではない。現実的には自己はわが家の中にいるにもかかわらず、地図を書いているときには自己はわが家の外にいてわが家を外部からながめ、わが家を空中から見おろすところに位置づけていることになる。それゆえこの場合には、現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる。地図を書き終えて、目をそらすとき、空中からわが家を見おろす必要はもはやなくなっているから、観念的な自己も現実的な自己に復帰してしまう。必要に応じて分裂したり復帰したりするのである。

 このわが家を空中から見おろす位置は、観念的でありその意味で非現実的であるけれども、現実の世界の認識としては綜合的でありさらに広汎なものとなっているから、その意味では現実にさらに近づいたことになるのである。現実的な自己では認識できない限界を、観念的な自己において超えたのである。そしてこの観念的な自己は、さらに高く高く空中にのぼっていって、太陽系の中での地球のありかたを客観的にながめることもできる。空間的な旅行ばかりでなく時間的な旅行もできるのであって、人類の祖先がようやく地球の上に姿を現したところをながめたり、人類の存在しない時代の地球のありかたをながめたりすることも、科学者は行っているのである。

人間の認知能力(知覚による認識)は現実の位置に縛られているという意味で限界をもっているが、人間は想像するという能力を獲得して以来、この限界を突破することができるようになった。この想像という精神活動を三浦は観念的な自己分裂という概念を用いて詳細に分析している(私は観念的自己分裂と短縮してよんでいる)。観念的自己分裂は表象や概念を媒介とする精神活動であり、いわば現実の自己の外部にもう一つの世界をつくりあげ現実の自己から分離した観念的な自己がその世界をながめているという構図をもった精神活動である。観念的自己分裂においては現実の自己の立場という束縛を離れ時間的にも空間的にも自由な位置に自己を位置づけることができるので、そこでは人間(観念的な自己)は自由にどんな立場にもなれるし、どのようなものでも思い描くことができる。この精神活動は人間が日常的に行なっているのでそれと指摘されなければ自覚しにくいものであるが、無自覚ながらも現実の認知とは性質を異にしているためにそれらの精神活動はたいてい「想」や「思」を含むことばで表現されている。

なお観念的自己分裂の能力の獲得と人間の自己意識の形成とは同じ事柄の違った表現である。自己意識(対象意識)については「対象意識(1)〜(5)」で簡単に触れている。また人間の自己意識がいかにして形成されたかについて宮田和保は『意識と言語』の第一編第一章「自己意識の形成」でかなり詳細に分析している。

同上 p.25〜 

 写真・絵画・地図のように、感覚を忠実に表現する場合は、その作者がどんな位置にいるかを読みとることも容易である。写真で表現する「わが家」は、カメラの背後にいる現実的な自己がファインダーを通して見たところの位置を示し、地図の「わが家」の観念的な自己な位置と異っていることは一見して明らかである。宇宙飛行士の撮影した写真を見れば、自己も宇宙に飛び出してながめている思いがする。ところが言語表現にあっては、作者がどんな位置にいようと、「わが家」という音声や文字からそれを直接読みとることはできない。認識の過程におけるちがいが、表現に現れて来ない。これは後に述べるけれども、実用的な表現と鑑賞的な表現とでは形式として同じでもその過程的構造がちがっていることが多く、それは内容のちがいを意味することになるのである。「春の海」と書かれていても、科学者の文章と俳人の文章とでは、内容に大きなちがいがあり、読者の読みとりかたもちがってくるのである。

 この観念的な自己分裂は、誰でも日常生活の中でくりかえしているのであるから、哲学者たちもこれに気づいたことは気づいたのだが、観念論の立場をとる哲学者はこれを逆立ちさせて解釈したのであった。唯物論の立場からすれば、まず現実的な自己が存在してそれから観念的な自己が分裂していく。ところが観念論哲学者は分裂の結果をとらえて現実的な自己と観念的な自己とをいっしょくたに扱ったり、さらにはまず観念的な自己が存在してそれから現実的な自己がつくり出されるかのように解釈したりした。ここに彼らのいう「我」(Ich)なるものが論じられた。現実的な自己は自然の産物であり、それが存在しないときにも地球は存在していた。そして現実的な自己から分裂した観念的な自己は、まだ人間の存在していない赤熱の地球を見ていることにもなる。いまこの過程を無視してしまい、観念的な自己を「我」とよんで、これを現実的な自己といっしょくたにすると、「我」とその見ているものすなわち「環境」とは不可分であって、「つねにいっしょに見出されるもの」であり、地球がまだ冷えていない時代にもすでに「我」は存在していたという結論になる。観念的な自己のありかたがそのまま現実の世界のありかたになり、「主観的=客観的なものあるいは客観的=主観的なものより以外のもの」は認められないことになる。こうして「我」と「環境」が、あるいは「自我」と「他我」が、不可分な同格において説明されるのである。これがフィヒテ的観念論であって、ここからさらに観念的な自己のほうを客観的な存在に移しかえ、この客観的な存在としての主観から客観的だとわれわれがとらえている世界がうみ出されたのだと解釈するならば、絶対的なイデーから現実の世界がうみ出されたというヘーゲル的観念論が成立する。ドイツ古典哲学の発展は、観念的な自己分裂のありかたについての解釈の発展という面からも、検討されなければならない(2)

 ジェームズの心理学でも、自己分裂がはじめから別の存在として解釈されている。自己を「純粋自我」すなわち観念的な自己と、「経験的自我」すなわち現実的な自己にまず区別し、心理学が対象とするのは「経験的自我」であって、「純粋自我」はア・プリオリに前提されているところの、自己を対象にして意識するときその意識する自己であると述べている。これもまた自己分裂の過程をとらえないために、ア・プリオリズムにいかれた観念論的解釈である。

(2) マルクス主義者であろうとするワレンチーノやバザーロフが、「不可分な同格」論を主張するアヴェナリウスを支持したとき、レーニンは「唯物論と経験批判論」でそれを主観的観念論だと批判した。たしかにそのとおりである。けれどもこの批判は結果をとりあげているだけで、なぜ・いかにして・このような観念論的主張が生れて来たかについての分析が欠けている。

表現の内容・意味を理解するには、表現者が表現の中に表した表現者の認識とその認識をもたらした対象とを正しくつかみ取る必要がある。そのためには受容する者(受け手・鑑賞者)は表現したときの表現者の立場に立ってその表現過程(対象→意識→表現)を観念的に追体験しなければならない。したがって追体験をうまく行なうために、受容者には表現者に関してその立場や表現したときの状況等についての理解が求められる。言語表現の場合、概念を媒介にするという特徴があるために特にこれが重要であるのは上で三浦が指摘している通りである(三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2))

観念的な追体験は観念的な自己分裂の一つの形態であり、表現の受容は常にこれを介して行なわれる。それゆえ認識論の確立・言語学の確立には観念的な自己分裂についてのきちんとした分析が必要になってくる。つまりいわゆる自己意識や自我といったものの立体的な構造についての科学的な理解が必要だということである。

デカルトが『方法叙説』において到達した「思う、ゆえにあり cogit ergo sum.」において、表現されていない「思う」の主体・「あり」の主体は思考しているデカルトの自己意識つまり現実のデカルトの意識の中で観念的に分裂した思考主体(思考しているもう一人のデカルト)である――私はこれを現実の自己(意識主体)と区別して認識主体とよんでいる(二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂)

また、「思う、ゆえにあり」においては、思考の直接の対象が表現されていない。思考しているときには当然その内容すなわち対象認識(represent)があるはずであり、対象認識を形成する元となった対象もまた存在しているはずである。たとえば猫のことを考えている場合には、対象となっている現実の猫が存在しており、意識内部にはその猫の表象(represent)=個別概念が脳裏に浮かんでおり、それについて考えているもう一人の自分=思考主体=認識主体が存在している。ただし、ここで気をつけなくてはいけないのは観念的な自己分裂の最中であっても現実の自己は現実の世界と向かい合ってそこに存在し、観念的な自己分裂を統御していることを忘れてはならないということである。しかし何ごとかに集中しているとこの統御がおろそかになり認識主体の活動が主となって、つい夢中になって我を忘れる(忘我の境地になる)のもよく経験することではある。

「思う、ゆえにあり」は「われ思う、ゆえにわれあり」と翻訳されることもあるが、ここで「われ」と表現されているのは思考主体=認識主体ではなく、脳裏に浮かんだ自分自身(思考主体)のイメージ(represent)すなわち対象認識である。この「われ」という語は時枝誠記が「主体の客体化されたもの」といっているものであり、意識内部で現実の主体あるいは思考主体=認識主体が自己自身を個別概念としてイメージ化・概念化・客体化したものつまり対象認識であり、これを言語として表現したものである。時枝がいうように表現者その人(表現の主体)や認識主体は表現の内部には存在しない。その表現をなした者・その認識をなした者という関係を通して表現の外部に存在しているのである。対象認識(represent)が表現されたものという点で言語表現における一人称は二人称・三人称ととなんら本質的に変わりはないと時枝はいっている。

フィヒテについてはハインリヒ=ハイネも「その(フィヒテ哲学の――引用者)内容は社会的というよりはむしろ、歴史的、科学的に重要なのである(『ドイツ古典哲学の本質』伊東勉訳・岩波文庫)といい、内容はさして重要ではないがカントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学の歴史的な段階の一つとして重要なのだとフィヒテ哲学の歴史的役割を指摘している。その内容をハイネは以下のように要約している。

 フィヒテが解決しようとした問題は、次のことである。「人間が物についてもっている観念と、人間のそとにある物とが一致すると仮定するのは、いかなる理由によるか?」そしてフィヒテはこの疑問に次のような解答をあたえた。「すべての物はわれわれの心のうちにおいてのみ実在している。」

ヘーゲルは観念的な自己分裂の過程を枠組みとして正しく把握している。しかし現実的な自己から観念的な自己が分裂すると考えずに、観念的な自己(認識主体)の方が先に存在しそこから現実的な自己(認知・知覚の主体)が分裂してくると考えたために、理論的実践による認識の発展によって現実の世界が発展するという風に論理が逆走してしまった。マルクスはこの顛倒したヘーゲルの弁証法をもう一度ひっくり返して正しく作り変えたわけである。それによってマルクスの弁証法は論理学つまり一般科学へと正しく位置づけられることになった。

〔09.03.10 追記 ヘーゲルによる「現実の世界の発展」とは実際はヘーゲルの意識内における再把握された「現実の世界の発展」であり、ヘーゲルの認識の発展によって実際に現実の世界が発展するわけではない。要するに現実→認識の上向(理論的実践)による認識の発展と、認識→現実の下向(現実に問いかける実践)による現実の再把握(確証)が交互に繰り返される認識の弁証法的発展においてヘーゲルは現実の再把握(確証)をイデー(絶対理念)の実現・イデーの外化と見たのである。イデーをア・プリオリのものと措定するなら結局はイデーの自己発展によって現実が発展するという論理的帰結にならざるを得ない。ヘーゲルにおいては人間とは自然と対峙している生身の人間ではなく、自己意識としての人間つまり認識主体であるからその現実的実践はヘーゲルの自己意識のうちで完結している(マルクスはヘーゲルにおける外化=疎外について「自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の表現、その現実的な疎外が知識と思惟のうちに自分を写しだしている表現」であるといっている)。イデーの理論的実践が自己意識内におけるものであることはいうまでもない。

ジェームズの心理学は認識主体をア・プリオリに存在するものと考えた点でヘーゲルと同じであるが、現実の主体と認識主体とを完全に別のものととらえた点でヘーゲルよりも後退している。現象を弁証法的なもの・過程的なものと考えずに固定したものと考えるとこのような形而上学的なものの見方に陥ってしまうと三浦はいいたいのであろう。この批判はソシュールを源流とする構造主義その他の新カント派的な現代思想に対する批判としても現在なお有効である(宮田和保『意識と言語』上掲)

同上 p.27〜 

 自己すなわち一者が、現実的な自己と観念的な自己という対立した二者に観念的な自己分裂を起すのは、中国でいうところの「一分為二」の形態であって、ここに新しい矛盾が発生したわけである。では現実的な自己は観念的な自己によってまったく排除されているかといえば、そうではない。わが家の地図を書いたとき、地図の上では黒い矩形(くけい)で示されているその家の中に、現実の自己もそれなりに正しく位置づけられている。これはさらにすすんで、東京を、日本を、地球を示す場合にあっても、変りがない。われわれは、東京の地図を見る場合に、東京の各地を現実にあるきまわりながめまわったときの認識を正しく結びつけ、日本の地図を見る場合に、各地へ旅行して現実にながめまわったときの認識を正しくむすびつけるというように、現実的な自己での認識と観念的な自己での認識とを正しく調和させて統一するよう努力しながら認識を豊富にし、拡大していく。すなわち、観念的な自己分裂は実践上の必要からつくり出され、正しい調和において維持していくことが要求されるのであるから、この矛盾は非敵対的矛盾とよばれるものの一種として理解すべき