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『認識と言語の理論 第一部』1章(3) 人間の観念的な自己分裂 [PC版ページへ]
2008/03/09 20:06

『認識と言語の理論 第一部』1章(1) 認識論と言語学との関係
『認識と言語の理論 第一部』1章(2) 認識における矛盾
『認識と言語の理論 第一部』1章(3) 人間の観念的な自己分裂
『認識と言語の理論 第一部』1章(4) 「主体的立場」と「観察的立場」
『認識と言語の理論 第一部』1章(5) 真理から誤謬への転化
『認識と言語の理論 第一部』1章(6) 表象の位置づけと役割
『認識と言語の理論 第一部』1章(7) 予想の段階的発展

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)を読む
  第一章 認識論と矛盾論 (3) 人間の観念的な自己分裂


〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.22〜 

 われわれ人間は現実的には地球の上に生活していて、地球から脱出することはできない。……われわれは宇宙飛行士が何を見たかを、彼らの撮影したフィルムや彼らの報告から知ることができる。われわれの感覚は、精神的な交通で彼らの感覚を受けとって、現実の世界についての認識を拡大している。感覚器官は現実の世界との交渉によって感覚をつくり出すのであって、塩をなめてからいと感じるのは、舌にからいと感じさせるものが外界に存在したからである。われわれの感覚の源泉は、この客観的に存在する外界である。現実の世界は無限であるから、われわれの感覚にとらえられた部分はその一部でしかないわけであり、現実の世界それ自体は感覚にとらえられた部分にくらべて無限にゆたかであり多様である。感覚の限界は何ら現実の世界の限界ではない。目に見えない電磁波もあれば、耳に聞こえない超音波もある。……

 地球の上に生活しているわれわれに対して、感覚は地球が動かないものであり太陽や月が動いていると、教えてくれる。もし月の上に人間が到達できたならば、彼の感覚はこれと違って、月が動かないものとなり地球のほうが動いていると、教えてくれるだろう(アポロ14号の着陸船が月に着陸したのは1971年2月5日であり本書の出版は1967年7月10日である――引用者注)。人間の感覚はとりもなおさず感覚器官のその現実的な位置におけるところの現実の世界の反映として、いいかえるならば現実的な位置に束縛されているところの世界のとらえかたとして、成立する。

認識はそれを形成する対象を必要とする。人間の認識は外部に存在する対象からの物理的・化学的な刺戟を感覚器官が受け取ってそれを知覚表象として認知するところから始まる。しかし人間の感覚器官それ自体が限界をもったものであるから個人の認識には限界がある。たとえ諸個人が物質的・精神的交通を媒介として他の個人の認識をわがものとすることができるにしても、やはり地上に縛られ肉体的に限界づけられた人間は基本的にはその現実的な位置に縛られた感覚器官からもたらされる反映としてしか世界を認識(認知)できない。それでは人間はいかにしてこの限界を突破するのだろうか。

同上 p.23〜 

 視覚は光が目の網膜に像を結ぶことによって生れるものであって、人間の眼球は左右一対あるけれども、両眼に映じた像から一つの視野が合成されている。それぞれの眼球は眼窩(がんか)の中におかれ瞼(まぶた)で覆われるようになっているから、一つの眼球の視野は下部を鼻でさえぎられた楕円形をしているし、二つの視野の合成もほぼ三対四の比率を持つ楕円形になっている。映画の画面でスタンダードといわれるサイズが、三対四の比率になっているのは、当初多くの絵画の画面のサイズから平均値をとって決定したといわれているけれども、視野から自由にトリミングしたりあるいは視野をつないでパノラマにしたり自由に画面のサイズを決定できる絵画にあっても、究極的には視野の形態によって規定されているのだということが、平均値をとってみれば明らかになるわけである。……

 われわれはまず現実的な位置でこの視野を通して現実の世界をとらえていく。われわれが動けば位置が変化し視野も変化していく。時には地上をはなれて、海上や空中に自分を位置づけることもある。だが、この現実的な位置に束縛されて限界づけられていたのでは、日常生活さえいとなめないのである。われわれはこの限界を超えたりまたもどったりする活動をくりかえしながら生活しているが、この限界を超える活動は、観念的になされている。たとえば、たづねてくる友人のために、自分の家のありかを教えようとするときには、簡単なものではあっても地図を書くのがつねである。これは、現実的な位置で動きながらえたところのいろいろな認識を頭の中で綜合(そうごう)してつくりだしたものであって、地図を書くときの自己もわが家の机に向かって現実的な位置で目の前の白紙をながめながら書くのである。ところが、この地図としてのわが家は、現実に自己の位置づけられているわが家ではない。現実的には自己はわが家の中にいるにもかかわらず、地図を書いているときには自己はわが家の外にいてわが家を外部からながめ、わが家を空中から見おろすところに位置づけていることになる。それゆえこの場合には、現実的な自己から、観念的な自己が分裂して、観念的に空中の一点に自己を位置づけていることになる。地図を書き終えて、目をそらすとき、空中からわが家を見おろす必要はもはやなくなっているから、観念的な自己も現実的な自己に復帰してしまう。必要に応じて分裂したり復帰したりするのである。

 このわが家を空中から見おろす位置は、観念的でありその意味で非現実的であるけれども、現実の世界の認識としては綜合的でありさらに広汎なものとなっているから、その意味では現実にさらに近づいたことになるのである。現実的な自己では認識できない限界を、観念的な自己において超えたのである。そしてこの観念的な自己は、さらに高く高く空中にのぼっていって、太陽系の中での地球のありかたを客観的にながめることもできる。空間的な旅行ばかりでなく時間的な旅行もできるのであって、人類の祖先がようやく地球の上に姿を現したところをながめたり、人類の存在しない時代の地球のありかたをながめたりすることも、科学者は行っているのである。

人間の認知能力(知覚による認識)は現実の位置に縛られているという意味で限界をもっているが、人間は想像するという能力を獲得して以来、この限界を突破することができるようになった。この想像という精神活動を三浦は観念的な自己分裂という概念を用いて詳細に分析している(私は観念的自己分裂と短縮してよんでいる)。観念的自己分裂は表象や概念を媒介とする精神活動であり、いわば現実の自己の外部にもう一つの世界をつくりあげ現実の自己から分離した観念的な自己がその世界をながめているという構図をもった精神活動である。観念的自己分裂においては現実の自己の立場という束縛を離れ時間的にも空間的にも自由な位置に自己を位置づけることができるので、そこでは人間(観念的な自己)は自由にどんな立場にもなれるし、どのようなものでも思い描くことができる。この精神活動は人間が日常的に行なっているのでそれと指摘されなければ自覚しにくいものであるが、無自覚ながらも現実の認知とは性質を異にしているためにそれらの精神活動はたいてい「想」や「思」「念」を含むことばで表現されている(漢語では意識内で起こる現象を「こころ」「りっしんべん」という部首を含む漢字を用いて表現することが多い)。

なお観念的自己分裂の能力の獲得と人間の自己意識の形成とは同じ事柄の違った表現である。自己意識(対象意識)については「対象意識(1)〜(5)」で簡単に触れている。また人間の自己意識がいかにして形成されたかについて宮田和保は『意識と言語』の第一編第一章「自己意識の形成」でかなり詳細に分析している。

同上 p.25〜 

 写真・絵画・地図のように、感覚を忠実に表現する場合は、その作者がどんな位置にいるかを読みとることも容易である。写真で表現する「わが家」は、カメラの背後にいる現実的な自己がファインダーを通して見たところの位置を示し、地図の「わが家」の観念的な自己の位置と異っていることは一見して明らかである。宇宙飛行士の撮影した写真を見れば、自己も宇宙に飛び出してながめている思いがする。ところが言語表現にあっては、作者がどんな位置にいようと、「わが家」という音声や文字からそれを直接読みとることはできない。認識の過程におけるちがいが、表現に現れて来ない。これは後に述べるけれども、実用的な表現と鑑賞的な表現とでは形式として同じでもその過程的構造がちがっていることが多く、それは内容のちがいを意味することになるのである。「春の海」と書かれていても、科学者の文章と俳人の文章とでは、内容に大きなちがいがあり、読者の読みとりかたもちがってくるのである。

 この観念的な自己分裂は、誰でも日常生活の中でくりかえしているのであるから、哲学者たちもこれに気づいたことは気づいたのだが、観念論の立場をとる哲学者はこれを逆立ちさせて解釈したのであった。唯物論の立場からすれば、まず現実的な自己が存在してそれから観念的な自己が分裂していく。ところが観念論哲学者は分裂の結果をとらえて現実的な自己と観念的な自己とをいっしょくたに扱ったり、さらにはまず観念的な自己が存在してそれから現実的な自己がつくり出されるかのように解釈したりした。ここに彼らのいう「我」(Ich)なるものが論じられた。現実的な自己は自然の産物であり、それが存在しないときにも地球は存在していた。そして現実的な自己から分裂した観念的な自己は、まだ人間の存在していない赤熱の地球を見ていることにもなる。いまこの過程を無視してしまい、観念的な自己を「我」とよんで、これを現実的な自己といっしょくたにすると、「我」とその見ているものすなわち「環境」とは不可分であって、「つねにいっしょに見出されるもの」であり、地球がまだ冷えていない時代にもすでに「我」は存在していたという結論になる。観念的な自己のありかたがそのまま現実の世界のありかたになり、「主観的=客観的なものあるいは客観的=主観的なものより以外のもの」は認められないことになる。こうして「我」と「環境」が、あるいは「自我」と「他我」が、不可分な同格において説明されるのである。これがフィヒテ的観念論であって、ここからさらに観念的な自己のほうを客観的な存在に移しかえ、この客観的な存在としての主観から客観的だとわれわれがとらえている世界がうみ出されたのだと解釈するならば、絶対的なイデーから現実の世界がうみ出されたというヘーゲル的観念論が成立する。ドイツ古典哲学の発展は、観念的な自己分裂のありかたについての解釈の発展という面からも、検討されなければならない(2)

 ジェームズの心理学でも、自己分裂がはじめから別の存在として解釈されている。自己を「純粋自我」すなわち観念的な自己と、「経験的自我」すなわち現実的な自己にまず区別し、心理学が対象とするのは「経験的自我」であって、「純粋自我」はア・プリオリに前提されているところの、自己を対象にして意識するときその意識する自己であると述べている。これもまた自己分裂の過程をとらえないために、ア・プリオリズムにいかれた観念論的解釈である。

(2) マルクス主義者であろうとするワレンチーノやバザーロフが、「不可分な同格」論を主張するアヴェナリウスを支持したとき、レーニンは「唯物論と経験批判論」でそれを主観的観念論だと批判した。たしかにそのとおりである。けれどもこの批判は結果をとりあげているだけで、なぜ・いかにして・このような観念論的主張が生れて来たかについての分析が欠けている。

表現の内容・意味を理解するには、表現者が表現の中に表した表現者の認識とその認識をもたらした対象とを正しくつかみ取る必要がある。そのためには受容する者(受け手・鑑賞者)は表現したときの表現者の立場に立ってその表現過程(対象→意識→表現)を観念的に追体験しなければならない。したがって追体験をうまく行なうために、受容者には表現者に関してその立場や表現したときの状況等についての理解が求められる。言語表現の場合、概念を媒介にするという特徴があるために特にこれが重要であるのは上で三浦が指摘している通りである(三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(2))

観念的な追体験は観念的な自己分裂の一つの形態であり、表現の受容は常にこれを介して行なわれる。それゆえ認識論の確立・言語学の確立には観念的な自己分裂についてのきちんとした分析が必要になってくる。つまりいわゆる自己意識や自我といったものの立体的な構造についての科学的な理解が必要だということである。

デカルトが『方法叙説』において到達した「思う、ゆえにあり cogit ergo sum.」において、表現されていない「思う」の主体・「あり」の主体は思考しているデカルトの自己意識つまり現実のデカルトの意識の中で観念的に分裂した思考主体(思考しているもう一人のデカルト)である――私はこれを現実の自己(認知主体)と区別して認識主体とよんでいる(二つの主観(1)――主観・客観と観念的自己分裂)

また、「思う、ゆえにあり」においては、思考の直接の対象が表現されていない。思考しているときには当然その内容すなわち対象認識(represent)があるはずであり、対象認識を形成する元となった対象もまた存在しているはずである。たとえば猫のことを考えている場合には、対象となっている現実の猫が存在しており、意識内部にはその猫の表象(represent)=個別概念が脳裏に浮かんでおり、それについて考えているもう一人の自分=思考主体=認識主体が存在している。ただし、ここで気をつけなくてはいけないのは観念的な自己分裂の最中であっても現実の自己は現実の世界と向かい合ってそこに存在し、観念的な自己分裂を統御していることを忘れてはならないということである。しかし何ごとかに集中しているとこの統御がおろそかになり認識主体の活動が主となって、つい夢中になって我を忘れる(忘我の境地になる)のもよく経験することではある。

「思う、ゆえにあり」は「われ思う、ゆえにわれあり」と翻訳されることもあるが、ここで「われ」と表現されているのは思考主体=認識主体ではなく、脳裏に浮かんだ自分自身(思考主体)のイメージ(represent)すなわち対象認識である。この「われ」という語は時枝誠記が「主体の客体化されたもの」といっているものであり、意識内部で現実の主体あるいは思考主体=認識主体が自己自身を個別概念としてイメージ化・概念化・客体化したものつまり対象認識であり、これを言語として表現したものである。時枝がいうように表現者その人(表現の主体)や認識主体は表現の内部には存在しない。その表現をなした者・その認識をなした者という関係を通して表現の外部に存在しているのである。対象認識(represent)が表現されたものという点で言語表現における一人称は二人称・三人称ととなんら本質的に変わりはないと時枝はいっている。

フィヒテについてはハインリヒ=ハイネも「その(フィヒテ哲学の――引用者)内容は社会的というよりはむしろ、歴史的、科学的に重要なのである(『ドイツ古典哲学の本質』伊東勉訳・岩波文庫)といい、内容はさして重要ではないがカントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学の歴史的な段階の一つとして重要なのだとフィヒテ哲学の歴史的役割を指摘している。その内容をハイネは以下のように要約している。

 フィヒテが解決しようとした問題は、次のことである。「人間が物についてもっている観念と、人間のそとにある物とが一致すると仮定するのは、いかなる理由によるか?」そしてフィヒテはこの疑問に次のような解答をあたえた。「すべての物はわれわれの心のうちにおいてのみ実在している。」

ヘーゲルは観念的な自己分裂の過程を枠組みとして正しく把握している。しかし現実的な自己から観念的な自己が分裂すると考えずに、観念的な自己(認識主体)の方が先に存在しそこから現実的な自己(認知・知覚の主体)が分裂してくると考えたために、理論的実践による認識の発展によって現実の世界が発展するという風に論理が逆走してしまった。マルクスはこの顛倒したヘーゲルの弁証法をもう一度ひっくり返して正しく作り変えたわけである。それによってマルクスの弁証法は論理学つまり一般科学へと正しく位置づけられることになった。

〔09.03.10 追記 ヘーゲルによる「現実の世界の発展」とは実際はヘーゲルの意識内における再把握された「現実の世界の発展」であり、ヘーゲルの認識の発展によって実際に現実の世界が発展するわけではない。要するに現実→認識の上向(理論的実践)による認識の発展と、認識→現実の下向(現実に問いかける実践)による現実の再把握(確証)が交互に繰り返される認識の弁証法的発展においてヘーゲルは現実の再把握(確証)をイデー(絶対理念)の実現・イデーの外化と見たのである。イデーをア・プリオリのものと措定するなら結局はイデーの自己発展によって現実が発展するという論理的帰結にならざるを得ない。ヘーゲルにおいては人間とは自然と対峙している生身の人間ではなく、自己意識としての人間つまり認識主体であるからその現実的実践はヘーゲルの自己意識のうちで完結している(マルクスはヘーゲルにおける外化=疎外について「自己意識の疎外は、人間的本質の現実的な疎外の表現、その現実的な疎外が知識と思惟のうちに自分を写しだしている表現」であるといっている)。イデーの理論的実践が自己意識内におけるものであることはいうまでもない。

ジェームズの心理学は認識主体をア・プリオリに存在するものと考えた点でヘーゲルと同じであるが、現実の主体と認識主体とを完全に別のものととらえた点でヘーゲルよりも後退している。現象を弁証法的なもの・過程的なものと考えずに固定したものと考えるとこのような形而上学的なものの見方に陥ってしまうと三浦はいいたいのであろう。この批判はソシュールを源流とする構造主義その他の新カント派的な現代思想に対する批判としても現在なお有効である(宮田和保『意識と言語』上掲)

同上 p.27〜 

 自己すなわち一者が、現実的な自己と観念的な自己という対立した二者に観念的な自己分裂を起すのは、中国でいうところの「一分為二」の形態であって、ここに新しい矛盾が発生したわけである。では現実的な自己は観念的な自己によってまったく排除されているかといえば、そうではない。わが家の地図を書いたとき、地図の上では黒い矩形(くけい)で示されているその家の中に、現実の自己もそれなりに正しく位置づけられている。これはさらにすすんで、東京を、日本を、地球を示す場合にあっても、変りがない。われわれは、東京の地図を見る場合に、東京の各地を現実にあるきまわりながめまわったときの認識を正しく結びつけ、日本の地図を見る場合に、各地へ旅行して現実にながめまわったときの認識を正しくむすびつけるというように、現実的な自己での認識と観念的な自己での認識とを正しく調和させて統一するよう努力しながら認識を豊富にし、拡大していく。すなわち、観念的な自己分裂は実践上の必要からつくり出され、正しい調和において維持していくことが要求されるのであるから、この矛盾は非敵対的矛盾とよばれるものの一種として理解すべきである。矛盾はすべて闘争的でありぶちこわして解決すべきものであって、調和すべき矛盾を論じるのは「修正主義」だ(3)というような、歪曲された矛盾論では認識論建設の方法論として役立たないばかりでなく、建設の妨害となるのである。

 人間は観念的な自己分裂のために必要な道具をつくり出している。その中で、どこの家庭にも存在するもの・われわれが日常使用しているもの・は、とよばれている。画像いま、鏡面から l の距離をおいて現実の人間 m が立つならば、鏡面からさらに l' の距離をへだてたかなたに、映像として m' が立っているように見える。 l を短くすると l' が短くなり、 m' がこちらに近づいてくるように見える。この場合の m' は像でしかないのだが、われわれは m' を現実の人間として、自己から ll' の距離に他の人間が実在しているものとして、扱うことができる。ところが、 m' は自己の像であり、自己が左右反転して映っているのであるから、これを現実の人間として扱うのは自己が向こう側に実在しているとして扱うことになる。それゆえ、この m' の自己を見ている m は、自己以外の存在だということにならないわけにはいかない。これは自己の映像と現実的な自己とを観念的に置き換えたのであるが、このことによって現実的な自己は鏡の中にいる現実的な自己を見ているところの他の自己、すなわち観念的な自己としての性格を獲得する。

 鏡を使って行われるこの観念的な自己分裂は、単に自己の姿を客観的な位置において見るにとどまらない。鏡のこちら側に位置づけられている観念的な自己は、さらに恋人や入社試験の試験官などに転換することができる。画像われわれが「彼女にきらわれないように」と思いながら鏡の前に立って、「彼女の目には自分はどううつるだろうか」と気にしたり、「試験官が見て好青年だという印象を持つように」と思いながら鏡の前に立って、「試験官の目に自分はどううつるだろうか」と表情を吟味したりするときには、現実的な自己から分裂した観念的な自己は恋人や試験官に転換しているわけであり、鏡から目をそらすときはまたもや分裂から復帰しているわけである。この種の実践が自己についての認識の発展であり、実践的に大きな意味を持つことからいっても、認識を理論的にとりあげる場合見おとしてはならぬ問題である。けれども反映論を力説する人びとは、人間の認識は外界を反映するのだと認識が像であることだけを一面的に強調するにとどまり、向う側に存在する像についての理論的な検討がほとんど見られない。認識が精神的な鏡であるだけでなく、物質的な鏡との間に相互に関係をむすんでいることをとりあげない。物質的な鏡と精神的な鏡との対立物の統一および相互浸透(4)という事実も、これまた矛盾の一つのありかたである。認識の形態は感性的認識から理性的認識へ発展するとか、人間は直接的だけではなく間接的経験も行っているとか、いうだけでは、認識の持つ弁証法的な性格を十分につかんでいるとはいいえない。調和すべき矛盾を否定したり、相互浸透を「同一性」に解消させたりした、毛沢東矛盾論からはなれてマルクス=エンゲルスの矛盾論に立ちかえることが、弁証法的反映論を建設するために不可欠である。

(3) 中国で矛盾調和論を「修正主義」だと攻撃するときには、いわゆる実事求是という態度で、現実にはそのような矛盾の両側面を調和させることはありえないと指摘し説得するのではない。レーニンが「闘争は絶対的だ」といっているではないか、と文献をふりまわすのである。調和を求めるのはレーニンのことばに違反するものであり、それゆえ「修正主義」だというのである。

(4) 対立物が相互浸透することをことばの上で認めながら、相互浸透の具体的な論理構造をとりあげようとしないで、これを「同一性」と同じだといって解消させてしまうのが毛沢東矛盾論の一つの特徴である。鏡における対立物の統一と相互浸透が、マルクス主義認識論の一つの重要な特徴であることは、これまでの自称マルクス主義者によってまったく無視されて来た。詳細は、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(ミリオン・ブックス)参照。――引用者注:現在は講談社現代新書から出ている。

観念的自己分裂における観念的な世界は、現実的な自己の現前にある現実の世界を直接反映しているわけではない。観念的な世界はその意味で虚構でありイメージであるが、“represent”(再現前)という概念が示しているようにどんなに加工が施されていたとしても基本的にはすべて現実の世界の直接の反映である知覚(感覚)・認知をもとにして再構成され意識の中で再現されたものである。つまり認識(対象認識)はその源泉を現実の世界にもっている。そして認知は知覚(感覚)から始まるとしても認識からのフィードバックを受けて成立するのであり、その認知がまた認識の深化をもたらすのである。

また、上で三浦が指摘しているように観念的な自己は現実的な自己のあり方を認識しているのである。これは観念的な自己が現実的な自己とは別のものでありながら現実的な自己から分裂して形成されたものであり、いわば現実の自己の分身ともいえる存在であることからすれば当然のことだろう。その意味で観念的な自己が自己意識――自己を認識している意識――とよばれるのは不思議ではない。

現実の世界に存在するものはすべて認識にとっては鏡である。認識は現実の反映として受動的に成立するが、新しい認識をもった人間がとって返して再び現実に能動的に働きかけることによって現実はその反照を認識に返してくるのである。そしてその繰り返しによって認識は深化し発展するのである。ただしエンゲルスやディーツゲンのいうように人間の認識にとって誤謬は本質的なものであるから、認識の深化も発展も直線上に進むわけではない。現実から認識へと上る理論的実践と認識から現実へと下る現実的実践との上り下りの交互の実践を通じて認識は深化し発展するのであり、その過程においては認識の後退も大いにありうるのである(マルクスは認識→現実を「上り」、現実→認識を「下り」とよんでいる)。三浦が「認識が精神的な鏡であるだけでなく、物質的な鏡との間に相互に関係をむすんでいる」というとき、自然の持つ弁証法性を認識が受け取り、認識のもつ弁証法性がこれを真理として確証するために弁証法的に自然に働きかけることをいっているのだと私は考えている。

弁証法性というのは単純なことで人間の認識を含めすべての存在は対象的である(互いに鏡である)ということであり、それが現象としては対立物の統一(矛盾およびその解決)という過程をとって現れるということに過ぎない。そして対立物の統一という過程(正→反→合(止揚))はその矛盾の解決(止揚)としては「否定の否定」とか「対立物の相互浸透」とか「量から質への転化およびその逆」という一般的な形態をとるということである。またすべての存在が対象的であるということと世界は運動・変化するものであるということは同じことの違った表現にすぎないと私は考えている。矛盾の形態としては敵対的矛盾と非敵対的矛盾とがあるというのは三浦つとむの指摘している通りである。

マルクス『経済学・哲学草稿』城塚・田中訳/岩波書店「ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判」p.207〜 

 しっかりした、よく仕上がった大地の上に立ち、あらゆる自然力を呼吸している、現実的で肉体をもった人間が、彼の現実的で対象的な本質諸力を自分の外化を通じて疎遠な諸対象として措定するとしても、この措定が主体であるわけではない。この措定が対象的な本質諸力のもつ主体性であり、したがってこれら本質諸力の活動もまた一つの対象的なものであらざるをえない。対象的な本質は対象的に作用する。そしてもしそれの本質諸規定のうちに対象的なものが存しないとすれば、それは対象的には作用しないであろう。対象的な本質は、諸対象によって措定されているからこそ、その生まれからすれば自然であるからこそ、諸対象を創造し措定するのである。したがって、対象的な本質は、措定するという行為においてその〔純粋活動〕から対象創造へとはいりこむのではなくて、その対象的生産物がもっぱらそれの対象的な活動を、一つの対象的な自然的本質の活動としてのそれの活動を、確証するのである。

 ここにおいて、貫徹された自然主義あるいは人間主義が、観念論とも唯物論とも異なっていること、また同時にわれわれは、〔このような〕自然主義だけが世界史の行為を概念的に把握する能力をもつということも見いだすのである。

 《人間は直接的には自然存在である。自然存在として、しかも生きている自然存在として、人間は一方では自然的な諸力を、生命諸力をそなえており、一つの活動的な自然存在である。これらの力は、人間のなかに諸々の素質、能力として、衝動として実存している。他方では、人間は自然的な人間的な感性的な本質として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している〔leidend〕、制約をうけ制限されている本質である。すなわち、人間の衝動の諸対象は、彼の外部に、彼から独立している諸対象として実存している。にもかかわらず、これらの対象は、人間の欲求の対象であって、彼の本質諸力が活動し自己を確証するためには欠くことのできない本質的な諸対象である。人間が肉体的で、自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発展できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自分の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者にたいしてみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。》 飢えは自然的な欲求である。したがって、それを満足させ鎮めるためには、自分の外部にある自然、自分の外部にある対象を必要とする。飢えは、肉体の外にあって肉体の保全と本質発現のために不可欠である対象を求める、肉体の対象的な欲求である。太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である。同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである。

 自分の外部にその自然をもたない存在は、なんら自然的な存在ではなく、自然の存在に関与しない。自分の外部にいかなる対象をももたない存在は、けっして対象的な存在ではない。それ自身が第三者にとって対象ではない存在は、いかなる存在をも自分の対象としてもたない。すなわち、対象的にふるまわない。それの有〔Sein〕は、けっして対象的なものではないのである。

 非対象的な存在とは一つの非存在である。

 自身が対象でもなく、また対象をもってもいない存在を措定してみるがよい。このような存在は、まず第一に、唯一の存在であろう。それの外部にはいかなる存在も実存しないであろう。それはただ独りそれだけで実存することであろう。なぜなら、私の外部に諸対象があるならば、私が独りでないならば、たちまち私は、私の外部にある対象とは別の一つのもの別の一つの現実、すなわち、それの対象である。それゆえ、他の存在の対象ではない存在というものは、いかなる対象的存在も実存していないということを前もって想定しているのである。私が対象を持つようになるやいなや、この対象は私を対象としてもつようになる。しかし、非対象的な存在とは、非現実的な、非感性的な、思惟されただけの、つまり想像されただけの存在であり、抽象化による存在である。感性的であるということ、すなわち現実的であるということは、感覚の対象であること、感性的な対象であることであり、したがって自分の外部に感性的な諸対象をもつこと、自分の感性の諸対象をもつことである。感性的であるということは、受苦的であるということである。

 それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔Leiden〕を感受する存在であるから、一つの情熱的〔leidenschaftich〕存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力を傾ける人間の本質力である。

 《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自分をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接的にあたえられたままの自然的諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は――客体的にも――主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》 そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかし、この歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.29〜 

 観念的な自己分裂に使われる物質的な鏡は、何もガラスの鏡に限られるわけではない。すでにマルクスは物質的な鏡の一つとして、「他の人間という鏡」の存在することを指摘している。

 「人間は、鏡をもって生れてくるのでもなく、また我は我なりというフィヒテ的哲学者として生れてくるのでもないから、人間はまず、他の人間という鏡に自分を映してみる。人間たるペーテルは、自分と同等なものとしての人間たるパウルに連関することによって、初めて、人間としての自分自身に連関する。だがそれによって、ぺーテルにとっては、パウル全体がまた、そのパウル然たる肉体のままで、人間種族の現象形態として意義を持つのである。」(マルクス『資本論』第一章註18)

 これはマルクスのフィヒテ的観念論にたいする批判でもある。さきに述べたように、フィヒテの「我」は実は観念的な自己であって、はじめからこの「我」が存在しているもののように主張している。これに対してマルクスは、この観念的な自己は生れつき存在しているのではなく、現実的な自己が「他の人間という鏡」を見ることによって分裂形成されるのだと指摘するのである。ガラスの鏡にあっては、現実的な自己を一定の空間をへだてたところから、客観的なものとしてとらえることができた。「他の人間という鏡」にあっては、現実的な自己を一定の時間をへだてたところから、客観的なものとしてとらえることができる。われわれは、自分自身がどのようにして生れ、どのようにして育って来たか、認識できなかったし記憶してもいないが、自分と同等なものとしての人間であるパウルやカールが生れるところを見て、その現実的な他人を観念的に自己に置き換えることにより、そこに自分自身の過去のありかたを読みとることができる。同じように、われわれは自分自身の死後について直接経験することができないが、自分の同等なものとしての人間ハンスやフランツが死ぬところや死後扱われるところを見て、その現実的な他人を観念的に自己に置き換えて見ることにより、そこに自分自身の未来のありかたを読みとることができる。

 ここでマルクスもいうように、人間はこれまで生活の中で「他の人間という鏡」を役立てて来たのであるから、学者が認識論としてこれについて検討する以前に、大衆がこれをとりあげたとしても別に不思議はない。日本でも昔からこれをとりあげている。この人こそ模範で、われわれはそれにならうべきだという人間を、「人の亀鑑(かがみ)」とよんで来た。ことわざにも、「人のふり見てわがふり直せ」といわれて来た。たとえば、他人が酔っぱらって深夜の駅のベンチなどで醜態を演じているとき、われわれはそれをながめながらこの現実的な他人を観念的に自己に置き換え、そのことによってこちら側の自己を現実的な自己から観念的な自己に置き換えてみる。「こんな自分を誰かが見たらずいぶん軽蔑するだろう」と思う。さらにその観念的な自己を職場の上役や恋人などに観念的に転換させ、「課長が見たら首にするぞと怒るだろうな」とか「彼女が見たら婚約解消をいい出すだろうな」とか考えていく。それからふたたび現実をありのままながめる立場にもどり、観念的な自己は分裂から復帰するけれども、自己分裂のときの認識は現実的な自己の認識に止揚され、正しく位置づけられ役立てられる。「自分がああいうことになると、まづい事態をまねくから気をつけよう」ということになる。自称マルクス主義者の俗流唯物論よりも、ことわざのほうがマルクス主義に近いというわけである。

 物質的な鏡はこのように至るところに存在するし、科学と技術の発展は多種多様の鏡をつくり出している。実験室での実験の成功は工業化の可能性を示すところの鏡になる。肉眼で見えない世界を見せてくれるものが望遠鏡や顕微鏡であるが、これらもわれわれの観点を観念的に天体の近くに位置づけたりする器具である。感覚においてとらええない存在を認識するための鏡も、さまざまなものがつくられている。放射能をとらえて音として聞くことのできるガイガー・ミューラー管を使った検出器も、ただ見れば何の変りもない光の中に特殊の鏡を見つけて元素の所在を確認するスペクトル分光器も、宇宙線の中の素粒子の軌跡をとらえる霧箱も、みな一種の鏡として考えることができよう。これらは物質のありかたを認識するための物質的な鏡に属するが、さらに精神のありかたを認識するための物質的な鏡が多種多様に創造されているのであって、これが言語をはじめとするさまざまな表現である。物質的な鏡が観念的な自己分裂において使われるという、基本的なありかたは、精神のありかたを認識するための物質的な鏡においてもつらぬかれることになる。

『資本論』におけるマルクスの註と、観念的な自己分裂についての上記の三浦の文章については宮田和保も自己意識の発生とからめて『意識と言語』でこれを取り上げている。それについては「自己の二重化(7)――他者を鏡とするということ」に引用があるので参照していただきたい。

三浦はここで観念的な自己分裂から現実的な自己に復帰したとき、観念的な自己であったときの認識は現実的な自己の認識として止揚される(保存される)と述べている。これは先の観念的な自己は現実的な自己のありかたを認識しているという三浦の指摘と表裏をなすものであり、これらは認識の発展にとって欠くべからざる条件である。観念的な自己が現実的な自己とは対立する別の存在でありながら、現実的な自己によって統御されているという対立物の統一とその相互浸透がここに見られる。人間の認識はこの相互浸透を介して深化・発展するわけである。

先に書いたように人間の認識にとっては現実に存在するものはすべて鏡であるが、人間はさらに進んで多種多様の物質的な鏡を自ら創り出しそれによって認識の限界を突破し認識を深化・発展させている。そして認識(意識)そのものを映し出す物質的な鏡が言語をはじめとするさまざまな表現であるという三浦の指摘はどれほど強調してもし切れない重要な指摘であろう(マルクスは「言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である(『ドイツ・イデオロギー』)といっている)。言語論を始めるにあたってまず三浦は絵画や写真などの例をあげ、それらと言語表現とのもつ性格の共通性と差異とを取り上げる。表現一般のもつ性格をきちんと把握した上で他の表現とは異なる言語特有の性格について取り上げていく。そうした分析のあとで表現一般の中に言語をきちんと位置づけるという論理的方法は科学一般に通じる方法である。マルクスがよくいう区別と連関というのはこのことであろう。特殊を一般と取り違える誤りはありがちであるからものごとの探求にあたってはつねにこの区別と連関について注意を払う必要がある。ソシュールのように「言語」には共通性と差異しかない、というだけでは何も説明したことにはならない。そもそも概念のもつ矛盾が共通性と差異なのであるから、その共通性と差異とがどのようにしてもたらされ、それがどのようにして止揚されるかを突き止めなければ解決にはならないのである。それが類別と分類による概念および言語規範の構造化であることはちょっと考えてみれば分かることであろう。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき

(関連記事)

自己の二重化(1)〜(7)
二つの主観(1)〜(3)
対象意識(1)〜(5)
タグ【観念的追体験】
認識についての覚書(7)――観念的自己分裂
認識についての覚書(5)――カテゴリー・概念の階層
存在と対象(1)〜(4)

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