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『認識と言語の理論 第一部』1章(4) 「主体的立場」と「観察的立場」 [PC版ページへ]
2008/03/15 15:47

『認識と言語の理論 第一部』1章(1) 認識論と言語学との関係
『認識と言語の理論 第一部』1章(2) 認識における矛盾
『認識と言語の理論 第一部』1章(3) 人間の観念的な自己分裂
『認識と言語の理論 第一部』1章(4) 「主体的立場」と「観察的立場」
『認識と言語の理論 第一部』1章(5) 真理から誤謬への転化
『認識と言語の理論 第一部』1章(6) 表象の位置づけと役割
『認識と言語の理論 第一部』1章(7) 予想の段階的発展

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7) をまとめて読む

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部 認識の発展』(1967年刊)を読む
  第一章 認識論と矛盾論 (4) 「主体的立場」と「観察的立場」


〔注記〕 三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味しているだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだものである。つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み換える必要がある。

〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。

三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.32〜 

 これまでは個人がその感覚の限界を超えるために、観念的な自己分裂を自発的に行う事実をとりあげて来た。つぎに、精神的交通において、他の人間の認識を受け取る場合にも、観念的な自己分裂を要求されるという事実を問題にしよう。

 ある他の人間が、自己の認識を表現によって精神的な交通へと発展させたとき、この認識がたとえ現実的な自己の位置において行われたものであったとしても、受けとる側の人間としては現実的な自己のままでは正しく受けとることができないのである。ここにも、一つの矛盾がある。たとえば、ベトナムの記録写真やニュース映画は、それを撮影したときの作者の現実的な自己の位置での認識を表現しているけれども、これがグラフ雑誌やテレビの電波にのってわれわれの家の茶の間でながめたり、映画館のスクリーンに映写されて観客として鑑賞したりすることになると、現実的な自己として東京にとどまっているだけではすまない。それらはひとつの物質的な鏡として、かつて作者が現実の世界をながめたところの目の位置にわれわれの目を置くことになり、これによってわれわれの位置は観念的にかつての作者の位置に転換させられてしまう。すなわち、鑑賞しようとのぞむ人びとには、観念的な自己分裂が強制されるわけである。アフリカの奥地で、土人たちに映画を見せたところ、スクリーンにあらわれる事物をそのまま現実の世界だと思いこみ、スクリーンの背後にまわってどこからあらわれてくるか調べようとしたという話があるけれども、これは土人たちが映像の事物をそのまま現実の世界だとおもいこんで、実は空想の世界の自己を定立するのであるから、ここにも観念的な自己分裂が存在していることはいるのである。ただ正しい観念的な自己のありかたではない。作者の現実の世界の見かたに忠実ではないからである。それゆえ鑑賞者の観念的な自己分裂も、やはり経験を通じて要求されるのであり、その意味で浸透がヨリすすんでいくことが要求されているといえるわけである(1)。この鑑賞においては、現実的な自己は依然として東京の自宅にとどまっており、茶の間で印刷物を見たり、ブラウン管にうつる像をながめたりしているのだが、それと同時に、観念的な自己が分裂して時間的・空間的に飛躍した過去のベトナムの作者の位置に観念的に位置づけられ、作者の目に導かれて戦場をながめていることになる。あるいは、現実的な自己は映画館のイスに腰を下してスクリーンに向かっているのだが、それと同時に、観念的な自己が分裂して爆撃機の上に位置づけられ、空中から地上のありさまをながめていることになる。ブラウン管から視線をそらしたり、ニュース映画が終ってスクリーンが明るくなったりすれば、観念的な自己はまた復帰してくる。

 友人が彼の家のありかを地図を書いて教えてくれたときにも、われわれは友人と同じ目の位置にその目を置くことになり、観念的にかつての作者の位置に転換させられる。観念的な自己分裂が強制されるという点では、写真を見せられる場合も地図を見せられるばあいも変りがない。だが、われわれが人間の認識を受けとる場合にいつでも観念的な自己分裂を行うということから、逆に、その精神的な交通によって伝えられる他の人間の認識をいつでも観念的な自己分裂におけるものだときめてしまうとすれば、それは大きなあやまりである。結果として同じであるからといって、過程までも同じだときめてはならない。現実的な自己の立場で表現した写真と、観念的な自己の立場で表現した地図とは、区別しなければならない。言語表現にもやはり写真的な認識の場合と地図的な認識の場合とがある。野球や角力(すもう)の実況放送のときは前者が中心となり、電話で道を教えたり事件を報告したりするときは後者になる。ところが言語表現には話し手の位置が表面化していないし、現実的な自己でも観念的な自己でも同じ語彙を使って表現するために、表現における立場のちがいを見ぬくことは必ずしも容易ではない。

(1) これは多くの人びとが経験的によく知っているのであるが、観念的な自己分裂とか浸透とか把握していないのである。説明すると、哲学など読んだことのない人びとはすぐ納得するのに反して、哲学とか認識論とか名のつくものをかじった人びとのほうが、むしろ納得できないという顔をする。

言語をはじめとして絵画や写真・映画等の表現とよばれるものは、それらを介して自分の認識や意識の内容を他の人間に伝えるために――精神的な交通を行なうために――人間が創り出した物質的な鏡である。表現を介して精神的な交通を行なうときには、受けとる側の人間は現実的な自己の立場のままでは表現した者の認識や意識の内容を正しく受けとることができない。この矛盾を解決するには受け手は一旦表現者の立場に立って表現者が表現を行なった過程を追体験する必要がある。つまり表現を受けとる側には時間的・空間的な観念的な移行(想像)が否応なしに要求されるのである。

三浦が挙げている「土人」の例はたしかに極端だが、多少の違いはあれ観念的自己分裂による追体験がうまくいかずに表現の内容を正しく受け取れなかったり誤解したりすることが少なくない。逆にいえば、内容を正確に受け取って欲しいのなら表現者の側も受け手の立場や状況に応じて分かりやすい表現を心がける必要がある。つまり表現者にも受け手の立場に立つ先行的な観念的な追体験が要求されるのである。ただし相手を混乱させたり煙に巻いたりあるいはごまかしたりするためにわざと分かりにくい表現をする場合もあるし、善意にせよ悪意にせよ嘘をついたり心にもないことを言ったり書いたりすることもあるので受け手側の対応も一筋縄では行かない。

さて、受け手側は確かに表現者の立場において観念的な追体験をしなければ表現者が表現したその認識内容やそれをもたらした対象について正しい理解を得ることは不可能であるが、三浦が指摘しているように表現する場合には必ずしも観念的な自己分裂が要求されるわけではない。現に目の前で起こっている現象について認知した内容をそのまま表現する場合には観念的な自己分裂をする必要はない。実況放送などの写真的(写実的)な表現においてはむしろ想像を交えずにありのままに描写する方が望ましい。ノンフィクションでは事実を表現する部分は写真的・写実的なやり方で、感想や意見を表現する部分は地図的なやり方でという風に表現者は二つの表現を使い分けている。

同上 p.33〜34 

 言語学も、言語の現象を説明することにあき足らず、その背後にある認識の検討へとすすんでいけば、結局この観念的な自己分裂の問題にぶつからないわけにはいかなくなる。そして時枝誠記の言語過程説は、この問題を「二の立場」の識別としてとりあげ、「言語の実践に於いても、又言語の研究に於いても、極めて重要である」ことを力説したのであった。これは言語学として劃期的(画期的)なことであったが、認識論の持ち合せがなかったり観念的な言語学を支持していたりした言語学者や国語学者は、この時枝の「立場」論を受けとめることができなかったのである。難解だとかあるいは観念論だとか、持てあましたり非難したりした。しかしながら時枝の理論にもまだ未熟なところがあって、それが理解を妨げていたことも事実である。「立場」論が認識論として十分説得的に述べられていなかっただけでなく、混乱もあったのである。まずその「立場」論を聞いてみよう。

 「具体的経験としての言語に対して、我々は二の立場の存在を識別することが出来ると思ふ。その一は、言語を思想表現の手段と考へて、実際に表現行為としての思想の分節や、発音行為や、文字記載をなし、聴手の側からいへば、言語を専ら話手の思想を理解する媒介としてこれを受入れ、文字を読み、音声を聴き、意味を理解する処の立場である。普通の談話文章に於いては、我々はこの様な表現或は理解の立場で言語的行為を遂行し又受容してゐるのである。我々が言語の発音を練習したり、文字の点劃(点画)を吟味したり、文法上の法則を誤らない様に努力したりするのは、かかる立場に於いてであり、又談話文章の相手に応じて語彙を選択したり、敬語を使用したり、言語の美醜を判別したり、標準語と方言との価値を識別してこれを使分けたりするのもこの立場に於いてである。かかる立場に於いては、我々は言語に対して行為的主体として臨んでゐるのであつて、この様な立場に於いて、主体によつて意識せられてゐる言語の美醜或は価値の意識を主体的言語意識と名付けることが出来るのである。

 右の様な主体的立場とは別に、言語を専ら研究対象として把握し、これを観察し、分析し、記述する処の立場がある。原始的な語源解釈から始めて、近代の体系的言語研究がこれに入る。この立場に於いては、言語を観察する者は、言語的行為の主体とならず、第三者として、客観的に言語的行為を眺めてゐる処の観察者としての立場にゐるのである。文法組織がどの様になつてゐるか、言語の歴史、方言の分布がどの様になつてゐるか、等のことを考へるのは、この観察者としてのたちばである。これを観察的立場といふことが出来ると思ふ。以上二の立場を表によつて示せば、

          ┏ 一 主体的立場――理解、表現、鑑賞、価値判断  言語に対する立場 ┫           ┗ 二 観察的立場――観察、分析、記述

 言語に対する一切の事実即ち日常の実践より始めて、言語の教育、言語の政策及び言語等の研究は、凡て(すべて)この二の立場を明かにすることから始められねばならない。」(時枝誠記『国語学原論』)

 我々はまず映画で「二の立場」を検討してみよう。映画館のスクリーンに映写されている映画を見るときにも、やはり「立場」のちがいが存在する。その一は映画を鑑賞する立場であって、このときには目の前に映画館のスクリーンがあるなどということはまったく考えていない。そこは江戸の神田でいま銭形平治が活躍しているのだとか、ヨーロッパの古城が実在して吸血鬼ドラキュラが姿をあらわしたとか見る立場である。この場合には目の前に現実に映画が与えられていながら、それが映画であることを否定する立場に立つのである。いま一つはこれと異なり、目の前に現実に映画が与えられているものとしてこれを観察する立場である。映画館がありスクリーンが存在して、現に映写機から投げられた映像がスクリーンの上にいろいろなかたちを示しており、その映写機にかかっているフィルムは映画会社のスタジオで俳優の演技を撮影したものであり、いまスクリーンの上ではチョンマゲのかつらをつけた長谷川一夫が演技しているとか、古城のセットのベラ・ルゴシが怪奇なメーキャップですごみを利かしているとか、現実の映画のありのままを肯定する立場である。それでは映画俳優自身はどのような立場に立っているかといえば、現実的な自己はセットの中で演技している俳優であることに変りないと同時に、観念的には銭形平治になりドラキュラになって、それらとしての生活を行っている(2)。それゆえ、俳優が創作活動をすすめているときのこの立場と、われわれが映画館で鑑賞活動をすすめているときの立場とは、同じ立場だといわなければならない。ここから、この表現のときの立場と鑑賞のときの立場とを「主体的」なものと考え、これらと映画のありのままを観察するする立場とは異質のものとして区別し、「観察的」立場とよぶのは、その限りにおいてもっともである。これと同じことは、言語芸術すなわち文学においてもいえるわけであって、『源氏物語』や『神曲』の作者は机の上で紙に向かっていると同時に、観念的には光源治の部屋に入りこんで女性との語らいをながめていたり、地獄へ下って罪人たちの受ける刑罰をながめていたりするのであるが、われわれが鑑賞するときにもやはりこれと同じ立場に立たなければならない。それゆえ時枝が、古典研究における解釈作業は、主体的立場において追体験として行わなければならぬと強調したのは、正当であった。

(2) 俳優は二つの立場に立つこと、いわば「二重人格」になることを、職業としている人間であって、現実的な自己とはまったく異った空想の世界の人物として観念的な自己をつくり出すために、努力を重ねなければならない。われわれが日常生活で、認識を発展させるために行う観念的な自己分裂の場合には、観念的な自己は頭の中に成立しているにとどまって、外部から知りえない。しかし俳優にあっては、観客から空想の世界の人間としてふるまうことを要求されているから、視覚的にも現実的な自己とはまったく異ったありかたを示さなければならないし、扮装ということも重要になってくる。これは観念的な自己の現象形態であり、それらが同時に現実的な自己のありかたでもあることを見るならば、ここに浸透が行われているといわなければならない。

上の三浦の記述には分かりにくいところもあるが、時枝誠記が『国語学原論』の中でいっている「主体的立場」というのは観念的な体験観念的な追体験をしているときの立場である。観念的体験・観念的追体験は観念的な自己分裂の一つの形態であり、地図を書いたり・読んだりしているときの立場と同じ立場であるから観念的な主体の立場あるいは想像の世界における主体の立場といい換えてもいいかもしれない。芸術や文学作品の作者・作家も作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めたり登場人物の立場になったり、あるいはその作品を鑑賞するであろう受け手の立場になって先行的に追体験しながら作品を創っているし、俳優も作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めながら登場人物になりきって演技をしているから、このときの作者・作家や俳優も「主体的立場」に立って仕事を進めている。また映画や小説などを鑑賞しているときの客や読者は作品の世界の中に入り込んでその世界を眺めたり登場人物になったりしながら観念的な体験をしているわけだから、このときの客や読者も「主体的立場」に立って鑑賞を進めている。

これに対して時枝のいう「観察的立場」は現実的な自己の立場のまま作品そのものを客観的に眺めながら観察し分析し、それをありのままに記述する立場であり、これは写真を撮ったり実況放送をしているアナウンサーと同じ立場である。自然科学において科学者がその研究対象に対して観察・分析を進めているときの立場もこの立場である。

しかし時枝は古典研究における解釈作業は「主体的立場」において行なわなければならないと主張したのである。

同上 p.37〜38 

 「解釈作業といふのは、単に甲の言語を乙が受容したことを意味することでもなく、又文字に表されたものに訓を附し意味をあてることでもなく、厳密にいへば、乙が甲の言語を追体験することである。今、甲が『花』といつた時、乙がこれを『桃の花』の意味に理解しようと『桜の花』に理解しようと、それは一の言語の受容であり、理解であるには違ひないが、これを解釈作業による理解といふことは出来ない。解釈作業とは、甲の意味した『花』が何であるかを逆推して、甲の体験をそのままに乙が体験しようとすることでなければならない。今乙が、甲の言語を観察的立場に立つて対象とし、これを観察する為には、観察者自らを主体甲の立場に置いてこれを解釈し、主体的に追体験をなし、更にこの自らの経験を観察的立場において観察するといふ段階を経なければならない。解釈が言語の対象的把握に必要であるといふことは、即ち、主体的実践といふことが観察に必要であることを意味するのである。この場合、乙は観察者である前に、先づ主体的立場に立つことが必要なのである。多くの観察者は、自らは客観的に言語を観察してゐる積りで居つても、実は解釈作業によつて無意識に主体的立場を前提としてゐることが多いのであるが、これが方法論として確認されてゐない為に、解釈作業自身その真義が失はれ、言語研究の前提を誤ることも従つて屡々(しばしば)生ずるのである。本居宣長が、源氏物語を解釈するには、物語中に用ゐられた語の意味を以つてすべきであることを主張したのは、前代の主体的立場を無視した観察的立場に対して、主体的立場を力説したことに他ならない。」(同右)

 ところで問題は、ここでいうところの「甲の体験」である。表現の場合には、それを鑑賞する人びとの条件を考慮することが必要になってくる。たとえ写真や映画のように、対象をとらえるに際しては現実的な自己のままでおしとおすにしても、鑑賞する人びとのことを考えるときには、現実的な自己のままではすまない。「会社の営業部はこれを見てどう思うか」とか、「映倫ではこれを見てどう感じるか」とか、いわば事態の自然の歩みを追いこした、他の人間の立場に自己を置いて考えながら、創作活動をすすめなければならないので、その意味では創作活動にいつでも観念的な自己分裂がついてまわるということができる。言語表現でも、聞き手が子どもなら表現をやさしくするとか、聞き手をよろこばせるために、「甘ったるい」ことばを使うとか、あるいは怒らせるために「悪口」をつくとかする必要がある。そのためには聞き手が追体験したときの精神状態を知らなければならないが、これは直接につかむことのできない・話し手が観念的な自己分裂によって聞き手の「身になって」想像しなければならない・存在である。それゆえ話し手は、聞き手を現実的な位置で見るだけでなく、そこから観念的に聞き手と「同一化」するところへ移行していかなければならない(3)。それゆえ時枝は、観念的な自己の立場と現実的な自己の立場との違いを経験的にとらえて、主体的立場と観察的立場との区別を与えたわけであるが、「総ての言語はこの主体的立場の所産」であると、話し手の立場を一つにしてしまったところに行きすぎがあった。これは話し手の写真的な位置と地図的な位置とのちがいを、論理的に抹殺してしまったことにほかならない。言語表現の一つの重要な特徴は、話し手が写真的な位置から地図的な位置に移行してとりあげながらまた写真的な位置に復帰してきたり、現在の位置から過去や未来の位置に移行してとりあげながらまた現在の位置へ復帰して来たりする、複雑な認識のありかたをきわめて容易に短い文として展開できるところにある。「きれい―だっ」という場合の、二つの助動詞の間には、話し手の位置の移行が、立場の飛躍(4)があるのである。時枝が話し手の立場を一つにしてしまったことは、彼の文法論の足をひっぱる結果となり、言語表現の過程的構造における話し手の位置の移行という問題の正しい解明を阻止する結果となった。その詳細は、のちに言語を論じるときにのべることにする。

(3) 鑑賞者は作者の精神のありかたを忠実に複製しようと努力するとともに、作者もまた前もって鑑賞者の精神のありかたに自己のそれを近づけようと努力する。すなわち浸透のための努力は交互に行われるわけであって、対立物の相互浸透としての矛盾の発展が、調和を意図しながらすすめられていく。

(4) 「きれい―である」は同じように二つの助動詞を重加しているが、立場の飛躍はない。どちらの重加も現象的に同じであるから、「である」も「だった」も同じだと平面的に扱われるのがふつうである。過去の追想の世界と現実の世界とをむすびつけてとりあげる場合には、話し手が観念的な自己分裂によって二つの世界を往復するのであるが、客観的な世界が二重化していることは経験的に承認できても、自己の側の二重化はなかなか自覚しにくい。

言語の解釈は純粋に観察的(客観的)な立場において行なわれるだけでなく、主体的立場においてなされたのちに、それを観察的立場において再把握することによってなされるべきだと、時枝は主張している。つまり、表現された言語の内容を理解するためには表現した者の表現過程を追体験することが必要であり、客観的な分析は追体験によって得られた内容を前提としてなされるものだといっている。そして多くの観察者は純粋に観察的(客観的)立場で言語を研究しているつもりであっても非自覚的ながらも主体的立場に立って言語を理解しそののちに客観的な分析を行なっているのだという。にもかかわらず無自覚であるがゆえに言語解釈の方法論として主体的立場の必要性に気がついていないという。時枝は国語学史の研究ことに江戸時代の国学の研究を通じてこのような見解に至ったようである(『国語学史』岩波書店 昭和15年)

話はまったく違うが古代史における文献批判において古田武彦が採っている方法もこれと同じである。古田が本居宣長の「師の説にななずみそ」(『玉勝間』)を座右の銘にしていることは象徴的である(三浦も同じことを主張している)。また私が学生時代にお世話になった参考書『古文研究法』(洛陽社・今でも出ているが当時はハードカバーだった)の著者小西甚一は古文の勉強法として「a 語学的理解」と並べて「b 精神的理解」と「c 歴史的理解」とを挙げて後の二者にかなりの分量を割いていたことを思い出す。今思えばこれも古文解釈における「主体的立場」の大切さを説いているものと考えられる(高校生の私には小西のそんな深い親心が分かるはずもなく「語学的理解」の部分をこなすのに精一杯で後二つの部分はざっと読み流しただけだったがそれでもそれなりのご利益はあった。小西の政治的立場は反動的であったが専門の古典解釈の方法論は正しかったといえる)

閑話休題。時枝のこの主張はまっとうであり、言語を受け取る側の立場の説明としては正しい。表現を受け取る側は主体的立場に立つことをつねに要求され、一貫して主体的立場において表現を受容している。しかし言語を表現するものの立場にまでこの主張の正しさを押しつけたのは行き過ぎ・逸脱であったと三浦はいう。

表現においては表現者はあるときは写真的な立場(観察的な立場)に立ち、あるときは地図的な立場(主体的立場)に立つという風に絶えず立場の移行を行なっている。受容者は表現者のこの立場の移行を追体験する必要があるからつねに主体的立場に立たざるをえない(とはいえ音声を聞いたり、文字を読んだり、映像を見たりしているのは現実の自己である)。しかし、表現者は必要に応じて観察的立場と主体的立場とを使い分けているのであり、つねに主体的立場に立つことを要求されるというわけではない。

自らの認識したものを正しく受け取ってもらうためには表現者は受け取る側のことを考慮して先行的な追体験をしなければならないしこのときは観念的な自己の立場(主体的立場)で表現をしているが、目の前で起こっていることをありのままに表現する場合には表現者は現実的な自己の立場(観察的な立場)で表現を行なっている。時枝も表現者としては非自覚的ながらこの二つの立場の移行を行なっていたはずであるがそれに気づくことはなかった。というより受容者における立場の移行と表現者における立場の移行とはその性質が異なることに気づかなかったという方が適切かもしれない。創作活動は観念的な自己の立場への移行なくしては不可能だから(想像なくして創造はできないから)古典研究・古典解釈が頭の中にあった時枝にとっては無理からぬ思い込みだったともいえる。

言語表現では主体的表現の語(助動詞・助詞等)によって表現者の立場や立場の移行が示される。たとえば上で三浦が例に挙げている「きれいだった(きれいであった)」という表現では、「きれい」は対象の属性をとらえそれを概念化して客体的表現の語(静詞・形容詞)として表現したものだが、主体については「だっ」(「で」+「あっ」)と「た」という三つの主体的表現の語(助動詞)によって立場および立場の移行が示されているのである。文の末尾にある「た」によってそれまでの表現が観念的な自己による過去・回想であったこと(現実的な自己の立場における把握・判断)、および現実的な自己の立場に復帰したこと(立場の移行)が示されており、その直前の「で」「あっ」は過去・回想の世界において観念的な自己の立場で何かが「きれい」であることを把握・判断していることが二重に示されている(重加)。日本語の言語表現においては現象が現実的な自己の眼前に現前しているか、現象が観念的な自己の眼前に再現前しているのかの違いや二つの立場の間の移行は助動詞や助詞などの主体的表現の語によって示されるのである。表現に現れるこのような立場の違いや立場の移行過程を正しくつかみ取らなければ歴史的現在とか時制とかいったことがらについての正しい分析も不可能なのである。

(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)

『認識と言語の理論 第一部』1章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』2章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第一部』3章(1)〜(5)

『認識と言語の理論 第二部』1章(1)〜(8)

『認識と言語の理論 第二部』2章(1)〜(6)

『認識と言語の理論 第二部』3章(1)〜(7)

『認識と言語の理論 第二部』4章(1)〜(9)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

三浦つとむ『言語過程説の展開』 冒頭の文章

三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』 まえがき

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