〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.39~
認識の限界は、鉄板の向うを透視できないというようなかたちのものだけでなく、その他にもいろいろあることをわれわれは経験で知っている。たとえば、雪におおわれた野原でウサギを発見しても、すぐ背景にとけこんで見えなくなってしまい、灰色の岩を背にしたカモシカも、どこにいるのかわからなくなってしまう。それらはたしかに視野の中に存在するにちがいないが、その輪郭を視覚的にとらえることができないのである。空気中にはきわめて多くの細菌が存在しているにもかかわらず、われわれの目にはみえない。いうまでもなく、それらはあまりにも微小であるからである。
鏡が視覚の限界を超えるための道具であることは、さきに述べておいた。われわれは、自分の目をその目で直接に見ることができないが、鏡を使えば媒介的に見ることができる。前方を見ながら同時に後方を見るという矛盾も、バック・ミラーによって実現しかつ解決するのであって、この二つの側面をうまく調和したところにバック・ミラーの位置を決定するという意味では、自動車の設計者は実践的に毛沢東の矛盾論を批判しているともいえよう。電池の直流で電球を光らせても、電燈線の交流で電球を光らせても、見たところは変りがないが、交流のそれは一秒間に数十回もの点滅をくりかえしている。直接見えないこの点滅も媒介的に見ることができる。交流による点滅を利用して、モーターの回転数を調整するに使う道具が、ストロボ・スコープあるいは「おどろき板」とよばれるもので、……これも一種の鏡であって、ここから逆に電源が交流であるか否かをしらべることもできる。……放送局のアンテナから発射されている電波も、視覚的にとらえることができないが、受信機をオッシロスコープにつなげば、その波形を目で見ることができる。やはりこれも一種の鏡である。……電気のメーター、水道のメーター、速度計その他、いわゆる計器はすべて鏡として理解すべきものである(1)。
(1) 直接には針が目盛を指すにすぎないが、事物のありかたの変化がこの針の変化に媒介されてくるのであり、かつ両者の変化が調和されているという意味で、計器を使うことはすなわち矛盾を創造して役立てることである。測定という問題の解決はこの矛盾を創造し実現することに基礎づけられ、この客観的な非敵対的矛盾が、針を見る現実的な自己とそれを通じて事物のありかたを見る観念的な自己との分裂をもたらすのである。われわれの周囲にはさまざまな計器がそれこそゴロゴロ存在し、これらによる測定が行われているにもかかわらず、認識論に計器の問題が正しくとりいれられた例を見ないのも、正しい矛盾論を欠いた俗流唯物論の制約によるものである。
個々の人間が直接経験することができるのは五官(感覚器官)によってとらえられる限られた範囲の対象・現象だけである。しかも五官のそれぞれが感知できる範囲や強度・精度にもそれぞれ限界が存在する。つまり「直接」的な経験の限界をもたらしているのは対象→認識の過程を媒介している肉体・感覚(知覚)のもつ限界なのであり、私たちが直接的経験=直覚・直観とよんでいるもの自体が実は間接的な経験・媒介的な経験なのである。人間の認識は感覚(知覚)・知覚表象に媒介されたものであり、媒介するものの限界が認識の限界を規定している。
しかし人間は肉体的・感覚的な媒介のもつこの限界を、鏡を始めとする道具・計器・測定器等の各種の物質的媒介物すなわち<物質的な鏡>を作り出すことによって克服しその認識の限界を広げてきた。また人間は<人間の意識・認識を映し出す物質的な鏡>(媒介)として言語を始めとする各種の表現を作り出し、それらを介した物質的・精神的交通によって自己の認識を他者に伝え・他者の認識をわがものとすることによって認識を共有し、そうすることで個々人の認識を深化・発展させてきた。
このような物質的な鏡(媒介)によって個々人がその認識を深化・発展させることができるのは人間の認識自身がその対象を映し出す<精神的な鏡>(媒介)だからである。しかもこの<精神的な鏡>は感覚器官がとらえたままの姿(知覚表象)で対象を映し出すだけでなく、想像力という能力によって対象を加工し再構成し新しい形(表象・概念)で対象を映し出し、創り出すことができる鏡なのである。またそれだからこそ道具・計器等の<物質的な鏡>によって加工された形で映し出される現実のありかたを、さらに変形・加工し直して元の現実のありかたとして再現し映し出す(概念的に把握する)ことができるのである。
なお「われわれは、自分の目をその目で直接に見ることができないが、鏡を使えば媒介的に見ることができる」という三浦のことばをさらに進めて考えるならばつぎのようないい方も可能である。「われわれは自分の目の存在を自分の目で直接確かめることはできないが、目に映るものを通して媒介的に自分の目の存在を確証することができる」つまり私たちの外部に存在する対象が目に映じて生じる視覚映像(視覚表象)は直接にはその対象の存在を示しているが、それと同時にその視覚映像は私たちには視覚があること・光を感じる感覚器官(目)があることを私たちに示しているのであり、それによって私たちは自分の視覚・自分の目の存在を認識し確証する――弁証法的に知る――ことができるのである。これは<目・視覚>に限らず私たちの<五官(感覚器官)・五感(感覚あるいは知覚)>すべてについていえることである。このことはまた、私たちの五官を介して五感に映ずる対象の映像(知覚表象)はその対象の存在と同時に五官・五感の能力を有する私たち自身の存在をも同時に確証しているということでもある。
デカルトの「思う、ゆえにあり」は思考している主体が対象認識を媒介として自己の存在を確証したことを示している。このようにして人間は他者の存在を媒介として自己の存在を、対象認識を媒介にして自己意識の存在を確証するのである。
閑話休題。
同上 p.41~
カモシカや細菌などは、それら自体が感性的なのであるから、背景を変えるとか光学的に拡大するとかいう方法をとれば、目で見ることができる。顕微鏡にしてもあるいは望遠鏡にしても、それらは肉眼で見えるものを大きく拡大してみることができるという経験から、人びとはそこに見えるものが存在しているのだということを納得したし、すすんで肉眼で見えないものを見たときにも、それらはやはり存在しているのであって肉眼ではとらえられないのだということを納得したのである。なぜ大きく拡大できるのかという点で神秘的で魔法的なものを感じたとしても、存在しないものを存在するかに見せるものだとは思わなかったのである。けれども科学者が、肉眼の限界を顕微鏡や望遠鏡で超えられるということから、肉眼の限界はすべてこれらで超えられるのだと思いこんだとすれば、これもまたあやまりである。対象は感性的であるとは限らない。対象それ自体が感性的なものを持たず、目で見ることがそもそも不可能な存在であるならば、もはや顕微鏡や望遠鏡は役立たないのであり、これらとは構造の異った別の鏡を創造してそれを目で見えるかたちにみちびいてくることが必要である。たとえば人間の精神活動のありかたは、脳波を記録する装置によって、紙の上のグラフとして見ることができる。けれどもこのように、直接つかむことのできない精神活動のありかたを、脳波を媒介にしてつかむことができるということから、すべての精神活動のありかたをこの装置によってとらえられるのだと思いこんだとすれば、これもまたあやまりである。その人間がいま夢を見ているということは大体推察できたとしても、なぜそんな夢を見たのかということまで装置は教えてくれはしないのである。つまりどんな鏡にもそれなりの限界が存在するのである。
すべての存在はそれなりの限界をもつと同時に、それを超える可能性もまた与えられている。われわれの生命は死によって失われてしまうが、身体を構成する物質は分離して自然の中へとけこんでしまうのであって、無に帰るわけではない。そしてこれらの物質は、またいつかの時代に、与えられた条件の中で、生命を生み出す可能性を失ってはいないのである。この限界を固定化すると、生命は物質と無関係なものだという切りはなした解釈になり、限界を無視して延長すると、生命は肉体のありかたと関係なく死後も存在するものであって、自然すなわち生命であり、宇宙すなわち生命であるというような、創価学会的生命観になってしまう(2)。認識における誤謬という問題は、この限界に深くかかわり合っているといわなければならない。ウサギやかもしかの場合には、肉眼で区別できるということにも一つの限界があり、区別できなくても異ったものが存在することを認めねばならない場合であるにもかかわらず、区別できなくなったことからそこに存在しなくなったと判断するところに誤謬が生れる。肉眼では直接見ることの不可能な存在を、光学機械で拡大すれば見ることができるという場合にもこれまた一つの限界があり、感性的なものを持たぬ存在は見ることが不可能であるにもかかわらず、機械の性能を高め拡大率を上げていけばそのうちに見えるようになると判断するならば、これもまた誤謬である。あるいは、感性的なものを持たず感覚で直接とらえられない存在は決して認識できないものだと思いこみ、これを感覚で直接とらえられる存在に関係づけうつしかえれば限界を超えられることを、限界を超える可能性の存在することを、考えようとはしないところに誤謬が生れる。
誤謬はこのように、限界が存在することを無視してしまって対象のもっている限界を超えたところにまで認識のありかたを逸脱させたり、あるいはこれと反対に、対象のもっている限界を絶対化してしまってそれらは超えられぬのだと逸脱させてとりあげたり、するところに生れてくる。それゆえ、誤謬がいかにして生れるのかをダイナミックにかつ論理的に追求するならば、当然にこの逸脱というところに目をつけなければならなくなる。すでに一九世紀の労働者哲学者が、この本質を指摘しているのであるが、現在のマルクス主義の教科書にはそもそも誤謬論という実践の正否を左右するきわめて重要な問題を扱う項目が欠けており(3)、この労働者哲学者の功績もまた無視されている。
「昔から学者も著述家も、真理とは何であるか、という問題でたがいに困惑して来た。この問題は数千年来の根本的な問題を、特に哲学の根本問題をかたちづくって来た。この問題は、哲学そのものと同じように、結局のところその解決を人間の思惟能力の認識において見出すのである。いいかえるならば、一般に真理とは何かという問題は、真理と誤謬との区別いかんという問題と同一なのである。哲学はこの謎を解くために力をつくし、思考過程を最後的に明かに認識することによって、この謎とともに遂に自分自身を解消するに至った科学である。」
「理性と同じように、真理は感性的世界の与えられた一定量から一般的なものを、抽象的な理論を展開させることの中に存在している。従って一般的な真理が真の認識の標準なのではなくて、一定の対象の真理をすなわちその一般的なものを生み出すような認識が真理であるといえるのである。真理は客観的でなければならない、すなわち一定の対象の真理でなければならない。認識はそれ自体として真理であることはできず、単に相対的に、一定の対象に関係してのみ、外面的事物にもとづいてのみ真でありうる。……一般者がどれだけ一般的であるかという程度の区別、存在と仮象、真理と誤謬との区別は、一定の限界内にあって、特殊な客体への関係にもとづいている。一つの認識が真理であるかないかは、その認識それ自体によるのではなく、その認識が自分自身に課し、あるいはよそからその認識に与えられる限界ないし課題によって決定される。完全な認識は定められた制限の内においてのみ可能である。完全な真理とは常に自己の不完全を意識している真理である。」
「真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中でいっしょに住んでいる。感覚的に経験された事実の一般的な表現は思想一般であって、その中には誤謬もふくまれている。ところで誤謬が真理から区別されるゆえんは、その誤謬がそれがあらわしている一定の事実に対して、感覚的経験が教えている以上にヨリ大きい、ヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度はづれに認めるところにある。誤謬の本質は逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠をきどるとき、はじめて偽物となる。」(ディーツゲン『人間の頭脳労働の本質』)
一八九六年に出版されたこの本がマルクス=エンゲルスを驚嘆させ、唯物弁証法は自分たちが発見しただけでなく自分たちから独立に、ヘーゲルからさえも独立に、「一人のドイツの労働者によって発見された(4)」といわしめたのも、やはりそれだけのものがあったからである。見るように、ディーツゲンは誤謬から切りはなして真理を論ずることを拒否しており、真理をその対立物である誤謬との統一においてとりあげている。これがすなわち真理の弁証法的な扱いかたなのである。彼は観念論哲学の真理論を批判して、真理がア・プリオリに頭の中にまず成立するのだという主張に反対するだけでなく、それ自体として真理とよばれる資格があるのだという主張にもきびしい反論を加えている。ここから、真理論はとりもなおさず真理と誤謬との区別およびその転化を論ずべきものとして、真理は認識それ自体においてではなく「客体との関係」において「一定の限界」の問題で論ずべきものとして、具体的に展開されたのであった。
(2) 自然科学者の中にこの幼稚な生命論にひっかかる人びとがあるのは、自然科学がタコツボ的な分業においてすすめられ、真理の限界という問題をほとんど問題にしないですむような条件の中で科学者が思惟していることと、無関係ではない。
(3) 真理論があって誤謬論がないのは、対立物の統一という弁証法的な発想をつらぬけないためではあるが、教科書を執筆する哲学者が非実践的で誤謬の重要性に鈍感だということも考える必要があろう。
(4) エンゲルス『フォイエルバッハ論』第四章。
人間は身体的な位置の限界を超えるために自らその位置を変えたり、また生身の肉体では移動するのが困難な場所に移動するための機械を作ったりしてきた。また、感覚器の限界を超えるためのさまざまな機器が創造されてきた。しかし三浦が指摘しているようにこれらの機械・機器にはかならず限界が存在する。人間はそのような限界を超えるための機械や機器を次から次へと作り続けてはいるがそれらにもかならず限界が存在するのである。このような限界のために人間の認識はつねに制限されている。
個々の人間の認識が肉体的・身体的な条件によって制限されているということは、たとえば観測や観察から得られる認識は観察者の肉体的な位置という条件に左右されるという形で現れる。ある人が何の断りもなしに「太陽は北から昇る」と主張すればそれは誤りである。しかし自分が南極点にいることを承知した上で「太陽は北から昇る」と認識したとすればその認識は正しいし、「南極点では太陽は北から昇る」というならそれも正しい言説である。このことは「太陽は東から昇る」という認識や言説についてもいえる。極点では太陽は東からは昇らない。しかしふつうの人間は極点で暮らしているわけではないからそのことを承知した上で「太陽は東から出て西に沈む」と認識・判断するのは正しい。しかし「いついかなる場所でもつねに太陽は東から昇る」と判断したり、いい張ったりするのは間違いである。
また同じことは人間の感覚器官の限界についてもいい得る。ごくふつうの日常生活において、空っぽのコップを見て「何も入っていない」と考えるのは正しい判断である。しかしその人がコップの中に空気が入っていること、ほこりの粒子や菌類の胞子・細菌等が入っている可能性まで否定するならそれは間違った認識・判断である。だから空っぽのコップを見て「目で見る限りは何も入っていない」という認識・判断を下すのは正しいが、いついかなる場合においても空っぽのコップには「何も入っていない」と認識したり判断したりするならそれは正しいとはいえない。
真理も誤謬も人間の認識であり、判断である。ディーツゲンが指摘しているように「真理と誤謬、認識と誤認、理解と誤解は、科学の器官である思惟能力の中でいっしょに住んでいる」のである。特定の対象についての特定の認識・判断が正しいときその認識・判断は真理とよばれ、その認識・判断が誤っているときそれは誤謬とよばれる。したがって、問題は人間の肉体的・感覚的限界の存在それ自体やさまざまな道具や機器に限界が存在することそれ自体ではない。重要なのは世界の無限性に対する人間の認識の有限性という認識のもつ本質的な矛盾によって個々人の認識・判断には必然的に限界が存在するということであり、それゆえ真理と誤謬との区別は個々の認識・判断がその限界をしっかりとわきまえてなされているか否かによるということである。つまり「誤謬の本質は逸脱ということである」(ディーツゲン)なのである。三浦もこの後の引用部で「誤謬は、現実の世界の多様性による限界と、これに対する認識の限界とのからみ合いにおいて、逸脱が生ずるところに起る」といっている。そしてこのことはある特定の種類の対象からもたらされる一般的な認識・科学的な認識・科学的真理についてもいえることである。
同上 p.44~
それから八年後に、こんどはエンゲルスが同じ問題をとりあげないわけにはいかなくなった。それはオイゲン・デューリングが「現実哲学」と称するものをふりかざし、この「根底的な科学」だと誇示する著作の中で、「ほんとうの真理というものは決して変化することのないものである。」と主張し、「時間や現実の変動によって認識の正しさが、そこなわれうると考えるのは、総じておろかなことである。」とその絶対的妥当性を強調したからである。この俗流唯物論を批判せざるをえなくなったエンゲルスは、ディーツゲンと同じように真理の「一定の限界」をとりあげて、真理と誤謬とが「いっしょに住んでいる」という事実は自然科学の法則においても見られるのであり、この対立物は相互に転化することを論じたのであった。
「真理と誤謬とは、両極的な対立をなして運動するすべての思惟規定と同じように、きわめて限られた分野に対してしか絶対的な妥当性をもたない。……真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い分野の外に適用するや否や、この対立は相対的となり、したがって正確な科学的な表現のしかたとしては役に立たなくなる。もしまたわれわれがこの対立を絶対的に妥当するものとして、この分野の外に適用しようと試みるならば、われわれはそれこそ破綻してしまう。対立の両極はその反対物に転化し、真理は誤謬となり、誤謬は真理となる。有名なボイルの法則を例にとろう。この法則によると、温度が一定であれば、気体の体積はその気体の受ける圧力に逆比例する。ルニョーは、この法則がある種の場合にあてはまらないことを発見した。ところで、もし彼が現実科学者であったなら、彼は義務としてつぎのようにいわなければならなかったであろう。ボイルの法則は変るものであり、したがってそれは本当の真理ではないのであり、したがってそれは何ら真理ではないのであり、したがって誤謬である、と。だが、そうしたなら、彼はボイルの法則にふくまれていた誤謬よりも、ずっと大きな誤謬をおかしたことになったろう。彼の一粒の真理は誤謬の砂山の中に影を没したであろう。つまり彼は、本来正しい彼の結論を誤謬に仕立て上げてしまったであろうし、それにくらべれば、ボイルの法則はわずかの誤謬がそれにこびりついたままでも、なお真理と見えたであろう。しかし、科学者であるルニョーは、このような子どもじみたことにはたづさわらずに、さらに研究をすすめ、ボイルの法則は一般に近似的に正しいだけであって、特に圧力によって液化させうる気体の場合にはその妥当性を失い、しかも、圧力が液化の起る点に近づくや否やそうなる、ということを発見した。こうして、ボイルの法則は、一定の限界の中でだけ正しいことがわかったのである。」(エンゲルス『反デューリング論』)
真理のもつこの種の相対性、限界は、マルクス主義の法則や命題においても変るところがない。唯物弁証法にも限界が存在する。静止・不変の範囲で事物を扱うときには、弁証法の「あれもこれも」ではなく形而上学の「あれかこれか」で考えるし、また資本主義の永遠性や宗教の正しさを証明するために唯物弁証法を役立てることはできない。マルクス主義者が法則や命題の真理であることを強調するあまり、これらに絶対的妥当性を与えるならば、それはマルクス主義を逸脱してデューリングの誤謬をくりかえすことでしかないのである。戦争には正義の戦争と不正義の戦争とがあるという、レーニンや毛沢東の命題にしても、ボイルの法則と同じく「わずかの誤謬がそれにこびりついた」近似的に正しいものであり、世界核戦争の場合にはその妥当性を失って誤謬に転化してしてしまう。マルクス主義の法則や命題は「普遍的真理」であるといい、その絶対的妥当性を主張する二〇世紀の中国の現実哲学者たちは、エンゲルスはもちろん一九世紀の労働者哲学者よりもさらに理論的に後退しているわけである。
三浦のいう「一定の限界」が上の『反デューリング論』では「きわめて限られた分野」「狭い分野」と表現されている(岩波文庫版では「分野」が「領域」と訳されている)。いずれにせよエンゲルスもディーツゲンと同じように真理は一定の限界のもとで成立しその限界を無視するなら真理は誤謬に転化するといっているわけである。現在の科学的真理の体系は過去から現在に至る人間の認識の発展過程が系列化・体系化されたものである。ボイルの法則もその系列の一つを構成しており、他のすべての科学的真理と同様に一定の限界内で成立するのであり、ある一定の領域に属さない気体においてはボイルの法則は誤謬に転化する。つまり、ある特定の状態におけるある特定の気体は圧力が一定の限度を越えると体積が 0 になる=液化してしまうのである。ゴムやつるまきバネのような弾性体に関するフックの法則についても同様である。加える力が一定の範囲内にあれば弾性体の伸び(または縮み)は加える力に比例するが、加える力がある一定の大きさ(個別の弾性体の性質によって異なる)より小さい場合には伸び(または縮み)は 0 になるし、加える力がある一定の大きさより大きくなると弾性体は弾性を失って伸び(縮み)切ってしまったり破壊されてしまったりする。すべての科学的真理はこのような限界=例外規定を有している。
同上 p.46~
誤謬は、現実の世界の多様性による限界と、これに対する認識の限界とのからみ合いにおいて、逸脱が生ずるところに起るのであるから、個々の認識がたとえ真理であってもそれらを統一した場合に真理であることを保証されはしない。われわれは統一された全体としての現実の世界を、想像の部分において認識するのであって、現実の世界と認識とを正しく照応させるためには、いわば分解によって獲得された認識をふたたび観念的に結合していくことが必要である。これは、個々の認識の限界を他の認識を結合することによって超えたのであるが、この結合のしかたが正しくないならば限界の処理をあやまったわけであって、現実の世界との正しい照応でなくなり、誤謬となる。探偵小説の名探偵もつぎのようにいう。
「この世の中で、わづかながらも私がしとげて来たことは、私たちがやかましく聞かされている推理の力というものには案外負うところが少くて、それよりもっともっと綜合の精神に負うところが多いと思うのです。事実を綜合しつなぎ合わせるというのが私の有力な武器だったのです。またこれこそが成功の大切な骨組なのであって、事実がうまくつなぎ合わされないときには、きまって結果は失敗です。……いかにも、あなたは事実をたくさんつかんだが、役に立つ事実はすべてつかみはしなかった――あるいは、役に立つ立たぬはさておいて、何もかも全部というわけではなかった。つまりあなたは、壁もできないうちから屋根をつくろうとなさったのだ。」(フィルボッツ『赤毛のレドメイン』)
映画の一つ一つの場面は、対象の世界をそれぞれの位置からとらえた、いわば分解したものであって、編集においてこれを結合させ、観客が分解と同時に結合しながら対象の世界の認識をすすめていけるように仕上げるわけである。ところが映画の製作は分業であるから、監督ないしは編集者のところへは、すでに分解ずみの、できあがったフィルム断片がまわって来る。彼らはそれを結合させるだけである。この現象をとらえて、分解が先行しているという過程を無視したところに、モンタアジュ論とよばれるあやまった映画理論が誕生した(5)。
誤謬はそれを真理と信じているからこそ誤りなのであって、それを誤謬と認めれば正しい認識であり有用である。事件に関係のなかった人間を犯人だと思うのは、誤謬であるが、それを誤謬と認め彼は犯人ではないと認めれば、それだけ疑わしい人間の範囲が狭くなったのであって、誤謬も無意味ではなかったことになる(6)。誤謬を真理と別のものとして切りはなし、かつ実践と切りはなしてとりあげる人びとが、これを認識の中の特殊例外として仲間はづれにしたり、まったく役に立たぬ意味のない存在だと考えたり、するのである。
(5) この映画理論の詳細については三浦つとむ『モンタアジュ論の亡霊』(『現代思想』一九六一年一一・一二月合併号)を参照。
(6) 「すべての誤謬は、真実の理解を助ける。」(ディーツゲン『哲学の実果』)
子どもの頃私はやっと買ってもらったおもちゃを遊ぶのに飽きるとすぐに分解してしまった。中がどうなっているのかが不思議だったからである。ブリキ製のおもちゃは穴にはまった爪を曲げて組立ててあるだけだから外側を外すのはごく簡単である。ゼンマイじかけの精密な機構を枠組みからバラしていく過程で私はそのおもちゃがいかにして動くかの秘密を知ることができたが、問題は組立てである。バラバラになったさまざまな大きさの歯車をもう一度再構成し元の通りに組立てなければならない。分解するのは時間もかからず簡単にできるが組立てはそう簡単にはいかない。分解したときと逆にやっていけばよいと分かっていても分解のときにその仕組みをきちんと理解しながら部品を分類し保管しておかないとまず組立ては失敗する。しかも機構の全体的な把握ができていないと駄目なのである。この全体的な把握は分解するときに絶えず頭の中に入れておかなくてはならない。
私はこのことを数多くの失敗を通して学んだ。子どもの頃住んでいた家の床下には私が分解したまま組立てができなかったおもちゃの残骸がいくつも転がっていた。
ものごとについての分析と綜合とはそういったものである。モンタージュ論とやらは綜合というものについての理解が欠けていたのであろう。バラしたものを適当に組み合わせて何か新しいものが生れると単純に考えるのは間違いである。もっともそのような中から偶然に新しい何かすばらしいものが生れることもある。ただしそれにはそれなりの理由があってのことであろう。やはり再構成には全体観が必要であり、適切な新しい全体観によって組立てられたものから新しいものは創造されるのだと私は思う。分析にあたっては綜合的な見地・全体的な見地が絶対に必要なのである。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)
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