〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
三浦つとむ『>認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.48~
われわれの感覚器官が受動的に現実の世界を反映していることは疑う余地がない。目はカメラのレンズと同じように、対象からの光を受けとめて像をつくり出しているのであって、手のひらで目をおおえば見えなくなるのは、レンズにキャップをかぶせれば写らなくなるのと同じことである。けれどもわれわれの目は受動的に働くにとどまるものではなく、それと同時にわれわれの側からも能動的な、現実をとらえよう現実を見ようとする働きかけが行われている。この能動性の第一歩は注意である。これも、受動的な反映から反射的に行われるような段階もあれば、未来に対する先走った認識に基礎づけられて、それが実現するのを期待するような段階もあって、発展的に理解しなければならない。あるいていると後方で大きな声がしたので、思わずそちらへ視線を向けるような段階もあれば、まいた朝顔の種子がもう芽を出すころだと考えて、庭に目をやるような段階もある。彼女と六時に駅で会いましょうと約束したので、時計の針の動きと駅の出口からはきだされてくる乗客とを交互にながめるような注意のありかたは、発展した段階のものであって、同じ注意にも主体的条件のちがいが存在する。さらに能動的な働きは発見である。これも注意と同じように、受動的な反映から反射的に行われるような段階もあれば、未来に対する先走った認識に基礎づけられて、それが実現するのを期待するような段階もあって、発展的に理解しなければならない。下を向いてあるいていたら小さな紙包が落ちていたので、直観的にさてはと思って開いてみたら百万円の紙幣束が入っていたような段階もあれば、手さげ金庫の中にかなりの現金が入っているはずだとにらんでしのびこんだ泥棒が、開けて思わずニッコリするような段階もある。ぬすまれた重要な手紙は大臣の身辺のすぐ目につくところにあるにちがいないとにらんで、緑色の眼鏡の後から部屋を見まわし、状差(じょうさし)の中にあるのが見かけこそちがえ問題の手紙だと見破るような発見のありかたは、発展した段階のものであり、同じ発見にも主体的条件のちがいが存在する。
人間の認知・認識は外部の対象からの受動的な反映から始まるが、人間の意識はそれに甘んじていることができない。人間は生きて生活している。生活を維持するには外部と交通しなければならない。それゆえ人間は外部の対象に積極的に能動的に否応なしに働きかけていく。そうした実践を媒介にして人間の認識は能動的なものになる。マルクスや三浦のいう反映はこのような能動的な意識・認識を包含した概念であり、俗に理解されているような単純な唯物論的反映=受動的反映ではない。また三浦のいう「認識」は哲学的な概念である思惟(知覚を除く意識のあらゆる活動)と知覚とを含んでいる、つまり意識のあらゆる活動を含んでいるので三浦の書いたものを理解するにはその点を考慮しながら読まなくてはならない。
意識の能動性は欲望や意欲から生まれるがこれは生存本能としては基本的にすべての動物(誤解を恐れずにいえば植物も)が生まれながらにもっているものである。しかし人間は現実に働きかける現実的実践のみならず概念化能力を駆使した理論的実践をも行なっているし、ある程度の年齢で自己意識を獲得するから人間の意識は単に動物的な意識にとどまってはいないし欲望や意欲も再生産される(人間の自由な意識活動は自己意識の賜物である)。
注意も発見も現実への働きかけ(現実的実践)を促す能動的な意識活動の一つのあり方であり、理論的実践との交互関係(相互浸透)によってこれらも発展する。理論的実践(思考)は観念的自己分裂過程の一つの形態である。
同上 p.49~
認識は感覚を出発点としてのぼるだけではない。反対に感覚へとくだることも絶えず行われているから、のぼるとくだるという対立した過程を統一してとらえることが必要になってくる。感覚をみがくとか感覚を訓練するとかいう問題は、くだる過程の問題でもあって、受動的な単なる経験のくりかえしと考えてはならない。
対象のありかたが変化したり、われわれの現実的な位置が変化し感覚器官のありかたが変化したりすれば、感覚はつぎつぎと変化していく。感覚はその意味で現実の世界のありかたの変化を鋭敏に感じとることができるが、さきの感覚はもはやつぎの瞬間には存在しなくなってしまう。実践は感覚の変化だけでなく維持をも要求するが、脳は対象から与えられた感性的な像を記憶にとどめることによってこの矛盾した要求にこたえるのである。感覚をそのまま再生することは不可能であるが、ある程度の具体性を持たせて再生することは可能であり、この再生は単にかつての経験を追想するにとどまらず、認識の発展にとって一つの段階をつくり出すことにもなる。
対象の感性的なありかたはたしかに千差万別であり、個々の人間はそれぞれ感性的に異ったかたちを持っているにはちがいないが、すこしはなれた位置から大きなつかみかたをすれば、それらの個性を超えてそれなりに共通したものをとらえることができる。同じことが、個々の馬についてもいえる。それゆえ、人間と馬の頭のシルエットを見せられれば、これが何であれは何だと、大多数の人びとが正しく指摘できるわけである。ディーツゲンのことばをかりるなら、人間は感覚から「一般的なものを生み出すような認識」へとのぼっていくのではあるが、特殊性を捨象してしまった一般的な認識ではなく、まだ感性的な特殊性をある程度伴ったままでの一般的な認識も、いわば過渡的な段階としてそれなりの有用性を持っており、実践的にいろいろな役割を果しているのである。これが表象である。
知覚表象*とよばれる対象認識は現前の対象からの物質的・物理的刺戟を感覚器官がとらえそれが脳においてただちに映像化されたものであり視覚映像にせよ聴覚映像にせよ私たちにとって非常にリアルな映像である。知覚表象は知覚とも感覚表象ともよばれるが日常用語としては感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・体性感覚等)という語が使われている。これに対し表象(represent)は上で三浦が書いているように記憶から再現された映像である。表象は知覚表象から抽象されたものでありその像は知覚表象ほど鮮明ではない。しかしそれは映像であると同時に概念的な把握をともなっている。それゆえ三浦がいうように表象は特殊的・感性的な認識と一般的・非感性的・概念的な認識とを同時に備えた対象認識である。言語についての記事で私が個別概念とよんでいるのはこの表象のことである。「個別」に特殊的・感性的な側面を、「概念」に一般的・非感性的な側面を受け持たせてそうよんでいるわけである(「個別」という語には特殊と普遍との統一という意味合いもある)。表象は私たちが想像的な意識活動を行なっているときに脳裏に浮かんでいる像であり、夢を見ているときにも私たちは表象を見ている。比喩的な意味で「夢」という語が使われる場合も私たちはなんらかの表象を心の内に思い描いている。
* 知覚表象(知覚)は高次の連合野において感覚が分析・統合されて形成される。知覚表象は個別的・特殊的な対象認識ではあるが通常は記憶からのフィードバックを受けて同時に概念的な把握も伴っている。それゆえ概念的な把握を伴っているという意味を込めたいときには知覚表象という語ではなく認知あるいは対象認知という語が使われる。
同上 p.50~
表象も単純なものから複雑なものへと発展していく。窃盗・強盗・殺人など、犯罪のありかたは千差万別であって、さらに窃盗の常習犯といわれる者もそれぞれ異なった犯罪を行っているにはちがいないが、大きなつかみかたをすれば個々の犯罪のありかたを超えた共通した特徴をとらえることができる。これを警察では「手口」とよんでいるが、これも一つの表象としての認識である。新しい犯罪が行われたとき、その感性的なありかたの特徴をつかみ、前科者の「手口」をカードでしらべてこれと一致する者をえらび出し、これらに注意してついに犯人を発見したということも、しばしば起る事実であって、表象の有用性の一例をここに見ることができる。
表象は感覚からの抽象としてのぼるかたちをとって成立するが、「手口」のようにつぎに一転してくだるかたちをとって感覚における発見のための基礎となり、能動的な役割を果すことも多い(1)。
家や機械などの設計のように、はじめ抽象的なありかたを思い浮べ、それを次第に具体化していくときにも、その過渡的な段階として表象を持ちこんであてはめていくことがしばしば行われる。つぎの図はトランシーヴァーの初歩的なものの設計であって、見るように(1)がもっとも抽象的であり、(2)から(3)へと順次に具体的になっている。技術者がこれを設計するときには、まず(1)を頭の中に描いて、それから(2)に具体化する。彼が自分でこの装置を製作しようとするならば、(2)のT1T2(変圧器1, 変圧器2を指している――引用者)はどこの会社の何という製品を使おうとか、このくらいのケースをつくってこのように部分品をおさめようとか、完成した装置のありかたにまで先走って具体化して考えていく。けれども、他の人びとにこの設計を教えてつくらせようとするならば、(2)だけではさらに具体化して考えることのできない人びとのために、(3)をつけ加えることが効果的である。(2)を配線図、(3)を実体配線図とよぶ。(2)と(3)を比較すれば、(2)の記号に相当するものを感性的なかたちでつかむことができ、どんな部分品を使って相互をどのようにむすびつけるかを、ヨリ具体的に知ることができる。(3)では部分品が感性的なかたちで示されているが、それは特定の部分品の忠実な模写ではない。各会社の製品は千差万別であって、ここではそれらに共通したものを大きくつかんでいるにすぎない。それゆえ実際に製作するときの部分品のかたちは、この(3)に示されているものと異ってくるかも知れないが、それは(3)の筆者もそして読者も暗黙のうちに了解ずみのことである。それゆえ(3)の部分品のとらえかたは、現実に使われる部分品の感性的な特殊性をある程度保持することによって、具体的な理解に役立てながら、しかも特定の製品ではなく一般的な種類としてとりあげたものだということになる。それゆえこれは表象である(「表象」というより「表象的なもの」という方が適切かもしれない――引用者)。
(1) 感性的認識から理性的認識への発展であるとか、理論と実践との統一であるとかいう考えかたは、認識の一面をとらえたものであるから、その把握が正当であるとはいってもこれだけをバカの一つ覚えでふりまわすと誤謬に転化しかねない。認識のそれぞれの段階はそれなりに能動性を持ち、実践においてはそれぞれ独自の役割を果すことを具体的にとらえなければならない。
人間の意識活動の中で表象の果たす役割は多様でありかつ重要である。表象なくして人間の意識活動はありえない。人間の理論的実践が概念的把握のもとで行われることは誰もが指摘しているが、しかしながら非感性的な抽象的概念はつかみどころがなく思考においても、その他各種の想像的的活動においても感性的な手がかりを持ちながら一般的・非感性的・概念的な性格をも合わせ持った表象がその主役を演じていることを指摘する者は少ない。哲学者が純粋な非感性的な概念のみを概念として認め、表象を概念よりもレベルの低い抽象像であるとして個別概念を概念として認めていないこともその原因の一つであろうが、何よりも現実に即して人間の頭の中で起きている現象を対象との結びつき・対象から概念形成に至る過程においてとらえないところにその主な原因があると私は考える。実際のところ表象が非感性的・概念的な把握を伴っていることさえも認めない者が多いのである。そういう人々は自分の頭の中で起こっていることを対象との結びつきで考えたこともないのであろう。
表象あるいは表象的なものが抽象的・非感性的なものから具体的なものへと下る現実的実践の中間過程で重要な役割を果していることは上の三浦の指摘でも明らかであるが、私の仕事に即していえばその逆の過程つまり現実の対象から上っていって概念的な把握をするに至る理論的実践過程においても具体的・感性的対象と抽象的・非感性的な概念とを媒介する中間的な抽象物として表象の果たす役割は大きい。子どもは概念化能力が未熟であるから抽象的な思考に慣れておらず抽象的な概念を直観的に把握するのに苦労するのであるが、そのときに表象的な性格を持ったシェーマという教具が子どもの教育に果たす役割の重要性を無視することはできない。シェーマはそれを用いることによって子どもの認識活動において表象を喚起しそこから概念をつかみとるための橋渡しをするものであるから、感性的であると同時に抽象的な性格を有するもの・概念の構造が目に見えるものをシェーマとして用いることが要求される。水道方式におけるタイルはそのような両面的な性格を持つシェーマとして量や数を概念的に把握しそれらの持つ構造をつかみ取るために大きな役割を果たしている*。またシェーマにもその抽象度にそれぞれ差があり、それらを段階的に導入することによって子どもの理解段階に応じた適切な指導が可能になる。
* かつての教科書は量や数の導入にオハジキやどんぐりといった具体物を教具として使っていたが、最近では抽象度の高いタイルを使う教科書が主流になっている。概念化能力の未発達な幼児期にオハジキやどんぐりのような抽象度の低いものを使うのは理由のあることであり、小学一年生の教科書で手始めにウサギや猫などの動物の絵を用いるのもそれなりに意味のあることであるが、数概念を身につけるにはやはりタイルが効果的である。小学一年生は類別を難なくやってのける程度の概念化能力をすでに獲得しているし、分類する能力もある程度獲得している。具体的なモノを教具として用いるとその特殊性の側面にとらわれて抽象的な側面をとらえにくい。算数の苦手な子どもは具体物のもつ特殊性の側面にとらわれてしまっていることが多いのであるから、抽象的・概念的な把握がしやすいように適切な教具を工夫する必要もそこから生じてくる。タイルは極めて抽象度の高いものであるが、面積という量的な側面を保存しており、一つずつ分離していながら縦方向にも横方向にも自由に連結できるという特長をもっているがゆえに、数や量の概念をとらえやすいし、連結・分割を通じて数や量が持っている構造を容易に直観することができるのである。
同上 p.52~
(1)を具体化すれば必ず(2)(3)になるかといえば、そうではない。(1)から出発しても、(2)(3)と異った部分品を使って異った配線図をつくることができるし、さらに多くの部分品を加えてヨリ複雑な配線図にすることもできる。さらに(2)(3)で予想した性能が、実際に製作すれば必ずえられるかといえば、そうではない。部分品の質が悪ければ性能が予想とくいちがったものになるし、時にはまったく動作しないことも起りうるのである。それゆえ、これらは異った段階として区別するだけでなく、相対的に独立したもの、一面ではむすびついているが一面ではむすびついていないもの、すなわち一つの矛盾として理解しなければならない。このような認識の立体的な構造の持つそれぞれの面での限界を、正しく扱わなければ誤謬におちいることになる。
以上は一つの装置の設計をその表現において検討したわけであるが、このような認識の発展は装置の設計だけに見られるものではなく、われわれの生活の設計すべてに共通して見られるものである(2)。たとえば若い男女が「われわれは結婚しよう」と意思を統一して、婚約が成立したときは、(1)の段階に相当する抽象的な生活の設計でしかない。それがやがて、今年の冬ごろ式をあげるか明年の春にするか、誰と誰を招くか、……(2)の段階にまで具体化されていく。さらに服装をどうするか、花嫁は洋装かそれとも和装か、料理は……、……式の時刻はどうきめるかなど、(3)のかたちに表象化することを通じて、はじめて実現するわけである。(2)の段階では意見が一致しても(3)の段階では意見がくいちがうこともしばしばであって、そこに相対的な独立を見ることができる。また契約とか協定とかいわれるものも、仕事についての一種の設計である。……さらに政治も、これまた国民の生活の設計を行うことであって、まず(1)の段階に相当する法律とよばれる抽象的な規定が生れ、これが政策とよばれる(2)から(3)の段階へと具体化していき、実現するのである。これは支配者の側から生活の設計を押しつけるのであり、法律としては国民全体の福祉に貢献するような美辞麗句がならべられていても、現実の政治はそれと似ても似つかぬ結果をもたらしているとすれば、それはちょうど装置の設計として(1)がどんなにすぐれていても、(2)から(3)が不合理な接続になっていたり不適当あるいは不良な部分品を使ったりして、できあがった装置が動作しないようなものである。
(2) 抽象から具体へという認識の過程も認識の一面であるから、これをことばの上で実践にむすびつけたとしても認識の弁証法的性格を明らかにしたことにはならないのである。抽象から具体への過程において実践にむすびつくこの過程の検討が、マルクス主義者の認識論に欠けていることを反省する必要がある。設計論なしの実践論では、動物的行為と人間の実践との区別を具体的に展開することができなくなる。
機器の設計から実際に機器を製造するまで・婚約から結婚式を挙げるまで・法律から政策の実現に至るまでといった三浦の挙げた具体例をみると、抽象的設計の段階から具体的・現実的な実現段階に至る過程において中間的な段階・表象的な段階が重要な役割を果たしていることが分かる。人間の認識においてもそれらの各段階に対応する段階が存在しており、抽象的な理論的実践段階から現実的実践段階に至る過程の中間段階としてやはり表象(表象的実践)が重要な役割を果している。人間の認識は抽象から一気に具体へと進むように見えても実際は表象段階を媒介して進んでいる。逆に具体から抽象へと進む場合にもやはり中間的な表象段階に媒介される形で進む。
そして抽象→表象→具体、あるいは具体→表象→抽象といった下り、上りの実践は一直線に進むとは限らない。抽象→表象→具体の下る過程では表象的実践の影響を受けて抽象が修整されたり、具体的実践の手前で現実的な状況に対応するために表象が修整されたりといったことがしばしば起こる。このように、下る過程では下る向きに浸透が生じるだけでなく上る形で浸透が生じることもある。これは具体→表象→抽象の上る過程でも同じであり、上る一方だけでなく下ることによる浸透も生じるのがふつうなのである。このような相互浸透によって認識も現実もダイナミックに変化せざるをえないのである。
科学の実験においても同様である。仮説という抽象的段階から実験という具体的段階に至る前に科学者は思考実験とか机上実験あるいは仮想実験とかとよばれる表象的な段階を踏む。机上実験によって仮説が修正されたり、現実のさまざまな制約を受けて机上実験の方法を変更したりといったことはやはりしばしば起こることである。このことは科学に限らず何かを作る場合に私たちがしばしば経験することでもある。今晩の献立をどうしようかと考え、何をつくるかを決定し頭の中で手順をおさらいしていざ料理しようと冷蔵庫の中を覗いたら必要な材料がなかったので代わりの材料を使うことにしたりすることも多い。このときには手順が変ってしまうこともあるし、最初の計画を変えなければならなくなることもある。
同上 p.53~
表象は「手口」カードのように具体から抽象への過渡的な段階で、あるいは実体配線図のように抽象から具体への過渡的な段階で、成立し表現し役立てられるとは限らない。認識の対象が表象の形成を要求し、それにとどまる場合もある。藤田まことの例が示すように、顔の長い俳優は、観客が表象において馬と二重写しにして滑稽感を持つところから、喜劇俳優にふさわしい(3)。さらに経済学において商品に値段をつけるという事実を分析してみるならば、これも表象の形式なのである。商品は鉄であろうと小麦であろうと、物体として感性的な存在であり、これと交換される貨幣も金であろうと銀であろうと、物体として感性的な存在である。交換は等しい価値における交換であるから、商品と貨幣は物体としての具体的なありかたにおいて、その特殊性においてむすびつけてとりあげられると同時に、両者にふくまれている価値において、その共通した一般性において等しくなるようにとりあげなければならない。鉄や小麦は現実に存在するが、貨幣としての金は観念的にこれらの商品に対応するものとしてその量を観念的に思いうかべながら、現実の商品の価値と観念的な金の価値とが等しくなるときの金の量を決定して、ここから価格をつけるのである。それゆえ、価格の背後には、物体としての特殊性と価値としての一般性とを統一した認識、すなわち表象が形成されていることになる(4)。
「商品としての商品は交換価値である。それは一の価格を持つ。交換価値と価格とのかかる区別においては、商品にふくまれている特殊的・個人的労働は、外化の過程によってはじめて、その反対者である、個性を失った・抽象的で一般的な・そしてこの形態においてのみ社会的な・労働として、すなわち貨幣として表示されねばならぬ、ということが現われている。ところで、個人的労働がかようにして貨幣として自らを表示しうるか否かは、偶然のことに見える。だから価格においては、商品の交換価値は、ただ観念的にのみ商品と異る実存を受けとるのであり、商品にふくまれている労働の二重の定有は、ただ異った表現様式としてのみ実存するのである。したがってまた他方において、一般的労働時間の物象化である金は、ただ表象された価値尺度としてのみ現実の商品に対応しているのであるけれども、しかし価格としての交換価値の・あるいは価値尺度としての金の・定有のうちには、キラキラ光る金と引換えに商品が外化される必要と商品が譲渡されえない可能性とが、――簡単にいえば生産物が商品であるということから・あるいは、私的個人の特殊的労働が社会的効果を持つためには自らをその正反対者として、抽象的・一般的労働として、表示せねばならぬということから・生ずるすべての矛盾が、潜在的にふくまれている。……
金が価値尺度となり、交換価値が価格となった過程を前提すれば、すべての商品は、それらの価格においては、種々の大いさの表象された金分量であるにすぎない。それらのものは、金という同一物のかかる種々なる分量として、相互に等しいとされ、比較され、かつ度量されるのであって、そこでそれらのものを度量単位としての一定分量の金に関係させる必要が、技術的に生じてくる。」(マルクス『経済学批判』)
「諸商品の価格または貨幣形態は、それらの価値形態一般と同じように、それらの感覚的・実在的な物体形態から区別された、つまりただ観念的または表象的な形態である。鉄・亜麻布・小麦などの価値は、目に見えないけれども、これらの物それ自体のうちに実存する。それは、それらの物の金との同等性、金に対する一の連関――それはいわば、それらの物の頭の中でのみ幽霊のように現われる――によって、表象される。だから、諸商品の保護者は、それらの諸価格を外界に伝えるためには、彼の舌で諸商品の代弁をするか、諸商品に紙札をぶら下げるか、しなければならない。金によっての諸商品価値の表現は観念的なものであるから、この処置のためには、やはりただ表象的または観念的な金が充用されうる。諸商品の保護者が誰でも知っているように、たとえ彼が自分の諸商品の価値に価格の形態または表象的な金形態を与えても、彼はまだそれらを金化したのではなく、また、幾百万という諸商品価値を金で評価するためにも、彼は現実の金の一片も要しない。だから、価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ表象的または観念的な貨幣として役立つのである。」(マルクス『資本論』)(強調は原文)
紙幣の上に印刷されている金額は、金の一定分量表象するところからみちびかれたものであり、紙幣それ自体として価値を持ってはいないが価値章票(Wertzeichen)として流通している。
(3) 表象論が欠けていると、アダ名をつけるという事実の認識論的な説明ができない。
(4) 一部のマルクス主義者は、経済学を物質的な生活関係の理論的な把握であると考え、精神的な生活過程あるいは上部構造からまったく切りはなして展開されているかのように思いこんでいるらしい。これは大きな誤解である。商品は精神的な生活過程あるいは上部構造とのむすびつきなしには、価格を持つことも交換されることもできないのであって、物質的な生活関係を理論的にとりあげて叙述する場合にもそれらに触れずにはすまないことを知るべきである。
物が表象的な形態でそこに存在(定在)しているということ(=定有)の意味は、その物を見る人間にある特定のイメージ(表象)を喚起させるものとしてその物がそこに存在しているということである。そしてそのイメージは単に特定のイメージであるばかりでなくそこに一定の一般的なもの・概念的なものを伴っているということも含意している。藤田まことの顔はそれを見る観客に馬という特定の種類の動物をイメージさせるという意味で表象的な存在なのである。あだ名はその人物のあり方がある特定の種類のもののイメージを喚起させるからこそその人物につけられるのである。
生産物は物としては生産者個人が私的特殊的な労働(肉体的・精神的労働)を注いで創り出した――肉体的・精神的労働を外化した――ものである。その意味で生産物はそのもの固有の使用価値(有用性)をもっている。しかし流通過程に入り込んだ商品としての生産物は価格を付けられることによって表象的な存在になるのである。売手は価格の背後にまだ実現されていない貨幣のイメージ(表象)を思い浮べるのであるが、その貨幣の表象の内にはその商品の生産において投入された一般的抽象的労働と等価量の金、交換価値としての金が観念されている。しかしこの貨幣・金の表象はいまだ果たされていない――表象としてしか存在していない――観念的な存在なのである。
同上 p.56
表象のありかたとその果している役割は、以上にとどまらないのであるが、このような重要な認識の形態が従来の認識論においては軽視され、あるいは無視されている理由はどこに求められるか? まず第一に、表象それ自体が矛盾した不明瞭な存在だというところにある。感性的認識か理性的認識か、あれかこれかと割り切ってしまう形而上学的な考えかたをすると、表象はいわば中間的な存在であるから、どちらにも入らない中途半端なものは切りすてようということになりかねない。第二は、個々の単純な表象を断片的に扱ったところにある。断片的に他から切りはなしてとりあげるかぎり、感覚にくらべて感性的なものを相当多く失ったその意味で抽象的な認識であるというにとどまってしまう。表象として複雑な発展したありかたを、認識のダイナミックな過程に位置づけてとりあげなければ、その有用性をとらえることができない。第三は、実践との関係で理解しようとしなかったところにある。科学の応用という実践の過程を具体的に検討してみるだけでも、表象の果す役割の重要性はほぼ納得できるのであるが、哲学者もそして心理学者も、認識の発展の中に構造的に実践をふくめてとりあげる姿勢を欠いていたのであった。
不明瞭な存在を研究することの意義は、すぐれた思想家によってすでに指摘されたところである。エンゲルスはフーリエの著書『産業的社会的新世界』についてのメモで、つぎのことばに注目し抜き書きしている。
「現代の学者たちが自然の研究においていたるところで失敗しているゆえんのものは、例外もしくは過渡の理論、不明瞭なものに関する理論を無視していることによる(不明瞭なものの概念、木瓜(ぼけ)、油桃(あぶらもも=ネクタリン)、鰻、蝙蝠(こうもり)等々)(5)」
(5) このメモは一九二五年のリヤザノフ版『自然弁証法』に収録されていたのであるが、一九四一年M・E・L研究所以降は削除され、『反デューリング論』のための準備労作のほうへほうりこまれている。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)
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