〔注記〕 原著の傍点は読点または句点のように表記している。
三浦つとむ『>認識と言語の理論 第一部』(勁草書房) p.57~
日本では、昔から「文盲」とか「あきめくら」とかいうことばを使って来たが、このことばの内容に深い注意を払った者はいないようである。われわれが日常生活の中で何げなく使っていることばの中に、「有難迷惑」とか「痛しかゆし」とか、二つの対立する意味を持つ語をむすびつけて合成した単語、すなわち客観的な矛盾を反映・表現した単語が存在する事実は、認識論的に見て興味ある問題だといわなければならない。「あきめくら」もこの種のことばである。これは、暗黙のうちに人間が二種類の目を持つことを認めたものであり、その一つの目は「あき」ながらも他の目は「めくら」だというとらえかたから、このことばが生れて来たわけである。
紙の上に書かれた言語表現を、目で見ることはできるのだが、意味をとらえることのできない人びとが「文盲」である。時枝の用語を使うなら、観察的立場での目は「あき」ながらも主体的立場での目は「めくら」だという場合が「あきめくら」なのである。私のいいかたをすれば、現実的な自己の目は見えるが、観念的な自己の目は盲目なのである。この、観念的な自己分裂を二重の目としてとらえることは、日本ばかりでなく外国でも行われている。クリスティの探偵小説に登場するエルキュール・ポアロは、「頭の中の目は実際の目よりよく見えますよ」と語っているが、現実的な自己の視野の限界が観念的な自己によって突破されること、および観念的な自己がその「目」によって空間的・時間的にいかに遠く広く現実の世界をとらえていくかを、端的に表現したものといってよい。科学者も探偵も謎を解くという点では共通している。その対象は直接見ることのできない原子核の内部やガン細胞の内部であったり、すでに物的証拠の抹殺された殺人事件であったりして、その空間的時間的制約をのりこえて真理をとらえるだけの鋭い「頭の中の目」を持つことが欠くことのできぬ条件になる。
子どもの教育は、子どもたちの「頭の中の目」の視力を高めることである。小学校の教師が、理科教育であるいは文学教育で努力しているのも、自然の法則を見ぬいたり作者の世界を作者とともにながめたりする「頭の中の目」を育てることである。いま小学校の教師の中に、科学教育をこの「頭の中の目」で見る能力を身につけさせる過程として、ダイナミックにとらえながら、さらにその中における表象の役割を正しく位置づけようとする動きがあらわれていることは、教育学の建設という観点からも注目すべきものといわなければならない。
「科学は、事物・現象の中にひそむコトワリ、すなわち法則性の現存を知るとともに、そこから法則をみちびきだし認識するという仕事をになっている。
法則そのものは目に見えるものではない。私たちの頭脳活動によって認識するものであるから、『頭の中の目でみる』といいかえたほうがよいかもしれない。
私たちに直接見える=ふれるのは、ある形や動きをもったものであり、感覚器官によってとらえられるものである。
今、かりに、前者を『裏』の世界、後者を『表』の世界といっておくことにしよう。むろん両者は密接にかかわりをもってはいるが、質的にちがった世界のものである。
このことは、ある種の言語の世界においてもいいうる。『サルモ木カラオチル』というコトワザにおいて、“サルが木からおちるなんてあるのかな。サルスベリの木ならつるつるしているからおっこちるかも知れないな” などといっている段階の子どもは、このコトワザの表の世界のみを見ているのであり、コトワザなるものをとらまえていない証拠といってもいい。それを “その道ですぐれている人でも時には失敗することもある” というぐあいに受けとめている子どもは、裏の世界(→法則性・法則の世界→意味の世界)をつかんでいる子どもであり、同時に表の世界をも理解している証左とみられよう。ここに到着することなしに、ほんとうのコトワザの行使・駆使はありえない。
このように、裏の世界を把握しうる能力というものは、このような過程をへて形成されてくるものである、ここにコトワザのもつ論理=表象論をより深く解明するひとつの手がかり、ないしはカギがあるといってよいようである。
そのことはまた、『法則の認識』という科学の仕事に関係する大きな問題を内包しているといってもよいようである。」(庄司和晃『「コトワザ」以前の段階=「ナゾナゾ」の持つ論理・第一段階の構造』(1))
この子どもの「頭の中の目」は、子どもが自覚すると否とにかかわらず、現実ととりくんで能動的に現実をとらえようとするところに育っていくのであるから、その過程での両親はじめ家族の役割をも検討してみなければならない。
(1) 以下とりあげる庄司の諸論文は、著者が自らプリントして少数の人びとに配ったものである。著者は成城学園初等学校の教諭で、仮説実験授業研究会の中心メンバーの一人として科学教育研究活動をすすめている。
「あきめくら」を「文盲」と同じ意味の語として用いている三浦の表現に違和感を覚えるのは世代の差であろうか、あるいは育った環境の違いなのであろうか。私は「文盲」の意味で「あきめくら」という語を使うことがまったくない。「すぐそこに目当てのものがあるにもかかわらずそのことに気づかない」という状態を私は「あきめくら」という語で表現する。目を開けているにもかかわらずものが見えていないからである。このあたりも表現された言語の意味を理解するには主体的立場において行わなければならないという時枝の指摘の正しさを示している*。
* 「あきめくら」や「文盲」という表現を「差別語」だとして排除するのが近頃の一般的風潮である。しかし、時枝がいうように表現の意味を正しく読み取るには主体的立場においてすなわち表現者の表現過程を観念的に追体験することによってこれを行なわなければならない。つまり表現された語の意味は個別の表現そのものに即して理解すべきであって、差別表現**か否かはそこに表現者自身の差別感情が含まれているか否かで判断すべきものである。差別感情を込めた表現は批判すべきであるがそうでない表現にまでめくじらを立てるのは愚かなことであると私は思う(最初から侮蔑の意義を含んでいる「チャンコロ」や「チョン」、"Jap"は 侮蔑語である)。
私は中国のことを「支那」とは呼ばないがそれは「支那」という語を用いている人たちのうちの多くが差別や侮蔑の感情を込めて敢えてこの語を用いているからである(「支那」それ自体にはもともと差別・侮蔑の意味合いは含まれていない。高齢者の中には差別や侮蔑の感情を込めずに使っている人もいるがこのような場合は侮蔑表現とはいえない)。また一般に使われている「東シナ海(東支那海)」とか「シナチク(支那竹)」ということばにも侮蔑の意味合いは含まれていないし、これらを使っている人々の大多数は「太平洋」とか「チャーシュー」といったことばと同類のものという認識でこれらのことばを使っているのであってそこには侮蔑感情は存在していない(中には侮蔑の意味を込めて意図的に「支那竹」を使う人もいるかもしれないがそれは少数派である)。「東シナ海」には代替語がない。その必要がないからである。このこと自体「シナ」が侮蔑語ではない証拠である。したがって侮蔑感情を込めて意図的に「支那」という語を使う人たちが自己の侮蔑感情を隠蔽し自己の表現を正当化するために「東シナ海」や「シナチク」の例を持ち出してくるのは論理的に間違っている。
最近は「シナチク」といっても通じないことが多い。私自身も知らず知らずのうちに「メンマ」ということばを使っている。私が子どもの頃は「支那そば」という語が日常語であったが最近は「ラーメン」「中華そば」ということばにとって代わられた。しかし私は「支那そば」という語に「ラーメン」にはない懐かしい香りやスープの味、ちぢれ麺の触感を覚える。私にとって「支那そば」は子どもの頃に鳥ガラを煮出して作ってくれた母の支那そばなのである。
言語規範は規範一般と同様に規範意識における対象認識であるから社会的な意味でも個人的な意味でも歴史性・イデオロギー性をもっている。しかし言語規範の持つイデオロギー性と個々の言語表現の持つイデオロギー性とは区別して考えなければならない。
〔2011.03.01追記〕** 何の規定もなしに "差別語" と表記していた部分を青字の "差別表現" あるいは "侮蔑表現"・"侮蔑語" に改めた。
閑話休題。
表現された文字言語の内容を理解するには語の文字列の形を見るだけではなく、文字列を一定の種類の形象(字韻)としてとらえ、頭の中にある言語規範**に照らしてその意義(語の概念)をそれに結びつける必要があり、さらにその概念から過去の経験によって記憶された表象を喚起しそれ相応の個別概念として思い描くという段階を踏まなければならない。つまり文字言語を理解するためには肉体的な目だけでなく観念的な自己の目(「頭の中の目」)が必要なのである。文字言語を理解できない人(文盲)という意味で使われる「あきめくら」という語は、肉体的な目で文字の形は見えるけれども言語規範の獲得ができていないために観念的追体験ができず――「頭の中の目」で見ることができず、それゆえ言語の意味を理解することができないという状態を端的に表している。
庄司は言語表現の一つであることわざを取り上げて、ことわざは「頭の中の目」で見るものだと喝破している。いわれてみれば簡単であるが私たちはことわざの意味する「裏」の世界つまり一般的なことがらのもつ法則性をとらえそこから教訓を学びとっているのである。「表」の世界自体は何の変哲もないよくある現象であり、ちょっと注意を払うにしてもふつうはそのまま見過ごしてしまうようなことがらである。しかしごく日常的な現象の裏に現象一般に通じる真理が隠れていることをことわざは教えてくれる(庄司の「裏」という比喩は秀逸である)。ことわざは象徴(表象)を用いた一種の比喩であるが、比喩とよばれる表現はこのような「表の世界/裏の世界」という論理構造をもっている(具体的なものの裏に一般的なものが潜んでいるという構造性をとらえたこの認識はイメージスキーマとも呼ばれる)。言語表現自体が個別概念(特殊/普遍)という二重性を隠しもっているのだが、ことわざや比喩は個別概念の特殊・個別の側面それ自体の「裏」にもう一度普遍・一般を読み取らせるという二重の二重性をもっている。「頭の中の目」で見る訓練のできていない子どもがことわざの「表」の世界しかとらえられず「裏」の世界に思い至らないのも無理からぬことである。ことわざの存在は人間の認識(表象)が個別の事柄を特殊と普遍(一般)という構造においてつねに二重にとらえている――概念的にとらえている――ことの一つの例である。ことわざの目は科学の目に至る一つ前の段階なのである。
** 私自身の頭の中を観察する限り文字言語の受容過程では文字言語の規範だけでなく音声言語の規範もそこに関与している。これは文字言語の習得過程において音読・黙読という音声言語が関与する訓練過程が重要な位置を占めていることから文字言語の規範は字韻から音韻(音声言語の規範)への橋渡しをしていると考えられるからである。ただし、文字列の形象(字韻)に直ちに語の概念が結びつくことも多い。象形文字である漢字では個々の文字の字韻と字の概念が直接結びついているので日本語でも漢字語においてその傾向が大きいと思われる。読めないけれど意味(意義)は分かるということは若い頃に私もよく経験した。また、それとは逆に音声言語を聞いて文字形象(字韻)が頭に浮かぶこともある(同音異義語の場合は特にそうである)。そう考えると音声言語の規範と文字言語の規範とは相互に浸透し合って結びついておりそれが一つの言語規範として統一されているというのが本当のところかも知れない。
同上 p.60~
注意・発見という感覚的な能動性は、自然成長的に身につくだけでなく、周囲の人びとによっても育てられていく。親が子どもに「イナイイナイ……バァ」といって、顔をかくしたりまた顔を出したりする遊びをして見せる。家族が自分の前にすわると、テレビの映像がかくれてしまうが、身体を横にどけるとまた見えてくる。立って部屋から出ていくと、姿が消えてしまうが、声を出してよぶとまた姿があらわれてくる。箱を持って来てオモチャや道具を入れ、上からふたをすると、入れたものはみんな見えなくなってしまうが、ふたをとるとまた見えてくる。このような経験は、目で見えないところに存在するものがあるのだということを、くりかえしくりかえし教えているわけであって、そこに見えないところに存在するものを予想し、目に見えているありかたとむすびつけて現実の世界をヨリひろくとらえていく活動が、すすんでいくことになる。家族が部屋から姿を消したりあらわしたりするのは、この部屋のむこうにさらに部屋があってそこへ行ったり来たりしているからだと経験に教われば、道をあるいている人が急に姿を消したり突然自動車が姿をあらわしたりしたときにも、そこにさらに道があり横丁があるのではないかと予想するようになる。これはまた、家族が死んで現実の世界から姿を消したときに「パパは遠いところへいらっしゃったのよ」と目に見えないところでやはり元気に生活しているかのような説明が、子どもに対して説得力を持つことにもなるのである。
この子どもの予想活動は、「このむこうを向いている人は誰か?」「この箱の中には何があるか?」「道のあの家の横から自動車があらわれたがあそこはどうなっているのか?」と、自分に問いかけて自分で答えるというかたちにもなっていく。他の人間との間で行う当てっこという遊びは、この自問自答の成長の上に成立するのである。
予想とよばれる認識は、どんなに素朴幼稚であろうとも、「頭の中の目」が開きはじめたことを意味するのであり、まだよく見えぬ目を見はって能動的な冒険旅行へふみ出したのであるから、それはそれなりに位置づけ評価する必要がある。
縁側の障子からシッポがあらわれているのを見て、そのかげに猫がいることを予想するのは、現実の目と「頭の中の目」とで一匹の猫を半分づつ見ていることになるけれども、これはすでに見えない世界へ一歩ふみ出したものである。このような、経験を重ね十分信用できる手がかりを与えられている場合の予想は、ほとんど正しいことがわかるし、予想に自信を与えることになる。しかし手がかりがほとんど与えられていないときには、いわばあてずっぽの予想をしなければならないから、認識活動としては大冒険である。箱の中に何か入っていて振るとカタカタと音がするとか、お客が何かふろしきに包んで持って来たとかいう場合、経験をふりかえりそのものの大きさを考えてその大冒険をあえてやってのけている(2)。たとえ予想が失敗しても、別に損害をこうむるわけではないからである。お客の持って来たのはケーキだろうと予想して、お客が帰ればお母さんがくれると期待していたところ、予想に反して持って来たのは石鹸だとわかっても、ぬかよろこびしたとガッカリするだけのことで現実に損したわけではない。そしてこの予想の失敗は、つぎのときの予想を成功させることになる。去年の年末にあのお客が持って来たお歳暮は石鹸だったから、今年もおそらくそんなものだろうという、前よりも確実性のある予想が立てられるからである。「頭の中の目」の視力は、前の失敗を通じて一層高まったということになる。
庄司は自ら試みている仮説実験授業の経験を論理的に反省しながら、手がかりも根拠もほとんどないようなもっとも素朴な予想、言語で表現するならば
「タブンコウデアロウ」
「オソラクコウナルニチガイナイ」
「コウデハナカロウカ」
「何トナクコウナルヨウナキガスル」
「キットコウナルカモ知レナイ」
などの直観的な予想を、予想の「第一段階」と見て、つぎのように位置づけ評価した。
「ここには、アテズッポ的要素のもの、いわゆるカケ的なものも含むことになる。また、はっきりとした予想という形で表明することはできないが、『そこ』にはきっと何かがあるにちがいない、という予想以前の予想にくらいするのもここにはいることになる。いずれにしても、一歩でてみる、あるいは数歩でてみるという論理のあることだけはたしかである。この論理は、この段階のものとしてぜひとも認めなければならないし、ここにちゃんとした正当な地位を与えておく必要がある。いくら思考の発達の教育とか科学的な思考の教育だからといって、かならずリクツがなければならないというクソ合理主義は捨てなければならない。現実のつきつけてくる問題の解決にあたってはいくらでもこういうばあいがあるからである。それに理路整然としたものが常に勝つ、常に真実であるという保障はどこにもない。リクツを通してもダメだ、失敗した、というばあいだっていくらもある。科学的な認識のキメテは、実験=実践にのみ存するのである。だから、リクツなしの『何トナク』も一段階のものとして当然認めなければならない。このような意味において、リクツがたたなくても、ちっともおびえることはいらないし、『カモ知レナイ』という自分の気持や『コウカナ』という自身の直観を尊重するようにとり運ぶ必要があるわけである。」(庄司和晃『仮説実験授業の論理的構造』)(強調は原文)
(2) われわれはこれを大人の立場から、現実的な自己のありかたと比較して考えがちである。子どものあてずっぽの予想も、現実の世界に問いかけるという点で大冒険であることを無視すると、子どもの自主性を育てるとか主体性を持たせるとかいう問題も正しい解答を見出すことができなくなる。この大冒険をそれなりに評価し尊重すべきであって、いじけさせてはならない。
観念的自己分裂の能力つまり想像力は生得的な能力ではなく他者との交通を通じて経験的に獲得する社会的な能力である。つまりこの能力は学習によって習得されるものであるから親や教師はそのことに留意して子どもの教育にあたる必要がある。したがって庄司や三浦が指摘しているように予想という科学的(論理的)精神活動も子どもの認識の個々の発展段階のそれぞれについてその意味を探り適切に評価し、教育の場において正当な位置づけを与える必要がある。
庄司のいう予想の「第一段階」はいわば認識の「具体的・感覚的段階」に当たる。この段階の直観は記憶に蓄積された認識からのフィードバックがほとんどない状態であるから「あてずっぽ」や「賭け」的なものにとどまらざるを得ない。経験の少ない子どもはこの段階を踏んではじめてつぎの段階の認識段階があることを身をもって知るわけである。
同上 p.63~
子どもにとっては、あそびが生活の大きな部分を占めている。あそぶことが訓練になり教育になるという、実用的な一面をも持っている。子どもたちの当てっこも、その発展を認識論的に検討してみる必要がある。予想の第一段階に相当するものとしては、「何が入っているか当ててみな」のあてずっぽの答えを要求するものや、「左の手ににぎっているか右の手ににぎっているか当ててみな」の賭けを要求するものがひろく行われている。これらからいま一歩すすむと、しっぽを見せてそこから隠れている動物を当てさせるときのような、感性的なありかたの一部を手がかりないしヒントとして与えておいて、そこから何が隠れているかを当てさせる謎々が生れてくる。その手がかりないしヒントは、そのものズバリからすすんで象徴的なものになっていく。
「段々畑に穴一つ、なんだ?」(ゆたんぽ)
「暗い中で光り、涙を流しながら小さくなるもの、なんだ?」(蝋燭(ろうそく))
さらにすすむと、なぞの解き手の精神的な冒険旅行をあやまった道にさそいこむための、方向をあやまらせる手がかりを特に加えた謎々もつくられる。
「ナポレオンはなぜ赤いズボン吊りをしていたか?」(ズボンが落ちるから)
「小学校の五年生が電車道を横切るとき、まず左を見てそれから右を見た、なぜか?」(一ぺんに左と右は見られないから)
この種の謎々は、手がかりらしく見えることばにひっかかって、あやまった理由を考えていくように工夫されている。この与えられた問題に対して理由を考えて、その合理性をたぐりながら予想を立てていく認識活動は、さきの「第一段階」からすすんだものとして、「第二段階」から「第三段階」に位置づけることができる。庄司のいう「第二段階」は
「コウイウコトガアルカラ、コウナルダロウ」
「カツテコウイウコトガアッタカラ、コンドモコウナルハズ」
「コノヨウニナルカモ知レナイ、ナゼナラバ、コウイウワケダカラ」
などのように、理由を考えて予想をすすめていく段階である。
「この理由の出どこにも、つぎのように五つの種類のものが考えられる。
(1) 過去における類似の直接的な経験
(2) 以前に学習した事項
ア 前の実験がこうだったからというもの
イ 前の実験の意味がこうだったからというもの
(3) 思考実験
(4) 読書・映画・テレビ・耳学問などの間接的な経験
(5) とんでもないばかげたような考えによるもの
この中で、(1)や(2)のアや(5)などは第一段階に近いものであり、(2)のイや(3)や(4)のものはつぎの第三段階により近よっているということができる。そういう点で、この段階はヌエ的であり、アイノコ的であり、人魚的である。かような性格をおびた段階なのだ。」(同上)
この段階は合理性をたぐりながら認識がすすんでいくという点で、理論的な認識へ近づいている。庄司のことばをかりれば、亜理論的である。
大人たちの楽しむこの段階でのゲームとしては多くの探偵小説が書かれているし、その中で作者としては読者が容易に真犯人を見破れないように、あやまった道にさそいこむためのいろいろな落しあなを設けておくのがつねである。けれども、読者が十分に注意して読んでいくときには真犯人が何者であるかを発見できるような、事件の真相を見ぬくための手がかりも何げなく与えている作品でなければ、謎解きゲームとしてよくできているものとはいいえない。手がかりを与えてなく、直観やあてずっぽでしか真犯人を予想できない作品では、アンフェアだといわれることになる。犯罪の謎を解決するための法則は、別に体系的なものとして存在しているわけではなく、「それによって誰が利益をうるか」とか「犯罪の影に女あり、女をさがせ」とか、いくつかの原理みたいなものがつくられている状態であるから、これも亜理論的だといってさしつかえない。
最後の「第三段階」は
「コウイウ一般的ナリクツガナリタチソウダ、ダカラコウナルデアロウ」
「カナラズヤコウナルニチガイナイ、ダッテ、ホボコウイウコトガドレニモイイウルトイッテヨサソウダカラ」
などのように、理論的な予想をすすめる段階である。
「第三の段階は、ある一般的理論をもってことを決しようとする段階である。いわゆる仮説的段階である。かなり広範囲にわたる理論をたしかめんとする高次の段階であるといってもよい。」(同上)
人間の認識はすでに子どものときからその生活条件に規定されて不均衡である。山の中に育った子どもは海を見たことがなく、兄弟を持っていない子どもは兄弟の協力や対立についての経験を欠いている。そして能動的な冒険旅行にしても一定の方向づけを持つものであるから、ここにも不均衡が生れてくる。ある分野で獲得した能力は他の分野にも役立ちはするものの、さまざまな分野のさまざまな問題を扱うときそれらの発展段階はそれぞれ相対的に独立していて、不均衡が存在する。大人のわれわれにしても、ある問題については「第三段階」に達してつねに理論的に正しく予想できるが、ちがった分野のある問題については「第一段階」であてずっぽの予想しかできないとい状態にある。人間に対して名医であることと犬や猫に対して名医であることは別であり、これらの名医もテレビの故障の診断ではあてずっぽしかいえぬ場合もありうるわけである(3)。学校で行う科学教育にあっても、ある問題については小学生のうちに「第三段階」まで行けるが、他の問題については高校生になってようやく「第三段階」へ行けるというような、ちがいを考慮しなければならない。庄司の提出したこの三段階連関理論(4)は、教育を分類的・平面的にとらえやすい傾向を克服して発展的・立体的にとらえるためにも有効である。
(3) すぐれた科学者が、異性との問題ではまったく子どもみたいな幼稚な失敗をしたとしても、特別におどろくほどのこともない話である。現在の専門家は一種の精神的不具者だからである。
(4) 「この理論をマクロ的に単純化し」て図(実際は真ん中の囲みが両端のものより小さく書かれている――引用者注)のような三段階連関図式がつくられた。Cは「第一段階」「素朴的な段階」Bは「第二段階」「過渡的な段階」Aは「第三段階」「本格的な段階」である。三つを関連づけてあるのは、「否定保存のかたちで連関しあっていることを示すものである」またBを「小さな囲みにしてあるのは発展論において重要な意味と役割をしめる段階だからである。それは、一面からいえば結節点になるところであり、素朴的な段階から本格的な段階への転位移行を可能ならしめるカギをにぎる段階である」したがってBの段階が、フーリエ=エンゲルスのいうように、きわめて重要視され、「三段階連関理論の中核」と規定されて、「この理論は、発展の過渡的段階を明らかにする理論であると、極言してもよい」といわれている。(庄司和晃『三段階連関理論ならびに「続」転位移行論おぼえがき』による)
┏━┓ ┏━┓ ┏━┓
┃C┃―┃B┃―┃A┃
┗━┛ ┗━┛ ┗━┛
「第二段階」はいわば「中間的・表象的・個別概念的段階」であり、現実の事物や現象と結びついた個別的な認識の中に一般的・普遍的な性格や論理を見出す段階である。そして「第三段階」はいわば「抽象的・概念的段階」であり、個別の事物や現象が属するカテゴリーにおける一般的な性格や論理が見出されそれらが抽象され仮説として立てられる段階である。「第二段階」も「第三段階」も「頭の中の目」でものを見ていることに違いはないが、「第二段階」が「ことわざの目」でものを見ている(表象・個別概念を通して法則性を認識している)段階だとすれば、「第三段階」は「科学の目」でものを見ている(概念として法則性を認識している)段階であって、「第三段階」においては個別の事物や現象における特殊的な側面ははぎとられ捨象されており一般的な法則性のみがとりあげられ抽象される。しかしこの抽象においては「第一段階」「第二段階」の経験は捨象されると同時に認識の背後に保存されている――止揚(否定保存)されている――ことを忘れてはならない。
科学的真理の体系の背後には「第一段階」「第二段階」を踏んだ先人たちの数多くの経験が蓄積されている。私たちはそれら数多くの経験を実際に体験することは不可能であるが、言語や映像等の表現を媒介とする観念的な追体験によってこれを行なうことができる。「第三段階」は「第一段階」から直接に到達できるものではなく、ましてや「第一段階」「第二段階」の経験的実践なしに成立するものではない」。経験的実践を踏まえない理論的実践は単なる机上の空論である。
「第三段階」は「第一段階」の後に必ず「第二段階」を経て獲得されるものである。認識の発展における表象的実践の役割とその重要性は前稿の「表象の位置づけと役割」において三浦が指摘している通りであるが、子どもの教育においては子どもの「頭の中の目」の視力を高め「科学的な目」を養成する過程で表象的実践つまり庄司のいう「第二段階」が果たす役割がことに大きいのである。
(三浦つとむ『認識と言語の理論』に関する記事)
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