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三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」 [PC版ページへ]
2008/08/02 22:28

 関連:三浦つとむ『現実・弁証法・言語

三浦つとむ『現実・弁証法・言語(国文社・一九七二年)所収の論文から、夏目漱石の文学論を再評価しながら、文学における作者と表現主体の問題についての持論を展開している小論「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」を紹介する。


〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点句点のように表記し、適宜ルビを振った。

『現実・弁証法・言語』 p.287〜299 

 文学論はすくなくないが、読者が文学を鑑賞するという事実について理論的に解明したものは、ほとんど見ることができない。もちろんそれにはそれだけの理由がある。創作の理論的な解明ができないのに鑑賞だけ解明できるはずはない。創作活動にしても鑑賞活動にしても精神活動であるから、その解明には認識論の援助を受けなければならないのだが、これがまた確立されてはいない。それに、読者は作者に対して本質的には受動的な態度をとり、作者の創造を忠実に受けとらねばならないのだが、それには読者の能動的な精神活動が要求されるのであって、ポカンとただ文字をながめていたのでは与えられた作品を正しく読みとることができないし、またどんなに正しく読みとるべく努力したとしても、近似的にしか受けとることができない。作者の精神活動を読者が完全にそのままくりかえすことは不可能なのである。そのために、現実の世界と人間の認識とはどういう関係にあるかについて、哲学者がふみはずしたのと同じ発想が、文学作品と読者の認識との関係の説明にも現われてくる。現実の世界のありかたを完全にそのまま認識しているならば、唯物論者のいう〈反映〉論も承認しようが、認識は現実の世界のありかたとくいちがうし時には空想的な存在をも想像するのだから、反映論は認めるわけにはいかないと哲学者は不可知論から観念論へふみはずしていった。作品の鑑賞にあっても、読者の受けとり方はすべて不完全であるし時には誤解や曲解も起っているから、鑑賞を〈追体験〉というのは正しくないと、評論家はいい出しかねない。「読むという行為は誤解のつみかさねである」という者も出てくる。創作の理論的解明ができない左翼の評論家は、読者の鑑賞それ自体をとりあげようとしないで、機能論的に、文学は「生活を組織する」ものだと論じ立てたりしているのである。

 私がこれまで著書や論文で述べてきたこの問題の理論的な解明を、簡単にスケッチしておこう。作者が空想の世界を小説に描くことは、作者が意識的・目的的に夢を見てその夢を読者に言語で伝えようとすることである。読者は小説を読みながら、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見ようとする。作者は自分の創造した夢の中で、織田信長の若き日の生活をながめたり、二一世紀の宇宙旅行で他の遊星に行って宇宙人の生活をながめたりしているが、そのときの現実の作者は依然として昭和四十何年というカレンダーのおいてある書斎の机の前にすわっている。

 これは、夢の中でオバケに追われて必死に森の中を走っていても、その時の現実の人間はベッドの中で動かずに眠っているのと共通している。これを人間の観念的な自己分裂二重化とよぶが、作者にみちびかれて作者と同じ夢を見る読者にしても、郊外電車の座席に腰を下(おろ)して週刊誌のこまかい活字をながめながら、同時に平清盛の生活をながめるという観念的な自己分裂・二重化を行わなければならない。この、読者が観念的に自己分裂を行って夢の中の作者と同じ立場に立ち、同じ体験をすべく努力することが、〈追体験〉とよばれる精神活動である。

 古典文学の解釈や、鑑賞経験を理論的に反省することは、これまでも行われなかったわけではない。たとえそれが認識論の未確立のために不充分なものに終ったとしても、それなりに正しい方向を進んだものは評価されてしかるべきである。それゆえこの小論では、時枝誠記と夏目漱石の主張をとりあげてみることにしよう。時枝の言語過程説は、京城帝大における「中古語研究」の題目での『源氏物語』の演習に負うところが多い。演習の開始に際して、彼は解釈ということの本質を考えるよう求めたむね、『国語学への道』(一九五七年)の中で述べている。

「解釈とは、どのやうな事実であるのか。この演習にあたつて、諸君はもう一度根本的にこの問題を考へるべきである。そこから出発して我々は解釈といふことを、その本質において生かさなければならない。解釈の本質を探つて行けば、勢ひ言語文章の本質が何であるかの問題に行き当る。言語文章の本質観に従つて、解釈といふことは、文字がその内に包蔵している音とか意味とかを引き出す作業だとも考へられるであらう。私は久しい以前から、言語文章の本質は、話手或は書手である言語主体が、自己の表現しようとする事物・事柄即ち表現行為の一形式であらうと考へて来た。であるから、文の解釈或は文を読むといふことは、文字面(もじづら)を通してこれを言語主体の音声、或は表現の素材である事物に還す仕事であると考へてゐる。解釈は即ち文字を話手の思想に還元することであり、表現過程を逆に辿ることであると考へてゐる。解釈といふ仕事は、表現主体に立返るといふことによつて完成するのであるから、解釈者は常に己を空しくして、表現主体といふことを念頭から去つてはならない。

 『国語学原論』(一九四一年)には、つぎのように記してある。

「古代言語の記述は、これを古代人の主体的行為に還元することによつてのみ、我々はこれを具体的な言語経験として把握することが出来るのである。古代人の主体的活動に還元するといふことは、……要するに、言語の観察者が古代人の言語体験を追体験することに他ならないのである。一般に古代言語の研究といふことは文字を通して観察者に於いて古代言語の音声と意味とが理解せられるといふ経験そのものを対象として把握することから始まるのであつて、この様な主体的な経験を除外して我々は古代言語を対象とすることは出来ないのである。」

 こうして、古代人の言語体験すなわち夢の中での作者の体験を主体的に〈追体験〉する立場と、現実の読者が現実の作者の作品について論じる観察的な立場とを、時枝は区別して、この識別が「極めて重要」であると強調したのであった。この言語における〈主体的立場〉と〈観察的立場〉との区別は、私が名づけたところの人間の観念的な自己分裂・二重化を経験的にとらえたものにほかならないのである。

 夏目漱石については、まず『吾輩は猫である』の創作と鑑賞を考えてみよう。これはいわば「猫」の生活記録であり、漱石の空想の世界に生きている「猫」が身辺のさまざまな事件やその見聞で感じたことについて、ペンをとって記したことになっている。作品の〈表現主体〉は「猫」であるから、読者もこの「猫」の体験を主体的に〈追体験〉しなければならない。さらに、空想の世界の中では登場人物である苦沙弥や迷亭や寒月などがいろいろ語り合っているけれども、作品の中の彼らの会話は「猫」がそれらの発言を忠実に記録したことになっているから、読者も苦沙弥なり迷亭なり寒月なりそれらの発言の〈表現主体〉に立返って、彼らの身になってその思想を読みとるべく努力することになる。このような、作者の創造した夢を〈追体験〉によって正しく受けとろうと努力することが、作品の鑑賞活動である。けれどもこの活動は夢の世界の中ですすめられるから、そこには苦沙弥はいても現実の作者漱石は存在しないし、夢を〈追体験〉する「猫」の立場の読者はいても現実の読者はいない。ところが鑑賞活動を終えた読者が、この夢の世界の外に出てあらためて作品を観察すれば、「猫」はもちろんのこと苦沙弥も迷亭も寒月もすべて漱石の創造であり、彼らの思想もすべて漱石が与えたものでしかない。夢の世界の中で、さまざまな〈表現主体〉に立返って読者が読みとったものは、夢の世界の外へ出たとき漱石の創造としてとらえかえされることとなり、そこに創作活動の分析とか作者の研究とかいうことが新しくはじまるのである。時枝が「観察者と主体との二の立場は厳然と区別されなければならない」といったことばは、この作品にあっては現実の作者としての漱石の立場と、〈表現主体〉としての「猫」や登場人物の立場を混同して扱ってはならないことを意味するわけである。

 さて、漱石によってなされた文学の鑑賞経験の理論的な反省は、『文学論』(一九〇七年)において展開されているが、読者が「表現主体に立返る」問題を具体的にとりあげた第八章「間隔論」をここで検討してみよう。この章では、作品中の事物や人物と著書との〈間隔〉、および著者と読者との〈間隔〉をとりあげて、その〈間隔〉の変化を論じるのである。

「普通の記述は作中に融化せられざる著者の媒介を待ってはじめてこれを納受するはまへに述べたるがごとし。を記事とし、を作家とし、を読者として、三者の間隔を図に示せば――――となる(これを第一図とす)。もし記事の性質と著者の技巧により、幻惑の高潮度に達したるとき、卒然として著者の存在を遺却して当面に記事を熟視するを得ば、間隔は縮(ちぢま)つて――となる。読者と著者と合したるの興致を示すものなり(これを二図とす)。作家もしをもつて事を叙し、編中の一人を代表して文を遣るとき、単独なる作家は当初よりその存在を認むるの必要なきをもつて間隔ははじめより二図と異なるなく――をもつて示すを得べし。」(傍円は原文)

 あとで説明するけれども、ここで著者とよばれているのは実は〈表現主体〉であり、自己分裂で生れた夢の中の作者である。時枝は二つの立場を区別して〈主体的立場〉への移行を説いているのに、漱石には移行の自覚がなくて図式に直ちに〈表現主体〉を持ってくるのであるから、理論的に未熟であったことは否定できない。しかしながら彼は、この間隔論をひっさげて、スコットの歴史小説『アイヴァンホー』の分析をすすめるのである。

「少時 ScottIvanhoe を読んで、Rebecca の盾を翳(かざ)して壁間より戦状を Ivanhoe に報ずるの章に至つて張目寝(い)ぬるあたはず、燈を挑(かか)げて天明に達せるは、今なほ明かに記憶にあり、当時庶幾(しょき)するところはただ書を楽しむにあつて、事を解するに存ぜざりしをもつて、そのなにがゆゑにわが心を動かすのかくのごとくはなはだかりしかはつひに脳裏に反問するの意なくして長く歳月を経たり。後年やうやく思索の街頭に往来の蒼頭白首を数へて、紅絹青衣を類別するに至つて、はじめて十年の昔に回頭して、考案のいまだ透過せざるものあるを思ひ、これを拈定(ねんてい)して一炷(しゅ)の香を焼くこと再三、いまだ分明に端的を会せずして已(や)めり。今またこの間隔論に逢着して、まへの話頭を挙しきたるの恰好なるを見る。もし弁じ得て釈然たらざるとき、おほかたの善知識余のために三十棒を揮(ふる)へ。」

 これまでに三十棒を揮った「善知識」がいたかどうか、私は知らない。小泉信三はこの分析を「夏目理論」の展開だといい、理論的な検討はしていないが、「彼れに在(あ)つては、その凡(すべ)ての理論の前に人真似はしないといふ潔癖があつた。お伽話にある、裸の王様を裸だといふ正直があつた。」と書いている。たしかに、右の自分の経験を述べた文章にしても、彼が自己に誠実であることの一端がうかがわれる。

Ivanhoe の場合にあつて上図のに相当すべきは城下に起る戦闘の光景なり。黒兜白毛の騎士なり。長幹偉躯の悪僧なり。伏せて彎(ひ)く弓なり。空に鳴る矢なり。剣光なり。馬影なり。咄喊(とっかん)の声、甲冑の波なり。しかしてこれ等の動静を叙するものは著者にあらずして明眸皓歯(めいぼうこうし)の佳人 Rebecca なり。ゆゑにこの際における図式は――――にあらずして、――――となる。換言すれば作家に代ふるに Rebecca をもつてしてはじめて相当なる図式を得るものとす。幻惑(作家の技倆、記事の内容より生ずるもの、間隔より生ずるものにあらず)の熾(さかん)なる時読者、作家の筆力に魅せられて、一定の間隔を支持することを忘れ、進んでこれに近づき、近づいてこれに進み、つひに著者と同平面、同位置に立つて、著者の目をもつて見、著者の耳をもつて聴くに至るがゆゑに著者と読者の間に一尺の距離をも余すことなし。しかしてこの際における著者は Rebecca にあらずや。この際における幻惑は白熱度ならずや。吾人は進んで Rebecca に近づかざるを得ず。つひに Rebecca と同平面同位置に立たざるべからず。最後に R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴かざるべからず。R. と吾人との間に一尺の距離を余すなきに至つて已(や)まざるべからず。

 まず、この作品が三人称小説であることを確認しておこう。それゆえこの小説の〈表現主体〉は、現実の作者スコットではない。作者から観念的に分裂して空想の世界の中にいる無色透明の傍観者であって、アイヴァンホーやレベッカや獅子王リチャードやロビン・フッドなどの活躍をながめて書き綴っているのである。この傍観者は、レベッカが目の前の戦況を、味方の黒騎士が倒れたとか、立ちあがって敵将を倒したとか、つぎつぎと語るのを忠実に記録していく。読者もこの記録を通じて、空想の世界の中の〈表現主体〉に立返って〈追体験〉するから、「R. の目をもつて見、R. の耳をもつて聴」くことになる。ここで注意しなければならないのは、右の文章で「作家の筆力」といい、また「著者の目をもつて」といって、二つのことばを使いわけている点である。これは漱石が明確に自覚してはいないにしても、「作家」というときは現実の作者を、「著者」というときは〈表現主体〉をさしているのであるから、無意識のうちに区別を与えたものと見なければならない。無意識だけに混同することもあって、「作家に代ふるに Rebecca をもつてして」と、現実の作者と〈表現主体〉が入れかわるかのような説明が見受けられるし、あとのほうでは「この際における著者Rebecca にあらずや」と正当に説明しているといった、食い違いが見られるのである。

「しかるに Rebecca は編中の一人物なり。戦況を叙述するの点において著者の用を弁ずるとともに、編中に出頭し、透迤として事局の発展に沿うて最後の大団円に流下するの点において記事中の一人たるを免かれず、このゆゑに吾人は著者としての Rebecca と同化するかたはら、すでに記事中の一人なる Rebecca と同化しをはるものなり。こゝにおいてか Ivanhoe の記事は重圜を描いて循環するを見る。外圜を描くものは Scott にして Rebecca はこの圜内に活動し、内圜を描くものは Rebecca にして、堞下の接戦はその中に活動す。吾人は幻惑を受けて戦況を眼前に髣髴するの結果、内圜を描くものと同時、同所に立つて覚らず。顧みればすなわち身はすでに外圜のうちに擒(とりこ)にせられて、編中の人物とともに旋転するを見る。翻つて Scott を索(もと)むればはるかに外にあつて、吾人と利益をともにせざるがごとく長嘯するに似たり。」

 漱石がここで Scott とよんでいるのも、実は現実の作者ではない。「圜を描くもの」はすなわち〈表現主体〉であって、空想の世界の中にいて空想の世界を記録している無色透明の傍観者である。これを Scott とよんでいるのは、現実の作者と正しく区別できないことを示している。つまり、読者は作品の〈追体験〉において、まず「内圜を描く」無色透明の傍観者に観念的に「同化」し、空想の世界に展開する事件を客観的にながめていく。つぎに、そこに登場して「内圜を描く」Rebecca にさらに観念的に「同化」するという移行を行って、こんどは Rebecca の見聞する戦況を「眼前に髣髴する」ことになる。この移行によって、読者はもはや傍観者の立場ではなく、登場人物の立場に立っているのであるから、読者は観念的に事件の直接の体験者として行動し感情を持ち認識しているわけであって、自分たちの行動を外側からながめている無色透明の傍観者などは「吾人と利益をともにせざるがごとく」まったく別の立場の無関係な人間でしかない。

「このゆゑにこの場合における間隔的幻惑はもとより ――――のごとく隔靴掻痒の感あるものにあらず、あるひは読者の進んで著者と合したる――にもあらず。または著者の余となつて編中の人物を代表する意味においての――にもあらず。読者が記事そのもののうちに闖入せる場合なり。図をもつて示せば()ならざるべからず。記事、読者ともに一圜中に生息して、尺寸の間隙なき場合ならざるべからず。さらに竿頭に一歩を進めていへば記事と読者が一団となるのみならず、真の著者をはるかの後へ(しりへ)に見捨てたる場合ならざるべからず。したがつてこの特殊なる吾人の幻惑は、記事を操つる著者が、記事に対するよりも、吾人が記事に対するの、はるかに親密の度において優れりとの自覚より来るものなり。みづから記事中に活動して圏外の著者を疎外視するより来る幻惑なり。これを図に示すとき()――なる変形を得るに似たり。」

 この場合の「外圜」に対する「内圜」は、時枝のいうところの入子(いれこ)型構造になっていて、それぞれに〈表現主体〉すなわち漱石のいう著者が存在しているのである。だから「外圜」の著者が「真の著者」だと漱石が書いているのは、どちらの〈表現主体〉も真実には Scott創作になるものだという意味での空想の世界の創作者と、物語を記録する「外圜」の無色透明の傍観者との混同が、ヒョイとことばの上に出て来たものと見ることができる。それはそれとして、漱石はここで、三人称小説の登場人物が〈表現主体〉となるときの読者の〈追体験〉を、事件の傍観者からさらにすすんで事件の中に「闖入」するときの「白熱度」のイリュージョンの高まりとして、問題にしているのである。それは、単に登場人物が〈表現主体〉になればすべてそうなるというのではなく、Rebecca の場合は特殊な条件にあるからだということを、つづいて指摘するのである。彼は Rebecca の表現が現在形であり、全体として〈歴史的現在〉とよばれる形式となっているところに注意を求めている。

「この場合にあつては記事そのものが吾人の目的なるをもつて、記事の面白ければ面白きほど(他に関係なく)吾人は満足の意を表すものとす。しかしてこれを面白くする一方法として戦争は現在において起らざるべからず。余は単に通俗なる修辞の一として教へられたる歴史的現在に付着せる普通の意義においてこれを主張するにあらず。単なる時間の短縮は、話材を事実に変じて活動の一睛を点ずるにおいて、その功力の争ふべからざるものは明かなりといへども、この場合における余の主張は、かく一般に認識せられたる功力以上のあるものを現在法に見留むるがゆゑなり。現在法によりて逐次に転回する事件は読者に対して未知数なるのみならず、これを活説する Rebecca にもまた未知数なり。単に Rebecca に対して未知数なるのみならず、事件の発展に対してその期に達せざるかぎりは、運命と号する怪物のほか天下また何人も知るあたはざるなり。知るあたはざるがゆゑに、読者の注意はもちろん、Rebecca の全精神もまた局面の発展に傾瀉(けいしゃ)するのは自然の理なり。未知数は不定なり。不定なるものは甲たらんも知るべからず。乙たらんも計りがたし。その結果の甲たり乙たるにおいて吾人の興味に大なる影響を与ふるとき、話すものの全身はことごとく目なり。聴くもの全身はことごとく耳なり。運命の一子を下すたびに一喜しまた一憂す。けだし運命のわが期待するごとく変ぜんかとの投機的希望に束縛せらるゝがゆゑなり。Rebecca の眼下に起るは戦にあらずや、戦とは敵と味方とを意味し、敵と味方とは勝負を意味す。The Black knight か、Front-de-Boeuf か、これ読者の呼吸を凝らして知らんと欲するのみならず、Rebecca のまた張胆明目して知らんと欲するところのものなり。しかして Rebecca のかく熱心なるは勝敗の数いまだ定まらざる現在の光景なればなり。一分の発展するごとに、一分の結果をもたらし、一分の結果をもたらしつゝ発展し去る刻下の状態なればなり。」

 私はこの分析に同感であった。漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月〜三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

 映画やTVにおけるキャメラが、〈表現主体〉の目であるとともに、観客の〈追体験〉における目となっていることは、ちょっと反省すればすぐわかるであろう。空想の世界を扱ったドラマは文学の三人称小説に相当し、キャメラの目すなわち〈表現主体〉の目は空想の世界の中の無色透明の傍観者として、思うがままにあるきまわっている。あるときは登場人物の顔をながめ、あるときは空から金門橋を見おろし、いまインディアンのそばで遠くから走ってくる駅馬車をながめたかと思うと、つぎにはその駅馬車の上から追ってくるインディアンをながめるのである。そしてこの傍観者である〈表現主体〉の目は、時々登場人物に移行し、登場人物の目として事件のありかたをながめ、そのとき観客もまた登場人物に「同化」して登場人物の体験を〈追体験〉することになる。そのいくつかの例を、私は『日本語はどういう言語か』(一九五六年)でとりあげて、スリルをもりあげるために意図的に使われることも指摘しておいた。殺人の場面でキャメラの目が被害者の目に移行して、せまってくる殺人者がその両手を首をしめようとさし出してくるのを見るといった場面は、しばしば見られるし、反対に殺人者の目に移行して、隣のビルの屋上からライフルでアパートの窓をねらうといった場面もおなじみになっている。ヒッチコックの “Spellbound” では、キャメラの目が犯人の目に移行して、事件の真相を見ぬいた女医をピストルの銃口が追う場面がある。女医はドアから出ていくが、追って動いていく銃口は沈黙したままである。女医の姿はドアの向うに消えてしまい、やがて銃口はキャメラ自身すなわち犯人自身に向けられて、発射される。自殺の表現である。同じ作者の他の作品では、ドアから入って来た男のすがたが次第に逆立ちしてくる。仰向けに寝ている女が首を動かして、近づいてくる男を下から注視しているのである。

 このような映画における登場人物への観客の「同化」は、文学と無関係に経験的に開発された方法であろうが、漱石の分析の正しさの傍証ともなるものである。フランスの評論家は文学における〈主体〉の解体とか飛散とか妄想をならべ、日本の評論家もそれをうのみにして口まねし、漱石の研究者と名のる人びとすら『文学論』の検討を避けて通るという現状において、私はあらためて漱石に敬意を表し脱帽したいと思うのである。



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