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「言語」なしの思考(1) [PC版ページへ]
2006/07/05 18:38

 「言語」なしの思考(1)(2)をまとめて読む。

言語なしの思考は出来るか」(2006年06月30日)で秀さんは「物質的存在が我々に反映という認識をもたらし、存在の属性として世界を理解すると言うよりも、言語によって世界を切り取って、世界の一部を考察の対象にして理解が進むという方が、何か現実の人間の活動を正しく語っているような気がしてしまう。ソシュール的な発想の方が正しいような気がしてしまう。」という感想を述べている。ここで秀さんがいっている「言語」とは観念――個人の意識内においてすでに明確に認識されている主観の内容――のことだと思われる。そうであるなら、このような観念を運用して「世界を切り取って、世界の一部を考察の対象にして理解が進む」というのは人間の認識過程を記述したものとしては当たり前のような気もする。


〔注記〕以下の文中において「受容」とあるのは、表現されたものを受け取ってその内容や意味を理解することを表わしている。「解釈」とか「鑑賞」という言葉もあるが意味が限定的なので、それらをも含む広い意味の言葉として「受容」を用いることにした。

しかし、ソシュール的な意味の「言語(langue)」は個々の人間が思考するときに運用している観念とは違うのではないかと思う。なぜなら、個々の人間が思考するときに運用している観念は概念にさまざまな表象が結びついたものであり、その内容は普遍的なもの(意義)だけでなく個別・特殊なもの(意味)をも含んでいるのに対して、ソシュール的な意味の「言語(langue)」はこれらの観念から普遍的な側面のみをすくいあげたもの(=シーニュ)の体系だからである。三浦つとむがシーニュの体系であるソシュールの「言語(langue)」を言語規範と規定したのは、シーニュがそのような普遍的な側面を抽象したものだからであり、普遍的・社会規範的な性格をもつ「言語(langue)」を規範的媒介として言語表現や言語理解あるいは思考が行われるからである。

〔追記〕 上で「シーニュの体系」と呼ぶときの「シーニュ」は「連合関係」におけるそれである。「連合関係」における「シーニュ」は〈概念形態〉の連合である。

個々の人間が思考において運用している観念は概念にさまざまな表象が結びついているものであるが、ソシュールのいうシーニュ(signe)はその観念の中から 「音声表象(image acoustique)」と「概念(concept)」とが結合したものを抽出したものである。ソシュールは前者を「シニフィアン(signifiant)=意味するもの」、後者を「シニフィエ(signifie)=意味されるもの」と名づけた。つまりシーニュとは「シニフィアンーシニフィエ」という「音声表象ー概念」の連合である。

〔追記〕 上記「個々の人間が思考において運用している観念」は後に私が「個別概念個別的概念)」と呼んでいるものである(「概念(5)――人間の思考・認識は個別概念を介して行われる」)。

また、人間が思考において運用している「シーニュ(signe)」は「連辞関係」における「シーニュ」である。「連辞関係」つまり内言における「シーニュ」は〈表象形態〉の連合である。

ソシュール派の人たちは、人間は思考において「言語(langue)」を運用していると主張し、その「言語」を「思考言語」と呼んでいるが、先に書いたように個々の人間が思考において運用しているのは観念であり、シーニュはその観念を構成する一部であり全体ではないし、運用している観念の中にはシニフィアンを伴わないものもある。だからこそ思考内容を言語で表現するときに、ある観念を表わす適切なことばがみつからずに悩むというようなことも起こるのである。

そして、ソシュールがいう「言語(langue)」は思考するときに運用している観念そのものではなく、思考における観念とシニフィアンとを媒介する規範であるのだから、人間は思考において「言語(langue)」を運用している、という主張は間違っている。したがって、思考において運用される観念を構成することもあるシーニュを「思考言語」と呼ぶのも誤解のもとである。生まれながらに耳の聴こえない人たちが手話(これも言語表現である)を使って意思疎通がはかれるのは、この人たちは音声表象ならぬ映像表象をシニフィアンとして概念に結びつけた観念を思考において運用しているからであり、映像表象をシニフィアンとして用いた言語規範を媒介にして手話の表現・受容や思考活動をおこなっているからである。

偶然のさまざまなる恐ろしき不思議の裡に普遍の法則を求め、現象の怱忙裡に渝らざる極を探求するなり」というシラーの詩文ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』訳者注を初めて目にしたとき、私には「怱忙裡」と「」が読めなかった。「怱忙裡」の方は「怱」の音(おん)が分からなかったが訓(字義)が「たちまち」であることを知っていたし、「忙・裡」については音も訓(字義)も知っていたので「現象の怱忙裡に」の意味は理解できた。このとき、私の頭の中では「げんしょうの○ぼうりに」という音声表象と同時にその意味内容があるまとまった観念として生じていた(「○」の部分はいわくいいがたい音像である)。「渝らざる極」の方はその前にある「偶然のさまざまなる恐ろしき不思議の裡に普遍の法則を求め」という表現から「変わらざる極」であろうと判断した。

漢和辞典を調べて、「怱」の音が「ソウ」であり、「怱忙裡」は「そうぼうり」と読むことを知った。また、「渝」は音が「ユ」(これは類推できた)で訓が「かわる・かえる」であり、原義が「水が溢れること、転じて水の形が変わること」であるのを知った。こうして私の意識の中にある言語規範に「怱忙裡」と「渝わる」「渝える」が加わったのである。

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「言語」なしの思考(2)

認識・意識が言語にとらわれるということの意味



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