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2008年08月15日(金)| 弁証法>未分類 |  
三浦つとむ「横目で見る立場から」(2)

 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)~(4)をまとめて読む。

 関連:三浦つとむ『現実・弁証法・言語

引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 二」を紹介する。

〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点句点のように表記し、適宜ルビを振った。

『現実・弁証法・言語』 p.70~ 

 二 

 そんなわけで、階級闘争ではなく人間教育の「方法」を具体的に学びとろうとする人びとにとっては、自称左翼の思弁的な学者から「方法」論を聞いてもあまり得るところがないが、これに反して、刑事や探偵が「方法」について語った文章は、犯罪者をさがし出してとらえねばならぬという実践の中できたえられた者の発言だけに、得るところがある。探偵小説の古典の中から、さきにはポオの創造したアマチュア探偵デュパンのことばを引用したが、こんどは、行方をくらましていて何の手がかりもない大犯罪者を追跡する、パリ警察の敏腕な捜査官の「方法」を読んでみることにしよう。

「こういう不可知論的なはだかの状態に当面した場合には、ヴァランタンは独自の考えかたと方法を持っていた。こういう場合には、彼は予見できないもの(the unforessen)に頼るのだった。合理的な線を辿(たど)ることができなくなったとなると、冷静に、しかも念いりに、非合理的な線を辿るのだった。理屈にあった場所――銀行だとか、警察署だとか、人の集まるところなど――にはいかないで、系統立てて理屈に合わない場所へ出かけた。空き家を一軒一軒ノックしてみたり、あらゆる袋小路に曲がりこんだり、ゴミで塞(ふさ)がっている露地を一つ一つ奥まで行ってみたり、無駄な寄り道になる三日月形の道をまわってみたりした。彼はこういうきちがいじみたやりかたをきわめて論理的に弁護した。彼にいわせると、手がかりを掴(つか)んでいる場合には、こういうやりかたは最悪の方法だが、全然手がかりがない場合には、これが最上の方法なのであった。なぜかというと、追跡者の眼を惹(ひ)く奇妙なことが何かあるとすると、追跡される者のほうでも同じものに眼を惹かれるということは、ありうることなのだから、どこからかはじめなきゃならないとすれば、ひとが立止りそうなところから始めるほうがいい、というわけだ。」(チェスタートン『青い十字架』)

 大都会ロンドンのどこかに自分の追跡中の犯罪者がいるのだが、さてどうしてこれを見つけ出すか? ここに大都会に対する「問いかけ」が必要になる。いま引用したのは捜査官の「問いかけ」の精神と「方法」である。彼のこの「きちがいじみたやりかた」がどんな結果をもたらしたか、気になる読者には小説を読んでもらうことにして、ここでは引用文から「方法」に関する二つの重要な問題をとりあげてみよう。

 まず第一に、この捜査官は「予見できないもの」を扱う場合の「方法」について、「非合理的な線」を「論理的に弁護」する。しかもこの非合理的なやりかたを最上の方法だと合理化している。客観的な矛盾を検討することに馴(な)れていない人びとは、こんなことをいわれると詭弁のように感じるかも知れないが、矛盾をとりあげることができないと「方法」論は壁にぶつかるのである。複雑な現象から科学の法則を発見するための「問いかけ」において、予想能力を持たぬ子どもにアテズッポ的な予想をすることを認めるというのも、科学教育の看板と見くらべてこれまた「きちがいじみたやりかた」に思われるかも知れない。「クソ合理主義」を捨てるところに合理的な教育の「方法」が成立するといわれると、詭弁のように感じるかも知れない。小説の中の敏腕な捜査官の「方法」と、仮説実験授業の「方法」とが決して無縁ではないことを、つぎの文章から読みとるのは無駄ではないと思う。子どもの対象への「問いかけ」の第一段階は、合理的な予想ができない段階である。

「第一のものは、予想表明のみの段階である。ここには、アテズッポ的要素のもの、いわゆるカケ的なものも含むことになる。また、はっきりとした予想という形で表明することはできないが、『そこ』にはきっと何かがあるにちがいない、という予想以前の予想にくらいするのもここにはいることになる。いずれにしても、一歩でてみる、あるいは数歩でてみるという論理のあることだけはたしかである。この論理は、この段階のものとしてぜひとも認めなければならないし、ここにちゃんとした正当な地位を与えておく必要がある。いくら思考の発達の教育とか科学的な思考の教育だからといって、かならずリクツがなければならないというクソ合理主義は捨てなければならない。現実のつきつけてくる問題の解決にあたってはいくらでもこういうばあいがあるからである。」(庄司和晃『仮説実験授業の論理的構造』)

 アテズッポそれ自体は偶然にもたれかかっていても、公平にチャンスを与えるという合理性をつらぬくための抽籤(ちゅうせん)まで、否定する者はあるまい。ここでいう第一段階も、子どもだけでなく、おとなが現実のつきつけてくる問題を解決する場合にも存在すると考えていくときに、捜査官の「方法」とつながるわけである。彼の「方法」はそれなりの理由を自覚しているのだから、アテズッポではないけれども、まったく手がかりのないところに数歩出てみるための「方法」は、「合理的な線」を歩んでいるとはいいがたい。アテズッポとかカケとか、それ自体として見れば非合理的なやりかたの持つ段階的な役割を、正当に評価して授業の中に位置づけたのは、仮説実験授業の「方法」論的な特徴であり、当然かくあらねばならぬとはいえ論理的に確乎とした裏づけを持っている点で、やはり成果の一つと見なければならない。

 捜査官の主張の提起している問題点の第二は、「最悪の方法」が条件の異なる場合に「最上の方法」になるということである。誰もが「最上の方法」として認めているやりかたが、「最悪の方法」に転化するということだけでなく、その逆の転化をも考えてみる必要がある。教育の分野を例にとるならば、オシツケはいかんとか、体罰を加えるなどはもってのほかだとか、いわれている。たしかにそうなのだが、これらも絶対的に否定するならば、「最上の方法」を絶対的に肯定することのいわば裏がえしになってしまう。時々「暴力教師」が非難されるが、学生が愚連隊になって女学生をナイフで脅迫し、これを見つけて阻止する教師に切りかかって来たときに、教師が腕力で立ちむかい取押えるのはいかんと否定する者はあるまい。たとえ非常に特殊な、せまい限界の中ではあっても、ある条件ではオシツケや体罰が「最上の方法」になるのではないかと予想してみることは、決して無駄ではない。そういう場合があるからこそ、これらの「方法」が限界を超えて不当に拡大して使われることにもなったのではないか、と考えてみる必要があろう。

 仮説実験授業は「おそろしいおしつけ教育」を否定している。

「仮説実験授業ではオシツケというものを極度にきらいます」「これまでの理科教育が本格的な科学教育を意図するものとなりえなかったのは、決してだれかが科学教育の本格的な研究をする必要がないと考えたからではないでしょう。したくてもできなかったのです。むりして一貫した科学の論理を教えようとすると、一貫して押しつけ教育になることをおそれた人々が、小・中学校での科学の本格的な教育を意図すること自体を断念してしまったのです。」(板倉聖宣『未来の科学教育』)

「ある種の実験事実から、その帰結をひきだすのは生徒自身でなければならないのです。(それができないときは、あからさまに、科学者たちの研究成果として正しいと説明してやるべきなのであって、無理してすべてを生徒たちの“発見”に任せるべきでない、ということにも注意すべきです。)(板倉聖宣・上廻昭『仮説実験授業入門』)

 あとの引用文の括弧の中の注意書きは、本文より小さな活字で組んである。天文学の諸データのような、子どもが自分の予想を実験でたしかめることのできぬ場合には、教師や本のことばを信じさせるのだから、これはオシツケである。真向(まっこう)からオシツケを否定する授業がオシツケを是認しているとは、ごまかしではないかと思う者もあろう。たしかにここには矛盾があるが、矛盾だから不合理なのではなく、合理的な矛盾を調和的に定立することこそ問題解決のかなめなのである。

 昔から有名な「鶏がさきか卵がさきか」という問題提起が、循環論になって答えられないのは、「卵」をはじめから「鶏の卵」に限定して他の動物の「卵」を考えないためである。「卵一般」でとらえ、生物の進化において「鶏」の出現と「卵」の出現とどちらがさきかと考えれば、「卵」という答えが簡単に出てくる。宇野弘蔵の経済学の原理論が破綻するのは、資本制の諸問題をはじめから資本制の抽象的な理論の内部で説明しようと意図して、経済の発展において他の諸制度のありかたとのつながりを考えないためである。ところがいま流行の情報科学を論ずる哲学者は、「一般的にいってAがBの原因となり、BがAの原因となる」という、それ自体閉じた「相互因果性の因果関係」のメカニズムを、情報科学が明確にしたと主張し、この抽象的な論理の『方法』を「鶏」と「卵」の問題に適用しながら、こう書いている。

「このような相互因果性の因果関係を問うのに、どちらが先か、と問うことは、元来無意味な問い方であるといわねばならないだろう。……わずかな口論がだんだんとポジティヴにフィードバックしていって、最後になぐりあいにまで発展する、というような現象はしばしば見られる現象である。このばあい、どちらが先に悪口をいったとか、あるいは相手をなぐったか、ということで責任の所在を決定するということは、処罰の便宜的な仕方として認めることはできても、ほんとうにそのような出来事を生起しないようにするための責任の追求にはならないだろう。真の責任はそのような関係をつくりあげたという事態であり、関係の項となっている人間に平等に分かち与えられるべきものであろう。」「『情報化』ということばはその最も基本的な意味からすれば、情報とかシステムという新しい概念の導入による新しい科学方法論により人間の対決しなければならないあらゆる問題を綜合的に、そしてより合目的的に解決していくことである。それはあらゆる問題に対して採られなければならない科学的方法である。」(沢田允茂『情報と人間』)

 教育は情報活動のありかたで、教室の授業はシステムを形成するから、この情報科学を基礎理論にして教育方法を論じる者もあらわれている。「あらゆる問題」に採用できる「科学的方法」とか、あらゆるケンカに適用できる責任「平等」論とかいわれると、なまけ者はとびつくかも知れないが、仮説実験授業も絶対的ではなく対立した性格の予想授業が併存していることを理解した人びとは、NHKのタレント教授のことばでも眉にツバをつけるであろう。

 責任「平等」論がケンカの当事者を納得させるかどうか、その実証は哲学者にやってもらいたいが、このように内容をネグって形式的に相互関係をとりあげるやりかたは、すでにヘーゲルの『小論理学』が嘲笑している。沢田允茂は人間の認識をアプリオリズムで解釈するけれども、事物のありかたをAとBで抽象的に対立させることは、形式的に差別をとりあげて内容を捨象してしまったことを意味しており、この内容の捨象によって暗黙のうちに内容を平等に扱ったわけである。この平等の扱いかたが、ケンカの具体的な内容に根ざす責任の問題をも「平等」に解釈しなければならぬ、論理的強制となったのであって、アプリオリズムの形式主義を克服しないかぎりこの論理的強制からのがれることはできない。ヘーゲルはカント主義のアプリオリズムの形式主義を、観念論の立場から可能なかぎり正しく批判していた。われわれも最新の衣装をまとった前ヘーゲル的妄想にひっかからぬようにしたいものである。現実の具体的なケンカのありかたはどうかといえば、「関係の項となっている」AB以外に、直接関係していない、男たちを手玉にとるホステスとか誰にもうまいことをいう詐欺師とか、CやDが存在してここに責任のあることも多く、また大岡政談の「三方一両損」のように仲裁者が参加して三人が「平等」に損を負担することもある。こんなことは大学教授ならぬ熊さん八さんにとっても常識である。

 私は理論や『方法』の絶対化に反対して相対性を強調しているから、あわて者の哲学者は相対主義のレッテルを貼ったりしている。相対主義というのは、相対性だけを認めて絶対性を排除する形而上学的発想をさす。私は相対的だという理解が正しい「方法」論建設のために絶対的に必要だと主張するのであって、絶対性を排除しているわけでも何でもない。この発想は合理的な矛盾の調和的な定立であって、弁証法的発想なのである。

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(68歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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