三浦つとむ「横目で見る立場から」(2)(PC版ページへ)

2008年08月15日12:13  弁証法>未分類

 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)~(4)をまとめて読む。

 関連:三浦つとむ『現実・弁証法・言語

引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 二」を紹介する。

〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点句点のように表記し、適宜ルビを振った。

『現実・弁証法・言語』 p.70~ 

 二 

 そんなわけで、階級闘争ではなく人間教育の「方法」を具体的に学びとろうとする人びとにとっては、自称左翼の思弁的な学者から「方法」論を聞いてもあまり得るところがないが、これに反して、刑事や探偵が「方法」について語った文章は、犯罪者をさがし出してとらえねばならぬという実践の中できたえられた者の発言だけに、得るところがある。探偵小説の古典の中から、さきにはポオの創造したアマチュア探偵デュパンのことばを引用したが、こんどは、行方をくらましていて何の手がかりもない大犯罪者を追跡する、パリ警察の敏腕な捜査官の「方法」を読んでみることにしよう。

「こういう不可知論的なはだかの状態に当面した場合には、ヴァランタンは独自の考えかたと方法を持っていた。こういう場合には、彼は予見できないもの(the unforessen)に頼るのだった。合理的な線を辿(たど)ることができなくなったとなると、冷静に、しかも念いりに、非合理的な線を辿るのだった。理屈にあった場所――銀行だとか、警察署だとか、人の集まるところなど――にはいかないで、系統立てて理屈に合わない場所へ出かけた。空き家を一軒一軒ノックしてみたり、あらゆる袋小路に曲がりこんだり、ゴミで塞(ふさ)がっている露地を一つ一つ奥まで行ってみたり、無駄な寄り道になる三日月形の道をまわってみたりした。彼はこういうきちがいじみたやりかたをきわめて論理的に弁護した。彼にいわせると、手がかりを掴(つか)んでいる場合には、こういうやりかたは最悪の方法だが、全然手がかりがない場合には、これが最上の方法なのであった。なぜかというと、追跡者の眼を惹(ひ)く奇妙なことが何かあるとすると、追跡される者のほうでも同じものに眼を惹かれるということは、ありうることなのだから、どこからかはじめなきゃならないとすれば、ひとが立止りそうなところから始めるほうがいい、というわけだ。」(チェスタートン『青い十字架』)

 大都会ロンドンのどこかに自分の追跡中の犯罪者がいるのだが、さてどうしてこれを見つけ出すか? ここに大都会に対する「問いかけ」が必要になる。いま引用したのは捜査官の「問いかけ」の精神と「方法」である。彼のこの「きちがいじみたやりかた」がどんな結果をもたらしたか、気になる読者には小説を読んでもらうことにして、ここでは引用文から「方法」に関する二つの重要な問題をとりあげてみよう。

 まず第一に、この捜査官は「予見できないもの」を扱う場合の「方法」について、「非合理的な線」を「論理的に弁護」する。しかもこの非合理的なやりかたを最上の方法だと合理化している。客観的な矛盾を検討することに馴(な)れていない人びとは、こんなことをいわれると詭弁のように感じるかも知れないが、矛盾をとりあげることができないと「方法」論は壁にぶつかるのである。複雑な現象から科学の法則を発見するための「問いかけ」において、予想能力を持たぬ子どもにアテズッポ的な予想をすることを認めるというのも、科学教育の看板と見くらべてこれまた「きちがいじみたやりかた」に思われるかも知れない。「クソ合理主義」を捨てるところに合理的な教育の「方法」が成立するといわれると、詭弁のように感じるかも知れない。小説の中の敏腕な捜査官の「方法」と、仮説実験授業の「方法」とが決して無縁ではないことを、つぎの文章から読みとるのは無駄ではないと思う。子どもの対象への「問いかけ」の第一段階は、合理的な予想ができない段階である。

「第一のものは、予想表明のみの段階である。ここには、アテズッポ的要素のもの、いわゆるカケ的なものも含むことになる。また、はっきりとした予想という形で表明することはできないが、『そこ』にはきっと何かがあるにちがいない、という予想以前の予想にくらいするのもここにはいることになる。いずれにしても、一歩でてみる、あるいは数歩でてみるという論理のあることだけはたしかである。この論理は、この段階のものとしてぜひとも認めなければならないし、ここにちゃんとした正当な地位を与えておく必要がある。いくら思考の発達の教育とか科学的な思考の教育だからといって、かならずリクツがなければならないというクソ合理主義は捨てなければならない。現実のつきつけてくる問題の解決にあたってはいくらでもこういうばあいがあるからである。」(庄司和晃『仮説実験授業の論理的構造』)

 アテズッポそれ自体は偶然にもたれかかっていても、公平にチャンスを与えるという合理性をつらぬくための抽籤(ちゅうせん)まで、否定する者はあるまい。ここでいう第一段階も、子どもだけでなく、おとなが現実のつきつけてくる問題を解決する場合にも存在すると考えていくときに、捜査官の「方法」とつながるわけである。彼の「方法」はそれなりの理由を自覚しているのだから、アテズッポではないけれども、まったく手がかりのないところに数歩出てみるための「方法」は、「合理的な線」を歩んでいるとはいいがたい。アテズッポとかカケとか、それ自体として見れば非合理的なやりかたの持つ段階的な役割を、正当に評価して授業の中に位置づけたのは、仮説実験授業の「方法」論的な特徴であり、当然かくあらねばならぬとはいえ論理的に確乎とした裏づけを持っている点で、やはり成果の一つと見なければならない。

 捜査官の主張の提起している問題点の第二は、「最悪の方法」が条件の異なる場合に「最上の方法」になるということである。誰もが「最上の方法」として認めているやりかたが、「最悪の方法」に転化するということだけでなく、その逆の転化をも考えてみる必要がある。教育の分野を例にとるならば、オシツケはいかんとか、体罰を加えるなどはもってのほかだとか、いわれている。たしかにそうなのだが、これらも絶対的に否定するならば、「最上の方法」を絶対的に肯定することのいわば裏がえしになってしまう。時々「暴力教師」が非難されるが、学生が愚連隊になって女学生をナイフで脅迫し、これを見つけて阻止する教師に切りかかって来たときに、教師が腕力で立ちむかい取押えるのはいかんと否定する者はあるまい。たとえ非常に特殊な、せまい限界の中ではあっても、ある条件ではオシツケや体罰が「最上の方法」になるのではないかと予想してみることは、決して無駄ではない。そういう場合があるからこそ、これらの「方法」が限界を超えて不当に拡大して使われることにもなったのではないか、と考えてみる必要があろう。

 仮説実験授業は「おそろしいおしつけ教育」を否定している。

「仮説実験授業ではオシツケというものを極度にきらいます」「これまでの理科教育が本格的な科学教育を意図するものとなりえなかったのは、決してだれかが科学教育の本格的な研究をする必要がないと考えたからではないでしょう。したくてもできなかったのです。むりして一貫した科学の論理を教えようとすると、一貫して押しつけ教育になることをおそれた人々が、小・中学校での科学の本格的な教育を意図すること自体を断念してしまったのです。」(板倉聖宣『未来の科学教育』)

「ある種の実験事実から、その帰結をひきだすのは生徒自身でなければならないのです。(それができないときは、あからさまに、科学者たちの研究成果として正しいと説明してやるべきなのであって、無理してすべてを生徒たちの“発見”に任せるべきでない、ということにも注意すべきです。)(板倉聖宣・上廻昭『仮説実験授業入門』)

 あとの引用文の括弧の中の注意書きは、本文より小さな活字で組んである。天文学の諸データのような、子どもが自分の予想を実験でたしかめることのできぬ場合には、教師や本のことばを信じさせるのだから、これはオシツケである。真向(まっこう)からオシツケを否定する授業がオシツケを是認しているとは、ごまかしではないかと思う者もあろう。たしかにここには矛盾があるが、矛盾だから不合理なのではなく、合理的な矛盾を調和的に定立することこそ問題解決のかなめなのである。

 昔から有名な「鶏がさきか卵がさきか」という問題提起が、循環論になって答えられないのは、「卵」をはじめから「鶏の卵」に限定して他の動物の「卵」を考えないためである。「卵一般」でとらえ、生物の進化において「鶏」の出現と「卵」の出現とどちらがさきかと考えれば、「卵」という答えが簡単に出てくる。宇野弘蔵の経済学の原理論が破綻するのは、資本制の諸問題をはじめから資本制の抽象的な理論の内部で説明しようと意図して、経済の発展において他の諸制度のありかたとのつながりを考えないためである。ところがいま流行の情報科学を論ずる哲学者は、「一般的にいってAがBの原因となり、BがAの原因となる」という、それ自体閉じた「相互因果性の因果関係」のメカニズムを、情報科学が明確にしたと主張し、この抽象的な論理の『方法』を「鶏」と「卵」の問題に適用しながら、こう書いている。

「このような相互因果性の因果関係を問うのに、どちらが先か、と問うことは、元来無意味な問い方であるといわねばならないだろう。……わずかな口論がだんだんとポジティヴにフィードバックしていって、最後になぐりあいにまで発展する、というような現象はしばしば見られる現象である。このばあい、どちらが先に悪口をいったとか、あるいは相手をなぐったか、ということで責任の所在を決定するということは、処罰の便宜的な仕方として認めることはできても、ほんとうにそのような出来事を生起しないようにするための責任の追求にはならないだろう。真の責任はそのような関係をつくりあげたという事態であり、関係の項となっている人間に平等に分かち与えられるべきものであろう。」「『情報化』ということばはその最も基本的な意味からすれば、情報とかシステムという新しい概念の導入による新しい科学方法論により人間の対決しなければならないあらゆる問題を綜合的に、そしてより合目的的に解決していくことである。それはあらゆる問題に対して採られなければならない科学的方法である。」(沢田允茂『情報と人間』)

 教育は情報活動のありかたで、教室の授業はシステムを形成するから、この情報科学を基礎理論にして教育方法を論じる者もあらわれている。「あらゆる問題」に採用できる「科学的方法」とか、あらゆるケンカに適用できる責任「平等」論とかいわれると、なまけ者はとびつくかも知れないが、仮説実験授業も絶対的ではなく対立した性格の予想授業が併存していることを理解した人びとは、NHKのタレント教授のことばでも眉にツバをつけるであろう。

 責任「平等」論がケンカの当事者を納得させるかどうか、その実証は哲学者にやってもらいたいが、このように内容をネグって形式的に相互関係をとりあげるやりかたは、すでにヘーゲルの『小論理学』が嘲笑している。沢田允茂は人間の認識をアプリオリズムで解釈するけれども、事物のありかたをAとBで抽象的に対立させることは、形式的に差別をとりあげて内容を捨象してしまったことを意味しており、この内容の捨象によって暗黙のうちに内容を平等に扱ったわけである。この平等の扱いかたが、ケンカの具体的な内容に根ざす責任の問題をも「平等」に解釈しなければならぬ、論理的強制となったのであって、アプリオリズムの形式主義を克服しないかぎりこの論理的強制からのがれることはできない。ヘーゲルはカント主義のアプリオリズムの形式主義を、観念論の立場から可能なかぎり正しく批判していた。われわれも最新の衣装をまとった前ヘーゲル的妄想にひっかからぬようにしたいものである。現実の具体的なケンカのありかたはどうかといえば、「関係の項となっている」AB以外に、直接関係していない、男たちを手玉にとるホステスとか誰にもうまいことをいう詐欺師とか、CやDが存在してここに責任のあることも多く、また大岡政談の「三方一両損」のように仲裁者が参加して三人が「平等」に損を負担することもある。こんなことは大学教授ならぬ熊さん八さんにとっても常識である。

 私は理論や『方法』の絶対化に反対して相対性を強調しているから、あわて者の哲学者は相対主義のレッテルを貼ったりしている。相対主義というのは、相対性だけを認めて絶対性を排除する形而上学的発想をさす。私は相対的だという理解が正しい「方法」論建設のために絶対的に必要だと主張するのであって、絶対性を排除しているわけでも何でもない。この発想は合理的な矛盾の調和的な定立であって、弁証法的発想なのである。

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