三
私が小学校五年生になったら歴史の授業がはじまった。黒板には「天孫降臨」の掛け図があり、立っている神々の足もとには雲が描かれている。教師は、天皇のご先祖が日本を統治するために天から降りてこられたのだ、という。非科学的なインチキな話だなア、と私は思った。そして教師に、からかい半分の質問をした。
「先生、天から降りてこられた神さまの子孫が、どうして天へ昇れないで馬車を使うのですか? ヒバリだって昇ったり降りたりしているのに……」
教師は苦笑して何も答えなかったと覚えている。
五〇年前の東京近郊の小学校には図書館などない。私のもらうわずかな小づかいで買えるのは、夜店の古い少年雑誌でしかない。それでも本らしいものをたった一冊持っていた。長唄の出稽古をしていた母親が、牛込の請負師の杉山さんから子どもさんにといわれてもらってきた、原田三夫の『最新知識・子供の聞きたがる話』第一巻発明発見の巻、である。単軌軌道(モノレール)の話には、車輌の安定にコマの原理を応用していると書いてあったし、また、鉄の船をつくろうとした人が、鉄が水に浮くはずはないといわれて、空カンを川に投げてみな、と反駁したという話もあった。この本から、身近な事実の原理が新しい発明に役立つことを知って、私も身近な事物のありかたを原理的に考えて応用してみるようになったらしい。私がこの本をあんまりおもしろがったので、のちに母親が同じシリーズの生理衛生の巻を買ってくれたが、あまりおもしろくなかった。それに反して、悪友の渡してくれたアルセーヌ・ルパンの活躍する探偵小説はすばらしくおもしろく、私をやみつきにしてしまった。
こうして私は「発見」や「謎とき」に興味を持つ人間になり、授業で一番好きなのも理科ではなく、「謎とき」の系列に属する算術の応用問題であった。〈植木算〉というのがある。どれだけの距離の道にどれだけの間隔で街路樹を植えると何本になるか、という問題で、これは割り算だなと距離を間隔で割って本数を出すと、道のはじめと終りにそれぞれ一本いるから、もう一本加えないとまちがいだと×がつく。池のまわりがどれだけの距離でそれにどれだけの間隔で木を植えると何本になるか、という問題で、距離を間隔で割ってそれに一本足すのだなと、覚えた「方法」で計算すると、池のまわりは円ではじめと終りがくっついているから、一本足すのはまちがいだと×がつく。同じ道でも、条件がちがうと計算の「方法」がちがうから、注意して与えられた条件を検討してみないと、正しく答えたと確信していたのが思いもかけずひっくりかえされる。あとで考えれば、公式主義への懲罰であるが、そのころは意地の悪い応用問題が多いからひっかからないようにこっちも腕を磨かなければと、大いに闘争心をもやしていた。この訓練は、何かもっともらしい理論や「方法」が出現したときに、すぐ現実のありかたとつき合せて吟味してみる、現在の仕事のしかたと無関係ではない。
そんなわけで、そのころあこがれていた侠盗(きょうとう)や名探偵に、とうとう私はなってしまったのである。古典の中に埋蔵されている貴重な真理を盗み出して大衆にバラまいても、同業者にきらわれるだけで別に罪にはならないし、社会の改革を実現するには、現実のつきつけてくる経済的・政治的・文化的なさまざまな謎を解くことのできる探偵がいなければならない。アインシュタインとインフェルトの共著『物理学はいかに創られたか』を読んだら、科学者の仕事を探偵小説の探偵の仕事と比較した個所(かしょ)がある。創造的な科学者は、探偵小説にやはりそれなりの関心を持つというわけである。
私は母親の稽古を聞いていて、シロウトが楽しみでやるときの教えかたとプロを志望する人への教えかたとは、格段のちがいがあると知った。この身近な事実で、プロの音楽家を養成するには、子どものときからそれ相当のトレーニングが必要だと知ったし、歌舞伎の役者もサーカスの芸人もみんなそうだと聞いた。それでは科学者はどうだろうか。子どものときから特殊な能力や人格の目的的な育成をしないで、上級学校になってから特別の教育をするだけでいいのだろうか、と私は思った。自分自身の小学校時代の精神生活をふりかえってみて、自分が好きで熱中したことが何に役立つことになったかを考え、プロの科学者を養成するための小学生時代のトレーニングという問題意識を持っていた私が、仮説実験授業を知ったとき目を光らせて、授業記録や感想文の子どもたちのことばを吟味するようになったのは、しごく当然のことと理解してもらえると思う。
戦後は革新的な両親や教師が「子どもをまもる」運動を展開している。このスローガン自体にはもちろん異議はない。だが家庭教育も学校教育も、苦しむかそれとも楽しむかと Entweder-Oder(あれかこれか) の発想をとって、苦しみを軽くするのが「子どもをまもる」ことだと考え、苦しいけれども楽しいという調和する矛盾の定立を無視していることに、大いに不満であった。自分がやりたいことをやるのなら、いいかげんにやめて早く寝なさいといわれても、夢中になってやるのである。子どもが自分から能動的に、苦しい勉強を楽しんでやるような教育のありかたを、どうして考えないのかと思った。
国語の漢字仮名まじり文は、表意と表音と対立する二種類の文字を使うから、一見ヌエ的で不自然に受けとられるけれども、これは対立する表現法の調和的な組みあわせを自然成長的につくり出したものと私は受けとって、革新的な人びとの漢字撲滅論に批判的であった。それで国語教育から「負担を軽くする」ためにできるだけ漢字をへらそうと努力はしても、漢字の学習方法を改革しようとしないことが腹立たしかった。石井勲が漢字学習の新しい『方法』を公けにしたとき、軽蔑し拒否した連中を救いがたいと思った。こういう子どもの甘やかしが、甘ったれ人間の大量生産にならずにすむはずはない。学問の楽しさを知って金になろうとなるまいと一生学問をやって行くのだという青年が姿を消して、昔「女の腐ったような」といわれた精神的にひよわな青年が増加し、感情的で勉強嫌いで見通しを立てる能力がなく、ただ現在のことを考えればよいのだと自分の無能を美徳にまつりあげ、計画や先の予想を持たずに行動する小児病的学生運動がひろがっていく。合理的な自己訓練できたえられていない革新的「権威」が没落していくのはけっこうだが、それに代って抬頭(たいとう)するのは能力は低いがジャーナリズムの利用にたくみなカマトト的学者なのだから、やりきれない。
こんなことを書くと、いまの世の中の人間や運動を嫌悪し絶望しているかのように誤解する人もあろう。そうではない。私のすきなつぎの文章は、筆者が弁証法的に思惟する能力を持つことをよく示していると思うが、この筆者の心がまえに私も同感なのである。
「人伝(ひとづて)などに聞つる時は、いといみじとおもひつる人の、逢(あい)見るに見おとりするこそ口をしけれ、さては世にいみじとつたへいふは大方(おほかた)かゝるにこそ、めずらしげなし浅ましなど思はんはいかにぞや、それさる物なればこそ、世はいよいよあなどるまじかりけれ、よろしき名ある人のかくいひがひなきが如く、かくろへしのびてありとも人しらぬほとりにおもひのほかなるかしこきもぞまじれる、不定(ふぢやう)の世なれば、目もたのまじ耳もたのまじ、位やんごとなきをも何かはおそれん、はにふの小屋なるをも何かおとしめん、名は実にあらず、実は名にあらず、せんずるにあなどるまじきは世の中也」(樋口一葉『しのぶぐさ』)
だから私は一方では「いひがひなき」「よろしき名ある人」を批判して悪名を頂戴し、他方で「かくろへしのびてありとも」「おもひのほかなるかしこき」学生や教師に協力して感謝される、いまの矛盾した生活を合理的だと思っている。自分が正しいと信じている理論が、国際的な定説として誰もが正しいと信じて疑わない見解とは相いれない場合、特にまだ無名の青年でしかない者がその定説に対して公然と批判をつきつけるには、やはり勇気がいるし、ふくろだたきにされても平然としているだけの神経の強さが必要である。真理は多数決じゃないし、わかってくれる者が必ずどこかにいるはずだ、と最後の勝利を信じて節を曲げない頑固さが必要である。かしこい学生と話してみると、やはり学者としての主体的条件に関心を持っていて、サムライでないといい学者になれぬとか、善良で熱心でも気が弱い者は不適格だとか、的をついたことをいう。たしかにすぐれた学生や教師はみなサムライである。私も健康なヤマカン精神の必要性を強調して、「われわれはヤマカン学派だよな」と笑ったりする。
ここでいうヤマカンは Speculation をさしている。辞書を見ると「思索、思弁」「推理、臆説」「空論」「投機」など多くの意味に使っている。時枝誠記は剣道でも三段のサムライであったが、自分の言語過程説を Speculation だといい、「西洋ぢや、相場の思惑も、学者の思索も、スペキュレーションといふね。大学者が大相場師と同じとは面白い」とおもしろがった。そして「もしそれが外れたら、夜逃げをするか、首をくくるより外に仕様がなくなるぢやないか」と問題を展開し、「その危険は、相場と同様に、免れない運命だ。しかし、それならばこそ、学問にもスリルが涌いてくるわさ。スリルのない学問なんて、考えただけでも、気が滅入ってくる。常夜(とこよ)の闇みたいなものだ」といい放った。彼は学問の「スリルを楽しもうとする」学者だったのである。言語過程説を発表したときの自分のありかたを、時枝自身「死出の装束(しでのしょうぞく)を纏(まと)った獅子奮迅(ししふんじん)の姿」だったと書いているが、それは学問的な生命がかかっていただけではなかった。彼の批判の対象は恩師橋本進吉の学説であって、「いひがひなき」「よろしき名ある人」なら、師に弓をひくと激怒して学界から村八分するところである。ところが橋本は、時枝の『国語学史』に序文をよせて、「今や独自の国語観を立てる所まで進まれたのは、私としても喜びに堪へない次第である。」とよろこんだばかりでなく、自分が定年で東京帝大を退職するときにはわざわざ京城帝大から時枝をよびよせて自分の後任にすえた。橋本もりっぱな学者であり、りっぱなサムライであったことがわかる。
仮説実験授業の感想に、「じっけんを やるときは ぼくは もう、うれしくて うれしくて もう足が ふるえてしまう」と書いた小学校低学年の子どもがいる。やはりスリルを楽しんでいるのである。小学校高学年の子どもに科学者観を求めたら、「とても、科学の楽しみを味わいながら、研究する」(滝沢和子)「科学は、楽しくて、こわい」(松岡ジュネ)「科学者は真理を求めるのがたのしいのだろう」(大島正弘)「科学の楽しさにひきこまれていくのだ」(重原二郎)と、多くが科学研究の楽しさを指摘しているのには、まいったという気がした。アテズッポしかできない段階から、理由を考えて確信の持てる段階に成長していくと、楽しみがさらに大きくなるという点では、競馬も相場も学問も共通している。
時枝は Speculation をお上品に「あてこみ、見込み」と訳したが、お下品なわれわれはヤマカンと名づけた。ヤマカンと聞くといかがわしい感じがするであろうが、ヤマカンがいいかわるいかも条件によってきまることで、努力家のヤマカンとなまけ者のヤマカンといっしょくたにはできない。なまけ者の学者のヤマカンは虚名や原稿料をねらった不純なもので、学問のスリルを楽しむためではないし、外れた場合には失敗を成功のもとにして的に当ったヤマカンを出す能力もないから、結局首くくりの道を歩むことになる。だからなまけ者でも目はしのきく学者は一切のヤマカンを避けている。「沈香(じんこう)も焚(た)かず屁(へ)もひらず」という態度になる。中ソが論争をはじめて、スターリンばかりか毛沢東もどうやらおかしいということになると、うっかり何か書いてまちがったら大変だと、哲学者たちは学者ぶるのをやめて教師業に精を出すようになった。
仮説実験授業はといえば、どんなにすぐれた科学者でもヤマカンが外れるのを免れることはできないし、外れても恥でもなければ不名誉でもないことを、クラス全部の子どもに身をもって経験させ、みんなをいい意味でのヤマカン的人間に育成しようというのだから、いうなれば理想的条件で行う温室栽培みたいなものである。精神的に虚弱で、スリルを楽しむのではなく恐れる子どもは、この授業を好まないかも知れないが、そういう子どもは非常に少いだろうと思う。もちろん現実の世の中は、教室と条件がちがう。現実的な利害関係などもからんで、足をひっぱる人間や頭を押える人間がいる。自然科学のヤマカンなら、実験で反対者を沈黙させることができるが、社会科学ではそれができないし、「いひがひなき」「よろしき名のある人」がライヴァルの出現をくいとめようと、首をくくる縄を持ってきたりする。しかし同じ温室栽培でも教室のそれとはちがって、一応ヤマカン精神を確立できるなら、世の中へ出て悪条件がおそいかかってきてもそれに絶えてくれることを期待できる。そんなわけで、ヤマカン学派の「勇将」をもって自認している私は、仮説実験授業がヤマカン的人間を計画的に育成しているのを、将来「死出の装束を纏った獅子奮迅の姿」で闘う若武者たちが現れるであろうと、たいへんうれしがっているのである。