三浦つとむ「横目で見る立場から」(4)(PC版ページへ)

2008年08月15日19:02  弁証法>未分類

 三浦つとむ「横目で見る立場から」(1)~(4)をまとめて読む。

 関連:三浦つとむ『現実・弁証法・言語

引き続き、三浦つとむ『現実・弁証法・言語』(国文社・一九七二年)所収の論文から「横目で見る立場から――「仮説実験授業」についての感想 四」を紹介する。

〔注記〕 引用に当って、原著の傍点は読点句点のように表記し、適宜ルビを振った。

『現実・弁証法・言語』 p.84~ 

 四 

 舶来品崇拝は日本の学者の悪しき伝統であるが、教育理論の分野でも白人文化コンプレックスで外国の「よろしき名ある人」をもてはやしているかに見える。子どもの認識や表現を論じるときには、ピアジェの児童心理学やパヴロフの第二信号系理論などがかつぎ出されている。「名は実にあらず、実は名にあらず」で、仮説実験授業にたづさわる小学校の教師のほうがもっとずっとすぐれた仕事をしているのだが、日本人の仕事が国際的な水準を抜いているといわれると、革新的な人びとの間にも妙な顔をする人が少なくない。偏狭な国粋主義から生れた排外的な主張であるかのように、受けとりがちなのである。ソ連や中国の理論を絶対的真理と思いこむ傾向はなくなったにしても、マルクス主義に対する信頼からこれら社会主義国の理論的創造に期待をかける気持は、やはり根づよいかに見える。国際的な水準を考えるときにも、この気持があるために日本人の仕事に対する正当な評価が妨げられたとすれば、これら社会主義国のマルクス主義が現在どう歪められているかについて、ある程度の理解を求めることも、不当ではあるまい。

 さきに授業の「方法」について、矛盾を調和的に定立することの重要性を指摘したが、授業を受ける側の態度さらには科学者が創造的な仕事をする場合の研究の「方法」についても、同じことがいえよう。

 〈物とその重さ〉の授業では、対象の形態が重さと無関係であることを、くりかえし経験する。〈ばねと力〉の授業でも、一本のばねと二本直列につないだばねと、形態はちがってものびには変りがない。そこで、形態の変化は他のありかたと無関係なのだ、という固定的な考えかたが生れやすい。二本のばねを並列につなぐ問題を出されたときも、形態がちがうだけだと思って予想を立てる。二本の糸をたてにつないだときには糸の強さは変らないが、ならべてより合せると強さがグッと増すという経験を持っていても、授業からの先入観が禍(わざわ)いしてなかなかそこまで頭がまわらない。実験で予想がひっくりかえされてから、先入観に対する真剣な反省が生れる。前に習ったことにひきずられるな、生活経験を総動員してみることも大切だ、思考実験も必要だ、と気がつく。

 科学者の仕事には、冷静沈着に極細極微の現象すら無視することなく注意深くながめ、それに類似した現象ともむすびつけて考えるキメこまかい心づかいと、現象がどうあろうとそれにひきずられることなく推理をすすめ、ヤマカンを提出する大胆さと、この対立する態度を調和的に統一していくことが要請されているのであって、そのどちらが欠けても科学的な研究態度とはいいえない。この研究態度を目的的に育成するのでなければ、科学者の育成とはいいえない。探偵にしても、現場にのこった泥とか車についた塗料とか、微細な手がかりを事件解決に役立てるキメこまかい心づかいと、状況証拠にひきずられることなく一見まったく関係のなさそうな人間を真犯人ではないかと疑ってみる大胆さと、そのどちらが欠けても名探偵にはなりえない。

 私は戦前に競馬の予想屋で印刷を手伝ったことがあるが、このヤマカンからも学ぶところがあった。馬や騎手についていろいろなデータを調べるのはもちろん、レース前日の夕方に各厩舎(きゅうしゃ)をまわって馬たちを冷静沈着に観察し諸関係者と話しあい、それらの結果を綜合して予想を立てるのである。現実のレースは予想の正否を実証する。的中率の低い予想屋はお客が相手にしなくなる。哲学者や評論家が雑文を書くのとはちがって、真剣勝負だから実力がないとやっていけない。この予想屋の主人は、競馬ずきですっかり財産をなくしてしまい、こんどは自分の経験を生かして予想を職業にして財産をつくったのである。長い間の真剣勝負できたえられた能力の持ち主である。これを逆にいうならば、真剣勝負で自分をきたえていない哲学者や評論家では、調和する矛盾を定立することの「方法」的な重要性を実感をもって主張できないわけであり、資本主義国であろうと社会主義国であろうとこの点では変りないわけである。

 しかも現在のマルクス主義の教科書では、調和する矛盾の定立という問題が落丁になっている。マルクス=エンゲルスにはあったのだが現在ではないばかりか、現実からの強制でこれを説く者があらわれると、調和する矛盾を認めるのは階級の調和を認めることになるから修正主義だとこじつけられ、ふくろだたきにされるというみじめな状態にある。これではマルクス主義矛盾論と称するものも、教育方法の建設の援助者ではなく、妨害者に転化してしまっているといわねばならない。

 教育理論の建設にとってきわめて重要でありながら、現在のマルクス主義の教科書で落丁になっている問題はまだある。誤謬をおかさぬ人間などというものは存在しない。人間の認識にとって誤謬は本質的なものである。それにもかかわらず教科書には真理論だけで誤謬論がない。せまく固定した考えかたでは、誤謬や失敗はのぞましくないありがたくない存在である。オシツケ、ツメコミの教育では、誤謬や失敗は劣等児の証明以外の意味を持たない。大衆の中にもせまく固定した考えかたをする者が多いから、ことわざが「失敗は成功のもと」だと、失敗の積極面に注意を求めることになった。条件によって「最上の方法」と「最悪の方法」とが相互に転化するように、条件によって真理と誤謬とは相互に転化する。ばねの直列のときの真理は並列という条件のちがった場合には誤謬であることを、実験が証明してくれる。真理をつかむことが積極的な意義をもつだけでなく、誤謬をおかすことにもまたそれなりの積極的な意義があるとすれば、その教育上の意義を考え教育の中にどう導入するかを教育理論は問題にしなければならないはずである。

 科学の歴史を長期にわたるダイナミックなとらえ方で検討してみれば、科学者の誤謬の持つ役割も明らかになる。だからこそエンゲルスも科学史や哲学史をふまえて、「真理であるという無条件的要求権を持つ認識は、相対的誤謬の系列を通じて実現される」と書いたのだが、現在のマルクス主義の教科書では「相対的誤謬」という概念すら消え失せてしまっている。仮説実験授業が「私自身の科学史と認識論の研究をもとにして、これまでの科学教育――理科教育の内容と方法とを全面的に組み立てなおす」(板倉聖宣)という過程をとっていることは、マルクス主義の教科書の歪められた認識論に束縛されることなく、誤謬の持つ積極的な意義を評価して授業の中に意識的計画的に導入する結果をもたらしたのである。誤謬についての科学的な理解が欠けていて、誤謬を冷静沈着に検討することなく階級的条件と直結して不当な非難をあびせたり、ある時点でのふみはずしをはじめから計画的に行動したものと判断しスパイの汚名をきせて粛正したりするような社会では、誤謬の持つ積極的な意義を評価する授業方法が確立し展開するかどうか疑わしい。

 私は一九六七年の冬にキエフの国民経済博覧会でいろいろなティーチング・マシンを見たが、これでツメコミ教育が行われるかと思うと心寒いものを感じた。六九年の冬には経済審議会の情報研究委員会がその報告書を『日本の情報化社会』と名づけて出版したが、その中で「教育方法の革新」が論じられ、「効果的、効率的な教育のために教材・教具の改良から視聴覚教材、コンピュータ・システムの開発へと進み、『手工業最後のトリデ』と評されている教育の領域も大きく変貌を遂げる時代が迫っている」と書かれている。私はティーチング・マシンなど新しい教具の出現それ自体を否定しているのではない。医療の治療機械と同じように、それが合理的なものであるなら承知するのである。外国語を早く身につけるには、耳からたくさん聞くことが必要なのに、学校の外では日本語しか耳にすることができないなら、テープレコーダーに会話のテープをかけてくりかえしくりかえし耳にするという練習方法が有効なのはいうまでもない。ただ、ある条件のときに「最上の方法」でも、条件が異なると「最悪の方法」に転化するということは、コンピュータとても同じだといいたいだけである。誤謬や失敗はのぞましくないありがたくない存在だとする形式論を基礎に、コンピュータを使って教える「方法」が万能かどうかは、これまで述べて来たことからもわかるはずである。

 仮説実験授業は、授業書を使って予想から実験へすすむ段階でも、子ども同士の生きた対話を重視している。授業のあとで子どもたちに「えんぴつ対談」をやらせ、「先生も一言」感想を加えて、プリントにしてみんなにくばるという、対話の「方法」もあらわれた。これを革新的な人びとの一部に見られる集団信仰と同一視してはならない。教室は一つの小社会を形成する。教師も子どもたちも小社会の一員である。授業の目的は個人の能力を高めるところにおかれていても、そのためには社会的な協力を深めることが必要である。機械器具の使用もこの社会的な協力にプラスするものでなければならない。個人は自分で自分をつくり高めるのではなく、相互につくりあい高めあうものであるというのが、社会観の基礎である。教室の小社会は子どもたちが主権を持つ社会であって、教師はあまくだりとしてこの社会に入ってくるとはいえ、子どもたちが自分をつくり高めあうための援助者=道案内者として活動する、と見るのが民主的な考えかたである。正しい社会観を持ってこの授業を見るならば、教室の小社会の特殊性を考慮しながら、社会的な協力を深めていくさまざまな対話のありかたが、正しく評価できると思う。

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