三浦つとむ『日本語の文法』 まえがき――文法とは何か(PC版ページへ)

2010年04月18日18:58  言語>文法

ソシュール的にいえば文法*は「言語(連合関係)」であるが、三浦つとむの規定からすればそれは言語規範を構成する一つの規範である。ただし、「」法と表現されてはいても、そこには語法や文章法、音韻等の諸規範も含まれている。そして文法のうちで基礎をなすものはやはり語法である。語についての考察なくして文について考えることはできない。「言語(内言語・連辞関係・シンタグム)」のうちに「言語単位」を発見することがソシュールの究極目標であり、ソシュールが当初「連合関係」(語彙規範)を「言語」と読んでいたことにもそれが現われている。

* 広い意味では語彙(語彙規範)を含むこともある。その場合には文法すなわち言語規範ということになる。しかし通常、文法という概念に語彙の一部が含まれることはあっても語彙をまるごと含むことはない。なお、ソシュールのいう「言語」は「連合関係」および「連辞関係」であり、それらは後にそれぞれ「パラディグム」「シンタグム」と再規定されることになる。

ソシュールの大きな功績の一つは、文法や語彙が「範列関係(範例関係)・パラディグム」――ソシュールのいう「連合関係」――という社会的な制度であり、それが実体として個々人の頭の中に存在している事実を発見したことである。

三浦つとむは、言語に関するこれらの社会的な制度が個々の人間の意識の中に存在していながら、社会的な意志(Sollen・ゾルレン・当為)として、すなわち個々の人間の意識や行動を規制する規範意識として働いていること、つまり法律や道徳などと同じように個々人の意識のうちに社会的な規範として存在していることを明らかにし、言語に関するこの社会的な規範を「言語規範」と規定したのであった。

ここで重要なのは文法や語彙といった言語規範は、社会的な規範の一つであり、形態としては個々の人間の意識の裡(うち)規範意識として現象し、存在しているという事実である。文法書や辞書の形態で存在しているものはあくまでも文法(語法…)や語彙の規範(規範意識)が表現されたものであり、規範そのものではない。これは成文化された法律書が法律そのものではなく、法律そのものはやはり共同体を構成する諸個人の意識のうちに規範意識として存在しているのと同じである。

閑話休題。「文法」という概念をダシにして『日本語の文法』まえがきそのものとは直接関係のないことをいろいろ書いてしまった。羊頭狗肉ではないかといわれそうだが、日本語の文法を理解するためにはやはりその上に立脚すべき視点であろうと私自身は思っている。

日本語の文法に話を戻そう。時枝誠記(ときえだもとき)は江戸時代の国学者たちの発見した語についての二つの概念(本居宣長の「」と「」、鈴木朖(あきら)のいう「三種の詞」と「てにをは」)をそれぞれ「」「」という概念のもとに再規定し直し、それによって日本語の単語を二大別してその文法論・言語論を展開していった。

江戸時代の国学には言霊思想という古代の迷妄がこびりついてはいるものの、その固妄が現実を顛倒(てんとう)してとらえたイデオロギーであると喝破するなら、彼らの発見が国語学に与える貢献の大きさを無視してはならぬことは心ある国語学者なら理解できたはずである。時枝はその数少ない一人であった。

」=「三種の詞」は意識のスクリーンに映し出されたものごとあるいはそのものごとのあり方を言語として表現したもの(名詞・動詞・形容詞・副詞)であり、「」=「てにをは」は意識のスクリーンを見ている主体のあり方(感情や判断、関係意識)を直接に言語として表現したもの(感動詞・接続詞・助詞・助動詞)である(意識主体そのものは直接には言語その他の表現に現われてこない――作者の不在――という現象は非常に面白いテーマであるが、ここでは触れない)。

前者はいわば意識のスクリーンに映った客体(オブジェクト)あるいはその客体のあり方(現象)を言語として表現したものであり、後者はそのスクリーンを見ている意識主体(サブジェクト)のあり方を言語として表現したものである。この規定に従って、のちに時枝は「」「」という言い方から「客体的表現」「主体的表現」という言い方にあらためている。

また三浦つとむは、言語ばかりではなく、記号や符号、絵画や写真・映画、普通の身ぶりや表情もまた人間の認識や意識が表現されたものであるという広い視野に立って、「客体的表現」「主体的表現」という言い方がより適切であると述べている。

というわけで三浦の『日本語の文法』は時枝の客体的表現・主体的表現という文法論を引きついだ形で展開されている。普通の文法書とはひと味もふた味も違うので興味のある方はどうかお読み戴きたい。なお客体的表現・主体的表現については当ブログに「客体的表現と主体的表現(1)~(4)」という記事がある。

日本語の文法』(勁草書房)「まえがき」, p.1~4 

 学者とよばれている人びとの中にも、日本語とヨーロッパ諸言語とを比較して、劣等感や軽蔑感を持つ者がある。日本の政治的な後進性から、日本語も後進性を持つことになったと論じる者もある。自分の話したり書いたりしている言語なのだから、もっと科学的な態度で研究したらどうか、と私はいいたい。日本語の文法を研究するならば、個個の語およびその相互関係を規定する法則が明らかになり、日本語の持つ独自な構造をとらえることができるから、その合理性も納得できるはずである。日本語の文法についての科学的な説明は、学校の教育や古典の読解という枠を越えて日本人全体の関心の対象になってしかるべきであり、無味乾燥で退屈な知識などにはならないはずである。しかしながら、これまでの文法論はそういうものになっていなかった。学校で教える教科書の文法も、学生は試験に出るのでいやいや暗記しているし、教師や学者の間には不満や批判が高まっている。日本語に対する劣等感や軽蔑感もこれでは克服することができない。

 日本語は、外国から渡来した表意文字(漢字)と、日本で工夫した表音文字(ひらがな、かたかな)とを調和的に組合せて使い、語と語とを粘着させて表現している。これは言語の形態においても、また性格においても、ヨーロッパの諸言語とは異質である。すべての言語はそれなりの普遍性を持ち、日本語も例外ではないから、日本語だけ研究しても一般的な言語理論は生れないという主張は成立しないが、この普遍性は形態や性格の特殊性を不可分なものとして伴っているから、一般的な言語理論だけを持ち出して安易に日本語を論じるとつまづいてしまう。明治以前の日本の学者は、独自・独力で日本語ととりくんで、その特殊性を解明して来たものの、指導理論としての言語観はまだ素朴なものでしかなく、体系的な文法論をつくりあげるには至らなかった。それで、ヨーロッパから文法論や言語学が輸入されるようになると、これらをすべての言語にあてはまるかのように絶対化して受けとって、そのまま日本語に押しつけて解釈する傾向が現われた。外国の体系的にととのった学問に心を奪われ、それに無条件に追随するのが明治のはじめの日本の学風であったから、日本語の研究にこのような傾向が生れるのもやむをえないことであったが、ヨーロッパの文法論や言語学に科学と名のる資格があったかどうか、実はそれすら疑問だったのである。学者は日本語を検討してみて、ヨーロッパの諸言語とはちがった特殊性のあることを認めないわけにはいかなかったし、それをとりあげた昔の学者の研究成果もすてるわけにはいかなかったから、結局のところ和洋を折衷した文法論が定説化することになった。したがって、明治からの文法研究の歴史は、日本語ととりくんでその法則の把握に努力するだけでなく、外国の文法論や言語学の見解をそのまま日本語に押しつけて不当な解釈を加える傾向と闘って、それを克服していく歴史でもあった、ということができる。この闘いはいまもなお続いている。パブロフ生理学や意味論や構造主義の言語観を指導理論に迎えたり、チョムスキー文法論の発想で日本語の構造を解釈したり、外国における権威や流行をさっそく日本へ持ちこんでそれで自分の主張を権威づけようとする者が、つぎからつぎへと出現するからである。

 日本語の文法の持つ特殊性は、二種類にわけることができる。第一は、日本語の持つ言語としての性格の特殊性から生れたもので、日本語の文法の全体をつらぬく特殊性であり、第二は、日本人の生活および思想の特殊性から生れたもので、特殊な単語や特殊な表現のしかたである。「さみだれ」や「こがらし」は多様に変化する自然の中での日本人の生活から生れた自然把握を、「有難迷惑」や「痛し痒し」は日本人の素朴な弁証法的把握を示しているが、これらの特殊な語にしてもその他の実体表現や属性表現の語と共通した性格を持っている。すなわち、第二の特殊性は、つねに第一の特殊性にプラスしたものとして存在している。ところが、文法の研究が不十分で第一の特殊性の正しい理解を欠いていると、日本語の言語としての性格から生れた文法ないし表現の特殊性と受けとるべきものを、日本人の思想や心理の特殊性から生れたものであるかのように、不当に拡張して解釈してしまう。最近の日本語論には外国語や外国の言語学に通じていても日本語の言語としての性格を理解していない人びとが、この不当な拡張解釈によって日本人論や日本文化論の流行に悪のりするという、好ましくない傾向が目立っている。

 他の諸科学と同じように、言語についての科学も一朝一夕に完成するものではなく、直線的に発展するものでもない。多くの学者の努力ないし成果がつぎつぎと積みあげられ、完成に近づいていくものであってみれば、先人ののこした成果を正しく学びとりその至らないところを訂正発展させるのは、学者としての義務である。しかも言語にあっては直接に耳や目でとらえられる音声や文字の部分を手がかりとして、その背後に存在した直接とらえることのできぬ思想の性質や構造を読みとるとき、はじめてそれを理解できるのであるから、学者はここでつまづきやすい。現象にとらわれて、形式主義や機能主義などの誤った考えかたに転落し、学問を進歩させたつもりで退歩させてしまう。先人ののこした仕事の中の、成果を評価することができずに、誤った見解のほうを正しいものと思いこんで受けついだりする。学問の発展がジグザグなものになっていく。このような誤った考えかたのために無視され葬られている先人の成果をすくい出し、正当に評価することも、われわれのなさなければならぬ仕事の一つである。日本語はその性格上、非常に抽象的な内容で独立した単語がすくなくないし、それらは具体的な内容の単語と組み合されて重要な役割を果たしている。しかし内容が抽象的であろうとなかろうと、音声や文字と直接関係はないから、形式主義的な扱いかたではこの抽象的な内容の単語の役割を正しくとりあげることができない。本書においては、形式主義的な扱いかたのために無視され葬られた成果の再評価や、無視された問題の解明が、大きな部分を占めることとなった。

 日本語には、一音節の単語が多い。しかもそれらの大部分は多義的に使われているし、まったく性格のちがった語になる場合もあるから、形式主義的な扱いかたをすると至るところでふみはずしてしまう。同じ「の」でも、「私家」は<助詞>であるのに、「だめなです」は<名詞>であり、同じ「て」でも、「もらい」は<接尾語>であるのに「食べください」は<助動詞>である。「寒くなかったでしょう」は、「寒く―なく―あっ―た―でしょ―う」と、<形容詞>と五つの<助動詞>で構成されているが、なぜこんな順序で五つの単語が粘着的に加えられているのか、これまでの文法論では理論的に説明できなかった。そこから、<助動詞>は単語ではないからこれは全体を一語として扱うべきだ、六つにバラバラにして扱うから昔からのやりかたはまちがいだという、安易で不当な解釈が科学的文法論と自称して出現することにもなった。現在の教科書文法は科学的に改作しなければならないが、それには認識論的理解を伴った正しい言語理論の援助が必要である。既成の諸学説から、もっともらしい解釈をあれこれとよせ集めて文法体系をでっちあげるようなやりかたでは、成功はおぼつかない。日本の学者は、模倣や小細工では世界に比類のない能力を持っていても、基礎理論の創造には関心も努力もとぼしい弱さがある。日本語の研究でもこの風潮が支配的になったように思われるが、国語学の伝統はそんなひよわなものではなかったはずである。

 私の文法研究の基礎となった言語理論は、さきに発表した『認識と言語の理論』(第一部・第二部・第三部)(勁草書房)に詳しく述べたから、本書では説明に必要な最小限度にとどめておいた。言語理論に関心を持つ読者は併読していただきたい。本書の出版は前著と同じく勁草書房の石橋雄二氏のお世話になった。

   一九七五年五月

著  者  

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