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ソシュールの「言語」(1) [PC版ページへ]
2006/07/09 18:55

 ソシュールの「言語」(1)〜(4)をまとめて読む。

昨日トラックバックいただいた「ソシュールの言葉に対する解釈」(2006年07月08日)において秀さんは『一般言語学講義』から引用したソシュールの言葉に対する解釈が秀さんと私とでは異なるということを述べ、秀さんご自身が誤読しているかも知れないと書いている。私はソシュールが「言語」というとき、それは常に langue つまり三浦の規定した言語規範を指していると考えて私なりの読み方をしたのであるが、直後に引用されている内田氏の言葉と照らし合わせて読むと誤読しているのは秀さんではなくてむしろ私の方かも知れない。そう思って手持ちの『一般言語学講義』を調べてみた。以下は第II編第4章「言語価値」§1「音的資料へと組織された思想としての言語」冒頭からの引用である。追記 この部分は「第三回講義」の後に「第二回講義」をつぎはぎしたものであることが分かった〕


『一般言語学講義』第II編第4章「言語価値」§1(p.157-158)

 言語が純粋価値の体系でしかありえないことを会得するには,その働きにおいて活躍する二要素:観念と音とを考察するだけでよい.

 心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.記号の助けがなくては,われわれは二つの観念を明瞭に,いつもおなじに区別できそうもないことは,哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた.思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない.

この浮動的な王国と向かい合って,音のほうこそはそれだけであらかじめ限りとられた実在体を呈しはしまいか? おなじことである.音的実在体とても,より堅固なものでもない;それは思想がぜひともその形をとらねばならない鋳型ではなくて,一つの造形資料であり,これまた分明な部分に分かたれて,思想の必要とする能記を供するのである.画像それゆえ総体としての言語的事実すなわち言語は,これを同時に茫漠たる観念の無限平面(A)と,音の・それにおとらず不定のそれ(B)との上に引かれた,一連の隣接下位区分として表わすことができる;その模様はこの図をもってよく彷彿させることができよう:

 思想と向かい合っての言語独特の役割は,観念を表現するために資料的な音声手段をつくりだすことではなくて,思想と音との中を取り持つことである,ただしそれらの合一は必然的に単位の相互限定に落ちつくことになる.ほんらいこんとんたる思想も,分解するや,明確にならざるをえない.それゆえ思想の資料化があるわけでもなく,音の精神化があるわけでもない;いささか神秘めくが,「思想・音」は区分を内含し,言語は二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげるのである。……

 言語はこれを分節の領域であると称することもできなくはない.ただしこの語を p.22 において定義した意味((注)言語活動については articulation「分節」とは意義の連鎖を意義単位へと細分すること。人間生具のものは口頭言語ではなくて、言語を、つまり分明な観念に対応する分明な記号の体系を組みたてる能力である)にとって:言語辞項はおのおのの小肢体であり,articulus「肢体・細分」 であって,そこで観念が音に定着し,音が観念の記号となる.

 言語はまた,一葉の紙片に比べることができる:思想は表であり,音は裏である;裏を分断せずに同時に表を分断することはできない;おなじく言語においても,音を思想から切り離すことも,思想を音から切り離すことも,できない;できたとしたら,それは抽象作用によるしかなく,その結果は純粋心理学か純粋音声学かのしごととなろう.

さて、長い引用となったがこの内容を理解するのはむずかしい試錬である。というのは『一般言語学講義』を読むにあたってはその用語についての理解が不可欠であり、つねにそのことに留意していなければならないからである。ソシュールによれば、フランス語では「ものをいうという行為」=langage「言語活動」と「ものをいうために用立てる口頭的または書写的記号の体系」=langue「言語」とは区別されている。ソシュールは、「言語」はその話者にとっては史的事実である前にまず意識事実である、といっている。さらに parole「言」は各個人が langue「言語」を実現することであり、書き言葉つまり書かれた言葉は e'criture「書」であって、『一般言語学講義』全体にわたってこの定義による用語法が貫かれているようである――〔追記〕どうやらそうでもないらしい。小林英夫訳『一般言語学講義』においては「言語」と訳してあってもそれは必ずしも 'langue' であるとは限らないようである

したがって、上記引用文においても「言語」とは langue つまり社会制度としての言語規範のことである。ただしここでは「言語」を「分節が行われる領域」であるともいっている。その理由はその部分が、「言語」が「二つの無定型のかたまりのあいだに成立しつつ,その単位をつくりあげる」過程つまり言語の成立過程を語る部分だからである。また上記引用は思想が分節される意識内部の現象についての記述であるから「音」とあるのはすべて聴覚映像(音声表象)のことである。「概念」ではなく「観念」という語が使われているのは、ここでは langue「言語」の成立を語り、次節以降で「音」がシニフィアン(能記・意味するもの)、概念がシニフィエ(所記・意味されるもの)、そしてシーニュ「記号」がそれらの連合として「価値」という概念のもとで再把握されるからかもしれない。「聴覚映像」「概念」の連合としてのシーニュ「記号」については第I編第2〜3章においてすでに語られている。

というわけで「言語が現われないうち」あるいは「言語の出現以前」という表現で用いられている「言語」とは langue である。

続きを読んでみよう。

『一般言語学講義』(p.159)

それゆえ言語学のしごと場は,二つの秩序の要素が結合する境界地域である;この結合は形態をうみ,実体をうみはしない.

以上の見解は,……記号の恣意性について述べたことをいっそうわかりやすくしてみせる。言語的事実によって結ばれた二つの領域は,ただに茫漠・無定型である のみならず,なおなにがしの概念にたいしなにがしの聴覚的切片をあてがう選択は,まったく恣意的である。もしそうでないならば,価値の概念はその特質のいくぶんかを失うであろう,というのもそれは外部から押しつけられた要素をふくむことになろうから.ところがじつをいえば,価値はまったく相対的なものであって,さればこそ観念と音との連結は徹底的に恣意的なのである。

こんどはまた,記号の恣意性が,なぜひとり社会的事実が言語体系をつくりだすことができるかを,いっそうわかりやすくしてみせる.集団は,価値の成立のために必要であって,これの唯一の存在理由は,慣用と一般的同意のうちにある;個人一人ではそれを一つとして定めることはできないのだ.

以上から、この節はソシュールが langue「言語」つまり言語規範の成立する様を語っているところであると、私には思われる。したがって「言語が現われないうち」あるいは「言語の出現以前」とは langue「言語」が成立する以前と解するのが妥当であろうと私は思う。

ただし、一つ問題が残っている。私は自分が所持している『一般言語学講義』から引用したが、秀さんが引用したものとは訳が違っている。私が持っているものは 1972年12月発行の改版であるが、現在出ているものとは内容が異っている可能性があるからである。追記 これについては「ソシュール「言語学」とは何か(6)」を参照〕



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