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2012年09月25日(火)| 科学・教育>科学 |  
板倉聖宣『摸倣の時代』――西洋医学と脚気、御用医学と玄米食

米のとぎ汁を使った発酵液(とぎ汁乳酸菌液)を私が作り始めたのは昨2011年の5月初めでした。それから間もなくして、ひょんなことで私の手元に届いた板倉聖宣さんの『模倣の時代(上・下)』(仮説社)という本を私は読み始めたのです。この記事のタイトルにある「西洋医学と脚気、御用医学と玄米食」はこの本の副題です。

私はこの副題に何か因縁めいたものを感じざるをえませんでした。米のとぎ汁には稲の種籾の中に住んでいた乳酸菌や酵母が生きていますが、その中には米粒に含まれていた各種のビタミンや酵素・ミネラル等が含まれており、そこには脚気(かっけ)という病気と密接に関わりのある物質も含まれているからです。

この本を読むまで私は脚気という病気が死に至る恐ろしいものであることを知りませんでした。私が生まれた戦後間もなくの頃はまだ脚気が原因で亡くなる人がかなりいたとのこと。私は小学校高学年の時に家庭科でこの病気の原因と治療法(予防法)を勉強しましたが、実はその頃にもまだ脚気による死者は毎年いたのだそうで、脚気が完全に撲滅され死者が 0人になったのは 1970年代のことでした。なんと私が大学生になってしばらくした頃、日本の高度経済成長が始まった頃にやっと脚気との戦いに終止符が打たれたのでした。

平安時代以降、京都の皇族や貴族など上層階級を中心に脚気は発生していたようですが、脚気という病が広く知られるようになったのは 1800年代半ば、江戸で多くの患者が発生した頃からのようです。江戸詰めの地方の藩の武士や江戸の商人階級を中心に脚気が流行し、支配層である将軍の中にもこの病に冒される者が出て、脚気は「江戸患い(えどわずらい)」と呼ばれるようになりました。江戸詰めから国元に戻る間にいつの間にか症状が治まり、帰り着く頃には平癒してしまうことから、脚気には転地療法が効くと言われるようになったようですが転地それ自体は決定的な治療法ではありませんでした。転地することによって食事内容が変わったこと、そこに実は脚気治療と脚気の病因を探るための重要なヒントがあったのです。

一方で商人や武家の間では蕎麦が効くという話や町医者の遠田澄庵(とおだちょうあん)のように麦飯食や小豆飯を治療に取り入れ、脚気末期の「脚気衝心」に至らない軽症患者を死から救う者もいました。江戸・東京に蕎麦食文化が定着したことの裏には脚気が関係していたんですね。

澄庵は明治に入ってからも国の脚気研究グループの一員として一定の存在感を示しました。明治天皇の叔母に当たる静寛院宮(皇女和宮)が脚気に罹患(りかん)した折に、治療に当たった天皇の侍医たち(西洋医)が転地療養を勧める中でただ一人転地療法に反対したのが澄庵でした。しかし澄庵の提案は聞き入れられず、静寛院宮は転地先の箱根で亡くなってしまいます。静寛院宮が亡くなったとき、明治天皇も脚気に罹(かか)っていましたがその後快復しています。天皇は侍医たちが勧めた転地療養を一度は聞き入れたものの再発した折にはそれを拒絶したようです。板倉さんは当時の文献を調べて、明治天皇の脚気快癒には麦飯食治療が功を奏したのではないかと推測しています。明治天皇紀には天皇のことばとして「〈該病は西洋各国に存せずして只本邦にのみ存す〉と聞く。果たして然らば、その原因誠に米食にあるべし」「朕聞く。〈漢医遠田澄庵なる者あり。その療法、米食を絶ちて小豆・麦等を食せしむ〉と」が載せられているそうです。

明治に入って庶民の間に白米食が普及するのに伴って脚気は日本人の国民病になりました。そんな中、市井には麦飯食や玄米食・蕎麦食を実践して脚気を治す人たちもいましたし、米ぬかや米のとぎ汁が脚気に効くという説もある程度流布していたようです。

脚気の原因については麦飯食の実践例をもとにした「栄養障害説(食物説)」と「反食物説」とが対立し、帝国大学医学部を中心とする御用学者たちは「反食物説」(黴米中毒説や病原菌説など)の立場から「食物説」を激しく排撃しました。「食物説」に反論し攻撃を加えた御用医学者の中には帝大医学部卒の軍医森林太郎(森鴎外)もいたのでした。

この本は膨大な資料を渉猟して長年にわたる脚気克服の歴史を詳しく追ったものです。そして西洋の医学を摸倣した日本の御用医学の病弊は自らの実践を通してしか得ることのできない創造性というものが欠如していたことであると結論しています。脚気の病因が判明するまでの脚気との闘いにおいて、御用医学者たちの創造性の欠如が膨大な犠牲者(脚気による死者)を生み出したことをこの本は明らかにしています。

板倉さんは江戸時代末期に武家や商家などの富裕階層で起こった脚気の流行とその克服との長い闘いの歴史を詳しく調べる中で、蘭学に始まり現在にまで至る御用医学の問題点を通して科学における創造的な実践の必要性を説いているように私は感じました。

結局のところ麦飯や玄米・小豆あるいは米糠や米とぎ汁に含まれているビタミンB1の欠乏が脚気の真因であり、御用医学者たちによって激しく弾圧された漢方医の麦飯食療法や庶民の麦飯食・玄米食・米ぬか・とぎ汁摂取療法の中にこそ脚気の真の原因を探る道があったことを板倉さんは資料をもって明らかしました。

なお、森鴎外や明治天皇、陸・海軍における脚気発生状況についてもこの書には詳しい経緯や資料が載っていますが残念ながら割愛しました。そのあたりのもう少し詳しい内容は下の関連サイトに載せた板倉氏の講演「板倉聖宣:武谷三段階論と脚気の歴史」をお読み下さい。また、講演内容でテーマとして掲げられている武谷三男三段階論に関連して<予想とよばれる認識の発展>段階論として庄司和晃の「予想の三段階」論があります。これは板倉氏の提唱する仮説実験授業の実践の中で生まれた理論です。これについては簡単な概要を三浦つとむが認識論で取り上げています(「『認識と言語の理論 I』を読む 1(7)――予想の段階的発展」)。

『模倣の時代』の中から以下に「前口上」と「結語」「『模倣の時代』の話のあらまし」「あとがき」を引用しておきます。

『模倣の時代』上巻 p.7~9 

 前 口 上

昔、脚気という病気があった。

少し年配の人になら、「ああ、医者が膝を木槌(きづち)でたたくあの病気だな」と思いだすことだろう。「木槌のようなもので患者の膝頭(ひざがしら)をたたいたとき脚(あし)ぴょんと持ち上がれば〈腱(けん)反射がある〉といって脚気でない証拠となる」という、なんとなくひょうきんな病気である。しかし、もう少し上の年配の人になると、そんな冗談をいってはいられない。実際に脚気になって「脚が大きくむくみ、すぐに転んで歩けなくなって困った」という人も少なくないからである。そしてさらに年配の人になると「脚気は恐ろしい病気だった。脚だけの病気のうちはいいが、その病気が上にのぼって心臓にまで達すると、〈衝心(しょうしん)する〉といってとても苦しんで二、三日のうちに死んでしまったりした」と話してくれるだろう。「そういえば、日露戦争のときは〈百万だかの兵隊のうち何十万人もの兵隊が脚気になり、何万という兵隊がそのために死んだ〉ということを聞いたことがある」という人もあることだろう。

兵隊だけではない。一九四〇(昭和十五)年頃まで、日本で脚気のために死ぬ人の数は毎年一万人を下ることはほとんどなかったのである。

この物語は、「そのように恐ろしい脚気という病気を、日本人がどのようにして克服してきたか」という物語である。

その時代は、何でもかでも欧米の文化を摸倣して、日本の文化を高めようとみんなが懸命になっていた時代であった。

明治以後、日本は欧米の文化をまるごと取り入れるようになって、ついに今日の日本をつくりあげることに成功したのだ。それは〈世界史上かつてない文化輸入の成功例〉と言われることもある。その時代は「摸倣の時代」とよぶこともできる時代であった。

医学の分野では、明治以後、東京大学医学部を中心にドイツ医学を全面的に取り入れるようになった。そして、ドイツの医学者コッホに始まる細菌学などを学んで、流行病の普及に対して日本の医療体制を近代化することに成功した。当然のことながら、日本の医者たちは、明治以後とくに流行した脚気の病理を日本に来たドイツ人医師たちに尋(たず)ねた。しかし、ドイツの医師も医学者たちも、この病気に関しては何とも手を下すことができなかった。こんな病気は、ドイツではかつて見られなかったからである。

不思議なことに、この脚気という病気は、ヨーロッパやアメリカには見られない病気であった。しかし、東南アジアには〈ベリベリ〉という脚気に似た病気があった。脚気やベリベリは、主として米を主食とする地域の人たちだけがかかるのである。だから、この病気に関してだけは欧米の医学者たちも、日本の医者の質問に的確に答えることはできなかった。そこで、脚気ばかりはどうしても日本人自らその予防と治療の方法をさぐり、その病原をつきとめなければならなかったのである。つまり、脚気克服の歴史は、「摸倣の時代」の中にありながら、その摸倣の枠を乗り越えて創造的に解決していくことが問題になった歴史であった。

しかし、「摸倣の時代」というのは、エリートであればあるほど創造的に考えることを恐れる時代でもあった。「摸倣の時代」の枠を越えて進むことは、口で言うのはやさしくとも、それを実行するのはとてもむずかしいことであった。だからその歴史は波瀾に満ち、時にはとても生臭い歴史ともなった。少し前まで、私は脚気研究がこんなにも波瀾に満ちたものであることを知らなかった。

いま私たちは、時代そのものが「摸倣の時代」を越えることが要請されている時代に一歩踏みこんでいる。そこで私は、「そんな時代に、どのような人々がいかにしてその創造性を発揮して脚気の予防・治療法を開発していったか。そして、それをどんな人々が妨害し、弾圧・抑圧さえしたか」ということを探って一つの物語にまとめ、時代の要請に応えようとした。

「事実は小説よりも奇なり」ということは、こんな話のことをいうのだろう。文才のない私は、ただただ歴史資料に語らせることによってこの物語を綴ることにする。

『模倣の時代』下巻 p.559~561 

 結 語

この歴史を見てくると、脚気の原因の解明だけでは、日本から脚気を絶滅することはできなかったことがよくわかる。脚気という病気は、じつに多くの人々の工夫と努力の末にやっと日本から撃退されたのである。しかし、そういう努力や工夫の焦点が定まるためには、やはり脚気の原因の解明が決定的であったことを忘れることはできない。私は、その段階で日本の医学者たちがいかに右往左往してきたか、その中でももっとも創造的な仕事をなしとげたのはどういう人々であったのかを中心に見てきたというわけである。

脚気という病気は、西洋の医学者たちも思いもつかなかったような新種の病気、ビタミンという微量でありながら動物の生存に不可欠な栄養素の不足によって生ずる病気であったのだ。そこで、日本最高のエリートたちがいかに西洋医学を学んでもその正体を明らかにすることができず、その正体の解明に近づいた人々を弾圧・圧迫するという間違った行動をとらせることになったのである。

明治以後、今日までの日本の文化は全体的に西洋文化の摸倣から成り立っていた。それは九分九厘成功したといってもよいのかもしれない。しかし、摸倣の時代だからといってすべてが摸倣ですむわけではなかったのだ。脚気の歴史はそういう例外的な出来事と見ることもできる。そこで、この例外的な〈脚気の歴史〉の物語は、ひと度(たび)そういう、〈摸倣ではすまない、真に創造的な解決を要する問題に対処することになったら、西洋文化を摸倣するのにもっとも有能だった人々がもっとも無能にもなる〉ということを教えてくれたのだ。

これからの日本は、もはや欧米諸国の文化を全面的に摸倣することですますことはできない。否応(いやおう)なしに自ら創造的な文化を築き上げなければならないのである。それなら、私たちはどうしたらよいのだろうか。

私たちは再びエリート教育を強化することによって、その人たちが創造的な仕事を開発してくれるように期待すべきなのであろうか。脚気の歴史は、そのような考え方に否定的な答えを示していると思えるのだが、どうだろうか。エリートたちは西洋の文化を摸倣するのにはもっとも当てにできる人々であったことに間違いない。だからといって、再びそういうエリートたちの活躍にあまり多く期待するとなったら、とんでもない失敗をしでかすことになるに違いないことを教えてくれているように思えてならないのである。

摸倣の時代は、エリートたちにもっとも効果的な活躍の場をあたえた。しかし、エリートというのは、もともと学ぶ=摸倣するに値するものがはっきりしているときにもっともそのエリートぶりを発揮できるものであることを忘れてはいけないであろう。これまでの日本では、あたえられた枠内では頭の回転が速くて記憶力が抜群な人々がエリートとになることができた。そういう学校秀才はもともと権威に弱いのである。

しかし、創造の時代というのは、何が学ぶに値するか、それを探るのにまず創造性を要する時代である。そんな時代には、摸倣上手なエリートだけを当てにすることはできないのである。そういう時代には、〈脚気予防に麦飯が効く〉といったような、エリートたちからするととんでもないような発想をする人たちの活躍が必要とされるのである。そういう時代には、エリートたちを含めて、もっとずっと多様な人々が大胆にその工夫を積み重ねることができるような教育の仕組み、研究組織を築き上げることが必要なのだ。

私が、脚気の歴史――摸倣の時代でありながら創造性を必要とした歴史を学んで、未来の社会と教育の姿を見る思いがするのは、その歴史がこういうことを私に考えさせるからなのである。

『模倣の時代』下巻 p.585~589 

 『模倣の時代』の話のあらまし

この「摸倣の時代」の物語は、第十三代将軍の脚気衝心死に伴う西洋医と町の脚気専門医遠田澄庵の奥医師登用からはじまる。その後、第十四代将軍家茂(いえもち)は、長州征伐のために自ら大阪に出陣している最中に、やはり脚気衝心で命を失った。そして間もなく、時代は明治維新を迎え、天皇の典医も陸軍の軍医も大学の医学教育も皆、西洋医学オンリーという時代が始まる。ところが、明治以後軍隊その他での脚気が流行して、天下をとった西洋医たちが頭を悩ましはじめる。そんなとき、明治維新の功労者である西郷隆盛が鹿児島で兵を挙げ西南戦争が始まるが、そのさなか京都に滞在中の明治天皇が脚気になる。

そのとき天皇は、〈脚気には転地療法が一番〉という侍医たちの言に従って東京に戻った。ところが、脚気は治らなかったばかりか、東京で脚気となった天皇の叔母、静寛院宮=皇女和宮は天皇の侍医たちが箱根に転地させたにもかかわらず、間もなく死んでしまう。あわてた岩倉具視(ともみ)と大久保利通は天皇に離宮設営をすすめたのに対して、天皇はどう言ったか――天皇でさえ、脚気を自力で治さなければならなかった時代、それが「摸倣の時代」であった。

大久保利通は天皇の意を受けて脚気病院を設立したが、漢方医の巻き返しを恐れた西洋医の医学官僚たちは、脚気病院委員人事を独占し、ついにその結果をウヤムヤのうちに葬ることに成功する。天皇の脚気は明治十一年に再発したが、十二、十三、十四年にには再発しなかったので、大過なきをえたのである。ところが明治十五、十六年になって天皇の脚気が再発する。そこで、海軍軍医高木兼寛は洋食採用による予防策を奏上して推進、堀内利国が大阪陸軍で麦飯採用により脚気全滅に成功した話になる。ところが、陸軍軍医本部の石黒忠悳(ちゅうとく)は脚気の伝染説をとって譲らず、そんなときに、東大医学部では緒方正規が〈脚気細菌〉の発見を報じた。ところが、その脚気菌をドイツ留学中の北里柴三郎が批判するなど、波瀾万丈、東大医学部と伝染病研究所の対立が始まる。

ところが天皇の脚気はその後、明治十九年に再発したきり再発しないようになる。なぜだろうか。おそらくそれは、天皇が陸軍の実験を子細に検討などして自ら麦飯を採用したことにあると思われる。ところがドイツ留学中の森林太郎は、日本の高官が麦飯採用に踏み切ったときいて、〈麦飯が脚気に効くなんてありえない〉と断言する。天皇と陸軍軍医森林太郎=鴎外との対立は、その後もずっとつづくことになる。外国留学から帰った東大の三浦守治は脚気の青魚中毒説を出し、榊順次郎は黴米中毒説を展開。陸軍の現場部隊では明治二十四年までのうちに全部隊が麦飯を採用して、日本の海陸軍からは脚気がほとんど絶滅するに至る。

ところが、そんなところに日清戦争がおきた。大本営の運輸長官寺内正毅は麦飯支給を主張したが衛生長官の石黒忠悳に敗れて白米を支給、その結果脚気患者が続出する結果となった。そこで、戦後、陸軍と海軍の間で脚気論争がおきる。その後、陸軍省医務局長は小池正直の代となるが、小池はついに脚気予防に麦飯が有効だったと判定を下す。ところが、小池に左遷された森林太郎は九州の地から反撃。

日露戦争のときも陸軍は麦飯を支給せず、脚気患者数十万人を発生させる。そこで、陸軍省医務局に対する責任追及の声が上がるが、陸軍軍医の小久保恵作や都築甚之助は〈脚気細菌〉の発見を報告、一時窮地を救う。戦後、陸軍省医務局長は小池から森林太郎に交代したが、森は東大医学部長の青山胤道(たねみち)とともに非麦飯説、伝染病説を貫く。しかし、陸軍大臣寺内正毅は臨時脚気病調査会の設立を推進し、森林太郎がその会長となった。そのとき、天皇はその設立の勅令案を見て、〈脚気が麦飯で治ることは堀内利国の研究で二十数年前に解決ずみではないか〉といったという。臨時脚気病調査会の会長となった森は、まず来日中のドイツ人細菌学者コッホに研究方針を尋ねることから仕事をはじめた。

しかし、そのころ東南アジアでの植民地支配者の西洋人医学者たちは、明治三十年にエイクマンが発見していたニワトリの白米病と米糠の治療効果の研究を引き継いで、脚気の栄養障害説を展開しはじめていた。そこで、日本人の医学者の中にも動物の白米病実験の追試が盛んになる。まず伝染病研究所の細菌学者志賀潔が脚気の非細菌説、栄養障害説を採用し、研究方針を変更した都築甚之助や民間の遠山椿吉がそれにつづく。明治四十三年には、流行作家の村井幻斉が都築の研究成果を耳にして〈脚気の米糠療法〉を大宣伝したせいか、脚気死亡者数は五千人近くまで減る。ところが、この宣伝に怒った反対派は都築甚之助を臨時脚気病調査会の委員から追放して、軍医まで辞めさせてしまった。同じころ、東大農学部の鈴木梅太郎は、〈動物の生存に必要な副栄養素〉を米糠から抽出して〈アベリ酸〉と命名、のちにオリザニンと改めたが、ビタミン概念の先駆の一つとなった。

しかし、東大医学部派は〈動物の白米病と脚気とはまったく違う病気だ〉と反論し、大正三年の医学会総会の特別講演で林春雄教授は〈糠エキスは如何()いかほど多量に与えても脚気に効かない〉と断言。同じ年、大隈重信首相はアンチ東大医学部の本拠伝染病研究所を内務省から東大医学部に移管することを決定し、医学界の対立はますます混迷の度を加えることになる。

ところが、その後林春雄の実験を担当した田沢鐐二はドイツに留学して驚いた。ドイツでは、脚気の部分的栄養障害説につながるビタミン研究が盛んだったからだ。そこで急いで帰国した田沢鐐二は、米糠エキスを〈大量に〉投与してその脚気治療効果を確認した。それを聞いて都築らは自分たちの勝利を喜んで大正七年の学会に出たが、田沢らは自己の誤りを認めるどころか都築のアンチベリベリンを攻撃して学会は大混乱する有様。しかし、翌年、京都帝大の島薗順次郎が〈動物の白米病は脚気と類似する〉と報告し、大学でも脚気のビタミン欠乏説の研究がはじまる。新設の慶応大学医学部の大森憲太らは人間にビタミン欠乏食を与えて脚気を発生させる実験に成功したことを報じた。しかし、東大の緒方知三郎は動物の白米病と人間の脚気の違いを詳しく追求して、脚気のビタミン欠乏説に最後まで反対。そこで、大正十三年臨時脚気病調査会が解散したときも、脚気の病原を明確に結論することはできなかった。

その後帝国学士院は、大正十三年に鈴木梅太郎とその門下の高橋克己の「副栄養素の共同研究」に対して学士院賞を授与し、大正十五年には、島薗順次郎と緒方知三郎の「ビタミンB1欠乏症の実験的研究」に対して学士院賞を授与した。東大医学部の教授たちを含めて脚気のビタミンB1欠乏症説が確立したのは、昭和二年に大森憲太が『脚気――日本食餌の欠陥に関する研究』を、島薗順次郎が『脚気』をまとめて、従来の脚気研究を総括したころからといっていいであろう。そして、昭和四年にはオランダ人エイクマンとイギリス人ホプキンスがビタミン概念の発見によりノーベル賞を授与されたが、昭和六年には在野派の土屋清三郎と北島多一らが「都築君学勲表彰会」を開催して都築甚之助の仕事を讃えた。

しかし、日本で脚気が絶滅されたのはそれからずっと後のことであった。

昭和十四年に戦時下の食糧難に対処するために政府は「米穀搗精(とうせい)等制限令」を設けて米を七分以上に搗(つ)くことを禁じて以後、日本の脚気死亡者数は半減したが、脚気が本当に絶滅させられたのは、敗戦後、安価なビタミンB1が大量に合成されて、ビタミンB1を〈強化〉した食品が大量に出まわるようになってからのことである。

『模倣の時代』下巻 p.603~617 

 あ と が き

… 略 …

私はもともと科学史と科学方法論の研究者です。だから、このような仕事は私の本来の仕事ということができます。しかし、私の研究領域は物理学の歴史が中心で、医学の歴史というと全くの専門違いということもできます。だから、この歴史には思わぬ間違いが沢山発見できるかもしれないと恐れています。とくに気になるのは、東大中心の医学者たちが西洋医学を学んで日本の医学と医療を改善する上で大きな業績を残してきたことです。私は本書の中で、そういう仕事にはほとんど全く触れませんでした。これは公平でないばかりか、本書の主題からいっても不適切なことといわねばなりません。東大派の人々が脚気の研究で伝染病説に固執して、麦飯派や米糠派の人々を断固として退けたのは、かれらにはかれらなりの絶大な自信があったからです。それは他の分野でのかれらの仕事の実績がものを言ったことは間違いないでしょう。かれらは空威張りしていたわけではないのです。

しかし、そんなことまで書いていたら、この本の内容はどんどん膨らんでいって、とうてい私の手に負えないものになってしまいます。そこで、私はそういう話はほとんど一切書かないことにしてしまいました。そういうことは書かなくても、多くの読者には十分推察のつくことだと考えたからです。日本医学史の本をひもとけば、そういう話はいくらでも見ることができるでしょう。しかし、どうしたことか、これまで書かれた医学史の本には、本書に示したような脚気の話はほとんど全くといっていいほど書かれてはいません。せいぜい高木兼寛の仕事が紹介されている程度で、その研究をめぐって本書で示したような生臭い争いがあったことはどこにも書いてないといって間違いありません。だからこそ、私はいささか専門外のこの歴史を自分でまとめることにしたのです。本文中にも触れましたが、この歴史は医学関係者たちにとってはあまりにも刺激的で当たり障りがあって書きにくいと思われたことにもよります。

それにしても、私はどうしてそんな病気の歴史に迷いこむことになったのでしょうか。

昨年(一九八六年)の四月、私は『歴史の見方考え方』(仮説社)という本を世に送りました。その本も私の専門分野を大きくはみ出した本でした。その本は科学の歴史を越えて、日本史全般、いや世界史にまで触れて、従来の歴史家たちの書き示してきた〈歴史の見方考え方〉に異議を唱えたものでした。その本で示した私の〈歴史の見方考え方〉の一つの特徴は、固有名詞を出さずに数量的なデータを中心に歴史を見ていくことでした。そこで、私は、その読者の方々に私の〈歴史の見方考え方〉をよりよく理解して頂くためには何か他の問題を探して、固有名詞のほとんど出てこない歴史をまとめておくといいと考えました。そんなときに私は、古書店の目録に『分量的に観察したる脚気』という本があるのを見つけました。そこで、私は「脚気という病気を分量的に考察したデータがあるのなら、それをもとに日本人の科学知識の普及の仕方を探ることができるかもしれない」と喜びました。そこで、私はさっそくその本と一緒に、榊順之介著『脚気病と米穀との原因上関係・付図』及び山極勝三郎著『脚気病論』も入手して、脚気の歴史と日本人へのビタミン知識の普及の歴史を関連させて研究することに決めたのでした。それは昨年〔一九八六年〕の初夏のことです。

もっとも、私は初めて脚気の歴史に関心をもったわけではありません。私はもともと科学史を幅広く研究しようとしてきましたから、もう三十年近く前から、日本の脚気の歴史はかなり波瀾に満ちているらしいことを知っていました。そこで、山下政三著『脚気の歴史――ビタミン発見以前』(一九八三)という本が出たときも買っていました。しかし、その本は話が江戸時代までで終わっていたの、そのときは脚気の歴史の全貌を知ることができなかったのです。しかし、脚気の歴史を調べはじめて、私は次々と意外なことを発見することになりました。

じつは私は、このときまで、〈脚気で死ぬ人が沢山いた〉とは知らなかったのです。私はそれまで、〈脚気とは、木槌で膝を叩いて診断する何となくひょうきんな病気〉というイメージしかなかったのです。ところが、脚気で死ぬ人が毎年一万人を越えるほどいたと知って驚くことになりました。そこで、はじめは「そんなに沢山の人々が死ぬくらいなら、脚気に関する国民の関心も高いことだろうし、そうなれば、脚気の死亡率の変遷をたどれば日本人のビタミン知識の普及の状態もかなりよくわかるようになるだろう」と思いました。ところが、少し脚気の歴史を調べただけで、「陸海軍が脚気をほとんど絶滅させるのに成功したのはビタミン発見以前のことだ」ということがわかりました。それなのに、師範学校では脚気が大量に発生し、日本全体では毎年一万人以上の人が脚気で死んでいるのです。そこで、「どうしてそんなおかしなことが起きるのか」気になって、調べずにはおれなくなりました。そして、ついに脚気の歴史全体を調べざるを得なくなってしまったのでした。私は最初のうち、一ヵ月ぐらいのうちに主要な結論を出すつもりで調査を始めたのでしたが、そんなどころではありません。調べれば調べるほど謎が深まって、脚気に関する知識の普及史の研究のつもりが、脚気そのものの研究史の研究に深入りすることになってしまったのです。

そのうちに、有名人の名前が沢山出てくるようになりました。石黒忠悳の名は以前から化学教育史の中の人物として注目していましたが、森林太郎の名も出てきました。そればかりか、明治天皇や大久保利通、岩倉具視の名さえ出てくるではありませんか。いや、さらに調べると、徳川第十三代将軍と第十四代将軍の二人も脚気で死んでいるというではありませんか。皇女和宮も脚気で死んで、明治天皇の医者不信のもととなったこともわかってきました。それだけではありません。脚気の研究史ではこれまであまり知られなかった人々がいい仕事をしていることもわかってきました。遠田澄庵・堀内利国・都築甚之助・遠山椿吉といった人物を掘りおこすこともできたのです。

こうなればもう固有名詞のない歴史どころではありません。「これはまさにテレビの大河ドラマにふさわしい豪華メンバーだ」――私はそう思うと、今度は個々の研究者の仕事に焦点をあてて、日本人の創造性の歴史を研究することに腹をきめました。長州征伐・明治維新の戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦といった戦争も次々と出てきます。まさに大河ドラマの世界なのです。そこで私も、研究方針を百八十度転換することにしたのです。

ふつう、研究というのは最初に研究方針を決めて始めるようになっています。少なくともお役所仕事の研究はそうなっています。研究テーマを決め、研究方針を定めてはじめて研究費を申請し、それで研究をすることになっているのです。しかし、私の場合はそんなふうにして研究を進めたことがありません。どういう研究テーマが面白いか、研究していくうちにどんどん変わっていくのが本当に創造的な研究といえるのです。私は、本当はこの研究のために特別な研究費が欲しいと思いました。資料代が嵩(かさむ)むからです。しかし、結局私は研究費ももらわずにこの研究を進めることになりました。科学史学会の人々に私が脚気の歴史を研究していることを伝えても、それがどれほどの成果をあげうるのかおよその見当もつかないというのが当然のことでしょう。研究というのは創造的なものであればあるほどお役所的な研究計画書の枠を越えてしまうのです。研究者の自由になる金を十分に与えておかなければ、研究を発展させることが困難なのです。

しかし、私のこの場合は大変恵まれていました。私は、この研究が大きな成果をあげうることを見てとったので、ほかの仕事は投げうつようにしてやめてしまって、できるだけ早くその成果をまとめることにしたのですが、いつもながら沢山の方々の支援を得ることができたのです。

それに、私のそう短くない研究の歴史の中で、この〈脚気の歴史〉の研究ほど資料に恵まれたことはありません。そこで、この研究は我ながら驚くほど短期間のうちに進めることができたのでした。この研究の資料の大部分は国立国会図書館でコピーしてもらうことができました。それらの資料を探して下さったのは片岡みどりさんです。片岡さんは小学校の先生をやめて私の研究を手伝って下さっている方で、私が調査をお願いした資料以外にも沢山の資料を探し出して私の研究の展望を広げて下さいました。この研究は片岡さんの助力なしにはできなかったことは間違いありません。何しろ忙しい私は一度も国会図書館に行くことなく、そこにある主要な資料はみな手にすることができたのですから。

そのほか、愛知の中学校の先生の山田明彦さんは都築甚之助関係の資料を捜索して、ついに『都築ドクトル余影』を見つけだしてくれましたし、佐賀の中学校の先生の樋口勝弘さんは佐賀県神崎郡三瀬村というところに、俗称「脚気地蔵」と呼ばれる珍しい地蔵さんがあることを知らせてくれました。

その地蔵さんは、地蔵さんといっても立派な本堂の中にあって、その祭壇の下には沢山の木槌が奉納されています。その木槌には住所・氏名・年齢のほかに「お陰様で全快致しました。誠に有難う御在居ました」などと書きこまれています。その住所を見ると、その部落からは遠く離れた福岡市のものが大部分で、佐賀市というものが少しある程度だそうです。

その部落は福岡市と佐賀市とを結ぶ国道から少し入ったところにあり、両市から二十キロメートルほどのところにあります。その地蔵さん――山中地蔵の起源は古く室町時代に遡るとのことですが、その地蔵さんが何時(いつ)ごろから「脚気地蔵」と呼ばれるようになったか、その由来はいまのところわからないとのことでした。明治か大正のころ「福岡市に住んだ人が脚気にかかり、里帰りか何かでこの部落に帰ってこの地蔵さんに熱心にお願いしたところ脚気が全快した」といった話が広まって、「脚気地蔵」という名が付けられたのでしょう。この村は県境の山の中にあるので、当然その食事は麦飯やアワ飯だったことでしょう。そこで、福岡市で白米食のために脚気になった人も、しばらくして全快したのではないでしょうか。

… 略 …

私は、この研究を進めながら、何時も何時も「本当に〈事実は小説よりも奇なり〉とはよく言ったものだ」と感じました。単なる想像の世界での出来事と思われるようなことが実際の資料にいくらも現れるのには何度も驚き、あきれるほどでした。そこで、私は「なんとしても資料そのものに語らせたい」と考えたのです。そのため、読みにくい部分が少なからずできたことも恐れているのですが、引用した資料の大部分はとても読みやすく興味深いものであると思っているのですが、どうでしょうか。それらの資料の中の文章を私なりの文章に置き換えると、いかにも私好みに歴史を曲解したと誤解されかねないので、あえて引用を多くしたのです。

… 略 …

さて、もしかすると、この本を読んで、この本を書いた著者つまり私のことに興味をもって下さる方があるかもしれないので、最後に、本書の内容とは少しは関係のあることに限って、これまで私がやってきた仕事を自己紹介しておきたいと思います。

私は、一九四九(昭和二十四)年に〈新制大学〉が発足したとき、その第一期生として東大教養学部に入学して、新発足したばかりの教養学部教養学科の科学史科学哲学分科に進学してその第一期生として卒業しました。いまは知りませんが、私がその科学史科学哲学分科に進学したころのその学科はまったくの不備で、私は〈大学で先生に教わって科学史を学んだ〉という気はまったくもっていません。東大の教養学科という学科は、駒場の教養学部が本郷の専門学部よりも一段低く見られることに反発した教授たちが、一部の学生を四年生まで在学させて、いわゆるエントツ学科としたものだったのです。それでも文科系の講義は充実していたようですが、唯一の理科系だった科学史科学哲学分科となると、専門の科学史の教授もいなくてまったく貧弱だったのです。そんなこともあって、私は下級生たちと一緒にはじめた自然弁証法研究会でもって科学史と科学方法論を勉強することになりました。そして、私は大学四年のときに『天動説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析』という論文をまとめました。私の処女論文というべきものですが、いま考えてみると、この『摸倣の時代』の内容はその処女論文に最も近いということができるでしょう。その論文は、私の第一論文集である『科学と方法』(季節社)に収録されているので、興味があったら比較検討して下さるとうれしく思います。

ところで、私が科学史を研究した一つの目的は、その考え方を科学教育に生かすことにありました。そこで、私は科学史と科学教育との比較研究を進めて、さらに科学教育の全面的な改革を目指して、一九六三年には〈仮説実験授業〉という科学教育の具体的な改革プランを伴った理論を提唱することになりました。その仮説実験授業の研究は小学校から始まったのですが、その授業の様子を見て我ながら感激するようになりました。その授業では優等生も「非行少年」も同じように授業で活躍しうることがわかったからです。私は「もともと科学というものは誰にでも楽しくわかるようにできているものだ」と考えており、「優等生にしかわからないような科学の授業にはどこか論理的な飛躍があり押しつけがあるからだ。そういうものが優等生にわかるのは、優等生には権威主義があるからに違いない」とも考えていました。そこで、それらの飛躍部分を全面的に検討しなおし、知らぬ間の押しつけを排除して誰でも楽しい科学の授業ができるようにするために〈授業書〉というものを開発してきたのです。

その後、私の研究は教育のほとんどあらゆる面に広がることになりました。

仮説実験授業をうける子どもたちはとても創造的に振舞います。そこで、「その授業のやり方・考え方を教育全般に及ぼすことができないか」ということが問題になってきたこともあります。仮説実験授業は、ひところ盛んに報道された校内暴力などの問題にも根本的な解決を与えることも明らかになってきたからです。元気な子どもが学校で暴れたりするのは、学校の授業が楽しくないからです。どうしてそんな勉強をするのかわからないような、つまらない授業ばかりだからです。そこで、本格的に科学の授業を押しつけのないように配慮しながら進めていくと、それまでの問題児が熱心に授業に参加するようになるのです。私たちの仮説実験授業では予習を禁止して、まだ教えられていない実験問題の結果について予想を立て、その予想の背後にある仮説を出して討論することが授業の中心になります。そういう授業なら、優等生も劣等生もそれなりに自分の知恵を思い切り出すことができるのです。優等生はそれまで学校や本で学んだ知識をフルに活用できますが、「問題児」は授業や本以外の世界で得た経験知識を活用できます。すると、さまざまな知識・経験・理論が交流できて、楽しい授業が実現できるのです。仮説実験授業を受けた子どもたちは、「この授業では本当に科学を研究しているみたいだ」とよく言います。私は未来の科学教育はそういう教育でなければならないと考えているのです。本書『摸倣の時代』の中の議論を見ていると、私たちの授業の中の一部の場面にそっくりに思えます。

… 略 …

仮説実験授業は私が提唱してからすでに二十五年近くの歳月を経ています。その間に確実に支持者の層を広げていますが、その成果の目覚ましさと比べると、その普及の速度は遅々としているとも言い得ます。私は、「教育の研究と普及は絶対に上から権力的に進めてはいけない」と考えているので、はじめからゆっくりと支持者を増やすようにしてきました。そこで、そのことにはとくに不満はないのですが、脚気の歴史を見ると、私たちが多数派になることは絶望的にも思えてなりません。いくら明々白々の証拠がそろっても、権力的な人々は何時までたってもその明々白々の証拠を認めないことがよくわかるからです。

しかし、日本の歴史はいま急速に、摸倣の時代から創造の時代へと急旋回をはじめています。いや、急旋回をはじめなければ、私たちの生活が大きく揺るがされる時代に突入しているようにも思われます。「そういうことを考えに入れれば、私たちは自分たちの研究成果を一度外国に持ち出して、それから逆輸入するという面倒な手続きを踏まなくとも、日本の多くの人々の共感をかちうる日も来ないわけではないだろう」と考えることもできます。私は、そういった想いも込めながら、この『摸倣の時代』を綴ってきたのです。

(一九八七年八月三十一日)

(関連記事)

(関連サイト)

板倉聖宣:武谷三段階論と脚気の歴史 (1987年早稲田祭における講演@いとう まもる のホームページ)

「科学原理主義」の弊害 (その1:脚気の歴史) (さつきのブログ「科学と認識」)

科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例 (佐野正博:科学論・科学史・技術論・技術史・科学思想論 入門講座)

翻訳は日本語だ (山岡洋一:『翻訳通信』――翻訳とは)

クーンの反響 僕のパラダイム論 (中山茂:paradigmerのブログ)

誤訳問題 (中山茂:paradigmerのブログ)

翻訳のパラダイム -- 「学術的」な翻訳の奇妙な現実 (山岡洋一:『翻訳通信』――翻訳とは)

【参考】クーンの『科学革命の構造』の邦訳について (黒木玄)

板倉聖宣『模倣の時代』仮説社、1988年 (佐野正博:同上)

【pdf】日清・日露戦争と脚気 (和光大学総合文化研究所 内田正夫)

【139冊目】板倉聖宣『模倣の時代 脚気の予防治療の開発者達と、その抑圧者の物語』(上)(下)仮説社(1983年) (読書70年 書評30年 名和小太郎のブログ)

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言語関連の用語について

 表現された言語(本来の意味の言語)を単に言葉あるいは言語、ことば…のように表記しています。ソシュール的な意味の言語(言語規範ないし思考言語)はカッコつきで「言語」あるいは「言語langue」・「ラング」・「ことば」等と表記しています。(背景色つきで「言語」のように表記している場合もあります)

 一般的な意味の概念を単に概念と表記し、ソシュール的な意味の概念(語の意義としての概念、いわゆるシニフィエ・語概念)はカッコつきで「概念」と表記します。(2006年9月9日以降)

 また、ある時期からは存在形態の違いに応じて現実形態表象形態概念形態のように用語の背景色を変えて区別しています(この文章では〈知覚形態〉も〈表象形態〉に含めています)。

 ソシュールの規定した用語を再規定し、次のような日本語に置き換えて表記します。詳細は「ソシュール用語の再規定(1)」を参照。

【規範レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語韻     (ある語音から抽出された音韻)

・シニフィエ   → 語概念(語義) (ある語によって表わされるべき概念)

・シーニュ・記号 → 語規範(語観念)(ある語についての規範認識)

・記号の体系   → 語彙規範   (語すべてについての規範認識)

・言語      → 言語規範   (言語表現に関するすべての規範認識)

語概念・語韻は 語概念⇔語韻語韻⇔語概念)という連合した形で語規範として認識されています。語規範はこのように2つの概念的認識が連合した規範認識です。ソシュールは「言語langue」を「諸記号」相互の規定関係と考えてこれを「記号の体系」あるいは「連合関係」と呼びますが、「記号の体系・連合関係」の実体は語彙規範であり、言語規範を構成している一つの規範認識です。規範認識は概念化された認識つまり〈概念形態〉の認識なのです。

なお、構造言語学・構造主義では「連合関係」は「範列関係(範例関係)」(「パラディグム」)といいかえられその意義も拡張されています。

 語・内語・言語・内言(内言語・思考言語) について、語規範および言語規範に媒介される連合を、三浦つとむの主張する関係意味論の立場からつぎのように規定・定義しています。詳細は『「内語」「内言・思考言語」の再規定』を参照。(2006年10月23日以降)

  : 語規範に媒介された 語音個別概念 という連合を背後にもった表現。

内語 : 語規範に媒介された 語音像⇔個別概念 という連合を背後にもった認識。

言語 : 言語規範に媒介された 言語音(語音の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった表現。

内言 : 言語規範に媒介された 言語音像(語音像の連鎖)⇔個別概念の相互連関 という連合を背後にもった認識・思考過程。

内語内言は〈表象形態〉の認識です。

なお、上のように規定した 内言(内言語・内的言語・思考言語)、 内語とソシュール派のいうそれらとを区別するために、ソシュール派のそれらは「内言」(「内言語」・「内的言語」・「思考言語」)、「内語」のようにカッコつきで表記します。

また、ソシュールは「内言」つまり表現を前提としない思考過程における内言および内言が行われる領域をも「言語langue」と呼んでいるので、これも必要に応じてカッコつきで「内言」・「内言語」・「内的言語」・「思考言語」のように表記します(これらはすべて内言と規定されます)。さらに、ソシュールは「内語の連鎖」(「分節」された「内言」)を「言連鎖」あるいは「連辞」と呼んでいますが、まぎらわしいので「連辞」に統一します(「連辞」も内言です)。この観点から見た「言語langue」は「連辞関係」と呼ばれます。ソシュールは「内語」あるいは「言語単位」の意味はこの「連辞関係」によって生まれると考え、その意味を「価値」と呼びます。構造言語学では「言(話し言葉)」や「書(書き言葉)」における語の連鎖をも「連辞」と呼び、「連辞関係」を「シンタグム」と呼んでいます。詳細は「ソシュールの「言語」(1)~(4)」「ソシュール用語の再規定(1)~(4)」「ソシュール「言語学」とは何か(1)~(8)」を参照。

 さらに、ソシュールは内言における 語音像⇔個別概念 という形態の連合も「シーニュ・記号」と呼んでいるので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【内言レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音像(個別概念と語規範に媒介されて形成される語音の表象)

・シニフィエ   → 個別概念(知覚や再現表象から形成され、語規範の媒介によって語音像と連合した個別概念)

・シーニュ・記号 → 内語

・言語      → 内言

ソシュールがともに「シーニュ・記号」と呼んでいる2種類の連合 語韻⇔語概念語規範)と 語音像⇔個別概念内語)とは形態が異なっていますのできちんと区別して扱う必要があります。

 また、実際に表現された言語レベルにおいても、語音個別概念 という形態の連合が「シーニュ・記号」と呼ばれることもありますので、このレベルでの「シニフィアン」・「シニフィエ」についてもきちんと再規定する必要があります。

【言語(形象)レベルにおける再規定】

・シニフィアン  → 語音個別概念語規範に媒介されて実際に表現された語の音声。文字言語では文字の形象

・シニフィエ   → 表現された語の意味。個別概念を介して間接的にと結びついている(この個別概念語規範の媒介によってと連合している)

・シーニュ・記号 → (表現されたもの)

・言語      → 言語(表現されたもの)

 語音言語音語音像言語音像語韻についての詳細は「言語音・言語音像・音韻についての覚書」を、内言内語については「ソシュール用語の再規定(4)――思考・内言」を参照して下さい。また、書き言葉や点字・手話についても言語規範が存在し、それらについても各レベルにおける考察が必要ですが、ここでは触れることができません。

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プロフィール

シカゴ・ブルース

シカゴ・ブルース (ID:okrchicagob)

1948年生れ(68歳♂)。国語と理科が好き。ことばについては子供のころからずっと関心を抱いていました。20代半ばに三浦つとむの書に出会って以来言語過程説の立場からことばについて考え続けています。現在は39年間続けた自営(学習塾)の仕事を辞め個人的に依頼されたことだけをこなす日々です。

コメント等では略称の シカゴ を使うこともあります。

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意識と言語(こころとことば)

われわれは人間が『意識』をももっていることをみいだす。しかし『精神』は物質に『つかれて』いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は言語の形であらわれる。言語は意識とおなじようにふるい――言語は実践的な意識、他の人間にとっても存在し、したがってまた私自身にとってもはじめて存在する現実的な意識である。そして言語は意識とおなじように他の人間との交通の欲望、その必要からはじめて発生する。したがって意識ははじめからすでにひとつの社会的な産物であり、そして一般に人間が存在するかぎりそうであるほかはない。(マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』古在由重訳・岩波文庫)


ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために使われています。ですから人間の心のありかたについて理解するならばことばのこともわかってきますし、またことばのありかたを理解するときにその場合の人間の心のこまかい動きもわかってきます。
このように、人間の心についての研究とことばについての研究とは密接な関係を持っていて、二つの研究はたがいに助け合いながらすすんでいくことになります。一方なしに他方だけが発展できるわけではありません。
…こうして考えていくと、これまでは神秘的にさえ思われたことばのありかたもまったく合理的だということがおわかりになるでしょう。(三浦つとむ『こころとことば』季節社他)


参考 『認識と言語の理論 I』を読む 1(1)――認識論と言語学三浦つとむ『認識と言語の理論 I』

子どもたちに向けた言葉

ふしぎだと思うこと
  これが科学の芽です
よく観察してたしかめ
そして考えること
  これが科学の茎です
そうして最後になぞがとける
  これが科学の花です
        朝永振一郎

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