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ことばについての覚書(1)――言語の性格 [PC版ページへ]
2004/03/30 13:13

〔2004年3月30日 記/2013年1月28日 転載〕

 ことばについての覚書(1)――言語の性格

 ことばについての覚書(2)――言語規範とラング

 ことばについての覚書(3)――概念の二重性と言語表現

 ことばについての覚書(1)〜(3)をまとめて読む。

〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。2004年当時私がどんなことを考えていたかを知る参考としてお読み下さい。なお、転載にあたって用語の訂正等、多少手を加えたところがあります。

1. 言語の性格

何をもって言語とするかは人によって異なる。しかし何かある対象について考え、その性質やはたらき、構造を明らかにするためにはその対象をはっきりと定めておくことが必要である。したがって以下言語について考えるにあたり、私がその対象とする言語とは何であるかを私なりに定めておきたい。


私が考えようとしている言語は日本語や英語、中国語…といった具体的な言語であり、とりわけ日本語である。それは日常話され、書かれているもの、つまり話し言葉・書き言葉・手話・点字言語などのことであり、いずれも人によって表現され人が五官を通じて知覚できるものである。これらは人と人の間の精神的交通を実現するために――知覚不可能な人の認識を知覚可能な形で媒介するために――つくり出されたものである。さらにその表現の方法は社会的にあらかじめ了解されており、その暗黙の了解である規範の媒介がなければその表現も受容も不可能である。

言語は上のような性格をもったものであるがこれだけでは言語を定義したことにはならない。人間の精神的交通を実現するためにつくり出され、その表現が社会的な規範に媒介されるものは一般に記号とよばれている。言語は記号の一種ではあるが記号の中には言語ではないものがいくらでもある。地図記号や天気記号は言語ではない。言語とそうではない記号とを区別するのは簡単そうで実はそれほどたやすいことではない。私自身まだ言語の完全な定義を持ち合わせているわけではないので、以下では言語のもつさまざまな性格について述べていく。これによって言語とはどんなものであるかがいくらかでも明らかになれば、言語とは何であるかという命題に少しでも近づくことができるのではないかと思う。

言語の性格

(1) 言語は一定の形式をもった一定の種類の知覚可能な単位からなる媒体を用いて表現され、この媒体の種類と個々の単位の形式は社会的に了解された約束(規範)によって決まっている。言語表現ではこの規範に反するものを用いることは許されていない。

ここでいう媒体とは音声・文字・身振り・点字(一定の規則で並んだ凸点の集まり)…などの表現媒体単位のこと。ただし漢字のような表意文字や手話で用いられるひとまとまりの身振りは音声や点字とは異なる側面をもっている。表音文字にしても日本語のかなや点字はラテン文字とはやや異なる面がある。また言語表現には三浦つとむのいう非言語表現もともなうから "!", "?", "。", "、", "(", …のような記号が用いられることもある。記号表現は記号の規範にしたがってなされる(このようなものも言語表現の中で用いられる限り言語であると認める考え方もあるかもしれない)。

(2) 言語においては概念は上記の媒体単位を一つ以上組み合わせたもので表現される。二つ以上の媒体単位が組み合わせられるときは、媒体単位はひとつづきの一次元のつながりになっておりその順序はやはり規範によって定められている。つまり、言語においては概念は一次元的につらなった媒体単位の集まり(語・単語)で表され、そのつながり方は規範によって定められているということである。概念の中には二つ以上の語を組み合わせて表現されるものもあるがこの場合も語の組み合わせや順序は規範に定められており、ひとつながりの一次元のものである。

ことばは音声や文字、身振りの一次元的なつながりで表現される。日本でことばが「玉の緒」と古来よばれてきたのは玉にたとえられた音声や文字紐にたとえられた音声や文字によってひとつながりにされているようにみえるからである。

本居宣長は「てにをは」を玉を貫く緒にたとえた。またその弟子の鈴木朖(あきら)は「物事をさし顕してとなり」「てにをは」は「其の詞につける心の聲なり」といい、「詞は玉の如く」「てにをは」は「緒の如し」といっている。

(3) あるひとまとまりの思考を言語で表現する場合それは文という形態をとる。文はいくつかの語あるいは句(二つ以上の語が結びついたもの)を組み合わせて表現される。思考は言語と同じ規範を媒介にして行われるものであるが、だからといって思考の構造が言語と同じであるわけではない。思考はある秩序と構造をもった概念ないし観念の集合体である。このような秩序と構造をもった思考を言語で表現するのは簡単なことではない。思考を文で表現するには文もまた秩序と構造をもつことが要求されるからである。ところが文を構成する語は一次元の媒体単位の連なりであるから文もまた一次元の語の連なりになるのは必然である。思考の構造は一般に一次元ではなく立体的でありかつ自在である。この立体的かつ自在な思考を一次元の文で表現するためには工夫が必要である。この工夫は長い年月を経て作り上げられてきたものであり、その一端は言語の構造を観察・研究した結果得られた認識として各言語における語法・文法・文章法といった形でまとめられている。つまり、文は一次元のある秩序をもった語の連なりであり文の表現もまた規範に媒介されてなされるのである。これは文の構成単位である語から文の集合体である文章に至るまで貫かれる言語の性格である。言語とは媒体単位の一次元の連なりによってなされる秩序と構造をもった表現であり、表現にあたっては徹頭徹尾規範による媒介が要求されるものなのである。またこの規範は言語を媒介(媒体)にして精神的な交通を行なうために自然成長的にできあがったものであるから言語表現を受容する過程においても規範による媒介が貫徹されるのはいうまでもない。

◇◇◇ 2004.03.30/2004.04.04追加/2004.06.08追記 ◇◇◇

(関連記事)

ことばとは何か(1)〜(3)

三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(1)〜(5)

三浦つとむ『認識と言語の理論』 まえがき

認識についての覚書(1)〜(7)



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