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ことばについての覚書(3)――概念の二重性と言語表現 [PC版ページへ]
2004/04/08 03:49

〔2004年4月8日 記/2013年1月29日 転載〕

 ことばについての覚書(1)――言語の性格

 ことばについての覚書(2)――言語規範とラング

 ことばについての覚書(3)――概念の二重性と言語表現

 ことばについての覚書(1)〜(3)をまとめて読む。

 関連:三浦つとむ「意味とは何か、どこに存在するか」(1)〜(3)

 関連:意味・意義・価値(2)――表現・受容過程と販売・購買過程とのアナロジー

〔注記〕 「ことば・認識についての覚書」からの転載です。2004年当時私がどんなことを考えていたかを知る参考としてお読み下さい。なお、転載にあたってリンク先の変更や用語の訂正等、多少手を加えたところがあります。

3. 概念の二重性と言語表現

概念の二重性

認識についての覚書(5)――カテゴリー・概念の階層」や「認識についての覚書(6)――概念のまとめ」あるいは前稿ことばについての覚書(2)――言語規範とラングにおいて、概念は内包と外延の二つの側面からとらえられることを書いた。この二つの側面を性格的にいえば内包は一般的・抽象的であり、外延を構成する一つ一つの要素は個別的・具体的である。この二つの性格はそれぞれ普遍、特殊と表現することもできる。


概念の普遍の側面(内包)は一般的・抽象的であるから表象化できないもやもやとしたとらえどころのないものである。三浦はこのことを超感性的と形容する。これとは逆に概念の特殊の側面(外延)は個別的・具体的な表象をともなっているからこれを感性的と形容する。概念の二重性はこのように超感性的な側面と感性的な側面の二重性ととらえることもできる。

ソシュールのいうシーニュはこのとらえどころのない超感性的な概念(内包)と感性的な音声表象との結合である。三浦はこのことをとらえどころのない超感性的な概念に感性的なレッテルを貼りつけてとらえるという比喩的な表現で説明している。

いずれにせよ超感性的な概念(内包)はそのままでは確実にとらえておくことができない。それゆえ人間はこれに感性的な音声表象などをむすびつけ、これらの感性的なものを目印として超感性的な概念(内包)を参照できるようにしているのである。

個別概念の二重性

概念が上記のような二重性をもつのは人間が個別の対象を知覚し、認知する時に個別的・具体的な側面と一般的・抽象的な側面との二つの側面において対象をとらえるからである。人間の認識(意識)からみると個別の対象は同じ種類の他のものと共通する一般的・抽象的な普遍性をもっていると同時にその対象自体の個別的・具体的な特殊性もあわせもっている。つまり人間の意識からみれば対象それ自体が普遍・特殊の二重性をもっており、対象を知覚・認知したときの心像つまり個別概念の二重性は元の対象の二重性の写像なのである。そしてこの個別概念の二重性こそが記憶として形成される概念の二重性をもたらすのである。

概念の二重性と言語表現

たとえば帰宅途中に家の近くで見知らぬ猫(A)を見た人(甲)が家に帰って家人(乙)に「そこに猫がいたよ」と話した場合について考えてみよう。

猫(A)を知覚した時、甲の頭の中には猫(A)の個別概念(b)が生じる。この個別概念(b)は猫(A)の一般的・抽象的な側面(A1)をとらえた普遍の側面(b1)と個別的・具体的な側面(A2)をとらえた特殊の側面(b2)からなる認識である(ここで特殊の側面 猫の概念(b2) とは甲の頭の中に生じた猫(A)の個別的な表象である)。したがってこの 対象→認識 の過程は
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)
と表すことができる。

甲は 猫の概念(c)⇔/neko/ という認識(「猫」という概念に関する語の規範=どのような動物の概念を「ネコ」という語音で表現するかという規範)をもっており猫の概念(c)も内包(c1)と外延(c2)からなるものであるから、この認識は
  (1) 猫の概念(c1/c2)⇔/neko/
と表される。この認識のうちの
  (2) 猫の概念(c1)⇔/neko/
言語規範(ラング)を構成している語規範(シーニュ)である。

甲が帰宅して家人乙に「そこに猫がいたよ」と話した時の音声言語「猫」を 猫neko(D) と表す。ところが人間の意識からみると音声言語も言語規範(ラング)に結びついた普遍の側面(D1)と、言語規範に結びついていない特殊の側面(D2)をもっているからこの音声言語「猫」は 猫neko(D1/D2) と表せる。

そうすると、認識→表現の過程は
  猫の概念(b1/b2)→猫neko(D1/D2)
と表せるが、この過程は語規範(シーニュ)猫の概念(c1)⇔/neko/ に媒介される過程であるから
  猫の概念(b1)猫の概念(c1)⇔/neko/→猫neko(D1)
とすると分かりやすい。

ここでは (b1), (c1) はともに甲のもつ猫の概念(内包)であり、(b1)=(c1) である。認識→表現 の過程では 概念(b1/b2) のうちの普遍の側面である 概念(b1) が語規範(シーニュ)猫の概念(c1)⇔/neko/ に媒介されて 猫neko(D1/D2) という表現(発語)がなされるのである。

これを聞く家人乙は甲と同じように 猫の概念(e)⇔/neko/ という認識をもっており、これは
  (1) 猫の概念(e1/e2)⇔/neko/
と表される。この認識のうちの
  (2) 猫の概念(e1)⇔/neko/
語規範(シーニュ)である。

さて「そこに猫がいたよ」という甲のことば(音声言語)を聞いた乙の頭の中に生じた猫の個別概念を 猫の概念(f1/f2) とすると 表現→認識 の過程は
  猫neko(D1/D2)→猫の概念(f1/f2)
と表せるが、この過程は語規範(シーニュ)猫の概念(e1)⇔/neko/ に媒介される過程であるから
  猫neko(D1)/neko/⇔猫の概念(e1)→猫の概念(f1)
とすると分かりやすい。

ここでは (e1), (f1) はともに乙のもつ猫の概念(内包)であり、(e1)=(f1) である。表現→認識 の過程では音声言語 猫neko(D1/D2) のうちの普遍の側面である 猫neko(D1) が語規範(シーニュ)/neko/⇔猫の概念(e1) に媒介されて 概念(f1) という認識がなされ同時に乙の頭の中に個別表象である 概念(f2) が喚起されるのである。

以上のことをまとめてみよう。上の 対象→認識→表現→認識 の全過程は
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)→「猫neko(D1/D2)」→猫の概念(f1/f2)
のように表される。ここで言語規範(ラング)が媒介する 認識→表現→認識 の過程だけを取り上げると
  猫の概念(b1)猫の概念(c1)⇔/neko/→猫neko(D1)
  →/neko/⇔猫の概念(e1)→猫の概念(f1)
のように言語規範を媒介にした言語表現・言語受容の過程は一貫して普遍性の側面においてなされることが分かる。つまりこの過程では特殊性の側面は切り捨てられているのである。

このように表現・受容が概念の普遍性の側面において行われることは言語表現の特殊な性格である。これは言語表現の長所でもあり短所でもある。特殊な側面が切り捨てられるということはある概念に対してどのような音声や文字列を結びつけるのも自由であるということである。日本語で「ネコ」といい英語で“cat”というのもこの現われである(ソシュールはこのことを「言語記号の恣意性」とよんでいる)。また音声言語においては音韻だけが重要であり音声の質はよほどのことがない限り問題にならないし、書き言葉でも字体や字の大きさあるいは書く人による筆跡の差などが問題にならないなど、言語の自由自在性をもたらしている。それに加えて人間の思考は表象や概念を用いて行われ、その過程で言語規範(ラング)の媒介を必要とするから、言語表現は思考を表現するのに最適なのである。これらは言語表現の優れた点である。

しかし特殊な側面が切り捨てられることは言語による意思疎通の不確実性の原因ともなっている。上の例でいえば
  猫(A1/A2)→猫の概念(b1/b2)→「猫neko(D1/D2)」→猫の概念(f1/f2)
において、甲がとらえた猫(A)の普遍性の側面である「猫であること」つまり 猫の概念(b1) は乙の認識 猫の概念(f1) として間違いなく伝わっているが、甲がとらえた猫(A)の特殊性の側面 猫の概念(b2) と乙の認識した特殊性の側面 猫の概念(f2) とはかならずしも一致しない。乙が同じ猫(A)をすでに見ていた場合は二人の認識 猫の概念(b2)猫の概念(f2) のあいだにずれはないだろうがそうでない場合にはずれが生じる。

このようなずれを防ぐためには「見たことのない白い子猫がいたよ」のようにより詳細な表現をしなければならない。猫のように単純なものならいいが対象がもっと複雑なものになれば表現にはさらに工夫が必要になる。また場合によっては送り手側と受け手側とで同じ概念についての語規範(シーニュ)が異なっていることもあり得る。それぞれが認識している言語規範(ラング)についてもまったく同じであることはないから言語規範の相違による誤解ということも起こってくる。このように言語表現が言語規範(ラング)の媒介を必要とし、それゆえに特殊な側面が切り捨てられることは言語を表現する側・受容する側双方に意思疎通をするためのそれなりの努力を要求するのである。双方が相手の立場に立って追体験しつつ精神的交通を行なうことの重要性もそこにある。

ソシュールは言語規範(ラング)の媒介によるパロールの実現を普遍性の側面でとらえることに成功した。これはソシュールの偉大な功績である。しかし言語表現を過程としてとらえることをしなかったために特殊性の側面についての分析がすっぽりと抜けてしまっているのである。時枝誠記は言語表現を過程として研究し日本語の構造に科学のメスを入れたがついに言語規範(ラング)の重要性には気がつかなかった。三浦つとむはこの二人の功績のいいとこ取りをしたように見えるが、三浦以外にこの二人の功績を自己薬籠中のものにし新たな言語論を築いたものはいないのである。

〔注〕 人間の認識からみて言語規範(ラング)に結びついている音声言語の普遍の側面(D1)というのは、音声の背後にある音韻/neko/語の概念(意義)のことである。特殊の側面(D2)というのは、語の概念(言語規範)に媒介されて音声の背後に間接的に結びついている表現者が表現しようとした個別の概念である。なお、特殊の側面(D2)として、音声の質も挙げられる。現実の音声は高さや大きさ、声色などさまざまであり個人個人で異なった特殊性をもっている。これらは音声言語の属性のうちで言語規範と直接結びついていない特殊の側面である。

◇◇◇ 2004.04.08 ◇◇◇

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タグ【観念的自己分裂3】



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